2015/12/31

『埼玉新聞』に「原爆の図米国展」回顧記事掲載  掲載雑誌・新聞

追跡2015 「原爆の図」の米国巡回展 被爆70年 歴史的意義 伝えた「核の非人道性」
 ――2015年12月31日付『埼玉新聞』朝刊

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2015年の最後を飾る記事として、『埼玉新聞』に、原爆の図米国展を熱心に取材して下さっていた保坂直人記者が、その「歴史的意義」をまとめて下さいました。
「最後は希望をもった記事で締めたかった」と保坂記者。ありがたいことです。

「被爆70年」が終わっても、71年目も、72年目も、「核の非人道性」が重要な問題であることに変わりはありません。
同時に、同じ時間は二度とないので、この一年に起きた出来事をどのように位置づけ、どのように乗り越えて、新しい言葉や思考を掘り下げていくのかも、試み続けなければいけないのでしょう。

2016年もまた、さまざまな悩みや葛藤を繰り返しながら、《原爆の図》を見つめていきたいと思います。
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2015/12/28

『朝日新聞』に『《原爆の図》全国巡回』紹介  掲載雑誌・新聞

今日から美術館は正月休みに入りましたが、年明けの『丸木美術館ニュース』発行のための編集作業。無事に入稿することができてようやく落ち着きました。

今朝は『朝日新聞』も新著を取り上げて下さいました。記者は清宮涼さん。今年たいへんお世話になった記者さんのひとりです。

“「原爆の図」占領下の巡回展 学芸員が調べ本に”
――2015年12月28日付『朝日新聞』埼玉版

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記事全文はこちらから。
http://www.asahi.com/articles/ASHDJ62C5HDJUTNB00Z.html

早稲田大学の鳥羽耕史さんがコメントを下さっています。以下は、記事からの抜粋。

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 岡村さんは巡回展についての地方紙の記事や郷土資料を探し、関係者への聞き取りを丹念に重ねた。50年以降、52年4月のサンフランシスコ講和条約発効で原爆報道が解禁されたのをピークに、全国巡回が一段落するまでの約4年間に全国170カ所で巡回展が開かれ、約170万人が原爆の図を見たことがわかった。

 原爆の図は反核を掲げる政治運動と一体視されることも多かったが、巡回展の担い手は労組から大学まで多岐にわたっていた。手を合わせて拝んだ人もいれば、百貨店が大盛況となったこともあった。岡村さんは「一つのイデオロギーに束ねられない多くの人の顔が見えてきたことは大きい」と話す。

 戦後の文化運動に詳しい早稲田大学の鳥羽耕史教授は、「朝鮮戦争が起こり、戦争が広がる不安も背景に原爆に対する関心が高まっていたのではないか。研究は原爆の図に新しい文脈や解釈の可能性を与えている」と話す。


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さすがによくまとまった素晴らしい記事です。
清宮さん、本当にどうもありがとうございました。
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2015/12/27

仕事納めと『埼玉新聞』、『読売新聞』掲載  掲載雑誌・新聞

大掃除+仕事納めの一日。
今年もたくさんのボランティアの方々が美術館をきれいにして下さいました。

今朝の新聞記事から。

“「原爆の図」米から東松山に帰館 人類共通の問題、受け止める土台に”
――2015年12月27日付『埼玉新聞』

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記事全文はこちらから。
http://www.saitama-np.co.jp/news/2015/12/27/09.html

記事中、「95年にワシントン・スミソニアン博物館で企画した「原爆の図」展が退役軍人の反対で事実上、中止に追い込まれた経緯がある。」というのは、「原爆展」(《原爆の図》ではなく、広島市・長崎市の資料展示)の誤りです。

美術館スタッフで俊さんのめい、丸木ひさ子さん」とあるのも、ひさ子さんは「美術館スタッフ」ではないので、訂正が必要ですね。
ともあれ、《原爆の図》の帰還を取材して下さった関根記者に感謝。

そしてもうひとつ。

“原爆の図 巡回の歴史…美術館学芸員が本出版”
――12月27日付『読売新聞』埼玉版

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記事全文はこちらから。
http://www.yomiuri.co.jp/local/saitama/news/20151226-OYTNT50216.html

川越支局平松記者の記事です。どうもありがとうございました。
この記事とは別に、広島総局の取材記事が、近々全国版で掲載予定とのことです。

例年通り、大掃除の後は、美術館近くの小料理店Kで美味しい鍋を囲んで忘年会。
皆さま本当にお疲れさまでした。
来年もまた、楽しく、そして地道にひとつひとつの仕事に取り組んでいきましょう。
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2015/12/26

《原爆の図》の帰還  館外展・関連企画

半年に及ぶ米国巡回展を終えて、ようやく《原爆の図》が丸木美術館に戻ってきました。

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午前中からボランティアの方々が展示替え作業を手伝って下さり、《原爆の図》の展示スペースを空けて待っていました。
午後1時、トラックが到着。

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木箱から作品を取りだし、慎重に屏風を広げていきます。

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海を渡った幽霊さんたちが棲み処に帰ってきて、空間が落ち着いて見えます。

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傷もなく、無事に帰ってきて、まずはひと安心。

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栃木県立美術館に貸出していた第4部《虹》の返却は年明け1月15日。
そこでようやく全14作品がそろいます。
3月上旬にはピースあいちで「原爆の図」展がはじまりますが、それまでの1か月半は全作品を見ることができます。

2016年は貸出依頼が多く、全点展示はこの期間のみです。
寒さの厳しい時期ですが、ぜひご覧になって下さい。
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2015/12/25

『朝日新聞』に原爆の図米国展の回顧記事掲載  掲載雑誌・新聞

【取材メモから】被爆70年 米国内で巡回展 原爆の図 変化する視線
―2015年12月25日付『朝日新聞』朝刊埼玉版

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ワシントンD.C.まで取材に来て下さった埼玉支局の清宮涼記者による、《原爆の図》米国巡回展の回顧記事が掲載されました。

「20年前のような猛反発に遭うことはなく、各地でしずかに受け止められた」
「海外のメディアの取り上げ方も好意的で、原爆の図が初めて米国に渡った70年、ニューヨーク・タイムズなどで酷評されたのとは対照的だった」
「一方で、展示場所が郊外や大学内であったこともあり、米国内で広く注目を集めたとも言いがたかった」


このように冷静かつ的確にまとめて下さっています。

激しい反発がなかった代わりに、大きな注目も集めなかったことの理由として、「遠い国の出来事と感じられ、原爆や核兵器へのリアリティーが希薄になってきているのではないか」という私のコメントが引かれていますが、それは今回の展覧会における正直な実感でした。

「被爆70年」が曲がりなりにも「戦後70年」一般的に捉えられている日本と違い、米国ずっと世界中の戦争に直接かかわってきているわけで、原爆の記憶も、はるか時間の彼方に押し流されつつあるのだろうと思います。
だからこそ、新しい世代が新鮮な目で《原爆の図》に向き合うことができたという面もあるわけで、ものごとは複雑なのですが。

地方欄の短めの記事ですが、私たちにとっても巡回展を振り返る上で参考になりそうな、内容の濃い記事でした。
いつも丁寧に取材して下さる清宮記者に、心から感謝。
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2015/12/23

【米国出張B】《原爆の図》半年ぶりの帰国  調査・旅行・出張

12月22日、午前3時起床。午前4時にホテルをチェックアウトして、タクシーで午前4時30分にニューヨークのロングアイランドシティにある美術輸送会社Artexの倉庫へ。
外はまだ真っ暗です。

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業者さんが手際よくトラックに作品を積み込み、すぐに出発します。

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時刻は午前4時45分。なにしろ、午前6時までにJFK空港に到着しなければならないということですから、最後のニューヨークに感慨を抱く余裕もありません。

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JFK空港に到着すると、大きな倉庫にトラックをつけ、作品を下ろし、業者が交代。
Masterpieceという日通と提携している美術運送会社へと担当が移ります。

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ここでは作品をひとつにまとめて梱包し、計量して飛行機に積み込む準備をします。

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しっかりと梱包をしたところで、作品を載せたプレートの番号を確認します。

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積み込みまでは時間もかかるので、ここで私の方は《原爆の図》と別れてチェックインカウンターに向かいます。
午前11時半の搭乗前には、Masterpieceの職員がゲートまで挨拶に来てくれました。

ニューヨークから成田空港まではおよそ13時間。
今年だけで渡米7回、往復14回のフライトも、ついに今回でおしまいです。

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翌23日の午後4時頃、成田空港に到着してからも、作品が出てくるまでに2時間以上待ちました。
クリスマス・年末シーズンということもあり、空港裏の倉庫では、びっくりするほどたくさんの貨物がめまぐるしく行き交っていました。
ニューヨークから東京まで、4社の職員が仕事を受け渡していくため、なるほど行程に一貫して立ち会う役目のcourierは、万一の過ちを防ぐためにも必要なのだとあらためて実感しました。

JALの職員が運んできた作品を、日本通運のトラックに積み込み、成田空港を後にします。
茅場町の日通美術倉庫に到着し、作品をしまい終わったのは、午後8時をまわっていました。
ニューヨークの倉庫を出発してから、実に25時間。
美術作品の輸送は、一般の旅行より大幅に時間がかかるのです。

税関の手続きがあるので、《原爆の図》が丸木美術館に戻るにはもう少し日数がかかります。
ともあれ、今夜はまず空腹を満たし、家に帰って寝ることにしましょう。
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2015/12/21

【米国出張A】原爆の図ニューヨーク展終了  調査・旅行・出張

6月のワシントンD.C.からはじまり、ボストン、ニューヨークと巡回した原爆の図米国展が、ついに昨日、無事に終了しました。
最終日は、米国で著名なジャーナリストのエリック・シュローサー氏も会場に現れ、熱心に観て下さっていました。

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今朝は、ブルックリンのダウンタウンにあるホテルの窓から見える朝焼けに心安らぎました。

ひとつだけ、大きなショックだったのは、パイオニア・ワークスのスタッフのひとりマルセロが、数日前に36歳の若さで急逝したということ。心臓発作だったそうです。

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彼は展覧会の準備のときに、中庭入口から入る風雨と日差しから絵を守るために、急きょ壁を作ってくれました。
上の写真、左から2人目の赤い服がマルセロ。大らかで優しい人柄が印象的でした。

60数年前に《原爆の図》を背負って各地を巡回した、現在入院中のヨシダ・ヨシエさんのことも、思い起こしています。
今回の巡回展を通じて、そしておそらくこれから先も、ぼくの支えになってくれたのは、《原爆の図》の前では政治的主張やイニシアチブを超える人びとの多様な想像力が展開されていたという、ヨシダさんの証言でした。
それらをすべて見届けることはもちろん不可能ですが、見失わないよう試み続けなければならないと思うのです。

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スタッフが口を揃えて喜び、報告してくれたのは、何と言っても、この展覧会がブルックリンのアートシーンで年間ベスト2位の評価を受けたことでした。
1位はブルックリン美術館のバスキア展ですから、オルタナティヴ・スペースとしては破格の評価を受けたのです。
それは《原爆の図》にとってもちろん重要な出来事ですが、何より新興のパイオニア・ワークスには、今後に向けて大きなステップになるのではないでしょうか。
《原爆の図》が、若者たちの未来を照らす。そんな新たな可能性を感じることができたのも、この展覧会の大きな収穫でした。

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写真は、最後の作品の梱包の瞬間。ギャラリーはまた元の静かな空間に戻りました。
その後、ガブリエルはじめパイオニア・ワークスのスタッフたちと別れを惜しみながら、《原爆の図》とともにトラックに同乗して、ロングアイランド・シティにある運送会社の倉庫まで向かいました。

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明日は午前3時起床、午前4時チェックアウトで4時半には運送会社の倉庫に集合してJFK空港に向かうという強行軍ですが、今夜はヒバクシャ・ストーリーを主宰するキャサリンの連れ合いのブレイスの実家でホームコンサートに招かれています。

実はニューヨークに来てからほぼ毎日、展覧会に尽力して下さった方々のパーティやコンサートに招かれ、深夜にホテルに戻る日々で疲れ気味。
昨日もキャサリンに、「ワシントン、ボストン、ブルックリン(ニューヨークでなくブルックリン)のなかでどの街が一番好き?」と聞かれて、うっかり「え、ええとボストン・・・」と口走ってしまい、「野球のことは忘れて!」と即座に遮られました(なぜバレたのか・・・)。
その後彼女には、「展覧会が成功したのは、彼がまっすぐな人柄だから。だって私にボストンって答えたのよ。ふつう嘘でもブルックリンて言うでしょ」と何度もイジられています。

ごめんなさい、ブルックリンが大好きです。
お世話になった皆さま、本当にありがとうございました。
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2015/12/20

『毎日新聞』などに『原爆の図 全国巡回』紹介  掲載雑誌・新聞

原爆の図 全国巡回の全容、明らかに
 ―2015年12月20日『毎日新聞』埼玉版

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現在ニューヨークに出張中ですが、『毎日新聞』埼玉版に新著の記事が掲載されたので紹介いたします。
執筆して下さったのは、川越支局の中山信支局長です。

ウェブサイトで記事全文を読むことができます。
http://mainichi.jp/articles/20151220/ddl/k11/040/060000c

そして、『琉球新報』にも同じ記事が掲載されたようです。
http://ryukyushimpo.jp/mainichi/entry-191721.html

以下は、記事からの一部抜粋。

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岡村さんの著書の巻末に収録された巡回展の記録からは、原爆の図が美術館にとどまらず公民館・市民会館、小・中・大学、デパート・百貨店、寺、病院などあらゆる場所で展示されたことが分かる。主催者も美術・平和団体、労働組合を中心に、市や大学、新聞社など多岐にわたったことが読み取れる。

 原爆の図はその後、世界各地でも展示された。70〜71年に米国内を巡回した際には、来場者に「私の息子はパールハーバーで戦死した。広島に原爆が落とされるのは当然」と言われ、丸木夫妻が第13部「米兵捕虜の死」などを描くきっかけとなった。78年のフランス展の際には、反核運動を環境問題の視点でとらえる若者グループから水俣病について問われ、「水俣の図」の制作につながった。

 岡村さんは「全国巡回は丸木夫妻だけではなく、多くの人が関わって広がっていった。実感を持って戦争の恐ろしさを共有していた人たちは、どんな圧力があっても戦争の悲惨さを伝えたいという強い思いを持っていた。歴史の中に埋もれて忘れ去られそうになっている、その思いを掘り起こし、伝えたかった」と話している。


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いち早く取材の連絡を頂き、丁寧な記事を書いて下さった中山さんに、心から御礼を申し上げます。

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また、『図書新聞』2015年12月19日「’15年下半期 読書アンケート」にも、道場親信さん(和光大学)が取り上げて下さいました。

岡村氏の丹念かつ執拗な「原爆展」の追跡により《原爆の図》を手渡していく無数のひとびとの足跡が確認された。

そのお言葉に恥じぬよう、今後も「丹念かつ執拗」に精進せねばと気を引き締めています。
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2015/12/19

【米国出張@】ブルックリン歴史探訪  調査・旅行・出張

「原爆の図」ニューヨーク展の撤去のため、昨日から今年最後の米国出張に来ています。
今回はブルックリンの下町にあるホテルに滞在。
ブルックリンという響きが自分にとって特別なのは、ロサンゼルス移転前のドジャースのホームタウンだったから。
当時のブルックリンには路面電車が数多く走っていて、住民がトロリー・ドジャース(路面電車を避ける人たち)と呼ばれていたことから「ドジャース」という愛称が生まれたのです。

昨夜のパーティで、「ヒバクシャ・ストーリーズ」の主宰者であるキャサリンの夫のブレイズから、プロスペクト公園の東にドジャースの本拠地エベッツ・フィールドの跡地があると聞き、朝早く起きて訪ねてみました。

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1958年の球団移転後に建てられ、現在は老朽化しつつある高層住宅に、エベッツ・フィールドの名が残っていました。

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高層住宅の敷地内を歩いてみると、“THIS IS THE FORMER SITE OF EBBETS FIELD”と小さく刻まれたプレートも見つけました。1962というのは、プレートを設置した年という意味でしょうか。

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高層住宅のすぐ向かいには、有色人種にメジャーリーグの扉を開いた偉大な選手ジャッキー・ロビンソンの名を冠した学校もあります。

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校舎の壁には、ジャッキー・ロビンソンとエベッツ・フィールドが描かれていました。
攻守走三拍子そろった若き内野手として、ニグロリーグから1947年にメジャーデビューした彼は、その年から制定された新人王に選出され、1949年には首位打者と盗塁王を獲得してMVPにも選ばれます。彼の背番号42は、現在、すべてのチームの永久欠番になっています。

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学校の隣には、やはり彼の名のついた小さな公園もありました。

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公園からは、野球場の跡地の高層住宅がよく見えますが、ジャッキー・ロビンソンを顕彰する特別なモニュメントや、野球に関する遊具があるわけではありません。

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しばらく周辺を歩いているうちに、近所の駐車場にもエベッツ・フィールドが描かれた壁画を見つけました。
今もブルックリンの市民に愛され続けているという証なのでしょうか。

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壁画に描かれている1955年は、ブルックリン・ドジャースが唯一ワールドチャンピオンになった年です。ワールドシリーズでは、それまで3度敗れていた宿敵ニューヨーク・ヤンキースを4勝3敗の激闘の末に下しました。
いつも後一歩のところで敗退し、“Wait 'til next year”が合言葉だったブルックリンに、ようやく“This is Next Year!”という歓びの瞬間が訪れたのです。
チャンピオンズリング(優勝の記念指輪)も描かれていますね。

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壁画には、ジャッキー・ロビンソンはもちろん、その年打点王に輝いた左打ちの強打者デューク・スナイダーや、MVPに選ばれた名捕手ロイ・キャンパネラの雄姿も見られます。
ブルックリン橋がデザインされたチームロゴ。ドジャーブルーは労働者(ブルーカラー)の街ブルックリンの象徴です。

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しかし、栄光のワールドチャンピオンからわずか3年、スタジアムの老朽化と球団の経営難に悩むウォルター・オマリー会長は、ロサンゼルス移転を決意します。

その非情な決断に ブルックリン市民は涙したといわれますが、結果的に西海岸という新たなマーケットを開いた移転は大成功となったのです(近年の日本ハムファイターズの北海道移転も、ドジャースの影響が及んでいるでしょう)。

当時の社会的背景は、立教大学の南修平氏の論文「ブルックリン・ドジャースを探してー労働民衆史から捉えたブルックリン・ドジャースとその移転」に詳しく紹介されています。

南北戦争の時代に開かれ、太平洋戦争期に造船業で繁栄した港湾労働者の街ブルックリンは、1950年代後半、核エネルギーの台頭と合理化の波の中で、変化の時を迎えていたのです。

長らく時代に取り残されたまま、荒廃していたブルックリン。
そのレッドフック地区の赤煉瓦倉庫のひとつに、21世紀になって若者たちが目をつけました。

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アーティストのスタジオや科学者の研究室、そしてギャラリーの複合施設として再び命を吹き込まれた実験的なスペース、すなわちパイオニア・ワークスに、今、《原爆の図》が展示されているのです。
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2015/12/17

「原爆の図展」が2015年展覧会ベスト2位に選出!  掲載雑誌・新聞

『Hyperallergic』という美術系ブログで、「原爆の図展」が2015年のブルックリンの展覧会ベスト2位に選ばれたそうです。

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Best of 2015: Our Top 10 Brooklyn Art Shows
by Hyperallergic on December 15, 2015


http://hyperallergic.com/261439/best-of-2015-our-top-10-brooklyn-art-shows/

(以下、記事の展評拙訳)

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Painted between 1950 and 1982 by the artist couple Iri and Toshi Maruki — who visited the city days after the US dropped an atomic bomb on it in August 1945 — the harrowing Hiroshima Panels have lost none of their power in the intervening years.

芸術家夫妻の丸木位里と丸木俊によって1950から82年にかけて描かれた — 二人は1945年8月に米国が原子爆弾を落とした数日後に広島を訪れた — 悲惨な《原爆の図》は、歳月を経ても力を失わなかった。

The vast main gallery at Pioneer Works was ideally suited to this display of a selection of six of the 15 panels. Sprawled across folding screens, they depict different scenes of the bomb’s impact and its aftermath in the couple’s distinctive mix of figurative imagery (Toshi’s area of expertise) and fluid, monochrome ink painting (Iri’s medium of choice). —Benjamin Sutton

パイオニアワークスの広大なギャラリーは、15部作から選ばれた6部を展示するには理想的だった。 屏風の画面全体に、彼らは造形的イメージ(俊の専門領域)と流動的な水墨表現(位里の選んだ媒体)を融合させ、原爆の衝撃とその後の惨状をいくつかの場面で表した。 ―ベンジャミン・サットン

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《原爆の図》がはじめて海をわたった1970年10月22日付の『ニューヨーク・タイムズ』には、次のような記事が紹介されました。

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・・・これらのパネルは全くすさまじいものである。東洋画と西洋画のスタイルが雑然とまじりあって、デザインの効果さえもあがっていない。これは程度の悪い美術品よりもっと悪い。それは反感をもよおさせる。なぜなら現代における最大の道徳的課題がこの一連の絵の中で示されるというのに、まるで作者の真のねらいは、デカメロン(それはどの著作よりも悪質なさし絵を生み出すもととなったが)かグリム童話集のさし絵を書くことにあるというかのようである。
 というのは、これらのパネルは、豊満な肉体(火傷や怪我はまるで芝居のメーキャップのように書きそえられており、その出演者たちは実際に苦しんではいない)の数々と、幽霊のようではあるがそれほど空想から作りあげられたとはみえない怪物との混合物から成立っているからである。
 ある目的をもってつくられた芸術作品は、作者が真剣だからとか、意図が立派だからとか、主題が重要だからということで、正当化されるわけにはいかない。「原爆の図」の場面でも、そうしたことは、この作品が、広島が我々に要求するものすべての価値を下げる作品であることを、いかんともなしがたいのである。

 (丸木俊『幽霊 原爆の図世界巡礼』1972年より)

それから45年、メディア媒体といい、評価の内容といい、時代は変わったのだなと思います。
ちなみに『Hyperallergic』は、11月30日付で「原爆の図展」の長い展評を掲載しています。
http://hyperallergic.com/255344/the-historic-painted-panels-that-exposed-the-hell-of-hiroshima/

次代のアートシーンの中心と言われているブルックリン地区で年間第2位に選ばれるというのは、なかなか嬉しいですね。日本の新聞の美術の年間回顧記事には、どうやら「原爆の図」米国展は紹介されていないようなので・・・。

今日は、『《原爆の図》全国巡回』が、日本図書館協会の選定図書に選ばれたという嬉しい報せも新宿書房から届きました。
明日から展覧会の後片づけのために渡米します。
ブルックリンの「原爆の図展」は20日まで。23日に《原爆の図》とともに帰国します。
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2015/12/15

青年劇場スタジオ結企画第6回公演「あの夏の絵」アフタートーク  講演・発表

秋田雨雀・土方与志記念青年劇場スタジオ結第6回公演『あの夏の絵』。

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被爆者の証言をもとに高校生が再現絵画を描くという、実際に行われているプロジェクトをもとにした舞台。午後7時からの公演のアフタートークに登壇しました。
ご来場下さった皆様、どうもありがとうございました。

作・演出の福山啓子さんとのトークでは、アメリカ展の報告を中心にしつつ、《原爆の図》の成り立ちが、実は直接体験者の話を聞いて想像して描くという意味で高校生の取り組みと似ていることや、過去の痛みを知ることは、私たちの世界をより豊かにして、未来をどう作っていくのかの道標になる、というような話をしました。

絵を描く、そして被爆証言を聞くという、どちらも非常にドラマになりにくい内容を、うまく物語としてまとめているのは、作家・スタッフ・役者たち劇団の力があるのだと思います。
若い役者さんたちの熱演を見ながら、他者の体験をみずからの身体を通して追体験する、という行為は、文学、絵画、演劇など、さまざまな芸術表現で行われているのではないか、と考えていました。
体験していないから表現できない、のではなく、体験していないことを追体験する試みこそ、芸術表現のひとつの醍醐味なのかもしれません。

   *   *   *

トークの後は、劇団の方たちに誘われて、とても久しぶりに(何年ぶりかも記憶にありません)終電の時間まで居酒屋で飲みました。
かつては新宿で働いていたので、そんなことも普通にあったのですが、気がつけば夜の更ける時間の感覚が埼玉とは全然違って、ああ、ここは「眠らない街」だったのだと、あらためて実感した次第です。
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2015/12/15

板橋区立美術館「井上長三郎・井上照子展」  他館企画など

夕方、青年劇場の公演『あの夏の絵』に向かう前に、成増で途中下車して板橋区立美術館で「没後20年 井上長三郎・井上照子展」を見ました。

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画家夫婦の二人展ということで、丸木夫妻と重ねるところも多い展覧会です。

まず気になったのは展覧会のタイトル。丸木夫妻もしばしば「丸木位里・俊」と妻の名字を省略されることが多いのですが、それについて俊は快く思っていなかったと聞いています。
きちんと「丸木位里・丸木俊」、「井上長三郎・井上照子」と姓名を並記することは、細かいところだけど、お互い独立した個人なので基本であると思います。

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井上夫妻と丸木夫妻は長崎アトリエ村で近くに住んでいて、戦時中は長三郎も位里・俊も美術文化協会で活動していました。
今回も展示されている長三郎の《漂流》は、1943年9月、藤田嗣治が《アッツ島玉砕》を発表した「国民総力決戦美術展」に出品し、展覧会開催から2日目に撤去されてしまったという、いわくつきの作品。
それについての長三郎の飄々とした回想は、なかなか面白いです。

 最後の戦争美術展ですよ。僕ははりきって描いたんですがね、あ、丸木(位里)君がいってましたがねえ、これは大臣賞をもらえるなんて。参謀本部の将校が来て、これは厭戦的だからって撤回されましたがねえ。美術文化でもねえ、これは大臣賞をもらえるなんて。参謀本部の将校が来て、これは厭戦的だからって撤回しましたがねえ。美術文化でもねえ、僕の絵は中国の御葬式を描いてましたが、これは撤回されましたがねえ。その前は独立展で屠場の絵を描きましたがねえ、時代的に人気がなかったんでしょうね、ただ興味のあるものを描きゃあいいと思ってましたからねえ。「漂流」は、レイテかどこかの島から実際に漂流(南太平洋を三十日漂流した事件がありました)するんですから、これはもう時局的な絵のつもりだったんですがねえ。いま見ても暗い絵だから、当局も目が肥えていたんでしょうねえ。
 (司修『戦争と美術』p.104)

位里さんが、いいかげんなことを言って煽っていたようなのが、じわじわと可笑しい回想でした。

戦後、長三郎は「東京裁判」を主題にした油彩画を残しています。
俊が東京裁判を取材したスケッチが『アカハタ』1946年8月3日に掲載されているので、あるいは日本美術会でいっしょに行ったのかもしれないと思って担当学芸員の弘中智子さんに聞いてみたのですが、長三郎は直接取材はしていないのではないかとのことでした。

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たしかに、傍聴していた俊が横から東条英機らを描いているのに対し、長三郎の東京裁判の絵はほぼ正面から描いています。写真か何かをもとにしたのかもしれません。

井上照子の作品は初めて見ましたが、実は女子美術専門学校に通っていて、俊の1学年下だったようです。同じ西洋画部ですが、照子は高等科、俊は師範科なので、面識があったのかどうか。
図録の中嶋泉さん(広島市立大学)の論考によると、照子も当時の女子美術には「モダンガールの様な人の集まっている学校」と幻滅していたそうです。俊も同じで、本気で画家になりたくてバリバリ描きたかった学生には、当時の女子美術の雰囲気は物足りないものだったようです。

ところで弘中さんの企画は、細部の工夫がどこかしらかわいらしく凝っているので、いつも楽しみなのです。
今回はチロルチョコの展覧会特別バージョンを作ったとのことで、「丸木美術館でも試してみては」とチョコ3粒としおりのセットを頂きました(写真右下)。

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このチョコは「いい夫婦の日」のプレゼント用のオリジナルグッズだったとのこと。
丸木美術館に持ち帰ったら、スタッフのM子さんにも好評だったので、近いうちに、位里・俊・スマのチロルチョコセットが、新グッズとして導入されるかもしれません。
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2015/12/13

『《原爆の図》全国巡回』書評  掲載雑誌・新聞

『《原爆の図》全国巡回』(新宿書房)の書評が、2015年12月13日付の『日本経済新聞』と『中国新聞』の読書欄に掲載されました。

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まずは『日本経済新聞』、見出しは“画家も帯同した占領下の旅路”。
信濃デッサン館館主の窪島誠一郎さんが書いて下さいました。
書評は、WEBページで全文を読むことができます。
http://www.nikkei.com/article/DGXKZO95075800S5A211C1MY7001/

以下は、一部抜粋。

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 過密になった巡回展のため、途中の何カ所かには「原爆の図」の模作が出品されたとか、「本当のピカはこんなもんじゃない」といった被爆者の声をあびたとか、結果的に同作が「原爆反対」とともに「平和利用」の喧伝の役を担った面があるとか、かならずしも平坦ではなかった巡回展の旅路が、今や世界展開するまでにいたった重い轍をのこしたことにも感動するが、本書に通底するのは、現在「原爆の図」丸木美術館(埼玉県東松山市)の学芸員をつとめる著者の、つきることない「原爆の図」への敬愛と、同作の全国巡回に骨身を削った先導者たちへの畏敬の念だろう。

 とりわけ、丸木夫妻と深く交流、「原爆の図」の制作現場に立ち会い、自らモデルもつとめ、巡回展に魂を燃やしたヨシダ・ヨシエ氏の行動力には、昨今の「美術」が喪ってきた評論の本源を問うものがある。


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続いて『中国新聞』、見出しは“占領下 反核意識の土壌”。
評者は武蔵大学の永田浩三さんです。こちらも、一部を抜粋します。

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 丸木夫妻は、会場で語るようになる。原爆反対の署名用紙が置かれた。いつしか、非合法だった写真が夫妻の元に届けられた。新資料に背中を押され、夫妻は連作に取り組み、ライフワークとなった。巡回展は芸術家と観客の垣根を壊し、大きな社会運動となって広がった。

 著者が突き止めた会場のリストがある。百貨店、劇場、公民館、小学校、大学、寺院、組合の集会室。当時、占領軍からにらまれることはご法度。それでも担当者は勇気を持って実現させ、観客も応えた。偉い。近年、公教育や行政の現場では原爆の図を見ることを「政治的」だとして避けるところも多いと聞く。落差にぼうぜんとなる。

 占領が終わり、原爆写真が解禁されると、絵が誇張だという批判はなくなる。現実は絵よりすさまじかった。54年3月、ビキニ事件が起きる。久保山愛吉さんの死などを契機に、原水爆実験反対の署名は3千万人を超えた。本書を読んで、空前の署名が集まった理由として、巡回展が意識の土壌をつくったことに気付いた。開催地を丁寧に踏査した著者。ミステリーを読むような醍醐味も味わえる。


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お二人の、熟練の書き手による貴重な書評を頂き、本当に嬉しい限りです。
どうもありがとうございました。
ご興味のある方は、丸木美術館やお近くの書店、またはインターネットでお求めください。
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2015/12/13

原爆文学研究会国際会議2日目  調査・旅行・出張

福岡・九州大学西新プラザ大会議室で行われた原爆文学研究会2日目。

午前中はセッション2「原爆を視る」が行われ、私も鷲谷花さん(早稲田大学演劇博物館特別招聘研究員)とともにコメンテーターとして登壇しました。

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野坂昭雄さん(山口大学)の発表「原爆写真というメディアと〈詩〉」は、山端庸介の写真を素材にしながら、ロラン・バルトの「ストゥディウム」(道徳的、政治的な教養という合理的な仲介物を仲立ちとするもの)と「プンクトゥム」(ストゥディウムを破壊し刺し貫くような痛み)という概念を用いて、写真と詩というメディアを対比するものでした。

紅野謙介さん(日本大学)の発表「「キノコ雲」と隔たりのある眼差し──戦後日本映画史における〈原爆〉の利用法」は、広島を舞台にした映画『仁義なき戦い』冒頭のキノコ雲の映像が実は長崎のものであることなどを例にとりながら、再現不可能なものの“代用”をどう捉えるかという問題を分析されていました。

そしてマイケル・ゴーマンさんの「「核の不安」から「核の無関心」へ──アメリカのポピュラーカルチャーにおける核のイメージの変容」は、ダリのシュルレアリスム絵画《アトミカ・メランコリカ》にはじまり、『キッスで殺せ』、『ウォー・ゲーム』、『X-MEN』などアメリカのポピュラーカルチャーにおける核のイメージを分析する興味深いものでした。

私は、優れた映画研究者の鷲谷さんが控えていることもあって、すっかり安心して自由なコメントに徹してしまいましたが、ゴーマンさんが紹介されたダリの《アトミカ・メランコリカ》の中に描かれた野球選手が「ブロンクス・ボマーズ」(ブロンクスはニューヨーク・ヤンキースの本拠地。当時はジョー・ディマジオらの強力打線で爆撃機の異名をとった)を意味していると読み取れなかったことは、(自称)野球文化史研究者としては最大の悔恨でした。
同じ画面の聖母像に目を惹かれて、「野球の広島、祈りの長崎」などと下らぬパロディを口走っている場合ではありません。

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最後のセッション3「冷戦文化と核」では、アン・シェリフさん(オバリン大学)が「核と自由──1960-1970年代の日米における公民権/反戦/反核運動」と題して日本のべ兵連と米国の公民権運動の連帯について発表され、山本昭宏さん(神戸市外国語大学)は「〈核のない平和〉と〈核による平和〉──冷戦期日本の平和論と安全保障論から」と題し1960年代の国際政治学者の言説を分析、林泰勲さん(韓国朝鮮大学校人文学研究院PD)は「コリア核マフィアの始まり──雑誌『学生科学』(1965)を中心に」という韓国における原発推進派の要請に貢献した雑誌の研究発表を行いました。

『学生科学』誌で手塚治虫の『鉄腕アトム』が『原爆少年アトム』というタイトルで紹介されていたこと、その連載終了後に申東雨という漫画家がアトムの影響を多大に受けた『五万馬力チァドル博士』という作品で紙面を引き継いだことなど、初めて知る興味深い話もありました。
『鉄腕アトム』は日本の核エネルギー推進だけでなく、韓国にも影響を与えていたのですね。

最後に閉会の辞を述べた長野秀樹さん(長崎純心大学)が、「核という問題意識に普遍的な意味を求めつつ、そこに回収されない固有性の問題をすくい取っていく」ことが重要であると指摘されていたことも印象的でした。
原爆文学研究会という場の底流に流れ続けてきたものを、あらためて噛みしめる思いです。
「非対称性」や「代用」といったキーワードも頭の中を巡り、今回もまた大いに刺激を受ける2日間でした。

会場に持ち込んだ新著『《原爆の図》全国巡回』20冊も、おかげさまで完売でした。
李文茹さんが引率する台湾の淡江大学の学生さんたちがたくさん買って下さったほか、アメリカ(アン・シェリフさん)やイタリア(ロベルタ・ティベリさん)の研究者にも送り出すことができたので、今後、国際的にご活用頂けると幸いです。

非常に充実した2日間、お世話になった皆さまに心から感謝いたします。
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2015/12/12

原爆文学研究会国際会議第1日  調査・旅行・出張

九州大学西新プラザ大会議室にて、原爆文学研究会初の国際会議。
「核・原爆と表象/文学─原爆文学の彼方へ─」と題し、80人ほどが参加して行われました。

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会議の冒頭、広島大学の川口隆行さんは、「原爆文学を広島・長崎に限定された経験を描いた“当事者”の文学として押し込め、あるいは、戦後日本とい空間において原爆の悲惨さを伝えるもののみとして利用するのでなく、現代という時代につながる世界の見方に更新を示す大きな認識の方法、意識の回路を見つけるための公共的な議論の場としたい」と趣旨説明を行いました。

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セッション1のテーマは「移動する原爆―文学」。
最初の発表者の島村輝さん(フェリス女学院大学)は、「投下する」側の「記憶」──2015年・日本からの再検証」と題し、銀板写真家の新井卓さんによる映像作品《49 Pumpkins》と堀田善衛の小説『審判』を題材にして、「投下」する側とされる側の認識の“非対称性”について発表されました。

続いて齋藤一さん(筑波大学)の「核時代の英米文学者──Hermann Hagedorn, The Bomb that Fell on America(1946)の日本語訳(1950)について」は、占領下の1950年に法政大学出版局から翻訳出版されたハーマン・ハゲドーン著『アメリカに落ちた爆弾』をめぐる谷本清らのネットワークについての考察。

そして最後に松永京子さん(神戸市外国語大学)の発表「ジェラルド・ウィゼナーの『ヒロシマ・ブギ』──大田洋子と「ネイティヴ・サヴァイヴァンス」。大田洋子の『屍の街』や『夕凪の街と人と』などのテクストに触発されながら挑発的に展開されるウィゼナーの『ヒロシマ・ブギ』が、最終的に先住民文学に回収されてしまうことの問題点を論じる内容でした。

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台湾・蘭嶼島の原住民族タオ族の作家シャマン・ラポガンさんの特別講演「大海に浮かぶ夢と放射能の島々」は、今回の国際会議でもっとも注目されたプログラムでした。

蘭嶼島は核廃棄物貯蔵施設を押し付けられた島。ラポガンさんは反対運動に熱心に取り組みながら、創作活動を行っています。核をめぐる社会構造が根本的にマイノリティへの差別・犠牲を内包していることをあらためて感じる、しかし熱く力強いお話でした。

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会議の後は、1階ロビーで懇親会。そして二次会の宴へと続きます。
二次会では、佐賀大学の高野吾朗さんと「野球分科会」で熱く語り、ラポガンさんの話も聞きました。蘭嶼島でのラポガンさんの日常は、朝2時から6時まで執筆、それから日が昇ると船に乗ったりして、夜は9時に寝てしまうという健康的な生活だそうです。
今日も早朝から質問の答えを充分考えて準備してきたんだ、と語るラポガンさんに、「でも昨日1時まで飲んでましたよね」と横から鋭い突っ込みが……何ごとにも例外は存在する、と平然と笑いながら杯を重ねるラポガンさんが格好良かったです。

国際会議に参加されていた毎日新聞の高橋咲子記者が、さっそく翌朝の新聞に記事を書かれていたので、紹介いたします。

“原爆文学研究会 「怒り、創作の力に」 福岡で国際会議、台湾の作家講演”
―2015年12月13日付『毎日新聞』広島版朝刊
http://mainichi.jp/articles/20151213/ddl/k34/040/347000c
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