2015/11/29

栃木県立美術館「もうひとつの1940年代美術」  館外展・関連企画

栃木県立美術館で開催中の「戦後70年:もうひとつの1940年代美術」展へ。

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2013年の神奈川県立近代美術館「戦争/美術1940-50 モダニズムの連鎖と変容」展に幕を開けて、来年夏の兵庫県美術館の展覧会でほぼ一段落すると思われる各地の「1940年代展」は、70年の歳月を経過して初めて可能になってきたということもあり、美術史的にも重要な意味を持つのでしょう。

これが「決定版!」という1940年代の代表作を集約した巡回展ではなく、各開催館の特色やコレクションを生かした展覧会を、それぞれの場所に足を運んで見て歩くことになりましたが、長年美術界が抱えていた「戦争と美術」の問題を多角的な視点でとらえる、壮大な全国規模の展覧会のようにも思えて、非常に良い勉強の機会になっています(と言いつつ、三重県立美術館と名古屋市美術館の展覧会を実見し損ねたのは本当に残念。IZU PHOTOの「戦争と平和」展も見なくてはいけないのですが、行けるかどうか・・・)。

そのなかで、栃木県美の展覧会の特徴をあげるとするならば、何よりまず、企画学芸員の小勝さんが長年取り組んでこられた女性画家の充実ぶりが傑出していたことでしょう。

とりわけ赤松俊子(丸木俊)の、今では代表作のひとつと呼んでも良い《裸婦(解放されゆく人間性)》は、作者の没後間もない2001年に小勝さんが企画された「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後 1930-1950年」展で掘り起こされた因縁の油彩画なので、再びこの機会で栃木県美に展示されたことには、感慨を覚えました。

その他にも、今年はじめに丸木美術館で展示していた「赤松俊子と南洋群島」展の絵画・スケッチ群がならび、2012年に企画した「発掘:戦時下に描かれた絵画」展に紹介した作者不詳の《弾痕光華門外》、長谷川春子の《小婦国防》(この2点は栃木県美の所蔵に入りました)、吉田博の《急降下爆撃》(今回の展覧会の看板にも使われています)などの油彩画や戦場スケッチ・写真もその後の研究成果とともに展示されていて、これまた個人的には感慨深いものでした。

これらの作品が展示されることになった奇妙な縁をとりもって下さったのは、《原爆の図》などの修復をお願いしている修復家のOさんでしたが、丸木美術館で紹介した作品が他所の公立美術館で展示されることは珍しいのです。

そもそも丸木美術館では、ひとつの時代を俯瞰し総括するような大規模な展覧会はできないし、また求められてもいないのだけど、ある視点や作家に特化して時代を掘り起こしていくことが、何らかの意味をもたらすのではないかと、あらためて思った次第です。

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栃木の「1940年代展」のもうひとつの特徴は、北関東の地元作家の絵画や彫刻・版画、そして着物や工芸、印刷物などの展示が多かったことでした。
1940年代の芸術というと、いわゆる「作戦記録画」の問題を想起しがちですが、広義の「戦争画」として「銃後」の表現(「銃後」と「前線」の境界が無化されるのが20世紀以後の戦争の特徴でもあるのですが)も着目されるようになった近年の傾向を反映しています。

「総力戦」とはいかなるものであったかを実感するには、たとえば藤田嗣治の描いた「戦争画」を見る以上に、《東郷乃木肖像柄一つ身》やら《海軍柄一つ身(産着)》やら《大観飛行機献納柄一つ身》やらのぶっ飛んだデザインの着物(誰が着るのか、と思いましたが、男児のお宮参りなどの正装として人気があったようです)を見たり、もんぺや防空頭巾が描かれた川上澄夫の版画《着せ替え人形》を見る方が、直に迫ってくるようにも思います。

板橋区立美術館でも見た新海覚雄の《貯蓄報国》はあらためて1943年という差し迫った時代の市井の空気を見事にとらえた絵画だと感じましたし、朝倉摂の《歓び》や小畠鼎子の《増産》は、端正な画面とはうらはらに、芋掘りが重要な画題になる時代の哀しみを、ある種の滑稽さとともに受け止めました。

こうした会場だからこそ、《大東亜戦皇国婦女皆働之図》二部作(春夏の部・筥崎宮蔵、秋冬の部・靖国神社遊就館蔵)をならべて見てみたい(実はどちらも未見なので)とも思いましたが、それは言うまでもなく企画学芸員の小勝さんもお考えになっていたでしょうし、諸事情により実現できなかったのだろうと推察します。

   *   *   *

この日は、午後からシンポジウム「戦争と表現―文学、美術、漫画の交差」が開催されました。
発表は、近現代史研究者の小沢節子さん「「もうひとつの」への問いかけ―「抑圧」と「解放」のはざまで」、フェリス女学院大学教授の島村輝さん「津田青楓「犠牲者」と開戦期の太宰治―小林多喜二を媒介として」、京都精華大学国際マンガ研究センター研究員の伊藤遊さん「マンガは〈戦後〉文化か?」。
司会は企画学芸員の小勝禮子さん、ディスカッサントは大阪大学大学院教員の北原恵さんでした。

小林多喜二の虐殺を題材にした津田青楓の《犠牲者》は、東京国立近代美術館のリニューアル後に初めて見て、こういう絵が残っているのかと驚きました。島村さんの発表は、彼が太宰と隣の家に住んでいたことや、二人の戦時中の転向の問題について触れるもので、とても興味深く聞きました。

また、伊藤さんの発表は、戦後文化と認識されることの多いマンガを、「学習マンガ」や「傷つく身体」という表現形式から戦時中の表現と連続しているということを実証的に伝える内容で、「総力戦」の意味をあらためて考えさせるものでした。

自身の研究課題とつながる部分でもっとも印象に残ったのは、小沢さんによる「戦時期美術の研究と1950年代文化運動論のはざまにある1940年代後半の空白」という指摘でした。
たしかに、1940年代後半の美術界の動向はいまだに不明・未整理の部分が多く、とりわけ1944年頃から1947年頃までは紙媒体の資料が決定的に少ないので、掘り起こすことは容易ではありません。
この時期、男性画家が敗戦のショックから立ち直れずに活動の再開が遅れたのに対し、「でも女性画家は元気でした」と小勝さんが胸を張って語られていたことも印象的でした。

戦後、日本を占領下に置いた連合国軍の方針によって女性が解放され、美術界も空前と言ってよいほど女性画家の活動の場が開かれます。
当時数少なかった「モスクワ帰り」の肩書が輝きをもって注目された赤松俊子(丸木俊)も、大活躍した女性画家のひとりでした。
敗戦後ほどなく、1945年末頃からの彼女の絵本、雑誌、新聞、ラジオ、展覧会などにおける八面六臂とも言える活躍ぶりは、(残されたスクラップに、雑誌名や掲載日不明のものが多いこともあり)今となっては到底たどりきれません。

被曝の後遺症の療養のために片瀬に転居したという、本人たちも語っているわかりやすい「物語」は、(私もつい引用してしまいますが)あの猛烈な、そして生き生きとした仕事ぶりを追っていくと、信じがたいところもあります。転居は別の理由だったのかもしれないと思うほどです。

今回の展覧会には、彼女が池袋界隈で描いた労働者、メーデーの行進のスケッチも展示され、北関東の版画運動を担ったことで知られる鈴木賢二や飯野農夫也らの作品と興味深い対比が見られましたが、この時期、俊もまた版画運動に参加しています。

1948年のメーデーには、労働者に記念スタンプと版画を贈ろうという計画が、丸木夫妻らが創設した前衛美術会で進められ、同人たちの絵の二色刷り版画が1枚10円(組合などで申し込めば8円)で販売されました(1948年4月25日付『アカハタ』参照)。

同年5月3日付『アカハタ』には、メーデーの会場でデッサンを行う俊の姿が、次のように目撃されています。

 未曾有の人出、色とりどりのプラカードやかざりもの旗の波、歌姫…内外の新聞記者、カメラマン、いつたいどこへ焦点をおいたらよいかととまどいしているどよめきの中でただひとり、演壇に近い砂利のうえに根がはえたようにすわりこみ、朝からせつせと絵ふでを動かしている婦人があつた、ぐるりとかこんだ見物の人垣も目に入らぬ様子で繪筆をふるつている、見おぼえのあるベレー帽は前衛美術会の画家赤松俊子さんだつた、会の文化斗争募金カンパに自作の版画を売りながら、目のさめるような色で青空の下になびく旗の波をかいている、赤松さんはこのメーデー大衆の中から何をつかんだか――

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当時の貴重な写真も残されています。
前衛美術会の版画即売会の看板の前で、夢中になって絵を描く俊さんのまわりを、大勢の人が取り囲んでいる写真です。
栃木県立美術館に展示されたスケッチは、このときに描かれたものでしょう。

記事には、「画家のみたメーデー」という俊の手記も紹介されています。

 ▽…「去年にくらべると全体として色彩が非常に豊富になりましたが、画家としてとくに気がつくことは赤旗の色が目立つてきれいになつたことです、去年は旗の生地がもつと悪く、染めもよくありませんでした、こんなことからも労働者がどんなに今日のメーデーに熱意をもつていたかがわかります

プラカードのかき方も上手になつたし、花輪や花かざりがたくさんつかわれてずつと明るく文化的になりました、革命後卅年のモスクワのメーデーとくらべるのはむりですが一昨年よりも去年、去年よりも今年と毎年成長しています、民主革命が完成されたらもつともつと美しく明るいメーデーになることでしよう

▽…斗いが進化しているとき労働者の努力の集中的なあらわれとして、このように文化的にも成長したメーデーをもつたことは日本の労働階級のためにまことに喜ばしい、これは日本の労働者が斗いに勝利の確信が生れてきたからだと思います、しかしまた、参加した人たちが、ただお祭り気分で喜んでばかりいるのでないことは顔をみるとわかります
どのひとも解決しなければならないものを解決しようとする気持、斗争をつらぬいて行こうという決意が顔にひそんでいます

▽…これは今日のメーデーとしては“明るくないもの”といわれる人もあるでしようが、ほんとは“明るくないもの”を明るくして行こうというりつぱなたくましい顔なのです


「明るくないもの」云々の話は、「解放された」戦後社会という認識から、その後の占領への抵抗(《原爆の図》制作)に向けての方向転換を予感させるところもあります。
この直後の7月に、丸木夫妻は片瀬に転居して前衛美術会から遠ざかっていき、やがて退会するのでした。

こうした複雑な政治的意識を背景を持つ彼女のスケッチを、どのように位置づけて紹介するかは決して簡単な問題ではなく、これまで丸木美術館で展示していなかったのですが、あらためて見ると、その力強さは決して見逃せない、時代を反映したものだとも感じました。

ともあれ1940年代後半は、丸木夫妻の画業の変化をたどる上でも、重要な今後の研究課題となっていくのだと思われます。
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2015/11/28

ギャルリー志門「安藤栄作展」トークセッション  講演・発表

銀座ギャルリー志門にて、安藤栄作展「子供たちが教えてくれたこと」のトークセッションを行いました。
2011年3月に津波でいわき市のアトリエを失い、その後、奈良県に避難移住して、2013年には丸木美術館で個展を開催して下さった彫刻家の安藤栄作さん。
今回のトークは、芦屋に続いて2回目の対談です。

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(写真提供はすべて薄井崇友さん)

今回の個展は、ガザの子どもたちをテーマに刻みはじめた670体の木彫作品がメインです。
最初に作品の写真を拝見したときには、全身を布で包まれて地面に横たわる小さな遺体……という印象を受けたのですが、実際に展示を見ると、壁にリズミカルにならんだ子どもたちは、天に向かって自由自在に昇っていくようにも見えました。

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はじめはガザの子どもを悼むつもりで彫りはじめたけれど、その思いは福島や世界じゅうで傷ついている子どもたちに広がり、自分たちそれぞれの内にある子どもたちの魂にもつながっていった、と語る安藤さん。

照明もかなり明るいので、展示に悲壮感はありません。
安藤さんの天性の朗らかさ、人柄の温かさが、重いテーマを救っているのかもしれません。
それは、丸木美術館で展示した《光のさなぎたち》のときにも感じたことですが。

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粗削りの、その分軽やかな勢いのある彫刻からは、次第に、パウル・クレーの描いたドローイングの、どこか不完全な天使たちを連想をするようになりました。

トークには、会場に入りきれないほど大勢の方が来場して下さり、ありがたいことでした。
イベント終了後、しばらく残って天使たちを見つめていると、何の予告もなく、おもむろにヴァイオリンの音が鳴りはじめました。
弾き手は安藤さんの友人のヴァイオリニスト・永井由里さん。
次々と流れるバッハやラヴェルの調べ。天使たちと言葉を交わしているかのような自由自在の演奏に、すっかり聴き惚れてしまいました。
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2015/11/26

報道ステーション 吉永小百合さん×古舘伊知郎さん対談@丸木美術館  TV・ラジオ放送

11月26日(木)放送のテレビ朝日『報道ステーション』で、吉永小百合さんと古舘伊知郎さんの《原爆の図》の前で行われた対談の様子が放送されました。

吉永小百合さんのご希望ということで、丸木美術館で収録を行ったのは11月21日(土)。
その日は朝から、テレビ朝日の中継車やスタッフを乗せた小型バス、メイク用の大型車両などが駐車場にならび、大勢のスタッフが5台のカメラや多数の照明を設置するなど、大騒ぎの一日となりました。出演予定のない小川彩佳アナウンサーも、対談をご覧になるために、わざわざ丸木美術館まで来てくださいました。

1時間ほど行った収録が、番組では15分ほどにまとめられて放送されました。

   *   *   *

―報道ステーション・スタジオ

古舘 女優・吉永小百合さんにインタビューをしました。もちろん、映画公開のタイミングでもあったんですが、私は10年ぶりにお会いできるということで本当に嬉しくて、すると、吉永さん側から、できればここでお話しできませんかという場所の勧めがあったんですね。どういうところだったか。ちょっとご覧ください。

古舘 そこはすべて原爆投下で苦しんでいる人びとを描いた絵が掲げられているんです。こうしてインタビューの収録後、見続けている吉永さん。何かこのたたずまいに、落ち着いた使命感というものを、私、感じてしまいました。この日、吉永さんは、ちょっと遅刻しました。

―原爆の図第3部《水》の前で対談する吉永さんと古舘さん

古舘 どうしてそんなに謙虚でいらっしゃるんですか。だって今日もね、大渋滞で、三連休のとば口だから、大渋滞で、ちょっと遅れたっていうだけなのに、申し訳ございません、皆さんっていうふうに。ぼくは、ぼおっとしちゃいました。お迎えしたときに。

吉永 いやいや、本当に申し訳なくて、1時間も前に着くつもりだったんですけど、反省して、もっと早く出るべきだったと思って……

古舘 いや、そんなことないですよ。遅れるからいいんですよ。だって……

吉永 いやいやいや、本当に、忙しい古舘さんをはじめね、皆さんお待たせして、いや何とも、穴があったら入りたいっていう気持ち。すみません、本当に。

古舘 とんでもない。とんでもない。みんなも、そりゃぼくも忙しいですよ。

吉永 わかってます、本当に。

吉永 丸木先生のご夫妻がずっと長いことかけて、《原爆の図》っていうのを書いていらして。私は朗読をしているんですけれども(1986年から「原爆詩」の朗読を各地で開催)、でもやっぱり、この絵から受けた衝撃はもっともっと強いし、たくさんの方に見て頂きたいと思いますね。

古舘 はああ……、そうですねえ。

古舘 吉永さんはもちろん、戦争はダメだ。もちろん、原爆はダメだ。そして原発、これも同じ核だからダメだと、そういうこともはっきりと、そしてたんたんと訴え続けてらっしゃるというわけですけど、朗読のことも全部含めてですけど、ぼくは吉永さんの根源ですね。ずっと闘う人として訴えを続けていく活動の源って何でしょうか。

吉永 うーん。あの、年のことは言いたくないんですけどね。やっぱり、70年前に生まれたっていうことは大きいと思うんです。戦争が終わる年に生まれて、今はまだ戦後と言われているわけですよね。だからそういう時代がずっと続いてほしいと思うし、また、核の平和利用という言葉で原発があんなに作られたっていうことも、私はちょっと迂闊にもよく知らなかった。それが今度3.11の後に、こんな状況になっちゃったんだということで、すごく自分を恥じていますし、やっぱりもっともっと声を出して、非核っていうことを、あの、言っていかなければいけないと思っているんですね。

古舘 そうですねぇ。

吉永 古館さんがいつもね、番組でいろんな角度で取り上げて下さっているから、とても嬉しいです。

古舘 はあ、そうですか。

―8月9日長崎平和記念式典の映像・谷口稜曄さん(86)の挨拶

吉永 今年初めて、8月9日に長崎の平和記念式典にね、参列させて頂いたんですよ。でそのときに、谷口さんという被爆者の方がメッセージを語られて、その方は、1年半、背中に大やけどをしたためにうつぶせのままで病院にいらしたって方で、今も体調悪いんだけれども、出てこられてお話して下さって、とにかく胸を打つ演説をなさったんですけど、ああいう方が今も頑張っていらっしゃるし、原爆から原発っていう流れを、何かせっかく私たち日本に生まれたんだから、みんなで考えて、世界の人にこれは違うんだって、やめましょうって言いたいですね。

古舘 そうですねぇ。あの、核と人類っていうものは共生できないんじゃないでしょうか。

吉永 はい。そう思いますね。

古舘 『母と暮せば』を拝見しましてですね。凄惨な原爆が落ちたさまざまなシーンとかはほとんどなくて、母と息子の対話を中心に、たんたんといくあの映画の中に、原爆はダメ、戦争はダメ、というのがものすごくにじんでいますね。

吉永 それは山田監督の思いと熱情なんですよね。

―映画『母と暮せば』の映像より、母と息子の会話シーン

古舘 あの、息子さんとお母さんの会話が素晴らしくて。私はもう母は他界しておりますんでね、あの映画を見てちょっと母を思い出し、寂しい思いはしましたけど、あの……すごい変な言い方ですけど、一方が死んでから初めてああいう会話ができるのかなと。お互い生きている時だとね、憎まれ口言い合ったりしちゃいますけど、どっちがあの世に行ってると、こんないい会話ができるかなってちょっと涙ぐんじゃって。

吉永 そうですね。私も母が亡くなっていろんなことをもっと聞いておくべきだったっていうのを、今になって、今度の映画に出て思いましたし、もっと会話ができたんじゃないかって。あの頃の大変さとか、いろんなことをね。

古舘 本当に戦争体験で苦しい思いをされた世代は、あんまり下の世代に言わないというかですね、お母様も確か、どうしてあんなふうに戦争に突入していったんだっていう問いかけに対して、お母様は、あの当時は言えなかったんだっておっしゃった。

吉永 その一言でした。言えなかった。戦争反対、戦争になっちゃ嫌だっていうことを言えなかったって。だから、それはとても重い言葉ですけどね。でも、私たちはずっと戦後であって欲しいと思うし……言わなきゃいけないと思ってます。

古舘 今思ったんですけど、さっき源はなんでしょうっていう、戦争はダメだって訴える源はってお聞きしましたけど、もしかしたらその一か所に、お母様の世代が言えなかった、じゃあ、私の代ではっきりと言おうっていう思いもおありなんですか?

吉永 それもあると思いますし、私はずっと、何となく俳優になって、ずるずるとやってきましたので、「はい」と「いいえ」があまり言えなかったんですよね。それで、30過ぎてから、映画で、高倉健さんとご一緒した『動乱』(1980年)という映画に出て、1年間素晴らしい映画作りに参加して、私もう一回この世界でやってみようと思って、そのためには、きちんと自分でこれはやります、これはできませんということが言えるようにならないと、独立できないなと、精神的に。それから少しずつそういうことも言えるようになったし、また、いろんな社会の事なんかにも、目を向けられるように、少しずつなったというふうに思っているんですね。

古舘 ああ、そうですか。私たちはもう10代の段階で、『キューポラのある町』(1962年)ずっとはじめから今にいたるまで、吉永小百合さんは何も変わっていないように固定して見ちゃうところがあると思うんですけれども、いろんな変化がくりかえされているんですね。

吉永 そうなんですね、あの、家がとても貧しかったために、ラジオドラマ(1957年「赤胴鈴之助」)に子役でデビューして、一所懸命、家計の少し助けになるかしらと思ってやっていたんですね、中学ぐらいはね。で、高校になって勉強しっかりやろうと思っていたんですけど、映画会社に入ることになって、だから、自分で決断してこの道を選んだわけではなかったんですね。それが、だんだん年を重ねていくうちに、映画の仕事の楽しさとか、映画の持つ意味みたいなものを感じるようになって。いい映画は100年残ると思うんですよ。『キューポラ』はもう50年残ったので、100年残るような映画を作りたいなと思うんですね。子どもがいませんので、映画がやっぱり子どもみたいな思いでやってるんですけれども。

古舘 1962年の大晦日、紅白歌合戦、『寒い朝』。それを歌われているときの紅白歌合戦の視聴率が80.4%。だからまあ、ほとんど100%、日本じゅうが『寒い朝』を見ていたわけです、聞いていたわけですね。あれは今思うと、あんな時代は二度と来ないですね。

吉永 そうですね。あのとき緊張して、ヤカンのお水一杯ぐらい飲みました。出演の前に。

古舘 えっ。あ、そうですか。

吉永 はい。それぐらい緊張していましたね。

古舘 やっぱり、そうですよねぇ。

吉永 あの、マヒナ・スターズの方たちがね、いらしたから、できたんだけども、もうガタガタ震えていました。

古舘 たしか『寒い朝』は、北風吹き抜く寒い朝も、心ひとつで暖かくなる……いい言葉ですよね。

吉永 そうですよね。

―吉永小百合さん、『寒い朝』の歌声

古舘 心持ちひとつで、不幸だなんて思ってないで、心持ちひとつで幸せになれる、足るを知るんだよって、なんか、そのときはわかんなかったけれども、今60越えてぼくも思うのは、心持ち次第で人間って変われるじゃないですか。凄いことをあの時分から訴えてらっしゃいましたね、歌で。

吉永 いえいえ、私じゃないんですけど(笑)。佐伯孝夫さんの作詞ですけれども、あの頃の歌って本当にしみじみと心に響く歌詞がありますね。

古舘 こういう《原爆の図》を背景にしたときに、人びとが折り重なっているこういう図を見せてもらったときには余計に、絶対伝え続けなきゃいけないっていうことを感じますね。

吉永 本当にそうですね。私たちね、日本で生まれて日本で育ってるんだから、一番世界に向かってね、言わなけきゃいけないですよね。

古舘 日本が平和を続けてきたことも、素晴らしいって言ってくれているところがあるんだから、余計にそれを積極的に平和をアピールするっていうのが、積極的平和主義じゃないかと。

吉永 そうですね。私もそう思いますよ。武器を持たないことが積極的平和主義だというふうに思います。

古舘 元々そうなんですよね。

吉永 そう言うと甘いと言われたりすることもあるんですけど、よそから攻めてきたときにね。でもこれは、本当にたいへんな素晴らしい世界の財産だと思いますしね。

古舘 そうですね。

古舘 10年くらい前にちらっとお聞きしたことを思い出したんですけど、1日1キロとにかく泳いでらっしゃるというのは、今も……

吉永 いえいえ。今はとんでもなく。

古舘 やってない。

吉永 いや、やってはいるんですけど。そう、1週間に3キロですかね。

古舘 また几帳面に。1週間に3キロってのは、どういうふうに割り出された……

吉永 だいたい、週3回泳ぎたいんですよ。それで、1回に、まあ1キロ。前は1日に2キロくらい泳ぐときもあったんです。

古舘 1日に2キロまで行ってましたか。

吉永 はい、はい。

古舘 それをちょっとセーブされて、1週間に3キロ。

吉永 そう、今はだいたいそんな感じです。

古舘 で、1回につき1キロ。

吉永 はい。だから、だいたい、そうですね、150キロくらいですね、年間で。前は最高に泳いだときは400キロくらい泳ぎましたけど。

古舘 はあ、そうですか。平泳ぎ中心ですか。

吉永 いえいえ。全種目、4種目。

古舘 えっ! クロール、平泳ぎ……

吉永 バタフライ、背泳ぎ。

古舘 一人メドレーリレーですか?

吉永 そうです、そうです。

古舘 ちょっと待って下さい、バタフライおやりになるんですか。

吉永 やります、やります。バタフライが一番好きなんですけど、下手は下手なんですけど。

古舘 いや、下手であろうが、あれは背筋から何から、異常に使うじゃないですか。

吉永 うーん、やっぱり、それじゃなく、リズムで泳ぐ方がうまく前に進めるんですけど、私の場合はちょっと力づくでいくタイプですね。

古舘 力づくでいくんですか。

吉永 はい、はい。

古舘 一人世界水泳ですよね……

吉永 (笑)

古舘 はあ、やっぱりね。水を得たって感じになりますよね。

吉永 ええ、そうですね。あの、うお座なんで。たぶん、水の中にいるのが一番楽しいって感じですね、今はね。

吉永 足のサイズがどんどん大きくなるんですよ。

古舘 えっ。

吉永 だからもしかしたらね、足の方が発達しているのかもしれないですね。

古舘 あ、そうですか。ふつう、お年を召すとともに、足ちいちゃくなりますよね。

吉永 22.5だったんですけど、今はスニーカーなんか24なんですよ。

古舘 あ、そうですか。

吉永 だから、足が大きくなってるみたいですね。

古舘 やっぱり、バタ足はじめ、平泳ぎにしても、足ものすごく使うから、それで筋肉がついてるってことですね。

吉永 そうだと思うんですね。

古舘 うわー、じゃ、これから……

吉永 足ヒレ。笑

古舘 足ヒレができるって、天然の。どんどん大きくなるかもしれませんね。

吉永 そうですね。笑

古舘 や、でも、吉永小百合さんがなんで変わらないんだ……

吉永 100歳になったら、マスターズに出て泳ごうかしら。笑

古舘 ほんとですよ。

吉永 そういう方ね、いらっしゃいますもんね。

古舘 います、います。吉永小百合さんは、年とともに成長されるんですね。

吉永 やあ……退化してるんですけど、でも、アスリートだと思ってるんですよね、自分のことをね。だから、俳優というよりはアスリートとして、これからも、生きていきたいなと思っています。

古舘 うわあ、ほんのちょっとだけ……

吉永 ちょっとわかりましたか。笑

古舘 その活動の源が、わかったような気になりました。

吉永 はい。

古舘 いやあ、これからも、ずっと、そういうことを思い出しながら、私、くじけそうになった時に、吉永小百合さんがんばってるのに……

吉永 はい。あの、いつもテレビの前に座って、応援してますから、古館さんのこと。

古舘 ありがとうございます。

吉永 がんばってください。

古舘 いや、もう、がんばらせていただきます。どうか、あの、吉永小百合さんもアスリートとして、ずっと鍛え続けて下さいませ。

吉永 ありがとうございます。

古舘 ありがとうございました。

   *   *   *

スタジオで、古舘さんが「意志が強い方というのは、とても表面は優しくてね。優しいということと強いということは、全然矛盾しないわけです」とまとめていたことが印象的でした。

対談収録後、着替えを終えた吉永さんのご希望で、館内を案内させて頂きました。
ひとつひとつの展示室をじっくりご覧になりながら、こちらの説明にお応え下さる吉永さんは、イメージ通り、とても美しく聡明な方でした。

そして古舘さんも、私たちの挨拶に丁寧に対応して下さる方でした。「いろいろプレッシャーはあるんです」とおっしゃっていましたが、これからも頑張って、素晴らしい番組を作って頂きたいと思います。

丸木美術館での対談を希望して下さった吉永さんはじめ、スタッフの皆様に心から御礼を申し上げます。本当に、どうもありがとうございました。
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2015/11/26

出張授業@川越工業高校  講演・発表

午後から、地元の埼玉県立川越工業高校へ出張授業に行きました。
年明けに沖縄へ修学旅行に行くという2年生を相手に、体育館で原爆から沖縄まで、丸木夫妻の仕事を軸にして、なぜ70年前の戦争を学ぶのか、というお話をしました。

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川越工業高校は、もともと染織を専門とする学校として創立され、100年以上の長い歴史を持つ学校です。
つい先日も、パナソニックとともに乾電池を動力とした車両で世界最長距離の鉄道走行に挑戦し、ギネス世界記録に認定されたばかり。
昨年秋には、北海道日本ハムファイターズにドラフト指名を受けて、プロ野球選手も生まれており(わが家の近くには野球部の専用グラウンドがあります)、さまざまな分野で活発に活動している様子。

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肝心の授業の方は、機材の不具合もあって、少し冷や冷やしましたが、生徒たちは熱心に話を聞いてくれました。
楽しい修学旅行のなかで、少しでも戦争や基地問題への想像力を広げて、実りある時間になることを願っています。
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2015/11/25

ギャルリー志門「安藤栄作展」トークセッションのお知らせ  講演・発表

11月23日から12月5日まで、銀座のギャルリー志門で開催されている安藤栄作展「子供たちが教えてくれたこと」のギャラリートークのお知らせです。

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イスラエル軍によるパレスチナガザ攻撃から1年半、犠牲になった子供たちを刻み続けた安藤さんの彫刻展。
その思いは、いつしか「世界中の過酷な状況に置かれている子、原発事故のあった福島の子、平和な社会の陰で虐待に苦しんでいる子、そして今は大人になった僕ら自身の内で理不尽な我慢を強いられている子供の魂へと広がっていった」とのこと。

11月28日(土)午後2時から3時半まで安藤さんと岡村のトークセッションがあります。
予約不要、先着順・入場無料。どうぞ皆さま、ご来場ください。
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2015/11/23

『フィナンシャル・タイムズ』に原爆の図展評掲載  掲載雑誌・新聞

原爆の図ニューヨーク展について、経済紙『FINANCIAL TIMES』が芸術面で読みごたえのある批評を書いて下さいました。
取材が来たとき、いつも飄々としているパイオニア・ワークスの責任者・ガブリエルが、珍しく興奮していたので、なかなか凄いことのようです。
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/0dce44ca-8f76-11e5-8be4-3506bf20cc2b.html#slide0

パイオニア・ワークスという場所性も含めて、「原爆の図展」の意味を読み取る内容で、今年1月、私が初めてこの会場を訪れたとき、安全面などのリスクに頭を悩ませながらも、「ここでやってみたい」と決断した理由を理解してくれている記事です。

世界の芸術の重要な拠点であるニューヨークのなかでも、若い世代が新しいムーヴメントを起そうとしているブルックリン。その先鋭的な地域で、「もっともブルックリン的な場所」だからこそ、《原爆の図》を展示してみたいと思ったのです。

以下、拙訳ですが英文記事と日本語訳を併記します(画像は岡村撮影、記事とは別です)。

November 23, 2015 FINANCIAL TIMES
The Hiroshima Panels, Pioneer Works, New York - ‘history is given a moral weight’
 Ariella Budick


2015年11月23日 フィナンシャル・タイムズ
原爆の図展、パイオニア・ワークス、ニューヨーク ―“歴史は道徳的な重みをもたらす”
 アリエラ・バディック

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The sunshine that ricochets off the waters of New York Harbour strafes the
low-rise flatlands of Red Hook, Brooklyn, filters gauzily through a grid of
windows, and lights up scenes of unthinkable suffering. Six long panels,
painted by the husband-and-wife team Iri and Toshi Maruki, depict Hiroshima in
the immediate aftermath of the nuclear attack in August, 1945.


ニューヨーク港の水面に跳ね返る日の光は、ブルックリンのレッドフック地区の平坦な土地を照射し、窓格子を通り抜けて、想像を絶する苦しみの場面に光を当てる。
丸木位里・俊夫妻によって描かれた6点の横長の絵画は、1945年8月の原爆投下後の広島の惨状を表している。

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At Pioneer Works, they unfold along three sides of a basilica-shaped hall, a
Civil War-era ironworks repurposed into a gallery and high-minded art lab.
There’s something harmoniously discordant about the way refined
draughtsmanship and blossoming patches of vermilion illustrate scenes of
documented horror. Skin melts, birds gnaw at irradiated bodies, the sky
blackens, captured American flyers are tortured in revenge - and yet in the
high-ceilinged nave these pitilessly narrative paintings project a
decorative calm.


南北戦争時代の製鉄所をギャラリーや芸術研究所として再利用したパイオニア・ワークスで、絵画は聖堂のような空間の3つの壁面に沿って展示されている。
洗練された線画と、咲き誇るかのような朱色の筆致が奏でる不協和音によって、恐ろしい光景が描写されている。皮膚は溶け、鳥は被爆した肉体をついばみ、空は黒く覆われ、米兵捕虜は復讐の拷問を受ける。
しかし、天井の高い聖堂で、これらの冷酷な物語の絵画は、装飾的な落ち着きを見せている。

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The Marukis married in 1941 and arrived in Hiroshima days after the attacks,
hoping to locate living relatives. Instead they found the hellscape that
would nurture their art for the next 30 years. Iri was trained in Japanese
ink brush techniques, Toshi in western oil painting, and together they
developed a style in which the two traditions intertwined. Renaissance Last
Judgment imagery thunders through some panels, where muscular bodies writhe
in agony and are enveloped by infernal flames. Elsewhere, great washes of
ink bleed from watery grey to impenetrable black, like abstract floods of
pain. In the most harrowing segment, crows swarm so fearsomely that you can
practically hear the deafening chorus of caws.


丸木夫妻は1941年に結婚し、原爆投下から数日後に、生き残った家族を探して広島に到着した。そこで二人は、30年間に及ぶ絵画制作のもとになる地獄の光景を見た。
位里は日本の水墨画、俊は西洋の油彩画に熟達し、二人はふたつの伝統が融合した表現を生み出した。
ルネサンス期の「最後の審判」のイメージは、いくつかの作品にあらわれている。
力強い肉体は苦悶し、地獄の炎に包まれる。さらに水墨の流動性がもたらす漆黒の画面は、苦痛の深さを抽象化している。
もっとも悲惨な画面では、恐ろしいほどカラスが群がり、耳をつんざくような鳴き声が聞こえてくるようだ。

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The Marukis were connoisseurs of tragedy, and the times they lived in
supplied plenty of material. Over the years, Iri, who died in 1995, and
Toshi, who followed in 2000, expanded their range from Japanese suffering to
the Rape of Nanjing, Auschwitz and fears of nuclear power. These topics may
seem to demand the ruthless clarity of photography rather than the
aestheticising powers of paint. (The Pioneer Works show also includes a
documentary about the artists and a small display of photos and artefacts
from Nagasaki.) But with their textured brushstrokes and graphic flair, the
Marukis’ panels give history a point of view, a moral weight. There is no
room in their detailed depictions of cataclysm to think of it as the work of
nature or impersonal historical forces. Specific humans visited these
horrors on other humans, and only human hands can properly record the facts.


丸木夫妻は悲劇を深く見つめ、彼らの生きた時代には数多くの出来事があった。
位里が1995年、俊が2000年に亡くなるまで、長年にわたって二人は、日本人の被害から南京大虐殺、アウシュビッツ、原発の脅威などを描き続けた。
こうした主題は、絵画の耽美的な力よりも、むしろ写真の冷徹な明快さが求められるのかもしれない(パイオニア・ワークスの展覧会でも、芸術家の活動を紹介するドキュメンタリ(訳者註:ジャン・ユンカーマン監督による丸木夫妻の記録映画『劫火ーヒロシマからの旅』)と、写真や長崎の被爆物の小展示が含まれていた)。
しかし、二人の繊細な筆遣いと鋭い視覚的才能は、道徳的な重みのある歴史への視点を絵画にもたらす。
彼らが丹念に描いた破壊は、自然や、人智を超えた歴史の力によるものではない。
特定の人間たちは他人にこうした恐怖を与えてきたが、一方では、人間の手わざこそが、その事実を確かに記録してきたのだ。

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A concurrent exhibition, A Body in Fukushima, picks up the Marukis’
apocalyptic theme. In a display of 31 photographs by William Johnston, most
of the images show the dancer Eiko Otake (one half of the duo known as Eiko
and Koma) variously curled, crouched and splayed in spots near Japan’s
damaged nuclear reactor. Eyes closed, shoulders hunched, long hair whipped
by a potentially toxic breeze, she expresses the loss of dead, abandoned
land. On the day I visited, Eiko danced a riveting slow-motion solo, using
the immense gallery as her stage and the Maruki panels as her set. It was as
if she had materialised, not just from Johnston’s photographs, but from the
crowds of painted victims, animating their miseries with physical grace.


同時開催の「福島の身体」展は、丸木夫妻の黙示録的な主題を拾い上げる。
ウィリアム・ジョンストン撮影の31点の写真は、ダンサーの尾竹永子(Eiko and Komaとして
知られるデュオの一人)が日本の原発事故の被災地でさまざまに身を歪め、かがみ、広げている姿を映し出す。目を閉じ、肩を丸め、長い髪を毒素の潜む微風にたなびかせて、彼女は見捨てられ、死んでしまった土地の消失感を表現する。
私が訪れた日、彼女は《原爆の図》を背景に、巨大なギャラリーを舞台にしてスローモーションのソロを踊った。それは、ただジョンストンの写真が具体化しただけでなく、描かれた被爆者の群像の苦難が実体化したかのように見えた。

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These claustrophobic works get plenty of air around them. That’s hard to
come by: in a city where square footage is measured out in coffee spoons and
art is a gambler’s game, few environments could accommodate a single,
not-for-profit project in such ample, uncrowded space. The darkness of the
Maruki panels is sharply at odds with the lightness of the setting. A vibe
of laid-back virtue and shaggy affluence suffuses the building, from the
polished concrete floor to the open timber rafters, from the landscaped
garden with the vintage Airstream out back to the second-floor office for a
resident astrophysicist.


これらの閉所恐怖症を引き起こしそうな作品は、十分な空間を必要とする。
空間の幅がコーヒースプーンで計測され、芸術がギャンブルのように扱われる街で、一つの非営利のプロジェクトが、広い空間を手に入れることは難しい。
《原爆の図》のもたらす闇の深さは、展示環境の明るさとせめぎ合っていた。
磨かれたコンクリートのフロア、むき出しの梁や垂木、古き良き時代の雰囲気を残す裏庭、天体物理学者の研究室のある2階・・・建物には屈託のない気楽さと豊かさが満たされていた。

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The brainchild of artist Dustin Yellin, who imagined it as a sort of upscale
commune for creative types, Pioneer Works opened in 2012 and is now fuelled
by a global sensibility and low-key good taste. You can get married there,
attend a talk on privatised travel to Mars, learn Japanese woodworking
techniques and computer animation, or sprawl on cushions for a gamelan
concert. In other words, it is quite possibly the most Brooklynish place in
Brooklyn.


芸術家のダスティン・イェリンによる、創造的な人びとの一種の共同体という構想の産物であるパイオニア・ワークスは、2012年にオープンし、国際的な感覚と良質な趣味によって現在も発展している。
そこでは結婚式も挙げられるし、火星への個人旅行についてのトークに参加することも、日本の木工技術とコンピュータ・アニメーションを学ぶことも、ガムラン・コンサートのためにクッションで手足を伸ばすこともできる。
言い換えれば、おそらくブルックリンでもっともブルックリン的な場所なのだ。

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What that means is that here socially engaged art can be reunited with its
educational mission. Every generation forgets the previous generation’s
obsessions, and for the young who wander in for a dose of hipness, Hiroshima
is a vaguely remembered blot. They will leave this exhibition with clearer
ideas.


つまり、社会的な芸術は、その教育的な使命と再結合できるということを意味している。
どんな世代も、前の世代の強迫観念を忘れてしまう。
そして、流行をさまよう若者たちにとって、「ヒロシマ」は漠然と記憶された汚点に過ぎない。
人びとはより確かな思いを抱いて、この展覧会を後にするだろう。
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2015/11/21

今日の反核反戦展2015オープニング  企画展

今年もまた、今日の反核反戦展2015がはじまりました。
アメリカ出張のため、丸木美術館に勤務して15年で初めて、展示作業に立ち会えないという事態でしたが、実行委員の皆さまのおかげで、無事予定通りに開幕することができました。

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午前11時より、オープニングのご挨拶。
飲食の準備に奔走して下さった皆さんのおかげで、美味しい料理もならんでいます。

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この日もまた、別件で大がかりの撮影が同時並行しており、私はその準備の方につきっきりになっていたのですが、事務局のYさんが反戦展のパフォーマンスの様子を撮影してくれていたので、以下に紹介します。

まずは恒例の奈良幸琥さんのパフォーマンスでスタート。

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続いては、熊本県の天草から駆けつけた大橋範子さんの「怒りの野良犬」。

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昼食をはさんで、フォークグループあじさいの「歌いつづけるっ!憲法9条ー私たちの約束」。

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machi/「わたしのなかの ぼうりょくとひぼうりょく わたしのそとの 暴力と非暴力 ふたつをまたぐもの 隔絶されるもの またがせてはいけないもの またがせたいもの」。

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日本憲吉(村田訓吉)+制服向上委員会(スペシャルゲスト、反原発アイドル)「地球向上委員会2015」。

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スタジオ・ヴォイド/岩田恵(箏)ほか

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SYプロジェクト「ゼロベクレルプロジェクト」。
出演は、万城目純+ホワイトダイス(ダンス)、内田良子(朗読)、今井尋也(鼓)、多田美紀子(アコーディオン)、石川雷太(ノイズ)

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そして、黒田オサムさんの「ほいと芸」。

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パフォーマンスの最後を飾ったイルコモンズ指揮、呪いの日日呪奏団+アトミックサイトの合奏による『呪いの日日』奉呪百連奏の画像は、残念ながらありません。
出演は[呪いの日々呪奏団]大熊ワタル(クラリネット)、こぐれみわぞう(太鼓)、関島岳郎(チューバ)、イルコモンズ(サックス)ほか、[アトミックサイト] 石川雷太(放射性廃棄物ドラム缶)、イルコモンズ(放射性廃棄物ドラム缶)ほかの皆さんでした。

12月6日(日)午後1時からは、池田龍雄さん(画家)と毛利嘉孝さん(社会学者/東京藝術大学准教授)の対談「美術と戦争」が行われます。
また、木版画アーティスト・コレクティブA3BCの、主に沖縄の辺野古・高江を中心とする版画ワークショップ《不服従運動と木版画》の報告会や、「反核反戦展」出品作家によるアーティスト・トークも予定されています。
どうぞ、こちらもご参加ください。
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2015/11/21

『週刊NY生活』に原爆の図展紹介  掲載雑誌・新聞

ニューヨーク・ブルックリンのパイオニア・ワークスではじまった「原爆の図展」。
さっそく、『週刊NY生活』というニューヨーク在住日本人向けの新聞で紹介されました。

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原爆の図NY展ブルックリンで始まる 12月まで一般公開

WEBサイトで、全紙面が見られるという新聞で、ニューヨーカー向けのメディアでありながら、どこかほのぼのとした、自治会報のような紙面が微笑ましいです。

http://www.nyseikatsu.com/editions/561/files/5.html
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2015/11/17

【米国出張I】ヒバクシャ・ストーリーズ  調査・旅行・出張

ニューヨーク滞在最終日は、キャサリン・サリバンが主宰する原爆体験を伝える教育プログラム「ヒバクシャ・ストーリーズ」を見学。

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この日パイオニア・ワークスに来場したのは、ノルウェーから政府の助成でニューヨークに来ていた大学生たち。
トロント在住の被爆証言者・サーロー節子さんと、原爆投下を指示したトルーマン大統領の孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルさんが日米双方の立場から証言とスピーチを行いました。

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はじめにキャサリンが行った核問題の現状についてのレクチャーでは、1954年のビキニ水爆実験を知っている生徒が一人もいないというのが、個人的にはちょっとした衝撃でした。
福島という地名を聞いたことがあると挙手した生徒も半分くらいです。
国が違えば知識も違うという、当然といえば当然のことを再認識しました。

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サーロー節子さんは、ご自身の被爆体験やその後の人生を振り返りながら、最後に広島女学院の亡くなった生徒351名の名前が記された横断幕を広げ、ひとりひとりにかけがけのない人生があったことを伝えました。

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クリフトン・トルーマン・ダニエルさんは、折鶴の物語で知られる佐々木禎子の兄である佐々木雅弘さんとの出会いから、広島を訪れることになった体験を語りました。

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実は前夜にキャサリンの夫のブレイスの実家で開かれたパーティに招かれ、節子さんやクリフトンとともに、佐々木雅弘さんと祐滋さんにもお会いしていたのです。お二人はクリフトンの働きかけでカンザスシティのトルーマン図書館に禎子の折鶴が寄贈されることになったため、渡米されていたのでした。
下の写真は、食事の後で「INORI」を歌う祐滋さん。今年5月5日に丸木美術館でも公演して頂きました。

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その夜の挨拶で、若い頃から平和運動に関わっていたクリフトンが、祖父とはうまくいかない関係だったけど、死ぬ間際に「お前を誇りに思う」と声をかけられた、と告白していたことがとても印象的でした。

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集中して話を聞くノルウェーの学生たちの真剣なまなざしが凄いです。

その後は昼食をはさんで、《原爆の図》の展覧会を見学。

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ノートに思いついたことや絵を自由に書いていきました。
一所懸命にペンを走らせる学生たち。

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一度集合してグループごとに感想を交換した後、今度は被爆資料や、Eikoさんが福島で撮影した写真の展示を見てまわります。

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学生たちのノートを紹介して感想を聞くのは、キャサリンとともに「ヒバクシャ・ストーリーズ」に取り組んでいるロバートです。彼はキャサリンいわく、やりたいと思ったことを具体的に実現させる「夢の建築家」。

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こうした試みは日本の学校でもやることはありますし、それぞれのノートを見ながらディスカッションする、というプログラムも、熱心な学校はやるかもしれません。

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もっとも興味深かったのは、最後に、ペアを組んで向き合って座り、ひとりが2〜3分間、相手に対して、キャサリンから指示された「私がこの絵を見て思ったことは・・・」「私にたくさんお金があったら、核をなくすためにやることは・・・」というテーマに沿って話し続け、もうひとりは静かにじっと耳を傾ける(そして、3つのテーマが終わったら役割を交替する)というプログラムでした。

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人は他人に話すとき、自分の体験を整理して、考えを構築します。原爆についてせっかく学んだことを、より深く考え、自分のものに消化するためには、とても有効な方法だと思いました。

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最後はあなたたちも参加して、と言われて、日本のピースボートで働いていたというローズさんとペアを組みました。
写真は、《原爆の図》の前で、詩のような言葉を書きとめるローズさん。真剣なまなざしです。

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ローズさんには、この日、キャサリンが製作している記録映画のためにインタヴューを受けたとき、通訳のお手伝いをしてもらいました。《とうろう流し》の前の写真は、そのとき撮った記念写真です。

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最後に、このプログラムに参加していたもう一人の被爆者で、原爆の図米国巡回展にも立ち上げから関わり続けていた杉並光友会の平田道正さんが、スピーチをされました。平田さんは、第五福竜丸の被ばくや、その後杉並からはじまって全国に広がった署名運動について、プログラムの最後のピースを埋めるように話をして下さいました。

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平田さんには、映画『ミリキタニの猫』の監督であるマサ・ヨシカワさんも紹介して頂きました。
さまざまな人と出会い、支えられて開催にたどりついたニューヨーク展。これから1か月、さらに多くの人に絵に向き合い、戦争や核についての想像力を広げてもらいたいと思っています。

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最後の写真は、パイオニア・ワークスの最寄り駅Smith-9th Street(徒歩20分)、つまりブルックリンの下町から見上げるマンハッタンの摩天楼。
いよいよ明日は日本に帰国します。
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2015/11/16

【米国出張H】クーパー・ユニオン大学  調査・旅行・出張

午前中、少し時間が空いたので、イースト・ヴィレッジにある、1859年開校という長い歴史を持つクーパー・ユニオン大学を訪れました。

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設立者のピーター・クーパーによる、大学教育は「人種、宗教、性別、貧富または社会的地位とは関係なく、資格のあるものたちが受けることができ、すべてに無料で開かれているべきである」という信念に基づいて、つい最近まで入学を許可された生徒すべてが授業料を全額免除されていた建築・芸術・工学を専門とする私立大学です。

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ニューヨークの歴史的建造物にも指定されている校舎は、建設時からランドマークとして親しまれ、絵葉書や本でたびたび取り上げられていたようです。

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すべての差別を否定し、講義は無宗教で、女性も男性と同様に扱われ、大学が優秀と認めれば高校の成績は無関係に学ぶことができました。女性の美術学校もいち早く作られました。地下のグレート・ホールでは急進的な思想も排除されることなく講演会を行うことができたそうです。

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若き日のトーマス・エジソンもここで学び、1860年2月27日には、リンカーンがホールで奴隷制に関する重要な演説を行っています。

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なぜこの大学を訪れたのかというと、ここの卒業生に、丸木位里が一時期通っていた大阪精華美術学校の校長・松村景春がいたからです。松村については、以前にお孫さんに詳しい話を教えて頂いたことがあるので、学芸員日誌ブログをぜひとも読んで頂きたいところです。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2005.html

松村が卒業したのは1905年。今はすぐ隣に立派な新校舎が建ち、大学機能の多くはそちらに写っているようです。

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その後、マンハッタンの5番街で日本図案製作所を開設し成功した彼は、1911年に帰国して、国外輸出を目的とした図案学校を大阪・天王寺に設立。今でいえば、流行最先端のデザイン専門学校というところでしょうか。
学びたい者は誰でも自由に学ぶことができるという理念は、明らかにクーパー・ユニオンの理念を受け継ぐものでしょう(クーパー・ユニオンもまた、パリのエコール・ポリテクニークの影響を受けていました)。
その門をくぐった若者のひとりが丸木位里であり、位里の20年後には武良茂という鳥取出身の若者もやってきました。後の漫画家・水木しげるです。

二人とも学校教育に馴染めず、無試験で絵の勉強ができるという理念に吸い寄せられたと思われます。
もっとも、画家になりたい二人の思いと、図案(デザイン)を教える学校の教育方針にはズレがあり、二人とも程なく辞めてしまい、後の画業に大きな影響を与えたとは言い難いでしょう。

それでも、その二人がともに、当時の公教育からは生まれることがなかったであろう地を這うような視点から戦争の不条理を見つめ、今に残る作品に昇華させていることには、不思議な感動を覚えます。
お孫さんの話では、松村自身は丸木位里も水木しげるもおそらく知らないまま、戦局悪化のため閉校し、空襲で校舎も焼かれ、郷里に隠遁したまま1963年に亡くなってしまいました。

しかし、歴史の糸は細くとも、確実に受け継がれていくものはあります。
エジソンやリンカーンと丸木位里や水木しげるが、時代や海を越えて、こんなふうにつながっていることは、決して偶然ではないのだろうと思うのです。
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2015/11/15

【米国出張G】ウォール街周辺/ハーレム  調査・旅行・出張

展覧会も無事にはじまったので、北京経由で米国に潜入してきた“謎の活動家” のT副理事長と、なぜか二人で過ごすニューヨークの休日。
ウォール街周辺とハーレムという対称的な地区を一日中ひたすら歩き回りました。

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Brooklyn bridge

まずはマンハッタン島の南、ブルックリン・ブリッジへ。1883年完成、鋼鉄のワイヤーを使った世界初の吊橋。その一方で、床は木製です。
橋の上からは、ウォール街の高層ビル郡がよく見えます。

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Lower Manhattan from Brooklyn bridge

マンハッタン最古の教会であるセントポール教会は、ジョージ・ワシントンも礼拝をした歴史を持ちますが、2011年の9.11の際に、野戦病院のような状態になったそうで、今もそのときの記憶を伝える展示物があります。
新しく建てられたワールド・トレード・センターを見上げながら、9.11メモリアルへ。

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World Trade Center & St.Paul's Chapel

破壊されたふたつのビルの跡地にぽっかりと、その不在を象徴するプールが作られ、2983名の犠牲者の名が刻まれています。パリの事件の後だけに、一層複雑な心境になります。

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The National September 11Memorial

9.11から世界は変わってしまったのか。それまで見えていなかったものが見えるようになったに過ぎないのか。

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The National September 11Memorial

T副理事長のリクエストで、その後、ズッコティ公園という小さな公園を探しました。
2011年のウォール街占拠運動の拠点となった場所ですが、もちろん訪れても、何か痕跡があるわけではありません。

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Occupy Wall Street!

諦めないT副理事長は、近くのお土産屋さんを覗いて、「オキュパイまんじゅうとか、売ってないかな?」(推測)と質問して怪しまれているので、他人のふりをすることにしました。

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I'm looking for souvenir of Occupy movement...
ーSuspcious mustache!

「絶対、売れると思うよ」とアドバイスをしてきたらしいので、もし新商品があらわれたら、それはT副理事長の地下活動の成果と思って下さい。

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Zuccotti Park

さらに国立アメリカン・インディアン博物館、キャッスル・クリントン、ジューイッシュ・ヘリテージ博物館などをまわりました。

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National Museum of the American Indian

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Castle Clinton

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Statue of Liberty

ジューイッシュ・ヘリテージ博物館では、ユダヤ人の文化やホロコーストの歴史を見学。
出口のところでアンケートをとっていた可愛らしい女の子に、さっそくT副理事長が「逆に質問していいかな?君はパレスチナ問題について、どう思う?」と困らせていたので、「気にしないでね。このおじさんは活動家だから」と後から優しく声をかけました。

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Museum of Jewish Heritage

午後は地下鉄A列車で125丁目のハーレムへ。アフリカン・アメリカンの中心地です。
街の雰囲気は一変して、エネルギーにあふれたものになりました。
T副理事長は、露天でRevolutionaryと記されたトートバッグを衝動買い。 私もうっかり、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンのキンシャサの一戦のポスターがプリントされたパーカーを買いそうになってしまいましたが、危うく正気を取り戻しました。

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The Studio Museum in Harlem

ハーレム・スタジオ美術館はアフリカン・アメリカンのアーティストを紹介する企画展を3本開催中。内容充実で、日曜無料が申し訳ないほどでした。

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The Studio Museum in Harlem

最後に、音楽の聖地であるアポロ・シアターを覗いたのですが、今日の催し物は何もないということで、ミッドタウンに戻りました。

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The Apollo Theater

ロックフェラーセンターのクリスマスツリーの前で、T副理事長の(とても場違いな)記念写真を撮ってあげたのですが、手元に画像ないのでご紹介できないのが残念です。
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2015/11/15

【米国出張F】Eikoさんのパフォーマンス  調査・旅行・出張

原爆の図展オープニング・レセプションでは、《原爆の図》の前でEikoさんのパフォーマンスが行われました。
Eiko & Komaのユニットでの活動は、米国内でも高く評価され、知名度も幅広いとのこと。
この日も100人を超える人びとが、Eikoさんの繊細で静かな熱を帯びたパフォーマンスを息を呑んで凝視していました。

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Eikoさんは、WAMの池田恵理子さんと高校の1学年下の同窓生。ぼくも10年近く前にEikoさんが丸木美術館に来られて知り合い、2009年7月18日に川口のNHKアーカイブスで池田さんの企画されたEikoさんと林京子さんの対談を聞きに行ったことがあります。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1212.html
今回、「ヒバクシャ・ストーリーズ」の活動をしているキャサリン・サリバンがEikoさんに公演を依頼したことから、奇しくも6年ぶりの再会となりました。

Eikoさんは当初、《原爆の図》の前でやるべきかどうか戸惑い、林京子さんに電話で尋ねたそうです。
すると林さんから「俊さんの絵は輪郭線が強いけれども、被爆者には輪郭線がなかった。それを表現すれば良いのではないか」という答えが返ってきました。
それは林さんらしい鋭い批評で、ぼくは《原爆の図》というより、林さんがご自身の小説で何を描写されていたのか、その理解が少し深まったような気がしました。

Eikoさんは、絵に描かれなかった、絵からこぼれ落ちるような人間を表現したいと言われ、その通り、《原爆の図》と被爆者の写真の展示会場をつなぐような構成でパフォーマンスを行いました。
Eikoさんの米国デビューを後押ししたのは、かのベアテ・シロタ・ゴードンであり、この日はベアテさんの娘のニコルさんも来場して下さっていました。

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翌日もパイオニア・ワークスでEikoさんの撮影があり、ぼくは一日中立ち会いました。
開幕前にはリハーサルの日もあったので、この間、Eikoさんとはずいぶん話をすることができました。

Eikoさんの祖父は、岡倉天心や横山大観と袂を分かち、丸木位里たちの歴程美術協会より前に「日本画の前衛」に果敢に挑んでいた孤高の日本画家・尾竹竹坡だということも知りました。彼が1920年に描いた天体三部作《月の潤い・太陽の熱・星の冷たさ》は、まるで未来派のような作品で、宮城県美術館の所蔵になっています。
http://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/mmoa-collect028.html

僕はうまい絵を描かうとは思わない。ただ描き度いから描くだけだ。結果がどうだらうと人によく思はれやうとかそんな事には重きをおかない。ただ人を驚かさう、アツと云はせやうというやうな心持を持つて居る。なんとかして大作をやらうと思つて居る。まあ二、三年はかかるだらう。

この文章は、まるで若き日の位里が書いたかのようですが、竹坡が1929年に書いたもの。
当時、位里は28歳。二人の画家の人生は、どこかで交錯していなかったでしょうか。
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2015/11/13

【米国出張E】原爆の図ニューヨーク展オープニング・レセプション  調査・旅行・出張

ニューヨーク「原爆の図展」のオープニング・レセプションを控えて、この日は朝から展示スタッフが会場入口の看板や説明文の設置を行いました。

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6点の《原爆の図》がならぶ展示室は、静かに開幕の時を待ちます。

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開幕1時間前に、TBSの取材がありました。
最初にパフォーマンス・アーティストのEIKOさんがインタヴューを受け、続いて私も「多様な人びとが集まるニューヨークで、日米だけの問題でなく、人類共通の課題として戦争の痛みを想像して欲しい」というようなことをカメラの前で話しました。

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そのインタヴューを終えた直後、記者の携帯電話が鳴り、パリで大規模なテロが発生との第一報。
カメラマンはそのまま残りましたが、記者の方はすぐにテレビ局に戻ることに。
予定では、その日の夕方か夜のニュースに流れるとのことだったのですが、帰り際に記者は、難しくなったかもしれません、と申し訳なさそうに言いました。

もちろん仕方ありません。それにしても、《原爆の図》の45年ぶりのニューヨーク公開の直前に、世界を揺るがす暴力の知らせとは、あまりに切ない話です。

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その暴力を生み出したもとは何だったか。
ブルックリン橋の向こうにはウォール街、そして9.11の現場も、すぐ近くにあることを思い起こします。
テロのニュースを知ってか知らずか、「原爆の図展」の会場には、次々と観客が集まってきました。
日が暮れて、照明も次第に劇的な効果を増していきます。

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ギャラリートークは、《原爆の図》の前をまわりながら、30分ほど英語で作品解説をしたのですが、ボストン展よりずっと落ち着いてうまくいきました。

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話し終わると、拍手が鳴りはじめて、それがしばらく続きました。
メジャーリーガーなら帽子をとるのでしょうが、キュレーターはどうすればいいのだろう、と困ってしまい、両手を胸に当てて肩をすくめてみたら、少し笑い声が起きました。

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しかし、決して心は晴れません。
急に体が重くなり、時差ぼけのせいもあって、ひたすら眠くなってきました。
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2015/11/12

【米国出張D】原爆の図ニューヨーク前日  調査・旅行・出張

早いもので、いよいよ原爆の図米国展最後の巡回地、ニューヨーク展の開幕前日となりました。
今日も朝から会場のパイオニア・ワークスに向かい、夕方になって展示作業がようやく終了しました。

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実は、諸条件の問題により、当初は6点のうち1点だけ煉瓦壁を背景に展示するという苦渋の選択を考えていたのですが、スタッフが急きょ補助の壁を新設してくれたおかげで、美しく、シンメトリーの空間に展示できることになりました。

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しかも、昼と夜でまったく印象の違う雰囲気になります。
照明も調整したので、日没後は特に、絵画が幻想的に浮かび上がる空間になりました。
天井の高さも、あまり気にならなくなりました。

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明日はいよいよ午後6時からオープニング・レセプション。
岡村のギャラリートークの後、午後7時頃からは現地ニューヨーク在住のパフォーマンス・アーティストのeikoさんが《原爆の図》の前で公演をして下さいます。eikoさんは今日も来場して、本番に向けて絵の前で丹念にリハーサルをしていました。

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そして、やはり現地ニューヨーク在住のパフォーマンス・アーティストの友人ヨシコ・チューマさんも、忙しいなか、わざわざ会いに駆けつけて下さいました。さすがにニューヨークは、多くの知人に会う機会があります。

夜には、米国で原爆の記憶の継承を目的とした教育プログラム「ヒバクシャ・ストーリーズ」を行っているキャサリン・サリバンさんの自宅で催されたパーティに招待されました。
パーティには、東京から杉並光友会の平田道正さんも到着されていました。
今回の巡回展のプロデューサーである早川与志子さんと平田さん、キャサリンが初めて丸木美術館に現れたのは、2011年11月16日のことでした。
そのときの記事が、学芸員日誌ブログに残っています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1758.html
4人が再び全員そろうのが、まさか4年後のニューヨーク展の前夜になろうとは、あのときは考えもしませんでした。

4年という歳月の間には、さまざまな出来事がありました。
当初は丸木美術館の内部からも「無理でしょう」という反応が返ってきて、途方に暮れたこともありました。
思うように会場が決まらず、予算も目処が立たず、一時は断念しなければならないかと思ったこともありました。
それでも、中心となって交渉を続けてきた早川さんがあきらめない限りは、私もつきあっていこうと腹を決めて、粘り強く可能性を探り続けてきたのです。
被爆から70年目の最後の最後に、こうして出発点であったメンバーが集まることができたのは、本当に嬉しいです。

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キャサリンの万感の思いのこもった挨拶の後、パーティに参加した全員で乾杯。パイオニア・ワークスの代表であるガブリエルも、飄々とした表情で参加しています。
「ヒバクシャ・ストーリーズ」に通訳として関わっているという現地在住の日本人夫妻が用意して下さった美味しい日本料理の数々を楽しみながら、夜遅くまで楽しい時間を過ごしました。

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2015/11/11

【米国出張C】パイオニア・ワークス展示作業/The King and I  調査・旅行・出張

今日は一日中、ニューヨークのブルックリン地区の港湾部にあるパイオニア・ワークスで、《原爆の図》の展示作業。
パイオニア・ワークスの住所は、Pioneer Street 159。
ただし、朝は最寄りの地下鉄駅からタクシーに乗ったのですが、運転手が通りの名前を聞いてもわからないという、少々不便でうら寂しい立地です。

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かつては倉庫だったという赤煉瓦造りの建物は、内部の木造の梁や柱の雰囲気がとても見事です。
展覧会に来られる方は、ぜひ展示空間にもご注目下さい。

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窓が多く、時間帯によって室内の明るさや色彩も大きく変わってきます。
この自然光をどこまで生かして、どこまで抑えるかはもう少し考える必要があるものの、作品の設置の方向性は少しずつ見えてきました。

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オープニングにパフォーマンスを行うニューヨーク在住アーティストのエーコさんも来場され、プロデューサーの早川さんやパイオニア・ワークスのリーダーのガブリエル、展示スタッフたちと意見を交わしながら、新しく壁面を作ることにしたり、作品を入れ替えてみたり・・・皆さんさまざまな意見が出てくるので、それを調整するのは難しいのですが、最終的にはキュレーターが決めなさい、と言われています。
誰かが発言するたびに結論が揺れ動くという優柔不断なキュレーター。それでも、多くの人の意見を聞いているうちに、次第に展示が見やすく、良くなってきたのは確かです。

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天井は3層部分まで吹き抜けで、まるで聖堂に展示しているようにも見えてきました。
あまりに広々とした空間なので、どこか物足りないような気もするけれど、奥に区分けされたスペースには、エーコさんが福島で撮影したパフォーマンスの写真も展示されています。

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小さなスペースながら広島・長崎の写真や焼けた瓦などのコーナーもあります。

13日のオープニングには、たくさんの若い人たちが来てくれるとのこと。
日本のテレビ局から取材の申請が来ているとも聞きました。
ともあれ、スタッフの皆さんが熱心に動いてくれるので、それが何よりありがたいです。

* * *

夜は、早川さんのお誘いで、リンカーン・センターで公演中のミュージカル“The King and I”に行きました。
今年、渡辺謙が主演を務めたことで話題になった舞台です(この日の主演はホーン・リー)。
トニー賞を受賞したケリー・オハラさんをはじめとする出演者の素晴らしい熱演は心に残るものでした。

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異なる文化的背景を持つ者同士の葛藤と相互理解というテーマは、「原爆の図展」のために渡米している今回、ひときわ胸に響きます。
《原爆の図》もまた、近代以後の課題であった東洋と西洋の融合から生まれてきた絵画であり、今なお、国境を超えてそれぞれの歴史観を語り合うための、重要な存在なのだと思います。
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