2015/9/27

班忠義監督上映会『太陽がほしい』  イベント

午後1時より、班忠義監督の20年に及ぶ取材をもとにした渾身のドキュメンタリー『太陽がほしい 「慰安婦」とよばれた中国女性たちの人生の記録』の上映会を行いました。

9月25日付『朝日新聞』埼玉版に報道されたこともあり、会場は廊下にも人があふれるほどの盛況。
http://www.asahi.com/articles/ASH9R7SGDH9RUTIL025.html

上映後には、班監督と岡村の対談も行いました。と言っても私の方は聞き役で、班監督の熱い思いを引き出す役割です。

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班監督は映画とともに書籍『声なき人たちに光を 旧軍人と中国人“慰安婦”の20年間の記録』(いのちのことば社、2015年)も刊行され、過酷な運命を強いられた女性たちの「その後」の人生を丹念にまとめて紹介されています。

丸木夫妻と同様に、歴史の記録からは消されてしまいがちな人びとの記憶をすくいとるという困難な仕事。
「今回の映画は日本で上映するための編集。もし中国で上映するならば、違った編集をしなければならないだろう」という班監督の言葉が印象に残りました。それほど両国にとって複雑なテーマを扱っているというわけです。
もっとも、班監督の狙いが、日本と中国の歴史観の対立を刺激するところにあるのではないことも、よくわかりました。国境で人を分かつのではなく、虐げられる立場のひとりひとりの人間の声を聞き、残そうという監督の気持ちが伝わってくるのです。

途中、休憩をはさむ2時間40分の長編は、それほどの時間を感じさせない濃密な映画でした。
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2015/9/24

広島テレビ放映ドキュメンタリ「原爆の図とアメリカ」  TV・ラジオ放送

2015年8月30日深夜放映の広島テレビのドキュメンタリ番組“WATCH 真相に迫る”は、「原爆の図とアメリカ〜絵は何を伝えたか〜」という内容でした。
広島地域限定の番組でしたが、半年がかりで《原爆の図》を追い続けていた渡辺由恵ディレクターの渾身のドキュメント。
国内のみならず、米国でも、渡辺さんには本当にお世話になりました。心から感謝です。
ようやくDVDが手もとに届いたので、資料として30分間の放映の内容を以下に書き出します。

=====

―オープニング映像・広島市街
ナレーション 2015年8月、117万人が暮らす広島です。70年前の8月、35万人の暮らしがありました。

―原爆の図第1部《幽霊》(部分)
ナレーション 何が起きたのか、本当のことは誰にも分かりませんでした。

―川面に重なる第3部《水》(部分)
ナレーション 水の都の豊かさ。水を求めて川に逃れ、ついに力尽きました。

ヨシダ・ヨシエ(美術評論家) ほかの土地に行くと、「こんな大げさな」、「こんなバカなこと」、「この絵はウソだ」……ところが広島に行くと逆なんです。「こんなもんじゃない」と。

―原爆の図第7部《竹やぶ》(部分)
ナレーション 絵の名前は、《原爆の図》。15の連作が作られました。

―原爆の図第5部《少年少女》
ナレーション 70年前、広島で見たもの、触れたもの、聞いたこと。

―丸木夫妻の写真
ナレーション 描き残さなければならない。絵筆をとったのは、夫婦です。

―丸木夫妻の制作風景写真
ナレーション 夫婦が決めたのは、人間を描くこと。
岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員) 体験をそのまま描く絵とは、ちょっと違う。今ここにいる私たちと絵がつながることが、《原爆の図》の凄く大きな力だと思うんです。

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―ワシントンD.C.アメリカン大学展の会場風景
ナレーション 絵は今年、アメリカへ渡りました。そこは、原爆を落とした国。

―会場で《原爆の図》を見る人びとの表情
女性の観客 痛みや恐怖や苦しみを作品から感じます。とにかく見るべき作品です。
アフリカ系の男性観客 作品の中の苦しむ日本人の姿を見て、人種差別で苦しむアフリカ系アメリカ人を思い起こしました。

―紙芝居の文章を推敲するアーサー・ビナードさん
ナレーション 絵に魅せられたアメリカ人がいます。《原爆の図》で紙芝居を作ります。

―広島市内の教会で《原爆の図》の紙芝居について説明するアーサー・ビナードさん
ビナード 《原爆の図》の前に立って観賞しようとすると、引きずり込まれる。鑑賞するんじゃなくて、巻き込まれる絵なんだ。

ナレーション 《原爆の図》は何を伝えてきたのか。《原爆の図》は何を伝えていくのか。

―アメリカン大学「原爆の図展」会場風景。
題字「原爆の図とアメリカ〜絵は何を伝えたか〜」

ナレーション アメリカと日本、二つの国で、もう一度《原爆の図》を見つめます。

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―原爆の図丸木美術館の遠景、続いて室内の風景
テロップ「報告 渡辺由恵」

ナレーション 埼玉県東松山市の丸木美術館。冬場は訪れる人も少なく、館内はひっそりとしています。

―事務室内にて
岡村 8月の6日から15日にかけては100人以上は来ますね。多いときだと200人を超えて。まあ、冬は2人とか3人だったりするので、そうですね、すごい違いますよね。

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―晩年の丸木夫妻の写真
ナレーション 美術館を建てたのは、夫婦です。水墨画家・丸木位里と、妻で油彩画家の丸木俊。

―丸木美術館開館当時の二人の写真
ナレーション 原爆の図を描いた夫婦が、作品を展示するため、私財を投じました。

―原爆投下直後、焼け跡の広島の風景
ナレーション 70年前、一発の原子爆弾が、二人の運命を変えました。広島出身の位里は、「新型爆弾投下」の一報に、東京から救助に駆けつけました。妻の俊も後を追い、およそ一ヵ月、広島の惨状を目の当たりにしたのです。

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―原爆の図第1部《幽霊》1950年
ナレーション 被爆の後遺症に苦しみながら完成させた《原爆の図》。第1部は《幽霊》と名づけました。服は焼け、体はただれ、その裸体が折り重なります。呆然と見つめあうのは、姉妹。もだえ苦しむ人々の姿が、8枚一組の絵を埋め尽くします。
岡村 見る人とほぼ等身大の人間が、繰り返し描かれるということは、観る人が画面の中に入り込んでいく、自分も1945年8月の広島に、今、いるんだという錯覚を起こすような、そういう画面を意識して作っていたと思うんですね。

―事務室で、1950年代巡回展の資料ファイルを取り出す岡村
ナレーション 《原爆の図》が、人びとの目に留まるきっかけは巡回展でした。その記録が、7年前に見つかりました。

―ガリ版刷り「原爆の図三部作展覧会記録」
ナレーション 初公開は、1950年の東京です。第1部《幽霊》は、「八月六日」と名前を変えていました。

―占領軍の映像
ナレーション 占領軍の統制化、《原爆の図》は厳しい検閲の対象でした。

―文化ニュース『芸術は愉し』(協力:東京国立近代美術館フィルムセンター)
ナレーション 二人の活動を伝える当時のニュース映画にも、「原爆」という言葉は出てきません。あの日、広島で見た人間を描く。二人は筆を止めませんでした。

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―原爆の図第2部《火》1950年
ナレーション こうして描き上げたのが、原爆の図三部作です。第2部《火》。人々を紅蓮の炎が包みます。広島を焼き尽くした炎。これが丸木位里と俊の広島です。

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―原爆の図第3部《水》1950年
ナレーション 第3部は、《水》。炎に焼かれ、炎を逃れて、人びとは水を求めました。こと切れた我が子を抱く母親。

―映画『原爆の図』(監督 今井正・青山通春)
ナレーション 二人が描く惨状は、人間の痛みそのものでした。作品は当時、検閲から逃れようと、巻物にして運びました。記録映画に残るひとコマです。会場で絵を広げ、展示しました。大きな作品が、人びとに迫ります。

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―車椅子で丸木美術館を訪れるヨシダ・ヨシエさん
ナレーション 美術評論家のヨシダ・ヨシエさん。反応は様々だったと言います。

ヨシダ 一般の人は、「これは大げさだ」。広島・長崎の人は、「こんなもんじゃない」。そのギャップが大きかった。泣き出した人もいました。《原爆の図》で初めて日本人が原爆の被害を知ったんじゃないですか。

―1951年京都綜合原爆展の資料
ナレーション 占領下ではじまった新しい動き。主役は、京都大学の学生たちです。原爆とは何か、手書きパネルと《原爆の図》で、綜合原爆展を開きました。それは、世界で初めて明らかにされた被爆の実相でした。

―京都市北区にて川合良一さん(85歳)、小畑哲雄さん(88歳)
ナレーション デパートで開いた原爆展は、10日間で3万人を集めました。川合さんと小畑さんは当時、京大生として原爆展に関わりました。
小畑 夏休みに入ると子どもたちがダーッと来てくれたんです。やっぱりね、先生たちが協力をしてくれたんですね。
小畑 これは何とかしないといかんという思いに動かされた。

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―当時の会場写真
渡辺 会場、人でいっぱいですね。
小畑 そうですね。確か、冷房なかったな。
川合 あったけど効かなかったよ。
小畑 物凄い暑かった。
川合 全然効かなかった。

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―東京都内など各地で行われた原爆展の写真
ナレーション 運動は、各地の大学に受け継がれました。

―井の頭公園・平山博物館での展覧会写真(撮影・西岡洋氏)
ナレーション 3年で全国125か所。GHQによる統制の中、被爆の実態は市民の力で伝わっていきました。

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―映画『原爆の図』(1953年)より、丸木夫妻の共同制作の映像
ナレーション 丸木夫妻も次々と連作を発表していきます。

―原爆の図第6部《原子野》1952年

―原爆の図第8部《救出》1954年

―広島市中心部を歩くアーサー・ビナードさん
ナレーション
 原爆の図にもっと触れてほしいと模索する人がいます。アメリカ人の詩人アーサー・ビナードさんです。

―桑の実を食べる幼児たちと引率の女性のもとに歩み寄るアーサー・ビナードさん
ビナード 美味しいね、桑の実。
引率の女性 桑の実!
ビナード ぼくのアメリカのミシガン州のおばあちゃんの家にこの気があって、いつもこの時期になるとぼくも顔が紫で。
引率の女性 アメリカにもあるんだって。
ビナード そうそう。mulberryと言って。
ナレーション 1990年に来日したビナードさんは、4年前広島に移り住みました。

―絵本『さがしています』アーサー・ビナード作 2011年
ナレーション そして、発表した作品が『さがしています』。時計や靴、被爆遺品が語り部となって、広島の失われた暮らしを描きます。
ビナード どうやって、次に自分たちが原爆を使われない世界を作るか、そこに大きな意味があるんです。どう伝えたらみんなに響くか、ということを考える。

―東京都文京区・童心社、階段を上るアーサー・ビナードさん、編集部の一室で推敲を重ねる
ナレーション 来日して出会った《原爆の図》の迫力に圧倒され、紙芝居を作ることにしました。絵の一部を使って、物語を作ります。
ビナード 《原爆の図》は原爆を描いているんじゃなくて人間を描いている。でもそこに、ピカとは何かという本質も、見事に表現されている。ぼくが表現者としてやらなければいけない仕事も、成し遂げたいことも一緒だなっていう。

―紙芝居を舞台にセットする永牟田律子さん(童心社編集部)
ナレーション
 《原爆の図》に受けた衝撃。しかし、紙芝居にするには、次々と壁が立ちふさがります。
永牟田 紙芝居の絵って、瞬時に何を言おうとしているかが、文字とかが書いてなくて、絵でパッと思って、そこで言葉と重なって、より広がるってことなんだと思うんですけど、元々ある絵はそのためにやってないから、いろんな情報が入っているんですよね。
ビナード 文章も分かりにくいよね。初めてその話を聞く子どもにとってはね。

―ひとり、紙芝居に向き合うアーサー・ビナードさん
ビナード
 登れば登るほど頂上が遠ざかっていく。

―岡山県玉野市
ナレーション この日は、初めて親子の前で演じます。
ビナード やわらかい肌。絵、丸木俊、丸木位里。脚本、アーサー・ビナード……
ナレーション 絵と物語がつながるか、反応を見る絶好のチャンスです。

―紙芝居を見せるアーサー・ビナードさん
ビナード ピカーっと、一瞬の熱が、私たちに刺さってきた。肌がふくれる。肌がめくれる。肌がはがれる……
ナレーション やわらかな細胞が、原爆によって壊されていく物語。戦争がもたらすものを問いかけます。
ビナード 戦争って何って、大人もよくわかってないんだよね。でもみんなでそのことについて考えて……

―会場拍手
参加した男性 考えきれていないのかなっていうのがあったんで。ちゃんと考えなきゃなって。
参加した女性 ちょっと難しかったかなという。(娘が)なかなか見てくれなかったから、残念。
ナレーション 紙芝居を手がけて三年目の夏。兵器としての核。平和利用としての原子力エネルギー。そして、広島の願い。問いかけたい思いです。

(CM)

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―アメリカ・ワシントンD.C.、アメリカン大学美術館外観
ナレーション アメリカの首都ワシントン。原爆の図は、郊外にあるアメリカン大学美術館にありました。

―会場にて展示作業、照明の設定
ナレーション 原爆の図と、原爆資料館の資料や写真を展示する「ヒロシマナガサキ原爆展」の開催が実現したのです。
岡村 この《原爆の図》っていうもの自体が、原爆を賛美する、正当化するアメリカへのカウンターだと思うんですよ。人間の同じ立場として原爆について想像力を深めていくということができると思いますし、逆に広島長崎の原爆展の方は、想像力の先の原爆の知識を補完していくという。

―会場を訪れたピーター・カズニックさん(アメリカン大学歴史学教授)、握手をして挨拶
カズニック (原爆の図は)人間の真実を描いていると思いました。広島と長崎では、人びとが地獄の中を歩いたという感覚を呼び起こします。裸の人びとがゆっくりと地獄の中を歩く、まさしく地獄でした。

―《原爆の図》展示会場内を歩く山本定男さん(84歳)
ナレーション 展示会には、広島の被爆者も招かれました。14歳だったあの日、爆心地から2.5kmで被爆した山本定男さん。初めて見る《原爆の図》です。
山本 まさに、原爆による惨状をそのまま描いとるわけね。強いメッセージだと思うよ。……よく描いたねえ、これ。

―ワシントンD.C.中心部の雑踏
ナレーション 原爆の投下から70年。アメリカを今も支配する考えがあります。核による抑止力です。
街の人の声 (核兵器は)世界平和に貢献している。悪いことではないと思う。
質問 核兵器は基本的に反対ですか?
街の男性 もちろんです。でも止めることはできないと思う。ある国が持てば、別の国も持ちたがるでしょう。

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―1970〜71年原爆の図展の写真
ナレーション 《原爆の図》が初めてアメリカで展示されたのは1970年です。原爆を落とした国で開く展示に、反応は冷ややかでした。

―ニューヨークタイムズ紙1970年10月22日展評
ナレーション ニューヨークタイムズは、「これは程度の悪い美術品よりも、もっと悪い」と酷評します。

―ワシントンD.C.郊外のスミソニアン国立航空宇宙博物館別館
ナレーション アメリカの世論。20年前には、エノラ・ゲイの展示に合わせた原爆展が、退役軍人などの猛烈な反対で中止に追い込まれました。

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―銀色に輝くB-29エノラ・ゲイ
ナレーション エノラ・ゲイは、論争の舞台となった国の博物館に、今も展示されています。

―エノラ・ゲイに近づいて写真を撮る山本さん
ナレーション 山本さんは、自分の目で確かめたいと思ってきました。
山本 私はこれを9600mの下から見てたんです。
坂本美穂子(広島平和記念資料館) 見えたんです?
山本 見た見た見た。

―エノラ・ゲイについての説明案内板
ナレーション 原爆を投下した事実が説明版に記されていました。ここには、キノコ雲の下にいた人びとの姿はありません。
山本 これがどういう結果をもたらしたか、アメリカにももっと知ってもらいたいという気がしますね。ここに展示してある以上はね。

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―6月13日アメリカン大学美術館「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」
ナレーション
 迎えた原爆展の初日。来館者は1000人を数えました。原爆の図に描かれた、人間の姿に見入ります。原爆の実相を間近に見ます。
初老の男性 アメリカでこのような作品が見られることを誇りに思います。アメリカ人にとってはつらい絵でもありますが人間性を感じます。
中年の女性 今また世界中が戦争の脅威にさらされているだけに、作品はとても重要なメッセージになるわね。

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―原爆の図 第13部《米兵捕虜の死》1971年
ナレーション 原爆の図第13部《米兵捕虜の死》。捕虜として広島城近くに収容されていた12人のアメリカ人捕虜が被爆死しました。それは、アメリカ政府が38年間認めなかった事実。

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―絵の前に立ち、説明文を読む男性の老人
ナレーション 会場で説明書きを食い入るように見つめる老人がいました。
老人 これは私だったかもしれん。
ナレーション 老人は、94歳の退役軍人。1945年には、日本攻撃の拠点テニアン島にいました。原爆に命を奪われた仲間。自分だったかもしれないという思い。

―絵の前に座り込み、頭を抱える老人
ナレーション 70年前の出来事が心を揺さぶりました。

―原爆展2日目、再び会場を訪れる老人
ナレーション オープニングの翌日、人もまばらになった会場に、あの老人が姿を見せました。

―ピーター・カズニックさんと語り合う老人
カズニック
 また見に来て下さって嬉しいです。
老人 記録をするためにカメラを持って来たんだ。これを忘れないためにね。
ナレーション 70年を経て、写真に収める同僚の死。
質問 あなかにとって戦争とは何でしたか?
老人 戦争が何だったかって? そりゃあ悲惨な出来事さ。必要ないものさ。

(CM)

―広島市中区の教会、再び紙芝居を演じるアーサー・ビナードさん
ナレーション 8月、ビナードさんの紙芝居作りは、丸3年を迎えました。
ビナード やわらかいはだ……ニンゲンっていうのは、ずいぶん、やわらかいいきものですね。
ナレーション 物語の主人公は、小さな女の子から猫に変わりました。絵も、背景や色を変えました。どうすれば原爆の図は伝わるのか、試行錯誤を重ねました。
ビナード ……1945年8月6日の朝も、市場をぐるりとまわってから、私は庭の涼しい木陰で休んでいました。ピカァァァッという光。ピカァァァァァッという熱。ピカァァァァァァァッという放射線。みんなの体の中にまで入り込んで、その瞬間から、ちっちゃいサイボウを壊しはじめたのです。

ナレーション 《原爆の図》は、決して、あの日だけの記録ではない。あの日から今に続く絵。小さな紙芝居が語りかけていました。
ビナード 紙芝居として、本当にみんなに響く作品になったら、今度は紙芝居の奥にある大きな本物にみんながつながっていけるかなという気がします。だから、《原爆の図》が続くために、僕はどんなことでもしようと思っています。

―夕暮れのアメリカン大学展覧会場、涙を流して絵を見る女性
ナレーション 《原爆の図》、それは伝言のように、人から人へと伝えられ、人から人へと広がりました。それは、伝えなければならない人間の姿。

―広島市現代美術館にて、《原爆―ひろしまの図》(1973年)修復の光景
ナレーション 広島でも、後世に伝える取り組みがはじまりました。原爆の図の集大成と言われる《ひろしまの図》の修復です。

―再び、《原爆の図》展示風景
ナレーション 広島を見てしまった者は、それを描き残す以外になかった。そう語った丸木夫妻。《原爆の図》が呼びかけてきたもの。《原爆の図》が、これからも呼びかけ続けるもの。それが、原爆に焼かれた人間です。

《了》
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2015/9/24

小川高校沖縄戦出張授業  講演・発表

午後から、地元の県立小川高校への出張授業。
去年に引き続き、町民会館のホール貸切で200人ほどの学生に沖縄戦についての話をするという企画です。

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修学旅行で沖縄に行くための事前学習とのことですが、残念ながら佐喜眞美術館へは行かないというので、まず《沖縄戦の図》の紹介から入り、沖縄戦の歴史的背景や地上戦で起きた出来事、なぜ今私たちは70年前の戦争を学ぶのか、という話をしました。

学生たちはとても熱心に話を聞いてくれました。
沖縄への修学旅行が、少しでも実りの多いものになると嬉しいですね。
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2015/9/19

「没後20年丸木位里展」など  企画展

本日から、「没後20年丸木位里展」がはじまりました(11月14日まで)。
安保法案をめぐって社会が大きく揺れ動く毎日。35年前の丸木位里の言葉を紹介します。

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 「防衛問題」とか「国を守る」とかいう言い方で、戦争の話がちらちらし始めてきた。選挙運動でも、いろいろな理屈をつけて、軍備の拡張を容認しかねないようなことを言っている者もいた。

 あれこれ理屈をつける必要はないんです。戦争くらいバカバカしいものはない。戦争にならない方向の政府ができなきゃあいかん。このことを有権者のひとりひとりが、はっきり主張する、というつもりで投票すべきでしょう。

 局地的な紛争ならいざ知らず、大国と大国が本気で戦争を始めたら、日本の軍備なんて問題じゃない。みんな巻き添えをくうだけ。「自分の国を自分で守る」といえば、何やら聞こえはいいが、まどわされちゃいかんのです。アメリカのお先棒をかついで、ちょっと生活が良くなったかどうか、というくらいで、「日本が大国になった」なんて錯覚ですよ。こんな錯覚は捨てなきゃならん。日本は大国である必要もないし、大国にならん方がいい。

 「戦争というのも、場合によっては仕方がない」という者がいる。次には「戦争になるんなら、負けるのはいかん」と考える者が出てくる。こうなっちゃうと、日本人はおっちょこちょいのところがあって、ふだんはまともなことを言っているようでも「いっちょういこうか」みたいになって、戦争に走ってしまうようなところがある。困ったことにムードに流されることが多いんですね。

 ひとりひとりをとってみれば、戦争が好きな者などいないでしょう。ところが、世の中に戦争は絶えない。世の中がキナ臭くなると、「戦争でもありゃあ、何か懐が温かくなりゃあせんか」と思う者が出るようになってくる。資本家だけじゃないんですよ。国民全体がそう思うようになってくる。そうなってしまうと、もう始末におえない。だが、国民がしっかりしてさえおれば、そんな手には絶対乗らないはずだ、と思いますね。


――丸木位里「戦争にならないように主張」1980年6月20日付『朝日新聞』より

   *   *   *

2階のアートスペースでは、「大塚直人★万年山えつ子2人展」もはじまりました。
午後2時からはオープニングパーティも行われ、和太鼓演奏や金子みすゞの詩の朗読、紙芝居など、秋の穏やかな日差しのもとで、大勢の人たちが楽しい時間を過ごしました。

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こちらの展覧会も、11月14日までとなっています。
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2015/9/17

映画『FOUJITA』試写会/「ディン・Q・レ展」など  他館企画など

午前中から、小栗康平監督の映画『FOUJITA』の試写会のため都内へ。
画家・藤田嗣治の生涯を、パリ時代と戦時下の日本という二つの舞台から、圧倒的な映像美によって描く作品です。

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試写室では、偶然、女優の斉藤とも子さんとお会いしました。
聞けば、とも子さんも本橋成一さんといっしょに、映画のあるシーンに出演されているとのこと。もっとも、言われなければ、まったく気づかないようなシーンでした。

映画の感想を言うのは、正直なところ、なかなか難しいです。
映像は、最初のシーンから素晴らしく美しい。ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督の映画『ピロスマニ』の影響を受けたというのはよく分かります。

しかし、存在そのものが寓話的なピロスマニと、生々しさを避けがたい藤田嗣治との違いが、映画への違和感に繋がるのでしょう。

美術史考証に基づいた「決戦美術展」の会場の再現は非常に興味深いし、近代のもたらした社会矛盾に疑問を投げかけるような場面もあるのですが、藤田自身の内面の矛盾や葛藤には深入りせず、最後まで美しい絵画のように、映画は静かに終わっていきます。

小栗監督は、おそらくあえて踏み込むことを選ばなかったのでしょう。
その点が、映画の評価の分かれるところかもしれません。

試写室を出ながら、とも子さんと「何だか狐につままれたような・・・」と声を揃えて、思わず笑ってしまいました。

   *   *   *

映画の後は、新宿書房で書籍についての打ち合わせ。
午後からは森美術館で開催中のベトナムのアーティスト「ディン・Q・レ展」を観ました。

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ベトナム戦争における人びとの重苦しい記憶を題材にした彼のスケールの大きな作品は、一見の価値あり。
とりわけ、ヘリコプターという象徴的なイメージを軸にして多様な人びとの記憶を引き出す映像とともに、独自開発によって作られたヘリコプターそのものの存在感を見せるインスタレーション作品《農民とヘリコプター》(2006年)には圧倒されます。

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ベトナム戦争従軍画家たちの100点の絵画を集めた《光と信念:ベトナム戦争の日々のスケッチ》なども興味深い展示でした。
語られる機会の少ない記憶を、アートによって多くの人びとに伝え、さらなる記憶に残していくというディン・Q・レの仕事は、丸木夫妻の《原爆の図》をはじめ、原爆を表現した芸術作品の数々ともつながる重要な仕事だと思います。

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六本木からの帰り道には、歴史的な転換点を迎えようとしている国会議事堂前に足を運びました。
ちょうど参議院特別委員会で安保法案が可決されたという時間帯。
こちらもまた、記憶に刻まれるべき人びとの、傘の群れです。
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2015/9/16

近刊のご案内『原爆の図 全国巡回――占領下、100万人が観た!』  書籍

8月末刊行を目ざしていながら、今夏の忙しさに大幅に遅れていた新著が、ようやく刊行の目途が立ちましたのでご紹介いたします。

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『原爆の図 全国巡回――占領下、100万人が観た!』
岡村幸宣著(原爆の図丸木美術館学芸員)
装幀=鈴木一誌+山川昌悟 四六判上製 312頁 本体価格2400円(予価)
2015年10月25日刊行予定

◎事前注文を承ります。 特典DVD映画『原爆の図』(1953年、17分、今井正・青山通春監督)
本書が出来次第、本+DVDをお送りします。代金は同封の振込用紙でお支払いください。
ご注文は新宿書房へ FAX03−3262-3393 メールinfo@shinjuku-shobo.co.jp


占領軍が日本の政治、経済、生活、教育文化のすべてを支配していた時代。
1950年2月、丸木位里・赤松俊子(丸木俊)夫妻の手から最初の《原爆の図》が産まれた。
「原爆」という言葉を使うことすら許されないこの時期に、夫妻によってはじまった巡回展は、北海道、新潟から東京周辺へとつづく。そして《原爆の図》を背負った二人の青年によってさらに西日本各地へと、燎原の火のように広がっていく。
本書によって、1950年から53年まで展開された《原爆の図》全国巡回展の知られざる実態が、関係者への取材と丹念な資料集めから、ここに明かされる。
全国巡回の迫真のドキュメント。


申込書はこちらからダウンロードできます。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/NgenbakuOL.pdf

今年の夏、《原爆の図》の展示のために日本とアメリカを何度も往復する日々のなかで、身を削る思いでまとめました。
これまで伝説的に語られていた1950年代はじめの「原爆の図全国巡回展」の実態を、個別具体的な資料調査によって、明らかにする内容です。

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1950年代は、「大衆に学べ」という合言葉が生まれ、芸術家(芸術文化の創造者)と大衆(その受け手)という関係が見直されて、どちらも同じ位置に立って向かいあう対等な関係が芽生えはじめた時代です。
そうしたダイナミックな変化は、現在のインターネットの発達がもたらした情報やネットワーク構築の変化と重なる部分があるかもしれません。

当時の文化運動は政治との距離の「近さ」が特徴でしたが、ときに逸脱し、あるいは一線を画して展開されることもありました。
要するに、担い手それぞれの思いはさまざまで、「政治」も「大衆」もひとくくりにできるものではなかったのです。
そして「原爆の図展」は、それら同時代の文化運動と深く結びつきながら、野火のように広がっていきました。

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もっとも、運動はやがて衰退を迎えます。
1950年代の文化運動が長く忘却の淵にあったように、占領下の「原爆の図展」も、現在、一般に知られているとは言い難いところです。

先入観による党派的な偏見も、再評価を妨げる要因になったことでしょう。
当時の巡回展を担った関係者に聞き取りをした際、重い口を開いて、今まで話せずにいたことをようやく話せる、とつぶやく人もいました。
その言葉の裏に込められた沈黙の歳月の長さは、想像の及ぶものではありません。
巡回展を観客として見たという証言を電話で聞いた際にも、受話器の向こうで、今まさに《原爆の図》を目の前で見ているように語る方がいました。
涙ぐみながら絵から受けた感動を語る方もいました。
そうした人びとの「熱さ」に圧倒されながら、60年という歳月を越えて、なお人の心に残り続ける《原爆の図》の意味を考えずにはいられませんでした。

丸木夫妻は《原爆の図》を「大衆が描かせた絵画」と語りました。
その言葉には、多分に1950年代の政治的な感傷が込められているとは思います。
しかし、調査を進めるうちに、期せずして、その言葉を何度も思い起こすことになったのも確かだったのです。

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米軍占領下の困難な時代に、《原爆の図》の巡回展がどのように行われたのか。
どのような人たちに、どのような思いを残したのか。
「大衆」をひとくくりにできないように、「原爆の図展」にかかわった人たちの思いもまた、ひとつに束ねることはできません。
これらの思いを記録し、伝え残したい。本書を書いたのは、その一念でした。

そして、1950年代の原爆の図巡回展の歴史的な実態に迫ることは、原爆の図研究の先駆者であるヨシダ・ヨシエさんや小沢節子さんの積み重ねてきた仕事に、ささやかながら新たな1頁を付け加えることでもあり、《原爆の図》という絵画のはたらきを通して、1950年代の文化運動研究への水路を開くことにもなると信じています。

ぜひ、多くの方にお読みいただき、《原爆の図》への新たな視点を発見していただければと思っています。
当時の貴重な記録映画のDVDという特典があるので、事前予約がお勧めです。
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2015/9/13

企画展「没後20年丸木位里展」展示替え  企画展

土曜日の夜に帰国して、日曜日は朝から企画展の撤去・展示作業。
好評だった「福島菊次郎写真展」や「知られざる原爆の図」展を片づけ、9月19日からはじまる「没後20年丸木位里展」へ、館内の作品を大幅に動かしました。

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いつものように、ボランティアの皆さんが大活躍です。
大きくて重い絵をたくさん運んでくれて、本当にありがたい。

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今回の展示では、できるだけ大作を出してみたので、位里さんの水墨画のスケールの大きさがよく伝わると思います。

このところ、《原爆の図》の共同制作の意味を考えることが多かったので、位里さんの墨のもたらす効果がいかに画面を深いものにしているか、あらためて目の当たりにして、心を打たれました。
屏風を開くたびに「うーん、やっぱり位里さんの絵は凄い!」と、みんなで唸りながらの展示でした。

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久しぶりに、とてもシンプルな企画展示室。しかし、奥行きは濃厚です。
展覧会は11月14日まで。見応え、あります。
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2015/9/10

【米国出張D】ボストン大学アートギャラリー「原爆の図展」レセプション  講演・発表

ボストン大学アートギャラリーBoston University art gallery「原爆の図展」が、無事に開幕の日を迎えました。
会場には、《原爆の図》6点がきれいにならび、広島市・長崎市の資料も、隣接するミニギャラリーや第2部《火》の後ろ側に展示されています。

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午後6時からはじまったレセプションでは、Management DirectorのJosha Bucknoが開会の挨拶を行い、続いて展覧会のプロデューサーである早川与志子さんが、このアメリカ展を実現するまでの道のりと《原爆の図》への思いを語りました。

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続いて、スライド画像を投影しながら、岡村が30分ほど《原爆の図》についての発表をしました。英語の発表は初めての体験でしたが、はじめに率直にそのことを伝えると、会場の皆さんが優しく拍手をして下さって、落ち着くことができました。

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発表の要点は3つ。第1に、二人の異なる性質の画家の共同制作がどのように行われたのかということ。第2に、東洋と西洋の絵画表現の融合について。第3に、公式な歴史の記録には残されない被爆者たちの記憶を、現代の「民話」のように描いたことの意味について。

最初にスライドが写らなかったり、後半、手元の原稿の一部がなくなってしまったり、ちょっとしたハプニングも起こったものの、混乱せず、最後まで落ち着いて話すことができたので、初めての英語の発表としては、まあ良かったのではないでしょうか。発表が終わった後の大きな拍手は、忘れられない思い出になりそうです。

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あいにくの雨模様、平日の夕方で、学生たちも新学期がはじまったばかりと、あまり条件は良くなかったのですが、Joshaによれば、レセプションの参加者は約100人とのこと。
ボストン美術館の日本美術課のスタッフたちや、先日まで開催されていた「3.11」の企画展のキュレーターAnne Havingaさんも来てくれました。1988年にマサチューセッツ芸術大学で「原爆の図展」を見た、という方も駆けつけてくれました。

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発表の内容は、おかげさまで好評で、会場でたくさんの人に声をかけられました。ただ絵を見るだけではわからない技法的な裏付けについて、興味を持ってくれた人が多かったようです。
ギャラリーのアシスタントで、博士課程のAlexは、この展覧会のためにずいぶん丸木夫妻のことを調査してくれたようですが、「今日初めて知ったことが多かった。共同制作の過程はとても興味深いし、民話としての絵画の意味に感銘を受けた」と丁寧に感想を話してくれました。

アメリカン大学のときのように、退役軍人が会場にあらわれて日本のメディアに囲まれて騒然となるような「事件」もなく、落ち着いた雰囲気で絵と向き合っている人びとの姿が印象的でした。

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レセプションの後で、Joshaは「ボストンはリベラルな街だから、原爆投下を正しいと主張する人が抗議に来ることはないだろうし、若い人たちの意識は大きく変わっている。世界はどんどん狭くなっているしね」と話してくれました。
これから約5週間のあいだ、《原爆の図》はこの静かな街で、多くの人に人間としての想像力の種を撒き続けていくのでしょう。

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以下に、発表の内容を(英文ですが)報告します。
発表のまとめに多大なアドバイスをくれた上、連日練習につきあってくれたボストン在住のJohn Kochvarさん、そして早川さん・冨岡さんのご夫妻に、心から感謝。
ボストンの展覧会は10月18日まで続きます。

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The atomic bomb dropped on Hiroshima, killed or wounded more than 100,000 people.
Following the bombing, the symbol of the mushroom cloud was the most common image of Hiroshima in the West.
In Japan, for several years, there were very, very few images of what actually happened on the ground.

Japan surrendered and was occupied.
When the occupation began, reporting on the damage done by the bombs was forbidden.
It was also forbidden to distribute any photos of the survivors.

Iri and Toshi Maruki witnessed the devastation of the bomb first hand.
In 1948 they decided to collaborate on a set of panels showing the effects of the bomb on the people of Hiroshima.

The first of the Hiroshima Panels was created during the occupation. 
The Hiroshima Panels consist of 15 separate panels of which 6 have been brought to this exhibition.

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During the early 1950s, the Hiroshima Panels were displayed in about 200 places within Japan.
Later they were shown in travelling exhibitions in 25 countries in Asia, Europe, Africa, Australia, and America.

The mushroom cloud was a simple and abstract image of the bomb.
The panels showed close up the horror of the effects on a civilian population.
The panels helped people understand the tragedy of war and contributed to efforts to establish a more peaceful world order.

The panels are historically important.
But today I want to focus on the artistic characteristics of the panels.

I want to bring your attention to three unique aspects of the panels.
First, they were a collaboration between two very different artists.
Second, they show a fusion of Eastern and Western styles of art which were unusual at the time.
Third, they represent what the Maruki’s learned from interviewing survivors.
Some of the panels are historically controversial.
I will tell you their feelings about the folklore of the Hiroshima bombing and the truth of art.

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During the war many artists collaborated on propaganda.
After the war there were continuing collaborations on works supporting the labor movement.
So, collaboration was not unusual.

But the Maruki’s were very different artists with different training and points of view.
It is still difficult for me to understand how such strong individuals could collaborate.

Iri Maruki used brush and ink on paper, the traditional materials of Japanese art.
But, he was interested in Western Avant Garde art.
He was interested in surrealism.

Iri created abstract paintings often depicting water and clouds.
They were experimental, something no one had tried before in Japan.

Toshi Maruki, had studied oil painting at a women’s art school.
She traveled alone through Micronesia, following in the footsteps of Gauguin.
Toshi was a good observer, skilled at figure painting.
She had a unique style of strong, free lines.

All their skills and interests seemed to be the opposite.
Eastern versus Western art forms. Avant Garde versus traditional.
Abstract landscape versus figure painting. Japanese ink painting versus oil painting.

They ended up painting on paper.
Toshi used ink and water colors instead of oil paint.
Her lines capture the confusion and shock of the victims.
Some people say the bodies remind them of Michelangelo’s paintings.
Iri used Japanese ink.

Iri sometimes found Toshi’s sharp lines too expository, and so, … he poured ink over the figures.
He wanted to soften the lines.

Iri once said, “Paintings do not always need to be drawn. There is nothing wrong with letting ink flow across them.”

The Japanese ink Iri used was very watery, so it spread far across the paper.
He believed that the unpredictable, nature of this style was part of its artistic value.

Iri sometimes applied ink in a way he called “Decalcomania,” which he said he learned from the Western surrealists.
This does not seem to be what you call decalcomania in the West.
This was in 1950. Art critics called it “Action Painting.”
Maybe Iri was one of the first action painters.

Iri’s use of ink turned the canvas black.
At first, Toshi was upset by this.

A curious thing happened. Japanese ink dries very quickly. When the ink dried, the people she had painted seemed to float to the surface.
She was surprised and impressed.

After a while, Toshi felt unsatisfied.
All her figures were in black clouds.
So, she added dark lines to outline her figures more clearly.

When Toshi made the outlines stronger, Iri responded by pouring more ink over the surface of the painting.
The ink’s black color adds depth.
It seems to expand the world around the outside of the painting.
I tried to imagine the tension between these two collaborating individuals.
What is it that enabled them to collaborate so successfully?

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Let me talk for a few minutes about the fusion of Eastern and Western art in the panels.
Western artistic techniques were well known in Japan, and some Japanese artists created most, or all of their art following Western examples.
Others did only Japanese art.
The panels are unusual because they combine both Eastern and Western styles.

The memorable red flames in the second panel, “Fire,” are used in traditional Eastern paintings of hell.
You can see these flames in museums in Japan on painted handscrolls we call Emaki-mono.
In this panel we see a figure drawn like Michelangelo burning in traditional Eastern flames.

This was painted in 1950.
In it, you see traditional figurative painting and painting of the Buddhist flames of hell and avant garde abstract ink wash.
It may not seem unique now, but it was then.

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Now I want to talk about controversial aspects of the panels.
Among the paintings we have chosen for this exhibition are #13 “The Death of American Prisoners of War,” and #14 “Crows,”
These two works still cause a great deal of controversy in Japan.

American prisoners of war in Hiroshima were killed and injured by the atomic blast.
The surviving injured prisoners were turned loose by their jailors, and assaulted and killed by Japanese civilians.
There were persistent rumors that some of the prisoners were women.

Maruki’s interviewed Japanese survivors in 1971 who said they saw women among the prisoners.
There are no official records of female prisoners.

It is estimated that 20,000 Korean conscripts were killed in the bombing of Hiroshima and Nagasaki.
Many people reported that the Korean injured were not helped by the Japanese.
Their bodies were left to the crows.
Some Japanese say it did not happen. Others do not want it to be remembered.

There is often no concrete proof of what happened during atrocities.
But the stories told by witnesses are often passed on to others.
These stories may only be folklore, but the Maruki’s felt these stories should be part of panels.

Maybe the eye witnesses mistook the young white men they saw, for women.
Maybe, as John Dower, the historian, says, the women were spirits of the wives and mothers of the young prisoners.

The Maruki’s witnessed the aftermath of Hiroshima and listened to the stories of the victims.
In my opinion, the panels have a special status as art, and sometimes art is more important than the facts.

The memories of the ordinary people are often excluded from the official record.
Maybe there were no women among the American prisoners of war.
Maybe the bodies of Koreans were not abandoned for the crows.

But these rumors existed in Hiroshima and Nagasaki, and they were part of the memories of the bombings.

These stories are a narrative of the ordinary people, and continue to be told as parables that may transcend the literal truth. Let us call them folklore.

The female prisoners and the crows are powerful images.
There probably were American prisoners killed by the Japanese civilians, and there probably were Korean bodies left to the crows.

By incorporating the more vivid folklore memories into their paintings, the Maruki’s saved stories that would have disappeared.
And, they saved the memory of victims who would have been forgotten.

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I want to make a few concluding remarks.
The panels tell a terrible story.
The Mariki’s wanted to tell the story of the victims.
They wanted to influence viewers to think about peace.

Unfortunately, I am not filled with some easy, optimistic hope for greater understanding that will lead to the disappearance of nuclear weapons.
The real world is too complicated for that.

When you look at these panels repeatedly, they strip away your preconceptions.
They make us forget our nation…
Our politics…
You see here only people. You see nothing more than human beings.

Iri died at the age of 94.
Toshi died at the age of 87.
I don’t know if they were optimistic.
But they left us a great work of art.

Art can show the truth.
It is a tool that can help us develop our imaginations.
It is a seed that can grow into a new world view.
The seed may be small, but it can be the beginning of everything.

― Presentation by Yukinori Okamura, September 10, 2015 at Boston University Gallery of art
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2015/9/8

【米国出張C】ボストン大学アートギャラリー「原爆の図展」準備(2)  調査・旅行・出張

連休が明けて、ボストン大学アートギャラリーへ行くと、大通り沿いに立派なポスターが貼ってありました。鮮やかな黄色が、とてもよく目立ちます。

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今回は第10部《署名》が展覧会を代表するイメージとして使われています。
《署名》が使われることは、これまであまり例がないので、少し新鮮な気もしました。
この作品は、もともと海外巡回を意識して描かれました。
ちょっとオリエンタルな雰囲気が、ボストンの人たちの関心を集めるかもしれません。

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午前中は運送業者が来て、空になった木箱を会場から搬出しました。

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その後、会場の照明の最終調整。直射日光が入りこんできていたアメリカン大学に比べると、しっかり画面に照明を当てることができて、落ち着いて絵を見ることができます。

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さらに白い壁に、切り文字で丸木夫妻のプロフィールや二人の言葉を貼っていきます。

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よく見ると、赤い光線が白い壁に当たっているのがわかるでしょうか。
高さを一定にするための調節機で、レーザーで当てているのです。

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職員のJoshaとLynne、アルバイトの学生たちが、繊細な作業を丁寧に進めてくれました。

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アメリカン大学展は文字が小さいと不評でしたが、その反省を生かして、ボストン展では、ずいぶん大きく、読みやすくなりました。

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文字が空間のバランスを崩さないように配慮して、ひとつの壁面をたっぷり使っています。
丸木夫妻自身が《原爆の図》について語っている言葉を提示できたのは、とてもよかったと思いました。

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展覧会のメインタイトルの切り文字も設置して、いよいよ展覧会は完成間近です。

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あとはそれぞれの作品キャプションを設置し、最後の調整をして10日のオープニング・レセプションを迎えます。
レセプションには、どうやら学生や研究者たちも来るようです。
《原爆の図》にどのような反応があるのか、おそらくワシントンD.C.とはまた違ったものになるでしょう。

原爆投下に対する認識の問題はもちろん、その惨禍を芸術として表現することの意味に焦点を当てた企画なので、作品への質問も多く出るのではないか、と言われています。
楽しみなような、少し怖いような……。

レセプションまで残り2日、プレゼンテーションの準備も、怠らずにいきたいところです。
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2015/9/6

【米国出張B】ピーボディ・エセックス博物館  調査・旅行・出張

9月の第1月曜日は労働者の日Labor Dayのため、三連休。
そのために、少し早くボストン入りして展覧会の準備を進めてきました。

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この日は、展覧会のプロデューサーであるHさんのお友だちのJさん夫妻に案内されて、ボストン近郊の港町セーラムSalemヘドライブ。
小さな町ですが、かつては貿易都市として大いに栄えていました。
石畳の通りやレンガ造りの家に、当時の面影が残ります。
1692年に“魔女狩り”が起きたことでも知られています。

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セーラムの繁栄を象徴するのが、1799年創設の東インド海員協会。
協会に所属する貿易商は、「喜望峰やホーン岬より先の地域で貴重な天然および人工物の収集」が義務付けられていたそうです。

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その海員協会の収集品を展示するピーボディ・エセックス博物館Peabody Essex Museumを訪れました。
初代館長は、かのエドワード・モース。日本をはじめ中国、朝鮮、インドなどアジアを中心とした膨大なコレクションを誇っています。

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2003年に拡張された新館では、トーマス・ハート・ベントンThomas Hart Bentonの企画展を開催していました(9月7日まで)。

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ベントンは社会主義者で、米国社会に急速に広がるモダニズムに抵抗し、地方の人びとの労働や、奴隷にされていたアフリカン・アメリカンの姿などを描き続けました。

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今回の展覧会は、ハリウッド黄金時代の映画撮影風景―カメラ、照明、音声、編集、メイク、セットによる特撮、扇風機、西部劇、コールガール、出番を待つ女優たち、などなど―をコラージュして描いた壁画をメインにしていますが、ネイティブ・アメリカンの迫害の歴史を描いた壁画連作や、第二次世界大戦中のファシズム・ナチズムとの戦いを奨励する(つまり、日本の「戦争画」とは対称をなす)壁画まで展示されていて、非常に興味深いものでした。

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われわれの感覚では、強大な米国に小さな日本が挑む、という印象なのですが、米国側の「戦争画」になると、日本人も巨大な魔神のように描かれています。

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「敵」なるものは、血の通った等身大の存在ではなく、常に水増しされた脅威として宣伝されるものなのでしょう。それはいつの時代の、どんな国でも変わりません。

1970年に最初にアメリカで《原爆の図》を展示したニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチthe New School for Social Researchにも、ベントンは《アメリカの今日 America Today》と題する壁画を描いています。今は別の場所に移っていますが、「原爆の図展」の当時はまだニュースクールに設置されていたはずです。
こんなところで《原爆の図》との因縁を発見するのは意外でしたが、しかし、芸術の歴史はいろいろなところでつながっているのでしょう。

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上の写真は、モースが設立した日本部門の展示。根付などのコレクションが充実しています。

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美術館の庭にある木陰の心地良いレストランで昼食をとりました。
この連休で疲れを癒して、展覧会の開幕、そして《原爆の図》の解説の準備を進めます。
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2015/9/4

【米国出張A】ボストン大学アートギャラリー「原爆の図展」準備  調査・旅行・出張

今日も朝9時から展覧会準備のためにボストン大学へ。
ボストンには、Boston UniversityとBoston Collegeという日本語に訳すと「ボストン大学」になる2つの大学がありますが、今回原爆の図展を行うのはBoston Universityの方です。
地下鉄のグリーンラインに乗ると、「Boston University」と名の付く駅が、East、Central、Westと3つならんでいます。

なにしろ全米でも4番目の大きさで、学生数は約3万人。130か国から5,000人の留学生が集まるというマンモス校。いち早く人種や性別にかかわらずに生徒を受け入れたことでも知られ、マーティン・ルーサー・キングやネルソン・マンデラもこの大学で学んでいます。

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展覧会を開催するStone Galleryは、West駅のすぐ目の前にあります。
5階建ての古めかしい建築の入口は、とても美術ギャラリーに続くとは思えませんが、ここが芸術学部College of Fine Artsの入口です。
扉の上にある855という数字は、Commonwealth Avenueの855番地であることを示しています。

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中に入って行くと、廊下やロビーには、ところ狭しと学生たちの作品が並んでいます。
この学部で学ぶのは美術専攻だけではなく、音楽専攻もあるので、楽器を抱えた学生が行き来し、時おり、演奏の練習の音も聞こえてきます。
ギャラリーの入場は無料。新学期もはじまり、会期中には大勢の学生が見てくれることと思います。Managing DirectorのJoshからは、歴史学部の先生が生徒を連れて来ると言っていたという話も聞きました。

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午前中、会場の照明のセッティングを行いました。
画面にまんべんなく光が当たるように、Joshみずから丁寧に作業をしてくれました。

今回の会場は、中に入ると正面に第2部《火》が展示されています。
そして、受付を済ませて向かって左から時計回りに第1部《幽霊》、第10部《署名》を見ます。

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《火》の背後には、広島平和記念資料館所蔵の被爆者の遺品や焼けた瓦などの資料展示。
そして第12部《とうろう流し》、第13部《米兵捕虜の死》、第14部《からす》の順に見て歩くようになっています。

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この空間の特徴は、何といっても、古代ギリシャ建築のコリント式を模した円柱でしょう。
水墨を基調とした《原爆の図》とギリシャ建築の取り合わせの妙も興味深いですが、柱頭をよく見ると、何とも面白いモチーフが彫られています。

実は、この建物は、米国内で大衆車が普及した1920年代に自動車会社として作られました。
現在は事務所になっている展示室の奥には、自動車が出入りできる大型の入口が設けられ、室内には自動車がずらりと並んでいたそうです。
その空間に白い壁面を増設して、ギャラリーとして生まれ変わったというわけです。

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その歴史を示す痕跡が、柱頭の彫刻。
タイヤやハンドルなど、自動車に関係する備品を抱えた作業員が彫りこまれているのです。
日本の炭鉱夫をモチーフにした彫刻を、思い起こします。

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当時の最新流行であった自動車産業を古代ギリシャの彫刻と融合させる大胆なデザインは、自分たちが新しい歴史と文化を作るんだという米国らしい発想のあらわれでしょうか。

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会場を訪れる機会のある方は、《原爆の図》とともに、柱頭の彫刻にも注目して下さい。

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展示は大方完成し、あとはキャプションなど最後の仕上げをするばかりとなりました。
アメリカン大学の解説は簡素だったので、今回は丸木夫妻の言葉など《原爆の図》に関する情報の展示を少し増やすことになりました。

9月10日午後6時からのレセプションのほか、会期中には10月6日にジャン・ユンカーマン監督の記録映画『劫火―ヒロシマからの旅』上映とボストン大学のトーマス・バーガー教授の講演、10月8日にはサラ・ジューンによる舞踏パフォーマンスも予定されているそうです。

   *   *   *

キャプションの製作はギャラリーのスタッフにお任せして、午後にはフェンウェイ地区のボストン美術館の近くにあるイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館を見学。
ボストンの大富豪で、岡倉天心とも親交のあったイザベラ夫人の収集した絵画や彫刻、素描、タペストリー、家具、陶磁器などの膨大なコレクションを展示した邸宅です。

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宮殿風の中庭の景色は素晴らしく(ここだけ写真撮影可)、ティツィアーノの《エウロペの略奪》やレンブラントの自画像など、質の高い作品が並ぶ室内空間も楽しみました。
3年前にレンゾ・ピアノの設計によって建てられた新館は、現代美術のJean-Michel Othonielの企画展。歴史を大切にしながら、コレクション展示だけではなく、新しい表現を紹介していく美術館の活動に刺激を受けました。

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夜は、かつてボストンに留学していたHさん夫妻の友人であるJさん夫妻に再会。さらにJさんの友人であるイタリア出身の画家と美術史家夫妻とともに、サウス・エンドにある若手アーティストたちのスタジオや画廊のならぶ地域を訪れました。

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この日はオープンスタジオの日で、画廊のオープニングパーティも一斉に行われていました。
毎月第1金曜日の夜は画廊の展覧会が一斉にオープンするので、今日は人通りも多い、と教えてもらいました。

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100年前の古い印刷機で活版印刷の仕事をしているスタジオもありました。
古いレンガ造りの倉庫を改装した建物の中には、4階までアーティストのスタジオがぎっしりと並んでいます。

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ふらりと訪れた来客にも、アーティストは丁寧に作品解説をしてくれました。
このあたりは街をあげて作家育成に取り組んでいて、格安の値段でスタジオを借りることができるそうです。

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夜9時からは、近くのカンボジア料理店で夕食。
やはりレンガ造りの壁に、カンボジアを描いたと思われる油彩画が並んでいました。
制作年が2010年代と新しかったので、こうした絵画もまた若手アーティスト支援とかかわりがあるのかもしれません。
料理は生春巻やグリーンカレーが美味でした。
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2015/9/3

【米国出張@】ボストン大学展展示作業  調査・旅行・出張

《原爆の図》展示作業のため、ワシントンD.C.での乗り継ぎを経由して、ボストンへ到着。
乗り継ぎで2時間以上の遅延があったため、16時間をかけての現地入りです。

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今回の宿泊先は、地下鉄レッドライン駅近くのCharles/MGH駅。
駅から近く、レンガ壁に蔦の絡まる、なかなか雰囲気の良いB&Bです。
到着当日は、同行のHさん夫妻とともにタイ料理の夕食をとり、そのまま休んだのですが、翌朝はさっそく午前9時からボストン大学へ。

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ボストン大学アートギャラリーは、地下鉄グリーンラインで3つの駅が続く広大なボストン大学の西キャンパスにあります。
ちょうど新学期がはじまったばかりで、街にも建物内にも大勢の学生が歩いていました。
ギャラリーはプロの芸術家が展示をするスペースなのですが、そのまわりの廊下やロビーには美術専攻の学生たちの展示があふれ、となりの部屋からは音楽専攻の学生たちの演奏の練習の音がひっきりなしに聴こえてきます。閑静だったアメリカン大学とは違い、たくさんの学生たちが身近に感じられます。

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Managing DirectorのJosh Buchnoと再会して、無事にこの日を迎えたことを喜びあいました。
作品の入った木箱も、展示用の台座もアメリカン大学から届いています。

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午前11時を過ぎると、展示を手伝ってくれる学生たちが少しずつ集まってきて、開梱・設置作業がはじまりました。
アメリカン大学では専門の展示スタッフが活躍しましたが、ボストン大学では職員と学生が中心なので、私も指示を出すだけではなく、すべての屏風を取り扱い、展示作業を行いました。

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学生たちは木箱を開けたり、空になった内箱の片づけをしたり、よく働いてくれました。
アメリカン大学とはまた違った雰囲気の展示が、少しづつできあがっていきます。
入口扉の向こうでは、次は何の展示をするのだろう?と学生たちが覗き込む姿も見えました。

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展示作業は順調に進み、ライティングの途中まで行うことができました。
まだオープニングまではじゅうぶん時間があるので、まずはひと安心です。

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ようやくかたちが見えてきた会場風景。
今回は、第2部《火》を入口の正面に展示しています。
《火》のみ、作品の裏側までまわることができるような導線になっているので、台座への固定だけではなく、転倒防止のため、天井からテグスを使って絵を支えることにしました。

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展覧会のための印刷物も見せてもらいました。
ボストン大学美術学部が発行している『spark』という大判の冊子には、「原爆の図展」についての情報も掲載されています。

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以下は、記事から関連部分の引用です。

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  This fall, in commemoration of the 70th anniversary of World War U, the Stone Gallery will host A Call for Peace: Iri and Toshi Maruki's Hiroshima Panels and Artifacts from the Bombings of Horoshima and Nagasaki (September 11-October 18). Presented in collaboration with the Maruki Gallery for the Hiroshima Panels and the Hiroshima Peace Memorial, A Call for Peace presents six of the fifteen panels produced over thirty years by Nobel Peace Prize nominees Iri and Toshi Maruki, and also includes an installation of twenty-six artifacts from the bominbing sites.

  "The Hiroshima Panels, completed over many decades, act as a document, response, and an activist movement for peace displaying the power of art from transforming trauma
to empowerments," adds Buckno. "The Marukis painted from a personal place, but the themes are universal."

  In the spirit of interdisciplinary collaboration, the gallery welcomes Maruki Gallery Curator and author of The Guide to Non-Nuclear Art Yukinori Okamura for a special presentation on the evening of the show's opening on September 10th, as well as a number of public programs including a Butoh-inspired dance performance by Boston artist Sara June, and a screening of Hellfire, the 1985 Academy Award nominated documentary produced by John H. Junkerman and John W. Dower which follows the Marukis as they create their monumental artworks.


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10日午後6時から行われるレセプションでの作品解説の準備も少しずつ進めています。
お近くの方は、ぜひ、ご来場ください。
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