2015/8/30

「発掘!知られざる原爆の図」展小沢節子さん対談抄録  企画展

午後2時より、企画展「発掘!知られざる原爆の図」展の関連企画として、小沢節子さん(近現代史研究者)をお迎えして、対談形式のトークを行いました。
広島や関西からわざわざ来られた方も含めて、大勢の来場者が集まって下さって、会場は急きょ椅子を追加するほどの満席となりました。
小沢さんはじめ、ご来場の皆さまには心から御礼を申し上げます。
対談の報告として、以下に抄録をお送りします。

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●初期三部作と再制作版

小沢 つい先日、岩波書店から刊行されたテッサ・モーリスースズキ編『ひとびとの精神史 第二巻 朝鮮戦争の時代−1950年代』の中で、米山リサさんが「丸木位里と丸木俊ー「核」を描くということ」という文章を書かれていました。そこでは、《原爆の図》は朝鮮戦争の危機感に対応して描かれたのだという読み方がされていました。実は、岡村さんや私も、最近では同様のことを考えていて、とりわけ初期三部作については、1950年に生まれた作品として解読する必要があると述べてきました。

岡村 初期三部作は再制作版が作られて、広島市現代美術館に所蔵されています。

小沢 《原爆の図》は占領下に全国を巡回する。岡村さんがもうすぐ出る本で実証的な研究を発表しますが、丸木夫妻のもとにいた若い画家たちが中心になって描いたと思われる再制作版があります。例えば本作が本州をまわっているときに、その再制作版が北海道を巡回したことも明らかになった。私は15部作以外の《原爆の図》を「外伝」と呼んでいますが、再製作版もその中に位置づけられます。

岡村 再制作版は、線がぼやけた印象で、全体に墨が濃いです。それでも《幽霊》は本作に近い。《火》は同じ構図ですが、人体を朱色でふちどっている。《水》は再制作版に色がつけられて、背景に墨が濃く流されている。本作には墨が流れていないんです。

小沢 後から加筆しているんですよね。再制作版に手を入れて本作と違う作品だと強調する。「複製」ではなくて、「複数」ある《原爆の図》の一つと位置づけようとしたと思われます。

岡村 最初は「複製」という意識でしたが、巡回展が活性化していくと、再制作版も同時並行で《原爆の図》として回っていく。するとオリジナルと違うという議論が起きる。丸木夫妻は、「模写」でなく独立した絵として位置づけなければいけないと考えるんですね。加筆したのは、1970年代に丸木美術館の栃木館ができて、再制作版が常設展示されるときです。

小沢 「複製」として巡回しているときは政治的な役割を果たしていた。巡回展が終わり時間が経過するなかで芸術性の問題が前景化し、「複製」性から「複数」性が重視されるようになったと考えています。

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●原爆長崎之図

岡村 第6部《原子野》が描かれた翌年の1953年に、丸木夫妻は初めて長崎を訪れます。そして描かれたのが《浦上天主堂》と《三菱兵器工場》の2点です。

小沢 《原子野》は占領終結後の作品で、その後に長崎を描く。本当はそこで一段落のつもりだったかもしれない。しかし、1954年に第五福竜丸の被ばく事件が起き、原水爆禁止運動が盛り上がると、今度は同時代のテーマとして《焼津》や《署名》を描く。

岡村 ずっと広島を描いてきたので、違った展開が求められ、丸木夫妻自身も求めていったのかもしれない。ただ、《原爆の図》として描くには長崎というテーマの必然性が薄かった気もします。

小沢 浦上天主堂の聖像と三菱の工場が長崎らしさを出している。

岡村 背景に小さく小学校も描かれていますね。

小沢 城山小学校じゃないかという建物。

岡村 広島の絵には、ランドマークが描かれていない。長崎は逆に、建物が作品名になっている。広島との違いを作るため、長崎特有の建物を描いているのが特徴です。当初は7部、8部として構想されたようですが、結局は広島に戻るんです。後に丸木夫妻が連作に長崎を取り上げるときには、主題が建物でなくなってくるのも興味深いです。

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●入れ替え可能な原爆の図

小沢 第8部《救出》は、3.11後に岡村さんが注目した作品ですね。

岡村 《原爆の図》は爆風・熱線による身体的損傷が描かれるんですが、《救出》の左半双だけは、後から広島に来た人たちが描かれている。つまり2次被爆が示唆される。この画面の余白が、現在と70年前をつなぐと考えました。

小沢 初期の頃とは変わり、わかりやすさが前面に出ている。また、絵の中から観客を見つめる正対した人物が初めて《救出》に登場する。絵の外に向かって主張する人物像は第9部《焼津》でさらに増え、後に《沖縄戦の図》にも出てくる。

岡村 小沢さんの本で指摘されていますが、《焼津》と《署名》も加筆した作品です。

小沢 写実的で、政治的テーマを直接訴える作品だった。これが海外巡回展では受けが良かった。そもそも海外に向けて、日本の被爆体験を訴える一環として描かれた側面もあった。一方、そのわかりやすさが同時代の日本では批判され、《焼津》と《署名》は画集から外れたこともあります。その代わりに入れようとしたのが高野山の絵だった。

岡村 《火》と《水》ですね。この2作が実際に収録された画集もあります。

小沢 最終的には《焼津》と《署名》が入って、高野山が外れるんですが。私たちは《原爆の図》を15部作と思うけれども、この時期は何が《原爆の図》シリーズか定まっていないし、相互に入れ替え可能な作品がいくつもあった。

岡村 第10部《署名》が描かれてから、第11部《母子像》や高野山の絵があるとはいえ、共同制作が復活するまで10年くらい空白があるんですね。1968年に第12部《とうろう流し》が描かれてからは、毎年共同制作が続いていくから、《原爆の図》の歴史の中でも、迷いの時期だったんです。

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●高野山の絵

岡村 高野山の絵は、成福院の摩尼宝塔に奉納されています。塔には「宗教美術館」と書いてあります。先代住職の上田天瑞がビルマで戦死した日本兵の慰霊のために塔を作った。そのとき丸木夫妻は依頼されて2点の絵を描いたんですね。今、《原爆の図》は4mの高さにかけられて、前に大きな梁がある。梯子に上っても、全体が見えない。丸木美術館に持ってきたら、思いのほか大きくて、細部までよく見えました。この絵は、ほとんど俊さんが描いていますね。

小沢 俊さんが描いた油彩画の《原爆の図》の女性像と通じます。《火》の左端に、凄い勢いで飛んでいる子どもが描かれている。《母子像》にも共通するスピード感のある人物の描き方は、俊さんが一人で《原爆の図》を描いていたこの頃の特徴だと思います。「宗教美術館」は、海外で亡くなった日本兵を慰霊しているところなんですか?

岡村 そうですね。本尊のまわりをビルマで亡くなった日本兵の位牌が囲んでいて、その外の回廊に宗教美術やビルマの竪琴のような民芸品が並んでいるんです。

小沢 海外で死んだ日本兵と原爆で死んだ日本人をいっしょに並べて慰霊している。日本の「外」というものが入ってはきているんだけど、まだ後期の《原爆の図》のような意識化はされてない段階でしょうね。

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●とうろう流し

小沢 1968年の《とうろう流し》までの10年間に何があったかというと、丸木夫妻は戦後すぐに共産党に入って、党の芸術家として活動してきたわけですが、1964年にいろいろな人たちとともに共産党を出ていく。同時に世界を巡回していた《原爆の図》も帰ってくる。1967年には美術館を建て、旅を続けていた《原爆の図》をひとつの場所に展示して見せるようになるんですね。そして、《とうろう流し》から共同制作が再開される。この作品は、今回の巡回展にも出ていますが、アメリカの人が見てもモダンに見えるのではないでしょうか?

岡村 そう言われましたね。《原爆の図》の中でも異質だと。

小沢 抽象的なきれいな絵ですよね。ジョン・ダワーさんが、すごく好きだと書いている。いろいろな軛(くびき)から解放された夫妻が、戦後四半世紀を前に、どのように原爆を思い出すかという記憶の働きを描いている。

岡村 これで完結のような作品ですね。

小沢 彼らは、「ここで終わりにしよう」と何度も考えたと思うんですね。最初の一作もそうだし、三部作を書いたとき、占領が終わる段階や、長崎を描いた時点でも、ここで終わりにしようと思ったかもしれない。それでも終わることなく続いていった。

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●後期の共同制作

岡村 1970年に米国展があって、第13部の《米兵捕虜の死》を描くわけですね。丸木夫妻がはじめて加害責任に触れたとされる作品です。描き方もずいぶん違いますね。

小沢 同じ群像でも、人体がデフォルメされて自由になっていく。その後の勝養寺の作品や《アウシュビッツの図》など70年代から80年代にかけて顕著になる人体表現の特徴だと思います。

岡村 第14部《からす》の後、広島市の依頼で初めて壁画を描いたのも重要な転換点でした。広島市現代美術館で公開修復中の《原爆―ひろしまの図》。丸木夫妻は今まで描いてきたテーマをすべて盛り込んだと語っていますが、それまでになかった、野犬が赤ちゃんを食べているイメージも描かれています。

小沢 松谷みよ子との『日本の民話』の仕事に出てくるかもしれない。ショッキングな、民衆的な残酷さに共通するものを感じます。

岡村 《アウシュビッツの図》の髪の毛の山や、《水俣の図》の海を連想する波の渦もあります。それから、たくさんの手が描かれているんですね。手のまわりを朱色でふちどりしているのは、再制作版の《火》を思わせる。手だけが無数に伸びてくるイメージは、勝養寺の絵や《水俣・原発・三里塚》にも出てくる。

小沢 再制作版に加筆をしたのも、ちょうどその頃だったわけですね。

岡村 1977年には、青森の稽古館のために《とうろう流し》を制作しています。第12部と同じ表現ですね。そして1982年に第15部《長崎》が描かれて、《原爆の図》は完結するんですが、当時、「完結」という言われ方はしたんですか?

小沢 聞いたことはないですね。

岡村 他の共同制作が続いているから、もはや《原爆の図》に「完結」という意識はなかったかもしれません。《長崎》は長崎原爆資料館の入口に展示されていますが、よく見ると、被爆者の行列など、同時代に描かれた絵本『ひろしまのピカ』を連想させる表現も出てきます。

小沢 基本的に初期三部作で使われたイメージが、その後も繰り返し出てくるわけですね。

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●勝養寺版の《夜》

岡村 《長崎》と同じ年に描かれたのが、葛飾区の勝養寺に、壁画として組み込まれていた4点の作品。勝養寺が改装される際に丸木美術館に寄託されましたが、4点すべて展示するのは初めてです。

小沢 《アウシュビッツの図》のデフォルメされた縦長の人物像が繰り返され、《幽霊》の後で未完に終わった《夜》が30年後に描き直された。ただ、この絵が夜だったら、ほかの《原爆の図》は昼かというと・・・どれも、昼も夜もない状態を描いていると思うんだけど、あえて夜を描いたんですよね。岡村さんによると銀箔が貼られているということで、今は酸化して黒くなっているけど、描かれた当時はキラキラしていたでしょう。月や星の明かりに照らされる被災者の姿を描くことで、夜を表したのかもしれない。提灯もある。画面左の空白は、そこだけ光が入ってくるように見えて、同時代に描かれた《沖縄戦の図》を連想する。

岡村 ガマ(洞穴)のように見えますね。

小沢 このとき、丸木さんたちは沖縄に入って絵を描きはじめていたんですね。頭の中には《沖縄戦の図》のイメージがあったんじゃないか。

岡村 《火》には、無数に伸びる手のイメージがある。

小沢 千手観音のよう。落ちていく人たちのイメージは、《地獄の図》と似ています。高野山もそうだけど、「最後の審判」のような、劫火に落ちていくイメージかもしれません。

岡村 描かれた男の子は《沖縄戦の図》に出てくるモデルと同じですね。

小沢 これは誰とわかるようなモデルを使ってポーズを描きためて、絵に組みこんでいく。そういう描き方を一貫してやっているんですね。初期の頃は構図を考えているんですが、晩年になるほど、構図を考えない絵になっていく。

岡村 長万部にも母子像の《原爆の図》があって、人間と背景の炎の関係が、次の《高張提灯》に重なります。

小沢 《高張提灯》は1986年ですね。

岡村 勝養寺の《夜》に出てくる提灯が、被差別部落をテーマにしていて、それを本格的に描いたのが《高張提灯》。あまり展示されていなかったので、すごく状態が良く、墨が渇いたばかりのように発色がいいんですね。

小沢 つやつやしてきれいですね。なぜ展示されなかったのかという問題は、わからないこともありますが。

岡村 最後は1992年に描かれた俊の生家の善性寺の《原爆の図》です。

小沢 《幽霊》がひとまわりして戻ってきたような絵ですが、ここまでデフォルメされると、同じようなテーマで同じような人物が描かれても、別の作品のようになりますね。

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この後、質疑応答の中では、アメリカ展の報告も行いました。千葉県から来たという女子大生の《原爆の図》に対する率直で気持ちの良い感想や、アメリカン大学展の最終日にお会いした留学生のお母さんがわざわざ来館して発言して下さるなど、心に残る出来事もありました。

対談を経て、丸木夫妻の共同制作は《原爆の図》15部作だけでは語れない、その他の《原爆の図》も含めて、共同制作全体を視界にとらえて考えていかなければならないとあらためて感じました。作品を見れば見るほど、ますます考えなければならないことが増えていく、というのが正直な実感です。

一方で、その変遷や思考の深まりは興味深いものでありながら、しかし逆に初期作品の絵画としての強度も見逃せません。
表現の自由が奪われたことへの抵抗として描いたから力があるのか。
異質な画家同士が、異質なまま持ち味をぶつけあったから強度が生まれたのか。
これからも、長い時間をかけて考え続けていきたい問題です。
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2015/8/28

アメリカン大学美術館からの報告  館外展・関連企画

ワシントンD.C.のアメリカン大学美術館から、8月16日まで開催していた「原爆の図展」の報告が届きました。無料入館なので、来場者数の実数はカウントされていませんが、主催者発表によれば約5,000人とのこと。

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会期中に、AP通信が取材してくれたこともあって、インターネットで確認できる関連記事の数は297件。
そのうち200件以上が米国内ですが、アルゼンチン、オーストリア、ブルガリア、カナダ、中国、フランス、グアテマラ、インド、イタリア、レバノン、ルクセンブルク、マカオ、マレーシア、マルタ、メキシコ、ペルー、フィリピン、シンガポール、スペイン、スイス、台湾、タイ、UAE、英国、ウルグアイ、ヴェネズエラ、ヴェトナムの計29か国(アルファベット順、日米含む)で紹介されています。ネット配信の記事も多いようです。

もっとも多く配信されているAP通信の記事は“Japanese art on atomic bombs exhibited in Washington”(レバノンの“The Daily Star”より)という内容です。
http://www.dailystar.com.lb/Arts-and-Ent/Culture/2015/Jun-15/302061-japanese-art-on-atomic-bombs-exhibited-in-washington.ashx

また、その他では、AFP通信の“70 yrs on, few Americans regret bombing Hiroshima”(インドの“DNA India”より)という記事も数多く掲載されていますが、こちらは原爆投下70年に焦点を当てた記事で、アメリカン大学の展覧会は情報程度。
http://epaper.dnaindia.com/story.aspx?id=69736&boxid=2644&ed_date=2015-8-06&ed_code=1310005&ed_page=11

地元の“The Washington Post”が“Paintings bring Japan’s hellish aftermath into vivid focus”という記事を掲載していますが、その他には独自取材の記事はなかなか見つかりません。
http://www.washingtonpost.com/goingoutguide/museums/paintings-bring-japans-hellish-aftermath-into-vivid-focus/2015/07/23/73aaf0c6-2b2c-11e5-bd33-395c05608059_story.html

アメリカン大学での展覧会の性質上、ある程度覚悟していたとはいえ、展評記事がひとつもなかったのは残念でした。

《原爆の図》6点は無事にボストンに到着したという報告も届きました。
9月11日からは、ボストン大学アートギャラリーで展覧会が開幕します。
10日午後6時からは、オープニングレセプションも行われ、岡村が《原爆の図》についての作品解説を行う予定になっています。
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2015/8/23

『東京新聞』埼玉版「各駅停車」に原爆の図ニュース映画紹介  掲載雑誌・新聞

2015年8月23日付『東京新聞』埼玉版のコラム「各駅停車」欄に、中里宏記者が《原爆の図》のニュース映画について書いて下さいました。

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《原爆の図》を映しながらも、ナレーションで「原爆」という言葉を使わないという占領下の工夫に、戦時下の言論統制を想起し、「過ちは繰り返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑に思いをはせるという、短いけれども読み甲斐のある内容でした。
いつも丁寧に取材して下さる、中里記者ならではの記事です。
どうもありがとうございました。
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2015/8/19

BS朝日『黒柳徹子のコドモノクニ』丸木俊放送  TV・ラジオ放送

BS朝日の番組『黒柳徹子のコドモノクニ』で、丸木俊が特集されました。
この番組は、大正デモクラシーの時代に誕生した画期的な絵雑誌『コドモノクニ』にかかわった数多くの芸術家をとりあげながら、その世界を振り返り、「21世紀の子どもたちのために新たな『コドモノクニ』を創る」というコンセプトだそうです。
ナビゲーターは詩人のアーサー・ビナードさんでした。

この夏、何度も丸木美術館に通い、広島や北海道にもロケに訪れたBS朝日のスタッフの皆さん、お疲れさまでした。1時間のなかに、濃密な内容を凝縮した番組になりました。
以下、メモ程度に、番組の内容を紹介します。

   *   *   *

―冒頭、広島の原爆ドーム。
ナレーション あれから、70年目の夏がめぐってきました。広島の街に原爆が落とされたあの夏から……。

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―今夏アメリカン大学で開催されている「原爆の図展」の会場風景。続いて、昨年夏に行ったピーター・カズニックさんの記者会見。

ピーター 《原爆の図》は美しさと恐ろしさをあわせ持った作品として、ピカソの《ゲルニカ》と並ぶものです。しかし、《ゲルニカ》がファシストの大量虐殺を描いているのに対し、《原爆の図》はもっと大きな規模と広がりを持っています。《原爆の図》が描いているのはアメリカ政府が行った大量虐殺だからです。あれから70年たった今でも、核の危険を考える上で《原爆の図》は大きな力となるはずです。

―丸木俊と《原爆の図》についての紹介。原爆投下の目標地点になったT字型の相生橋の上で語るアーサー・ビナードさん。

アーサー 僕らがピカとかピカドンっていう昔からあるような言葉として聞くんですけど、ここで8月6日に造語された言葉。エノラゲイから広島上空を写した写真はピカじゃない。キノコ雲や原爆。でも、ここは原爆じゃない。

―原爆投下後に広島に駆けつけた丸木夫妻。4年半後の1950年2月に最初の《原爆の図》を描き、絵本『ピカドン』も刊行する。

アーサー 幽霊っていう最初の作品を描いたときは、日本では発表できない題材だった。プレスコードが敷かれていて、そういう絵は許されない状況だった。それは日本だけじゃなくて、世界で一番経済力と軍事力を持った組織が、そういうふうに決めていた。つまり、米政府がそういう表現は困ると決めつけて、表現の自由を踏みにじるものに対して、2人の芸術家が挑戦した。世界で一番大きな組織に挑んでいる作品ですね。

―スタジオにて、黒柳徹子さんの挨拶。絵本『ひろしまのピカ』やアメリカ展の紹介。

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―若き日の俊さんの個展の様子や、『コドモノクニ』の挿絵、絵本『ヤシノミノタビ』の紹介。アーサーさん、丸木夫妻の元アトリエ兼書斎・小高文庫にて『ヤシノミノタビ』を手に取る。

アーサー 北斎も入ってるし……かわいくて、豪快ですよね。

―俊の生まれ故郷・北海道雨竜郡秩父別町。俊の甥の善性寺住職・赤松良海さん。

赤松 とにかく、絵が上手だったと父は言っていた。学校の旅行から帰って来て、その旅行の様子をパパパと描いて、みんなびっくりしたという……。

―丸木美術館にて、岡村解説。

岡村 女学校最後の年に赴任してきた若いハンサムな先生(戸坂太郎先生)が、自由に子どもたちに絵を描くことを勧めてくれる人で、それが俊さんの生涯を決定づける、女子美術に行きたいという気持ちが生まれてくるきっかけだったと思います。

―女子美術専門学校時代に上野で似顔絵かきのアルバイト。善性寺美術室に展示されている父親《二世淳良法師の肖像》(1930年)の紹介。卒業後、モスクワに赴任する通訳官の子どもの家庭教師として1年間モスクワへ行く俊。

岡村 モスクワ滞在は、初めての異国に触れる体験であると同時に、本物の油絵を実際に見ることができる貴重な機会だった。一番影響を受けたのはゴーギャン。自分もゴーギャンのようになりたいという、それが後に南洋群島・パラオに行くきっかけになるんです。

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―「南洋群島」パラオへの一人旅。

岡村 南洋に行ったことで俊さんは大きく変わった。色使いが強く鮮やかになり、裸体表現に目覚めていく。人間本来の生まれたままの姿がなんて美しく素晴らしいんだということに気づき、それが戦後の《原爆の図》に地下水脈のようにつながっていくんですね。

アーサー 俊さんの絵は、そこに生きものが生息しているような感じ。言葉が通じなかったり、距離があっても、どういう生物なのかをつかむ。絵の力で、人がもっている生物としてのたたずまいを捉まえる。そういう意味では、俊さんの絵は、最初から子どもにも通じる絵。

―帰国した俊は、位里と運命の出会いを体験する。位里のふるさとは広島・飯室。太田川沿いの生家跡を案内するのは位里の甥・小田芳生さん。旧丸木家の隣に住む天廣敏江さんが、位里が描いた鶴の掛軸を見せてくれる。

天廣 位里さんが描かれたものを、いくらか絵具を買ったりするのにお母さんがよくご存じの人に買ってもらったりしたんじゃろ思うんですよ。

―浄国寺に残る屏風画には「大正15年初春」。養専寺には穂高を描いた襖絵も残る。養専寺住職の森重一成さんが絵の前で語る。

森重 何を描いているのか全然わからんのですよ。というのは、描いたんじゃないんです。残ったところが山になっとるんです。

―前衛的な水墨画で注目されるようになった位里。銀座の個展で、俊は位里に出会う。

 銀座に個展がいくつかありますね。いつもね。それを見に行っていたら、丸木とお友だちの二人の展覧会がありまして、日本画の展覧会でした。丸木は白黒なんです。ものすごくよかった。素晴らしい絵ですって言って、署名するときに、私が感想を描いたんです。(1981年12月8日放送「徹子の部屋」出演時の回想)

―位里はシュルレアリスムの影響を受けた画家として活躍していた。

岡村 位里さんの言葉で面白いと思うのは、「絵は描くものではない。墨を流せばそれでいい」という言葉。上手く見せようと技を尽くして描く絵よりも、何もかも開けっぴろげにして、自然のままに広がっていく墨の形がそのまま絵なんだ、と。ある意味、俊さんの非常に優れた技術とは、正反対なんです。

―前衛的な水墨画家と人間を描く画家。異なる才能の2人は惹かれあい、結婚。1945年8月、広島に原爆が落とされたという知らせを聞いて、二人は広島に駆けつける。竹やぶに逃れて、泣き叫び、死んでいく人びと。1か月間滞在中、俊はわずか2枚のスケッチしか残していない。

 どんどん死にはじめたんです。後から救援に入った人が、8月の終わり頃に血を吐いたり毛が抜けたりして、どんどん死んだ。私もその頃、ずっと血が出てたんです。でも、血が出てますなんて言えない。みんなの方がもっとひどいから。がまんして手伝ったりしていたんですけど、それが東京へ帰ってからもずっと続きました。(「徹子の部屋」出演時の回想)

―二人は3年後の夏、《原爆の図》を描くと決めた。

位里 2年も3年も原爆の絵を描くなんて考えたこともなかった。それがいつのまにやら……原爆を誰も知らないでしょ。言葉も言っちゃいけなかった。写真も全然出てこない。(「徹子の部屋」出演時の回想)

二人は被爆者の話を聞き、デッサンをはじめた。
当時、俊に弟子入りしていた絵本画家のいわさきちひろもモデルをつとめた。

アーサー 俊さんは20世紀の日本の美術において、もっとも生きものを鮮やかに描いた人。俊さんのデッサンを見ると、解剖学的な描き方じゃなく、人体を見事に生きたまま描いている。

―俊とは異なる才能を持つ位里が作品をまとめていく。

アーサー 位里さんは質感や表面、手触り、細やかなところの才能が凄くて、墨の質感と自分が描こうとしている対象物の質感を巧みにつなげて一つの絵をつくる。位里さんは人間でありながらもイカなんじゃないかと思う。墨を吐いてつくるんですよね。モンゴウイカじゃなくて、スルメイカじゃなくて、位里イカという不思議な生きものがいて、墨を吐くことで、何かを生み出しちゃうんですね。

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―1950年2月、原爆の図第1部《幽霊》完成。

(丸木美術館の原爆の図第1部《幽霊》の前にて。
アーサー この作品、何度見ても必ず新しい1人に出会うという。
岡村 アーサーさん、見つけるのが得意ですよね。
アーサー この作品に最初に出会うときは、みんな手を前に出して火傷で……
岡村 皮膚がずるずる剥けてしまった……
アーサー この人の顔とか。
岡村 おなかに、これから命を生み出そうという人の姿に目が行きますよね。そして、眠るような赤ちゃんとか。
アーサー この赤ん坊は、すやすや眠っているような感じにも見えるんですね。
岡村 本当ですね。気持ちよさそうに眠っている。
アーサー そういうふうにも捉えることはできる。
岡村 傷だらけでボロボロの体も描けたと思いますね。これだけの技をもった絵描きさんですから。そこは考えたんだと思いますし、これだけきれいな体を描いて、傷つけるのも画家の筆なので、2人は傷つける必要はないんじゃないかと思ったんだろうと、死んでいく人たちもせめて美しく描いてあげたい。でも本当のことは伝えなきゃいけないし、そのギリギリのせめぎあいが、絵の中にあったんじゃないかと思いますね。
岡村 大人でも子どもでも見られる。そこから先、本当にどんなことがあったのか想像するためのすごく大きな手がかりになっていった。今でもそうなり続けている。凄いことだと思うんですよね。

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―半年後の8月には、第2部《火》が完成。炎に焼かれて傷つき息絶えていく裸の人間の姿が描かれていた。第3部《水》も同時に完成。当時はGHQによって厳しい規制があった。原爆を伝えるには、覚悟が必要だった。

アーサー プレスコードが敷かれていますよね。検閲というか。
岡村 原爆についての被害の報道とか、被爆者の写真を新聞や雑誌では紹介できなかった時代ですね。結構危ないと思いながら描いていたと思います。
アーサー 屏風っていうかたちで展示されていますけど、最初は屏風じゃなかったんですよね。
岡村 元々は掛け軸だったんですね。8本の掛け軸で、今も横のしわの跡が見えますよね。巻いていた跡が残っている。巻くとすぐに移動ができるので、もしアメリカ軍に何かされそうになったら、撤収。巻いて逃げる、そういうことも考えていたみたいですね。

―《原爆の図》は描くことが目的ではなく、人びとに見てもらうことが目的でした。全国巡回展では、会場責任者が逮捕されることもあったが、2人はくじけなかった。

アーサー 権力にもろにぶつかろうとしているんです。描いてはならない、表現してはだめというものを、鮮やかに表現している。でもそうしないと、芸術は成り立たない。装飾品で終わっちゃう。でも自分たちは本質を捉えて芸術をやろうとしている。

―2人の絵は見る者の心を動かしていく。大阪では、1人のおばさんが絵の中の赤ちゃんを撫でて、「このややこが死んだんやで」と自分の子どもに説明していた。

ナレーション 今までたくさんの絵を描いてきました。でも自分の絵を撫でてもらったのは初めてです。これが絵かきとして光栄でなくてなんでありましょう。あなたの心に支えられて、わたしは歩きましょう。(丸木俊著『女絵かきの誕生』より)

― 一方で、実際に被爆した老人からは、次のように言われた。

ナレーション この絵の中から私の孫が出てきそうな気がします。だが、このくらいのことで、原爆を描いたと思っては困ります。もっともっと描いて下さい。これは私たちの絵です」。

―丸木夫妻はさらに描き続けていく。それは2人だからこそできたのではないか。

岡村 おそらく1人であれば、背負いきれなかったんじゃないかという気もするんですね。2人の夫婦の画家だからこそ、お互いに引き合って続けることができたんだろうと。いろいろ批判も受けますし、それでも2人の画家は描き続けなければいけない。描かずにはいられない。そういう気持ちが原爆に対してあったんだと思いますね。

―2人を支えたのが位里の母・スマ。スマには、原爆の本質が見えていた。「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」スマは70歳を過ぎてから、俊の勧めで絵筆をとりはじめる。広島の山奥で自然と寄り添いながら生きてきた人ならではの描写で。スマの孫の小田さんは、よくいっしょに山へスケッチに行ったという。

小田 春か夏は毎年来ていましたから。しょっちゅう、あちこちに描きに行きました。

アーサー スマさんは、いろんな動物を育てて、生きもの育てて、野菜も育てて、それがスマさんの絵の底力。長年命を育ててきたっていうのが湧き出るように……

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―スマの絵には命あるものの輝きがあった。

アーサー ぼくはスマさんの絵は、世界的に語り継がれる絵だと思うんですね。アメリカのグランマ・モーゼスという素敵な画家がいるんですが、グランマ・モーゼスをはるかに越えてる絵描きだと思うんですね。

―《原爆の図》は世界を巡回していく。しかし、留守中にスマが殺害されるという事件が起きた。スマの死は俊の心に重くしかかる。原爆の図を描かない方がよかったのではないか。しかし、その心を励ましてくれたのはスマの残した絵だった。

ナレーション 字は読まず。字は書かなかったけれど、創造し、創作し、無から有を作り出すたくましい精神のおばあちゃんだったのです。もし、このおばあちゃんの絵がなかったなら、わたしはもっと辛かったでしょう。わたしはおばあちゃんの絵で救われているのです。(俊の言葉)

―核のもたらす災厄は決して過去のものではない。2人は《原爆の図》を描き続けた。1970年、ニューヨーク。《原爆の図》は初めてアメリカで展示され、厳しい批判にさらされる。

岡村 原爆を落としたことは正しかったという意見が主流になる国ですから、南京があった、パールハーバーがあった、だから原爆を落として当たり前と丸木夫妻は言われる訳ですね。南京の絵を中国の画家が描いて日本に持ってきて展示したら、あなたたちはどう思いますか。アメリカに原爆の図を持ってくるというのは、そういうことなんですよ、と。

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―帰国した俊は広島へ米兵捕虜の死の調査に行き、被爆した米兵が広島の人々に報復として殺されたという証言を聞く。そして第13部《米兵捕虜の死》が描かれた。

岡村 アメリカ人の捕虜が広島にいた、だから国は自分たちの兵隊も巻き込みながら兵器を使うんだという問題と、その後で日本の人たちがアメリカ兵を報復で殺してしまった、原爆は必ずしも日本人の被害だけの問題じゃないよっていう。私たちはつい日本人の被害のことばかり考えるけど、戦争ってそういうものじゃない。日米両方に対する問題提起が潜んでいる絵なんですね。

アーサー 被爆者は日本人という枠とは違う意味の言葉なんだと、それをすごく鮮やかに示している。
岡村 丸木夫妻にとっても、最初にそれを考えるきっかけになった重要な絵だと思いますね。

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―絵本『ひろしまのピカ』は、被爆した女性の実話をもとに描いた絵本、7歳の女の子が主人公。絵本の最後は「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」というスマの言葉で締めくくられている。
丸木俊はあとがきに記している。「わたしには子どもがいないから孫もいません。でもこれは孫たちへの遺言なのです」

―1967年、埼玉県東松山に建てられた丸木美術館。位里の故郷の太田川に似ているから、この地が選ばれた。

―晩年の共同制作の貴重な映像(映画『劫火』より)。人間を描く俊、その上に墨を流していく位里。2人の芸術家としてのせめぎあいは、位里が亡くなるまで、実に40年以上も続いた。

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―今年8月6日、丸木美術館にて、とうろう流しの光景。そこには、丸木俊の思いを受け止めた孫たちの姿があった。

―アーサー・ビナードさんは3年前から、《原爆の図》から紙芝居を作る準備を進めてきた。

アーサー 《原爆の図》を目の前にして、その絵と見つめ合うと巻き込まれて、自分も当事者の仲間入りをする。そういう装置として働くんですね。ぼくは《原爆の図》がみんなを引き込んで一つの体験を共有するものとして作用していることに紙芝居との共通点を感じて、ある時から《原爆の図》は巨大な紙芝居なんだなと考えるようになったんですね。

―8月2日、広島市内の世界平和記念講堂マリアホールにて、アーサー・ビナードさん完成間近の『やわらかい はだ』紙芝居実演。

会場からの質問 子どもには残酷な感じがする。
アーサー 原爆の図は子どもが見てもいいと思っている。全然恐ろしすぎるという書き方じゃない。でもおっしゃるように、こっちが物語を作ると、子どもが見たらどうなのか考えなければいけないですね。

―皆の意見に耳を傾けるアーサーさん、完成までにはもう少し時間がかかりそう。

(最後に、スタジオにて)
黒柳徹子 皆さん、いかがだったでしょうか。私はアーサーさんが原爆の図を紙芝居にしたというのは、とても素晴らしいアイディアだと思います。私も子どもの時紙芝居を見ましたけど、ほんとに紙芝居は次にどんな絵が出てくるのだろうとワクワクしました。この広島の悲劇を、子どもたちが紙芝居で知るというのは、素晴らしい、大切なことだと思います。

《了》
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2015/8/19

【米国出張C】アメリカン大学《原爆の図》搬出  調査・旅行・出張

午前9時に美術運送会社がアメリカン大学に到着するというので、8時半から美術館に行って待機をしていたのですが、トラックはまったく姿も見えず。
展示担当のブルースの研究室でしばらく待たせてもらっていたものの、「午後2時に予定変更」との連絡が入ったので、大学の喫茶店で原稿を書いて時間を潰しました。

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すでに1階の廊下では木箱に入った《原爆の図》が待機しています。
午後2時過ぎ、ようやくトラックが到着。
ブルースと2人の運転手が手際よく木箱や段ボール箱を運び込み、無事に作品を送り出すことができました。

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《原爆の図》は、今日は運送会社の倉庫に一泊して、明日の昼頃にボストン大学に到着予定とのこと。
今回は結局、日程の都合でボストンまでの帯同は断念したのですが、あまり当てにならないスケジュールを考えると、正解だったのかもしれません。

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名残惜しいですが、これでアメリカン大学とはお別れです。
今日はブルースの研究室で待機しているとき、スーザンという大学の関係者と思われる女性から、「展覧会素晴らしかったわ、パワフルで、美しくて、とても感激した。『ワシントン・ポスト』にも記事が出ていたわよ!」と声をかけられました。

『ワシントン・ポスト』に掲載された記事というのは、Web上で見ることができる6月23日付の記事でしょう。

http://www.washingtonpost.com/goingoutguide/museums/paintings-bring-japans-hellish-aftermath-into-vivid-focus/2015/07/23/73aaf0c6-2b2c-11e5-bd33-395c05608059_story.html

美術館を後にしてホテルに帰る途中、《原爆の図》を乗せたトラックが走り去って行くのが見えました。

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感傷にひたる間もなく、明日は昼の飛行機で日本に戻ります。
9月はじめには、ボストン大学アート・ギャラリーで作品展示に立ち会う予定です。
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2015/8/18

【米国出張B】アフリカ美術館/ハーシュホーン美術館/アメリカ・インディアン博物館  調査・旅行・出張

ワシントンD.C.の休日は、国立アフリカ美術館、ハーシュホーン美術館、国立アメリカ・インディアン博物館をまわって一日を過ごしました。

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国立アフリカ美術館は、地上の小さな建物からは想像できない、地下3階まで続く見ごたえのある美術館です。
コレクション展示の「アフリカン・モザイク」は、地域やテーマなどを大まかにまとめながら、例えばエル・アナツィの廃品をタペストリにした現代的な彫刻と、100年以上前のマスクや木彫など時代を越えた作品を同じ空間にならべていました。

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アフリカ大陸の美術だけではなく、アフリカ系アメリカ人のジェフリー・ローレンスやジャン=ミシェル・バスキアの作品も見ることができました。なぜ米国でアフリカ美術を展示するのか、その文脈もよくわかるような気がしました。

企画展は、ダンテの『神曲』をもとにした「天国と地獄」というテーマで、地下3階に向かって下りて行く展示室をうまく活用した(最下層に展示された地獄の空間は、背すじが寒くなる見事さ)40人の現代美術作家による展覧会です。

   *   *   *

国立アメリカ・インディアン博物館へ行く途中には、ハーシュホーン美術館に立ち寄り、イラン出身の映像作家シリン・ネシャットの企画展を見ました。

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2000年に丸木夫妻の原爆の図第14部《からす》や《南京大虐殺の図》が出品された光州ビエンナーレでグランプリを獲得したのが彼女でした。
女性の肌にアラビア語を模様のようにつづった“Women of Allah”など、イスラム教の伝統や現代社会の構造的な暴力性を表現する詩的な写真や映像が、緊張感のある真っ白な空間に展示されています。多分に政治的な意味を含んだ作品でありながら、洗練されて美しく、どこか寓話的にも見えます。

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展示を見ながら、本当は「原爆の図展」を企画した早川さんは、こういう風に《原爆の図》を見せたかったのだろうなあ……と、複雑な思いがしました。
いつもの「丸木美術館らしい」やり方で、アメリカ展が実現したのは成功だとは思うけれど、一方でそれは、予定調和から踏み出せない丸木美術館の抱える「限界」かもしれません。

夏休みの大勢の観光客でにぎわうワシントンD.C.の中心部で、アメリカン大学の「原爆の図展」を知る人は、どれほどいるでしょうか。
1995年の原爆展中止事件に対し、今回の展覧会で否定的な反応がなかったのは、アメリカの世論の変化が理由というより、20年前に国会議事堂のすぐ目の前の国立航空宇宙博物館で、原爆の被害展示を試みた関係者たちの挑戦が凄かったのだということも、あらためて考えています。

   *   *   *

最後に訪れた国立アメリカ・インディアン博物館の展示は、北米に限らず中南米の先住民族も展示に含んでいるとのことで、企画展は「インカ展」でした。

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古来より伝えられた世界観を紹介する展示を見ながら、日本のアイヌなども思い起こして、そういえば少し前に、日本でもこんな展示を見た気がする……と気がつきました。
アイヌや在日朝鮮人の生活や文化を紹介していた大阪人権資料館です。

米国で先住民族やアフリカ系アメリカ人の展示をするということは、日本では在日朝鮮人やアイヌの文化と歴史を、たとえばワシントンD.C.のような政治の中心地である東京に大きな国立博物館を作って展示することに近いのでしょう。
実際には、日本では逆に、大阪で窮状に追い込まれているのですが。

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米国も多くの問題を抱えているのでしょうが、それでも彼らの文化を認め、かつ消費するだけでなく、奴隷制度や入植・絶滅政策の歴史も紹介し、差別を克服すべきものとして向き合おうと試みる姿勢は、自分には眩しく見えます。

「日本」を内側から褒め称えようとする物言いを聞くたびに複雑な気がするのは、その「日本」に誰が含まれていて、いないのか、あからさまな線引きの装置として言葉が使われていて、自分も無意識のうちに加担しているのではないかと思わせられるからかもしれません。
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2015/8/17

【米国出張A】ワシントンD.C.「原爆の図展」撤去作業  調査・旅行・出張

朝一番にワシントンD.C.郊外のアメリカン大学に行って、「原爆の図展」の撤去作業に立ち会いました。
ラスムセン館長や実務担当のクリスティアンヌ、リディ、展示作業担当のブルース、ザックといった、この展覧会でお世話になった皆さんにも久しぶりに再会です。

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誰もいなくなり、照明も落とされた会場は、昨日とは打って変わって寂しい雰囲気でした。

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展示作業のときにも感じましたが、ザックを中心とする作業班の絵に対する扱いは、本当に敬意が込められていて、ありがたいです。

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開梱したときの手順をそのまま逆回転するように、ひとつひとつの絵を梱包していきました。
写真に撮ると、6月の展示作業のときにほとんど変わらないですね。

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最後は木箱に入れて蓋を固定し、作業は無事に終了。
画面のチェックも丁寧にしましたが、絵の痛みはありませんでした。

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すっかり空っぽになった展示室。
名残惜しい気もしますが、次のボストン展も素晴らしい展覧会になることでしょう。
白い台座はボストンでも再利用される予定です。

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会場に設置した募金箱の中には、1ドル札を中心に、5万円を超える募金が入っていました。
そのなかには、日本の千円札も1枚入っていました。

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ラスムセン館長によれば、会期中には日本人も多く訪れ、在米の方だけでなく、日本から来た旅行者も多かったとのこと。ピーター・カズニックさんも、日本のメディアからの取材が凄かった、とおっしゃっていましたが、それだけ効果が大きかったのかもしれません。

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そして、この日の帰り道。
アメリカン大学からジョージタウンにあるホテルまでは、これまで何度も往復し、その都度ホテルのシャトルバスに送迎してもらったり、メトロバスや地下鉄を利用したりしていたのですが(どちらも地下鉄駅からはかなり距離があるのです)、実は歩くとほぼ直線距離で、20分程度で行けることがわかってしまいました。
ウィスコンシン通りからマサチューセッツ通りに入って行くだけの単純な道で、距離にして約2q程度。なんと丸木美術館から最寄りの東武東上線つきのわ駅まで歩くよりもずっと近いのです。これは、かなりショックでした。

そのちょうど中間地点のあたりに、全米で2番目に大きいという立派なカテドラルがあります。
少し疲れたら、カテドラルの前庭の芝生に寝そべるのも気持ちが良いです。
といっても、もうアメリカン大学に来ることはそうないかもしれませんが……。

《原爆の図》の梱包は無事に終わりましたが、広島・長崎の資料展示の梱包作業は明日。
作品をボストンに送り出すのは明後日の午前中ということになりました。
「そういうことだから、明日は一日、ワシントンD.C.をエンジョイしてくれ!」とブルース。
まあ、遅れている原稿やら何やら、仕事をこちらに持ってきてはいるのですが、一日中ホテルで缶詰めというのもつまらないので、美術館・物館を訪れるかどうするか、これからじっくり考えることにします。
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2015/8/16

【米国出張@】ワシントンD.C.「原爆の図展」最終日  調査・旅行・出張

ワシントンD.C.のアメリカン大学美術館で行われている「原爆の図展」の作品撤去に立ち会うために、昨日から米国に来ています。
展覧会最終日の今日は、開館1時間前に美術館に到着して、午後4時の閉館まで一日じゅう美術館内で過ごしました。

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午前中は、観客も少なかったので、ゆっくり作品と向き合う方が長かったかもしれません。
午後も、すごくたくさんの観客、というわけではありませんでしたが(この時期の丸木美術館の方が混雑しているでしょう)、会場に人が途絶えることはありませんでした。

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観客は、やはり白人系の夫婦・家族連れが多く、全体の6割程度。
非白人の観客は、ほとんど日本人でした。
朝一番に来て下さったのは、日本からアメリカに仕事に来ていた博物館教育の先生。
米国在住の芸術系の大学教授や、立教大学ラテンアメリカ研究所の研究員、立命館大学からアメリカン大学に留学している学生も美術マネジメントを学んでいる友人を連れて来てくれました。
話をしてみると共通の知人がいたりして、米国に行っても世界は広いようで狭いものです。

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午後には、ピーター・カズニックさんも会場に姿を見せて下さいました。
会期中の観客の反応は概ね好意的。「真珠湾攻撃の視点がない」などの批判もあったけれど、ごくわずかだそうです。
会場に置かれた感想ノートの内容もほとんどが好評でした。日本語の感想も書かれていて、なかには中国語と思しき感想もありました。

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カズニックさんによれば、観客からの疑問として多かったのは、「なぜ《米兵捕虜の死》に女性が描かれているのか」という問題だったそうです。
それは丸木夫妻が1971年に広島で聞き取りをした際、「捕虜のなかには女性がいた」との証言を聞いたためなのですが、その後の調査によれば、実際には女性兵はおらず、おそらく若い白人兵が女性のように見えたのだろうと言われています。
まあ、この作品に限らず「歴史的真実」と「芸術的真実」は、必ずしも常に一致するというわけではないのですが、なかなか答えに難しい問題です。

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つい先日まで日本に滞在していたカズニックさんは、広島、長崎をはじめ、名古屋、長野など各地を講演で飛び回っていました。
その間にオバマ大統領がアメリカン大学で講演をするという機会があり、もしオバマが「原爆展」を見るのであれば(大学側から招待状は出していました)、予定を変更して帰国し、会場の案内をするつもりでいたそうですが、残念ながら実現しなかった、とのこと。
この話題は、日本でも紹介されていましたが、オバマが展覧会を見ないことは、やはり事前にわかっていたようです。

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それだけ慌ただしい日本滞在のなかで、しかし、(お互い野球好きということもあって)カズニックさんは「広島カープと阪神タイガースの試合を8月5日に見た。2-8で負けてしまったけど」と、ニヤリと笑いながら報告して下さいました。
「ピースナイターに負ける(カープは8月6日とあわせて「ピースナイター」という企画を行ったものの、無残に連敗)なんて、カープは良くない」と答えると、「いや、今年だけじゃない、去年も一昨年も、ずっとカープの状態は良くない」と厳しいお言葉。それだけ心にかけてくれているということなのでしょう。

そんな話をしているうちに、午後4時を迎え展覧会は無事に終了。
明日は朝から作品撤去・梱包作業を行います。
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2015/8/14

テレビ埼玉「NEWS 930」出演  TV・ラジオ放送

明日からの渡米前に、テレビ埼玉のニュース番組「NEWS 930」にスタジオ生出演して、《原爆の図》について話をさせて頂きました。

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お声掛け下さったのは、同い年の余野誠記者。
これまでにも何度も丸木美術館に取材に来て下さっています。
スタジオでは、波多江良一アナウンサー、早川茉希アナウンサーにお相手頂きました。
お世話になった皆さまに、御礼申し上げます。

備忘を兼ねて、以下に番組内容を書き起こします。

*   *   *

忘れてはならない記憶――戦後70年

【テロップ】戦後70年C海を渡った原爆の図

―スタジオ―
波多江良一アナウンサー 特集です。明日、15日で日本は戦後70年を迎えます。戦争体験者の高齢化が進み、戦争の記憶は年々、確実に失われています。こうした記憶を、どのようにして継承していくのか。テレ玉では、4回にわたってシリーズで考えてきました。最終回の今夜は、広島、長崎に投下された原爆についてです。

早川茉希アナウンサー スタジオには、《原爆の図》で知られる画家、故・丸木位里・俊夫妻にゆかりが深い東松山市にある原爆の図丸木美術館の学芸員・岡村幸宣さんにお来しいただきました。よろしくお願いいたします。

岡村 はい、よろしくお願いいたします。

波多江アナウンサー 《原爆の図》というのは、原爆の惨禍を描いた15部の連作なんですけれども、丸木夫妻が目の当たりにした絶望と破壊の有り様を伝えるため、完成させたとのことですが、この絵の持つ意味について岡村さんはどうお考えでしょうか?

―生前の丸木位里・丸木俊の映像―

岡村 原爆を目の当たりにした丸木夫妻が、二度と同じ体験をしてほしくないという思いを込めて、私たちに託したメッセージのような絵画です。
丸木夫妻の体験だけではなくて、当時生きて、死んでいった無数の人たちの悲しみや苦しみ、それから願いや希望といった思いを器のように受け止めた絵画だと考えています。

―丸木美術館にて、原爆の図《火》、《とうろう流し》、《米兵捕虜の死》の展示風景―

早川アナウンサー この《原爆の図》のうち、代表的な作品《幽霊》、《火》など6つの作品が今年6月、海を渡り、明後日までワシントンのアメリカン大学美術館で公開されています。なぜアメリカでの公開となったのでしょうか?

岡村 それには、数年越しの一人の女性の、アメリカでぜひ《原爆の図》を公開したいという熱意があったんですね。なかなか受け入れてくれる場所がなくて難航していたんですが、アメリカン大学の歴史学者ピーター・カズニックさんが手を挙げて下さいました。アメリカの公的な歴史観というのは、原爆投下は正しかったというものですから、それをもう一度見つめ直そうという勇気のある挑戦だと思います。

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―丸木美術館にて、《原爆の図》の梱包作業風景―
【テロップ】アメリカ・ワシントンへ旅立つ「原爆の図」

波多江アナウンサー ちょうど2か月前になりますけれども、6月13日から明後日まで、およそ2か月間にわたってワシントンでの公開となりました。

―アメリカン大学美術館での作品開梱風景―
【テロップ】ワシントンのアメリカン大学美術館に「原爆の図」が到着

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―作業員によって展示されていく《原爆の図》―
【テロップ】展示されるのは「幽霊」「火」「署名」「とうろう流し」「米兵捕虜の死」「からす」の6作品

―照明が当てられ、会場に美しくならぶ《原爆の図》―
【テロップ】明るい部屋でスポットライトもあたり丸木美術館で見る「原爆の図」より鮮やかな色合い

―展覧会がはじまり、会場を訪れる来館者。それを撮影するテレビカメラと取材スタッフ―
【テロップ】海外のメディアも取材

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―インタビューに答える初老の男性―
【テロップ】
―このような素晴らしい作品は本でしか見たことがなく、今回初めて実際に見ました。
Q 今なお日本とアメリカの間に原爆についての議論があり、この展示はそのための良い機会だと思いますか?
―私は原爆投下の是非について議論することは必要だと信じています。
Q この展示はアメリカの市民が日本で何が起こったかを知るために役立つと思いますか?
―はい、そうであると信じています。

―スタジオ―
波多江アナウンサー 岡村さん自身も現地に行かれて、今のインタビューのカメラを回しているのは岡村さんご自身なんですけれども。

岡村 はい、そうなんです(笑)

波多江アナウンサー 実際、丸木夫妻の絵をご覧になった来場者は、どんな表情をしていたのか、作品を見てどんなことを感じたのか、教えて下さい。

岡村 まず、アメリカにとっての原爆のイメージは、キノコ雲の上からのもので、原爆を落とした飛行機が英雄になるんですね。ですけれども、丸木夫妻の《原爆の図》はまったく逆で、キノコ雲の下にいる人間の姿が等身大で描かれている。その大画面に向き合って、国境を越えて一人の人間として絵の中の人びとに共感している、そういう思いが非常に強く伝わってきました。

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―アメリカン大学《原爆の図》展示風景、続いて会場で絵を見る人びとの姿―

―スタジオ―
早川アナウンサー アメリカでは、「戦争の終結を早めた原爆投下は正しかった」と原爆投下を肯定する考え方が根強いと言われています。
しかし、先日アメリカの調査会社が行った原爆投下に関する意識調査で、ご覧のように65歳以上の世代の70%近くが「正しかった」と回答したのに対し、18歳から29歳の若い世代では45%が「間違っていた」と答えたということなんですね。アメリカの人たち、特に若者の意識の変化について岡村さんは感じ取ることはありましたか?

【テロップ】
Q広島と長崎に原爆を投下した判断(アメリカの調査会社調べ)
▷65歳以上 正しかった65% 間違っていた15%
▷18〜29歳 正しかった41% 間違っていた45%

岡村 この調査だと、若い世代は逆転しているんですね。もちろんアメリカは多様な国なので、地域とか教育の差もありますから、まだまだ認識を変えていく必要もあるでしょうけれども、若い世代は比較的いろんな情報にアクセスできて、アメリカの歴史を相対的に見ることができるのかなと思います。
それから、カズニックさんのような、原爆投下は本当に正しかったのかという問題提起をしながら、普遍的な人間の感覚から原爆について見直していくという働きかけが、少しずつではあるけれども世論を変えていると実感しますね。

波多江アナウンサー お知らせの後も岡村さんにお話を伺います。

〈CM〉

―スタジオ―
波多江アナウンサー 戦後70年特集、引き続き原爆の図丸木美術館学芸員の岡村さんにお話を聴いていきます。さて、《原爆の図》のアメリカでの公開ですが、ワシントンでの公開が明後日までなんですね。その後、来月8日からはボストンで、11月からはニューヨークと続いていくんですよね。

岡村 そうですね。私も明日飛行機でアメリカに行って、ワシントンの最終日の様子を見てこようと思っています。その後、展覧会を終えて、《原爆の図》をまた梱包して、ボストンに送り出して帰ってくるんですけれども、9月の頭にはまたボストンに行って、展覧会の準備をするという、この後はなかなか慌ただしいスケジュールが待っていますね。

早川アナウンサー お忙しそうですね。また、アメリカのオバマ大統領も、この展示に招待しているそうですね。

岡村 実は、ワシントンの展示のときに、アメリカン大学でオバマ大統領が講演をする機会があって、ぜひ会場にも足を運んでほしいという打診もあったんですけれども、残念ながら実現することはありませんでした。おそらく政治的な影響力を考慮したんだろうと思うのですが、まだこの後も東海岸でボストン、ニューヨークと続きますので、ぜひオバマ大統領には、一人の人間として、《原爆の図》の前に立つ機会を設けて欲しいと願っています。

波多江アナウンサー 日本に話を移しますと、今年いっぱい《原爆の図》の代表的な作品は海外に渡っていますので、東松山市の丸木美術館では見ることができないんですけれども、その一方でこの間は、丸木夫妻の別の《原爆の図》も展示されているんですよね。

岡村 そうなんです。《原爆の図》というと、どうしても15部連作が一般的なんですけれども、実はそれ以外にも全国各地に番外編ともいうべき《原爆の図》がたくさんあるんですね。絵がいくつもアメリカに行っているという機会を逆に生かして、今回はふだん見られない作品をじっくり見てみようと。《原爆の図》の歴史をトータルで見つめ直す戦後70年にしようという試みを、いま丸木美術館でやっています。

―「知られざる原爆の図展」会場風景の紹介―
【テロップ】「原爆長崎之図」二部作/「浦上天主堂」/「三菱兵器工場」

―スタジオ―
早川アナウンサー また、丸木夫妻が《原爆の図》の制作に取り組む短い映像が新たに見つかって、美術館で公開されているということですね。

岡村 はい。これも貴重な映像なんです。《原爆の図》が描かれた当初、1950年の制作風景が写っているという、非常に珍しいもので、面白いのは、この映像のなかで「原爆」という言葉が一度も使われていないんですね。当時、アメリカ軍を中心とする占領軍が日本を統治していて、原爆についての報道が厳しく禁じられていたんです。それで、このフィルムも、検閲に引っかかってしまうだろうというので、「原爆」という言葉を使わずに紹介する工夫が見て取れるんですね。

―映像「芸術は愉し」上映展示風景―
【テロップ】新たに見つかった「原爆の図」製作風景を撮影した映像

―スタジオ―
波多江アナウンサー この初期の時代と言いますと1950年代ですから、終戦から5年なわけですよね。そうした中で《原爆の図》を描く夫妻、しかし、「原爆」という言葉を禁じられているという、いろんな苦悩とか、政治的な背景ももちろんあると思うんですが。

岡村 今想像するよりも、ずっと危険が大きかったと思います。

波多江アナウンサー そうした危険と隣り合わせの中でもしっかりと描き続けて、ですから後世と言いますか、この時代も作品として残っているということなんですね。
おしまいになりますけれども、冒頭から申し上げています通り戦争体験者の高齢化が進んで、その記憶は失われつつあります。丸木夫妻の戦争、そして核への怒り、さらには平和への思いを、岡村さん自身は今後どのようにして継承していくべきだとお考えでしょうか。

岡村 70年前の、しかも他人の記憶を継承するということは、非常に難しいことだと思うんですね。ですけれども、その困難に向かって試み続けるということが大事なのではないかと思います。悲しみの記憶を学ぶということは、過去の歴史を知るだけではないんですね。今を生きる私たちが、命をどうとらえて、これからどんな世界を作っていくか、考えるための道しるべになると思っています。
本当の「平和」というのは、自分ではない他人の痛みをどう想像して、立場を超えて共感していくかということだと思うんですね。そのための力を、《原爆の図》は私たちに与えてくれると考えています。

―生前の丸木位里・丸木俊の映像など―

―スタジオ―
波多江アナウンサー そういった作品からもそうですけれども、われわれ世代、さらにはもっと若いお子さん世代たちがしっかりと風化させないようにしていかなくてはいけないと、そんなふうにも感じました。今日は原爆の図丸木美術館学芸員の岡村さんにお話を伺いました。
岡村さん、どうもありがとうございました。

早川アナウンサー ありがとうございました。

岡村 ありがとうございました。

【了】
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2015/8/11

洪成潭「東アジアのYASUKUNISM」展トークイベント  イベント

午後2時より、丸木美術館2階アートスペースで開催中(8月30日まで)の洪成潭「東アジアのYASUKUNISM」展のトークを行いました。

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写真は左から、今展実行委員の古川美佳さん、洪成潭(ホンソンダム)さん、岡村です。
社会に波紋を投げかける果敢な作品とは対照的に、穏やかな表情で挨拶をする洪成潭さん。
「今回の展示は、巨人のような存在の芸術の先駆者である丸木夫妻に捧げる意味がある」と仰って下さいました。

「現在の日本は不安な道を歩いているが、丸木夫妻は重要な道を示している。人間と人間の疎通を可能にするのが芸術家の役割だが、その疎通とは他者との平凡な対話ではない。苦痛に叫ぶ人の声を聞き、ともに手をつないで自分の苦痛として感じることだ。人は内容より題目に流されるから、《原爆の図》という題名に恐れるものだが、真摯に対話するように絵を見たとき、丸木夫妻の愛情に気がつく。丸木夫妻は絶えず芸術的自由を拡張してきた方だと思う。歴史や政治の本質に絵を通して近づくことができるという道を拓いてきた」

洪さんの言葉のひとつひとつは、とてもよく練られたもので、深く考えさせられます。

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「過去を恐れずに見つめなければいけない。なぜそれが大切かというと、権力がつくりあげた記憶によって国民が手なずけられてしまえば、人びとは主体的な考えができなくなる。国家暴力や統制されたメディアを事実だと思うようになっていく。それは権力の奴隷のようなものだ。もっと時間がたてば、奴隷であることを恥ずかしいと思わず、みずからつながれた鎖を誇らしいと思うようになる。やがて『自分の鎖が立派だ』とファッションのように自慢する」

過去から目をそらすのではなく、向き合うことで自分自身が奴隷であることに気づく……と、洪さんは、このときは力を込めて強く語りました。
主体的に考えなくなることが奴隷のはじまりである、というのは、ひろしま忌でおしどりマコさんが話していた内容ともつながります。

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会場に掲げられた巨大な垂れ幕は、もとは木版画の作品で、画面中央にある魚と少女の循環は回復、治癒の象徴だそうです。
もともと、シャーマニズム、アニミズムに強い関心があるという洪さんは、朝鮮半島はもちろん、日本の自然崇拝である神道にも心を惹かれているとのこと。
だからこそ、本来の生命と祝祭の文化を歪曲し、戦死者を包装する死の文化の終着点とした“YASUKUNISM”が許せないというのです。
その深い闇を批判するというより、苦痛から解放し治癒したいという洪さんの最後の発言は、重く響きました。

参加者は約20名ほど。皆さん熱心に会場を観て、トークを聞いていた様子が印象的でした。
個人的には、今回の展覧会のタイトルが「東アジア」を名乗っていたことに感銘を受けました。
悠久の歴史から互いに交流し、さまざまな影響を与え合っていた東アジアの文化圏。
国家という軛に左右されるのではなく、それぞれ個の人間として歴史に向き合い、精神を疎通させることが、これからの未来を築いていくのだということを、あらためて考えました。

追記:古川美佳さんがトークの報告記事を書いて下さっています。
http://www.labornetjp.org/news/2015/0811maruki
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2015/8/7

『朝日新聞デジタル』“「原爆の図」制作初期の映像発見”など  掲載雑誌・新聞

「原爆の図」制作初期の映像発見
 ――2015年8月7日朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASH8702DWH86ULZU011.html

朝日新聞デジタルの動画ニュースに、現在丸木美術館で公開中の1950年夏の『文化ニュース』が紹介されました。なぜかYahooのトップニュースにも取り上げられていたようで、朝から数人の方にご教示頂きました。

ひろしま忌の後片付けで朝から慌ただしかったこの日。
新聞各紙もとうろう流しの様子を伝えてくれています。

   *   *   *

丸木美術館で灯ろう流し
 ――2015年8月7日『東京新聞』朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150807/CK2015080702000163.html

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改めて平和を誓う 丸木美術館でひろしま忌
 ――2015年8月7日『毎日新聞』埼玉版朝刊
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20150807ddlk11040196000c.html

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平和願いとうろう流し 丸木美術館で「ひろしま忌」
 ――2015年8月7日『埼玉新聞』朝刊

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取材して下さった各紙の記者の皆さまに、御礼申し上げます。
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2015/8/6

被爆70年丸木美術館ひろしま忌  イベント

毎年恒例の丸木美術館ひろしま忌。
被爆70年の節目に当たる今年のひろしま忌も無事に終わりました。
前日までの猛暑で気温の上昇を心配していたのですが、午後から薄曇りの天候で気温の上昇も抑えられ、本当に救われました。

出だしは「今年は例年より少ないか……」との声も聞こえましたが、終わってみれば平日にしては大賑わいの入館者合計187人。

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八怪堂では、たくさんの子どもたちが、とうろうに絵を描いてくれました。

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午後2時からは原爆観音堂の前で、城西川越中学高校による尺八演奏。
和やかな空気が流れます。

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午後3時からは新館ホールで、アウシュビッツ国際青少年交流の家のユーディット・ヘーネさん(写真左)が挨拶をして下さいました。

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続いては、福島県いわき市出身のYUKARIさんが、福島への思いを込めて『My Life』などの3つの曲を歌って下さいました。

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おしどり マコさん・ケンさんのトークは、(美術館ニュースにも書いて下さっていましたが)、吉本興業で漫才を始めたばかりの修行時代のエピソードが心に響きました。
戦時中の『国策漫才』の台本をたくさん読まされたので、無理やりやらされたのか、それとも本当に正しいと思ったのか、と喜味こいし先生に聞いたところ、「芸人は国のために喋るな、目の前のお客さまの幸せのために喋れ。そこ間違えたらあかん」という答えが返ってきたそうです。
美術の世界で、そういう大事なことを教えてくれる先生がいるでしょうか。作品の自律性とは何を指すのか、考えさせられました。
このところ、美術と大衆、社会について考える機会が多いので、じわじわと言葉が胸に突き刺さります。

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夕暮れ迫る都幾川では、おしどりマコさんやYUKARIさんもとうろう流しに参加して下さいました。
もちろん、子どもたちの元気な声も響いていました。
ひろしま忌を支えて下さったスタッフの皆さん、そしてご来場いただいた多くの方がたに、心から御礼を申し上げます。
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2015/8/4

8月のラジオ・テレビ出演予定  TV・ラジオ放送

被爆70年の8月、アメリカ展を含めた《原爆の図》についての話をする機会が増えています。

まず、明日8月4日の朝7時15分頃から10分ほど、KBC九州朝日放送のラジオ番組『Morning Wave』に電話で生出演します。

また、8月14日の夜9時半からは、テレビ埼玉のニュース番組『NEWS930』に、スタジオ生出演する予定です。こちらも10分程度と聞いています。

どちらも地域限定の放送になりますが、該当地域にいらっしゃる方はご記憶くださいませ。
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2015/8/3

とうろう流しの準備  自然・生きものたち

広島から帰宅の翌朝。
美術館では、炎天下の草刈りが待っています。
事務局のYさん、実習生のSくんとともに、午前中は人のための道づくり、午後はとうろうのための川づくり。水の中は手で草をむしるより仕方ありません。

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今年の実習生は男子が一人いたので、とても助かりました。
女性実習生のNさん、Fさんは館内の棚拭き、草むしり、とうろう作りに活躍。
音響機材設置には、評議員のAさん、Hさんが奮闘して下さっています。

8月の丸木美術館は、ゆっくり椅子に座って仕事をする時間もない忙しさです。
もうすぐ8月6日、とうろう流しの日がやってきます。
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2015/8/2

【広島出張2日目】原爆文学研究会・ギャラリーG  調査・旅行・出張

午前中は原爆文学研究会。昨日の広島県美のシンポジウムは消化不良気味でしたが、示唆に富む研究発表を続けて聞くうちに忘却の彼方へ。
やはり研究発表は、愛と熱意がなければ……とあらためて実感しました。

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成田龍一さんの発表の途中で研究会を抜けたのは心残りでしたが、ギャラリーGで浅見俊哉さんと竹田信平さんとのトークへ。
浅見さんは被爆樹木の影を感光紙に写し取る写真作品で、その行為そのものが「原爆の閃光」を思い起こします。爽やかな作風なので、女性ファンも多いようです。

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竹田さんはちょうど長崎県立美術館で個展の展示を終えて駆けつけてきたそうです。
広島県立美術館でも展示が行われており、被爆70年の広島・長崎での同時展示という体験が、今後の彼の制作にどんな新しい方向性をもたらすのか、楽しみです。

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二人の異なる作家とのトークは、なかなか難しいものがあるのですが、ひとつ心残りだったのは、竹田さんが「体験を忘れること」の意味について語ったとき、「多くの人はそもそも出会わないのだから、忘れることさえできないのでは」と返してしまったこと。
あの発言は、地道に在米被爆者の証言のアーカイブを作った上で表現活動に入った、つまり数多くの被爆体験が自らの身体を通過したという体験を持つ彼ならではの思考だったのかもしれません。もう少し丁寧に掬い取るべきでした。

原爆表現の多様さを実感した2日間の広島滞在を終えて、帰路に着きかけたとき、中国新聞のD記者夫妻に呼び止められて、大須賀町の裏街でちょっとだけ飲みながら話をしました。
こういう嬉しい体験があるから、ああ、また広島に来なければ、という気持ちになるのです。
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