2015/4/28

神奈川県立近代美術館「鎌倉からはじまった」/「日韓近代美術家のまなざし」  他館企画など

日本最初の公立近代美術館として、1951年11月に鎌倉の鶴岡八幡宮境内に開館した神奈川県立近代美術館(現在の神奈川県立近代美術館鎌倉館)。
日本の美術館の歴史を牽引してきたこの美術館が、借地契約満了に伴い、2016年1月末をもって展覧会活動に終止符を打つことになりました。

最後の展覧会活動となる今年度は、三期に分けてこれまでの活動を振り返るというので、新緑の美しい鎌倉へ足を運びました。
PART 1の展示は「1985-2016近代美術館のこれから」

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水沢館長には招待券をご用意頂いたのですが、通常の入館券を購入すると、鎌倉館の写真をデザインした特製のスタンプカード(二期分のスタンプを押すと三期の展覧会が無料になる)をもらえるというので、とりあえずカードをゲットしました。

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上の写真、右下に見えるのが特製スタンプカードです。鎌倉館のポストカードセットも購入し、展覧会チラシや入館券とあわせてならべると、坂倉準三設計の名建築の写真がずらりとならんで壮観です。

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1985年から2015年までに開催した主な展覧会を、所蔵作品を中心に回顧する企画展示を観た後、階段を下りて行くと、平家池に張り出した半屋外の1階テラス。風が心地よく吹き抜け、水面の光がテラスの天井に反射して揺れています。

今年は三期それぞれの企画展に足を運んで、ゆるやかに鎌倉館とのお別れを、味わっていきたいと思います。

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第2会場の鎌倉別館の日本画展示を観た後は、葉山へ移動。
今度は海風と波の音の心地よい神奈川県立近代美術館葉山館で、充実の企画展「ふたたびの出会い 日韓近代美術家のまなざし―『朝鮮』で描く」を観ました。

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午後2時から展覧会の企画を担当した学芸員の李美那さんのギャラリートークがあったので、ひと通り会場を観てまわった後、もう一度、今度はトークを聞きながら巡りました。

有名無名にかかわらず、そして日本人も朝鮮人も分けることなく、会場を埋め尽くすようにならんだ絵画群。
「日韓」そして「近代」と言われると、どうしても植民地支配をめぐる歴史的な視線を持たずにはいられませんが、今回の展覧会は、そうした先入観をいったん心に鎮めて、個々の画家たちが何と出会い、何を描いたのかを見つめ直すという趣旨だそうです。
「ふたたびの出会い」というサブタイトルには、そうした意味が込められているとのこと。

実際、展覧会を見ていくと、「日本」「朝鮮」といった二分法では束ねられない、画家たちの多様な視線が乱反射しています。
「日本」で生まれて「朝鮮」に移り住んだ「日本」の画家。「朝鮮」を一時的に旅した「日本」の画家。「朝鮮」で生まれ育った「日本」人の画家。「朝鮮」で生まれて「日本」に留学して絵を学んだ「朝鮮」の画家。留学ではなく日本を旅した「朝鮮」の画家……。
同じようなモチーフを選んでいても、それぞれの画家の背景の違いが、絵にあらわれているようです。

たとえば、朝鮮の風景を描いた作品でも、「日本」から来た金山平三は《南大門》、南薫造は《景福宮建春門》というように伝統建築に異国情緒を感じる一方、「朝鮮」の側の金重鉉らは新しい西洋建築を描くといった具合に、視線の違いは生じます。
また、同じ「日本」人でも、長谷川朝風や山口蓬春のように郷愁を誘う理想化された市場の風景を描いている画家もいれば、「朝鮮」で暮らした安藤義茂の市場のスケッチはリアリティのある日常をそのまま描き出しています。
同じ時代の「朝鮮」であっても、李仁星が描くのはモダンな《黄色いワンピースの婦人像》。《窓辺》は南仏かどこかの上流階級の部屋のようです。李惟台の《探求》に描かれた理知的な研究者である女性像も印象に残りました。
一方、「朝鮮」で生まれ育ち、1945年の敗戦後にはじめて引き揚げてくる画家の鳥居昇の描いた《老婆》は、「日本」人としての視線ではなく、自分の育った土地の年上女性への自然体の敬意が感じられる温かい作品です。

今回の展覧会では、「グループ活動と師弟関係」にひとつの章を割いていますが、ここでも、
「日本」が近代化の師であり、「朝鮮」がそれを習うという先入観から離れて、それぞれの個人と個人の交流が浮き上がるような関係性が示唆されています。

そして、エピローグは1945年8月の終戦、植民地からの解放以後の朝鮮戦争へと続いていく激動の時代の作品群。
ここで心を打たれるのは、何といっても李仲燮の《夫婦》(1953年)、《旅だつ家族》(1954年)といった作品です。
戦火の近づくなかで妻の山本方子と子どもたちを日本に帰した彼は、出身地が「北朝鮮」になってしまったことからビザを取るのが難しくなり、1953年に1週間だけ日本を訪れたものの、その後は離れ離れのまま1956年に亡くなってしまいます。
その間、家族への愛情あふれる手紙を描き続けた彼の人生は、映画『ふたつの祖国、ひとつの愛』(酒井充子監督、2014年)になったことでも知られています。

人間に、そして芸術には境界など存在しない。
古来から続いてきた東アジアの文化交流の歴史は、苦難の時代にも決して途切れなかった。
そんなことを、つくづくと考えさせられる展覧会でした。

この展覧会は、これから長く進められていくであろう「日本」と「韓国/朝鮮」をめぐる研究のはじまりを意味するものだそうです。
今後さらに研究が進められ、今回は射程に入れることがかなわなかったという「北朝鮮」の調査研究も掘り下げられて、東アジアをめぐる文化史がより豊かに、実りある方向に向かっていくことを、心から願っています。

   *   *   *

最後に、今回の展覧会では取り上げられていませんでしたが、丸木夫妻と戦後の「朝鮮」とのかかわりを少し紹介します。

丸木夫妻は1956年に《原爆の図》10部作を携え、世界巡回展の旅に出ました。
最初に訪れた国は中国でした。北京で展覧会を開催していた際、山口蓬春が団長になって、北川桃雄、橋本明治が雪舟の顕彰展をするために中国を訪問してきます。
お互いの展覧会を手伝った後、中国の朝鮮大使館から、「原爆の図展」を平壌でも開催して欲しいとの要請がありました。
山口蓬春もぜひ雪舟展を朝鮮でやりたいと言ったものの、もともと朝鮮に行く計画がなかったために国境を越えられず、「朝鮮での雪舟展は丸木さんたちでやってもらえないか」という話になりました。

丸木夫妻は「原爆の図展」と「雪舟展」の両方を持って鴨緑江を渡り、平壌に入ります。
アメリカの空襲を受けて焼け野原となった平壌では、地下劇場で「原爆の図展」を行いました。
雪舟の顕彰展は別の場所で開くことになり、位里は両方の会場で代表として挨拶をします。
ところが、雪舟について系統だって話せるわけではないので、原稿を秘書に頼み、やっとの思いで話をしたという逸話が、画文集『流々遍歴』(1988年、岩波書店)に記されています。

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写真は平壌の展覧会場にて、在朝鮮日本人の方々との記念撮影。
位里によれば、「朝鮮には、東京の椎名町のアトリエ村で勉強した仲間が何人もおった。南の人もおったんだが、芸術家はほとんど北へ行ったという話を聞いておったんで、いずれそれらの人たちにも会えるだろうと楽しみに」していたそうです。

会期中には観光名所として名高い金剛山も訪れ、九龍の滝や板門店にも足を運びました。
帰国後、位里は1961年の第14回日本アンデパンダン展に《金剛山九龍の滝》を発表し、俊は水を汲む女たちを題材にした《女は水を汲みました》を1957年の第4回日本国際美術展に出品しています。
《金剛山九龍の滝》は加筆後に《九龍の滝》と改題されて、現在もときどき丸木美術館に展示していますが、俊の《女は水を汲みました》は、朝鮮美術家同盟に寄贈され、その後作品の所在は確認できていません。
この作品については、以前に丸木美術館学芸員日誌で紹介したことがあります。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2079.html

「丸木夫妻と朝鮮」については、近現代史研究者のKさんが近年関心を寄せ、さまざまな論考のなかで触れていらっしゃいますが、今後さらに掘り下げていきたいテーマのひとつです。
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2015/4/25

1950年代 幻灯上映会  イベント

丸木美術館1階奥のロビーに暗幕を張りめぐらし、神戸映画資料館、人形劇団プークの協力による「1950年代幻灯上映会」を開催しました。

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鷲谷花さんを代表とする幻灯研究グループと初めてお会いしたのは2011年12月でした。
《原爆の図》など丸木夫妻の作品をテーマにした幻灯作品が発掘されたときのことです。
以下は当時の学芸員日誌。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1767.html

それ以来、早稲田大学などで行われた幻灯上映会にたびたび参加してきましたが、ついに丸木美術館で幻灯の上映会ができることになり、個人的にはたいへん嬉しい一日でした。

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会場には大勢の参加者が集まり、ほぼ満席の状態。
『松川事件 1951』の制作にかかわったと思われる画家の桂川寛さんのご子息や、『野ばら』を制作した人形劇団プークの関係者、そして1950年代の文化運動や幻灯に関心の高い方も多くいらっしゃいました。

休憩中に幻灯機を囲んで自然発生的に質問タイムができていたり、質疑応答が際限なく続いていく様子を見ながら、企画者冥利に尽きるとつくづく思いました。

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映画と比べて比較的安価で、誰でも手軽に作れて上映できる(集団制作も多い)幻灯というメディアは、そのため、作品自体の質にはばらつきもあるようですが、映画には残されなかったような、ささやかな時代の記憶や思想が写りこみ、描かれている点が興味深く思われます。

この日はすぐれた幻灯・映像研究者である鷲谷さんをはじめ、1950年代の文化運動に精通した鳥羽耕史さん、道場親信さんという気鋭の研究者が集結し、それぞれの作品の時代背景を読み解きながら実演するという、非常に見応えのあるプログラムでした。

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奥多摩山村工作隊製作の『山はおれたちのものだ』は、開催中の「島田澄也展」とも関連しており、『平和のかけ橋 李徳全女史来訪記録』には、李徳全に贈られたという丸木俊の油彩画《鳩笛》が紹介されるひとコマもありました(上映に合わせて、常設展示室に別バージョンの俊の《鳩笛》を展示していたのに気づかれた方はいらっしゃったでしょうか)。
上映終了後に何人もの参加者と話したのですが、皆さんの満足度はとても高かったようでした。

また機会があれば、ぜひ幻灯上映会を開催したいところです。
現在、早稲田大学演劇博物館では「幻灯展――プロジェクションメディアの考古学」を開催中(8月2日まで)。こちらもたいへん興味深い内容となっているので、ぜひお運びください。
(撮影=山口和彦)
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2015/4/24

小学館『日本美術全集』第15回配本「戦争と美術」  執筆原稿

本日、小学館より『日本美術全集18 戦争と美術』が発売になりました。

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第15回配本「戦争と美術」(戦前・戦中)
責任編集/河田明久(千葉工業大学教授)
定価 本体15,000円+税
B4判/312頁
カラー図版口絵144ページ・カラー図版両観音16ページ
モノクロ解説ページ152ページ/上製・函入り/月報付き


岡村も、解説ページで以下の6点の作品解説を担当しました。
丸木位里・丸木俊(赤松俊子)《原爆の図 第一部 幽霊》
丸木位里《雨乞》
丸木俊(赤松俊子)《裸婦(解放されゆく人間性)》
松本榮一《長崎要塞司令部の建物板壁に残った兵士の影》
土門拳《原爆病院の患者たち》
山端庸介《地を這う老婆》

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WEBのためし読みページもアップされています。
http://sample.shogakukan.co.jp/bv?isbn=9784096011188

以下は目次より内容紹介です。
・はじめに 河田明久(千葉工業大学教授)
・美術の闘い──昭和前期の美術 河田明久(千葉工業大学教授)
・前衛美術の流れ 大谷省吾(東京国立近代美術館主任研究員)
・芸術家と社会──戦前から戦後にかけての左翼思想と美術 足立 元(美術史家・美術評論家)
・日本人美術家と「欧」「米」──一九三〇年から四〇年代を中心に 林 洋子(文化庁芸術文化調査官)
・コラム/写真グラフィズムの展開 白山眞理(日本カメラ博物館運営委員)
・コラム/戦前・戦中の建築について 米山 勇(東京都江戸東京博物館研究員)
・コラム/東南アジアにおける「美術」の誕生と日本の戦争 後小路雅弘(九州大学教授)
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2015/4/19

「島田澄也展」オープニングトーク  企画展

4月18日からはじまった「島田澄也展 蒼き昭和時代」のオープニング・トーク。
島田さんは、山下菊二や桂川寛、勅使河原宏らとともに前衛美術会の一員として小河内村の山村工作隊に参加したという経歴はあるものの、その後、画家としての活動を断念して造形会社を経営していたこともあって、決して一般に広く知られているわけではありません。
そのため、いったいどのくらいのお客さんが集まるかと、半分心配していたのですが……

前日から、次々とお祝いの花が届くことに、まず驚きました。
会場の入口は花でいっぱいになりました。丸木美術館ではあまり見られない光景です。
そして、午後2時のトーク開始時間が近づくにつれて、大勢の来場者が美術館を訪れ、会場はたちまちいっぱいになりました。
ご家族に連れられて来館された島田さんは、さっそく古い馴染みの方々に囲まれ、声をかけられて、まるで人生の同窓会のような雰囲気。
見ているこちらも幸せな気分になりました。

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そういうわけで、会場いっぱいに並べられた椅子に座る観客に囲まれて、トークイベントはスタートしました。
聞き手は、島田さんの次男で版画家の島田北斗さんです。

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島田さんは耳が聞こえないため、北斗さんが「山村工作隊の話」や「戦時中の話」といった具合に、筆談で話題を振ります。
しかし……すっかり気分が高揚した島田さんは、自分の話したいことを話す、という自由なスタンスを終始貫きました。
結局、多くの観客の印象に残ったのは、「金」と「女」の話だったのではないでしょうか。

「いまは88歳だけど、これから起業をする。自伝を出版して、お金を儲ける。あなたたちが聞きたいことは全部自伝に書いてあるから、読んでください!」

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そのエネルギッシュな姿勢からは、「オープニングに出席できるかどうか……」とご本人の体調を家族の皆さんが心配されていたことは、まったく想像できなかったことだろうと思います。
戦中・戦後を生き抜いた世代のパワーを、あらためて見せつけられ、圧倒された気分です。

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挙句の果てには、行きつけだった飲み屋の女将さんを観客の前に突然呼び出し、最前列に座っていた島田さんのお連れ合いと女将さんが「これは、どうもはじめまして……」とご挨拶をするという仰天の展開に。
ご自宅に聞き取りに伺った際、「オレは若い頃はモテたんだ!」と自慢げにおっしゃっていた島田さんでしたが、その堂々とした態度には、清々しささえ感じるほどでした。

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終始、笑いの絶えなかった1時間のトーク。
最後に行った記念写真にも、たくさんの方が参加して、島田さんの人徳が感じられる写真になりました。

前回の「赤松俊子と南洋群島展」も200点ほどの作品がならぶたいへんな展覧会でしたが、「島田澄也展」はそれを上回る263点を展示した見応えのある展覧会になっています。
会期は7月11日(土)まで。

次週、4月25日(土)には特別企画「1950年代 幻灯上映会」を行います。
こちらも見逃せない企画ですので、ぜひ多くの方にご来場いただきたいと思います。
(撮影=山口和彦)
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2015/4/18

『父と暮せば』ドラマ・リーディング公演  イベント

午後2時より、『父と暮せば』ドラマ・リーディング(作:井上ひさし、演出:蒔村三枝子)が行われました。
山梨県の平和の会のグループや、千葉県の被爆者団体のバスツアーも駆けつけて下さり、会場には100人を超える来場者が集まる大盛況となりました。

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父・福吉竹造を内山森彦さん、娘・福吉美津江を岡崎弥保さんが演じ、語りを蒔村三枝子さん、ピアノ演奏を太宰百合さんが担当するという出演者4人のシンプルな舞台。
美術館の展示室での公演なので、照明も場面転換もありません。

場面転換代わりに挿入される太宰さんのソロ演奏が、とても効果的でした。
そして、天井から差し込む自然光が、ゆるやかに物語の進行とともに光の強さを変化させていくのも、味わい深い効果を発揮していました。

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井上ひさしの原爆作品のなかでも代表作といえる『父と暮せば』ですが、意外にも丸木美術館で上演されるのは今回が初めてとなります。
もっとも、黒木和夫監督の映画『父と暮せば』では、回想場面で原爆の図の《幽霊》や《火》の一場面がうっすらと壁に浮かび上がってくるというふうに使われており、丸木美術館にとっても縁のある印象深い作品です。

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父と娘の二人だけの対話(あるいは、父の幽霊と対話している娘の自問自答かもしれない)によって、原爆体験を次第に深めていくという優れた戯曲。
その戯曲を目の前で人間が演じることで、また新しい命が吹き込まれていくというのが演劇の醍醐味なのだと、あらためて感じる時間でした。

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内山森彦さんのひょうひょうとした雰囲気の竹造は、公演をご覧になったお客さんの一人が、「今まで舞台や映画で何度もこの作品を見たけれども、一番竹造らしいと感じた竹造だった」とおっしゃるほどでした。
岡崎弥保さんの明るく爽やかな雰囲気は、ピカの前までは快活で運動場を走り回っていたという美津江の過去を違和感なく表していました。

作品の舞台となっているのは1948年の広島。
占領軍による検閲の話も作品の下敷きになっています。
もっとも、原爆の表現がすべて検閲を受けていたわけではありません。
たとえば、「原子力の平和利用」のような記事であれば検閲はフリーパス。
隠されていたのは、原爆がもたらした“人間の痛み”でした。
(実は、その状況は今もあまり変化していないのかもしれません)

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そうした占領下の時代に、“人間の痛み”を突きつけたのが丸木夫妻の《原爆の図》でした。
死者たちを“幽霊”として描くという点も含めて、『父と暮せば』と《原爆の図》は、いろいろと共通するものがあるようにも感じられます。

全国各地の街をまわって巡回展を行っていた丸木夫妻が、「ピカで死んだ妹の子」を連れた女性の被爆体験を聞いたのは、1951年10月末の室蘭展でした。
朝食の途中に被爆し、壊れた家から這い出して血まみれの夫を背負い火の中を逃げたこと。
少女が一週間後も箸をにぎりしめたままで一本一本指を外してやったこと。
少女の頭からは今もガラスの破片が出てくること。
その女性の体験談は、30年後に絵本『ひろしまのピカ』(1980年、小峰書店)になりました。

今回のドラマ・リーディングで美津江役を演じられた岡崎弥保さんは、3月11日にその『ひろしまのピカ』の朗読CDを発売されています。
http://www.digigi.jp/bin/showprod?c=9784775983485
5月5日の丸木美術館開館記念日には、『ひろしまのピカ』の朗読を行ってくださいます。
こちらも、とても楽しみです。

公演の後は、出演者、スタッフ、ボランティアの皆さんと、東松山駅前の居酒屋でささやかな打ち上げ会も行いました。
素晴らしい公演を企画して下さった岡崎弥保さんはじめ、ご協力くださった大勢の皆さまに、心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
(撮影=山口和彦)
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2015/4/16

小沢節子著『原爆の図』(岩波書店)入荷  書籍

《原爆の図》を精緻な分析と深い考察で読み解いた小沢節子さんの著作『「原爆の図」―描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(岩波書店、2002年)が久しぶりに入荷しました。

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2刷が在庫切れとなり、しばらく増刷の見込みのない状態が続いていたのですが、被爆70年という節目の年に、度重なる熱い要望に応えるかたちで、3刷が実現することになりました。

広島の某研究者は、「《原爆の図》はこの本によって、新たな命を吹き込まれたと言っても過言ではない」と語っていますが、私も本当にそう思います。
10年以上前の著書であるにもかかわらず、いま読んでもまったく古さを感じさせないのは、この著書がいかに時代を先取りし、それまでになかった画期的な視点を提示したか、ということの表れなのでしょう。
刊行当時、丸木美術館の学芸員になりたてだった私も、この本を道標のようにして、多くのことを学びました。

新しい価格は3000円+税と、これまでより少しだけ上がっていますが、高騰していた古書価格よりははるかにお得な金額です。
もちろん、丸木美術館でも販売しています。
まだお読みでない方は、ぜひ、この機会にお求めになって下さい。
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2015/4/11

旧日本銀行広島支店「四国五郎展」  他館企画など

近現代史研究者のKさんといっしょに、朝の飛行機に乗って広島へ。
旧日本銀行広島支店で開催されている「四国五郎追悼・回顧展」に行ってきました。

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四国五郎といえば、私はまず絵本『おこりじぞう』の挿絵を思い起こします。それから、峠三吉たちとの詩サークル「われらの詩」の活動や私家版『原爆詩集』の装幀。
けれども、「広島平和美術展」の事務局長をしていたと知りながら、どのような油彩画を描いていたのか、実際に見たことはありませんでした。
今回は大勢の市民による、手づくりの展覧会であると噂に聞いていたのですが、予想よりはるかに充実した内容だったので驚きました。

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まず会場に入ると、四国五郎が通っていた小さな酒場「ぐるっぺ」の、舞台装置のような立体模型がありました。

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足もとの犬は、ガタロさんの作とのこと。
ガタロさんはパンフレットに、「衆俗の河を生きる」という文章を寄せています。

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展覧会は、まず、「わが街ひろしま」と題し、広島を描いた水彩スケッチなどの小品絵画からはじまります。

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「原爆スラム」と呼ばれたバラック街の廃材を利用して額装したという油彩画《相生橋》が目をひきます。

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《雪の日の原爆ドーム》も、小品ながら叙情性のある心を惹かれる作品です。
線描の巧みさを生かした水彩スケッチが持ち味なのでしょう。

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広島の画家で、原爆の絵本を描いているため、てっきり広島で被爆をしていたのだろうと思いこんでいたのですが、1944年に徴兵されて満州で関東軍に入隊、シベリア抑留を経て1948年に帰国しているので、原爆体験はありません。
「凍てる地・シベリア抑留」という、抑留体験を描いた作品やリュック、軍靴などがならぶコーナーもありました。

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珍しいコラージュ作品《アムール流れはるか》も、白樺の皮の物質感が絵に溶け込んで、良い効果を発揮していました。

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ナホトカ収容所で描いたという数点のスケッチも、巧みな描写力が伝わってきます。
ケーテ・コルヴィッツを想起させるスケッチです。

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展覧会の核となるのは、広島平和美術展出品作を中心とする母子像などをテーマにした油彩画。

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ちょうど前日にNHK広島局で1時間の特集番組が放映されたとのことで、大勢の来場者が絵に見入っていました。

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そのなかには、1951年作の《八月六日》という油彩画の小品もありました。
丸木夫妻が広島の爆心地近くの五流荘で「原爆の図展」を開催したのは1950年10月のこと。
展覧会を手伝っていた四国五郎は、《原爆の図》に触発されて原爆の絵を描いたのかもしれません。
直接体験していない原爆を、画家として「引き受けて」描いたというのは、丸木夫妻とも重なる部分があります。
「体験していないから描ける」という批判は、たびたび目にすることがありますが、逆に言えば、原爆という主題を自らの問題として掘り下げていく上では、「体験」とは別の問題、意志の力が働くのかもしれません。

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写真は、私も初めて見た貴重な原爆ドーム前での「われらの詩の会」メンバーと丸木夫妻、壷井繁治の集合写真。
最前列左から2人目が四国五郎、2列目左から、峠三吉、俊、壷井繁治、位里の姿がならんでいます。

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平和を象徴するひとつの主題、「鳩笛」の油彩画もいくつか並んでいました。
こうした作品も、丸木俊との影響関係を感じます。
四国五郎は生涯にわたって、膨大な量の日記を記していたそうですが、会場で中国新聞D記者にご紹介いただいたご子息のHさんによれば、日記にはたびたび俊の名前が登場し、「とにかく絵を数多く描きなさい」というようなアドヴァイスを受けていたようです。

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米軍占領下の広島で、峠三吉らとともに、街頭でゲリラ的に反戦平和を訴えた際の「辻詩」も、非常に興味深いものでした。100枚近く制作されたという「辻詩」も、現在はわずか6枚しか残っていないそうです。

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街頭で何度も展示した絵なので、もちろん保存状態そのものは決して良いわけではないのですが、現物の持つ迫力、説得力を感じる展示でした。

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峠三吉の住んでいた「平和アパート」(われらの詩の会の事務所)のスケッチもありました。

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そして四国五郎が装幀を手がけた私家版『原爆詩集』など、峠三吉との親交を伝える資料。

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絵本『おこりじぞう』(1979年、金の星社)の原画も、もちろん展示されていました。
私も小学校のときに読んでいました。
今回の展示では、絵画作品だけでなく、絵本やカレンダー、ポスター、かるたなど、日常の生活のなかに溶け込む仕事を数多く手がけた画家の全体像を伝えていて、東京で言えばいわさきちひろのような存在なのでしょうか、広島で身近に親しまれていた様子もよくわかりました。
中国新聞D記者の話では、広島では何と言っても「四国五郎平和カレンダー」で一般の人たちに知られているとのことです。

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個人的には外すことのできない、『カープかるた』の仕事にも注目です。
広島カープがセ・リーグで初優勝した1975年頃の刊行でしょう。

中国新聞D記者の話では、広島の美術館では美術作品として位置づけ、評価される兆しはなかなか見られないとのこと。
以下のガタロさんの文章は、たしかに四国五郎の本質を表していると思います。

==========

 2014年4月某日、毎日新聞のK記者より、突然の四國五郎先生の訃報を受けた。思わず大声を発した。その後涙にむせんでまっとうに言葉が出ぬ。ごく身近な人が死んでもこれほど哭くことはなかったが、三日三晩哭きくれた。なにゆえにこうも悲嘆したのであろうか。

 四國先生が衆俗の中に生き、描き、詠んだ、民衆の歓び怒り哀しみに改めて自らの心に映したからである。

 美術界の現状は、衆俗の痛苦に触れぬ「象牙の塔」となって久しい。人間の営みや自然のありようを写実主義の方便で描いても、そこに何のリアリティ=〈批判精神〉のカケラもない。広島やヒロシマを繰り返さぬための身をよじるような変革の意志や、生きざまに覚悟を持たぬのである。


(中略)

 四國先生はその才を愚直にふつうに、私等が呼吸するように発現したのである。眼球と手と足で、広島やヒロシマをなぞるように確認されたのである。手で思考する人であった。

==========

あるいは、「芸術」という枠を超えたものに絵画を捧げた稀有な画家と言えるのかもしれません。
ともあれ、必見の展覧会。
被爆建物である旧日本銀行広島支店という会場も、四国作品を展示するのにもっともふさわしい場所なのでしょう。
会期は4月20日まで。
いろいろと興味深いお話を聞かせて下さったご子息のHさん、そして中国新聞D記者、広島大学Kさん、その後にお会いした広島平和記念資料館Dさんなど、慌ただしいなかでお世話になった皆さまに御礼申し上げます。

私とKさんは夜の飛行機に乗って、東京へ日帰りです。
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2015/4/10

「島田澄也展 蒼き昭和時代」のお知らせ  企画展

世間ではにわかにパラオブームのようですが、丸木美術館の「赤松俊子と南洋群島展」の会期も、いよいよ残すところわずかになってきました。

4月18日からは、「島田澄也展 蒼き昭和時代」を開催いたします。

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島田澄也という画家の名は、あまり一般的ではないかもしれません。
1927年、東京府北豊島郡長崎町に生まれた島田さんは、東京美術学校(現東京藝術大学)を中退し、戦後、丸木夫妻のアトリエで絵を学び、前衛芸術会を中心に活動しました。
やがて造形会社を設立して絵画から距離を置きますが、引退後に再び絵筆をとると、幼少期から戦争を経て戦後にいたるまでの200点近くの自伝的な油彩画を描きました。

それらの絵画は自らの回想をもとにした「記憶画」というべきものですが、2.26事件の朝や、特高警察、戦時中の千人針、灯火管制、東京大空襲、敗戦後の焼跡風景や血のメーデー事件、自身が参加した小河内村山村工作隊の活動など、歴史的に重要な意味を持つ、しかし写真に残されていないような光景から、幼い頃のベイゴマ遊びや駄菓子屋、映画館の様子、土方与志の築地小劇場や、前衛美術会の画家仲間であった山下菊二や大塚睦、尾藤豊らの姿、そして丸木夫妻のアトリエで行われたデッサン会など文化史的にも貴重なイメージまで、幅広く描かれています。

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また、あわせて、1950年代に自身の体験をもとに制作した《勾留理由開示公判》や《官選(国選)弁護人》などの油彩画、文化工作隊で訪れた小河内村や「原爆の図展」で訪れた秋田の風景スケッチ、共同制作によるガリ版刷りニュース『週刊小河内』第1号などの資料も展示し、近年、再評価の動きが広がる1950年代の文化運動を再考する機会とします。

戦争への反省を踏まえ、自らの力で社会を変えていくのだという意志が一般市民に芽生え、「下からの民主化」がエネルギーを発散させた時代。
芸術家も「大衆」を意識し、時に政治との距離を接近させながら、多様な活動を展開しました。
丸木夫妻の《原爆の図》も、そんな時代のうねりの中にあった作品と言えるでしょう。

会期中の4月25日には、1950年代に、誰にでも作り、人を集めて上映できる映像メディアとして、社会運動の場においても自主製作・自主上映が盛んに行われた幻灯の貴重な上映会も予定しています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2015/2015magic_lantern.html

4月19日(日)には島田澄也さんご自身が来館され、次男で版画家の島田北斗さんとオープニングトークを行って下さいます。
貴重なお話もたくさん伺えることと思います。
ぜひ、皆さまご来館ください。
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2015/4/4

丸木美術館ニュース第121号発送作業  美術館ニュース

あいにくの曇り空でしたが、桜の咲くなかで、丸木美術館ニュース第121号の発送作業が行われました。
今回も12人のボランティアが参加して下さり、無事に作業は終了。
M年山さん夫妻が用意して下さった昼食のカレーもたいへん美味しかったです。

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今号の丸木美術館ニュースの表紙は、1月に大船渡市の友の会会員・水野雅之亮さんより丸木美術館にご寄贈いただいた、丸木夫妻がお互いを描いたデッサンの版画作品です。水野さんのお父さまの水野仁三郎さんは丸木美術館の初代理事長でした。

今回ご執筆下さったのは、原爆の図アメリカ展のプロデューサーである早川与志子さん。
法政大学の今泉裕美子さんによる「赤松俊子と南洋群島展」トークの抄録や、4月からはじまる「島田澄也展」に向けた美術史研究家・足立元さんの文章も掲載しています。
連載企画「丸木美術館に学ぶ」では、市内の青鳥小学校での出張授業を企画して下さった同校PTA会長の木村俊彦さんが執筆して下さいました。
リレー・エッセイは、丸木美術館監事の水沢隆さんです。

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丸木美術館ニュース第121号 (発行部数2,500部)

〈主な記事〉
5月5日丸木美術館開館記念日のご案内 …… p.2,3
《原爆の図》ワシントンへ (早川 与志子) …… p.4
リレー・エッセイ 第53回 「縁は奇なり」 (水沢 隆) …… p.5
今泉裕美子さんギャラリートーク「赤松俊子の旅した『南洋群島』」抄録 …… p.6
島田澄也の古い記憶と新しいリアリズム (足立 元) …… p.7
連載 丸木位里・丸木俊の時代〈第22回〉 位里の《ラクダ》/「日本画」と「洋画」を越えて/《けだもの》落選(岡村 幸宣) …… p.8
連載 丸木美術館で学ぶ―教育の現場から―〈第5回〉 学び舎の「青い鳥の壁画」をきっかけに(木村 俊彦) …… p.10
丸木美術館情報ページ/美術館の書棚から (小寺 美和) …… p.11
写真で見る 丸木美術館の日常風景 (山口 和彦) …… p.12

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5月5日開館記念日のスケジュールや、出演者紹介記事も掲載しています。
この日のイベントの内容は、丸木美術館のHPでも告知しています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/0505.html
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2015/4/3

初めてアメリカに渡った原爆の絵  作品・資料

“海渡る悲願の原爆図”……と言っても、丸木夫妻の《原爆の図》の話ではありません。
初めて米国に渡った原爆の絵を調べていて、1950年8月6日付『中国新聞』の興味深い記事に出会いました。
絵の作者は新延(にいのべ)輝雄。第4回日展出品作《たそがれ》が、1950年の時点で渡米していたというのです。

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記事には作品写真も掲載。焼け跡で被爆した家族の姿を中心に、その右後方に被爆者の群像、左奥には産業奨励館(原爆ドーム)も描かれています。

広島平和記念資料館啓発課のDさんに調べて頂いたところ、新延の生家は広島の繁華街にあり、本人は郊外に疎開していたものの、両親を原爆でなくしているとのこと。《たそがれ》は1948年の日展初入選作で、このほかに2点ほど原爆の絵を描いていたものの、どちらも画家本人によって廃棄されたそうです。

その後新延は広島画壇の指導的立場で活躍し、1994年に描いた《原爆忌はるかに》と題する鎮魂の祈りを込めた油彩画は、広島平和記念資料館の地下に常設展示されています。
ただし、原爆を描いた絵画としては1948年の《たそがれ》の切実な表現が圧倒的に優っているように思います。

以下は記事の書き起こし。

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海渡る悲願の原爆図 米国で特別陳列 シュ博士が持帰る

 毎年家を建てにきて下さる‟アメリカの博士さん”として広島市民の敬愛を集めたフロイド・シュモー博士は、今年度計画の家八戸も立派に完成したので六日午後零時三十五分広島駅発「ひばり」で帰米の途につくが、その旅装のなかには知己からの贈物と一緒に広島の一青年画家から借りうけた原爆の絵が大切に包まれてあった

 ふとしたことから知りあったシュモー博士と広島市庚午北町二丁目に住む洋画家新延輝雄氏(二八)東京美術学校出身=は博士の広島滞在中その宿舎、同じく庚午北町のABCC勤務リアン・ウォーターズ氏宅で数度会っていたが、一夜博士が新延氏の画室を訪れるにおよんで、言葉は通じにくくても芸術を通じての二人の心は堅く結ばれ、とくに新延氏の第四回日展出品作で、八月六日の惨劇を描いた「たそがれ」は博士の心へ深い感銘を与え、博士はその絵を一年間借りうけてアメリカに持帰り、展覧会に特別陳列してひろくアメリカ市民にみせたいと申入れ、新延氏もこれを快諾、ここに広島の画家の描いた原爆の絵ははじめて海を渡ってアメリカで公開されることになった。

 シュモー博士談 私はあの絵の芸術的価値については専門家ではないのでなんともいえない、しかし新延さんの絵は平和を愛し、広島へのつぐないをしたいと願っているアメリカ市民の心を一層強く動かすことだろう、アメリカの美術館の規則はくわしいことは知らないが、平和関係の展覧会を皮切りに各種の展覧会、美術館に特陳して一人でも多くの市民にみてもらうよう努力する、また私は帰米したらすぐ日本の婦人の印象記「ジャパニーズ・ウーメン」の著作にとりかかるが、そのなかに十枚くらい新延さんのスケッチを入れさせてもらうよう約束した

 新延氏談 あの絵は原爆ですべてを失った広島人、いや私自身の生き残ることの苦悩の姿を現そうとしたものです、あの絵が平和運動の一助ともなれば幸せです

 なおシュモー博士は明年は来られないが明後年の夏三たび家を建てに広島に来ることになっている=写真は新延氏作品「たそがれ」


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丸木夫妻の《原爆の図》も、1951年はじめにアメリカへ持っていって展示をしないかという誘いがあったそうですが、結局、渡航直前に断り、1970年に全米8会場の巡回展が行われるまで機会を待つことになりました。

それより前に新延の作品が、しかも、「広島の家」で知られるシュモー博士の手によって渡米していたというのは驚きです。
また、米軍占領下の時代に日展で原爆の絵が展示されていたことも、初めて知りました。
《原爆の図》より前に、被爆者の姿を生々しく描いた絵画が発表されていたのですね。
当時の日展の資料にも新延の《たそがれ》の図版は収録されていないので、今のところ、この新聞記事が唯一の図版資料になるわけですが、非常に興味深い作品です。

もっとも、アメリカに渡った《たそがれ》がどのように展示されたのかも、その後の作品の行方も、まったくわかりません。
《原爆の図》も、1951年の時点でアメリカに渡っていれば、そのまま行方不明になっていたのかもしれません。
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2015/4/2

『東京新聞』に「赤松俊子と南洋群島」展紹介記事掲載  掲載雑誌・新聞

丸木俊が描いた戦前の南洋群島/パラオ島民の生活などスケッチ/「原爆の図丸木美術館」で200点展示
 ――2015年4月2日付『東京新聞』埼玉版

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4月11日まで開催している「赤松俊子と南洋群島」展について、中里宏記者が紹介記事を書いて下さいました。
以下のWEBページで記事全文を読むことができます。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150402/CK2015040202000157.html

記事からの一部を抜粋します。

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 南洋群島は、第一次大戦の結果、ドイツ植民地から日本の委任統治領となったパラオ・マーシャル・マリアナ諸島などの当時の呼び名。
 太平洋戦争では日米両軍の激戦地となり、マーシャル諸島では戦後の東西冷戦時代、米の核実験が繰り返された。
 タヒチ(仏領ポリネシア)を描いたゴーギャンにあこがれていた俊さんは四〇年一月から半年間、パラオ諸島やヤップ島などに滞在した。パラオに滞在していた彫刻家・民俗学者の土方久功氏(故人)の案内で日本人のいない島なども多く訪れ、島の人々を多くのスケッチに残した。俊さんが当時の雑誌で発表した滞在記からは、現地での生活の様子がリアルに伝わってくる。
 同美術館の岡村幸宣学芸員は「作品からは(俊さんが)現地の人の側に立って物事を見て、共感していたことが分かる。南洋での体験で裸体画に目覚めたことが、戦後の原爆の図にもつながっている」と話す。


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今年はパラオがちょっとしたブームになっていますが、ぜひ、若き日の丸木俊が見た1940年の「南洋群島」――パラオやヤップ島も、ぜひご覧ください。
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