2015/3/30

Ring-Bong第5回公演『闇のうつつに我は我かは』  館外展・関連企画

小竹向原のサイスタジオコモネで開催中のRing-Bong第5回公演『闇のうつつに 我は我かは』(4月5日まで)。
上演後のアフタートークに参加してきました。

クリックすると元のサイズで表示します

文学座の俳優で劇作家の山谷典子さんが丸木美術館に初めて来たのは、かれこれ4年ほど前のことになります。そのとき、「丸木美術館をテーマにした戯曲を書きたい」という話もしたような、うっすらとした記憶もあります。

丸木夫妻の評伝劇ではなく、自分はフィクションしか書けないから創作劇として書きたい、という彼女の言葉を聞いて、うまく成立するのかな、と期待半分、不安半分だったことは、よく覚えています。

その後、山谷さんの主宰する演劇ユニットRing-Bongの公演を見せて頂いて、すっかり心を揺さぶられてしまったのですが、「丸木美術館をテーマにした戯曲」の話は特に出ないまま、毎年公演を楽しみにしてきました。

ラジオドラマ用の脚本に丸木美術館を取り上げたい、という話を山谷さんから聞いたのは、一昨年のことです。脚本を書くために、図録や書籍などの関連資料をお貸しして、美術館で働くなかでの実体験についてもいろいろ取材を受けました。
結局、その企画は朗読劇となり、昨年は実際に公演も行いました。

創作劇なので、「丸木美術館」そのものの話ではないのですが、戦後に《とうろう流し》の絵を描いた女性画家と、その絵を展示する美術館の物語。
役者さんの言葉によって命を吹き込まれた戯曲は、深みも迫力も増して、朗読劇を聞く人たちの心を揺さぶり、さまざまな心配も一気に吹き飛びました。

そしてその頃、今年のRing-Bong公演で、舞台用に戯曲を書き直したいという話も聞きました。
昨年8月6日のひろしま忌には、役者さんたちもとうろう流しに参加して下さいました。
山谷さんから頂いた舞台用の脚本は、朗読劇をベースにしながら、さらにテーマを掘り下げた内容になっていました。

山谷さんが、丸木夫妻の残した原爆の図のなかでも《とうろう流し》の絵に惹かれた理由は、わかるような気がしました。
原爆投下から20年以上の歳月が経って描かれたその絵画は、過去と現在が交錯し、時間が行きつ戻りつするという、彼女の書く戯曲そのもののような作品だったからです。

それは、私たちが「歴史」をどのように受け止めるか、という姿勢にもつながります。
過ぎ去った時代の物語ではなく、今につながる私たちと地続きの現実。
時は未来という一方向のみに開かれたものではなく、過去の記憶にも開かれて、私たちは時間を行きつ戻りつしながら、よろこびやかなしみを抱えて生き続けるのです。

『闇のうつつに 我は我かは』は、戦時中のアトリエ村(舞台は「池袋モンパルナス」と呼ばれた東京・豊島区のアトリエ村がモデル)と、現在の郊外にある小さな美術館の時間が、深く交錯しながら進んでいきます。

Ring-Bongの舞台は、いずれも複数の時間の転換が見どころになっています。
第3回公演までは、ベテランの俳優さんが「過去」の時代で突然「子役」を演じるという意外性に惹きつけられました。
昨年の第4回公演『しろたへの春 契りきな』では、逆に若い俳優さんが「現代」の場面で年老いた役を演じていました。

今回の公演では、「過去」と「現在」において“遠藤孝之”という同一人物を、年齢の離れたふたりの役者さんが演じています。ごくオーソドクスな配役といえるのでしょう。
それでも、場面転換のときに「過去」と「現在」の二人の遠藤が互いをじっと見つめ合う場面や、同じセリフをそれぞれが交錯するように語る場面などからは、現実の世界ではあり得ない、演劇ならではの夢と現実の境界を行くような「リアリティ」が生まれます。
もちろん、この演劇ユニットの強みである音楽(歌と生演奏)も、いつものように大きな効果を発揮しています。

今回は稽古場にも足を運んで、舞台がどのように作られていくのか、演出の小笠原響さんが役者さんたちにどんな指示を出しているのかというところも見せて頂きました。
次第に戯曲が舞台として立体的に浮かび上がっていく過程は、とても興味深いものでした。

戦時中のアトリエ村の住人たちは、架空の人物であるにもかかわらず、何度も見ているうちに、まるで本当に存在している人物のように思えてきました。
三輪学さんが演じたシュルレアリスムの画家“恩田薫”は、丸木位里、それから三岸好太郎のイメージも少し入っているように思いましたが、自由を奪われつつある当時の画家たちの苛立ちを体現しているような存在です。
山谷さんの演じる“恩田さき”は、丸木俊をモデルにしていますが、それだけでなく、戦時中の女流画家を象徴する人物として描かれていて、見ているうちにとても切なくなります。
さきの兄である“河野豊”を演じた高野絹也さんは、演奏と歌が本当に素晴らしいです。Ring-Bongの舞台では、毎年、高野さんが何を演奏するか楽しみにしていますが、今回はオルガンを弾いています。
若井なおみ演じるさきの妹の“河野ひさ”は、郵便配達で国に貢献する女学生。時代の空気に沿って健気に生きる悲しみを背負った存在として描かれています。
村松えりさん演じるモデルの“吉岡杏夢”はまるで「モンパルナスのキキ」のような存在感。
蓮池龍三さん演じる演劇人“和田市郎”の過剰なテンションも、本当にアトリエ村にはこういう変わった住人がいそうだなあと楽しくなります。
画家志望の若者“遠藤”は、芸術とは何かと悩み続ける真摯な青年。中国への出征を経て変化していく彼の内面を、田中宏樹さんが好演しています。

一方、現代の「つつじヶ丘美術館」を訪れた謎の来館者“遠藤”を演じた小笠原良知さんは、舞台の端でじっと立っているだけで、歳月の流れの重みや、複数の時間の存在を感じさせます。
美術館館長の“福田陽子”を演じた大崎由利子さんが、とうろう流しで川の向こうを見上げる場面は、ぼくのとても好きな場面です。脚本を読んだとき、最後のセリフが難しいのではないかと懸念したのですが、とても自然に、胸を打つつぶやきになっているように思いました。
出産を間近に控えた美術館職員の“高橋翔子”を演じた大月ひろ美さんの、明るく、さりげなくコミカルな演技も、いつも楽しみに見ていました。
そして美術館唯一の学芸員(!)“松野洋介”を演じた辻輝猛さんとは、顔を合わせるたびに何やら気恥ずかしい思いもしましたが、楽しそうに演じて下さって(いや、しかし、本当に学芸員らしい場面はほとんどなかったような……)感謝の気持ちでいっぱいです。

何より、「表現の自由」という、非常にタイムリーな社会的主題を扱いながら、その主題に引きずられることも、寄りかかることもなく、血の通った“生きている物語”として練り上げていった山谷さんの力量には、本当に感心します。

この舞台については『週刊金曜日』2015年3月27日号の特集“そして、ここに「演劇」あり”に詳しく取り上げられ、山谷さんは3月29日付『毎日新聞』夕刊“人模様”でも紹介されました。
どちらも、モデルとなった丸木美術館についても言及されていますので、ぜひご覧になって下さい(↓『毎日新聞』の記事はこちらから。無料会員登録が必要です)。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150330dde007070062000c.html

もちろん、ぜひ多くの方に、生で見て頂きたい舞台です。
チケット予約など、詳しい情報はこちらから。
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=46939
1

2015/3/28

「赤松俊子の旅した『南洋群島』」ギャラリートーク  企画展

午後2時から、法政大学国際文化学部の今泉裕美子さんをお招きして、「赤松俊子の旅した南洋群島」と題するギャラリートークを行いました。
会場には、丸木俊(赤松俊子)や南洋群島に関心を寄せる方々が大勢集まり、熱心に耳を傾けていました。

クリックすると元のサイズで表示します

長年、南洋群島研究に携わってこられた今泉さんは、俊の存命中に南洋群島についての聞き取りを行い、2002年に『法政大学沖縄文化研究所所報』第51号(法政大学沖縄文化研究所発行)に掲載された「丸木俊がみた『南洋』」という論考も書かれています。

今回のトークでは、俊が旅立った1940年当時の日本と南洋群島との関係の分析からはじまり、俊の眼に映った南洋群島について丁寧に解説して下さいました。
以下はトークの抄録です。

   *   *   *

日本が南洋群島の統治をはじめたのは1914年。俊子が訪れた1940年は26年目になります。
パラオ支庁の人口30,385人のうち、日本人は23,767人(うち朝鮮人1,189人、台湾人2人)を占めるようになりました。現地住民は6,587人。彼らは公的には「島民」と呼ばれ、民族以前の未開の存在とされていました。一等国民は日本人、二等国民は沖縄人・朝鮮人、三等国民は「島民」という差別的な位置づけです。

国家が総力をあげて戦争に向かった時代。南洋群島は「海の生命線」として重要視され、資源の豊富な東南アジア進出の「ステッピングストーン(踏み石)」とも言われました。
南洋庁のあるパラオには南洋神社が建立され、「南洋の総鎮守」という精神的中核の役割を担います。
「日本人」がパラオを「文化南洋」と強調することには、俊子は嫌気がさしていたようです。

クリックすると元のサイズで表示します

南洋航路船で朝鮮人を描いたスケッチがあるのは初めて知りました。この時期は、政策として朝鮮人を労働動員していたので、急激に朝鮮人の人口が増えていたのです。

俊子の見た南洋群島について、七つの視点から考えていきます。

@植民地支配
俊子は、「日本人」が強調する善政の「あくどさ」を憤る文章を書いています。委任統治は、第一次世界大戦後、民族独立の要求を受け入れつつ植民地支配を継続する体制として考案されました。「文明の神聖なる使命」として自立できない人々を援助するというのです。日本は委任統治に評価を得ることで文明国たる評価を得ようとしました。

クリックすると元のサイズで表示します

Aアバイ(集会所)
俊子が最初に関心を寄せたのはアバイでした。文字を持たない彼らは、絵で神話などの物語を表現しています。内部の様子を描いたスケッチは珍しいものです。

クリックすると元のサイズで表示します

Bカトリック教会
政府にとって教会は好ましくない存在でしたが、委任統治では信教の自由を保障する義務がありました。俊子はスペイン人神父のいるミッションスクールや、手工芸の作業を丁寧に描いています。

クリックすると元のサイズで表示します

C女性
体や表情の描き方が男性画家の描く女性とは違うと思いました。俊子はパラオが女系社会である一方、ヤップ島は男系の身分制の厳しい社会であることに言及しています。

D戦争観
昔大きな戦争があったという話は伝わるものの、死んだ人は一人か二人であったというから、「文明の遅れているといわれる人々の方が、どんなに平和で人間を尊重しているかわからない」と記しています。

クリックすると元のサイズで表示します

E現地住民がつくりだすもの
俊子はヤップ島のカヌー作りや、女性がパン餅をこねる様子に注目しています。住民独自の表現と創造力への感嘆があふれています。

クリックすると元のサイズで表示します

Fアンガウル島への出稼ぎ
アンガウル島は、南洋群島で数少ない鉱物資源である燐鉱石の出る島で、ドイツ領時代からさまざまな人が出稼ぎに来ています。俊も出稼ぎ労働者の多様な風俗を描いています。

戦後、俊子は当時を振り返って「その時のその場所の一つ、一つの現象としてしか見る力がありませんでした」と反省しています。1978年にパラオ博物館で個展を開いた際には、島がゴミで汚れ、若者がジーパンをはき、コーラやビールを飲んでいる様子を嘆いています。
その変化もまた、戦後の歴史がもたらしたものです。日本に代わって統治したアメリカは信託統治制度の唯一の戦略地区として統治を許され、原水爆実験を行いました。補助金によって彼らが自立できないような政策も行ってきました。

近年、「パラオは親日」との認識から、パラオの国旗も日本に敬意を示すデザインにしたという話が広がっているようです。
しかし本当は、独自の文化の尊重と自立への気概を表しています。
彼らの長い歴史のなかで日本統治時代をどう位置付けるか。俊子が描いたスケッチは、これを考える大切な情報にあふれているように思います。

   *   *   *

トークの後には、会場からの質疑も活発に飛び交いました。
そのなかで、俊の描いたイメージから植民地批判をどう読み込んでいくことができるのか、という疑問も挙げられました。
個人的には、俊の植民地主義に対する視線は、絵画よりも随筆から鮮明に読み取れるのではないかと思っています。同時代に記された「南洋處々」や「二つの風景」という随筆は、当時の俊の視線を示す重要な資料です。

とはいえ、「内地(日本)人」と「島民」の対比を鮮明に見ようとする姿勢が、結果的に朝鮮・沖縄・台湾の人びとを視界から外していった点もあったかもしれません。
俊の視点の限界、描かれたものと描かれなかったものの意味を見極める必要性も、あらためて考えていかなければいけないと思いました。

まだまだ解明されていない部分の多い俊の南洋群島の絵画群。
これからも、多くの研究者によって、掘り下げられていくことでしょう。
丁寧に俊の作品世界を読み解いて下さった今泉さんに、心から御礼を申し上げます。
1

2015/3/23

Ring-Bong第5回公演『闇のうつつに我は我かは』公演のお知らせ  館外展・関連企画

休館日。東京・東伏見で、Ring-Bong第5回公演『闇のうつつに 我は我かは』の通し稽古を見せてもらいました。

クリックすると元のサイズで表示します

Ring-Bongは、文学座の俳優で劇作家でもある山谷典子さん(写真右)が立ち上げた劇団で、毎回、戦争の時代を舞台にしながら、鋭い問題提起をちりばめた作品を見せてくれます。
私も、いつも楽しみに拝見しているのですが、今回の作品は、なんと丸木美術館をモデルにしているのです。

クリックすると元のサイズで表示します

といっても、基本的には山谷さんの作り出した創作物語。
丸木美術館はつつじヶ丘美術館に、原爆は東京大空襲に、丸木夫妻は恩田薫・さき夫妻に置き換えられています。
しかし、物語の重要な軸となる恩田さきが描いた絵画《とうろう流し》は、丸木夫妻の原爆の図第12部《とうろう流し》を思い起こさせます。
なぜ山谷さんが《とうろう流し》の絵を選んだのか。それは、丸木美術館が毎年8月6日に行っているとうろう流しの行事を劇中に取り入れたからでもあるのでしょうが、この絵画が、過去と現在を交錯させ、ふたつの時間を行きつ戻りつするような、つまり、山谷さんがこれまでに試み続けてきた作品と同じような構造を持っているからなのだろうと思います。

クリックすると元のサイズで表示します

今回の舞台では、東京大空襲の慰霊のため8月15日にとうろう流しを行う、という設定に変わっています。その準備のための草刈りの苦労や、冷房がない展示室でお客さんが保冷剤で涼をとる場面、学校団体の来館が減少傾向にある問題などは、妙に丸木美術館の現状を取材した成果が反映されていて、当事者としては苦笑してしまう場面もあります。

念のために断わっておくと、恩田夫妻の人生や性格は、実際の丸木夫妻を参考にしつつ、異なるものになっています。また、つつじヶ丘美術館には男性学芸員も登場しますが、モデルがいるかどうかは、あまり気にせずご覧になってよいかと思います。

二人の画家が戦時中に暮らしたアトリエ村の雰囲気は、なかなか興味深く描写されています。詩人の小熊秀雄によって「池袋モンパルナス」と名づけられたアトリエ村のイメージは、次第に「自由を愛する画家たちの青春物語」として美しく回顧されることが多くなっていました。芸術の本場・パリになぞらえた「モンパルナス」という浪漫を掻き立てる響きが、少々独り歩きしているようにも感じます。
しかし、山谷さんはそれを、時代への葛藤を抱えた表現者――画家だけでなく、演劇、音楽も含めた若者たち――の、リアリティをともなう痛みや苦しみの物語に引き戻しています。
大きな時代の波に翻弄されながら、表現という問題にどう向き合っていくのか。それはまさしく、現代を生きる私たちの切実な問題でもあるのです。

この作品はもともとラジオドラマ用の脚本として作られ、朗読劇としても何度か演じられているのですが、今回、舞台用に大幅に書き直され、さらに小笠原響さんの演出と多彩な役者さんたちの熱演によって、一層作品としての成熟度が増しているように思いました。

公演は、3月28日から4月5日まで行われます。
30日(月)には、岡村もアフタートークに出演します。
チケット予約など、詳しい情報はこちらから。
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=46939

皆さま、ぜひ舞台を実際にご覧ください。「山谷ワールド」、やっぱり面白いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
1

2015/3/16

ポレポレ座『アラヤシキの住人たち』試写会  他館企画など

休館日。昼から都内に出て出版社の方と打ち合わせ。
その後、ポレポレ坐の本橋成一監督新作映画『アラヤシキの住人たち』試写会へ。

クリックすると元のサイズで表示します

長野県小谷村の真木共働学舎の一年をたんたんと撮り続けた、映像も志も美しい作品。
自然に根ざし、障害の有無や能力の優劣で分け隔てることなく共に生きる人びと、ヤギや猫や鳥や虫などの生きものたちの日々の営みの記録です。
メディアの騒々しいニュースには決して流れないけれど、今の日本にもこんなふうに生きている人たちがいるのだ、と噛みしめながら映画を見ました。
試写会の前には、久しぶりに7階の事務所へご挨拶に伺いました。そこにも「アラヤシキ」と同じような時間が流れていることを、映画を観たあとで帰路に着きながら思い起こしました。

 昔テレビで「世界はひとつ、人類はみな兄弟」という言葉が流行って、いいこと言うなあ、こういうのが平和につながるんじゃないかとかってその時は思ったんですが、写真の仕事を始めてから、いろいろと世界中あっちこっち行けるようになってみると、いやあ違うんじゃないかなあ、って思ったんです。風土も宗教も言葉も違う、そんなのが一緒に「人類はみな兄弟」なんて言えるわけがないじゃない、「世界はたくさん、人類はみな他人」じゃないかって思ったんですよね。

パンフレットに掲載されていた「監督の言葉」の一節が、心に響く今日この頃です。
5月1日より、ポレポレ東中野ほか全国随時公開。
丸木美術館でも前売券を扱う予定です。
0

2015/3/15

映画『三里塚に生きる』上映+代島治彦監督トーク  イベント

2日続けて映画『三里塚に生きる』の上映会です。
企画の仕掛人である富山の映画館スタッフY子さんが、上映前に挨拶をして下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

Y子さんの強力なプッシュがなければ、井浦新さんが出演して下さることもなかったでしょう。
北陸新幹線開通日であるにもかかわらず、新幹線ではなく車で半日かけて駆けつけた彼女は、2日目の上映の最中に富山へ帰っていきました。
わざわざ大阪から来て下さった映画宣伝のMさんや、2日続けて上映担当をして下さったKさんなど、多くの方がこの企画を支えてくれました。心から御礼を申し上げます。

クリックすると元のサイズで表示します

上映後は、代島治彦監督のトーク。代島監督は地元・熊谷出身ということもあり、この日はご両親や親戚、学生時代の担任の先生など、大勢のお知り合いが来場されていました。

クリックすると元のサイズで表示します

歴史の記録に残らない人びとの記憶を、表現として残し、次世代につなげていきたいという代島監督の思いは、丸木夫妻の共同制作の仕事にもつながります。
文化というものが人間の社会にもたらす無形の力を、あらためて考える上映会になりました。

クリックすると元のサイズで表示します

トーク終了後は、ボランティアの皆さんが手際よく天窓の暗幕を外し、スクリーンを設置していた足場を解体。設営・撤去作業の見事さには、毎回、本当に感謝しています。
2

2015/3/14

映画『三里塚に生きる』上映+井浦新トーク  イベント

映画『三里塚に生きる』(大津幸四郎・代島治彦監督、2014年)の上映会1日目。

午前中からボランティアの方がたが集まって下さり、丸木夫妻の描いた《水俣・原発・三里塚》の壁画のある空間に、足場を組んで木製パネルの特設スクリーンを設置。さらに屋根に上って天窓に暗幕を張って自然光を遮断しました。
室内だけど屋外のような、野趣あふれるステージです。

クリックすると元のサイズで表示します

映画は、1960年代の“三里塚闘争”関係者のインタビューを軸にしながら、大津さんが撮影された当時の記録映像、そして今も畑を耕し続ける人たちの暮らしぶりも紹介し、「忘れられた人々の、忘れられない物語」を静かに見つめます。

クリックすると元のサイズで表示します

自殺した青年行動隊の三ノ宮文男さんの遺書を朗読しているのが、俳優の井浦新さん。
この日の特別ゲストとして、丸木美術館に駆けつけて下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

井浦さんはトークの前に、館内の《原爆の図》をじっくりと鑑賞されていて、「原爆というテーマはもちろん重要なのですが、絵の美しさに驚きました」と、丁寧に感想を語って下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

実は井浦さんと私は同い年。三里塚のことはリアルタイムでは知らないし、一般的には社会問題に深い関心を持つ世代ではないと言われています。にもかかわらず、井浦さんは社会的なテーマの作品に積極的に出演されているようにも見えます。
そのあたりを聞いてみると、「特に選んでいるわけではないが、こうした仕事が来た時には粛々と受けるようにしている」とのこと。言葉を探しながら、ゆっくりと話す口調の奥には、深い信念があるようでした。


クリックすると元のサイズで表示します

途中からは、代島治彦監督もトークに参加して下さり、三人でステージに座ってトーク。
朗読を井浦さんにお願いした経緯や、昨年亡くなられた大津監督との映画製作のきっかけなどを話して下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

忘れ去られてはいけない悲しみの歴史を表現として残し、記憶することの大切さ。
この場所だからこそ感じられる映画の意味。
結局は、私たち自身がどう生きるかという問題だという話。
時間はあっという間に過ぎていきました。

クリックすると元のサイズで表示します
(以上、撮影=山口和彦)

『三里塚に生きる』のトークをしたのは、今日がはじめてだという井浦さん。
そのお膳立てをして下さったのは、はるばる富山から駆けつけた映画館スタッフHさんでした。
彼女からはじめに提案を聞いた時には、「本当に井浦さん来るのかな?」と半信半疑ではあったのですが、突然のお願いにもかかわらず、快諾して下さった井浦さんに感謝です。

クリックすると元のサイズで表示します

トークのあと、井浦さんは、たくさんのファンの方からのサインや写真撮影のお願いに快く応じて下さいました。
最後は美術館の入口で、美術館スタッフみんなそろって記念撮影。
天気も良く、とても楽しい一日となりました。
ご来場いただいた皆さま、ボランティアスタッフの皆さま、どうもありがとうございました。
10

2015/3/11

朗読CD『ひろしまのピカ』発売のお知らせ  販売物

4月18日(土)に丸木美術館で朗読劇『父と暮せば』を上演する俳優・語り手の岡崎弥保さんが丸木俊の絵本を朗読したCD『ひろしまのピカ』が発売となりました。

クリックすると元のサイズで表示します

『ひろしまのピカ』は丸木俊にとって大切な絵本です。
このたび語り手の岡崎さんが朗読してくださることになりました。

「俊さんて、どんな人ですか?」と岡崎さんが聞きました。
「ゆっくりしゃべってね、楽しくてみんな俊先生に会うとファンになるよ」と
私は答えました。

岡崎さんは『ひろしまのピカ』と丸木俊について考えました。
そして、いよいよ朗読です。
声に心がこもって聞く人の心に響いて、すてきな『ひろしまのピカ』になりました。

 ――丸木俊の姪・絵本作家 丸木 ひさ子


クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します


CD1枚 約30分 本体800円(税込864円)、国内送料無料。
もちろん、丸木美術館でも取り扱う予定です。

最近、丸木美術館のボランティアや、さまざまなイベントでお会いする機会の多い岡崎さん。
ただ絵本を朗読するだけでなく、丸木夫妻の残した仕事や丸木美術館の活動を詳しく知ろうという気持ちがとても伝わってくる方です。
CDに記録された朗読にも、そうした岡崎さんの真摯な姿勢があらわれています。
本編朗読(19分36秒)に加えて、俊さんのあとがき「ひろしまのピカによせて」(6分12秒)も収録されています。
岡崎さんのブログに紹介されている6分間のダイジェスト版は、そのあとがきを効果的に使った見事な特別構成になっています。こちらもぜひお聞きください。
http://ameblo.jp/ohimikazako/entry-11997616812.html

岡崎さんは5月5日の開館記念日にも「ひろしまのピカ」の朗読をして下さる予定です。
ぜひ、この機会に、絵本とあわせて朗読CDもお求め下さい。

クリックすると元のサイズで表示します

追記:3月13日付『沖縄タイムス』に紹介されました。
3

2015/3/10

松谷みよ子さんの訃報  作品・資料

児童文学作家の松谷みよ子さんが2月28日にお亡くなりになったという知らせを聞きました。89歳でした。

個人的には、2009年に自由学園明日館で開かれた赤い鳥文学賞・新見南吉児童文学賞・赤い鳥さし絵賞の贈呈式・祝賀会の席でお会いしたのが最後でした。

『いないいないばあ』、『おふろでちゃぷちゃぷ』、『いいおかお』などの赤ちゃん絵本は親子二代で親しんでいるし、『モモちゃん』シリーズで初めて「離婚」というものを知り、『ふたりのイーダ』で“原爆文学”の深さに触れるなど、人生のさまざまな場面で、松谷さんの本は身近なところにありました。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、何といっても、丸木夫妻と松谷さんの残された豊かな仕事が、今、目の前にあります。
1971年の第3回ブラチスラヴァ原画展(BIB'71)でゴールデンアップル賞を受賞した絵本『日本の伝説』シリーズ(写真)をはじめ、松谷さんと俊さんが手がけた『つつじのむすめ』(1974年、あかね書房)、『あそびましょ』(1977年、偕成社)、『とうろうながし』(1985年、偕成社)。そして位里さんがさし絵を描いた『赤神と黒神』(1969年、ポプラ社)。

俊さんにとって松谷さんとの出会いは、後半生のなかで非常に重要な位置を占めていたように思います。
2012年に一宮市三岸節子記念美術館で開催された『生誕百年丸木俊展』図録に、小沢節子さんは絵本『つつじのむすめ』同時期に描かれた《南京大虐殺の図》(1974年)を光と影のように対比しながら、次のように記しています。

 とりわけ前者は「位里の影響を受けた水墨の技法と俊の色彩感覚が溶けあい、新たな境地を開拓した作品と評価される。だが、若い女の底知れぬ愛と官能を恐怖した男が、彼女の殺害に及ぶという松谷の物語を受けて、俊は闇のような墨と血のような赤の「闘争」を紙上に表現した。二つの作品からは、60代になった俊にとって、女性の性・セクシュアリティをめぐる葛藤と暴力が重要なテーマであったこと、そして、彼女がそれを表現する力を手にしたことが読みとれる。

先日の青鳥小学校での出張授業で紹介した「平和のやまんば」のイメージも、俊さんと松谷さんが半ば戯れに「やまんばの会」を提唱し、草深き地で自然に溶け込むように暮らし、たくさんの子どもを生み育て、生命の調和のなかで生き続ける「平和の母子像」の象徴として「やまんば」をとらえていたところから生み出されています。
あるいは「やまんば」もまた、虐げられる者の悲しみを背負っていたのかもしれません。
現代社会の抱える矛盾や不条理のなかで、悲しみ、傷つき、苦しむ人々の痛みを、「現代の民話」として時代を越えて語り継いでいく。互いにそうした仕事を積み重ねてきた二人が、民話のなかで語り継がれてきた「やまんば」に惹かれ、共感するというのは、不思議にユーモラスで、心温まるものがあります。

『日本の童画』第8巻(1981年、精興社)に松谷さんが寄せた、「孫達に伝える“闇”と“光”の結び目」と題する文章は、まさにその頃の二人の出会いと心の交流、そして歴史を見つめるまなざしの深さが伝わってくる、印象深い内容です。

追悼の思いを込めて、以下に紹介させていただきます。

==========

 俊先生とわたしは猫のお産の話など始めたらとめどがないのです。猫が赤ちゃん猫をくわえてどんな風に引越ししてあるくか、なんてことになると、おいしいものでも食べている顔になります。しかし話が原爆になり、アウシュビッツになり、水俣に及ぶとき、怒りと悲しみが俊先生の全身に滲んでくるのです。でも俊先生がその思いを声高に語ることは決してというほど無いのではないでしょうか。あの独特の、静かで、口籠るような語り口で恐ろしい世界を語られるとき、聞く人は一生忘れることができなくなるのです。

 あの日がそうでした。一九六八年十一月、私は始めて東松山にある丸木美術館を訪れました。「原爆の図」の第十二部に当る灯籠流しの絵が完成したばかりでロビィ一杯に飾られていました。真夜中、この灯籠は火も消え波に砕かれた無残な姿で汐に乗り、広島の海辺に打寄せられるというのです。
「絵にも描けません。文にも書けません」ぽつりと俊先生はいわれました。
「でも……書かなくてはいけませんね」
「そうです。二十世紀の人間が二十一世紀の人間になんらかの形で伝えなくてはならなくことです」

 私はその時、原爆にかかわる「ふたりのイーダ」という作品を書いていました。それだけにこの日の対話は生涯忘れ得ぬものとなりました。二十世紀の人間が二十一世紀の人間に伝えねばならないこと、以来この言葉は私のなかで、いつも海鳴りのようにひびいているのです。
 このとき、私はお返しのように「つつじの娘」を語りました。男の許へ夜ごと、山を越え山を越えて走った娘。掌に握りしめた米は餅になり、その激しさ故に男に谷に突き落とされるのです。

 この日二人の女が出会った。松谷さんも私も餅を握りしめて走る女である。

 俊先生がこういう意味のことを新聞に書かれ、恥かしくて困りました。でも必死で走り続け、ふと掌を開いてみたら餅があったという実感は、しんじつ私にもあるのです。俊先生の近作の絵本「ひろしまのピカ」はもしかしたら一つの餅ではないでしょうか。二十世紀の人間が二十一世紀の人間へ伝えねばならないこととして、丸木位里先生、俊先生は世界にもたぐいまれな合作の絵を描き続けてこられました。原爆の図、南京大虐殺、アウシュビッツ、水俣と走り続けてこられた俊先生がふっと掌を開いたとき、子供たちへ語り伝える絵本があったのではないでしょうか。俊先生は「これは子供たちへの遺言」といわれます。「このときまで、子供たちへ原爆の絵本を作ろうなどと、考えてもみなかったの」

 ほっと私は息をつきました。今まで先生にとっての童画のお仕事は咲く花でした。俊先生の油絵は深く重く、大地の闇をまさぐりつづける根のようです。位里先生と続けてこられたお仕事も、すべて死が画面を覆っていました。闇と光、死と生、一方が暗く重いだけに咲きでた花は日の光のようでした。この童画の世界に、俊先生は掌から移し植えるように「ひろしまのピカ」を描かれました。この絵本は俊先生の死と生、闇と光の結び目なのです。大切に子供たちに伝えねばと思うのです。


==========
2

2015/3/8

KEN「壷井明 無主物 2015」展にてトーク  講演・発表

午後6時から、三軒茶屋のスペースKENにて開催されている壷井明の「無主物 2015」展にて、ゲストとして壷井さんとのトークを行いました。

クリックすると元のサイズで表示します

福島第一原発事故を契機に、《無主物》と題する印象深い絵画を描きはじめた壷井さんの仕事は、2013年春に丸木美術館でも特別展示として紹介しています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2013/2013tsuboi.html

何度も福島へ足を運び、官邸前デモや都内の路上で絵を展示しながら、壷井さんは多くの人の体験談を聞き、そうした話を絵のなかに描き込んでいきました。
私も偶然、渋谷駅前の岡本太郎の《明日の神話》の前で路上展示をしている壷井さんに出くわしたことがあります。
今回の展示は、その《無主物》の続編として描かれた新作絵画の発表です。

クリックすると元のサイズで表示します

3月7日、8日、11日、14日のみという変則的な展示ですが、それぞれの日にトークを企画するとのことで、この日も、銀板写真家のAさん、ヴァイオリニストのTさん、ピアニストのCさん、韓国文化研究のFさん、和光大学の研究者Mさん、第五福竜丸展示館顧問のYさん、同学芸員のIさん、美術運送のHさん、俳優・語り手のOさんなど、錚々たる顔ぶれの方々が足を運んで下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

第一作の《無主物》は、すでに画面いっぱいに物語が描きこまれ、これ以上はないというほど濃密な内容になっていましたが、新作の4点はまだ空白の多い画面です。
除染作業、仮設住宅、子どもたちの甲状腺手術、原発作業員の死というテーマが描かれています。

クリックすると元のサイズで表示します

トークのなかでは、壷井さんの作品を最初に見たときの印象として、丸木夫妻の《原爆の図》との共通点をあげました。
絵を美術館や画廊に固定して展示するのでなく、街のなかに持っていき、直接人々と接するという発表方法。
作家個人の内面表現でなく、不特定の他者の記憶や感情を受け止める器のようになって絵のなかに落とし込んでいく制作姿勢。
具体的な証言を絵画として描くことで生じる物語化と匿名性。
無機質な情報化が求められる“記録”からはこぼれ落ちてしまいそうな、血の通った“記憶”をつなぎとめる現代の「民話」あるいは「神話」としての絵画。
描いても描き切れない現実を追い続けていくうちに、「連作」になっていくというのも、こうした絵画の必然なのかもしれません。

トークの後半は、壷井さんが福島で見聞きしたことを話していただき、現地で撮影した写真をスライドで映し、自殺者について語る住職や、同僚の死を前にした原発作業員の証言の録音も合わせて聞きました。
《無主物》がいかに濃密な情報を盛り込みながら描かれているのかがよくわかる内容でした。

新作の4点は、これからさらに描きこまれていくのでしょうが、現時点の、空と大地がぽっかりと広がる虚無的な画面も(絵画としての強さは第1作が圧倒的ですが)、それはそれでひりひりとしたリアリティが感じられて、胸に迫るものがありました。
3

2015/3/7

『北海道新聞』夕刊に「赤松俊子と南洋群島」展紹介  掲載雑誌・新聞

“パラオで開花、独自の美の世界 裸体に目覚め「原爆の図」へ”
 ―2015年2月21日『北海道新聞』夕刊 編集委員報告

クリックすると元のサイズで表示します

『北海道新聞』夕刊に、伴野昭人編集委員が丸木美術館で開催中の「赤松俊子と南洋群島」展を取材した報告記事を掲載して下さいました。

1940年1月に「南洋群島」のパラオ諸島に渡った俊の足跡を伝えつつ、当時のパラオの状況や、船上の朝鮮人家族を描いた俊のスケッチなどを紹介しています。
以下は、記事からの一部抜粋です。

==========

 「原爆の図」に関する著書のある近現代史研究者の小沢節子さんは「当時、朝鮮半島の人たちを描いた南洋群島の絵はほとんどなかった。南洋に移民していく朝鮮の人たち一人一人へのまなざしが感じられる」と指摘する。
(中略)
 現地住民を描いた人物画の裏には一人一人の名前や年が記されている。俊のめいで東松山市在住の丸木ひさ子さん(58)は「パラオの言葉なども日本語と合わせてノートいっぱいに書き込んでいる」と話す。
 1941年に仕上げた〈アンガウル島へ向かう〉は、リン鉱山に動員される島の男たちを和紙にペンで描き、彩色した。小沢さんは「帰国後に描いた作品で、現地での色彩豊かで光のある干支は対照的だ。戦争に向かう時代の俊さんの置かれている状況から、南洋を振り返った時のものが反映されていると思う」と語る。
 日本統治下の南洋に渡った画家は、東京・町田市立国際版画美術館学芸員の滝沢恭司さん(52)の調べでは50人を超え、ほとんどの画家がエキゾチックな風景や現地の人たちの姿に目を奪われていたという。滝沢さんは「そんな中で赤松俊子(赤松は俊さんの旧姓)の制作姿勢は特異だった。現地の人たちの姿を同じ高さの目線で等身大に描き出している」と分析する。
 では、俊さんは南洋で画家として何を身に付けたのか。原爆の図丸木美術館学芸員の岡村幸宣さん(40)は「強烈な日差しの中で明るい色彩に目覚め、さらに裸体の伸びやかな線の使い方や、人間性への解放が感じられる独自の裸体表現を獲得した」と説明する。
 それが後の原爆投下直後の広島で裸体の人がうごめく「原爆の図」につながった。この作品では裸の、なまの人間の姿が脅かされていく存在としての原爆を肉体によって描いた。俊さんにとっては、人間本来の伸びやかさが失われるものが原爆であったという。
 南洋で俊さんは植民地の実態にも目を向けた。俊さんは北海道の小学校、女学校で生活綴方や生活図画に熱心な教師の影響を受けたと回想しているが、岡村さんは「生活をありのままに描くことが、結果的に社会のあり方を見つめていく目を養い、そのことが植民地の矛盾、格差を写し出した」とみている。


==========

企画展「赤松俊子と南洋群島」展は4月11日まで開催。
油彩や水墨、スケッチ、絵本原画など210点、俊が見つめて描いた作品を展示できる限りそのまま公開しています。
3月28日(土)午後2時からは、今泉裕美子さん(法政大学教員)によるトーク「赤松俊子の旅した『南洋群島』」を行います。
ぜひ、この機会に俊の目がとらえた「南洋群島」に触れて下さい。
2



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ