2015/2/28

「江古田映画祭2014」映画『原爆の図』上映・トーク  講演・発表

午後1時より、武蔵大学1号館地下1002シアター教室にて、「江古田映画祭2014」のオープニング企画として、映画『原爆の図』2本立て上映会を行いました。

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会場には大勢の方が集まって下さり、原爆の図アメリカ展に向けて、2万円を超える寄付も頂きました。企画をして下さったギャラリー古藤さん、武蔵大学教授の永田浩三さんには心より感謝です。

上映のあとは、永田浩三さんとトークを行いました。
話はつい、1953年の今井正・青山通春監督の記録映画『原爆の図』に集中してしまって反省しているのですが、宮島義勇監督の1967年の映画『原爆の図』も、何度も見ているうちに、カメラワークの工夫や、宮島監督なりの構成の意図などがだんだんわかってきて、必ずしも単調とは言い切れないのだな……と思うようになってきました。
アラン・レネ監督の映画『ゲルニカ』に触発されて作ったという実験作。映像の力で《原爆の図》を語ろうという試みを、もう少し掘り下げてみていく必要はありそうです。

また、丸木俊著『幽霊 原爆の図世界巡礼』(朝日新聞社)を読まれたという永田さんが、トークの際に、「最初のアメリカ展でどんな酷評をされたのかと思っていたら、案外、好意的な評価が多かったことに驚いた」とおっしゃっていたことも印象的でした。
「アメリカでの酷評にショックを受けた」という袖井林二郎さんや丸木夫妻の回想に、つい引きずられてしまっていたのですが、たしかに『ニューヨーク・タイムズ』は批判的に報じているものの、他の都市の報道も含めて、この機会にあらためて丁寧に読み直していく必要があるのかも知れません。

トークの後はトランぺッターの松平晃さんの楽しい演奏もあり、オープニングパーティでもたくさんの方々に声をかけて頂きました。素晴らしい時間を過ごせたことを感謝いたします。

江古田映画祭は3月15日までギャラリー古藤で行われます。
とにかく充実したラインナップですので、どうぞ皆さま、足を運んでみてください。

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2015/2/25

テレ玉NEWS 930特集「原爆の図アメリカへ」  TV・ラジオ放送

午後9時30分からのテレビ埼玉のニュース番組「NEWS 930」で、アメリカへわたる《原爆の図》についての特集が放映されました。
報告は余野誠記者。丁寧に取材して下さったので、以下に、その内容を書き出します。

―スタジオ―
【テロップ】原爆の図 アメリカへ
波多江良一キャスター:続いては特集です。70年前の原爆の悲劇を後世に伝えようと強い怒り、悲しみとともに筆を走らせた夫妻がいます。
村山千代キャスター:その二人の作品は、海を渡り、アメリカ・ワシントンで展示されます。

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―丸木美術館の外観―
【テロップ】原爆の図 丸木美術館
余野誠記者:東松山市下唐子にある原爆の図丸木美術館。
―丸木位里写真、続いて丸木俊写真―
【テロップ】丸木位里(一九〇一〜一九九五)、丸木俊(一九一二〜二〇〇〇)
余野記者:70年前の八月、原爆が投下された3日後に広島に入った画家、故・丸木位里・俊夫妻。
―丸木夫妻の共同制作の写真―
【テロップ】報告 余野誠
余野記者:そこで目の当たりにした地獄絵図。

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―原爆の図 第8部《救出》―
【テロップ】丸木位里・俊夫妻が完成させた 原爆の図
余野記者:その絶望と破壊のありさまを伝えていこうと、二人が心血を注いで完成させたのが、原爆の図15部です。丸木美術館には、長崎原爆資料館所蔵の《長崎》を除く14部が展示されています。

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―原爆の図 第12部《とうろう流し》―
【テロップ】ことし6月〜8月「原爆の図」がアメリカ・ワシントンのアメリカン大学美術館で展示される
余野記者:被爆から70年の今年6月から8月にかけて、この《原爆の図》が海を渡り、アメリカの首都ワシントンのアメリカン大学美術館で展示されることになりました。

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―原爆の図 第2部《火》―
【テロップ】原爆の図 第二部「火」
余野記者:今回展示されるのは、第1部《幽霊》、第2部《火》など6つの作品です。第2部《火》は、原爆の図の代表的な作品として知られています。紅蓮の炎が人々を焼き尽くすさまが、被爆直後の広島の惨状を物語っています。

―第2部《火》の前のインタビュー―
【テロップ】原爆の図 丸木美術館学芸員 岡村幸宣さん
岡村:去年の5月にですね、アメリカン大学の歴史学者のピーター・カズニックさんが丸木美術館に来られて、いったん全部ご覧になった後帰られてから、ぜひ、やりたいと。展覧会を2015年の夏に開きたいとオファーを下さって、作品を運ぶためのお金を集めるという、募金を呼び掛けて、それでとんとん拍子にここまで話が進んできたという感じですね。

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―原爆の図 第13部《米兵捕虜の死》―
【テロップ】原爆の図 第十三部「米兵捕虜の死」
余野記者:原爆で死亡したとされるアメリカ兵を描いた第13部「米兵捕虜の死」。作品に添えられた、「あなたの国の若者も23人死んだのです」との言葉、アメリカの人びとにどう届くのでしょうか。

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―原爆の図 第14部《からす》―
【テロップ】原爆の図 第十四部「からす」
余野記者:多くのカラスが死体をついばむ恐ろしい光景。最後まで弔われず、死後も差別されたという韓国・朝鮮人被爆者を描いた第14部「からす」も海を渡ります。

―第2部《火》の前のインタビュー―
【テロップ】Qなぜ「火」「米兵捕虜の死」など6作品が――
岡村:コンセプトとしては、まず大きいのが原爆の被害、それも人間の被害ですね。それから原爆以外の核、それは《署名》なんかに出てくるんですけれども、それから国境を越えた人間共通の問題としての核、それから鎮魂、その4つのテーマから、今回の6点の作品を選んでいます。

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―原爆の図 第1部《幽霊》(貸出中のため複製)―
【テロップ】アメリカでは「戦争終結を早めた原爆投下は正しかった」という考え方が現在も支配的といわれる
余野記者:被爆した人たちの記憶とともに、原爆投下の惨状が語り継がれる日本。一方、アメリカでは「戦争終結を早めた原爆投下は正しかった」とする考え方が現在も支配的と言われています。
―再び、丸木夫妻の共同制作の写真―
余野記者:日本とアメリカ、両国の歴史認識は異なりますが、丸木夫妻が描いた絵を通じてともにあの悲劇を共有し、平和への思いをつなげられないか、美術館では期待を寄せます。

―第2部《火》の前のインタビュー―
【テロップ】アメリカの人々に何を感じてほしいか
岡村:アメリカでは、やはりエノラ・ゲイ、原爆を落とした飛行機が英雄のように扱われて、空から爆弾を落とした視点なんですね。で、勝利の象徴となるわけですけれども、
―第2部《火》、第8部《救出》などクローズアップ―
岡村:原爆の図というのは、空から落とした爆弾が、きのこ雲、爆発してきのこ雲が湧きあがるんですけれども、その下にいる人間の目から原爆を見ているんです。空の上からと空の下から、まったく違うんですね、視点が。
―第2部《火》の前のインタビューに戻る―
【テロップ】空の「下」にいた人たち その人たちがどう原爆を見たかというのを/“言葉”ではなく 実際 自分たちが8月6日のヒロシマの焼け野原にいるように/体で感じてもらう それが絵の「力」だと思うので
岡村:で、その空の下にいた人たち、その人たちがどう原爆を見たかというのを、アメリカの人たちに、言葉ではなく、実際に自分たちが8月6日の広島の焼け野原にいるように、体で感じてもらう。それが絵の力だと思うので、そうすることで想像力を広げる。国とか人種とか、そういうものを超えて、同じ人間として核の被害について向き合っていく、そういう機会にしていだたきたいというふうに思っています。

―館内の《原爆の図》展示風景―
【テロップ】募金について 原爆の図 丸木美術館 TEL0493-22-3266 メールmarukimsn@aya.or.jp
余野記者:《原爆の図》の輸送費や保険料など、必要な経費はおよそ1000万円。現在、丸木美術館では寄付を募っています。展示の日程は今年6月13日から8月16日。8月6日の広島原爆忌には、6つの作品が美術館に存在しませんが、この間も夫妻の別の作品を展示する予定です。

―第2部《火》の前でのインタビュー―
【テロップ】「原爆の図」の15部連作以外にも全国に散らばっている
岡村:そのあいだ丸木美術館空っぽになっちゃうと寂しいな、と思う方もいらっしゃると思うんですが、実は《原爆の図》というのは、15部の連作以外にも、たくさん全国に散らばっているんですね。ほとんどの方がそれを見たことがない。で、今年の夏はそれを全国から集めて来て、今まで知らない、誰も見たことがない《原爆の図》をそろえて、多くの方にまた見て頂くと、そういう機会を設けたいと思っています。

―スタジオ―
波多江キャスター:以上、特集でした。
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2015/2/24

青鳥小学校出張授業/テレ玉ニュース  講演・発表

午後、東松山市内の青鳥(おおどり)小学校で出張授業を行いました。
青鳥小学校の校舎には、丸木夫妻が描いた「青い鳥」の壁画があります。

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この出張授業は、同校のPTA会長のKさんの尽力で実現したものです。
約1時間の授業のなかで、丸木夫妻がなぜ東松山に美術館を作ったのか、そして《原爆の図》や青鳥小学校の壁画に込められた思いについて、クイズや動画映像を交えながら、お話をさせて頂きました。

この日は4つのクイズを用意していったのですが、一番盛り上がったのは、一見、話の流れとは無関係(に思えるようで実はそうではない)の妖怪ブームに便乗?した次のクイズでした。

【Q:丸木俊さんが好きだった「妖怪」がいます。その「妖怪」は何でしょう?】

1.やまんば
2.かっぱ
3.ざしきわらし





正解は……1番のやまんば、でした。
晩年の丸木俊さんは、親しかった児童文学者の松谷みよ子さんと二人で、「やまんばの会」を結成して楽しんでいたそうです。
やまんばといえば、一般的には人里離れた山に暮らす恐ろしい女性のイメージですが、二人の視点は「自然とともに生き、たくさんの子どもを育てる理想の女性像」というものでした。
東松山市の松山市民活動センター(旧中央公民館)のホールには、「平和のやまんば」の緞帳がかけられています。

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鳩のラインに囲まれたやまんばが抱えているのは、作者の解説によると、「色さまざまの十二の子」。つまり、国や民族を超えて、世界中の子どもたちを守る「平和のやまんば」ということです。
よく見ると、青鳥小学校の壁画に描かれた3人の子どもも、みな肌の色が違います。
世界の子どもたちが仲よく平和に暮らして欲しいという願いを、青い鳥に託しているのですね。

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静岡県浜松市天竜区佐久間町大井の明光寺にも、丸木夫妻が山姥を描いた扁額が収められていると昨年末に知りました。
1979年の作だそうで、絵本の『つつじのむすめ』を想起させます。

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そして、2015年版の丸木美術館カレンダーの表紙も、『あかざばんばとガラ』というやまんばの民話でした(「ちょうふく山のやまんば」や「やまんばのにしき」という題でも知られています)。

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予想外の答えに、子どもたちは全員不正解。なんと教頭先生が一人だけ正解という驚きの結末に、教室は大いに盛り上がっていました。

   *   *   *

この日の出張授業の様子は、同日夜のテレビ埼玉のニュース番組「テレ玉ニュース」でも紹介されました。
http://www.teletama.jp/news/0224.html

―スタジオ―
【テロップ】東松山市 小学校で丸木夫妻の「青い鳥」を解説
村山千代キャスター:反戦・平和を訴えた画家、故丸木位里・俊夫妻の壁画がある東松山市内の小学校に、夫妻ゆかりの丸木美術館の学芸員が訪れ、壁画に込められた思いなどを児童たちに説明しました。

―原爆の図第2部《火》―
【テロップ】原爆の図 丸木位里・俊
村山キャスター:故丸木位里・俊夫妻は、1945年8月、原爆が投下された3日後に広島に入り、そこで目の当たりにした光景を《原爆の図》に描きました。

―青鳥小学校の壁画―
【テロップ】東松山市立青鳥小学校 東松山市石橋
村山キャスター:東松山市内の青鳥小学校の校舎の壁画「青い鳥」は、丸木夫妻が描いたもので、夫妻のデザインが校舎の壁画に描かれているのは、全国でもこちらの校舎だけだということです。

―教室内での授業の様子―
村山キャスター:今日は、丸木美術館の学芸員、岡村幸宣さんが、6年生の児童ら、およそ50人を前に講演を行いました。《原爆の図》について岡村さんは、「怖い絵であるが、この絵を見た後は人の痛みがわかり、周りの人にやさしくできるという意味で、やさしい絵でもある」と話しました。
そして、壁画「青い鳥」の中央に描かれた三人の子どもの肌の色がそれぞれ違うことに触れ、「いろいろな国のいろいろな人種の人たちと仲よくなれるような子どもに育ってほしい」という丸木夫妻の願いが込められている、と説明しました。

   *   *   *

お世話になった青鳥小学校の先生方、PTAの皆さま、取材をして下さった市の広報課、テレビ局や新聞社の記者の皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2015/2/24

『東京新聞』夕刊に「中東に平和を 「ゲン」が訴え」記事掲載  掲載雑誌・新聞

中東に平和を 「ゲン」が訴え エジプトの教授、アラビア語版出版
 ――2015年2月24日『東京新聞』夕刊

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http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015022490135442.html

カイロ大学日本語学科教授のマーヒル・シリビーニーさんの翻訳で、漫画『はだしのゲン』第一巻のアラビア語版が出版されたというニュースが入ってきました。
昨年夏に丸木美術館で開催した「はだしのゲン絵本原画展」の際に、あらたにアラビア語版が出る準備をしていると聞いていたのですが、中東情勢の複雑化するなかでの刊行は、現地でどのように読まれるのか、興味深いところです。

昼前に、東京新聞の記者から電話があり、私も短いコメントを寄せました。
以下は、東京新聞のWEBページからの一部抜粋。実際に紙面に掲載された内容とは、少々異なります。

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 原爆投下後の広島で生きる少年を描いた「はだしのゲン」は、二〇一二年に亡くなった漫画家中沢啓治さん=享年(73)=の自らの体験に基づく。主人公の少年ゲンがたくましく成長する姿を描いた作品は平和教材として活用され国内ではドラマやアニメ映画、実写映画も作られている。

 一方で、一三年には、作品の一部に暴力的な描写があるなどとして松江市教育委員会が市内の小中学校に学校図書館で子どもの閲覧を制限するよう要請したことが分かり、全国で議論を呼んだ末、市教委が要請を撤回する騒動があった。

 この問題を機に昨夏、埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」は、絵本版のカラー原画や十五カ国語に翻訳された作品を展示する特別展を開いた。中沢さんが何を伝えたかったのか、あらためて作品を見てもらおうと考えたという。

 学芸員の岡村幸宣さん(40)は「原爆投下から時間の経過を経て、広い視野から被爆の体験だけでなく被爆者の生き方まで描いていることが、世界で読み継がれる理由だと思う。海外で紹介される意味を私たちもよく考える必要がある」と話す。

 「はだしのゲンをひろめる会」(金沢市)の浅妻南海江理事長(72)は「念願だったのでうれしい。さっそくアラビア語版を入手して、アラビア語圏に広めていきたい。ゲンが、アラブ諸国の平和に寄与することを願っている」と喜んだ。


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紙面には「海外で新たに紹介される意味を日本人も広い視野で考える必要がある」という私のコメントが書かれていますが、私はこういうときになるべく「日本人」という限定した言い方はしないつもりなので、WEB上のコメントの方が、より真意に近い内容だと思います。
今年は《原爆の図》が渡米しますが、『はだしのゲン』も含めて、戦争のもたらす「痛み」を感覚的に想起させる作品が、これからも世代を超えて読み継がれていくことを期待しています。
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2015/2/22

特別トーク「『南洋群島』とその後のマーシャル諸島」  イベント

午後2時より、マーシャル諸島のテンポー・アルフレッドさん(アイルック自治体議員、写真左から3人目)、ロザニア・アルフレッド・ベネットさん(マーシャル諸島国会元職員、写真右端)をお迎えして、明星大学教員・丸木美術館評議員の竹峰誠一郎さん(写真左端)の企画により、「『南洋群島』とその後のマーシャル諸島」と題する特別トークを行いました。

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かつては「南洋群島」として日本統治下にあったマーシャル諸島。
日本からの移民も多く、最盛期は現地住民をはるかに上回る人口があったといいます。
もっともその6割が沖縄からの移民で、朝鮮半島からも2000人ほどが渡っていたそうです。
戦後は、すぐにアメリカの核実験場となり、第五福竜丸の被ばくで知られるブラボー実験をはじめ、67回に及ぶ核実験で海や空を汚されて、住民たちも被ばくします。
朝鮮半島や台湾なども含めて、戦後の日本の「平和」や「復興」が、いかに旧植民地の犠牲の上に成り立っていたかを、あらためて考えさせられます。
いまだに島ごと要塞化したような犠牲を払い続けている沖縄も、もちろんのこと。

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トークでは、ロザニアさんの母親・クレドールさんのインタビュー映像も流されました。
クレドールさんの父親は、「フジタ」という名の日本人。しかし、彼女は父親に一度も会ったことがないそうです。
マーシャル諸島北部のウォッチェ環礁の公学校に通っていた彼女は、戦争で一年もたたないうちに学校が閉鎖し、日本軍によって島を追われて穴の中に逃げたとのこと。
今回の来日は、その父親の足跡を探すという目的もあるようです。

テンポーさんは味わいのあるマーシャル語でのトーク。井戸端会議風の進行で、食糧を独占する日本軍の「ソーコ」をパイプで突いて穴を開け、落ちてきた食糧を確保したことや、日本兵の命令で貝や魚を集めてくる途中で自分たちの分を確保していたという話を生き生きと回想して下さいました。

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トークの後は、館内を見学。
原爆の図第9部《焼津》の前で絵に見入る(左から)ロザニアさん、テンポーさん、そしてロザニアさんの息子のマーカスくんです。

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閉館後は、通訳やボランティアの方がたといっしょに、近くの日本料理店で打ち上げ会をしました。テンポーさんはウクレレを弾き、自作の歌を披露して下さいました。

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竹峰さんによれば、マーシャル諸島では、職業的な歌手というより、誰でも普通に作詞作曲して歌う文化があるとのこと。
日本の冬は「寒い、寒い」と、丸木美術館でも小高文庫(休憩室)のこたつ(人生初体験のこたつだったようです)にかじりついていたテンポーさん一行ですが、このときばかりは温かな南の風が吹いたような心地がしました。
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2015/2/14

こたつde映画祭2015『原爆の図』2本立て上映  イベント

ゆるやかに一部で好評の「こたつde映画祭2015」、第2弾は映画『原爆の図』2本立て。

1953年に今井正・青山通春監督(実質的には青山通春監督)が撮影した記録映画『原爆の図』と、1967年に宮島義勇監督が撮影した実験映画の『原爆の図』。

フィルムをデジタル化してから、2本立ての上映会を行うのは今回が初めてです。
個人的には何度も見ている作品(特に1953年の方は数えきれないほど)ですが、やはり大勢の方といっしょに見て、映画の後に感想を話し合うのは楽しいものです。

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特にこの日は、1950年代の文化運動研究の専門家Tさんや、合唱文化に造詣の深いKさん、1980年代の丸木美術館を実体験としてご存知でギャラリー経営者のIさんなど、専門性の高いお客さんがそろっていました。そして、なんと1953年の映画『原爆の図』に出演されているYさんの息子さんまで!

皆さんの感想は圧倒的に「1953年の記録映画が面白い!」というもので、奇をてらわずにありのままを記録した映像が歳月を重ねるほど貴重になるということを再確認したのですが、ひとり、まだ20代の若い視覚表現研究者Sくんが「いえ、ぼくには1967年の実験映画の方の視点も面白かったです」と言っていたのが印象的でした。

規模の大きな上映会とはまた違った、味わい深い小さな映画祭。
今年はこれが最後ですが、ぜひ、来年もまた企画していきたいと思います。
ご来場くださった皆さま、本当にありがとうございました。
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2015/2/11

「赤松俊子と南洋群島」土方久功日記より  作品・資料

2月11日は丸木俊の誕生日。
パラオ生物学研究で知られ、アンガウル戦の生還者でもあった倉田洋二さんの知人のMさんが「赤松俊子と南洋群島」展を見に来て下さいました。
「すごい展覧会ですよね!」と興奮気味のMさん、この展覧会のために2度目の来館とのこと。
現在、パラオのコロール島にいる倉田さんに俊のスケッチを見て頂いて、そこから何が読みとれるのか、報告して下さるそうです。

   *   *   *

先日、世田谷美術館のN学芸員から、『土方久功日記X』(国立民族学博物館調査報告124、土方久功著、須藤健一・清水久夫編、国立民族学博物館発行、2014年)をご恵贈頂きました。

俊もパラオで世話になった彫刻家・民族学者の土方久功の膨大な日記を、全5巻に書き起こしたという労作。1941年の日記には、しばしば俊の記述が登場します。
とりわけ、3月に開催した昌南倶楽部での俊の個展の前後から、カヤンガル島をいっしょに訪れるあたりは、頻繁に俊の名前が記されています。

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写真は、俊がパラオで描いた土方の肖像スケッチ。今展出品作でもあります。
こうして展覧会を通じて新しい情報が集まってくるのも、大切な成果と言えるでしょう。
以下に、土方日記から、俊の関連個所を註とともに抜書します。

【1月】
27日(土) 
昨日ノ笠置丸デ来タ、赤松俊子ト云フ女流画家ガ役所ニ訪ネテ来ル。


28日(日) 
バイニ昨日ノ赤松氏ト守屋氏トガ居ル。大キナ守屋氏ガ小サナ絵具箱トスケッチ板トヲ持ッテ――赤松氏ハ半ズボン ニ ネクタイ ナシノ セビロ形ノ上着ヲ着テ――守屋君ガ ア・バイノ説明ヲシテ クレト云フノデ、マリヤ達ヲ待タセテオイテ、一通リ説明スル。


29日(月) 
夜、興発倶楽部ニ泉井氏ヲタヅネル。一時間程モシテ赤松氏モ帰ッテ来タノデ、十一時頃頃モ話シテ居ル。其ノ頃ニナッテ雨ヤム。


※泉井氏=言語学者の泉井久之助。当時、京都大学助教授で南洋群島の言語を調査していた。

【2月】
6日(火) 
朝役所カラ、泉井氏ノ所ヲ尋ネタガ、留守デ、赤松氏ガ居タノデ、二時間程話シテ来ル。

14日(水)
夜、赤松君ノ所ニ油ヲ分ケテ貰フツモリダッタノデ、興発倶楽部ニ行キ、泉井君、赤松君ノ所ニヒッカカッテシマッテ、十時半頃マデ遊ンデ来ル。

17日(土) 
夕食後、堂本部長ヲ訪問、二時間程モシテ帰ラウトシテ居タラ、赤松君ガ、コレモヒョッコリ訪ネテ来タノデ、又一時間程話シコンデシマヒ、八時半頃一緒ニ辞ス。赤松君ハ検事ノ所ヲ訪ネルトテ行ク。

【3月】
5日(火) 
役所ニ帰ッテ来ルト、赤松サンガ部長ニ面会ニ来テ居タ。部長ガ会議ガアッタノデ、話ヲキイテクレト云フ。ソレデ南貿ニ行ッテオ茶ヲノミ乍ラ、話シ、十一時過ギ図書室ニ野口君ニ話シニ行ク。是レハ赤松君ノ展覧会ノコトト、ソレカラ丁度丸山晩霞老ガ来テ居ルノデ、一日文化協会ニ美術講演会ヲヤラセヨウト云フノデアル。
(中略)
一時、赤松君ト部長ヲ訪ネテ話スト、直チニ林サンヲ呼ンデ話シテクレル。ソレカラ赤松君、私ノ処デ永イコト話シテ居タガ、真珠養殖場ノ佐伯氏ノ処ニ遊ビニ行カウト云ヒ出ス。ソレハ シャリヤッピン ノ レコード ヲキカウト云フノデアル。三時前、一寸興発倶楽部ニ寄リ、自動車ヲタノンデ「アラカベサン」ニ行ク。佐伯サンノ処デ蓄音機ヲキキ、コーヒーヲ飲ミ、ソシテ永イコト永イコト、古イ パラオ ノコトナドヲ話シ、ソレカラ晩餐マデ馳走ニナッテ、七時半、自動車デ送ラレテ帰ッテ来ル。

※南貿=南洋貿易株式会社
※野口君=野口正章。南洋群島文化協会嘱託で、『南洋群島』の発行人兼編集人。
※丸山晩霞=水彩画家。1867年生。太平洋画会創立に参加、南洋興発株式会社の依頼を受け、南洋の風物を主題とする献上画の下絵写生のため、来島していた。
※佐伯氏=アラカベサンに鰹鮪漁業および鰹節の製造販売を行う、本社・工場をもつ紀美水産合資会社を兄と経営し、真珠貝の採取や養殖、船舶所有・貸借その他水産業を行うパラオ水産株式会社の取締役だった。芸術を愛好し、彼の家はサロンのようになっていた。

10日(日) 
帰リ赤松氏ノ所ニ一寸。赤松君ハUheliyangヲ画キニ行クト云フデ昼頃行ク約束シテ別レ、ゴロゴロシテ居ルト、HobhouトSailongトガHohopヲツレテ来ル。

12日(火) 
赤松君ノ展覧会ヲ開イテヤルコトニ就キ、十時、文化協会ノ野口君、新聞社ノ森田君、養殖場ノ佐伯君ト、当ノ赤松君ト倶楽部ニ集ッテ相談、南貿ニモッテ行カウト思ッテ皆デ南貿ニ行ッタガ、面白クナイノデ、結局倶楽部ノ二室ヲ使ッテヤロウト云フコトニナル。

(中略)
ソレカラ興発倶楽部ニ赤松君ヲ訪ネ、案内状に入レル作者ノ言葉ヲカカセ、デッサンヲ一枚トッテ来ル。ソレカラ、役所ニカヘッテ、推薦ノ言葉、紹介ノ言葉ヲマトメ、アレヤコレヤシテ、新聞社ニ、ソレラヲ届ケテ来ル。
赤松君ハ全部絵ヲモッテ額縁屋ニ行ッテ居タノデ、夕方行ッテミル。ココデモ一時間バカリ、帰リニ一所ニ食事シテ別レル。


※文化協会=南洋群島文化協会。南洋庁長官を会長とし、月刊『南洋群島』の発行、書籍出版、展覧会や講演会開催など文化活動をする南洋庁の外郭団体。

14日(木)
午後二時頃カラ、赤松君ノ展覧会ノ飾リツケ。額縁ガ乾カナイヤラ何ヤデ遅クナッテ、夜九時ニヤット終ル。終ッテカラ、野口君、松沢君、赤松君ト額縁屋ノ川村君ト皆デ宝来軒ニ食事ニ行ク。

17日(日)
昼、倶楽部ヘ、二時頃帰ッテ寝、五時再ビ倶楽部ヘ、六時、紀美水産ノ中村陸男サンカラ迎ヘノ車ガ来タノデ、赤松サント二人デ行ク。佐伯サンノ晴サンモ先キニ来テ居ル、話、蓄音器、トマトチーズ ノ スープ ト ngduul ノ コキール ト ダック ノ丸アブリト、ポテト ト ニンジン、ソレカラ キウリ ト アスパラガス ト卵ノ皿、ビール ノ夕食、パインアップル ト パイ ト コーヒー ノ デザート、ソレカラ又、話ト歌ト蓄音器ト、笑ヒト親シサト。ソレカラスバラシイ貝ノ コレクション ト バリー ノ珍ラシイ彫刻物ト。デ十二時前ニナッテシマフ。
迎ヘノ車デ三人、ミユンスデ清サンガオリ、興発クラブデ赤松サンガオリ、ソシテ十二時少シマハッテ、オ手製ノオミヤゲノ パン ヲ持ッテ帰ッテクル。パラオ デハナカッタ様ナ一夜。

18日(月)
赤松サンノ展覧会カタヅケ。

19日(火)
十時出航ノちちぶ丸デ和田[清治]君、赤松君トNgheangngalニ行クコトナッテ居タノデ、八時半ニ倶楽部ニ赤松君ヲ訪ネ、九時自動車ヲ頼ンデ一緒ニ熱帯生物研究所ニ和田君ヲ誘フ。九時半、コロール波止場ニ行ッタガ、ちちぶガ来テ居ナイ。又機械ガ悪イソウデ、マラカル デナホシテ居ル由、十時ニナッテモ来ナイ、十一時ニナッテモ来ナイ、三人デ波止場ノ先キニ行ッテ居タガ、十一時半ニハオ腹ガスイテシマッテ、オ弁当ヲ、乾パン ト チーズ トヲ出シテ食ベテシマッテ、十二時過ギテモ来ナイノデ、アキラメテ帰ル相談ヲシテ居ルト、船ノ人ガ来テ、何デモ会社デハ出シ度イノデ、二時半迄ニ来ルヨウニ云ッテヤッタカラ待ッテクレト云フ。ソウシテ随分タッタト思フタ頃、二時ニNgurukノ島カゲニちちぶガ姿ヲ現ハシタ。二時半ニ波止場ニツイタノデ早速乗リコンダガ、船長ト機関長トノ間ニ又々話ガヒッカカッテシマッテ、結局二人ハ荷物オートバイデ会社ニ行ッテシマフ。ソシテ三時半ニナッテ、今日ハ出ナイデ明日ノ十時ニ出ルト云フコトニ決ル。Kisaulモ来テ居タノデ、皆デオートバイデTehekiニ行キ、少シ早カッタケレド食事ヲスマセ、別屋ヲアケテ貰ッテ三人トモ寝テシマフ。目ヲサマスト日ガ暮レテ居タ。赤松君ハ島民ヲツカマヘテ踊ヲヤリ出シタノデ、和田君ト二人デ アラバケツ ノ和田君ノ家ニ帰ル。八時半。コーヒー ヲ入レテ十時頃マデ喋ッテ寝ル。


※Ngheangngal=カヤンガル。パラオ本島の北32kmの海上にある島。1935年時の人口93人。
※熱帯植物研究所=パラオ熱帯植物研究所。1934年、東北大学の生物学教授・畑井新喜司の奔走で生まれた文部省管轄の研究機関。

20日(水)
九時半ニ波止場ニ来ルト、十分程シテ赤松君モ来ル。十時半出航。風ナクベタナギニ近イ静カナ海、三時半オコトル着、四時村役場ニ行ク。パン ト キュカンバー・サンドヰッチ ト クカウ ト オムスビデ、早ク夕食。


※オコトル=パラオ本島北端のアルコロン村の西海岸にある波止場。

23日(土)
朝三人デ海岸ヲ一週スル。

24日(日)
午前、MakarトNgardohoニ行ッテ、南ノDelonghoklヲ全部キイテ来ル。午後、昼寝シテ後、Brottohニ行ク。夜九時頃カラ南ノ浜ヘ。沢山ノ女達。赤松君ハ汀デ終始踊ヲ習ッテ居ル。十二時前ニ帰ッテ来ルト、三四人ノ女達ガ又家マデツイテ来ル。又休ミ場ニ腰ヲオロシテ一時過ギマデ話シテ居ル。ソンナニ惜シイ月。

31日(日)
朝六時、Ngkeangngal発、十時okotol、午後四時頃、コロール着。
夜、赤松君、和田君ト南洋ホテル ヘ晩餐。

【4月】
2日(火)
夜、赤松氏ト一緒ニ内務部長ヲ訪ネル。暫クシテ一緒ニ活動写真ヲ見ニ行カウト云ハレ、夫人ト皆デ若葉館ニ行ク。

8日(月)
カヤンガル カラ レモン ガ、私ト赤松サント和田サント三人ニ届ク。手紙ガアッタソウダノニ、ワカラナイノデ誰ガヨコシタノカワカラナイ。ドウモ連中ニハチガヒナイノダガ。晩、和田サンガ来ル。赤松サンモ呼バウトシタガ、ドウシテモ電話ガカカラナイノデ二人デ散歩ニ出ル。

12日(金)
夜十時頃ニナッテ赤松君ガKisaul、Bauldong、Maria三人ヲ引張ッテ来テ、熱帯生物ニ和田サンガ待ッテ居ルカラ行カウト誘ヒニ来ル。行ッテ、十一時半迄遊ンデ来ル。

14日(日)
朝七時半、興発倶楽部ニ赤松サンヲ誘ヒニユク。
倶楽部ノ手前デ松沢君ニ逢ヒ一緒ニ。八時、赤松サント二人デ アラカベサン ニ向ッテポツポツ歩イテ行クト、連絡道路ニカカル所デ、後カラバスガ来タノデ乗ル。
パラオ水産ノ所デ降リ、佐伯君ノ所ヲ訪ネル。佐伯サンハ待ッテ居タガ、遅イノデ来ナイト思ッテ食事ヲシテシマッタカラ、少シ待ッテクレトテ、三十分程シテ、又皆デ朝食ヲヤリナホス。
ホットケーキ ノオ招キナノダ。タラフク食ベル。

16日(火)
夜、六時パレスデ赤松サンノ送別会、文ノ家、沖縄踊、佐伯、野口、森田、松沢。


この後、俊はヤップ島を経由して日本に帰ります。

   *   *   *

また、「解説」によれば、土方は1967年5月6日の丸木美術館開館記念式に出席し、当時の日記に次のように記しているそうです。

マルキ俊子君(赤松俊子君)トノ出合イワ、モオ古イコトニナル。昭和14年、私ガ サトワル島カラ パラオニ出テ来タ年ダッタト思ウ。サッソウト、ハツラツト、ショート・パンツニ リュックヲショッテ、若キ俊子君ガコロールニ乗リコンデ来タノワ。
ソシテ、ドコデモイイ、日本人ノ居ナイ島マデ連レテ行ッテクレト言ウノデ、熱帯生物研究所ノ研究員ダッタ若キ和田清司君ヲ誘ッテ皆デ、カヤンガル島ニ行ッタノダッタ。俊子君ノ喜びビヨオッタラナク、早速島民ノ娘タチト仲ヨクナッテ、歌ト踊(マトマトン)ヲナラッテ、オボエテ帰ッタノダッタ。


「赤松俊子と南洋群島」展は4月11日まで。
これだけ多くの南洋のスケッチを展示する機会は、もう二度とないのではないかと思いますので、ぜひ、この機会に俊が見つめた「南洋群島」を、ご覧になってください。
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2015/2/10

『朝日新聞』夕刊に原爆の図米国展紹介  掲載雑誌・新聞

原爆の図、米に問う ワシントンで展示へ 「国超えて平和訴える」
 ―2015年2月10日付『朝日新聞』夕刊

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今夏、ワシントンDCのアメリカン大学で開催される「原爆の図展」についての記事が『朝日新聞』に掲載されました。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11595312.html?_requesturl=articles%2FDA3S11595312.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11595312

取材して下さったのは清宮涼記者。
アメリカン大学のピーター・カズニック教授にも独自取材をされています。

以下は、記事からの一部抜粋。

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 元日本テレビ社員で、フリープロデューサーの早川与志子さん(68)が2013年夏、来日したアメリカン大学核問題研究所のピーター・カズニック所長に展示を持ちかけたことがきっかけとなった。

 早川さんは在局中から「ピュリツァー賞写真展」など戦争や平和をテーマにした企画を手がけてきた。「芸術がどこまで反戦や平和を伝えられるかというのが私のテーマ。作品の持つ力強さが、国を超えて平和への思いを伝えられるのではないかと思った」

 原爆投下の評価をめぐり、米国では「日本の降伏をもたらし、本土決戦の回避で数十万のアメリカ人と数百万の日本人の命を救った」との見解が支配的だ。

 これに対し、カズニック所長は原爆投下は軍事的にも倫理的にも正当化する余地はない、と主張。95年に退役軍人らの反発でスミソニアン航空宇宙博物館の原爆展が事実上中止となった際、資料を引き受けて展示した。12年には映画監督のオリバー・ストーン氏とともに、原爆投下の経緯に疑問を投げかけるテレビドキュメンタリーを制作。毎年、学生とともに広島や長崎を訪れるツアーを開いてきた。

 早川さんの提案を受けてカズニック所長は昨年5月、原爆の図を常設展示する原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)を訪れた。実際の作品を見たことで、「ぜひ展示したい」と快諾したという。カズニック所長は「ピカソのゲルニカと比べられる作品。今も世界には数多くの核兵器がある。原爆や原爆後の世界についての議論を促すことが展示の目的だ」と取材に答えた。


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さっそく、電話などで美術館に反響が寄せられています。
今日は、運送会社から見積書も届き、いよいよ展覧会に向けて、多くのことが動きはじめています。
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2015/2/8

島田澄也展のための調査  企画展

4月18日から予定している島田澄也展のため、調査協力者のSさんとともにご自宅を訪問。
島田澄也さんは、1927年豊島区長崎町生まれ。戦後、前衛美術会に入り、丸木夫妻のデッサン会にも参加していた画家です。

彼の名前が美術史上に登場するのは、1952年に東京・小河内村で行った山村工作隊の活動。当時武装闘争活動を目ざした日本共産党の指導のもとに、建設中のダムが米軍基地を支える電力源になるとの考えから、建設労働者を組織して破壊活動を行う目的で展開した文化工作でしたが、政治的にはほぼ成果を得られませんでした。

前衛美術会では、島田澄也の主導のもとに、山下菊二、尾藤豊、入野達弥、勅使河原宏、桂川寛の6人が、建設現場付近の洞窟などで約2カ月間キャンプ生活を行いました。
その間、ガリ版刷りの『週刊小河内』(1号のみ発行)を制作し、桂川寛はその経験を生かして油彩画《小河内村》(1952)を、山下菊二は山梨県曙村の山中を訪れて貧農の労働争議で起きた怪死事件を取材し、代表作《あけぼの村物語》(1953)を制作するなど、それぞれの画家としての活動においては忘れがたい体験となりました。

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島田さんも、その後の裁判の様子や牢獄での生活を数点の油彩画に残しています。

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今回の調査では、その1950年代の島田さんの油彩画を実際に見せて頂きました。

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さらに、古いスケッチブックも大事に保存されていることがわかりました。

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山村工作隊で小河内村に滞在していたときのスケッチブックです。

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これらのスケッチはぜひ、丸木美術館でも紹介したいところ。

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さらに、1955年5月に山下菊二とともに原爆の図展のために秋田の大館を訪ねた際のスケッチなども残っていることがわかりました。

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山下菊二の横顔を描いたスケッチもありました。

島田さんは、その後、画家としての活動を止め、東宝撮影所アルバイトを経て、島田工房を設立します。やがて株式会社サンク・アールを創業。ウルトラマンに登場する怪獣、バルタン星人の制作も手がけています。
さらにコマーシャル美術や博物館の展示模型製作等を主体とする業務を30年間続け、引退後は再び絵筆をとり、全国各地を巡って風景画を描いたり、幼少期から山村工作隊までの記憶を克明に描いた200点近くの油彩画の小品を描いたりしてきました。

今回の展覧会では、1950年代の作品とともに、島田さんの記憶に残された戦前・戦後を主題にした小品を展示したいと思っています。
もちろん、丸木夫妻のアトリエで行われていたという早朝デッサン会を描いた絵画もあります。

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戦後70年という節目の年に、ひとりの画家が抱え続けた「記憶」や「体験」を、じっくりと見ていきたい、見て頂きたいと思う充実した調査でした。
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2015/2/7

こたつde映画祭2015『旅する映写機』上映  イベント

午後2時から、小高文庫にて「こたつde映画祭2015」と題して、森田惠子監督の『旅する映写機』上映会を行いました。

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『旅する映写機』は、北海道浦河町の大黒座を取材した前作『小さな町の小さな映画館』を撮影した際に、映写機が映画館を渡り歩いて使われているということを知った森田監督が、全国各地の映写機を訪ね歩き、映画にかかわる人間の物語を記録した良質な作品です。

実は、小高文庫を「映画館」と言い切って「映画祭」をやってみよう、と思い立ったのは、この映画を観たことがきっかけでした。
その「映画祭」の幕開けの上映として、『旅する映写機』をかけることができたのは、個人的には大きな喜びでした。

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映画を観た後、暗幕を開くと、夕暮れの都幾川の風景が広がっていました。
こたつやストーブで温まりながら、残って下さった観客といっしょに森田監督を囲んで、ゆったりと映画の話を楽しみました。

来週、2月14日は映画『原爆の図』2本立ての上映になります。
この日、「映画館は子宮のなかのようだ」という話が出ましたが、丸木美術館のなかの隠し部屋のような小高文庫(江戸時代の武州松山本陣の書庫だった建物)で、ぜひ、温かい映画体験を味わってください。
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2015/2/6

『父と暮せば』ドラマ・リーディングの打ち合わせ  イベント

4月18日(土)に『父と暮せば』ドラマ・リーディングを行う俳優の内山森彦さん、岡崎弥保さん、蒔村三枝子さんが来館され、音響ボランティアのCさんとともに会場の下見と打ち合わせを行いました。
寒い館内でしたが、丸木夫妻の絵画や、美術館外の風景に皆さんとても喜んで下さり、有意義な時間となりました。

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井上ひさしさん原作の戯曲『父と暮せば』は、2004年に黒木和雄監督によって映画化された際、丸木夫妻の《原爆の図》が回想シーンで使われました。
そんな縁もあって馴染みの深い作品ではあるのですが、意外なことに、丸木美術館での上演は初めてとなります。

今回は、岡崎さんの申し出によって実現した企画。
丸木夫妻の大きな壁画に囲まれながらの朗読劇は、どのように聞き手の心に響くのか。
今からとても楽しみにしています。

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『父と暮せば』ドラマ・リーディング
作:井上ひさし 演出:蒔村三枝子
出演:〈桂月企画〉内山森彦・岡崎弥保・蒔村三枝子・太宰百合(ピアノ)
2015年4月18日(土)開演:午後2時(開場1時30分)
料金=全席自由2,500円(入館料込・予約制)、丸木美術館友の会会員は800円割引
予約・お問い合わせは丸木美術館(0493-22-3266)


【出演者紹介】
●内山森彦(父・福吉竹造)
俳優。長野県諏訪市出身。法政大学卒業。 NHK俳優養成所卒業と同時に劇団三十人会を創立。 劇団解散後はフリーの俳優として活動。 主な出演作品、【テレビ】「徳川慶喜」「母の告白」 「緋の十字架」「教えて!ドクター」【映画】「南極 物語」「白夜行」【舞台】「桜の園」「哄笑」「どん底」 「鶴八鶴次郎」「聖なるかな」等 ニューヨーク・ロンドン・パリ・モスクワ等、海外での公演も数多い。

●岡崎弥保(娘・福吉美津江)
公式ブログ「言の葉つむぎ」http://ameblo.jp/ohimikazako/
俳優・語り手。 東京女子大学大学院修了。編集者を経て、言葉 の力を自ら体現すべく演劇の世界へと転身。福島 での朗読ボランティアをきっかけにヒロシマの作品に 取り組む。 『源氏物語』『にほんむかしばなし』等、朗読・ナレー ション収録多数。今春、丸木俊氏の絵本『ひろしま のピカ』の朗読CD発売予定。

●蒔村三枝子(演出・語り)
俳優・演出家。 青山杉作記念俳優養成所卒業。演劇倶楽部『座』所属。ラ・ぺジブル主催、 一人芝居「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」を、2000年 から2010 年まで11年間連続上演し、爆心地から 360mの本川小学校での公演の様子は、RCC中国放送 でドキュメンタリー「ある被爆二世の伝える夏」として 放送され、筑紫哲也NEWS23でも取り上げられた。 広島市出身の被爆二世。

●太宰百合(作曲・ピアノ演奏)
桐朋学園ピアノ科、東京都立大学哲学科卒業。 ジャズからクラシックまでボーダーレスなジャンルを 土俵に、色彩感溢れる独自の演奏スタイル、宇宙感 で活躍するピアニスト。 作編曲においても色濃くその世界観を表現。芝居や 朗読の音楽・演奏も多数手がけている。自己のCD3枚、 EP1枚をリリースしている。
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2015/2/4

絵本原画『てっちゃんのゆきすべり』展示  特別企画

丸木美術館2階アートスペースに、事務局Yさん、ボランティアHさんといっしょに、丸木ひさ子さんの絵本『てっちゃんのゆきすべり』(福音館書店「こどものとも」年中向き、2015年2月)の原画20点を展示しました。

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ひさ子さんは、丸木俊の姪にあたる方で、同じ北海道・秩父別に生まれています。
絵本に登場する赤い屋根のお寺は、二人の生家である善性寺がモデルになっています。

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前作『てっちゃんのたんじょうび』も、少し昔の秩父別の生活風景を描いた心温まる絵本でしたが、今作も、冬の雪国の情景が生き生きと伝わってきます。

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屋根の雪が音を立てて落ち、地面の雪につながって大きな坂になる。
そんな大雪は、実際に生活をするとなると大変ですが、子どもにとっては夢のように楽しいできごとなのでしょう。

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絵本原画展の会期は未定ですが、「赤松俊子と南洋群島」展の開催期間中(4月11日まで)は展示予定です。
美術館入口ロビーでは、絵本も販売しています(ひさ子さんのサイン入り)。
ぜひ、南洋の絵画とあわせて、雪国の絵本もお楽しみください。
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2015/2/3

「1950年代 幻灯上映会」のお知らせ  イベント

少し先の話ですが、4月25日(土)午後2時より、神戸映画資料館、人形劇団プークのご協力により、特別企画として「1950年代 幻灯上映会」を開催いたします。

ここ数年、丸木夫妻関係の幻灯作品発掘でお世話になっている幻灯研究の鷲谷花さんを中心とする企画です。個人的には念願の丸木美術館での幻灯上映会。非常に興味深い作品がそろいましたので、ぜひ貴重な機会に、多くの方にご覧頂きたいと思います。

上映作品=『松川事件 1951』(1951年)/『野ばら』(1952年)/『山はおれたちのものだ』(1954年頃)/『平和のかけ橋 李徳全女史来訪記録』(1955 年?)
上映後、トークセッション「1950年代文化運動と幻灯」=出演:鷲谷花(幻灯研究)、鳥羽耕史(早稲田大学)、道場親信(和光大学)
料金=大人1000円、18歳以下500円(入館料別途)


スクリーンに静止画像を大きく映し出す映像装置である「幻灯」(Laterna magica, Magic lantern)は、映画に先行する重要な映像メディアとして、17世紀から19世紀にかけて世界的に普及しました。日本でも18世紀に輸入されて「写し絵」(関西では「錦影絵」)の名称で親しまれ、明治期には「幻灯」の訳語を与えられ、教育と娯楽と兼ねたイベント「幻灯会」が全国で開催され、大勢の観客を集めました。

従来、幻灯は20世紀初頭の映画産業の発展によって歴史的役割を終え、衰退した「映画以前」のメディアと考えられてきましたが、実際には戦時中に国策・軍事教育の目的で復興が進められ、敗戦後も官庁や学校、公民館での視聴覚教育に活用されたほか、1950年代には誰にでも作り、人を集めて上映できる映像メディアとして、社会運動の場においても自主製作・自主上映が盛んに行われました。

今回上映する1950年代の幻灯作品は、いずれも社会運動に関連して自主製作されたもので、現場での貴重な記録であるばかりか、その後さまざまなジャンルで活躍したアーティストが、それぞれに創意を発揮した作品としても重要な価値をもつものです。

【作品紹介】

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『松川事件 1951』(1951年)
製作:人民幻燈協会、(日本労農救援会)
福島大学松川資料室所蔵オリジナルプリントから複製したニュープリントを上映

1949年8月17日未明に福島県松川町付近で発生した列車転覆事故の犯人として、東芝松川工場及び国鉄の労働組合員20名が逮捕・起訴され、翌50年に死刑を含む有罪判決を受けた「松川事件」の被告救援運動の一環として製作された。松川事件に関連する多数の映像作品の中でも最初期に属し、事件のイメージの原型を描き出した作品といえる。
フィルム及び説明台本に作者名は一切記されていないが、画家の桂川寛自伝『廃墟の前衛』に、1951年に都立大学「歴研」の学生と「「松川事件」のための紙芝居絵やスライド画」を描いたとする記述があり、一部のコマの画風が桂川のものと一致することから、桂川と都立大歴研の学生たちの共作により、1951年に製作されたと考えられる。

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『野ばら』(1952年)
原作:小川未明
製作:人形劇団プーク
配給:光影社
脚色:高橋克雄
演出:川尻泰司
美術:田畑精一、石井マリ子
撮影:佐竹晴雄
制作:厚木たか
神戸映画資料館所蔵フィルムを上映

光影社の依頼により人形劇団プークが製作した「世界名作物語」シリーズの1本。人形劇の舞台の実況を撮影したものではなく、当時のプーク劇場の裏手にオープンセットを手作りして撮影され、実在する植生や本水を使ったリアルで立体的な空間デザインが印象的な作品となっている。大画面の映像に対応した屋内セットの細かい作り込みも見事である。鮮やかな色彩はモノクロポジフィルムに手で着色することにより作り出された。
第4回世界青年学生祭文化コンクールで名誉賞受賞。

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『山はおれたちのものだ』(1954年頃)

製作:奥多摩山村工作隊
配給:日本幻灯文化社
神戸映画資料館所蔵フィルムを上映

1951年、反米武装闘争路線に傾斜する日本共産党の非公然組織として結成された山村工作隊は、立川米軍基地へと電力を供給するための「軍事ダム」とみなされていた小河内ダムの建設阻止と、封建的地主からの山村民解放のため、西多摩へと派遣された。山村工作隊が、アジビラ、新聞といった印刷物のほか、紙芝居と幻灯を活用した文化工作を行ったことは知られているが、本作はそうした文化工作の実態を伝える数少ない貴重な現物資料である。
小河内ダムの建設状況についての台本中の記述から、1952年3月の小河内ダム建設阻止のための破壊工作が失敗に終わり、工作隊の活動が、地元住民に向けた医療衛生及び文化芸術中心の工作へと路線を転じて以降に製作されたことが推察される。また、台本及びフィルム上には製作年の表記はないものの、フィルムの製造年を示すエッジコードは“1954”とあるため、おそらく1954年以降の製作と考えられる。

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『平和のかけ橋 李徳全女史来訪記録』(1955年?)
製作・配給:日本幻灯文化社
神戸映画資料館所蔵フィルムを上映

1954年10月、当時の衛生大臣・李徳全を団長とする中国紅十字会代表団10名が、日本赤十字社、日中友好協会、平和連絡会の三団体の招聘により訪日を果たした。当時、中華人民共和国と日本の間には正式な国交がなく、李徳全以下紅十字会代表団は、新中国成立後最初に日本を訪問した要人として、各訪問先で熱狂的な歓迎を受けた。この幻灯は李徳全一行の日本での全行程の記録写真を構成したもので、説明台本中の記述から、おそらく1955年に完成したものと考えられる。
松川事件の武田久被告の母と李徳全の握手、平塚らいてうの挨拶、当時争議中だった日鋼室蘭の労働者による歓迎など、興味深い情景が多数含まれているが、とりわけ赤松俊子(丸木俊)が李徳全に贈った油彩画『鳩笛』のショットが、モノクロではあるが、現在は所在不明のこの作品の存在を伝える貴重な記録といえる。
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2015/2/1

広島テレビニュース番組「テレビ派」で《原爆の図》特集放映  TV・ラジオ放送

2015年1月27日午後6時22分から8分間、広島テレビのニュース番組「テレビ派」の特集「つなぐヒロシマ〜被爆70年核廃絶への道〜」で、《原爆の図》が紹介されました。
ヨシダ・ヨシエさんのお元気な姿も映っていて、とてもよくまとめて下さったと思います。
担当の渡辺由恵さんが映像のDVDを送って下さったので、内容を書き起こしました。

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―スタジオ― 
【テロップ】つなぐヒロシマ 「原爆の図」が歩んだ歳月
森拓磨アナウンサー 原爆美術の最高峰と言われる、《原爆の図》の最初の作品が発表されたのは、原爆投下から5年後の1950年です。創作はその後も、30年以上続きました。
馬場のぶえアナウンサー その一部が、初めて、アメリカの首都ワシントンで展示されることになりました。作品には、広島がたどった歳月が重なってきます。

―丸木美術館遠景〜《原爆の図》展示室―
【テロップ】原爆の図丸木美術館 埼玉県東松山市
ナレーション 埼玉県東松山市の丸木美術館。訪れる人の少ないこの時期、室内はひっそりとしています。

―丸木美術館事務室にて― 
【テロップ】丸木美術館 学芸員 岡村幸宣さん
岡村 8月6日から15日にかけては100人以上は来ますね。多いときは200人を超えて。冬は2人とか3人だったりするので、そうですね、すごい違いますよね。

―丸木夫妻の写真― 
【テロップ】水墨画家 丸木 位里(1901-1995) 油彩画家 丸木 俊(1912-2000)
ナレーション 美術館を建てたのは、一組の夫婦。水墨画家・丸木位里と、妻で油彩画家の丸木俊。

―焼け跡の広島― 
【テロップ】原爆投下直後の広島 1945年
ナレーション 70年前、広島に投下された原爆が、二人の運命を変えました。

―破壊された原爆ドーム― 
【テロップ】広島出身の位里は8月10日未明に東京から広島入り
ナレーション 広島出身の位里は、新型爆弾投下の一報に、東京から駆けつけました。

―丸木夫妻の写真―
ナレーション 妻の俊も後を追い、二人はおよそ1か月、広島に身を置いたのです。

―原爆の図《幽霊》― 
【テロップ】原爆の図 幽霊―第一部 1950年
ナレーション 被爆の後遺症と貧困に苦しみながら、5年後完成させたのが、原爆の図《幽霊》です。8枚一組の絵には、もだえ苦しむ人々の姿が描かれました。

―《原爆の図》の前にて― 
【テロップ】丸木美術館 学芸員 岡村幸宣さん
岡村 原爆の図というタイトルがついているけれども、ここに描かれているのは、繰り返し繰り返し人間。きのこ雲の下にいた人間がどうなってしまったのか。頭の上に原爆を落とされた人の側に立って、そこから見えるものを描きたいというふうに思ったわけですね。

―原爆の図《火》― 
【テロップ】原爆の図 火―第二部 1950年
ナレーション 作品は縦180p、横720pもあります。丸木夫妻はあの日の記憶を絞り出すように、筆を落としました。

―原爆の図《水》― 
【テロップ】原爆の図 水―第三部 1950年
ナレーション 同じ年、後に原爆の図三部作といわれる《火》と《水》も完成しました。
【テロップ】占領軍統制下 原爆の惨状を訴える
ナレーション まだ占領軍統制下の時代でしたが、全国で原爆の惨状を訴えました。

―事務室、キャビネットからファイルを取り出す岡村―
ナレーション それを裏付ける貴重な資料が、7年前、丸木美術館で見つかりました。原爆の図巡回展の記録です。
岡村 具体的にどの町でどういうふうに展覧会が開かれていたのかっていうのは、ほとんど分かっていなかったんですね。それが、この「原爆の図三部作展覧会記録」というガリ版刷り資料が出てきたことで、これはかなりたどれるんじゃないかと。

―ガリ版刷り「原爆の図三部作展覧会記録」―
ナレーション 初めて公開されたのは東京。当時は作品名を《八月六日》と変えて出品しました。占領軍の検閲から逃れるためです。
【テロップ】初公開のとき 作品名は「八月六日」
ナレーション 東京の6か所で開いた後、広島から全国巡回展がはじまりました。それは、ふたりの希望でした。
【テロップ】広島から全国巡回展

―丸木夫妻のインタビュー録画― 
【テロップ】1983年撮影 丸木位里 丸木俊
位里 これは三部作できたときに、あちこちで展覧会をやってくれと要求があるものだから、まず広島から始めようというので。
ナレーション 巡回展が二人の背中を押しました。

―『われらの詩』第10号掲載「壷井・丸木・赤松を囲む座談会」記事― 
【テロップ】「われらの詩」1950年12月
ナレーション 座談会では「広島に来て、もう何作か描かずには納まらなくなった」と思いを語っています。

―丸木美術館に向かう車の中― 
【テロップ】美術評論家 ヨシダ・ヨシエさん
ヨシダ もうすぐだ。
ナレーション 当時を知る美術評論家ヨシダ・ヨシエさんです。
―丸木美術館に到着、車椅子で入館するヨシダさん―
岡村 よくおいでくださいました。

―展示室で《原爆の図》を見てまわるヨシダさん―
ナレーション ヨシダさんは《原爆の図》を携え、全国をまわった一人です。この日は、3年ぶりの対面です。
ヨシダ 九州は小倉・直方・佐賀・佐世保・久留米・大分・別府・長崎……。自分で回ってますから、記憶に叩き込まれてる。

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―映画『原爆の図』より、展覧会場―
【テロップ】記録映画「原爆の図」今井正・青山通春監督1953年
ナレーション 巡回展は評判を呼び、記録映画にもなりました。
映画ナレーション(赤木蘭子) 全国いたるところで、この絵を見た人々に激励され、教えられ、五部まで完成した私たちは、この絵を大衆が描かせた絵画、《原爆の図》と名づけました。

―《原爆の図》の前にて―
ヨシダ 全部この絵、担いで歩きましたから。日本国中、150か所。
―映画『原爆の図』より、絵を携えて全国を歩く場面―
ヨシダ しらみつぶしに《原爆の図》を担いで、ここら辺でやるかって。手描きでビラ書いて、夜中に貼って回りました。何度も手錠をはめられました。
―《原爆の図》の前にて―
ヨシダ 《原爆の図》で初めて、日本人が、原爆の被害を知ったのではないですか。
―映画『原爆の図』より、絵の説明をするヨシダさん、観客の反応、第6部を描く丸木夫妻―
ナレーション ゲリラ的な展示でも、多くの人が見てきました。食い入るように見つめる人、嗚咽する人。反響は大きかったといいます。

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―原爆の図《焼津》―
【テロップ】原爆の図 焼津―第九部 1955年
ナレーション 原爆を通じ、二人の画家の目は、核をとりまく社会を見つめるようになりました。
【テロップ】32年間で15作に
ナレーション 足かけ32年をかけた《原爆の図》は、全部で15作の大作になりました。

―流々庵にて― 
【テロップ】丸木夫妻の姪で養女 丸木ひさ子さん
ひさ子 人や子どもが大好きだしね。人が人らしく生きていくってことに対してすごく大切だって思っている2人でしたから、だまっちゃいられないみたいなことだからね。
―晩年の丸木夫妻共同制作の写真― 
【テロップ】撮影:本橋成一
ひさ子 それをやっぱり、画家として表さなきゃいけないって思ったんだと思いますね。

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―アメリカン大学美術館遠景― 
【テロップ】岡村幸宣さん撮影 アメリカン大学 美術館 現地時間今月15日 ワシントンD.C.
ナレーション 《原爆の図》は今年、海を渡ることになりました。
―展示室に入っていくピーター・カズニック教授― 
【テロップ】アメリカ展示は20年ぶり
ナレーション 20年ぶりのアメリカ展示です。会場は首都ワシントンのアメリカン大学美術館。岡村さんも現地を確認しました。
―展示室で打ち合わせをするジョン・ラスムッセン館長―

―原爆の図《米兵捕虜の死》― 
【テロップ】アメリカで展示される原爆の図 米軍捕虜の死―第十三部 1971年
ナレーション 会期は6月中旬から、およそ2か月間。丸木夫妻が半生をかけて挑んだ作品の中で、6点が訴えます。
【テロップ】アメリカ展示 15点中6点を出展

―《原爆の図》の前にて―
【テロップ】丸木美術館 学芸員 岡村幸宣さん
岡村 丸木夫妻が時間をかけて考え続けていった、戦争の不条理とか、国対国だけで考えられない人類共通の問題として、暴力……戦争や核というものを捉えていくことができるんじゃないか。そういう期待はありますね。

―丸木位里の写真(本橋成一撮影)― 
【テロップ】報告 渡辺由恵
ナレーション 夫婦のきずなで結ばれた画家が、心血を注いだ《原爆の図》。
―原爆の図《とうろう流し》―
ナレーション 怒りと悲しみを乗り越え、歳月のなかで役割を変えながら、訴え続けます。

―スタジオ―
馬場アナウンサー あらためて、この《原爆の図》をじっくり見てみたいなというふうに思いましたね。人生をかけてこの絵を描いた丸木位里さん・俊さん夫妻はもちろんですけれども、この絵を全国の人に見てもらいたいと奔走した人びとすべての方が今の私たちにとって本当になくてはならない財産という感じがしますね。

―映画『原爆の図』より映像抜粋、その後丸木美術館の展示風景―
森アナウンサー いわゆるゲリラ的展示だったというけれども、たしかに今、三部作を続けてみても、克明に表現されていますから、美術的価値はもちろん、記録だと思うんですよね。32年をかけて、全部で15作の大作、これは本当に記録としてこれからも受け継がれ、そしてじっくり見ていくものなんでしょうね。
馬場アナウンサー そうですね。

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渡辺さんはじめ、スタッフの皆さまに御礼申し上げます。
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