2015/1/31

【東北出張2日目】宮城県美術館「針生一郎と戦後美術」展  館外展・関連企画

針生一郎前館長のご家族や縁の深かった美術関係者の方々とともに、午前9時から宮城県美術館「わが愛憎の画家たち 針生一郎と戦後美術」のオープニング・セレモニーに参加しました。

クリックすると元のサイズで表示します

仙台の街は昨夜の大雪が残り、宮城県美術館の周辺も真っ白です。

クリックすると元のサイズで表示します

佐藤忠良の屋外彫刻も、雪をかぶってちょっと重そうでした。

クリックすると元のサイズで表示します

オープニング・セレモニーでは、主催者挨拶に続いて、針生さんの娘のCさん、息子のTさんがお話をされました。
時おり笑いの混じる、とても楽しく心に沁みる挨拶でした。
続いてテープカットが行われ、その後はじっくりと展覧会を拝見しました。

クリックすると元のサイズで表示します

展示は、針生さんの寝室本棚に並んでいた保田與重郎の著書や、『ひむがし』に投稿した短歌、東北大卒論の島崎藤村論の草稿といった戦時中の資料からはじまります。
そして戦後美術との出会いを出発点に、「夜の会」への参加、ルポルタージュ絵画、アンフォルメル、アンデパンダン展、反戦・反核・平和運動、新しい日本画の研究、国際展における「国際的同時代性」の提唱、反博、環境問題、第三世界との連帯と抵抗……と続き、大浦信行監督の映画『日本心中』にいたるまで、美術評論家・針生一郎の人生の歩みと、彼が見つめ続けてきた日本の戦後美術の奔流の、深く複雑な交錯を追体験するような展覧会でした。

原爆の図第一部《幽霊》も、鶴岡政男《人間気化》などの作品とともに「反戦・反核・平和運動と美術」の章に、屏風状ではなく壁面に平らな状態で展示されていていました。

作品・資料を合わせて300点を超える膨大な展示に加えて、それぞれの美術家と針生さんとの関わりについての解説や文献引用のキャプションも充実していて、針生さんの生前から構想を練っていたという学芸員・関係者の方々の労が伺えました。

この壮大な枠組みの展覧会がよく実現したという感銘を受けた一方で、ヨーゼフ・ボイスやラインハルト・サビエを例外として出品作家を日本の作家に絞ったことや、「美術評論の“御三家”と呼ばれてアート・シーンに存在感を示した」50〜70年代の活動をメインに設定したことの意味については、いろいろと考えさせられました。

晩年に針生さんが関わり続けた、JAALA(日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議)の活動や大浦信行《遠近を抱えて》をめぐる裁判、2000年の光州ビエンナーレ特別展示「芸術と人権」ディレクターなどの(丸木美術館学芸員として、比較的馴染みの深い)仕事は、チラシやパンフレットなどの資料で簡単に紹介されていますが、展示作品はほぼありません。

批評の立脚点であった「前衛」という理念がなし崩し的に崩壊し、美術評論の社会的な影響力も変化していくなかで、おそらく晩年の針生さんは、深い苦悩を背負い続けていたのではないでしょうか。

最近の「イスラム国」をめぐる緊迫したニュースを見るにつけ、欧米中心の「国際社会」から取り残されたアジアや南米、中東の抵抗の連帯を提唱し続けていた針生さんを思い出します。
傍目からは無謀な戦いのように見えなくもなかった仕事、けれども死の直前までたんたんと前に向かって歩き続けていた、あの後ろ姿の意味を位置づけることは、簡単ではなさそうです。
残された私たちが、自身の心の内で問いなおし続けるべきことなのかもしれませんが。

クリックすると元のサイズで表示します

写真は、2009年12月に針生さんのご自宅を訪れたときに書斎で撮影したもの。
この半年後、針生さんは玄関で一人静かに亡くなられました。
上着を着て、靴を履いたまま、うずくまるように座っていたそうです。

図録には、三上満良宮城県美術館副館長の「針生一郎―美術運動家としての足跡」、韓国美術文化研究者の古川美佳さんの「アジアのリアリズムを求めつづけて―光州ビエンナーレ2000「芸術と人権」展を中心に」というふたつの論考が掲載されています。

針生さん自身の筆による文献も、「「共通の言語」を」(1953年)、「芸術の変貌とその意味」(1967年)、「人間と自然―第10回現代日本美術展のテーマについて」(1971年)、「アスコーナ・コロニー再評価 対抗文化をめざす人々の一大滞在地―展開できなかった思想の源泉を見る」(1988年)、「〈芸術と人権〉展 企画と実情、反論1つ」(2001年)という5つの論考が採録されています。

また、自筆年譜をもとにした年譜・執筆歴「針生一郎の足跡 1925-2010(2015)」は、55ページに及ぶたいへん充実した力作です。
年譜の最終項、2011年12月には、針生さんが丸木美術館に最後に提案していた置き土産、「Chim↑Pom展」の実現も記録されていました。

会期は3月22日(日)まで。
宮城県美術館のみで巡回の予定はありませんが、見ておくべき重要な展覧会だと思います。

針生さんの目ざしたものを「イデオロギーでなく、民衆の血から湧き上がる個を礎とした「公」の概念を芸術表現によってイメージさせ、浸透させていくこと」と記された図録の古川さんの文章が、展覧会の後味とともに、ずっと心に残っています。
3

2015/1/30

【東北出張初日】萬鉄五郎美術館「晴山英展」/花巻市博物館「宮沢賢治展」  他館企画など

あいにくの雪模様でしたが、朝から東北新幹線に乗って新花巻へ。今回は東北出張です。
新花巻駅からは、宮沢賢治がかつて“銀河鉄道”に見立てた岩手軽便鉄道―釜石線に乗り換えました。

クリックすると元のサイズで表示します

現在も単線、気動車という素朴な路線。
雪のなかをヘッドライトの明かりが近づいてくる光景は、なかなか心を揺さぶられます。

クリックすると元のサイズで表示します

あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。

オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。

大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。


列車到着の時間が近づくと宮沢賢治の「星めぐりの歌」が流れます。
それぞれの駅にはエスペラント語の愛称が掲げられています。
たとえば、新花巻駅はStelaro(ステラーロ:星座)、土沢駅はBrila Rivero(ブリーラ・リヴェーロ:光る川)といった具合。

クリックすると元のサイズで表示します

土沢駅を降りて、町並みを見渡せる小高い丘に上ると、萬鉄五郎記念美術館があります。
《裸体美人》など、フォービズムを日本でいち早く取り入れた作品で知られる土沢出身の画家・萬鉄五郎(1885-1927)を記念する、小さいけれども人気の高い美術館です。
私も10年ほど前に訪れて、美術館へ行くまでの町並みや坂道、高台からの風景も含めて、すっかり気に入ってしまいました。

クリックすると元のサイズで表示します

現在は企画展として「晴山英展―湧きあがる色彩 未知なるフォルム―」を開催中。

クリックすると元のサイズで表示します

晴山英(1924-2011)は片瀬時代の丸木夫妻のアトリエに住み込んでいた画家で、初期《原爆の図》の頃、人物デッサンのモデルにもなっていました。
なぜ丸木夫妻のもとにやって来たのか、詳しい履歴はよく知らなかったのですが、盛岡の出身(父親は萬鉄五郎記念美術館のある東和町出身とのこと)で、深沢省三・紅子夫妻の岩手美術研究所に通っていたことが縁で、俊を紹介されたようです。

当時の様子を、晴山は次のように回想しています。

==========

 ある日一通の手紙が私の手元に舞い込みました。神奈川県片瀬の赤松俊子からのものでした。ここに来て勉強しないかと。
 終戦後の暗澹たる時代のことです。当時、桜山神社境内には闇市があり、古着などを売っているお店が立ち並んでいました。
 私のために苦労して作ってくれた母の思いを全く無視して、箪笥をすっかり空にして、着物を売ったお金はえのぐ箱に換えて、トンネルの多い東北本線の汽車に乗ったその日から、私の生活は一変しました。
 目白山での日々は、夕暮れ七時というと、どこからともなく現れる絵描き達と共に、毎日のようにデッサンを描き続けました。山は静まりかえって、紙の上を走るコンテの音が耳を掠めるばかりでした。その場に居た者みんなが交替でモデルになるのです。
 その明け暮れの中で丸木位里、俊夫妻の原爆の図第一作「幽霊」が完成されていきました。
 後になって前衛美術会で中村宏・尾藤豊の二人が「あ、晴山さん梁山泊にいたの!」と驚いていましたが、目白山のアトリエはさながら若き絵描き達のアジトといった風でした。若くして晩年を迎える、いわさき・ちひろや、のちに美術評論家となるヨシダ・ヨシエも常連の一人でした。
 「どんな草でものぉ、一度は花が咲くんよ。みてみいホレ。こげな、こぉまい草でものぉ、花が咲いとる。人もおんなじよ。―わしぁ、今が花じゃ」と爽やかに笑う八十歳の丸木スマ。当時の院展に無垢な画風で登場した異才は山羊を連れて、私より速く鎌倉山を駆け回り、目白山にときどき現れるマムシを起用に小技をもって捕らえ、一升瓶につめ込むのです。
 やがて目白山をはなれた私は雪が谷大塚に住むようになりました。


(晴山英「人遍歴はとどまることを知らず、果てもなく。」より、萬鉄五郎記念美術館「シリーズZ[岩手の現代作家]」図録、2000年)

==========

クリックすると元のサイズで表示します

1950年代はじめに描かれた油彩の人物画も3点出品されていて、俊の影響を感じる作品もありますが、晴山は丸木夫妻が1950年に離脱した後も前衛美術会に残り、その後は山下菊二や中村宏を思い起こさせるような作風を試みたりしています。

私が知っている晴山の絵は、1980年代頃から亡くなるまで繰り返される心象風景のようなシュルレアリスムの作品。
展覧会も数で言えば圧倒的にそうした作品が多いのですが、今展では、H学芸員がアトリエから初期の作品を掘り起こしたのが大きな成果といえるでしょう。

ちなみに、丸木夫妻のデッサン会に参加していたときの人物デッサンも含め、デッサン・スケッチの類は、まったく残っていないとのこと。
晴山が自らの作品について語ることはほとんどなく、経歴も含めて不明な点が多い画家なので、今後の調査研究に期待したいところです。

クリックすると元のサイズで表示します

土着的なシュルレアリスムというか、謎めいた彼女の絵が、ただでさえ迷路のような萬鉄五郎記念美術館に展示されると、一層混沌とした空間になります。

最初期の人物を描いた3点のみ額装されているのですが、その他の作品は、思い切って額入りの作品も額から取り出して現代風に展示する、というのがH学芸員のアイディア。
そして、それはとても成功しているように見えました。

クリックすると元のサイズで表示します

H学芸員にご挨拶した後、美術館に併設されている八丁土蔵ギャラリーも見せて頂きました。
1992年に萬鉄五郎生家の土蔵を移築復元した施設で、東日本大震災の際に壁が崩落、修復を機に地元芸術家を紹介するギャラリーとカフェをはじめたそうです。
現在は、地元花巻市東和町出身の美術家・新田コージ展を開催中(2月1日まで)。
小品ですが、土蔵の空間によく調和していました。

その後はH学芸員に車で新花巻駅まで送っていただき、観光案内所に荷物を預け、傘をお借りしてから、花巻市博物館へ歩いていくことにしました。

クリックすると元のサイズで表示します

新花巻駅周辺には、宮沢賢治に関するモニュメントがたくさんあります。
「セロ弾きのゴーシュ」をモチーフにしたレリーフは、近づくとシューマンの「トロイメライ」が自動で流れ出します。

クリックすると元のサイズで表示します

キック、キック、トントン。
キック、キック、トントン。
キック、キック、キック、キック、トントントン。


降りしきる雪のなかを、賢治作品のモニュメントを頼りに歩いていくと、花巻市博物館にたどりつきます。
「雪渡り」のモニュメントもありました。

クリックすると元のサイズで表示します

現在、宮沢賢治記念館は、開館以来の大規模なリニューアル工事を行っているため、残念ながら閉館中とのこと。
その代わりに、花巻市博物館が企画展として「宮沢賢治の世界」展を開催しています。

クリックすると元のサイズで表示します

チェロなどの遺品や初版本を中心に、自作絵画の複製、石のコレクションなど、賢治の生涯をコンパクトに紹介する展示。
文学作品の世界を、視覚的な展示で見せるのはなかなか難しいと思うのですが、賢治の場合は視覚資料が豊富にあります。
そして、文学作品そのものも、非常に視覚的イメージを喚起させます。
丸木俊も賢治作品の角川文庫版の表紙画などをいくつか手がけていますが、その他にも数多くの芸術家が賢治の作品に触発されて表現しているのも、わかるような気がします。

   *   *   *

翌日は朝9時から宮城県美術館で「わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術」のオープニングがあるので、夕方の新幹線で仙台へ移動して、針生さんの娘Cさんご夫婦や韓国美術評論家のFさんらと駅前の牛タン屋で合流。

クリックすると元のサイズで表示します

仙台を訪れるのは初めてでしたのですが、牛タン定食に日本酒「日高見」を飲み、かまぼこを炭火で焼いて、まずは腹ごしらえ。

クリックすると元のサイズで表示します

ホテルでは露天風呂に浸かり、サービスの夜泣きそばを食べ、出張続きの疲れを癒しました。
外は雪が積もっています。明日のオープニングが無事に開催されることを祈ります。
0

2015/1/28

『朝日新聞』夕刊に丸木俊《休み場》紹介  掲載雑誌・新聞

“視線の先にあるものは 「休み場」丸木俊”
―2015年1月28日『朝日新聞』夕刊

クリックすると元のサイズで表示します

『朝日新聞』夕刊美術欄「美の履歴書」に、丸木俊《休み場》が掲載されました。
WEB版はこちらから↓(無料会員登録が必要です)。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11574619.html

日本統治下の「南洋群島」を旅し、踊りの練習場の気だるそうな女性たちの表情を鋭く描いた作品で、水墨の技法を取り入れた実験的な表現や、植民地政策の影を感じさせる内容など、見どころの多い作品です。
現在開催中の「赤松俊子と南洋群島」展(4月11日まで)に出品しています。

取材して下さったのは大西若人編集委員。
以下は、記事からの一部抜粋です。

==========

 和紙に日本画の描法も加えるなど、後の「原爆の図」を予感させるが、それ以上に重要なのはその世界観だろう。原爆の図丸木美術館の岡村幸宣・学芸員は、「明るく思える南洋にも、近代社会の矛盾が澱のようにたまっていることに気づいていたのではないか」と話す。統治下の女性たちの視線も、それ故だろう。

 一方で俊は同時期に、明るい南洋を描いた絵本を作り、後に南進政策に協力したと批判もされている。自身が近代の矛盾を生きたともいえる。
 表現においても内容においても、代表作につながる一枚だ。


==========
0

2015/1/28

世田谷美術館/第五福竜丸展示館/NHKFMラジオ出演  他館企画など

世田谷美術館で開催中の「難波田史男の世界 イメージの冒険」展(2月8日まで)を見てきました。

クリックすると元のサイズで表示します

画家・難波田龍起の息子に生まれ、「研ぎ澄まされた視覚と言語感覚をもって独自の世界を逍遥」した難波田史男は、15年足らずの活動期間に2,000点を超える絵画を描き残し、32歳の若さで不慮の死を遂げました。

今回の展覧会は、世田谷美術館所蔵の作品のうち約300点を紹介しています。
その多くは水彩とインクを使ったパウル・クレーのような空想世界。銅版画や、激しさを増していった学生運動の様子を史男が撮影した写真は、初めて見ました。

音楽や文学だけではなく、60年代という時代の激動が、史男のイメージの源泉になっていたことをあらためて知り、このはかなく美しい絵の持つ哀しみが、さらに深まるような気もしました。

2階のコレクション展示は「世田谷に住んだ東宝スタジオゆかりの作家たち」。
高峰秀子の肖像画コレクションをはじめ、難波田龍起、瀧口修造、村山知義、久保一雄など、東宝で映画製作にかかわった美術家たちの仕事を紹介しています。
東宝の特殊美術を担当していた井上泰幸の妻で彫刻家の井上玲子のオブジェも展示されていましたが、彼女の作品が『ゴジラ』(1984年)のワンシーンに登場するということも初めて知りました。

2月21日(土)から4月19日(日)までは、企画展として「東宝スタジオ展 映画=創造の現場」展を予定しているとのこと。権利問題などでかなり難航しているという話も聞いていますが、非常に楽しみな企画なので、成功を祈るばかりです。

   *   *   *

次に向かったのは、都立第五福竜丸展示館
こちらは「ゴジラと福竜丸〜想像力と現実」展を開催中(3月22日まで)です。

武蔵野美術大学の長沢秀之さんを中心に、学生たちが参加して“想像力としてのゴジラ”を展開している企画。
展示館の外側には、なんとゴジラの足跡も登場しています。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木美術館とはまた違った空間――第五福竜丸という実物を保存している場所で、60年前と現在をどのように“想像力”で接続していくのか、興味のある方はぜひご覧ください。

   *   *   *

午後6時からは、NHKさいたま放送局でFMラジオ「日刊!さいたま〜ず」に出演。
キャスターの野田亜耶奈さんは、3年前、さいたま局での初仕事としてラジオをごいっしょした方ですが、立派に成長して、とても話しやすい雰囲気を作って下さり、気持ちよく「南洋群島展」についてお話しすることができました。感謝です。

今回選んだ2曲「酋長の娘」と「南洋小唄」は、「南洋群島」と日本の複雑な歴史を映しつつ、心が解きほぐされるような緩やかな曲で、寒い冬に聴くのもまたいいものだと思いました。
0

2015/1/27

NHK FMラジオ「日刊!さいたま〜ず」にて「南洋群島展」紹介  TV・ラジオ放送

1月28日(水)午後6時より、NHKさいたま放送局のFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」に出演します。
30分ほどのスタジオ生放送で、現在開催中の企画展「赤松俊子と南洋群島」についてご紹介いたします。
先ほど、野田亜耶奈キャスターとの電話打ち合わせが終わりました。

リクエスト曲は、「酋長の娘」(1925年、作詞・作曲:石田一松)と「南洋小唄」(沖縄民謡)をお願いしています。どちらも、日本統治下の「南洋群島」の雰囲気を伝える曲ですが、「酋長の娘」は、ザ・ドリフターズが替え歌「ドリフのラバさん」にしているので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
埼玉県内のみの放送(さいたま85.1MHz、秩父83.5MHz)となりますが、どうぞお聴き下さい。

0

2015/1/26

ギャラリー古藤「表現の不自由」展  他館企画など

休館日。東京・練馬のギャラリー古藤で開催されている「表現の不自由展 消されたものたち」に行ってきました。

クリックすると元のサイズで表示します

永田浩三さん、岡本有佳さんを共同代表とする実行委員会による、展示中止や作品撤去、掲載拒絶、検閲、自粛など公開の機会を奪われた芸術表現を集めた好企画です。
「表現の不自由」とは、かつて赤瀬川原平さんが千円札裁判の後に開催した展覧会名からの引用でしょう。

出品作品は、安世鴻《重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち》、大浦信行《遠近を抱えて》、貝原浩《鉛筆戯画》、キム・ソギョン&キム・ウンソン《平和の少女像》、中垣克久《時代の肖像》、山下菊二《弾乗り No.1》など。

クリックすると元のサイズで表示します

今展の目玉とも言うべきキム夫妻の《平和の少女像》は、隣りの椅子に座ることができます。
あらためて間近に彫刻を見ると、物語性の豊かな作品であることに驚きました。

クリックすると元のサイズで表示します

他者によって無造作に切られた不揃いの髪。
緊張感のある瞳、固く結んだ口元。

クリックすると元のサイズで表示します

ひざの上でじっと握りしめた手。

クリックすると元のサイズで表示します

踵を少し浮かせ、不安定な状態になっている素足。

ブロンズとはまた印象の違う、彩色されたFRPの像は、少女が、血の通った人間であることを感じさせます。
隣りの壁面に目を移せば、安世鴻さんの《重重》が。
時間の経過を感じさせるように、キュレーションにも工夫を凝らしています。

クリックすると元のサイズで表示します

会期中には多くの上映会やトークイベント、パフォーマンスも企画され、日本社会における「タブー」とは何かを整理して考えることのできる内容になっています。

美術館に働く者として省みれば、丸木美術館にも決して「タブー」がまったくないというわけではなく、「表現の自由」を行使する難しさを日々感じています。
どのような社会、どのような組織においても、「表現の不自由」はついてまわるのかもしれません(そして、それが一概に悪いと言えない場合もあると思います)。

とはいえ、芸術表現の本質は、必ずしも公序良俗を補強するのではなく、むしろその境界線を拡大し揺さぶる可能性を内包するもの。
その意味では、「芸術か、犯罪か」という問いは、実は成立しないのかもしれません。
法秩序とは別の枠組みの中で世界へのまなざしを掘り下げることこそ、「芸術の自律」ではないかと思います。
「消される」あるいは「罪に問われる」運命を背負いつつ、社会の現実に対峙していった腰のすわった芸術表現を守り、支えて行くのも、成熟した文化の証でしょう。

アライ=ヒロユキさんの論考「いまなにが問われるべきか「隠蔽と禁止」が脅かすもの」をはじめ、作品・ゲスト紹介、関連年表、関連資料一覧などを掲載したパンフレットも充実していて、読み応えがありました。
この展覧会を企画し、支えている大勢の方々の努力に、心から敬意を表します。
2

2015/1/25

【関西出張3日目】原爆科研にて研究報告  講演・発表

神戸市内で開催された原爆科研の会合に参加。
台湾・淡江大学の李文茹さんによる発表「台湾における「核・原発」小説と先住民族」の後に、このところ、長崎、大阪、高野山で調査を進めてきた《原爆の図》15部連作以外の《原爆の図》についての報告を行いました。

李さんの発表は、宋澤菜『廃墟台湾』(1985年)、張大春『天火備忘録』(『時報週刊』1986年5月8日掲載)、伊格言『零地点』(2013年)などの台湾の「核・原発」小説や、先住民族の社会運動家・小説家のシャマン・ラポガンの活動についての紹介とともに、数は少ないものの、核被害をテーマにした先住民族ダウ族のシャマン・マディロ・ミスカの絵画も取り上げていて、たいへん興味深いものでした。

私の報告は、《長崎原爆之図 三菱兵器工場》の絵のなかに描かれた建造物は城山小学校なのか? とか、《原爆の図 高張提灯》に描かれたような被差別部落の被爆後の差別問題は具体的に回想や資料として残されているのか? というように、私の方から科研のメンバーの方々に質問を投げかけながら、連作外の作品そのものや、それらと連作とのかかわりについて考えるという内容になりました。

高野山成福院摩尼宝塔の《原爆の図 水》、《原爆の図 火》についての報告の際には、会場のTさんから「私の母方の祖父はビルマ戦線へ行き、川で溺死している。ビルマといえば川、という印象がある」との発言がありました。

広島もまた「川の街」ですが、ビルマの戦没者慰霊のために建てられた摩尼宝塔の《原爆の図》は、二作とも川を描いているようにも見えます。

クリックすると元のサイズで表示します

《水》は子どもが「息をひきとろうとする被災者」に水を汲んであげようとする場面。

クリックすると元のサイズで表示します

《火》は「全身に火を浴びた被災者」が川をわたって逃げる場面。

《火》に描かれた構造物を「橋ではないか」と現地で指摘したKさんは、「橋の上と下を連作で描いているのではないか」とも推測されています。
丸木夫妻は、川を描くことで、ビルマと広島をつなげていたのかもしれません。

参考資料として、丸木夫妻に《原爆の図》制作を依頼した上田天瑞のお孫さんにあたる作曲家の上田益さんのブログで回想された成福院の《原爆の図》についての記事もご紹介しておきます。
肉親の目から見た高野山の《原爆の図》です。
http://composer-ueda.blogspot.jp/2014/01/11-1.html?m=1

そして、長崎を主題にした《原爆の図》については、Kさんから「広島との差別化をはかるために天主堂や兵器工場といった説明的事象を描いた作品より、伝承をもとに朝鮮人被爆という普遍的な問題に迫った《からす》の方が、長崎を描くことの意味が深かったのではないか」との問題提起もあり、今後《原爆の図》について考えていくための指針を頂いた思いがしました。

クリックすると元のサイズで表示します

また、《原爆長崎之図 三菱兵器工場》の右画面の仰け反る女性を抱く男性のイメージは、Tさんより映画『情婦マノン』(1948年、フランス、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)のラストシーンからの引用ではないかとのご教示も頂きました。

クリックすると元のサイズで表示します

原爆文学研究会でお馴染みの皆さんの鋭い質問や指摘は、いつもたいへん刺激になります。

科研メンバーの山本昭宏さんからは、新刊『核と日本人』(中公新書)もご恵贈頂きました。
核をめぐる日本社会の歩み―報道、世論、知識人の発言、マンガや映画などのポピュラー文化を丁寧にまとめた良書です。
とても読みやすい内容で、帰りの新幹線のなかで、一気に読みました。
0

2015/1/24

『信濃毎日新聞』《アウシュビッツの図》松本展示紹介  掲載雑誌・新聞

「原爆の図」丸木さん夫妻の大作「アウシュビッツの図」8月初展示
 ―2015年1月24日『信濃毎日新聞』朝刊

今夏、長野県松本市浅間温泉の神宮寺で展示される《アウシュビッツの図》についての記事が、『信濃毎日新聞』に掲載されました。

クリックすると元のサイズで表示します

住職の高橋卓志さんは、今年3月にドイツ・フランクフルトで行われる世界の宗教者の会議で、《アウシュビッツの図》のドイツ展開催を提案されるそうです。
以下は、記事からの一部抜粋です。

==========

 高橋さんは丸木夫妻と親交があり、98年から毎年神宮寺で「原爆の図」を借り展示してきた。3月の会議の際はアウシュビッツも訪ねる予定。この機にアウシュビッツの図を借りたいと丸木美術館に願い出た。

 「民族が民俗を絶やそうとして大勢が犠牲になった。戦後70年の節目に、思い返す必要がある」と高橋さん。美術館の岡村幸宣学芸員は「原爆の図とアウシュビッツの図には人間性破壊への怒りがある。美術館外で多くの人に伝わる」と歓迎する。

 ドイツの会議はエネルギーがテーマで、3月3〜6日。高橋さんは広島と長崎の原爆や原発事故をテーマに発表する。「ドイツ人がアウシュビッツでの虐殺をどう精算し、捉えているか知りたい」と話している。


========== 
0

2015/1/24

【関西出張2日目】高野山成福院摩尼宝塔《原爆の図》調査  調査・旅行・出張

朝、広島大学のKさんと台湾・淡江大学のLさんと大阪難波駅で待ち合わせ、南海電鉄高野線に乗って高野山へ向かいました。

クリックすると元のサイズで表示します

終点の極楽橋駅からは、ケーブルカーに乗ります。

クリックすると元のサイズで表示します

日本有数の急勾配の路線。約5分間で一気に330mほどの標高を登りました。

クリックすると元のサイズで表示します

高野山駅からはバスに乗り、目指すは成福院。

クリックすると元のサイズで表示します

ビルマ(ミャンマー)の戦没者を慰霊するために建立された摩尼宝塔に、《原爆の図》が2点奉納されているのです。

クリックすると元のサイズで表示します

はじめに、成福院の入口で挨拶をすると、宿坊の一室に通されました。
ふと床の間を見ると、丸木俊の筆による掛軸をかけて下さっていました。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木夫妻と意気投合して壁画の制作を依頼した先代住職・上田天瑞の肖像です。
彼は1941年に南方仏教研修のため高野山大学より派遣され、やがて陸軍嘱託としてタイからビルマ戦線を体験、ビルマで日本語学校を創設した後に陸軍職を辞し、一介のビルマ僧となって研修に励み、1944年に帰還したという経歴の方。
戦後は遺骨収集団に参加してビルマを訪れ、慰霊のために摩尼宝塔を1958年に着工、1960年に第1期工事が完成したとのことです。
1959年6月の『美術手帖』第158号には、丸木夫妻の《原爆の図》もそのときに壁画として奉納されたと記されています(3月26日『山陽新聞』からの転載)。

クリックすると元のサイズで表示します

建立当時は壁画だった《原爆の図》は、やがて塔の改装を機に壁から外されて額装され、現在は少々高い位置に展示されています。
湿気の多い場所なので、画面も傷みやすく、地面から離して保管しているとのことです。

クリックすると元のサイズで表示します

建物の梁などがあって全体像が見えにくいのですが、《原爆の図 火》。
縦2.1m、横2.7mの大きな作品です。
『美術手帖』の記事には、「全身に火を浴びた被災者が川を渡って逃げてゆくせいさんな光景を描いた」とあります。

クリックすると元のサイズで表示します

そしてその奥には、《原爆の図 水》が展示されています。
同じく『美術手帖』によれば、「こどもが、息をひきとろうとする被災者に水を与えようとしている場面」とのこと。

このふたつの《原爆の図》が制作されたのは1959年。
当時、《原爆の図》10部作は世界巡回展の最中でした。
『美術手帖』の記事には、「もう原爆の図は描きたくないと思っていたが、新しい絵を描いているうちに、前の絵で描き落としている部分が多いことを発見した。これを機会にさらに原爆の図を描き続けたいと思っている」という丸木夫妻の言葉も紹介されています。

実際、5月には原爆の図の続編となる第11部『母子像』が、毎日新聞社主催の第5回日本国際美術展に出品されています。
つまり、10部作でいったん“完結”したと思われた《原爆の図》が、この連作の制作を機に、再び描かれはじめることになったというわけです。

クリックすると元のサイズで表示します

《火》は、俊の筆によるアクロバティックにも見える人物表現が印象的です。

クリックすると元のサイズで表示します

人間の体や髪の毛、炎の流れるような勢いが凄い作品。

クリックすると元のサイズで表示します

炎の朱の色が薄暗い塔の内部に浮き上がります。

クリックすると元のサイズで表示します

一方、色調を抑えた《水》の画面では、珍しくバケツや柄杓などの生活用品が描かれているのが目にとまります。

クリックすると元のサイズで表示します

高野山に収めることを意識したのか、横たわる男性が数珠を持ち、祈りを捧げているように見える描写もあります。
この白い数珠は、写真ではうまく伝わらないのですが、実際に暗闇のなかで見ると、大きな存在感を放っています。

クリックすると元のサイズで表示します

狭く薄暗い空間に、戦没者慰霊碑や曼荼羅とともに掲げられているのですが、それがかえって不思議な調和を見せています。

クリックすると元のサイズで表示します

塔内に展示されたビルマ関係の展示も、さまざまな意味で興味深いものでした。
戦後に現地で収集してきた遺品や、戦時中の日本軍の写真なども数多く展示されています。

クリックすると元のサイズで表示します

ビルマの人形も非常に面白い造形です。

クリックすると元のサイズで表示します

ビルマといえば、竹山道雄の『ビルマの竪琴』。
先代住職の経歴も、かの物語を彷彿とさせますが、展示品のなかでも“ビルマの竪琴”がやはり印象に残りました。

クリックすると元のサイズで表示します

《地獄絵図》も展示されていました。
《原爆の図》と《地獄絵図》が同じ空間で展示される機会も、案外珍しいような気もします。
炎の描写などの共通点もあり、違和感はあまりありません。
《原爆の図》が現代の《地獄絵図》だということを、あらためて考えさせられます。

クリックすると元のサイズで表示します

冬の高野山はさすがに空気が冷たく、すっかり冷え切ったわれわれの心身を温めてくれたのは、部屋に戻ってから頂いた美味しい鍋焼きうどんでした。

クリックすると元のサイズで表示します

成福院を出た後は、せっかくなので高野山を散策。
総本山である金剛峰寺を訪れ、霊宝館や大伽藍なども見学しました。

クリックすると元のサイズで表示します

下山した後は神戸・三宮駅に出て、原爆科研のメンバーと打ち合わせ飲み会。
私以外の皆さんは皆、大学で教える文学の研究者なのですが、最近はすっかり顔なじみになり、いろいろな刺激を頂いています。
明日は神戸外国語大学にて、科研調査の発表会があります。
1

2015/1/23

【関西出張初日】大阪人権博物館《原爆の図 高張提灯》調査  調査・旅行・出張

今日から《原爆の図》調査のため、関西に出張に来ています。
まずは大阪市浪速区にある大阪人権博物館(リバティおおさか)へ。

クリックすると元のサイズで表示します

担当のY学芸員にご挨拶して、収蔵庫で丸木夫妻の共同制作《原爆の図 高張提灯》を見せて頂きました。

クリックすると元のサイズで表示します

12月に調査した《長崎原爆之図》もそうでしたが、《原爆の図》15部連作に入っていない《原爆の図》は、全国あちこちに存在します。しかし、そのほとんどが通常公開されていないため、なかなか見ることができません。

《高張提灯》は、高さは15部連作ひとまわり大きく感じる189cm、四曲一隻なので幅は約半分なのですが、やはりひとまわり大きめの384cmの屏風画。

原爆投下後の広島の被差別部落の状況を描いた作品で、1986年夏に大阪・部落解放同盟の主催による「いのち、愛、人権展」(池袋西武、その後各地を巡回)のために特別出品されたものです。
1970年代から80年代にかけての市民運動の高まりのなかで誕生した作品と言えるでしょう。

画面右下には、次のような言葉が記されています。

クリックすると元のサイズで表示します

ふだん公開していないせいもあって、画面は非常に状態が良いです。
もっとも、炎の描き方、墨の流し方は後期の共同制作の特徴が出ていて、《水俣の図》や《沖縄戦の図》のように墨だまりにヒビ割れが起きていました。

クリックすると元のサイズで表示します

他の《原爆の図》と同様、画面全体はほぼ人間の裸体で埋め尽くされていますが、画面左下には「暁部隊」(原爆投下後市内の救護活動に当たった陸軍船舶司令部)と大書された高張提灯が描かれています。

クリックすると元のサイズで表示します

また、地面に横たわる幟には「福島町」という被差別部落の名称も見ることができます。

クリックすると元のサイズで表示します

人物像は、俊の特徴的な線による描写がほとんどですが、中には位里が手がけたのではないかと思われる渇筆やぼかしを用いた描写もあります。

クリックすると元のサイズで表示します

被爆後の被差別部落の実態がどういうものであったかは、もう少し詳しく調べてみたいところですが、丸木夫妻がこの作品で、戦争をはじめとする暴力の根底にある「差別」の問題に光を当てているのは伝わってきます。
とりわけ位里は、戦前から広島の被差別部落の問題について、関心を寄せていたようなので、いつかは手がけたいテーマだったのでしょう。

   *   *   *

大阪人権博物館は、2013年3月をもって大阪市からの補助金が打ち切られ、非常に厳しい運営を強いられている施設です。
その上、昨年末には大阪市より土地代の賃借料の請求があり、財政的に見通しがないと大阪市が判断したときには立ち退き請求を行うという重大な事態を迎えているそうです。

しかし、今回見学して感じたのは、1985年の開館以来30年にわたり、人権問題に特化して地道な収集・展示活動を続けてきた博物館の重みでした。
被差別部落、障害者、女性、ハンセン病回復者、薬害エイズ、ホームレス、在日コリアン、沖縄、アイヌ民族、性的少数者、いじめなど、その豊かな蓄積が伝わってくる展示の価値は、計り知れません。

博物館のある浪速地域は、近世には渡辺村といわれ、皮革・太鼓づくりで全国的に知られていた場所だそうです。
立地的にも、文化的にも、他に類のない貴重な施設というわけです。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木俊が手がけた人権教育の副読本の挿絵原画も、まとまって収蔵されています。

博物館だけではなく、その周辺地域にも、皮革産業や太鼓文化の歴史を知るためのポイントが点在していました。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

緑道には、日本、沖縄、朝鮮の太鼓文化を伝えるブロンズ像が並んでいました。
特に周辺マップを持っていたわけではなかったのですが、歩いているうちに、太鼓屋又兵衛の屋敷跡、西濱水平社発祥の地の碑にも遭遇しました。

クリックすると元のサイズで表示します

「太鼓屋又兵衛」は、江戸時代を通じて太鼓の全国ブランドとして知られていました。
1616年に大阪城の「時太鼓」を作った渡辺村の平八が、その功労によって「太鼓屋」という屋号を使うことを許されたそうです。
以後、代々「太鼓屋又兵衛」の名を受け継ぎ、皮革問屋として地位を築きました。
屋敷の跡地は浪速玉姫公園として整備され、太鼓と打ちてをモチーフにしたモニュメントなどが設置されています。

クリックすると元のサイズで表示します

浪速東第3公園の西濱水平社発祥の地の碑には、次のような説明が記されていました。

==========

人の世に熱あれ
      人間に光あれ
  自由解放の「よき日」をめざし――
 1922年3月3日 京都において全国水平社が創立され 同年8月5日、この地に、西浜水平社が創立された。そして、多くの先輩たちは、自らの団結の力をもって差別・迫害にたちむかい、自主解放の「よき日」をめざしてたちあがった。
 この60年間の戦いのなかで、内閣同和対策審議会答申をかちとり、不充分であるが法的措置を制定させ、部落の環境改善をはじめ、生活の一定の向上、差別を許さない体制づくりが前進した。
 われわれは、その歴史と伝統、教訓を正しく継承し、部落解放運動を平和と人権、福祉を守りぬく砦としてさらに発展させなくてはならない。その使命と責任は重大である。
 すべての兄弟姉妹よ、開放理論と荊冠旗の下に団結しよう。
 そして「よき日」のために前進しよう。
 全国水平社ならびに西浜水平社創立60周年の記念事業として, 浪速の兄弟姉妹の浄財によりこの記念碑を建立する。
    1983年8月5日
            部落解放同盟大阪府連合会
                  浪速支部


==========

夜は神戸に出て、7年前に初めての講演でお世話になった(そして、昨年の韓国ノグンリでの国際平和博物館会議などでもお会いした)神戸YWCAの方々と再会して、美味しい和食の店で楽しい時間を過ごしました。
0

2015/1/23

『読売新聞』原爆の図アメリカ展記事掲載  掲載雑誌・新聞

“戦後70年 「原爆の図」再び米へ ワシントンで初展示”
―2015年1月23日『読売新聞』夕刊

原爆の図アメリカ展についての記事が、読売新聞に掲載されました。
数年がかりで展覧会の実現を働きかけていた、フリープロデューサーの早川与志子さんを取り上げて下さっています。

クリックすると元のサイズで表示します

以下は、記事からの一部抜粋。
おかげさまで多くの方がご協力くださり、展覧会の準備は順調に進んでいます。

==========

 「原爆の図」は1970〜71年、88年、95年に米国の各地で展示されたが、首都で公開されたことはない。「原爆の実態を伝えたい」という思いを抱いてきた元日本テレビ事業局プロデューサーで、現在フリーの早川与志子さん(68)が奔走して実現させた。

 アメリカン大学のピーター・カズニック核問題研究所長は「スペイン内戦を描いたピカソのゲルニカに匹敵するほど衝撃を受けた。米国で被爆者の怒りを平和のメッセージに変えられる」と期待する。丸木美術館の学芸員・岡村幸宣さん(40)は「絵に原爆のキノコ雲はない。投下された地上を描いている。原爆が生活していた人たちの頭上に落とされたことを感じてほしい」と話している。


==========
0

2015/1/22

ヨシダ・ヨシエさん来館、原爆の図取材  来客・取材

3年ぶりに美術批評家のヨシダ・ヨシエさんが丸木美術館を訪れて下さいました。
長期入院生活を続けているヨシダさん。移動は車椅子でしたが、とてもお元気そうな様子で、お話もしっかりされていました。

クリックすると元のサイズで表示します

今回は、昨日から来館して取材している広島テレビのインタビューのための一時外出。
とても寒い日だったのでストーブ2台を用意した《原爆の図》の展示室で、1時間ほどお話をされていました。

クリックすると元のサイズで表示します

広島テレビのほかにも、昨日はH新聞の「南洋群島展」取材、今日はA新聞、Y新聞の「原爆の図アメリカ展」取材と、慌ただしい日々が続いています。
「原爆の図アメリカ展」の企画者であるHさんも来館されて、アメリカ出張の報告とともに、今後に向けての打ち合わせを進めました。
1

2015/1/21

宮城県美術館「針生一郎展」原爆の図《幽霊》搬出  館外展・関連企画

本日、宮城県美術館「わが愛憎の画家たち 針生一郎と戦後美術」(1月31日〜3月22日)のため、原爆の図第1部《幽霊》の搬出作業を行いました。

クリックすると元のサイズで表示します

丸木美術館前館長である美術評論家の故・針生一郎(1925-2010)は宮城県仙台市の出身。
5年越しの故郷での追悼展という意味を込めた企画です。

芸術の自律性とは、芸術の領域を境界線でくぎって、それ以外のあらゆる要素を排除するのではなく、社会と人間のあらゆる問題にかかわりながら、それらを想像力でつらぬくことによってのみ実現される、とわたしは信じている。
     ――針生一郎『わが愛憎の画家たち』あとがき

「現実を見据え、そこに前衛としての芸術家の在り方と創作の意義を問い続けてきた針生の思想と活動は、敗戦から今日に至る日本の美術史に、ひとつの地下水脈を形成してきたといえましょう」とチラシにありますが、針生さんの眼を通して戦後美術史を読みなおす機会になることを期待します。

出品作家は、岡本太郎、香月泰男、鶴岡政男、山下菊二、河原温、勅使河原宏、池田龍雄、中村宏、小山田二郎、斎藤義重、桂ゆき、今井俊満、菅井汲、山口勝弘、篠原有司男、赤瀬川原平、高松次郎、立石紘一、岡本信治郎、菊畑茂久馬、宮城輝夫、丸木位里・俊、横山操、中村正義、片岡球子、朝倉摂、粟津潔、磯崎新など。
個人的には、ノルウェーの芸術家・ラインハルト・サビエによる《壁の痕跡すら読みとる人間の知恵――死の国の馬たちに囲まれた針生一郎氏像》を見ることを楽しみにしています。

オープニングの1月31日には、私も針生さんのご遺族の皆さんといっしょに、展覧会に伺う予定です。当日に上映される大浦信行監督の映画『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』など、会期中に行われる企画や講座も盛りだくさんです。
0

2015/1/20

『美術手帖』2015年2月号REVIEWS欄「橋本雅也展」評  執筆原稿

昨日、無事にアメリカから帰国しました。

留守中、『美術手帖』2015年2月号(vol.67 NO.1018)が届き、「REVIEWS」欄(p.169)に、「忌むのでなく死とともに生きる」と題する「橋本雅也 一草一木展」(2014年12月2日〜25日、ロンドンギャラリー白金)の展評が掲載されましたのでご紹介いたします。

クリックすると元のサイズで表示します

橋本雅也さんは、鹿の骨や角を彫って野育ちの草花の精緻な像をつくりだす彫刻家です。
写真家の新井卓さんの紹介で、橋本さんが丸木美術館に訪ねて来たのは2年前の冬のことでした。
《原爆の図》をじっくりと見て、丁寧に感想を話して下さったことを思い出します。

今回は、そうしたつながりとは別に、美術手帖編集部からたまたま「生と死をテーマにした作品」ということで原稿を依頼されたのですが、橋本さんからも個展の案内状を頂いており、年末に展覧会を拝見して、短い展評としてまとめました。

自然と人間の命の往還というだけではなく、原爆や「3.11」に対する思いも根底にひそませながら書いた文章です。
書店などで見かけましたら、ぜひ手に取ってご覧になって下さい。
0

2015/1/17

【米国出張第5日】ホロコースト記念博物館  調査・旅行・出張

午後のワシントンD.C.発ニューヨーク行の特急アムトラックの発車時間まで少し余裕があったので、午前中は再びスミソニアンに向かい、ホロコースト記念博物館(United states Holocaust Memorial Museum)を見ました。

クリックすると元のサイズで表示します

立地としてはスミソニアンの端にある博物館でしたが、行ってみると大勢の人たちが見学に訪れていて、博物館の外の道路まで行列ができているほどでした。

来場者には、初めに必ず、IDENTIFICATION CARDが配られます(写真右)。

クリックすると元のサイズで表示します

表紙を開くと、ホロコーストを体験した人物のプロフィールと顔写真が掲載されていました。
私がもらったものにはポーランド生まれのMichal Scislowskiという名前がありましたが、どうやら周りの人たちのものを見ると、一人一人違っているようです。

クリックすると元のサイズで表示します

4階までエレベータで上がり(まるで収容所に送られるような金属製の無機質なエレベータでちょっと怖い)、その後、1階ごとに展示を見終わった後に1頁ずつ身分証の頁をめくって、Michal Scislowskiという人物がどうなったのか―死んだのか、それとも生き残ったのか―自分がその人になったつもりで、消息をたどっていくというわけです。

4階の展示は、ナチの台頭がどのようにして行われていったのかを、豊富な映像などの資料によって、丁寧に解説していました。
不況に陥ったドイツにおいて、単純明快なスローガンで経済政策を訴え、人びとの心をとらえて選挙で多数の得票を得ていった様子や、メディアを統括して反対派の声を封じていく政治手法からは、まるで国家を「取り戻す」、「この道しかない」という言葉が重なるような気がして、背筋の寒くなる思いもしました。

当然ながら危惧を抱いていた人もいたし、実際に抵抗運動さえあったにもかかわらず、結果的に「民主的」な手続きを踏まえて力を伸ばし、強力な独裁政権が築かれてしまったのだから、人間社会は本当に不可解で、矛盾に満ちたものだと思います。

希望に満ちた輝かしい瞳の青年団「ヒトラーユーゲント」の映像も紹介されていました。彼らにその後、どんな任務と運命が待ち受けていたのか、想像すると痛ましい気持ちになります。
殺された側も殺した側も、人間が人間でなくなっていくのだろうと思います。

クリックすると元のサイズで表示します

3階へ降りて行くと、展示のテーマは「Final Solution」(最終解決)と記されていました。
ユダヤ人たち(ユダヤ人だけではなく、ロマや障碍者、戦争捕虜、同性愛者、政治犯なども含む)の大虐殺へと向かっていく過程が展示されているフロアです。
強制収容したユダヤ人たちを移動させるための木製の貨車が展示されています。小さな窓が申し訳程度に取り付けられているだけの、薄暗い貨車です。

クリックすると元のサイズで表示します

ワルシャワのゲットーを囲む壁も再現されていました。
家具や衣服、食器など、困窮した生活の様子が、実物展示によって示されます。
街なかで容赦なく暴力が振るわれ、男女の別なく衣服を引き剥がされ、命を奪われるまで労働を強いられていく。これほどまで人間の尊厳を奪うことができるのかという苛烈な映像も見ることになります。

クリックすると元のサイズで表示します

“Arbeit macht frei”―働けば自由になる―という、アウシュビッツ強制収容所の門も再現されていました。
もちろん、自由どころか、そこには悪名高いガス室があり、貨車で連れて来られた人びとは、最初に選別されて、老人、女性、子どもたちを中心とする弱者はそのままガス室に送られて殺されたと言われています。

クリックすると元のサイズで表示します

展示室をつなぐ廊下には、無数の靴の山。
最後の私物さえ奪われた人びとの先にあるものが何であったのか。

クリックすると元のサイズで表示します

代々ユダヤ人の家族たちを撮り続けていた写真館の写真も、フロアを縦断するように天高く展示されています。
靴も、写真も、まるでインスタレーションのような存在の力を放っていました。

最後の2階は、アメリカ、イギリス、ソ連によって解放された際の収容所の記録映像と、生存者たちの証言の展示。
犠牲者を追悼するための立派な空間も設置されていました。

クリックすると元のサイズで表示します

私が人生を追体験することになったMichal Scislowski氏は、かろうじて収容所生活を生き残り、戦後は数年間米軍とともに働いたとのことです。

その後は……どうなったのでしょう。
博物館は、イスラエル建国とその後に続くパレスチナの問題については触れていません。
これほど過酷な体験をした人々が、今度は別の場所で、別な人たちをまた過酷な状況に追いやっていく。その歴史の皮肉もまた、考えずにはいられません。

そして私たちもまた、そうしたさまざまな残酷な運命に、直接的・間接的に関わりながらこの世界に存在しているのだということも、忘れてはいけないのだと思います。

ホテルに帰って荷物を引き取り、ワシントンのユニオン駅からニューヨークのペン駅まで特急で3時間の行程。
見るべきものを見、やるべきことをやって、米国出張はいよいよ終わりに近づいてきました。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ