2014/12/28

『終わりなき近代 アジア美術を歩く 2009-2014  書籍

2014年最後の日誌は、福岡アジア美術館で購入した黒田雷児さんの著作『終わりなき近代 アジア美術を歩く 2009-2014』(grambooks)の紹介です。

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福岡アジア美術館の学芸員・黒田さんがアジア各国の美術状況を伝える、臨場感あふれるエッセイ集で、とても読みごたえがあります。

とりわけ、その根底に流れている、欧米を中心とする「近代」美術の概念を捉えなおすという姿勢には、大きな感銘を受けました。
「本文より長いあとがき」にある、次の一節には、打ちのめされる思いさえしました。

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日本での近代美術は、他のアジアと同様、十九世紀末から二十世紀初頭のヨーロッパのモダニズムから輸入された技術的・様式的な革新として理解されてきた。しかし、本来「近代」の精神とは、封建主義・独裁制・植民地主義・家父長制などからの解放、平等への希求を含むものであり、それは個人的な努力だけでなく集団的な運動であった。その点においてはヨーロッパも非ヨーロッパも変わりはないが、しかしアジアでは、西洋美術を学ぶことのできる社会的・文化的・経済的な特権者の内部において、「様式としての近代」に限定された作品群が「美術史」の「主流」とされていった。しかし、それはアジア美術の「近代」への動きのごく小さな部分を占めるにすぎない。「様式としての近代」は、第一に「技術としての近代」(油彩画、遠近法・陰影法などの技術、印刷技術・通信技術と制度、写真術、デジタル・テクノロジーなど)という、階層差を超えて社会全体を巻き込む革新のなかで理解されなければいけない。第二に、「技術」と「様式」で装備を固めることによって、上述のような、人間の解放を求める「抵抗としての近代」が噴出していく。このように考えて初めて、アジア近代・現代美術史を、単なる「西洋かぶれ」エリート層の文化としてでなく、政治・社会・文化の巨大な社会変化のひとつとしてとらえることができる。

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たんに様式だけの「近代」ではなく、社会の構造における人間の解放を求める「抵抗としての近代」。この「近代」の捉え方は、本当は非常に重要な問題でありながら、従来の美術界では、周縁に遠ざけられてきたものです。

丸木夫妻の《原爆の図》など、実にまっとうな「抵抗としての近代」の美術でありながら、その真価は一般的に周知されていません。

アジアにおけるそうした「抵抗としての近代」の美術のひとつの例として、黒田さんは魯迅とその仲間の版画家たちが提唱し広めた木刻(木版画)運動をあげています。
この木刻運動は、日中戦争下で抵抗のための文化運動として中国国内に広がり、戦後には日本のプロレタリア美術の流れを汲む美術家たちとさかんに相互交流が行われました。

しかし、こうした実践活動は、現在の美術史の視点ではほとんど評価・検証されていません。
栃木県立美術館で2000年に開かれた「野に叫ぶ人々 北関東の戦後版画運動」展や、2012年の飯野農夫也版画館「北関東の熱い大地 中国木刻画からの衝撃、戦後版画運動の一断面」はその数少ない例になります。
(今年春に丸木美術館で個展を開催された宮良瑛子さんも、北関東の版画運動にかかわっていらっしゃったとのことでした)

そして、丸木夫妻の《原爆の図》や絵本『ピカドン』などの仕事も、木刻運動から国境を超えて展開された大きなうねりのひとつに位置づけられます。
「小さな絵本」の作成や、《原爆の図》の軸装には、戦後日本に帰国した鹿地亘の妻・池田幸子からの助言が大きな影響を与えていたようなのです。

抗日運動の一環として広がった木刻運動が、米軍占領下の日本で反米運動として連続する。
それを歴史の皮肉と見ることもできますが、むしろ、本来アジアには、国境を超えて深くつながる広域な文化交流が続いてきたのだと捉えることで、アジアの美術史に対する新たな視点が見えてくるのではないかとも思います。

年が明けて2015年は、戦後70年、被爆70年という節目の年。
《原爆の図》の周辺をあらためて見つめ直すために、黒田さんの一冊は重要な示唆を与えてくれるような気がします。

仕事納めの12月28日は、美術館の大掃除でした。たくさんのボランティアの方がお手伝いに来て下さり、そのまま、近くの小料理屋で忘年会を行いました。
その忘年会の最後に、地元ボランティアで現代美術の造詣が深いHさんから頂いた言葉が、とても嬉しく、心に沁みるものでした。

「丸木美術館の学芸員は、研究だけに専念できる環境ではないから、岡村さんは不満なのではないかと思っていた。でも、近くで見ているうちに、この美術館での学芸の仕事が、美術の概念を広げたり、ずらしたり、つくりあげたりするという意味を持っているのだとわかってきた。ここで起きていることは、他の場所にはない、新しい歴史そのもの。それは、60年代の“反芸術”に近いものかもしれない。こういう刺激的な現場があると知ったこと、仕事をリタイヤした後で、そんな場所に関われるということが、今はとても楽しい」

本年もまた、多くの方にたいへんお世話になりながら、たくさんの刺激的な体験をすることができました。
来年も、素晴らしい一年が待っていることと思います。
どうぞ皆さま、よろしくお願いいたします。
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2014/12/27

福島菊次郎全写真展・講演会「93歳のラストメッセージ」  他館企画など

12月26日、27日と2日間続けて、東京・多摩市のパルテノン多摩で開催していた「福島菊次郎全写真展」に足を運びました。

この写真展は、「福島菊次郎展TAMA実行委員会」の主催により、93歳の写真家・福島菊次郎さん(1921年、山口県下松市生)の写真パネル約430枚、計2000点ほどの写真を展示すした、決定版とも言うべき企画です。

テーマは全部で15に分かれています。

1.原爆と人間の記録(パネル28枚)
2.ピカドン(24枚)
6.捨てられた日本人(22枚)
7.自衛隊と兵器産業(24枚)
8.全共闘運動(学生運動)の軌跡(28枚)
9.女たちの戦後(23枚)
10.ふうてん賛歌(22枚)
11.三里塚からの報告(27枚)
12.自然と人間破壊の構造―公害日本列島(29枚)
13.瀬戸内離島物語(22枚)
14.原発が来た(22枚)
15.鶴のくる村(22枚)
16.写真で見る戦争責任(28枚)
19.天皇の親衛隊(28枚)
19.ある老後(20枚、撮影:宮渕紗枝子)

福島さん自身の構想では、計23テーマ(うち3テーマ「ベ平連活動の軌跡」、「プラスマイナス100度の旅」、「しあわせの詩」が未完)があるそうですが、20テーマのうち5テーマ(「捨てられた子どもたち」、「日本バンザイ」、「沖縄、死の洞窟」、「福祉国家沈没」、「警察国家復活」)のパネルは行方不明とのこと。

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特に、福島さんが来場され、詩人のアーサー・ビナードさんと講演会を行った27日には、会場はたいへんな盛況ぶりでした。

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とにかく、見ても見ても終わらない、圧巻の展示。
しかも、同じ写真や言葉が何度も重複して登場します。誤字もあります。
福島さんがみずから編集・手作りしたという一見無造作なパネルは、決して洗練されたものではありませんでしたが、「アール・ブリュット(魂の芸術)」という言葉を想起させるような、強固な世界観を発散しています。

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みずからの戦争体験を基盤にしながら、戦後の時代を、地面を這いまわるような視点から写真に撮り続けてきた福島さんの「真実」が、圧倒的な説得力をもって迫ってきます。
「公正中立」という、いかがわしい言葉を吹き飛ばすような凄まじい熱度です。

さまようように会場をまわりながら、「アーティスティックな写真」というのとはまったく違った意味で、「ああ、本当のアートとはこういうものかもしれない」と感じていました。
みずからの生きる時代に向き合い、ものごとの本質を見極める視線を鍛え深める。
「こうするより仕方ない」という自分自身の表現を練り上げて、強い世界観を提示する。
ジャーナリズムもアートも、突き詰めれば同じような地平にたどり着くのかもしれないとも思いました。

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27日午後1時からは、「93歳のラストメッセージ」、アーサー・ビナードさんをゲストに迎えて、福島さんの講演会です。1000人規模の会場は、ほぼ満席に近い状態。
前半45分はアーサーさんのトークだったとはいえ、3時間におよぶ長丁場をこなす福島さんの体力、そして独特のユーモアを交えた話術の見事さには驚きました。

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「個人が頭を働かせる時代ではなかった」というなかで軍国少年として育った福島さんは、10代で徴兵されたものの、馬に蹴られたために、本来沖縄へ行くはずだった予定が広島の内地部隊配属になり、原爆投下1週間前の7月30日に部隊ごと貨物列車で宮崎に移送されたそうです。
不思議な運命に導かれて、生きて敗戦を迎えたわけですが、戦後の自分を支えたのは、「自分は人を殺していない」という思いだったとのこと。「人を殺して、生身の人間が平気であるわけがない」と力強く語った言葉が、深く心に残りました。

また、「ぼくには、基本的に権力には勝てないという敗北感があります」という言葉にも、ドキリとさせられました。あれほどひょうひょうと神出鬼没のように、社会の矛盾を暴き出す写真を撮り続けている方が、そんなふうに思っているのかと、新鮮な驚きでした。
福島さんは、「個人の命には限界がある。悪しき権力者はしつこく根強い。何代にもわたって伝統を維持していく。勝てるはずがない。だから、それ以上にこちらもしつこくなって、“シャッターを切る”という暴力で乗り越えていかなければならない」と続けました。

アーサーさんは、「福島さんの写真からは、歴史を作っていく決定権を持っているのは、一部の権力者ではなく、私たちであることが伝わってくる。決してあきらめずに、これからもいっしょに歴史を作っていきましょう」と講演会をまとめていました。

この日の講演会でも発表されていましたが、来年、2015年夏には、丸木美術館で福島さんの写真展を計画しています。
あの熱度を、どのように丸木美術館の空間に運び込めるか。
帰り道、冬の冷たい風に吹かれながら、火照った頭でずっと考え続けていました。
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2014/12/22

【長崎出張】長崎原爆資料館《原爆長崎之図》など  調査・旅行・出張

出張2日目は、早朝の列車に乗って長崎へ。
午前中に長崎原爆資料館を訪れました。

原爆の図第15部《長崎》を常設展示している資料館ですが、その他にも、丸木夫妻が1954年に描いた《原爆長崎之図 浦上天主堂》《原爆長崎之図 三菱兵器工場》という、ほとんど知られていない2点の絵画を所蔵しているのです。

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こちらが《原爆長崎之図 浦上天主堂》。

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そしてこちらは《原爆長崎之図 三菱兵器工場》。

この2点の作品は、1954年2月21日から3月4日にかけて東京都美術館で開催された「第7回日本アンデパンダン展」に出品され、その後、長崎市に寄贈されたという記録があります。

なぜ、この時期に丸木夫妻は長崎をテーマにした作品を描いたのか。
1953年8月発行の『新しい世界』8月号の「平和月間によせて」という特集のなかに、「戦争はいやです」という丸木位里の文章が寄せられており、次のような興味深い記述があります。

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 あと四部を今年中に描き上げて、十部作完成させたいものと考えております。あと七部八部は長崎に取材します。

 前から長崎にには
〔原文ママ〕行かねばならぬと思いながら、とうとう今年の春までその機会がなく長崎の平和の会から「なぜ、長崎をかかないのか」と、しかられ、旅費まで送ってもらってまいりました。この長崎の旅のいんしょうが非常によかったので長崎になら、しばらく住んで見たいと今でも思っています。

 キリシタンバテレンの長崎、絵踏みの長崎、支那寺の長崎、お蝶夫人ゆかりの地の長崎、天主堂の長崎。浦上天主堂は、みる影もない。キリストは首が落ち、足がずれ、天使ははながかけ、額は大きなヒビが入り、この浦上天主堂にあったはずの沢山の天使が爆心地いたるところにちらばって、永井隆の如己堂にあり資料館にあり、くずれた石垣の中にまでつかわれていたり、私は、こんな事が気になるのでどこか一つに集めて保存したらと、ある人にたずねたら「あれは原爆の時に勝手に持っていったのがそのままになったので、今はその人の所有になっているから、どうにもならないだろう」と話してくれました。石垣につかわれた天使、首のないキリスト、生きながらゆうれいになって倒れた人間。原爆といえば広島。ひろしまといえば原爆。ひろしまだけがまず第一に大きく取り上げられていることを長崎の人は不満に思っています。この長崎を描かないで原爆の図を、かたるわけにはまいりません。私達は、なぜ早く長崎に行かなかったのかと思いました。


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この文章によれば、丸木夫妻が初めて長崎を訪れたのは、長崎の平和の会に招待された1953年の春ということです。
原爆の図の第7部と第8部は長崎を主題にする予定だったとありますが、実際には、引き続き広島を描いた《竹やぶ》と《救出》が1954年、1955年に相次いで完成しています。

作品の大きさが縦横ともに二間(約180cm)ということで、どうしても第1部と第2部のあいだに制作された未完作《夜》を思い起こしてしまうのですが、あるいはこの2点も、大作になりきれずに“番外”の扱いに留まってしまったのかもしれません。
(そう思って見ると、これらの絵の先には、まだ続きがあるようにも見えてきます)
とはいえ、初めて間近に見る作品は、それぞれ見応えのある中身の濃いものでした。

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《浦上天主堂》に描かれた石造りの聖像や、その周辺の手の込んだ点描は、「日本画の前衛」を探求していた戦前の位里の実験的な作品を思い起こさせます。

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背景の墨の表現も、シュルレアリスムの影響を受け、水墨によるオートマティズムを試みた戦前の表現を連想します。

もうひとつの《三菱兵器工場》は、背後に描かれた熱で曲がった鉄骨の描写が非常に印象的です。この「一本の線」の描写の美しさは、俊の手によるものでしょう。

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丸木夫妻の《原爆の図》は、キノコ雲や原爆ドームを一切描かず、人間の肉体に焦点を当てたという特徴がたびたび言及されますが、それは広島の場合。
長崎を主題にした作品は、第15部《長崎》も含めて、広島との差別化をはかるためでしょうか、人間以外の背景もかなり描かれています。

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画面の右側、仰向けの女性の背後に小さく描かれた建築物も気になります。
焼け残った3階建ての建築物は、何をモデルにしているのでしょうか。
もう少し詳しく調べてみたいところです。

   *   *   *

2点の作品調査を済ませた後は、長崎原爆資料館のなかを見学。
まずは入口の券売所のとなりにアクリル板で守られて展示されている第15部《長崎》です。

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実はこの作品を実際に目にする機会は初めてのこと。
画集などでは目にしているのですが、やはり、実際に見ると、細部に発見があります。
猫やニワトリが描かれていたり、浦上天主堂の被爆後の風景が小さく描き込まれていたり。
背景のなかに、第3部《水》のような小さな「幽霊の行列」も見ることができました。

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この作品は1982年制作で、その2年前の1980年には絵本『ひろしまのピカ』を出版しているのですが、この第15部《長崎》に描かれた「幽霊の行列」は、まるで『ひろしまのピカ』を思わせる描法です。
よく見ると、羽根を焼かれたツバメもいます。

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館内に入っていくと、廃墟となった浦上天主堂の巨大な復元模型に圧倒されます。
来館者自身が焼け跡の長崎を歩いて行くようなイメージです。
もちろん、実際に被爆した遺品の実物も展示しているのですが、模型などの再現展示もバランスよく配置されている印象です。
また、入口の原爆の図第15部《長崎》のほかにも、深水経孝の《崎陽のあらし》や山田栄二のスケッチなど、原爆を描いた絵画作品も展示されていました。

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深水経孝は被爆当時、長崎要塞司令部に勤務しており、原爆投下3時間後に救援活動のため爆心地に入りました。
そして翌年の初夏、郷里の熊本県人吉市で、自身の記憶が薄れないうちに原爆の惨禍を描き残しておきたいと考え、使い残しの障子紙と水彩絵具を集めて、1週間ほどで絵巻《崎陽のあらし》を描き上げたのです。
しかし当時は米軍占領下。この絵巻も発表されることはなく、深水は1951年7月に被爆の後遺症に苦しみながら31歳でみずから命を絶ちました。
そのいわれも含めて、個人的には原爆の絵を語る上では忘れがたい、重要な意味を持つ作品だと思います。

また、原爆の図第14部《からす》(原爆の図丸木美術館蔵)の複製パネルや説明文も印象的に紹介されていました。

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展示室を見てまわりながら、遺品などの「実物」展示はもちろん重要ですが、それだけでなく、絵画や物語という人間の作り出す想像力が、「実物」との相乗効果によって、過去を近づけ、世界に奥行きをもたらすのではないかと思いました。

そうした物語性の活用の重要さを、あらためて考えさせられます。

   *   *   *

原爆資料館を出た後は、少し周辺を歩いてまわりました。
長崎の平和公園は、原爆資料館のある「原爆資料地区(学びのゾーン)」と、「原爆落下中心地区(祈りのゾーン)」、「祈念像地区(願いのゾーン)」の三つに分かれています。

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そのひとつ、「原爆落下中心地区(祈りのゾーン)」には、1956年3月建立の原子爆弾落下中心地を示すモニュメントと、原爆受難者名奉安の箱が設置されています。
この塔の上空500mで、1945年8月9日午前11時2分に原爆が炸裂し、約2.5kmに及ぶ地域は壊滅。同年12月末までに約75,000人の方が負傷し、約74,000人の方が亡くなったと言われています。

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そのすぐ近くには、爆心地から北東500mの位置にあった浦上天主堂の遺壁(聖堂南側)の一部が移築されています。

また、このゾーンの一角には、被爆50年記念事業費として、巨大な母子像も建っています。
北村西望の弟子の彫刻家・富永直樹の作品であり、当初は原爆投下中心地に、従来の塔を撤去して建てられる予定でしたが、市民の反対運動と訴訟によって中止になったという経緯のある彫刻です。この訴訟には、丸木美術館前館長の針生一郎もかかわっていました。

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「祈念像地区(願いのゾーン)」には、世界じゅうに呼びかけて、さまざまな国から寄贈された平和の像のモニュメントが点在し、かつての長崎刑務所浦上刑務支所の遺壁や基礎部分、中国人原爆犠牲者追悼碑なども見ることができます(刑務所の受刑者の多くは中国・朝鮮の出身者で、中には政治犯もいました)。
かつて迫害を受けた切支丹の地であり、植民地政策と深く結びついた刑務所があり、「原爆は長崎ではなく浦上に落ちた」という言葉を聞いたことがありますが、長崎の原爆は、こうした人間の差別とつながる複雑な問題であることを、あらためて考えさせられました。
原爆資料館に朝鮮人差別を主題にした丸木夫妻の原爆の図第14部《からす》の紹介があったのも、こうした問題とかかわりがあるのかもしれません。

ともあれ、その空間の中心にそびえ立つのは、北村西望作の巨大な平和祈念像(1955年作成)。

作者の北村西望は、長崎県南島原市出身。当時、日本芸術院会員で日展審査員も兼ねるという彫刻の大家でした。
もっとも、彼は戦前・戦中に数多くの力強い戦争彫刻を制作して名声を高めてきたという過去があり、その延長線上にある(というより力強い肉体美の表現はまったく変わらず、ただタイトルのみが180度異なる意味を持つ)彫刻を平和の象徴として建立することには、さまざまな批判も寄せられました。

たとえば、長崎市出身の詩人・山田かんは、次のような批判を記しています。

Sという人は彫刻界の重鎮といわれて
重鎮というのも不快なことばなのだが
ともかく権威なのであり
時勢とか時局とかの流れの
武張ったもの
暴力とでも表現したいものを
作風としてきたのではなかったか
政治のにおいもそこにからませて――

〔中略〕
昭和二九年六月、Sという人は申された
数万人の爆死者のうえで
大きなものは善であり力であり観光であり
それが平和を祈念するという錯覚が
今日も梅雨空のなかに蹲っている


(『山田かん全詩集』コールサック社、2011年より)

こうした戦前から戦後への文化的な連続性は、たとえば広島平和記念公園・平和祈念資料館建設における丹下健三の立場を想起させます。
このあたりの調査は、『引込線2013 essays』(引込線実行委員会、2013年発行)に掲載された石崎尚氏の論考「北村西望と平和祈念像」に詳しく記されています。

複雑な差別の歴史の中心に、戦前からの連続性を想起させる「力強い」モニュメントが、原爆の「象徴」として屹立しているというのは、何とも不思議な、しかし、これはこれで、ある意味を発しているのではないかとも考えさせられました。

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平和公園の後は、坂をのぼって高台にある浦上天主堂を訪れました。
浦上天主堂は、「東洋一」の規模と言われた赤レンガ造りの聖堂でしたが、原爆により壊滅。
信徒約12,000人のうち約8,500人が亡くなったそうです。
その後、保存問題も議論されましたが、最終的に教会側も当時の長崎市長もともに撤去を選択し、1958年に廃墟は撤去され、翌年、新しい天主堂が完成したのです。

残念ながら内部見学は不可という日だったので中に入ることはできませんでしたが、周辺には原爆による被害の跡を見ることができました。

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天主堂の前庭には、原爆で破壊された聖人の石像が並んでいます。
写真右は聖セシリア像、中央はイエスの聖心像、左の像は頭部の破壊で不明とのこと。

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また、天主堂入口向かって右側には、《原爆長崎之図 浦上天主堂》に印象的に描かれている「使徒聖ヨハネ像」を見ることができます。
原爆で鼻が欠けたものの、破壊されず残った像です。

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天主堂北側の崖下には、原爆で吹き飛ばされたという鐘楼(直径5.5m、重さ約50トン)が、崖下に崩落したままの状態で保存されています。
原爆の凄まじい威力が伝わってくる遺構です。

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浦上天主堂を出た後は、長崎大学医学部方面を歩きました。
道路沿いの目立たぬところにあった原爆殉難者慰霊碑を見ながら、山王神社へ向かいます。

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山王神社 二の鳥居は、原爆によって半分が倒壊した一本柱鳥居として知られています。

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鳥居の先には、倒壊した半分の鳥居の遺構が道路わきに保存されています。
「国威宣揚」と刻まれた石柱が、皮肉に感じられます。

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狭い参道を歩いていくと、被爆大クスノキで知られる山王神社。
原爆投下の際、社殿は炎上し、境内のクスノキも枯れかけましたが、2か月後に再生。
樹齢500年以上という老木は、今も立派に葉を繁らせています。
(ただし、そこかしこに修復の跡が見え、今や生きているのがやっとだということも、よくわかりました)

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神社の入り口には、倒壊した鳥居の柱を使った坂本町民原子爆弾殉難之碑も見られます。
原爆の被害によってこのあたりの地域もほぼ壊滅状態になっていたようです。

その後はいったん長崎駅前に出てNHK長崎局の方と待ち合わせ、喫茶店で雑談をした後、まだ列車の時間まで少し余裕があったので、最後に二十六聖人殉教地のある西坂の丘を訪ねました。

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豊臣秀吉の切支丹禁止令によって、1597年2月5日朝、26人のキリスト教信者が十字架にかけられました。最年少はわずか12歳の聖ルドビコ茨木。聖アントニオ13歳、聖トマス小崎14歳と年少者が3人いた様子は、1962年に建立された彫刻家の船越保武の作による日本二十六聖人殉教記念碑にも再現されています。

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ただ一人、両手を開いた姿は、布教活動を行っていた聖ペトロ・バプチスタ神父。十字架にかけられる際には、キリストのように釘で十字架に磔りつけて欲しいと頼んだそうですが、願いが聞き入れられることはありませんでした。

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日本二十六聖人殉教記念碑の裏面には、26聖人が京都で捕えられ、長崎に到着するまで26人が歩き続けた苦難の道のりを表現した今井兼次作の《長崎への道》というモニュメントがありました。
26粒の一房の葡萄、曲がりくねったツルは長崎への道をあわらしています。

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今井兼次は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館や碌山美術館を設計した建築家で、この西坂の丘に建つ日本二十六聖人記念館とガウディ風の記念聖堂の設計も手がけています。

日本二十六聖人記念館は、当時の世界や日本の状況などを含めた豊富な資料で提示する充実した記念館でした。見学のあとは、すぐ近くにある岡まさはる記念長崎平和資料館にも足を運びました。

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残念ながら月曜休館でしたが、日本の戦争責任を市民の視点で追及し続けた故・岡正治の思いが込められた資料館。長崎を再訪する際には、ぜひ見学したい施設です。

前日の原爆文学研究会で手渡された『原爆文学研究13』10冊などの書籍を大量に抱えたまま(年末の研究会には空のトランクを持参するべきでした)長崎の街を歩きまわった一日。
来年は被爆70年にあたるので、できればもう一度長崎を訪れて、少し詳しく調査をしたいと思っています。
ともあれ、今回はこれまで。充実した成果を抱えて、夜の飛行機で東京に戻りました。
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2014/12/21

【福岡出張】第46回原爆文学研究会  調査・旅行・出張

原爆文学研究会に参加するため、朝一番の飛行機で福岡へ。

午前中は少し時間が空いたので、福岡アジア美術館へ。

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残念ながら第5回福岡アジア美術トリエンナーレは先月末に終わっていましたが、コレクション展「LOVE/愛―女神のささやき」と「声なきVoice(こえ) 」などの展示を見た後、ミュージアムショップで黒田雷児学芸員の『終わりなき近代 アジア美術を歩く 2009-2014』(grambooks、2014年)を購入。

「近代の精神」を、現代の美術史の主流となっている「様式的・技術的な革新」に限定するのではなく、封建主義・独裁制・植民地主義・家父長制などからの解放、平等への希求―つまり「民衆的な抵抗」としてとらえ、アジアにおける(従来のものでない)「近代」美術を求めてまわる黒田さんの姿勢には、とても大きな示唆を受けました。

   *   *   *

12時からは、九州大学西新プラザで開かれた第46回原爆文学研究会へ。
まずは、刊行されたばかりの『原爆文学研究13』を受け取りました。過去最多頁数という充実の一冊。いずれあらためて紹介いします。

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研究会の前半は詩の実作者である新井高子さんと高野吾朗さんによるワークショップ。
新井さんが紹介されたトルコの詩人ナーズム・ヒクメットについては、日本でも有名な作品「死んだ女の子」を知っていましたが、あらためて原語に忠実な翻訳を聞くと、その乾いた言葉の質感に驚かされます。

さらに、新井さんが「今日はこの詩を紹介したかった」とおっしゃていた「希望」という1958年に書かれた詩の強度に、感銘を受けました。

稼働する、原子炉が稼働する
人工衛星が通り過ぎる、日が昇るころ
そして日が昇るころ、ゴミ収集車が
死体を集める、歩道から、
失業者の死体を、餓死者の死体を。

稼働する、原子炉が稼働する
人工衛星が通り過ぎる、日が昇るころ
そして日が昇るころ、農民一家が
男と女とロバと鋤
鋤を引くのはロバと女
畑を耕す、畑は一握り

稼働する、原子炉が稼働する
人工衛星が通り過ぎる、日が昇るころ
そして日が昇るころ、一人の子どもが命を落とす
一人の日本人の子、広島で、
年は一二歳、番号が振られている
百日咳でもなく、髄膜炎でもなく
命を落とす、一九五八年に
命を落とす、小さな日本人が広島で
一九四五年に広島で生まれたという理由で


(冒頭部分のみ抜粋、訳イナン・オネル)

「稼働する、原子炉が稼働する/人工衛星が通り過ぎる、日が昇るころ/そして日が昇るころ」というリフレインと、現実世界の多様な日常をモンタージュする透徹したリアリズムの眼差しに凄みを感じます。

高野さんは、アドルノの言葉「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮である」を引用しつつ、しかし、その言葉を乗り越えるように、3.11後の福島において、「いかに自分が野蛮であるかを吐露する」と語気を強めました。
お二人の詩人による詩の朗読は、文字で読むことと言葉を受け止めることの身体性の違いの大きさに思いをめぐらせる、とても刺激的なものでした。

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後半のテーマは「カタストロフィと詩」。
福島大学の高橋由貴さんは「死者の目の中を通れ」という原民喜の方法論の、記録・体験とモダニズム詩の両面性を、詩と散文の往還という視点から精緻な読解を行いました。

ベンヤミン研究者の柿木伸之さんは、先に高野さんが引用したアドルノの問いの真意を問い返しながら、パウル・ツェランと原民喜の詩を読み解いていきます。
柿木さんの丹念な読み込みに圧倒されながら、最後に配布されたプリントのなかの次の一節を読み、今回参加した甲斐があったと思いました。

 残余からの歴史とは、それによって構成される、それぞれの特異な記憶が相互に照らし合う記憶の星座である。その閃きは、忘却と野蛮が続く現在を鋭く照射しながら、神話としての歴史の連続に抗う。そして、この抵抗とともに、死者とともに生きる場が、この星座のうちに指し示されるのだ。

そして、最後の中原中也記念館長・中原豊さんの発表「3.11に向き合った詩人たち」は、和合亮一、須藤洋平、三角みづ紀を取り上げ、ワークショップの方向性を、3.11後の現在地へと一気に引きつけました。

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研究会は休憩をはさんで5時間、さらにその後の恒例の中華料理店での打ち上げ会でも、熱い議論は続きます。
こうした濃密かつ視野の広い研究会を10年以上にわたって続けてこられたということに、今さらながら感銘を受けた一日でした。
仕事の都合もあって、なかなか毎回参加というわけにはいきませんが、これからも参加し、幅広い表現から刺激を受けていきたいと思います。
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2014/12/18

『東京新聞』にアーサー・ビナードさんの紙芝居が紹介  掲載雑誌・新聞

“「原爆の図」語りだす 米詩人触発され紙芝居に”
――2014年12月18日付『東京新聞』夕刊

《原爆の図》の紙芝居制作を試みている詩人のアーサー・ビナードさんの紹介記事が、『東京新聞』に掲載されました。

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丸木美術館で試作を披露したのは11月2日でしたが、その後、衆議院選挙のために記事の掲載が大幅に遅れ、ようやくの掲載となったようです。
記事全文は、次のWEBサイトで見ることができます。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014121802000264.html

以下は記事からの一部抜粋。

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 披露の場でビナードさんは、原爆の図を制作した故丸木位里・俊夫妻が生前に語った「平和になった時、原子爆弾は原子力発電所に化けて出ました。エネルギー平和利用の名のもとで、放射能がばらまかれているのです」との言葉も紹介した。

 原爆の図は、夫妻が三十年以上かけて共同で制作した。原爆投下だけでなく、戦後の水爆実験で被ばくした漁船「第五福竜丸」や、原水爆禁止署名運動なども題材にしている。

 一九九〇年に来日したビナードさんは、核廃絶に強い関心を持ち、丸木夫妻の考えを知って共感。福島の事故を経験した今こそ、原爆の図が持つ「圧倒的な力強さ」を読み直し、多くの人に知ってもらいたいと思うようになった。それを伝えるには、臨場感のある紙芝居が適していると考えた。

 こだわったのは作品の捉え方。ビナードさんは「生き物の肌を描いた絵」と感じ、「新しく生まれ変わる細胞」という視点で言葉をつむいだ。題名は「やわらかい はだ」。被爆した広島の少女が語る形にして、第五福竜丸の帰りを待つ女の子の絵を使った。

 「原爆の図は、たとえ百回見てもそのたびに新しい発見がある」と言う。紙芝居は年明けの完成を目指し、童心社から発刊される。


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丁寧に取材をして下さった出田阿生記者に、心から御礼を申し上げます。
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2014/12/16

平凡社コロナブックス『山本作兵衛と炭鉱の記録』  執筆原稿

平凡社コロナブックスの新刊『山本作兵衛と炭鉱の記録』(2014年12月19日発行、定価1700円+税)の見本が手もとに届きました。

諸事情によって1年半刊行が遅れましたが、丸木美術館の展覧会から生まれた企画、何とか世に出せて良かったです。
関係者の皆さま、本当にお疲れさまでした。

山本作兵衛の約60点の炭坑記録画は、身近な人たちが所蔵されていたもので、これまで書籍などに紹介される機会のなかった作品です。
それだけでなく、井上為次郎、原田大鳳、山近剛太郎、島津輝雄、斎藤五百枝、大宮昇、北島浅一、吉田初三郎の絵画、加藤恭平、本橋成一の写真、石井利秋のポスターなどの貴重な視覚表現を収録した充実の一冊。
萩原義弘さんの撮影による「軍需生産美術推進隊」によって作られた全国の11体の「混凝土(コンクリート)」彫刻の写真も見どころです。

私もわずかながら、加藤恭平と戦時下の炭鉱写真についての原稿を書いています。

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〈目次〉
筑豊の炭坑画家たち
 山本作兵衛―坑夫の見たもの
 坑内からの視点―作兵衛以外の描き手たち
  〈作品〉原田大鳳、山近剛太郎、島津輝雄
 艶めく闇―絵師・井上為次郎の十八枚 上野朱
  〈作品〉井上為次郎

撮された炭鉱
 炭鉱写真の草創期―高島・端島(長崎)/幌内・夕張・神威(北海道)
 三池と筑豊の記録写真―土産写真と会社写真帖
 北海道炭礦汽船写真帖―空知・夕張
 中国山東省・淄川炭鉱
 炭鉱映画の原点
 加藤恭平の残されたフィルム―戦時下の写真表現
 写真が語る常磐炭田小史―『みろく沢炭鉱資料館写真集』を中心に
 筑豊炭住居住者の家族アルバム 本橋成一

炭鉱イメージの広がり
 炭鉱を訪ねた画家たち―斎藤五百枝/大宮昇/北島浅一
 立ち尽くす混凝土(コンクリート)―十一体の坑夫像
 戦前の炭鉱をめぐるポスターとパンフレット

掲載作品関連炭田・炭鉱マップ


執筆・解説を担当したのは次の8人(掲載順)。
上野朱(古書店店主、著述家)
中込潤(直方谷尾美術館学芸員)
萩原義弘(写真家)
青木隆夫(夕張地域史研究資料調査室長)
岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)
野木和夫(常磐炭田史研究会会長)
本橋成一(写真家)
寺本美奈子(印刷博物館学芸員)

写真撮影は、近藤宏一郎さん、萩原義弘さん、小原佐和子さんの3人。

お世話になった平凡社の坂田修治さん、酒井香代さんに心から御礼を申し上げます。
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2014/12/13

中島晴矢個展アーティスト・トーク×福住廉  イベント

「今日の反核反戦展2014」最終日。
中島晴矢個展「上下・左右・いまここ」も最終日で、午後3時から、ゲストキュレーターである美術評論家・福住廉さんと中島さんのアーティスト・トークが開催されました。

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冒頭からいきなり、「アンデパンダン」という形式について、たんなる“自由出品”というだけでなく、歴史的に“対立”を演出するものであったという分析からはじまり、「対立がどこにあるのかを問い返したい」と鋭く語る福住さん。

そもそも今回の「反核反戦展」で福住さんにゲストキュレーターをお願いしたのは、2010年の「今日の反核反戦展」のレビューを彼が次のように書いていたことがきっかけでした。

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残念ながらいずれもひとつの作品として突出することがなく、全体的に横並びの印象が強い。それが作品の質に由来するのか、それとも「反戦反核」という文脈の質に起因するのか、わからない。けれども、ひとまず誰もが出品できるアンデパンダン形式を再考するべきではないだろうか。たとえば毎年、特定のキュレイターに特定のアーティストを選ばせるなど、個展やグループ展の形式によっても、「反戦反核」というメッセージに接続することは十分可能である。「反戦反核」という言葉の硬さをもみほぐすことができる若いアーティストはたくさんいるだけに、もったいなくてしょうがない。

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彼ならどんな作家を選ぶのだろう……という期待からゲストキュレーターをお願いしたのですが、福住さんは、これまでの「反核反戦展」の意味をずらし、《原爆の図》に拮抗していく可能性のある作家として中島晴矢さんを選んだ、と語りました。

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中島さんは、二人の背後に展示された新作《上下・左右・いまここ》を、《原爆の図》へのアンサーソングとして制作した、と応えました。

夏に丸木美術館を訪ねて、《原爆の図》に感動したという中島さんは、共同制作者とともに図録を見ながら下地の抽象的なペインティングに《原爆の図》のマチエールを再現したそうです。

和紙の質感や髑髏のイメージを描き上げたものの、その表現は「自分たちのリアリティではない」と考え、上から「薄っぺらい」「アメリカ発祥の」グラフィティを重ね、「ふたつのレイヤー」によって、「反核反戦」と叫ぶでもなく、もちろん「レイシスト」でもなく、上流でも下流でもなく、どこにも行けずにさまよう自分たちを表したとのことでした。

トークのあいだ、繰り返し中島さんが「ベタ」と「アイロニー」という言葉を繰り返し語っていたのは印象に残りました。
同じ「反戦反核」をテーマにしても、上の世代は「ベタ」、Chim↑Pomのような若い世代は「アイロニー」で表現する傾向にあるようです。けれども、Chim↑Pomの次世代(!)に位置する中島さんは、今のような時代には、むしろ「ベタ」が有効なのかもしれない、と揺れ動きます。
今回の展示は、その「ベタ」と「アイロニー」のあいだで揺れている自分の落とし前を《原爆の図》に向けて発信したというのです。

中島さんと福住さんの根底には、この国が「前近代」のまま進んできているのではないか、という問題意識が共有されているようでした。
関東大震災後に「新感覚派」と呼ばれた横光利一や、『天皇の肖像』を著した多木浩二なども引用しながら続けられた対話のなかで、「無理を重ねたなれの果てが原発事故になったのではないか」と指摘した福住さんの言葉には納得しました。

中島さんは、渋谷にあるアーティストたちのシェアハウス「渋家(シブハウス)」のメンバー。
この日は、他のメンバーの若者と話す機会もありましたが、社会に対する関心の深さ、知的好奇心の強さ、自分たちの立ち位置を相対化できる冷静さに、すっかり圧倒されてしまいました。

こうした思わぬ新しい出会いがあるから、展覧会は本当に面白いのだと思います。

追記。12.18 中島晴也展について読み応えのある展評が記されていたブログを紹介します。
http://www.art-it.asia/u/qkxvdu/1wXB2Y3gjx6AUnvzL95r
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2014/12/13

NHKニュース「おはよう日本」にアーサー・ビナード紙芝居紹介  TV・ラジオ放送

2014年12月13日午前7時台のNHK総合テレビのニュース番組「おはよう日本」で、《原爆の図》をもとにした紙芝居を制作中のアーサー・ビナードさんが紹介されました。

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写真は、11月2日に丸木美術館で紙芝居公演を行ったアーサー・ビナードさん。

以下に、放映された内容を書き起こします。

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―原爆の図 第8部《救出》クローズアップ―

近田雄一アナウンサー こちらは、原爆の悲惨さを描いた絵、《原爆の図》。ご覧になった方もいらっしゃると思います。今、この絵を使って、紙芝居を作っているアメリカ人の男性がいます。

―スタジオ― テロップ“原爆の悲惨さ アメリカで伝えたい”

和久田麻由子アナウンサー 原爆投下から70年となる来年、アメリカで原爆の悲惨さを伝えようとしています。その制作の現場を訪ねました。

―丸木美術館内の階段をのぼり、《原爆の図》の前へ向かうアーサーさん―

ナレーション(藤原和樹記者) アメリカ人の詩人、アーサー・ビナードさん。日本語で詩を書き、中原中也賞など、数々の賞を受賞してきました。

―《原爆の図》を撮影する岡倉禎志さんとアーサーさん―

ナレーション この日、紙芝居で使う絵を撮影するため、美術館を訪れました。

―原爆の図 第2部《火》― テロップ“「原爆の図」作 故丸木位里・丸木俊”

ナレーション 被爆の惨状が描かれた大作、《原爆の図》。被爆直後の広島で救護活動を行った、丸木位里、俊夫妻によって描かれました。巨大な15枚の絵で、原爆の悲惨さや、その後の人びとの姿を伝えています。

―展示室全景―

ナレーション 知り合いに連れられ、偶然この絵を見たアーサーさんは、ひと目で惹きつけられました。

―原爆の図 第1部《幽霊》、第8部《救出》などの部分映像―

ナレーション この絵に物語をつければ、アメリカ人にも伝わると考えたのです。

―出版社の一室で紙芝居の構想を練るアーサーさん―

アーサー 衝撃は終わらない。100回見ているけど、毎回毎回新しい発見がある。「原爆の図」がアメリカの人びとを巻き込んで、アメリカの人びとをこの体験に引き込むことは間違いない。

―10歳のころのアーサーさんの写真―

ナレーション 被爆の実態を伝えたいというアーサーさん。アメリカの学校では、原爆がたくさんの兵士を救ったと教えられました。

―初めて日本を訪れたときのアーサーさんの写真―

ナレーション 転機となったのは、大学卒業後、日本語に関心を持つようになって訪れた広島。そこではじめて、原爆をあらわす「ピカ」という言葉と出会いました。

アーサー あの言葉には広島の体験者の立ち位置が組み込まれているんですね。ピカって言った瞬間に、上から見るんじゃなくて、下から上空を見るんだね。どこから見るかによって、見方も感じ方も考え方も変わるっていうことを、そのときに実感して……

―原爆の図丸木美術館の外観―

ナレーション 制作をはじめて3年。美術館の一室で、原爆の図をよく知る人に試作品を見てもらうことにしました。

―紙芝居の一場面(撮影岡倉禎志)―

ナレーション 紙芝居を演じるアーサー あの日、私たちはみんな広島にいた。新しい一日がはじまったそのとき、いきなり、空が光った。ピカッという光。私たちの肌は、じゅうっと焼かれた。

―大勢の観客の前で、紙芝居を演じるアーサーさん―

ナレーション アーサーさんは専門用語をちりばめながら、その恐ろしさをつたえようとしました。

アーサー アメリカの軍隊が広島で使ったウランは、新しい殺し方だった。割れた原子のかけらには、名前がついている。セシウムとか、ストロンチウムとか……

ナレーション 会場からは、思いもよらぬ意見が出されました。

観客の声 よく分からないんです。何枚もあったんですよ。よくわからないのが。

ナレーション 原爆がどのように人の体をむしばんでいったのか、リアリティが感じられないというのです。

―広島中区 先月下旬―

ナレーション 先月、アーサーさんは広島に向かいました。被爆の本当の苦しみとは何だったのか。被爆者に直接訪ねることにしたのです。

―食料品店を訪ねるアーサーさん―

ナレーション 食料品店で働く、松本暁子さんです。1歳10か月のとき、母と一緒に被爆しました。

―松本さんに紙芝居を見せるアーサーさん―

ナレーション 放射能がどのように体をむしばんでいったのか。アーサーさんの問いに、松本さんは、母親から聞いた話を語りはじめました。

松本 私がまだお乳を飲んでいたから、一番に症状が出るわけ。母が出るわけ。血便が出る、歯茎から血が出て、頭の髪の毛が抜けたって、今でこそ原爆症と分かるんだけど、あのころは分からないから。

―松本さんと語り合うアーサーさん―

ナレーション 今も定期的に血液に異常がないか検査しているという松本さん。被爆から69年がたっても、放射能の不安が消えない現実に気づかされました。

―出版社の一室で紙芝居を見つめるアーサーさん―

ナレーション 松本さんと会ってから1週間後。目に見えない放射能を伝える言葉を、探し続けていました。そして、ひとつの文章にたどり着きました。

アーサー 細胞をずたずたに切られたら、花だって生きられない。

―今月 広島市西区―

ナレーション 果たして被爆者の視点から見た物語になっているのか。できた紙芝居を手に、広島市内の保育園を訪れました。

―保育園を訪れ、子どもたちの前で紙芝居を開くアーサーさん―

ナレーション 原爆をほとんど知らない子どもたちの前で、思いが伝わるか見極めたいと考えたのです。

アーサー はだがめくれる。はだがはがれる。私たちは、手を前にだらりと出すしかない。

ナレーション 松本さんの話を聞いて、修正した場面。放射能が、時を越えて体をむしばんでいく様子を伝えました。

アーサー おっかない放射能が、じわりじわり入ってくるんだ。体は、新しい細胞が、もう作れなくなって、ワンワンと吠える力も見つからない。細胞をずたずたに切られたら、花だって生きられない。

―アーサーさんを囲み、第1部《幽霊》の場面を指さす子どもたち―

子どもたち 怖かった。これが一番怖かった。

ナレーション 子どもたちの反応に、手ごたえを感じたアーサーさん。制作を通して、被爆者と向き合ったことの成果でした。

アーサー ピカを教えてくれた人たちと一緒に立って、語り部としてぼくの役割を果たさなきゃいけないなと……

ナレーション 今後も、被爆の実態を伝えるために、表現に工夫を重ねて、来年、アメリカで披露することにしています。

―再びスタジオ―

近田アナウンサー アーサーさんは、アメリカだけではなく、日本語版の紙芝居を来年春までに完成させて、日本国内、全国各地で披露していきたいと言っています。

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2014/12/12

トークセッション「「反戦」を乗り越える〜「反」という抵抗姿勢の次段階とは?〜」  イベント

午後1時から、中島晴矢展の会場で、「反戦」展スピンオフ企画vol.2「「反戦」を乗り越える〜「反」という抵抗姿勢の次段階とは?〜」が開催されました。

このトークセッションは、2014年9月に東京・世田谷区のSNOW Contemporaryで開催された「反戦――来るべき戦争に抗うために」展のスピンオフ企画として自主企画されたものです。

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トークには上写真左から居原田遥さん(東京芸術大学大学院)、木村奈緒さん(フリーライター)、中島晴矢さんの3人が出演されました。

20代の若者3人が、丸木美術館で「反戦」をテーマに自主企画を行うという新鮮な試みに、それだけで私は感慨を抱いてしまうのですが、今の時代が彼らに危機意識を感じさせているわけですから、決して手放しに喜ぶわけにはいきません。

トークは、さまざまな局面での“断絶”の超克がテーマとなって進み、個人的にはたいへん面白く聞きました。
とりわけ、沖縄出身でアジアの若いアクティビストたちと交流があるという居原田さんの鋭い問題提起には、たびたび考えさせられました。
「わかりやすい表現は人を遠ざける、でもわかりにくい表現はもっと人を遠ざける」
「現代美術と政治は、どっちが人びとと遠いのか」
「アジアではアートのなかで政治がどう機能するかではなく、デモのなかでアートがどう機能するのか、美術を実用にどう落とし込むのかという“アート・アクティビズム”が必要とされている」

芸術と社会について考えるとき、歴史的に常についてまわってきた「政治の前衛」と「芸術の前衛」の問題が、「3.11」を経験した20代の若者たちのなかであらためて問い直されているわけです。
丸木美術館の「反核反戦展」も、こうした議論の場として機能すれば、新たな可能性が見えてくるのかもしれないと考えさせられた、濃密な2時間ほどのトークでした。

以前に何度か丸木美術館のボランティアに参加して下さっている木村さんの、「今日来てみて、あらためて丸木美術館がいい場所だと実感しました」という嬉しい言葉も、今回、丸木美術館での個展開催を経験した中島さんの「正気を保ち根気よく続けていくしかない」という実感の込められた言葉も、心に響くものでした。
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2014/12/8

千葉市美術館「赤瀬川原平の芸術原論展」/映画『アオギリにたくして』  他館企画など

休館日。
午後から千葉市美術館で開催中の「赤瀬川原平の芸術原論展」(12月25日まで)へ。
月曜日に開館している美術館はありがたいですね。

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生涯を通じて多様な表現活動を展開した赤瀬川原平さんの仕事を網羅的に紹介する充実した展覧会。400頁を超える図録も、2300円とお買い得です。

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2004年に東京藝術大学美術館・東京都現代美術館で開催された「再考 近代日本の絵画」展の際、『朝日新聞』の美術評(4月15日付)で、原平さんが「絵のいわれの重要さにも気付かされた。たとえば「原爆の図」など、その絵の背後にあるいわれと一体化して切り離せない。」と、短いけれども本質的な部分に触れてくださったことを思い出します。

実は、原平さんと丸木夫妻のかかわりは、まったく無縁というわけではありません。
1941年に俊さんがモスクワで娘たちの家庭教師をつとめた駐ソ公使・西春彦は、原平さんのお父さまの従兄弟にあたります。

ヨシダ・ヨシエさんが1971年に『美術手帖』に連載した「戦後前衛所縁荒事十八番」の挿画を手がけたのも原平さんです。《原爆の図》について回想している2回の挿画には、シュルレアリスム風の原爆のイメージが描かれています。

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上写真左側は今展図録より、小さな画像が《現代公害考》。右側はヨシダさんの「戦後前衛所縁荒事十八番」の挿画に描かれた原爆のイメージです。

この頃の原平さんは、社会風刺を題材にした精緻な線描による劇画風のイラストレーションを数多く描いていました。今展に出品されている《現代公害考》(1970年)などの原爆のイメージ、さらに丸木夫妻も手がけている水俣病や三里塚闘争といった題材も登場しています。

また、原爆といえば、1980年代に展開された、路上の無用物を超芸術として“発見”していく「トマソン」の活動にも、「原爆タイプ」という分類が登場します。
撤去された物体が隣接する壁面に遺した原寸大の影の“物件”を「原爆タイプ」と呼ぶのですが、朝日新聞社カメラマンの松本榮一が1945年9月に撮影した長崎要塞司令部に残された梯子と兵士の影に代表される原爆のイメージを、パロディ的に引用したものと言えるでしょう。

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その後は、池袋に移動して、豊島区立舞台芸術交流センターあうるすぽっとで開催された映画『アオギリにたくして』上映会(主催:ムジカ九条の会)に参加しました。

広島の原爆の語り部として知られる沼田鈴子さんをモデルにした手作り感あふれる劇映画で、だからこそ製作にかかわった方がたの思いが強く伝わってくる作品でした。
沼田さんについては、広岩近広さんの著作『青桐の下で 「ヒロシマの語り部」沼田鈴子ものがたり』(1993年、明石書店)に詳しく記されています。

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結婚式の3日前に被爆して左足を失い、婚約者も戦死して、戦後に絶望から立ち直って教師として働きながら、原爆フィルムに記録された被爆直後の自分に再開したことを機に“語り部”の活動をはじめたという沼田さん。
生きることのさまざまな苦しみを被爆青桐に託したという生涯そのものがたいへん劇的なので、映画の物語にも自然に引き込まれていきました。


映画『アオギリにたくして』予告編

上映後には、主人公の母親役を好演された斉藤とも子さんがトークを行い、「沼田さんの生涯には差別を含めたいろいろな問題が集約されています。映画には描かれていませんでしたが、広島の証言活動だけでなく、アジアにおける日本の戦争責任に思いを広げていったことも重要なことだと思います」と凛とした口調でおっしゃっていたのが印象に残りました。

聞けば、製作だけでなく、配給も自分たちの手で広げているとのこと。なかなか劇場で見る機会がありませんでしたが、ずっと見ておきたかった作品でした。
貴重な上映会の存在を教えて下さった、友の会のKさんに感謝です。
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2014/12/6

朗読公演“Are You Ready for the Country?”/反核反戦展作家トーク  イベント

午後1時より、高瀬伸也さん企画の朗読公演“Are You Ready for the Country? 〜永井荷風の日記にみる「戦争という日常」〜”が開催されました。

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当日朝、2014年12月6日付『東京新聞』朝刊埼玉欄に紹介記事が掲載されました。

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〈公演タイトルは「お国のために備えはいいか」と、現在の政治状況への皮肉も込められている。〉と記事にも紹介されていますが、いつも、「ひねりすぎの企画」を行う高瀬さん。
今回の企画も、鋭い問題意識が隠されています。

以下は、鑑賞の手引きからの抜粋です。

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 いつも、「ひねりすぎの企画」と学芸員の岡村さんに笑われてしまいます。ならばもっとひねって、元に戻ってくればいいや、という今回の企画は、12/8に着目せよというメッセージと12/8が強調されることに警戒せよ、という二つの相反するメッセージを同時に発するものです。
 12/8に着目せよというのは、対米英蘭開戦日の1941/12/8は1945/8/15の「終戦」記念日に比べて注目度が低いが、12/8は、その直後からの、文学、新聞、放送等の、積極的な戦争協力の問題を考える起点としてもっと注目されていい、ということからです。
 それに対して、12/8が強調されることに警戒せよ、というのは、「12/8に戦争が始まった」という言説が、「日本の先の大戦」を、対米戦に矮小化し、それ以前から続き泥沼化していた対中国戦争を見えなくしていることへの批判です。
 その異なるメッセージを踏まえつつ、特に、12/8以前の「銃後」の暮らしを、(その「日常生活」は少々風変わりなものかもしれませんが)荷風の日記を通して示し、12/8前・後の連続性を明らかにしようとするものです。


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朗読したのは、永井荷風『断腸亭日乗』。

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丸木夫妻の共同制作の壁画の前で、2時間以上日記を読み続けたのは、NHKラジオ深夜便の映画評論でおなじみの青柳秀侑さん。
高瀬さんは「少しずつ変化し/ほとんど変化せずに」ピアノを演奏し、「日常生活」の変化と不変に、ゆるやかに呼応します。

淡々とした生活の記録のなかに、ふいに現れてくる鋭い社会批判、戦争の影。
いつの時代も、目の前の風景は一見変わらぬように見えて、その奥底はひそかに揺らぎ、変化していくものなのかもしれません。

   *   *   *

午後3時すぎからは、「今日の反核反戦展2014」の作家トークが行われました。

はじめに木村裕さんによる、武満徹の曲などの(見事な!)ピアノ演奏。
続いて小畑和彦さんが、自作の同名の作品の前で「死んだ男の残したものは」などの曲のギター弾き語り。こちらも作曲は武満徹。小畑さんの美声には驚きました。

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さらに黒田オサムさんのパフォーマンス「小さな骨」に、木村裕さんが即興でピアノを合わせます。
黒田さんについては、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの活動で、2011年5月31日に坂上しのぶさんとともに聞き取りをしたことがあります。
http://www.oralarthistory.org/archives/kuroda_osamu/interview_01.php

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ここまではパフォーマンスでしたが、その後は、それぞれの作家が順番に作品の前で自作を語るという時間。

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今回初参加の圓城寺俊之さんは、地元・東松山の作家。オープニングのときのノイズ・ミュージックは圧巻でした。

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ヨーロッパなど国外でも精力的に作品を発表している近藤あき子さんは、偶然画面にできた「傷」を生かして制作したという秘話を話して下さいました。

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A3BC 反戦・反核・版画コレクティブは、版画の集団制作という、近代の美術史のなかで地下水脈のように続いている問題意識を追及しています。

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そして丸木美術館の「反戦展」創生期から連続して出品されている吉岡セイさんは、今回は第五福竜丸をモチーフに選ばれました。

こうして、さまざまな作家の話を聞きながら作品を見ると、絵の見え方もまた違ってくるのが面白いところです。
「ただ展示してあるだけだとわからないことが、トークを聞くと、ああそうだったのか、とよくわかる」と、観客の方々からもたいへん好評でした。

閉館後には、残った作家さんたちと、駅前の居酒屋で打ち上げ会も行いました。
今回から実行委員会形式に変わったことで、作家さんたちの自発的な活動や企画も増え、何より、これは美術館側からの感想ですが、個々の作家さんたちの「顔」が見えるようになりました。
今までずっと参加されてきた作家さんの意外な一面を知ったり、新しい作家さんの参加で展覧会の広がりを感じたり。今回は「反核反戦展」を観に来館される一般の方も、心なしか多いような気がします。

帰り道、夜空に明るく輝く丸い月を見上げながら、しみじみと嬉しい気持ちになりました。
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2014/12/5

朗読公演と「反核反戦展」作家トークのお知らせ  イベント

12月6日(土)午後に予定しているふたつのイベントのお知らせです。

ひとつは、丸木美術館で何度も開催されている高瀬伸也さん企画の朗読公演“Are You Ready for the Country? 〜永井荷風の日記にみる「戦争という日常」〜”
“Are You Ready for the Country?”という題に、現在の社会状況に向けた皮肉を感じます。
奇しくも14日に迫った衆議院選挙の直前というタイミング。戦争に向かって突き進む時代の“日常”を、永井荷風という一人の作家の視点から、あらためて見つめなおすという意欲的な企画です。

永井荷風の日記『断腸亭日乗』
昭和15年8月1日
「正午銀座に至り銀座食堂に飰す。南京米にじゃが芋をまぜたる飯を出す。この日街頭にはぜいたくは敵だと書きし立札を出し、愛国婦人連辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂ありたれば、その有様を見んと用事を兼ねて家を出でしなり。
…今日の東京に果して豪奢贅沢と称するに足るべきものありや。笑うべきなり。」

永井荷風(1879-1959)は、1917年(大正6年)9月16日から、1959年(昭和34年)4月29日(=亡くなる前日)まで、ほぼ毎日日記をつけていました。
戦時体制下でも玉ノ井、浅草を歩き続ける都市の遊歩者、文壇嫌いの作家、自宅から人を遠ざける隠遁者、下町に日用品や食料を買出しに行く生活者といった多面的な顔を持つ荷風は、その日記に、見聞きしたものを具体的に記していました。
「お国の為に備えをする」ことから、おそらく最も遠い人であったであろう荷風の日記から、主に、戦争と戦時体制について書かれた日をピックアップし、日中戦争、対米英戦の連続性の中での「戦争という日常」を辿っていきます。

〈上演作品〉永井荷風『断腸亭日乗』より
〈日時〉2014年12月6日(土) 午後1時〜3時
〈場所〉丸木美術館新館ホール&ロビー
〈出演〉青柳秀侑(朗読)、高瀬伸也(企画・演奏=ピアノ)
〈料金〉無料(ただし、当日の美術館入場料は必要です)
〈公演内容についてのお問い合わせ先〉高瀬 ici-aillurs@an.em-net.ne.jp

   *   *   *

もうひとつの企画は、「今日の反核反戦展2014」の出品作家によるアーティスト・トーク
今回から実行委員会形式になり、作家たちのあいだから自発的に生まれてきた自主企画です。
作家自身の作品説明によって、より深く作品の制作意図を知ることができるでしょう。
また、ピアノ演奏や弾き語りなども企画されているようです。

〈日時〉12月6日(土)午後3時〜
〈場所〉丸木美術館新館ロビーおよび展示室
〈料金〉無料(ただし、当日の美術館入館券が必要です)
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2014/12/4

中島晴矢パフォーマンス動画とトーク企画のお知らせ  企画展

先日の「今日の反核反戦展2014」オープニングイベントのラストを飾った中島晴矢さんのパフォーマンスが、動画で公開されています。



歌っているのは中島さんですが、他の作家さんたちが協力してステージを作り上げていて、非常に盛り上がりました。
今までの丸木美術館の「反核反戦展」では見られなかった新しい光景で、今後の可能性を感じました。

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12月13日(土)まで、丸木美術館2階アートスペースでは、中島さんの個展「上下・左右・いまここ」も開催しています。

急きょ、12日(金)午後1時から午後2時半まで、若い世代の企画による“「反戦」を乗り越える〜「反」という抵抗姿勢の次段階とは?〜”というトークも設定されました。

この企画は、2014年9月に東京・世田谷区のSNOW Contemporaryで開催された「反戦――来るべき戦争に抗うために」展のスピンオフ企画第2弾として開催されます。

中島さんに加え、「反戦展」に運営スタッフとして参加した居原田遥さんと木村奈緒さんという 同年代の3人が、それぞれの「反戦」体験を踏まえて互いに質問を投げかけます。
展覧会を超えて生まれた「反戦」のアクションに是非ご参加ください。
予約不要、観覧無料(展覧会観覧には別途入場券が必要です)。
Ustream中継の予定もあるそうです。

【出演者プロフィール】

居原田遥(いはらだ・はるか)
1991年 沖縄生まれ。東京芸術大学大学院在籍。現代美術・文化研究を専門にキュレーション、展覧会企画・運営などを行う。主な企画運営に、「柳井信乃個展 うつし身-ghost self」(2014・松戸) 「寄り道キャラバン」(2015)

中島晴矢(なかじま・はるや)
1989年生まれ。現代美術家、ラッパー。主な個展に「ガチンコーニュータウン・プロレス・ヒップホップー」(ナオ ナカムラ)、「REACH MODERN」(ギャラリー アジト)など。

木村奈緒(きむら・なお)
1988年生まれ。上智大学文学部新聞学科卒業。美学校手伝い兼フリーライター。「工藤哲巳ナイト」「ヨーゼフ・ボイスナイト」などイベント企画も。現在、美術家・会田誠さんのエッセイにて共同執筆中。

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また、個展最終日となる翌13日(土)午後3時からは、クロージング・イベントとして、個展の企画者でもある美術評論家の福住廉さんと中島さんのアーティストトークも行います。
予約不要、観覧無料(展覧会観覧には別途入場券が必要です)。
こちらもぜひ、お見逃しなく。
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2014/12/1

アライ=ヒロユキ『天皇アート論』  書籍

今夏、美術評論家のアライ=ヒロユキさんが出版された『天皇アート論 その美、“天”に通ず』(社会評論社/2,800円+税)。

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序章で、ハンナ・アーレントの『人間の条件』から「社会というものは、いつでも、その成員がたった一つの意見と一つの利害しかもたないような、単一の巨大家族の成員であるかのように振舞うよう要求する」という言葉を引きながら、主に戦後に生まれてきた天皇をモチーフにしたアートを紹介し、「社会の名で、いま日本で起きていること」に切り込んでいく、とても刺激的で読み応えのある著作です。

池田龍雄の《にんげん》(1954年)からはじまり、桂川寛の《渇水期(チンはタマである)》(1992年)、山下菊次〈天皇制シリーズ〉(1971年)、赤瀬川原平の『漫画主義』表紙イラスト、貝原浩『ショーは終っテンノー』(1988年)、内海信彦《死なない花が欲しいという》(1975年)、前山忠『反天皇制』(1977年)、工藤哲巳《例えば東京―パリ、真空軸と磁気軸について》(1982-83年)、大浦信行《遠近を抱えて》(1982-85年)、洪成潭《天皇と広島原爆》(2007年)、金城実《天皇の来沖》(2007年)、富山妙子《敷島の大和心》(1995年)、中ハシ克シゲ《あなたの時代》(2001年)、会田誠〈戦争画RETURNS〉(1996年など)、柳幸典《アーティクル9》(1994年)、嶋田美子《焼かれるべき絵》(1993年)、森村泰昌《なにものかへのレクイエム(思わぬ来客/1945年日本)》(2010年)、照屋勇賢《昭和天皇裕仁》(2009年)などなど・・・・・・「おおむね天皇制をテーマとする作品を網羅した」数多くの表現が図版入りで論じられています。

丸木夫妻の作品も、《三国同盟から三里塚まで》(1979年)と「沖縄の図八連作」のうちの《ひめゆりの塔》(1983年)が取り上げられています。

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画像は、提供図版のひとつ《三国同盟から三里塚まで》。
後期の丸木夫妻の共同制作については、なかなか分析される機会が少なく、貴重な論考となるので、まずは《三国同盟から三里塚まで》についての箇所を抜き出します。

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 本作は作家の「民衆曼荼羅」とも言うべきもので、《アウシュビッツ》(一九七七年)あたりからの作家の到達点の特長をよく体現している。画面の中にはさまざまなモチーフが混在するが、墨のにじみ、褶曲する筆致とフォルムは隣接部分と親和性があり、決して対立しない。この集合が大きなうねりとなって、見るものに迫力を感じさせる。焦点が分散された構図による群衆のうねりの絵画だ。中央部のパネルの下に描かれた黒い旗には水俣病告発の運動で使われた印「怨」が掲げられている。朝鮮民族の「恨」への呼応とともに、作品全体のトーンを支配する。

 「敵」としての権力者の明示は、丸木作品としては異例である。だが、権力者は隅のほうに押し込まれることで人類の業の一つという限定的な立ち位置となり、紋切り型の図式から免れる。大衆が自らの尊厳をかけて戦い、それが一つの絵巻として連帯につながっていくダイナミズムが作品の核心だろう。

 画面に縦横に登場するキツネは、山下菊次の手法を連想させる。しかし、様式化された表現には民話の色彩が濃い。山下が民譚画と称されながらも、その造形は個のこだわりから生まれていたことと対照的である。伝承が体現する大衆の想像力はここでは肯定される。


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「三国同盟」から「三里塚」へと続く戦争・公害の“暴力”の歴史を描いたこの壁画は、現在、ブルガリアの国立美術館に収蔵されているため、私はまだ実見したことがありません。
丸木美術館理事で画家の平松利昭さんによれば、常設展示で美術館の正面に飾られているとのことですが、いつか訪れてみたいものです。

《ひめゆりの塔》についての作品分析は次の通り。

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 画面はモザイク状の墨線が分断し、その中には幾つもの顔が配置されている。ひめゆりの塔をめぐるさまざまな思い、体験、史実の示唆だろう。《原爆の図 とうろう流し》でも見られる手法だ。大衆の思いのモザイクから皇太子と妃は外され、火炎瓶を持つ活動家もまたほぼ外され、別扱いとなる。ひめゆりの塔を利用する天皇、これに反対する政治活動家。いずれの思惑、意図とも無関係にひめゆりの犠牲者はここに眠り、その関係者は哀惜の念を注ぐ。

 本作には戦後の「ひめゆりの塔」と「暁の実弾射撃」もあるが、むしろ戦時中の阿鼻叫喚に重点が置かれている。日本軍や米軍といった加害者の姿はない(島民同士の自決の強制は描かれている)。本作は、異常事態に巻き込まれた人々の生の尊い尊厳を伝える。絵巻に用いられた異なる時系列を一緒に描く異時同図法が用いられている。この伝統絵画の手法を応用し、ある事件のルポルタージュではなく、歴史そのものの流れを伝える。これもまた、「民族」の発見であるかもしれない。


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また、天皇制をテーマにした表現ではないものの、《原爆の図》についても興味深いリアリズム論を展開されています。

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 丸木位里・俊は、初期の《原爆の図》では被災地の写真を苦労して手に入れ、人体デッサンの秀作を重ね、その制作に臨んだ。つまり、社会主義リアリズムに近い。しかし背景は日本画の技法を踏襲し、ほとんど省略される。異なった時間の肉体をいくつか配置していく異時同図法は、同じ時間の共有こそが連帯を生み出していく社会主義リアリズムは一線を画する。丸木俊は作品の意図をこう語る。

 大画面では、透視図的な一つの焦点では無理だということがわかりました。……その部分部分に、その世界があり、それぞれのその時間があるのであります。それらの、綜合された現実が、あの原爆という偉大な破壊力の前にさらされた人間の、あらゆる様相をふくんだ現実であったのであります。
 ――『原爆の図』青木書店、小沢節子『原爆の図』岩波書店

 小沢節子は、この発言を体現した初期《原爆の図》に独自のリアリズムがあることを指摘する。一方、《原爆の図》の堆積する肉体のマッス(量塊)に見られる人間性を捨象した物質感の強調は、産業文明と合理主義がもたらした矛盾、その根源にあるきしみを伝える。ここには、河原温や石井茂雄の問題意識との同時代性を感じさせる。つまり、《原爆の図》は正統的なリアリズムを基底に置きつつも、アヴァンギャルドの問題意識を包摂する表現でもあった。


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もっとも、この労作の真価は、従来紹介されてこなかった、そして「非核芸術」と同じように、多くの美術館ではタブー視されている「天皇アート」を掘り起こし、まとめているところでしょう。

決して「天皇制」に反対する作品のみでなく、作者不詳の《聖徳太子像》や《嵯峨天皇像》まで歴史的にさかのぼり、さらには天皇神格化以前の横井小楠や渡辺崋山の思想まで視野に入れながら、「天=普遍性」を希求する“美”へと着地する論考は、社会と美術の関わりを丹念に追い続けているアライさんならではの素晴らしい成果だと思います。

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本書で取り上げられている大浦信行の映画『日本心中』(2001年)、と続編の『9.11-8.15日本心中』(2005年)は、丸木美術館前館長でもある評論家の故・針生一郎(1925-2010)の半ドキュメンタリ映画。

その針生一郎の展覧会「わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術」が宮城県美術館で2015年1月31日(土)- 3月22日(日)の日程で予定されています。
丸木美術館からも原爆の図 第1部《幽霊》を出品する予定ですが、さまざまな文化運動に携わりながら、反戦、人権、反権力を貫き続けた針生一郎の仕事は、「天皇アート」の表現者たちとも深く関わっているだけに、宮城県美術館がどこまで展示を深めていくのか、興味深く思っています。
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