2014/11/29

そごう美術館「トーベ・ヤンソン展」  他館企画など

「越境するヒロシマ―ロベルト・ユンクと原爆の記憶」展のトークセッションの後は、横浜に移動して、そごう美術館の「生誕100年 トーベ・ヤンソン展」へ。

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ムーミンの生みの親として知られるフィンランド出身の芸術家トーベ・ヤンソン(1914-2001)の大回顧展。フィンランド国立アテネウム美術館で今年3月から9月まで開催された展覧会の日本巡回です。

広く知られるムーミンの挿絵だけでなく、幼少期の絵から、1930年代のシュルレアリスム風の油彩画《神秘的な風景》、第二次世界大戦中に政治風刺雑誌『ガルム』に描いたスターリンやヒトラー批判の風刺画、彼女の画業の到達点とも評される1975年の《自画像》、『ホビットの冒険』や『不思議の国のアリス』の絵本挿絵、さらに立体模型、壁画や舞台美術のための習作など、多彩な仕事が紹介されている見応えのある内容でした。

私が関心があったのは、ムーミンの挿絵の緻密な線描や優れた造形などももちろんですが、彼女の作品世界に流れている戦争の影響でした。
子どもの頃にムーミンの物語を読んで、それまであまり経験したことのなかった読後感の重さや思考の深さにとまどい、衝撃を受けたことを覚えています。

「ムーミン(ムーミントロール)」の原形が『ガルム』の表紙に登場していたことは以前から知っていましたが、今回の展覧会の監修者であるヘルシンキ現代美術館KIASMA(キアスマ)元館長トゥーラ・カルヤライネン氏は、論考のなかでムーミン物語の中に戦争や原爆を思わせるテーマが描かれていると指摘しています。

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 2作目の『ムーミン谷の彗星』からは、物語のベースが戦争によってトーベが実際に体験した恐怖であることが、より鮮明にうかがえます。作中、洞窟に隠れたムーミンたちには、世界に何か残っているものがあるのか、それとも彗星がすべてを破壊してしまったのかがわかりません。トーベも、これとよく似た状況を防空壕のなかで体験しました。外の世界がどうなっているのかわからないという激しい恐怖と不安は耐えがたいものでした。また、トーベが描く彗星の驚異と恐怖は、当時、広島と長崎に投下された原爆の話にも酷似しています。フィンランドの戦争で起きたことよりも、さらに悲惨な出来事が存在したのです。当時の人々は、この本の内容に戸惑いました。すべてが破壊される恐怖というのは、子どもの本のテーマとしてはかなり異例なものだったからです。

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最近読んだばかりの東琢磨さんの著作『ヒロシマ・ノワール』(インパクト出版会、2014年)も、ムーミン物語のなかにひそむ戦争の影について言及されていました。

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圧倒的に面白いのが、第一作の小さな『小さなトロールと大きな洪水』。一九四五年に出ています。トーベ・ヤンソン自身も戦争の経験について書いていて、先ほど洪水の話を出しましたが、もうまさにこれはそのままズバリ、戦争のメタファーなんですね。ムーミンパパが旅に出ている間に、洪水に襲われて、安住の地を探し回るという話なんですけれど、要はお父さんが戦争に出ている間に、ひどい目に遭って逃げ回っているという話なんですね。

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もちろん、子どもの頃には、この物語が「戦争のメタファー」であったり、原爆に酷似しているとは考えもしなかったのですが、しかし、常識的な倫理観にとらわれない洞察力の深さや、人間に対する複雑な距離感、悲しみをともなうやさしさが、おそらくは心の地下水脈となって、自分を《原爆の図》へといざなったのではないかと思うこともあります。

彼女の自伝的小説『彫刻家の娘』も含めて、しばらく本棚から取り出していませんでしたが、久しぶりにもう一度、丁寧に読み返したいと思いました。
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2014/11/29

東大駒場博物館「ロベルト・ユンク展」トークセッション  講演・発表

東京大学駒場博物館で開催中の特別展「越境するヒロシマ―ロベルト・ユンクと原爆の記憶」(12月7日まで)のサイド企画「僕らが見つめる戦争の記憶」というトークセッションにゲストスピーカーとして参加しました。

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駒場博物館の建物は、旧制第一高等学校の駒場移転時(1935年)に図書館として建てられたそうです。
私がこの博物館を訪れたのは約20年ぶり。
学生時代に、マルセル・デュシャンの《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも》(通称「大ガラス」東京ヴァージョン)を観るために訪れて以来です。
そのときは、古色蒼然とした印象があったのですが、2003年に全面改修され、その後は学内の研究成果を公開する場として広範なテーマの企画展に取り組んでいるとのこと。

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まずはロベルト・ユンクの展示をじっくりと拝見しました。
主に出版物と解説パネル、映像のみというシンプルな展示でしたが、初めて知ることも多く、なかなか見応えのある内容でした。

ロベルト・ユンク(Robert Jungk)は1913年、ドイル・ベルリン生まれ。
ユダヤ系のために戦時中はナチスの迫害を受け、戦後はフリーのジャーナリストとして広島を取材し、核の脅威をテーマにした著作が次々と世界的なベストセラーになりました。

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最初の広島取材は1957年5月。このとき、後に「折鶴の会」を組織する河本一郎から佐々木禎子と千羽鶴の話を聞き、著書『灰墟の光 蘇るヒロシマ』(1959年刊)に紹介したことから、1961年に児童文学者のカール・ブルックナーが『サダコ』を出版し、やがて20以上の言語に翻訳されて世界に広がっていったそうです。

 広島の警告の旗印はモニュメンタルな記念建造物ではなくて、皮膚や血液や生殖細胞のうちに〈あの日〉の思い出の烙印を受けた生存者たちなのである。
 ―『灰墟の光 蘇るヒロシマ』(原田義人訳/文芸春秋新社/1961年)より

こうした言葉からは、人間の肉体に焦点を絞って《原爆の図》を描き続けた丸木夫妻の視線を連想しました。

1960年には西ドイツのTV局スタッフとともに2度目の来広。会場で上映されていたドキュメント番組「灰墟の光」(45分)は欧州各国で放映され、大きな反響を呼んだそうです。

さらに1970年には4月と11月の2回にわたって広島を訪れ、1980年の来日の際には、新潟、石川、愛媛などの原発の視察も行いました。

 平和のための原子力技術と、戦争のための原子力技術が厳密に二分されると思うのは幻想であるという認識が、今後、核エネルギーの導入に関するすべての議論において、中心的意義を持つこととなろう。
 ―『原子力帝国』(原著1978年、日本語版:山口祐弘訳/社会思想社/1989年)より

1979年のスリーマイル島原発事故が起きるより前に、こうした言葉も書き記しています。
時代の先を見通す眼も、持ち合わせていたようです。

 あの大戦中に、原爆の姉妹ともいうべきヒットラーの地獄の焼釜によってほとんどすべての身寄りを奪われた筆者自身にとっては、広島の惨禍から生き残った人たちこそ、大部分のヨーロッパ人やアメリカ人よりもはるかに身近な存在だったのである。
 ―『千の太陽よりも明るく―原子科学者の運命』(原著1956年、日本語版:菊森英夫訳/文芸春秋新社/1958年)より

「アウシュビッツ」と「広島」をつなげる視点。それは、逆に《原爆の図》から《アウシュビッツの図》へとつながっていった丸木夫妻の共同制作にも重なるものがあります。
ともに戦争で痛手を負った“被害者”同士の共感の視点というよりは、戦争の痛みを深く考え続けた結果、人種や国境を越えた普遍的な“いのち”の問題に至ったのだと思います。

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会場には、不動の常設展示になっているデュシャンの「大ガラス」東京ヴァージョンも展示されていて、久しぶりに観ることができました。

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現代美術を学んでいた学生時代には、まさか将来、この「大ガラス」の前で、しかも「戦争の記憶」をテーマにしたトークセッションに出演することになるとは考えてもいませんでしたが、人間の運命とは不思議なものです。

   *   *   *

この企画を提案して下さった東京大学教養学部前期課程・全学自由研究ゼミナール 「平和のために東大生ができること」の岡田晃枝先生と学生代表の4人とともに、午後1時より、トークセッションを開始。
参加者16名ほどのアットホームなセッションで、フロアからの発言も多く飛び出し、なかなか面白い討論になりました。

若い学生たちにとって、「戦争の記憶」とは、かなり近づきがたいテーマ。
フロアの戦争経験のある世代の方からは「想像力」と「共感」が大切、という発言があったものの、学生たちからは「受け止めきれない、想像しきれないもの」、「真剣に聞かなければいけないという強迫観念があるので、内面に入りこめない」、「大人に求められている反応を意識してしまう」といった思いが語られました。

たしかに、《原爆の図》にも共通するのですが、「戦争の記憶」を受け止める際には、「想像力」のために必要とされる自由な発想をなかなか発揮しにくい、という問題点があります。
「不謹慎」かもしれない、という自己規制が働くと、「想像力」は一気に委縮します。
まずは、「定型化」されていると思われる「戦争への想像力」に縛られず、一度まっさらの状態に解きほぐし、自分たちなりの視線で再構築することが必要なのでしょう。

もっとも、その「定型化」と言われるものが本当に確かなのか、さらには、その「定型化」にいたるまでの、多くの人たちによる膨大なエネルギーの蓄積を、見ないことにしてしまっていいのか、という問題も考えなくてはなりません。

学生たちからは、戦争を体験していない自分たちが「戦争の記憶を発信できるような立場なのか」、「発信する資格がないのではないか」という疑問も投げかけられました。

もちろん、「戦争の記憶」を発信するために国家資格などが必要なわけではありません。
ロベルト・ユンクも丸木夫妻も、1945年8月6日の広島を「体験」していませんが、「原爆の記憶」を世界に伝える役割を果たしています。
そもそも「体験」の線引きも曖昧なものだし、一番の体験者は命を奪われた人たちなので、「体験」を伝えることはできません。

発信の前提としてどれだけの理解が必要かという疑問も、あまり意味がない。
むしろ、「戦争の記憶」を受け止めるだけではなくて、自分の身体を通しながら、思いを深め、まとめて、表に出す(発信)という過程で、より理解が深まっていくのではないか。
「発信」という過程は、何より自分自身が理解を深めるために必要なのではないか、ということを、学生に向けて話してみました。

セッションのなかでは、今夏に丸木美術館で個展を開催した竹田信平さんの作品や映画の話題が出ましたが、美術家たちの表現も、みずからの「戦争の記憶」を描く作品から、長い時を経て、自分がどのように他者の「戦争の記憶」に向き合ったかを提示する作品に変化してきているように思います。

そして、「発信」や「表現」というと大げさなように感じるけれども、美術館の感想ノートに思いをまとめて記すのも大事な「表現」だし、言葉にまとめて人に伝えること、あるいは、岡田先生いわく「選挙で投票する」ことも立派な「発信」のひとつ。身近なところで、発信・表現の機会はたくさんあるのです。

ロベルト・ユンクや丸木夫妻の仕事も、もしかすると原点は、そうした私たちと同じ地平にあるのではないか、という気もしました。
「戦争の記憶」に触れたことで、心の中で何かが変わったり、揺れ動いたりしたことを受け止め、これからの自分の生き方や世界を見る視線につなげながら、考え、深め続けること。

70年前の「過去の歴史」としてとらえるのではなく、今の現実世界を生きるための道標として、この豊饒な「記憶」の蓄積を生かしていくことが、何よりも大切だと思うのです。
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2014/11/27

「祭、炎上、沈黙、そして... POST 3.11」  他館企画など

夕方から都内で丸木美術館の来年度の企画展について討議する企画委員会があったので、その前に、東京都美術館ギャラリーAで開催中の「祭、炎上、沈黙、そして... POST 3.11」展を観てきました。

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この展覧会は、出品作家でもある白濱雅也さんの企画で、「第3回 都美セレクション グループ展公募」で選出された、3.11後の“光”と“闇”を“結晶化”するという試みのグループ展。

出品作家は、丸木美術館でも個展を開催して下さった安藤栄作さんのほか、石塚雅子さん、白濱さん、半谷学さん、横湯久美さんの5名です。

会場には、丸木美術館の個展のために制作された安藤さんの《光のさなぎたち》も設置されていました。久しぶりの再会です。

《光のさなぎたち》や復興を願う《鳳凰》の像のあいだには、“現代の円空仏”のようにも思える7体の新作《七福島神》も並んでいました。

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安藤さんや石塚さん、企画者の白濱さんにもお会いすることができました。
石塚さんの、闇の中に光明を見るような劇的な油彩画は、見るたびに心を打たれます。
そして、白濱さんの「企画主旨に至る8の断面」というテキストは素晴らしい内容でした。



 震災後、誰もが自分は何をすべきであるかを問うたであろう。あるギャラリストが「問うべきは美術家として何をするかの前に人として何をするかだろう」とツイートしていて印象的であった。これは当時の美術家の志向を物語っている。

 多くの美術家が美術家として何ができるかを問い、何かをしたいと欲望していた。美術は何も役に立たない事実の反動でもある。震災という大きな事件によって見えてしまった美術家の社会性という空洞を埋めずにはいられない衝動に駆られたのである。これは自己満足や偽善に陥りやすい。その落とし穴に嵌ることなく美術は何ができるのか。

  ――「企画主旨に至る8の断面」の「自己満足」より一部抜粋



簡単に答えを出すことのできない鋭い問いかけは、かつての「戦争画」の問題を想起し、また、「3.11後」の自分自身の在り方についても、深く考えさせられる内容でした。
こうした問いかけを常に自らに課しながら、複雑で多義的な世界を結晶化する。
今回のグループ展は、そんな試みなのだろうと思いました。



 私は3.11を成長期に体験し「真実を見た」世代の将来に期待する。彼らにこれらの作品に込められたものを伝えたい。そのために超越の欲望を持続すること、彼らが時代を担うまで負の遺産をできるだけ減らし、怠惰、忘却、雷同に抵抗し続けること、その両極を実践し続けることが3.11と向かいあった美術家に課せられているのだ。
 ――「企画主旨に至る8の断面」の「超越と抵抗」より



美術表現の問題だけでなく、今の時代を生きていくことそのものの意味を考えるきっかけになるような、心に沁み込む好企画です。

会期は12月7日(日)まで。11月29日(土)には石塚雅子さんと横湯久美さん、12月6日(土)には安藤栄作さんと白濱雅也さんのギャラリートークが予定されています。
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2014/11/23

『信濃毎日新聞』などに丸木美術館紹介記事掲載  掲載雑誌・新聞

“「原爆の図」来夏 米国へ 埼玉の「丸木美術館」が出展 戦後70年「議論深めて」”
 ――2014年11月12日付『信濃毎日新聞』夕刊より

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共同通信埼玉支局のT記者が配信して下さった記事が、各地の新聞社に掲載されているようです。
そのひとつ、『信濃毎日新聞』の記事が手に入りましたので、ご紹介いたします。

以下は、記事冒頭からの抜粋。

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 埼玉県東松山市に、原爆投下直後の惨状を描いた絵を展示する「原爆の図丸木美術館」がある。1960年代、広島にゆかりのある画家夫妻が「故郷に似ている」とほれ込み、アトリエを構えたのが始まり。来館者は毎年1万人を超え、戦後70年の来年夏には米国の首都ワシントンで展覧会を開く予定だ。
 都心から電車で約1時間、埼玉県中央部。市は高度成長期、自動車部品製造業で発展し、現在は東京のベッドタウンとして約9万人が暮らす。美術館は郊外を流れる都幾川のほとりにある。
 「原爆の図」は50〜82年に発表された全15部の連作で、1枚が縦1.8、横7.2メートル。垂れ下がった皮膚、焦げてただれた頭、遺体の山が生々しく描かれ、一部の教科書にも掲載されている。80年代には文部省(当時)が「悲惨すぎる」と問題視したこともあった。
 作者は広島市出身の水墨画家、故丸木位里さん(1901〜95年)と、妻で北海道秩父別町生まれの油彩画家、故俊さん(12〜2000年)。「沖縄戦の図」「水俣の図」など反戦や反公害を訴える作品で知られ、ノーベル平和賞候補にもなった。


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こうした具合に、基本的な情報から丁寧に紹介して下さっています。
取材のために美術館を訪れ、じっくりと見学して下さった若いT記者に感謝。
今後のご活躍を期待します。
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2014/11/22

今日の反核反戦展2014オープニングイベント  企画展

実行委員会形式となって、初めて迎えた「今日の反核反戦展2014」
穏やかな気候に恵まれて、オープニングイベントが開催されました。

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この日を迎えるまで、さまざまな出来事がありましたが、呼びかけ人の池田龍雄さんが無事に開会の挨拶をして下さったことは、本当に喜ばしい限りです。

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出品作家のひとりで、丸木美術館の理事でもある万年山えつ子さんのご家族が、美味しい料理をたっぷりと用意して下さいました。
池田さんの音頭で乾杯し、料理を楽しみながら歓談します。

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午後1時からは出品作家によるパフォーマンスがはじまりました。
まずは奈良幸琥さんによる「ひふみ祝詞」です。

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続いては、SYプロジェクトによるパフォーマンス「ゼロベクレルプロジェクト」。
朗読は内田良子さん、ダンスは万城目純さん、清水友美さん、サウンド石川雷太さんというメンバーでした。

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さらにスタジオ・ヴォイドのお二人、岩田恵さん(筝)+阿部大輔さん(尺八)による演奏が続きます。

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大橋範子さんの「human possibility」は、衣服をすべて脱ぎ捨て、シンバルを叩きながら「殺すな!」「生きろ!」と絶叫し続ける迫力のパフォーマンス。

実はこのパフォーマンスの真っ最中に、地元郵便局の配達員が来てしまったので、慌てて受け取りに走ったところ、郵便物のなかにダダカン(大阪万博の際に会場を裸体で疾走した伝説的な裸体行動芸術家)から大橋さん宛ての激励の手紙があったという嘘のような凄い偶然もありました。

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「日本国憲法全文朗読会」のパフォーマンスもありました。村田訓吉さん(歌と舞)、坂本美蘭さん(音楽・歌)、岡野愛さん(踊り)、小森俊明さん(音楽)、坂田洋一さん(記録)というメンバーです。

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その後、場所を移動して、美術館の奥のロビーで行ったのは黒田オサムさんによる「ほいと芸」のパフォーマンス。すっかり丸木美術館「反核反戦展」恒例の公演となりました。

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休憩をはさんだ後、舞台を八怪堂に移して、ZEROVOIDのノイズサウンドインスタレーション「Requiem for a Bad Dream」。演奏は圓城寺俊之さんとナカガワユウジさん。
夕暮れの近づく都幾川に、大音量のノイズサウンドが響き渡ります。

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4時間に及ぶイベントの最後を飾ったのは、招待作家でもある中島晴矢さんのラップミュージック「イマココ」。
歌詞に丸木美術館も盛り込みながら会場のテンションを上げていく中島さんのパフォーマンスに、次第に客席から舞台に乱入する人びとがあらわれてきました。

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舞踏家も画家も彫刻家も評論家も観客も、若者もシニア世代の方がたも、みんな次々と踊り出す、混沌とした自由空間。
最後は何と、池田龍雄さんまで舞台に引っ張り込まれて、この日のイベントは最高潮の盛り上がりで幕を閉じました。

運営を実行委員会形式に変えて、展覧会にも新しい風が吹き、とても良い内容になったと実感した一日。来場された方々の喜びの声が聞こえてくるのは、美術館の職員としてとても嬉しいものでした。
実行委員はじめイベントをお手伝い下さった皆さま、本当にお疲れさまでした。

さらに実行委員会からの提案で、急きょ、12月6日(土)午後3時から出品作家によるアーティストトークが開催されることも決まりました。

この日は午後1時から、青柳秀侑さん(朗読)、高瀬伸也さん(企画・演奏=ピアノ)による朗読公演“Are You Ready for the Coutry? 〜永井荷風の日記にみる「戦争という日常」〜”も行われます。 永井荷風の日記『断腸亭日乗』の朗読です。

どちらも参加無料(当日の入館券は必要です)のイベントですので、ぜひ、皆さま、12月6日は丸木美術館にお運びください。

(写真撮影:山口和彦)
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2014/11/20

ギャラリーモモ両国「長沢秀之展」/横網町公園・復興記念館  他館企画など

東京・夢の島公園にある都立第五福竜丸展示館へ、「第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」展で展示した貴重なポスターを返却に伺った後、ギャラリーモモ両国で開催中の長沢秀之展「絵画のなかのあらゆる人物は亡霊である」(11月29日まで)を見ました。

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紙工場を改装したギャラリースペースは、新しさと古さが同居した面白い空間です。
「ゴジラ展」ですっかりお世話になった長沢さんは、画面上にドットを乗せていき、茫洋とした揺らめくような作品を制作されている画家。

「ゴジラ展」でも、影のような、亡霊のようなゴジラの油彩画が印象的でしたが、今回の展示のアーティストコメントでは「絵画のなかのあらゆる人物は亡霊である。それは死者の像である。」という、はっと考えさせられるような言葉を記されていました。

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夢幻能において、亡者は橋懸かりをへて能舞台に出現する。橋懸かりとは言うまでもなく、この現実とあの世との境にあるものだが、絵画の構造もこの橋懸かり的な意味を持つ。

その名も《幽霊・点》という作品の前に立ちながら、漠然と《原爆の図》へ思いがつながっていきました。《原爆の図》もまた、「この現実とあの世との境にある」絵画。
絵画に限らず、表現者は、異界〈ここではないどこか〉への橋渡しをする存在だということを、あらためて考えさせられました。

長沢さんは、丸木美術館の「ゴジラ展」の感想を、ご自身のブログに記して下さっています。
http://nagasawahideyuki.net/628

以下は、ブログからの一部抜粋。

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 本当のところは若い人たちも歴史に飢えているし、美術を現実の自分たちのこととしてとらえ考えていきたいのだと思う。私としては、美術がいかに個人的なものであろうとそれは政治性を帯びるということを証明してくれた企画として感謝している。メッセージを持ったものや社会問題を扱ったものだけがそうなるわけではなく、美術は本来社会的政治的でもある。ひとりの“自由な”表現はいつもそこに絡めとられているわけで、決して自由にやれば自動的に成立するわけではない。それが成立するためには想像力が必要なのだ。副題として「想像力の復活としてのゴジラ」としたのはそういう意味もある。

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現代における「美術」の在り方を、このように考えて下さる方と、ご一緒の仕事ができたことを、心から嬉しく思いました。

そして、「亡霊はわたしにとってとても近くて親しい存在」という長沢さんに深く共感。
私たちは日々、「亡霊」とともに生き、彼らに守られながら過ごしているのだということを、丸木美術館に長く働くようになって実感しています。

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雨が降りしきる中でしたが、ギャラリーモモ両国から歩いて数分、横網町公園の東京都慰霊堂や復興記念館も訪れました。

この土地はもともと陸軍被服廠だったのですが、赤羽に移転後、東京市は跡地の公園化を進めていました。ところが、1923年9月1日に関東大震災が発生。周辺の下町一帯から多くの人が避難してきたところ、火災が広がり、逃げ場を失った3万8000人もの人々が亡くなりました。

震災後に遺体は火葬され、急遽作られた仮設の慰霊堂に収容されました。
やがて建築家・伊東忠太の設計によって、関東大震災による遭難死者約5万8000人の遺骨を納める納骨堂や慰霊堂が建てられ、1930年に完成。
翌1931年には復興記念館も建てられました。

しかし、1945年3月10日の東京大空襲で再び多くの犠牲者が出たため、敗戦後に納骨堂を拡張、多くの死者を合祀し、1951年に「東京都慰霊堂」と改称されたそうです。

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現在、慰霊堂は耐震工事中のため、堂内の一部しか見ることができませんでした。

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公園内には、中国仏教徒から寄贈された関東大震災の死者追悼の鐘「幽冥鐘」もありました。

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関東大震災で亡くなった小学校児童約5000人を悼む「震災遭難児童弔魂像」もありました。
制作は彫刻家の小倉右一郎。当時の学校長たちが弔魂像建立を呼びかけたところ、18万人を超える人々から1万4066円47銭の寄付金が集まったそうです。
ただし、初代の像は、戦時中の1944年に金属回収のために撤去され、敗戦後の1951年に小倉の弟子の津上昌平、山畑阿利一によって再建されたとのこと。

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震災後の混乱のなかで流言飛語によって命を奪われた多くの朝鮮人を追悼する「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」もありました。
震災後50年の1973年に建立された碑だそうです。

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公園内でひときわ目をひく花壇は、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。
碑の内部には「東京空襲犠牲者名簿」が納められているそうです。

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そして、1931年に建てられた東京都復興記念館。
重厚な歴史を感じさせられる、貫録のある建造物です。
1階には震災復興資料を陳列し、2階には徳永柳洲の油彩による「震災画」を主に展示する絵画室がありました。

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徳永柳洲(1871〜1936)は、岡山県に生まれ、二世五姓田芳柳に指示した画家。
1911年には満谷国四郎や与謝野鉄幹らとともに渡仏し、アカデミー・ジュリアンに学びました。

関東大震災のときには新宿・双葉町のアパートにいて、新宿御苑に逃れて一夜を過ごした後、翌日から被災地を歩いてスケッチを重ね、1か月後には震災の様々な状況をパノラマ画として描き、「移動震災実況油絵展覧会」を開催したそうです。

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復興記念館には、「徳永柳洲と大型震災画」図録(2014年8月発行)も販売していました。
巡回展は、1923年10月18日から21日まで富山市内の仏教会堂で開催され、「何れも傑作揃い 絶好の教育参考資料 学校方面の参観殺到」(10月20日付『富山日報』)と好評となったことで、その後、下新川郡の入善町や泊町でも開催。
日本各地やアメリカへも巡回したと言われているそうですが、富山県以外の開催地の詳しい情報はわかっていないようです。
どこか、原爆の図全国巡回とも重なるような話です。

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また、絵画室のなかに、徳永の絵のほか、一点だけ有島生馬の震災画が展示されているのにも興味を惹かれました。
画面中央に、柳原白蓮が着の身着のままで歩いていく姿が描かれているのです。

筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻であった白蓮が、社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちした「白蓮事件」は、テレビドラマなどで広く知られていることでしょう。
一時は龍介とのあいだを引き裂かれた白蓮は、震災の混乱のさなかに豊島区の龍介のもとへ駆けつけ、やがて子どもを呼び寄せて、一家で暮らすようになるのですが、生馬の震災画は、その白蓮の物語を主題にしているような作品です。

この絵画には、生馬自身や、竹久夢二、藤島武二、島崎藤村、安井曽太郎、大杉栄など錚々たる人びとが描き込まれているのも興味深いところです。
大杉栄は震災後に伊藤野枝、甥で当時6歳だった橘宗一とともに憲兵に連行され殺害されています。

関東大震災後の日本がたどった運命を、再び、現在の私たちが繰り返していくのかどうか。
もちろんそうあってはならないわけですが、社会の空気は大いに不安なところもあります。
ともあれ、思いのほか多くのことを考えさせられた、震災画の鑑賞でした。
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2014/11/19

今日の反核反戦展2014/中島晴矢個展「上下・左右・いまここ」  企画展

「第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」展も無事終了し、日曜日は大勢のボランティアや反戦展実行委員会スタッフの方がたにお手伝いいただきながら展示替え作業。

1年間のお休みを経て、今年から実行委員会形式となった「今日の反核反戦展2014」は、16日、18日と2日間の作業でようやく展示がほぼ完了しました。

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今年の出品作家は60名+4グループ。
それぞれの思いを込めた、「反核反戦」をテーマにした展示が、会場いっぱいに並びました。

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芸術は断じて権力に利用されてはならない。
権威になびいてはならない。
何ものにも冒されてはならないのだ。
むしろ、でき得ればこちら側があちらを変えるくらいの力を見せたいものである。


出品作家であり、呼びかけ人でもある池田龍雄さんの言葉です。

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描かずにはいられない、表現せずにはいられない、時代への危機感を、展覧会を通じて感じて頂くことができるでしょうか。

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展覧会は20日からはじまりますが、オープニング・イベントは11月22日(土)12時30分から行われます(参加自由、当日の入館券が必要です)。
22日に行われる予定のパフォーマンスは以下の通り(順番は未定)。

■大橋範子『human possibility』
■『日本国憲法全文朗読会』 村田訓吉(歌と舞)、坂本美蘭(音楽・歌)、小森俊明(音楽)、坂田洋一(記録)
■SYプロジェクト『ゼロベクレルプロジェクト』 内田良子(朗読)、万城目純(ダンス)、清水友美(ダンス)、石川雷太(サウンド)
■ZEROVOID『Requiem for a Bad Dream』 圓城寺俊之+ナカガワユウジ(ノイズサウンドインスタレーション)
■奈良幸琥
■黒田オサム(ほいと芸)
■スタジオ・ヴォイド/岩田恵(筝)+阿部大輔(尺八)


   *   *   *

また、2階アートスペースでは、美術評論家・福住廉氏の企画による中島晴矢個展「上下・左右・いまここ」も特別開催。
ラッパーにして現代美術家という中島さんによる展示は、「反核反戦展」に今までにない刺激的で新しい風を吹き込んでいます。

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会場でまず目に入るのは、中島さん自身が歌うラップ・ミュージックの映像作品《イマココ》

無数の大惨事以後 詩を書くことは野蛮さ/弱肉強食のこの世はまるでサバンナ/マスじゃなくコアなメディアだってプロパガンダ/かもしれない 気づきゃまたコメカミにガンか?

過去の栄光に浴さんと大政翼賛/売り歩く原子炉は大抵国産/そろばん弾いて取らぬタヌキの目算/「この武器は今がお買い得ですよ奥さん!」/おカミさんの描く餅はおしなべてキナ臭い/息の詰まる社会によるカミカゼ式スーサイド/「強いられてんの未だに!?」/これっていわばジェノサイド?

上下! 首振って階級をシェイク/左右! 腰揺らし両翼をブレイク/この現代は嘘も偽りもねぇ/いまここ、いまここ


韻を踏みながら小気味よく今の日本社会の鬱屈した空気感に切りこんでいく歌詞に、おお、面白い作品だぞこれは!とすっかり感心してしまいました。
平成世代の若者もなかなかあなどれませんね。

丸木美術館にラップ・ミュージックが流れるのは、おそらく初めてのこと。
《原爆の図》の空間とうまく溶け合うのかどうか、少々心配もしていましたが、あまりに異なる方向性の表現が案外共鳴するということも過去に経験があるので、ともかく、来場者の反応を楽しみに見てみたいと思っています。

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また、その他の壁面には、ナチスへの募金広告や国民的アイドルを起用する自衛官募集CMなどのパロディ《Japan Collective-Self-Defense Forces》や、三島由紀夫とレディ・ガガを混合させ、戦後日本の「アメリカの影」を表現した《THE FAKE MONSTER》、あるいは《日の丸―陥没、漏洩―》《世界後核戦争宣言》といった挑発的なタイトルの作品もならんでいますが、これらの作品は言葉で説明するよりも、ぜひ会場で実際に目にして頂きたいところです。

ともあれ、展覧会の開催にこぎつけた実行委員の皆さまの努力、そして福住さん、中島さんのご協力に、心から感謝いたします。
新しく生まれ変わった「今日の反核反戦展2014」、どうぞ、お見逃しなく。
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2014/11/8

映画『放射線を浴びた〜X年後』上映会  イベント

午後2時より、映画『放射線を浴びた〜X年後』(南海放送、2012年)の上映会を行いました。

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この日は朝からボランティアのMさん、Hさんが来てくださり、美術館のスタッフとともに建設会社の足場を運びいれて新館ホール内にやぐらを組んで大型スクリーンを設置。さらに屋根に上がって外側から天窓に暗幕を張るという大がかりな作業を手伝ってくださいました。
雨が降らなくて本当によかったです。

映画『X年後』は、1954年に米軍が行ったビキニ水爆実験によって多くの漁船が「被ばく」したにもかかわらず、日米政府間の政治決着によって歴史の闇に葬られていた船員たちのその後の実態を、高知県の教師と高校生たちが丹念に調査し、明らかにしていく過程をたどった貴重なドキュメントです。
第五福竜丸の被ばくが明らかになり、国際的なニュースになったことは、世界の核の歴史にかかわる重要な事件でしたが、もちろん、そのとき太平洋で操業していた漁船は第五福竜丸一隻だけではなかったのです。

しかし、米政府が第五福竜丸の乗組員に「見舞金」を支払い、以後の責任を一切取らないという条件で結ばれた政治決着によって、やがて次々と早逝していった多くの船員の被害は誰にも知らされず、人びとの記憶からも抜け落ちていくことになりました。

映画のラストシーンで「一番弱い立場の人にしわ寄せがくる」とつぶやく残された家族の言葉が、耳に残ります。
こうした悲しい出来事は、ビキニ事件だけではなく、水俣でも、福島をはじめとする原発でも、常に繰り返され続ける問題でもあります。

丸木夫妻は、《原爆の図》に続いて、《水俣の図》や、さらに原発や空港問題と結びつけた《水俣・原発・三里塚》といった共同制作を描きましたが、今の時代であっても、その問題意識の深さをあらためて考えさせられます。
その大きな壁画の前で『X年後』を上映したいという思いは、ずっと持ち続けていたのですが、配給のウッキープロダクションのご厚意によって、ようやく実現させることができました。

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映画のあとは、この日、急きょ愛媛県から駆けつけてくださった伊東英朗監督のトークもありました。
伊東監督は、南海放送のディレクターとして、核実験によって日本全土が汚染されていた実態を調査した「続X年後」、さらに沖縄にも調査を進めた「X年後3」と、精力的にすぐれた番組を制作し続けてきました。
11月下旬には、講談社から『X年後』の調査の課程をまとめた書籍も刊行予定とのことで、たいへんお忙しいなかでしたが、わざわざ朝一番の飛行機で駆けつけて下さったのです。

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さらに、獨協大学2年生の長嶋楓さんも、今年3月に「マーシャル諸島研究団員」のひとりとしてマーシャル諸島を訪れた体験や、出身地の福島市で感じている率直な思いなどの発表、そして南相馬の詩人・若松丈太郎さんの未発表詩の朗読も行ってくださいました。

会場には雑誌編集者や某有名ファッションデザイナー、新聞記者、小学校教師などさまざまな方が来場して下さり、お二人それぞれへの質問も白熱して、充実した上映会になりました。

夜は参加者やボランティアといっしょに監督を囲みながら、市内の焼きとり店で打ち上げ。
とても楽しく、知的刺激にあふれた時間を過ごすことができました。
お世話になった皆さまやボランティア・スタッフ、会場を訪れて下さった多くのた方々に心から御礼を申し上げます。
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2014/11/5

『朝日新聞』に原爆の図紙芝居についての紹介記事掲載  掲載雑誌・新聞

“原爆の図 訴え続ける 米出身の詩人、紙芝居に”
―2014年11月5日付『朝日新聞』朝刊(大阪本社版)

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11月2日に丸木美術館で行われたアーサー・ビナードさんの講演会を取材したH記者が、《原爆の図》を紙芝居として語りなおそうとするアーサーさんの試みを記事にして下さいました。
以下のWEBサイトで記事全文を読むことができます(要無料会員登録)

http://www.asahi.com/articles/ASGC44HCTGC4PTIL017.html

記事の一部分を抜粋いたします。

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 ビナードさんは1990年に米国から来日し、6年後に広島へ。「原爆投下は間違っていた」と考え、核廃絶への思いを込めた詩や絵本を手がけるようになった。原爆の図を見た時には「人を巻き込む力」に圧倒された。美術館側の許可を得て撮った写真を使い、紙芝居を作り始めた。

 2日に披露したのは、試作「やわらかい はだ」。主人公は第1〜15部からなる原爆の図の9部「焼津」に登場する女の子だ。「焼津」は米国のビキニ水爆実験で被曝(ひばく)した第五福竜丸を題材にした作品で、ビナードさんは「絵の女の子を見つめると、彼女の声が聞こえて動き出した気がした。この子に語ってもらいたいと思った」と話す。

 試作では、原爆放射線で細胞を傷つけられた家族やイヌ、ネコ、草木、花に思いをはせる女の子の言葉をつむいだ。「原爆の図は一貫して『生き物の肌』を描いている」とみるビナードさん。生きたいと思う被爆者の思いをこう表現した。

《あたらしい はだが つくれなくなったら

 わたしたち みんな どんなかおになる?》

 「原爆の図の前に立ったとき、分かったつもりでいた原爆のことを実は理解できていないと気づきます。私たちが広島、長崎について知っていることは氷山の一角」と話すビナードさんは、紙芝居が被爆地について改めて知ろうとするきっかけになればと考えている。


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また、被爆70年に向けての《原爆の図》アメリカ展示の記事も掲載して下さいました。
こちらは広島局のO記者の担当でしょうか。
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が来年4〜5月に米ニューヨークで開かれる核不拡散条約(NPT)再検討会議の期間中に、国連本部で原爆の図第15部《長崎》の複製を展示する計画もあわせて紹介されています。

取材してくださったお二人の記者に、心から感謝いたします。
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2014/11/2

アーサー・ビナードさん講演「やわらかい はだ」  イベント

午後2時より、詩人のアーサー・ビナードさんをお迎えして、「やわらかい はだ 原爆の図は本当に原爆を描いているのか」と題する講演会を行いました。

アーサーさんは、《原爆の図》を独自の物語で再構成した紙芝居『やわらかい はだ』を来年春に童心社から刊行される予定です。

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「美術作品をずたずたに切ることは、本当は許されることではない」という話題から話しはじめたアーサーさん。
しかし、90年代に《原爆の図》を初めて見たときの衝撃は、「見る」ではなく、「巻き込まれる」体験に近かったと振り返り、その“引力”は来日して初めて体験した紙芝居の“引力”とつながると考えたそうです。

《原爆の図》の人物は、絵を見る私たちとほぼ同じ大きさであり、息づかいや肌触りが伝わってくる。「見る」だけでなく「見返される」。現場に分け入っていく体験は、まさに「紙芝居だ」……。

あるとき、童心社のS会長に「《原爆の図》は巨大な紙芝居なんだよ!」話したところ、「では、いまの絵本(当時は『さがしています』を制作中だった)ができあがってから、《原爆の図》の紙芝居を作って下さい!」という話に進んでいったとのこと。

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紙芝居制作にあたって、アーサーさんは、《原爆の図》とは何か?ということをゼロから考えはじめたそうです。
以下、アーサーさんのお話しの中から、そのくだりを抜き出して抄録としてお伝えいたします。

   *   *   *

《原爆の図》ってタイトルは、間違っていると思う。
ある意味パッケージとしてわかりやすいというメリットはあるけど、つきつめていくと、タイトルとして間違っている。別にタイトルを変えようという乱暴なことを考えているわけじゃない。
でも、ぼくの内なる声は、「原爆の図 丸木美術館」って聞くたびに、「原爆の図じゃない」って言ってる。

丸木夫妻が《原爆の図》を発表した1950年代は、GHQのプレスコードがあって、今の日本語の「原爆」より、もっと違った力を発揮する言葉だったかも知れないけれども、ぼくは、「原爆」は英語のAtomic Bombが翻訳された言葉だと思うので、「ピカ」の方が立ち位置として重要な意味を持っている。

ぼくらが相生橋や本川小学校に立っていれば、「はだしのゲン」と同じように「ピカ」だと感じたはず。
「原爆」っていうと、下手するとエノラ・ゲイに乗っている視点になりやすい。
「キノコ雲」がぼくは嫌いなんだ。
だって「キノコ雲」は、自分は直接焼かれない、当事者じゃない立ち位置の人しか見えない。
丸木俊さん、位里さんは「キノコ雲」を描いていない。だって、そんなの見えない。
本川小学校に立っていたら、真っ暗闇の地獄なんだよ。
何が「キノコ雲」だよ。キノコの形してない。
「ピカ」という言葉は、この《原爆の図》という絵の描いている視点の、基本的な立場なんですよね。

でも、《原爆の図》というタイトルは……「図」っていうのも気になる。
「図」には幅広い意味があって、例えば、「リトル・ボーイ」の図面、あるいは「ファットマン」の図面というふうにもとれる。
原爆の図を英語にそのまま訳したら、Atomic Bomb Panels、あるいはAtomic Bomb Blue Print……原爆を描いた図面という意味にもとられるから、英語で《原爆の図》は、Hiroshima Panelsという訳なんですね。
それだけ幅の広い意味を持ってしまうから、《原爆の図》というタイトルは、作品の本質を表現しきれていないとぼくは思う。

《原爆の図》は原爆を描いているんじゃなくて、人間を描いている。
「人間の図」って言っていもいいくらい、人間が中心。
もちろん、どの作品も、人間以外の生きものが登場して、人間とまったく同じ、生き物同士であるということも、絵から伝わってくる。
犬と猫もたくさん登場する。もしかしたら人間の次に一番多いのはカラスかも知れない。馬も、牛も描かれている。
「人間の図」じゃなくて、「生きものの図」と言ってもおかしくない。

そこが、丸木スマさんの絵の底に流れているものと基本的にいっしょなんですね。
スマさんも生きものをいっぱい描いていて、生き方、基本姿勢がそこにあらわれている。
《原爆の図》も、つきつめると「生きものの図」。
この生きものを徹底して焦点を当てて描くというところに、《原爆の図》は一番重要な問題提起が潜んでいる。

原爆の話をするときに、ついぼくらは、核分裂をやった側の視点になってしまう。
意識もしないまま、物理学者の視点に引きずり込まれてしまう。
福島の原発事故と向き合うときも、つい、原発を進めて作って壊してメルトダウンさせた側の視点になる。
どうしてかというと、彼らは「専門家」として多くの情報を握っていて、小出しにしてくる。
物理学を学問として否定するわけではないけれども、物理学者の話を聞いて、広島のことがわかるかというと、とんでもない話。
物理学者は、ウラン235の核分裂の話や、プルトニウムの話はできる。
でも、物理学者は、人体の苦しみや、犬や猫たちの体験を知らない。

御用学者は自分が生きものだってことを忘れて、原子になっているつもりで話している。
だけど、原爆のときに現場で何が起きてたか、その話の99%は生物学。
生物が問題。生きものの話をしなければ何の意味もない。
地球は生きものがいるから地球。
広島は人がいて、生活していたから広島。
それを抜きにして、ウランの核分裂によってどれだけの熱が出たかを語っても、それで原爆を語ったことにはならない。
原爆は、生きものの話を語らなければ、本質が何も見えない。

それを誰よりも実感して、作品として世に突きつけたのが、丸木俊さんと位里さん。
《原爆の図》で俊さんと位里さんが突きつけてくるものは、「生きもの」なんです。
そこに、もしかしたら《原爆の図》っていうタイトルの凄さが潜んでいるかもしれない。
つまり、《原爆の図》だと思って、見に来たら、人間が迫ってくる。生きものが迫ってくる。
「原爆」って生きものの話なんだっていうことを、衝撃的に突きつけられる。

もしかしたら、このタイトルはかなり巧妙な「だまし」かも知れない。
《原爆の図》だと思って体験してみると、物理学じゃないんだ。
自分は、カラスと犬と猫とヒマワリと、木々と、馬と、牛と同じなんだ。
生きものはみんないっしょ。生きものは核分裂の前で同じになってしまうっていうことを、理屈じゃなくて感覚として学べるような気がします。
ぼくはそのことに紙芝居を作っていくなかで実感して、『やわらかい はだ』というタイトルが出てきたんですね。


   *   *   *

講演会の冒頭で、アーサーさんは、完成間近の紙芝居『やわらかい はだ』の実演をして下さいました。
その後、会場の方がたと、感想について、やりとりをする場面もありました。

詳しい内容については、この学芸員日誌では触れませんが、これから、さらに推敲を重ねて、最後の最後まで、アーサーさんは作品を深め続けていくことと思います。
果たしてどんな紙芝居に仕上がっていくのか、来春の刊行を楽しみに待ちたいと思います。

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今回、アーサーさんの仕事を見ながら感じたのは、アーサーさんが、すでにある絵を再構成して作品化するという、新たな紙芝居の実験を試みていると同時に、《原爆の図》そのものを先入観を取り払って、新鮮な目で見つめ直そうとしている、ということです。

それは、新たな物語の掘り起こしであると同時に、実は《原爆の図》の本質をより深く読み解いていく作業でもあるのではないか、と思いました。
アーサーさんの眼を通じて、多くの方が《原爆の図》を再発見し、絵の世界を「探検」するきっかけになれば、とても嬉しく思います。

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「《原爆の図》からは、100人いれば100通りの物語が生まれる」とアーサーさんはおっしゃいましたが、個人的には、作者自身がすでに《原爆の図》から新たな物語として編み直していた、1980年発行の絵本『ひろしまのピカ』(小峰書店)の物語としての完成度の高さを、あらためて考える機会になった気がします。

果たして、アーサーさんの『やわらかい はだ』は、『ひろしまのピカ』に迫り、超えていくことができるのでしょうか。

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会場には、大勢の観客の方がたが足を運んで下さり、また、新聞社やテレビ局の取材も閉館時間過ぎまで熱心に続きました。
ご来場くださった皆さま、そして駐車場整理や車の送迎、会場受付などで働いて下さったボランティアスタッフの方がたにも、心から御礼を申し上げます。
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2014/11/1

雨のスリーデーマーチ  イベント

あいにくの雨となってしまった第37回日本スリーデーマーチ。
毎年、丸木美術館では、長野直送の新鮮なりんごジュースの販売をしているのですが、今年は残念ながらあまり売り上げが伸びませんでした。

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ボランティアのNさん、Aさんも、あいにくの悪天候のなか、一所懸命に販売して下さいました。どうもありがとうございました。

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丸木美術館の出店のほかにも、ソフトクリームやたい焼き、蒸しパン、甘酒、ミネストローネ、チャイなど美味しそうな出店もたくさん出ていたんですけどね。
まあ、こんな年もあります。

雨にも負けず歩き続けた参加者の皆さん、本当にお疲れさまでした。
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