2014/9/30

『股間若衆』から《原爆の図》へ  書籍

愛知県美術館の「これからの写真」展に出品された鷹野隆大さんの作品をめぐる騒動をきっかけに、木下直之著『股間若衆 男の裸は芸術か』(新潮社、2012年)を読みました。

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鷹野さんの騒動の際にも引き合いに出された、1901年の第6回白馬会展における黒田清輝の《裸体婦人像》の有名な「腰巻事件」をはじめ、おもに明治以後の男女の裸体表現の歴史を、ときにユーモアを交えて考察する一冊です。

美術品であることは、実は「錦の御旗にはならない。〔中略〕いくら美術品であることを主張したところで、いつ官憲の基準が変わるかわからないからだ。いやもっと恐ろしいのは、市民感情というやつである。「美しい」から「いやらしい」へ、いつ振り子が振れるかわからない。〉という冒頭の一節は、愛知県美の「新腰巻事件」を先取りするような指摘で、非常に興味深いのですが、読み進めていくうちに、私の関心はこの書籍の主目的とはやや異なる方向に広がっていきました。

それは、駅前という公共空間を中心に、戦後、美術館から野外へ進出していった裸体彫刻の問題です。
もちろん、戦前にも駅前に彫刻が設置される例はありましたが、東京駅前の“鉄道の父”井上勝のフロックコート姿の銅像や、万世橋駅前の広瀬中佐・杉野兵曹長の軍服姿の銅像など、着衣型の彫刻で、その衣装がそのまま社会的地位をあらわすものでした。

しかし、戦後に広がった駅前彫刻の特徴は、衣服を身に着けず、特定の人物を顕彰するのではない、象徴化された無名の人間像だったということです。
『股間若衆』に紹介された彫刻から例を抜き出してみます。

松村外次郎・渡辺義知ほか《平和群像》、富山駅前、1949年
長沼孝三《愛の女神》、上野駅前、1949年
本郷新《汀のヴィーナス》、上野駅前、1950年
分部順治《平和》《建設》、前橋駅前、1953年(戦災復興記念塔)
中川為延《女神像》、別府駅前、1954年
横江嘉純《愛(アガペー)》、東京駅前、1955年(BC級戦犯慰霊碑)
朝倉文夫《青年像》、大分駅前、1956年
野々村一男《青年像》、名古屋駅前、1958年
作者不詳《躍進工業蒲田》、蒲田駅前、1962年
難波孫次郎《若き心》、本厚木駅前、1977年
安西順一《地 郷愁》、稲毛駅前、1984年(快速電車稲毛駅停車記念)
分部順治《希》《望》、高崎駅前、1992年設置
川崎普照《未来への讃歌》、赤羽駅前、1993年


もっとも、こうした駅前彫刻の多くは、現在では、度重なる再開発によって撤去あるいは移動されています。戦後の日本社会の発展は、文化理念から利便性、商業主義へと価値を移していったことが、駅前の変化から浮かび上がってくるようです。

ともあれ、野外の裸体彫刻の広がりは、駅前だけではなく、大学や公園などにも見られるようになります。同じく『股間巡礼』で紹介された作品を抜き出します。

菊池一雄《青年》、慶応大学、1949年
乗松巌《自由の女神》、日比谷公園、1950年
早川巍一《白鳥と少年》、昭和通三原橋交差点、1950年
朝倉文夫《生誕》、上野公園、1951年
本郷新《わだつみのこえ》、立命館大学国際平和ミュージアムなど、1950年
朝倉文夫《平和来》、慶応大学など、1952年
北村西望《長崎平和祈念像》、長崎平和公園、1955年(長崎原爆投下10周年記念)
菊池一雄《自由の群像》、千鳥ヶ淵公園、1955年
朝倉文夫《友》、関西大学など、1955年
難波孫次郎《平和の像》、湘南海岸公園、1965年(殉国英霊遺族の会の創立15周年記念)


タイトルだけの紹介ですが、こうして並べていくと、彫刻作品のほとんどが、「自由」と「平和」といった、戦後期を象徴する理念を主題にしていることがわかります。

裸体彫刻というと、ともすれば女性像を思い起こしてしまいますが、本郷新の《わだつみのこえ》に代表されるように、平和を象徴する男性像も決して少なくありません。
《わだつみのこえ》には興味深いエピソードがあり、当初、日本戦没学生記念会(わだつみ会)からの依頼で東京大学構内に建立する予定だったのが、大学評議会の反対によって、わずか4時間で撤去されたというのです(その後、1953年に本郷のアトリエから立命館大学に移され、1969年に学生によって破壊されるという事件を経て、再制作された像が現在、立命館大学国際平和ミュージアムに設置されています)。
その主な理由が、「本学としては学術上及び教育上本学に対し特に顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたものに限る」ということでした。
本郷が《わだつみのこえ》に込めた思いは、『股間巡礼』にも記されているように、「戦場に送られ、倒れた若者たちに、もうどんな衣服も着せたくはなかった」というもので、つまり、功労者でも何でもない、無名の若者の象徴としての裸体像という、東京大学評議会の彫刻設置に対する理念とは、正反対だったわけです。

こうした思いは、本郷のみならず、戦後の裸体彫刻の多くに共通するものだったでしょう。
国家や社会に貢献した個人の顕彰ではない、ありのままの人間の象徴が、裸体という表現に結びついていたようです。

   *   *   *

こうしたことを考えているうちに、私の頭には、丸木俊(当時は赤松俊子)の油彩画《裸婦(解放されゆく人間性)》(1947年)が浮かんできました。

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この絵画も、人間として(女性として)、戦時下の抑圧から解放された喜びと、新たな時代を築き上げていこうという希望が込められた裸体像で、《わだつみのこえ》などとほぼ同時代に描かれています。

もっとも、俊の場合は、明るく健康的な人物像を描きたいという願いとは逆に、若者たちに戦争による心の傷が残されていたことに気づき、また、米軍の占領政策の転換によって、戦後の「解放」が米軍管理下の限られた「解放」であったことにも気づいて、“よろこびの裸婦像”から“哀しみの裸婦像”すなわち《原爆の図》の構想に向かっていくのです。

俊の裸体表現が、1940年に訪れた「南洋群島」ミクロネシアでの体験に基づくもので、「人間の裸は美しいという芸術観が、「裸」の人間は美しいという人間観、いわば性善説的なヒューマニズムと同義だった」ということは、小沢節子さんが指摘されています(『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』、岩波書店、2002年)。

そうした個人的体験に基づく表現と、戦後に広がった同時代の野外彫刻に代表される芸術表現の精神性が、このように呼応しているということに、あらためて気づかされました。

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俊は同時期に《広島日本製鋼事件によせて》(1949年)という、労働争議の現場に、やや唐突とも思える裸婦像を配した作品を描いているのですが、権威に抗する普遍的な人間像としての裸体と解釈すれば、腑に落ちる気がします。

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そして、《原爆の図》に描かれた裸体群像も、もちろん、熱線によって衣服が焼け落ちたという現実的な状況も大きいのですが、それだけではなく、原爆によって命を奪われた無名の死者たちの集合的記憶が反映された、普遍的な人間像として解釈することができるのではないかとも思いました。

《原爆の図》は、人間群像による戦争表現という視点で、藤田嗣治の戦争記録画、たとえば《アッツ島玉砕》(1943年)や《サイパン島同胞臣節を全うす》(1944年)との連続性を指摘されることがしばしばあります。
しかし、あらためて見直すと、着衣と裸体という点がまったく異なり、それは、戦時下に“忠節”を全うした死者の「顕彰」である藤田の表現と、戦後に死者を「追悼」する丸木夫妻の表現の、文脈の違いが大きく反映されているようにも感じられました。

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最後に、この時期の“裸体表現”のひとつとして、1940年に俊が「南洋群島」を訪れた際、現地の少女とともに撮影した有名な写真にも触れておきたいと思います。
この写真は、南の島で心身ともに解放された俊の姿を記録した微笑ましい一枚として知られています。

けれども、今回、裸体表現を考えていくうちに、衣装が人間の権威や立場を示すならば、この写真は、帝国主義下における植民地での、「支配する」側、「支配される」側というヒエラルキーを突き抜けて、同じ人間としての普遍的な関係に立っていることを示す、俊の精神を象徴する貴重な資料であると思うようになりました。

今年12月には、「赤松俊子と南洋群島」展も開催予定なので、裸体表現の持つ意味について、もう少しじっくり考えていきたいと思います。
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2014/9/24

中国新聞・朝日新聞に「ゴジラ展」記事掲載  掲載雑誌・新聞

韓国出張から無事に帰国したので、この間の「第五福竜丸/ゴジラ展」に関する報道をまとめておきます。

“芸術家が見る水爆・ゴジラ きょうから埼玉で企画展”
2014年9月13日付『中国新聞』より。

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以下のWEBサイトで全文を読むことができます。
記事のなかでは、「大きいゴジラ、小さいゴジラ」の展示を企画した長沢秀之さんの「ゴジラは60年前の核の恐怖から生まれた想像物。福島の事故の爪痕や不安も、別のゴジラとなりうる」というコメントも紹介されています。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=36214

   *   *   *

“ビキニ実験から60年 丸木美術館で「ゴジラ」展”
2014年9月19日付『朝日新聞』埼玉版より。

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こちらも、記事全文を以下のWEBサイトで読むことができます(要会員登録、無料)。
やはり長沢さんの「原発事故でゴジラがフィクションではなく現実的になってきたと感じた。子どもにも大人にも見てほしい」というコメントが紹介されています。
http://www.asahi.com/articles/ASG9J3QMTG9JUTNB00F.html

『朝日新聞』には、短い記事ですが、9月22日付夕刊にも紹介されました。
こちらは東京周辺の地域に掲載されているようです。
http://www.asahi.com/articles/ASG9L7KLHG9LUTNB01F.html

三重県立美術館のM館長も「面白い展覧会ですね。こういうやり方があるのかと思った」と褒めて下さいましたが、たんに怪獣の「ゴジラ」を取り上げるのでなく、現在につながる想像力としてとらえるという刺激的な内容の企画。
若い表現者も大勢参加していますので、ぜひ多くの方にご覧頂きたいと思っています。
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2014/9/22

【韓国出張C】臨津閣(イムジンガク)見学ツアー  調査・旅行・出張

韓国から日本への帰国の日になりました。
この日も早朝からバスに乗って、北朝鮮との国境にある臨津閣(イムジンガク)を目ざします。
ホテルから臨津閣までは高速バスで約4時間。

途中、休憩に立ち寄ったサービスエリアには、なんとバッティングセンターがありました。
料金は1,000ウォン(約100円)で16球。
こちらに来てからお金を使う機会もなかったので、さっそく挑戦してみることにしました。

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合図もなしでボールが飛び出してくるためタイミングを計るのが難しく、コントロールもあまりよくないマシンでしたが、久しぶりにボールを打つ感触は、やはり心地よいものでした。
ボールは軟式球で、日本よりはやや小さめのサイズ。韓国オリジナルの規格でしょうか。
2ゲームほど打ち込むあいだに、上空には軍用機が隊列を組んで2度通過していき、轟音が響いていました。

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仁川やソウルの都市部を通過し、北朝鮮との国境に近づいていくと、漢江沿いに延々と張りめぐらされた鉄条網や見張台が目にとまるようになりました。

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分断国家の現実が、窓の向こうに見える風景から伝わってきて、悲しい思いにさせられます。

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ときどき、見張台に警備の軍人の姿も見かけました。

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目的地に近づいてきたところで、韓国料理の店に入って昼食をとりました。
たくさんの小皿にならべられた料理は、韓国の家庭料理だそうです。
実は、今回の国際会議中、朝、昼、夕と三食ずっと、ほぼ同じメニューのバイキングだったので、この日の昼食は多くの参加者にとって、ささやかな喜びになりました。

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参加者のYさん、Hさんといっしょに食堂で撮影していただいた記念写真。
会議も終わり、皆さんリラックスした表情です。

   *   *   *

食事の後は、ついに臨津閣(イムジンガク)に到着です。
遊園地やショッピングモールがあって、思いのほか明るい観光地になっていました。
けれども、ここは北朝鮮と韓国の分断の地。
よく見るとフェンスが生々しく目の前をふさいでいます。

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望拝壇(マンベダン)という大きなモニュメントも設置されていました。
分断された家族への思いと南北統一を願って建てられたモニュメントだそうです。
だんだんわかってくるのですが、この地には、モニュメントがあちこちにありました。

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残念だったのは、飛行機の時間まであまり余裕がなく、ひとつひとつのモニュメントを解説してもらう時間がなかったこと。

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南北の統一を願うものから、朝鮮戦争時の韓国とアメリカの軍事活動を記念するものまで、さまざまなモニュメントが建っているなかを、平和博物館ネットワークの皆さんといっしょに歩いていきます。

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このとき、実はK理事長が行方不明になっていて、M夫人がずっと姿を探していました。
後から知ったのですが、K理事長は団体行動から外れて展望台に上がっていたようです。
われわれは時間がなくて、結局、展望台に上がれずに空港行きのバスに乗り込んだのですが、どうやらK理事長だけは展望台からの単独撮影に成功(?)したようでした。

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南北に引き裂かれた家族の再会の写真を紹介するモニュメントもありました。

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全体的には、社会主義リアリズムを思わせる力強い裸体像が、あちこちに目につきました。
戦争への意識を鼓舞しているようにも、平和への願いを込めているようにも、どちらにも見える彫刻群です。

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分断された線路と、その直前で停車中の機関車の展示もありました。
この鉄道も、本来は朝鮮半島を縦断する路線であったそうです。

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機関車のすぐとなりには、臨津(イムジン)駅の駅舎がありました。
もちろん、日本の植民地時代に敷設されたという歴史を背負った鉄道です。

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われわれ一行が展望台にも上がらずに、状況もよくわからないまま、ふらふらと歩いてきた理由は、南北統一を願う、人々が手をつないで輪になったモニュメントの前に来た時に、ようやくわかりました。

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色とりどりの風船が配られ、モニュメントの前で国際平和博物館ネットワークによる平和宣言文が英語と韓国語で読み上げられたのです。
そして、全員で最後の記念撮影。風船は、合図とともに一斉に大空に放たれました。

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まあ、正直なところ、こうした形式的な儀式よりも、時間の許す限り臨津閣のあちこちを見学したかったし、ここまで来たというのに、軍事境界線付近の非武装地域(そこは人間が入ってこないので、野生生物の楽園になっているそうです)を一望できるという展望台に上がらずに帰るのは、とても残念だったのですが……

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最後に、この会議の期間中、ずっと親しく話をして下さったアメリカ人の若者Mさんと、10年来お世話になっている神戸YWCAのTさんといっしょに、記念撮影。

ほとんど4泊5日の合宿のような状態のなかで、さまざまな人と出会い、心を通わせたことが、やはり今回の会議の一番の収穫でした。
会議を支えて下さった大勢の韓国人ボランティアスタッフの皆さんをはじめ、お世話になった皆さまに、心から御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
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2014/9/21

【韓国出張B】直指寺(チッチサ)/第8回国際平和博物館会議3日目  調査・旅行・出張

第8回国際平和博物館会議も3日目に入り、この日の午前中は気分転換に、ホテルから徒歩圏内にある直指寺(チッチサ)への観光ツアー。

朝から晩まで会議三昧、ホテルと会議の往復ばかりだったので、町歩きはとても新鮮でした。
露店を興味深く眺める一行のなかに、ビデオカメラを構えるK理事長の姿も見えます。

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尚北道金泉市の黄岳山にある直指寺は、新羅に仏教を伝えた高句麗の僧・阿度(アド)が418年に創建した、韓国でもっとも古い寺院のひとつだそうです。
直指寺という変わった名は、阿度が黄岳山を指して寺の創建を予言したことに由来するとか。

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新羅で最初に創建された桃李寺(トリサ)より創建年代は遅いので「最古ではない」とのことですが、「東国第一伽藍黄嶽山門」と記されている通り、荘厳な雰囲気の寺院です。

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山門の手の込んだ彫刻、彩色の素晴らしさには目を奪われました。
平和博物館ネットワークのメンバーは、英語ガイド、日本語ガイドのふたつのグループに分かれて、なかに入っていきます。

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緑豊かな参道を進んでいくと、大陽門。「太陽」ではなく、陰陽道の「大陽」だそうです。
日本語通訳ボランティアのキムさんは、他のボランティアに比べて年長ということもあって、直指寺の解説案内では、豊富な知識で大活躍して下さいました。
キムさんとはバスの中で話をする機会もあったのですが、日本の城めぐりが趣味とのこと。
朝鮮半島は国内では戦乱のない時代が長かったので、あまり城跡が多くないそうです。
ちなみに日本の城で一番のお気に入りは姫路城、次いで熊本城とおっしゃっていました。

大陽門の扉には、日本の寺院の仁王像のような、力強い二人の男性像が描かれていました。
門の守護の役割を果たしているのでしょう。
以前に日本民藝館で見た朝鮮民画を連想しますが、伸び伸びとしていて、ちょっとユーモラスな、とても良い感じの絵です。

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直指寺の本殿にあたる「大雄殿」は、韓国の文化財に指定されている、立派な建物です。
1735年に再建されたもので、内部は再建当時のまま残されています。

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「大雄殿」の内部には、釈迦牟尼仏を中心に薬師如来と阿彌陀仏の三尊仏像が安置され、建物の細密な彫刻や彩色による装飾の素晴らしさには圧倒されます。

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さらに奥へと進んでいくと、「毘盧殿」にたどり着きます。
ここは韓国ではとても有名な観光スポットなのだそうです。

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なぜかというと、中には1,000体もの「現世仏」が安置されており、その中に1体だけ、「誕生仏」が立っているのです。
そして参拝者が堂内に入って、最初に「誕生仏」が目に入ると子宝に恵まれ、男の子を授かる(!)という言い伝えがあるとか。

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国際平和博物館会議に参加している、とりわけシニア世代の女性たちは、ジェンダー的視点からの厳しい批判もしつつ、きゃあきゃあと大盛り上がりで参拝していました。
上の写真のなかにも、「誕生仏」が写っていますが、ちょっと見つけにくかもしれません。

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もっとも、私が惹かれたのは、「毘盧殿」の外扉の花模様の格子。
「色彩も鮮やかだし、ずいぶんモダンなデザインだね」
「たぶん色は新しく塗り直しているはずだけど、彫刻は古い時代のものかもしれない」
と、前日の分科会で知り合った韓国のパクさんと感想を話しながら見入っていました。

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しばし観光の時間を楽しむと、またノグンリ平和公園に戻って、国際会議の再開です。

   *   *   *

前日から数えて4回目の分科会では、「ウィーン平和博物館」の試みを行っているエリザベス・ブロジェットさん、「シエラレオネ平和博物館」の展示を手がけたセス・フランケルさん、そして日本の「中帰連平和博物館」の松村高夫さんのセッションに参加しました。

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「ウィーン平和博物館」は、“世界初のストリート博物館”というユニークな活動でした。
入場料を払わなければ中に入れない博物館ではなく、街角の窓に平和を象徴する150人以上の“ピース・ヒーロー”を紹介する写真や文章などの展示を設置するという新鮮な試み。
道を行く者誰もが平和の展示を目にすることができるというアイディアです。
ウィーンでは6月17日にオープンし、現在はパリやリスボン、ソウルなど国外でも「平和の窓」プロジェクトの計画が広がっているそうです。

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そして、セス・フランケルさんの発表は、内戦の責任者を処罰するために設置されたシエラレオネ特別法廷を、平和博物館として再生させるという、たいへん興味深い内容でした。
内戦の原因や歴史を捉えなおし、荒廃した国の再生と平和構築を目指すという大事業。
フランケルさんとは前日の朝食でいっしょになって、同じ3人の子持ちということで家族の話などを楽しんだのですが、米国ではスミソニアンなどの大規模な博物館設計・展示コンサルタントを務める優秀な実力者だということを、後から知りました。
そんな方がアフリカの博物館の支援をしているというのが、米国の奥深さだと感心します。

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昼食後には、国際会議の参加者が全員そろって、記念撮影。
なかなか凄い光景ですね。

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そして午後からはいよいよ最後の分科会です。
立命館大学国際平和ミュージアムのボランティアガイドを務める谷川佳子さん、無言館の林数馬さん、そして神戸松陰女子学院大学の池田清先生と神戸YWCAの寺沢京子さんによる「過去から学び未来をつくる」という発表を聞きました。

とりわけ興味深かったのは、池田さんと寺沢さんの発表でした。
というのも、池田さんは経済学を専門とする教授で、貧困・格差、国家債務の増加などの点で現在の日本が1930年前後の状況と類似していると指摘する、これまでの日本の平和博物館会議では、あまり聞く機会のない経済学的視点からの発表だったのです。

発表後の討論ではフロアからやや批判的な質問も出ましたが、個人的には、今後の平和博物館には平和学や歴史研究だけでなく、さまざまな専門領域からの視点が入ってくると面白いのではないかという新しい可能性を感じました。

   *   *   *

最後の休憩は時間を持て余したので、会議場の外へ出て、グラウンドに転がっていたボールを蹴りはじめたのですが、しばらく一人で蹴っていると、やがて一緒に蹴ろう、という仲間が自然発生的に現われて、心地よい汗をかきました。
さすがフットボールは世界の共通語。言葉ではなく、スポーツを通して世界と交流するという体験を、久しぶりに味わいました。

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3日間におよんだ会議もいよいよ最後が近づき、全体会のシンポジウム。
ノグンリ国際平和財団理事長のチャン・クドー氏、ロサンゼルスの寛容博物館長のリーベ・ジェフト氏、コスタリカ平和博物館設立プロジェクトのマヌエル・アラヤ・インセラ氏、ゲルニカ平和博物館財団理事長のイラッチェ・モモイショ・アストルキア氏(写真)らのスピーチが次々と行われました。

国際平和博物館会議への参加も3度目となり、少し周囲を見渡す余裕も出てきたのですが、世界の平和博物館のうち、やはり経済的に力があるのは、自国の受けた被害を展示する施設が多いということに気づきました。
ゲルニカやノグンリ、ユダヤ人のホロコースト、日本で言えば広島、長崎などです。
被害の告発に関しては、どこの国でも、理解や経済的支援が得やすいのでしょう。

けれど日本には、戦争の加害と被害の両面を真摯に考える平和博物館がいくつもあります。
それらの施設は十分な理解や支援が得られず、運営の厳しいところがほとんどです。
もちろん、丸木美術館もそのひとつなのですが。

立命館大学の山根和代さんによれば、国際平和博物館ネットワークのピーター・ヴァン・デン・デュンゲン代表は、「日本は平和博物館運動がある唯一の国である」と言われたそうです。
それだけ69年前の戦争の傷は、私たちに、戦争とは何か、平和とは何かを、深く考えさせ続けているのでしょう。

こうした国際会議は、日常を離れ、自身の仕事を相対化することのできる貴重な機会です。
そして、自身の暮らす国をも相対化することのできる機会と言えるのかもしれません。
たくさんの刺激や、新たな視点に触れ、しかし、もとの変わらぬ日常に戻って、矛盾を抱えて葛藤しながら、少しずつでも前に進もうと努める。
平和博物館の活動は、そうした地道な作業を繰り返すことで、続いていくのだろうと思います。

   *   *   *

続いて、紙芝居文化の会の野坂悦子さんによる平和紙芝居『二度と』が上演されました。
野坂さんは、世界じゅうに紙芝居の面白さを伝え、広げる活動をしています。

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そして、この日もまた、韓国の演奏家たちによるアンサンブルが行われました。

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大きな拍手のなか、アンコールの一曲は、やはり朝鮮民謡「アリラン」です。

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国際会議の期間中、同じノグンリで、各国の学生によるピースキャンプも行われていました。
最後に、そのピースキャンプの学生たちが「We are the world」の合唱を行い、盛大な拍手に包まれました。

長かった会議もこれでほぼ全日程が終了です。
最後の夕食には、地元名産のワインも出て、賑やかに楽しく、懇談が続きました。
ホテルに戻ってからも、私は立命館大学国際平和ミュージアムのボランティアグループの皆さんに誘われて、ロビーにワインを持ち込んでの打ち上げ会に参加。
ふだんなかなかお会いすることのできない関西方面の方がたとともに、夜が更けるまで、とても楽しい時間を過ごしました。

今回の国際会議のために、谷川さん、寺沢さんらボランティアの方がたは、海外の発表者の論文要旨を和訳した資料集を事前に準備して下さいました。
発表を聞くだけでは難しかった内容も、こうした手厚いサポートのおかげで理解を深めることができたので、多くの日本人参加者はとても助けられたことでしょう。
「会議言語が英語だという理由で、日本からの参加者が豊かな経験や新たな発想を提起できないとすれば、それは一種の文化的暴力になりかねません」(「日本語資料集の編集にあたって」より抜粋)という安斎育郎さんと山根和代さんの発想に敬意を表しつつ、多くのボランティアの皆さまのご尽力に、心から感謝したいと思います。
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2014/9/20

【韓国出張A】第8回国際平和博物館会議2日目  調査・旅行・出張

韓国・ノグンリ平和公園で開催されている第8回国際平和博物館会議の2日目。
この日も朝から平和公園に移動し、会議ホールで、まずポスターセッションです。

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沖縄の瀬長亀次郎の活動を紹介する不屈館や、高麗博物館アウシュビッツ平和博物館山梨平和ミュージアム女たちの戦争と平和資料館など、さまざまな施設とともに、丸木美術館もブースを借りて、ポスターや配布物のコーナーを設けました。

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ポスターセッションのあいだ、K理事長夫妻や私だけでなく、インドネシアの女子学生が、途中から丸木美術館のブースの前に立って、前を通りかかる人に熱心にチラシを配ったり、私が話した内容を覚えてしまって、丁寧に説明したりしてくれました。

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聞けば、子どもの頃に学校で原爆の話を聞いて、強烈な衝撃を受けたのだそうです。
おとなしそうな彼女のささやかな協力には、心が温かくなりました。

   *   *   *

11時からは分科会がはじまりました。
最初の分科会は、平和教育をテーマにしたセッションに参加しました。
川崎市平和館の暉峻僚三さんと立命館大学国際平和ミュージアムの兼清順子さん、そしてガリラヤ研究所・中東宗教研究センター長のショーシ・ノーマンさんの発表です。

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川崎市平和館は、従来の主催者側が情報を提供して利用者に伝えるという一方通行的な展示から脱却して、主催者と利用者をボーダレス化してともに平和を考える新しい双方型の試みを行っているという興味深い施設です。

日本の平和博物館をけん引してきた立命館大学国際平和ミュージアムは、2010年代に入ってからの課題と取り組みについての紹介で、学生の参画機会の増加など、世代を超えての平和継承に向けての試みや、3.11以後の新たな視点の企画の報告でした。

そして、ショーシ・ノーマンさんの報告は、現在も紛争の続くイスラエルにおける、ユダヤ人(イスラエル)とムスリム(パレスチナ)という異なる背景を持つ芸術家による、互いの抱える伝統や歴史・物語を作品として表現するという興味深いアート・プロジェクトでした。
「どんな国もどちらの歴史が正しいかを特定することなく他方の物語を受け入れることが可能であることを示すもので、こうした連携が他の紛争中の社会においても和解につながることを信じている」とノーマンさんは語ります。

もちろん、そうした試みが今すぐに社会を変える力を持っているかと言われると、簡単な話ではないと思いますが、小さな石を積み重ねるように、両者の和解を目指す活動をしている人たちがいるということは励みになります。
本来、文化の力とは、そういうものなのかもしれません。
文化的活動によって歴史を記憶し、和解を促進するという試みは、今回の国際会議で、その後たびたび耳にすることになりました。

   *   *   *

昼食をはさんで午後からの分科会では、いよいよ丸木美術館の発表です。
はじめに韓国の若いミュージアム・エデュケーターのパク・イェスルさんが、韓国における北朝鮮難民との対話や相互理解を促すアート・プロジェクトの試みについて報告しました。
興味深かったのは、このプロジェクトが、社会学、歴史学、芸術療法、博物館教育といった多様な分野の専門家によって進められているという点で、先のイスラエルおける取り組みを、さらに進化させた試みという印象を受けました。

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続いては、丸木美術館の発表。
すでに会場には原爆の図アメリカ展や丸木美術館の活動についてのチラシを配布しており、最初に小寺理事長がアメリカ展の取り組みや実現に向けてのお願いを呼びかけました。
その後、岡村がスライドを交えて、丸木夫妻の《原爆の図》制作の経緯から、最初のアメリカ展で加害と被害の交錯する戦争の問題に行き着いたこと、日本において朝鮮人被爆者の問題が表面化する時代に呼応するように、丸木夫妻も石牟礼道子さんの文章に触発されて原爆の図に《からす》という朝鮮人被爆者を主題にした作品を描いたことを紹介しました。

最後の発表者は、WAM(女たちの戦争と平和資料館)の池田恵理子さん。
台頭する歴史修正主義に対峙し、「慰安婦」問題をいかに伝えていくかという取り組みについての切実な現状報告でした。

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発表後の討論では、まず、パクさんから、芸術表現は和解や相互理解をもたらす力になり得るか、という質問が私に発せられました。
「それはわからない。直接的な力にはなり得ないかもしれないが、歴史からこぼれ落ちる個人の記憶として保存し、あるいは現状を考えるきっかけにはなると思う」と答えましたが、後から思えば、彼女なりに韓国内でのプロジェクトについて苦悩があったのではないかとも感じられました。その思いに沿った答えになったかどうかはわかりません。
もっとも、安易に「yes」とは言えない難しい問いではあったのですが……。

彼女からは、「この国際会議がはじまるまで、私は、日本人がみんな「慰安婦」を否定しているのだと思っていました。でも、そうではない人たちがいることを知りました」という、複雑な思いにさせられる発言もありました。
今回の会議で感じたのは、国際社会における「慰安婦」問題は、単に日韓のあいだの歴史観の論争では決してなく、ボスニアやウガンダ、コンゴなど性暴力が武器のように使われている状況につながる今日的な人権問題として捉えられているということでした。
日本で多数派を占めているように感じられる政治家やメディアの主観的な意見は、国内でしか通用しないもので、世界の客観的な―被害者の側から見た人権問題という―視点からは、見当違いの、焦点のずれた論理と受け止められるのだろうと思います。

そして討論の最後に、緊張を高める東アジア情勢において、平和博物館とは異なる視点からの文化的アプローチとして、「アジアをつなぐ 境界を生きる女たち」展「東京・ソウル・台北・長春 官展にみるそれぞれの近代美術」展など、アジアの歴史を俯瞰し、相互理解を深める展覧会が増えていることを希望的に紹介できたことは、とても良かったと思いました。

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写真は、発表後、K理事長が撮影して下さったパクさんとの記念写真です。

   *   *   *

さらに、この日3度目の分科会では、アメリカのシュウ・ゼンさんの「ピースメーカーを褒めたたえよう」、東海学園大学の浅川和也さんの「アンネ・フランクパネル巡回展」といった報告や、ゲルニカ平和博物館のイドイア・オルベ・ナルバイザさんによる活動報告を聞きました。

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シュウ・ゼンさんは、人類史的な視野で宗教、哲学、政治、芸術、人権、教育など多様な分野で社会の不正に立ち向かい、平和を求めて活動した人物を「ピースメーカー」として位置づけ、老子やイエス・キリストから、ガンディ、キング牧師、マザー・テレサ、ネルソン・マンデラまで、さまざまな人物を紹介する発表でした。
意外だったのは、その中に、イギリスのグラフィティ・アーティストであるバンクシーも入っていたこと。時に行動が反社会的であっても、その精神の奥底に平和が感じられれば、それは「ピースメーカー」だというのがシュウ・ゼンさんの視点で、発表を聴きながら、ちょっと興奮しました(後の休憩時間に、シュウ・ゼンさんとは、バンクシーの話題で意気投合しました)。

   *   *   *

夕食の後は、地元の永同郡の若者たちのアマチュア・バンドやオカリナ演奏、高校教師の声楽、軍人の詩の朗読など、心温まる歓迎の催しが行われました。

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最後を飾った出し物は、地元の駅長によるサックス演奏。
駅長さんが出演するなんて、ちょっと日本では考えられないような……けれども少し前までの地方の町では、こういう雰囲気が残っていたのではないかとも思えるような。

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軽快に演奏されるポール・アンカの「ダイアナ」を聴きながら、何とも不思議な、心地よい気分を味わったのでした。

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今回の国際会議にいっしょに参加した山梨県のHさんが、「いつも思うのだけど、個人のレベルでは本当に仲良くできるのに、どうして国家の問題になると難しくなってしまうのでしょうね……」とつぶやいていたことが、心に残る夜でした。
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2014/9/19

【韓国出張@】ノグンリ平和公園/第8回国際平和博物館会議初日  調査・旅行・出張

昨日から、K理事長夫妻とともに、第8回国際平和博物館会議に参加するため、韓国中部の忠清北道永同郡黄澗面にあるノグンリ(老斤里)に来ています。

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昨日は一日がかりで滞在するホテルに到着し(仁川国際空港からバスで4時間の山間部にあります)、今日も朝からバスにのって、近くのノグンリ平和公園に向かいました。

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現在はのどかな美しい景色が広がるノグンリですが、朝鮮戦争(韓国の呼称は韓国戦争)初期の1950年7月25日から5日間、米軍兵士による無差別攻撃によって数百人の市民が虐殺された場所であり、3年前に立派な平和公園が整備されました。

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会議の登録を済ませた後は、まず平和記念館に向かい、ノグンリ虐殺事件についての映像・展示を見学しました。

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朝鮮戦争がはじまって1か月後、南に向けて敗走を続ける米軍は、戦乱に巻き込まれた永同郡の住民たちに避難勧告を出します。
米軍の指揮により京釜線の線路を南下した地域の農民たちでしたが、7月25日午後、米軍兵士たちは本部と無線連絡をした後に、避難民から鍬や鎌など武器になりそうな道具を取り上げ、そのまま置き去りにして姿を消しました。

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その直後、突然現れた米軍の戦闘機が機銃掃射を開始。
さらに鉄橋下の水路用トンネルに逃げ込んだ避難民に3日間にわたって銃撃を続け、女性や子ども、老人を中心とする数百人の命が奪われたそうです。

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展示室には、虐殺現場の位置を示すジオラマも展示されていました。

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水路用トンネルを模した通路を歩いていくと、機銃掃射の音とともに、激しくトンネル内が光ります。米軍の無差別攻撃を追体験する展示です。

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トンネルを抜けると、事件の後の真相解明に向けての活動の様子が紹介されていました。

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この事件は、韓国国内でも長く封印されていましたが、1994年に事件で家族を失った鄭殷溶氏が『我らの苦痛を誰が知ろう』と題する本を出版したことを機に、真相解明の活動がはじまりました。
当初、米国政府は「記録がない」として事件を認めませんでしたが、メディアなども徐々に取り上げはじめ、元兵士からの証言も出てきて、2001年には米国のクリントン大統領が遺憾の声明文を発表します。
昨年にはアメリカの秘密文書が解禁され、虐殺事件に関するファイルも発見されたそうです。

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記念館見学の後は、近代文化遺産として登録されているノグンリ双窟橋に向かいました。
いまだ銃弾の痕が生々しく残る虐殺現場です。

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〇印で囲まれているのが弾痕、△印で囲まれているのは、まだ中に銃弾が残っている場所だそうです。

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こうした痕が数えきれないほど、壁やトンネルの天井に残されています。

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トンネルの片方は通路、そしてもう片方は水路になっています。
激しい銃撃のなかで幼い子どもの泣き声が響くと、そのせいで狙い撃ちにされると避難民のあいだで責められ、親がみずから子どもの顔を水に沈めて殺すこともあったそうです。
その話を聞いて沖縄戦を想起しましたが、住民が地上戦に巻き込まれたという点で、状況はとても似ていたのだと思います。

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トンネルを見下ろす高台には、犠牲者を追悼する小さな石碑も建っていました。

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ノグンリ平和公園内には、ほかにも、当時の避難民の姿を刻んだ慰霊塔や、母子像などの彫刻作品が並んでいました。

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   *   *   *

見学の後は、会議ホールに集合して祝辞や挨拶などの開会セレモニーが行われました。
世界32か国から160人が参加するという、規模の大きな国際会議です。

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もっとも、参加者の半数は隣国の日本から来ています。
実は、平和のための博物館国際ネットワークの会員のうち、約半数は日本人なのです。
意外に思われるかもしれませんが、日本は(とりわけ草の根レベルの)平和博物館が世界的にも多く、平和に関心の高い人も多いのです。
先の戦争の記憶が大きく影響しているのでしょうが、このことは、日本国内でももっと知られて良いと思います。

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昼食の後は、日本から来た合唱団が、池辺晋一郎作曲の合唱曲「悪魔の飽食」と東日本大震災のチャリティーソング「花は咲く」を歌いました。

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その後は、基調講演として、ピーター・ヴァン・デン・デュンゲン代表や、小溝泰義広島平和文化財団理事長、安斎育郎立命館国際平和ミュージアム名誉館長らが講演を行いました。

基調講演では、ピーター・ヴァン・デン・デュンゲン代表が、1924年に『戦争に反対する戦争!』を出版し、翌年に反戦博物館を創設したドイツのエルンスト・フリードリッヒについて語った際に、反戦博物館の支持者の一人としてケーテ・コルヴィッツの名をあげ、その重要なコレクターとして沖縄の佐喜眞美術館を紹介していました。

また、元APジャーナリストでピューリッツァー賞受賞者のチャールズ・ハンリー氏が、「朝鮮戦争の民間人虐殺はノグンリの他にもあったが、米国政府は“誤報”として片づけていた。平和博物館は、報道機関が見識ある報道を行うように励まし、情報を与える活動するべき」と語っていたことも印象に残りました。
政府にとって都合の悪い情報を“誤報”として蓋をしてしまうのは、世界のどこにでも起こりうる問題なのだと思います。

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続いて、2会場に分かれたパネル・セッションでは、「グローバル時代における平和ミュージアムの教育的使命」と「平和博物館の教育的役割」のセッションに参加しましたが、スケジュールがかなり遅れていたため、どちらも短い時間で内容を深めるまではいかなかったのが残念でした。

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歓迎の夕食会では、ナンゲ伝統音楽演奏が行われました。
非常に濃密なスケジュールで少々疲れましたが、セッションなどのあいだに、国内外のさまざまな方と挨拶や対話ができたのは、とても貴重な機会でした。
会議はこれから3日間ほど続き、明日の分科会では丸木美術館の発表も行います。
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2014/9/13

長沢秀之オープニングトーク「想像力としてのゴジラの復活」  企画展

いよいよ「ビキニ事件60年企画 第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」展がはじまりました。
午後2時からは、オープニングトークとして、ゴジラ展示のディレクションをされた長沢秀之さんにお越しいただき、「想像力としてのゴジラの復活」と題する対談を行いました。

この企画がはじまった経緯や、日米のゴジラの比較、現状を打開し伝えていく力としての想像力の意味など、対談の内容はさまざまに広がっていきました。
以下に、その抄録を掲載いたします。

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岡村 今日はオープニングトークとして、「大きいゴジラ・小さいゴジラ」の展示を企画された長沢秀之さんにお越しいただきました。

長沢 よろしくお願いいたします。

岡村 実は今朝ようやく展示が終わったんですが、今回の展示の印象はどうでしたか?

長沢 最初に会場に入った印象は、かなり難しいところだと思いました。天井が高くて、棚もあったのでどういうふうにできるか戸惑ったのですけど、途中から、「大きいゴジラ」から「小さいゴジラ」が無数に発生したという文脈が生かせるんじゃないかと考えました。
 棚の上に鏡を置いて覗き込む作品は《ゴジラの逆襲》という題名をつけたのですけど、今朝も3つくらい壁から逆さにゴジラが落ちてきたんですよ。まさか本当にゴジラの逆襲にあうとは思いませんでした……何とか事なきを得たのですけど(笑)。

岡村 《ゴジラの逆襲》は丸木美術館で初めて展示されたんですが、この「大きいゴジラ、小さいゴジラ」は、最初に小平の中学校、2回目に川越市立美術館でやって、私が知ったのも、川越の展示を見た際でした。川越第一小の生徒も参加していて、ゴジラを題材にしたワークショップ展かと思って観に行ったら、内容がおもしろくて驚いたんですね。
 何がおもしろかったかと言うと、いわゆる東宝映画のゴジラの展示はひとつもなくて、いろんな人たちのゴジラのイメージの展示であるということ。
 それから、3.11を経た現在にゴジラがどう関わってくるのか、そもそも最初の映画に登場するゴジラが、いかに戦争や核、自然環境など、われわれの生きる社会の問題を背景に生まれてきたかということを、浮がび上がらせている内容で、びっくりしてしまったんです。
 この企画を考えた長沢さんのことは、以前にも作品を拝見していたんですが、またちょっと違う展開をされているなと、興味深く思いました。

長沢 岡村さんが川越の展覧会を見て、すごくおもしろかったと言ってくれたのは嬉しかったですね。きっかけとなったのは、2009年に描いた《大小のゴジラ》という絵があるんですけど、画面に大きく描くとそれは近いのか、大きいのか、小さく描けば遠いのか、それとも本当に小さいのか、そういう問題を前から考えていたんです。
 ところが、3.11があった後に現実的な問題としてとらえて、「大きいゴジラ」が1954年の映画のゴジラだとすると、2011年3月11日に「小さいゴジラ」が無数に生まれたのではないかと。そういうイメージを考えたとき、これはおもしろい展開になるんじゃないかと思ったんですね。
 ちょうどその頃大学で、中学校を使って学生と地元市民、中学校の生徒をも巻き込んだ展示の企画があったので、教室のホワイトボードに3月11日に無数に発生したゴジラをみんなで描こうと提案したんです。そうしたら、学生の反応がすごくあって。
 それまでは美大ですから、学生が「3.11があって、こういうなかで絵を描いたりできるんでしょうか」という問題をずっと抱えていたんですね。ボランティアをしなければいけないんじゃないか、絵なんか描いていられないんじゃないか、と。もちろんボランティアをした学生もいましたけど、1年たつと、どうやら自分たちは違った形で何かできるんじゃないかと考えはじめたわけです。それで、ぼくが提案したことに、みんなが「やろう」と乗って来た。
 直接的に大きかったのは、石巻の高校生が10日ぶりに瓦礫の中からおばあちゃんといっしょに救出されたというニュース。高校生が病院に入って、「将来何になりたい」と聞かれて「芸術家になりたい」と言ったんです。本当は「美術関係の仕事をしたい」と言ったらしいんですけど、とにかく「芸術家になりたい」という言葉が新聞に出て、それがものをつくる人たちの琴線に触れることがあったと思います。こういう状況でも、人間は想像することが可能なんだと。
 1954年はまだ戦後間もない頃で、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験があって、そういう中でああいう想像力があり得た。それから3.11を経て、ぼくらが今置かれている、放射能だって消えていない状況の中で働く想像力もあり得るんじゃないかと、確信を持ったんですね。
 実際に展示が始まったら、学生も中学生たちも、食い入るように見ているんですね。ああ、こういうことを求めていたんだなと、実感しました。そういうことで、ぼくが知っているゴジラや戦後の歴史と、最近のメカゴジラくらいからしか知らない若い世代、彼らは昔のゴジラは知らないんですけど、そこを接続させていくことが可能になったのだと思います。

岡村 ゴジラっていうと、今の子どもたちは何となく知っているようで、最初の映画は見たことがない。この機会にあらためて映画を観た学生たちは、自分たちが思っているゴジラと映画の内容が全然違ったと思うんです。
 美大生に限らず、3.11後の世界を考える、核の問題にどうアプローチしていくかということは、ストレートに投げかけてもなかなか入っていけないところがあるかもしれないんですが、そこをゴジラっていう、一見、親しみやすいんだけども、核の本質に触れていく存在を入口にして広げていったという点が、この企画の興味深いところですね。

長沢 表現する側からすると、ゴジラは何より破壊する面白さがある。お笑いのキャラクターの頂点に立つような意味もある気がするんですね。
 それから現実的な意味として、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験があり、第二次世界大戦で死んだ兵士たちの象徴であるとか、その亡霊であるという加藤典洋さんの論もある。日本はたびたび災害に見舞われてきたので、それがゴジラとして表されたとか、そういう諸々の意味が含まれているから、格好の素材だと思ったわけです。
 今までの展覧会だと版権の問題が出てきて誰も手を出せないけれども、想像力の問題に持っていけば、つまり、一般の人、誰もが考えるゴジラまでは版権は及ばない。そこがおもしろくなるんじゃないかと思ったんですね。

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岡村 いわゆる「ゴジラ展」は、映画に使われた着ぐるみとか資料があって、どういうふうにゴジラが作られてきたという部分を見せるわけですが、今回はまったく違う次元からゴジラを扱う。本当におもしろいし、想像力を刺激する、ここからまた何か派生して、ゴジラについて考えていこうということになるかもしれませんね。
 3回続けてこられて、その都度、作品も変われば出品者も変わる、お客さんの反応も変わる、会場が変わればいろんなことが変わってくると思うんですが、回を重ねていく中で、長沢さんはどういう変化があったと思いますか?

長沢 最初に中学校でやったときはワークショップ的な意味合いが強かったように思います。ところが、だんだん本を読んだり、映画を観たりしているうちに、これは真剣にやればやるほど問題を掘り起こせるテーマだということがわかってくるんですね。
 川越でやったときも、川越の美術館の人はワークショップの延長上に展覧会を考えて軽い気持ちで声をかけたんだと思うんだけども、その時には、ぼくの気持ちが、これは単なるワークショップではないんだと。だから、最初に美術館に、ぼくは「ワークショップじゃやらないよ、そういう展覧会じゃないよ」と言って、意思統一してもらったんですよ。内容としてはワークショップも含まれているんですけどね。

岡村 ワークショップの作品も、川越の展覧会では凄く効いていたと思います。

長沢 川越の場合はこどもたちにゴジラをどんどん描いてもらって、1954年から2014年まで、大人たちがどんなふうにこの年代を過ごしてきたのかを年表にまとめたんですけど、なぜ2011年にああいう出来事が起きてしまったのか、大人には説明責任があると思ったんですね。ぼくも含めて。
 それを語るのにゴジラは媒介になると感じました。年配の人が持っている歴史と、それを知らない若い人たちやこどもたちがゴジラを媒介にしてつながる。こどもたちの楽しそうないい絵を見るにつけ、大人はその子たちの未来に責任があるのだとつくづく感じました。
 よく言われることですが、日本の文化や歴史は切れちゃうんです。つながることがなかなか難しい。そこをつなげられたかなと思っていた時に、丸木美術館の展示の話を頂いたんです。そして次に、第五福竜丸展示館からも話を頂いて、やっぱりつながってくるなと思いました。
 この美術館には何回も来ているんですけど、ここでこんな楽しそうな展覧会をしたらまずいんじゃないかなという気持ちもあったんですが(笑)。

岡村 楽しい展覧会はどんどんやっていきたいですけど(笑)。
 丸木美術館でなぜゴジラの展示をするのかというと、まず、ゴジラが核実験によって太平洋の眠りから覚まされたという点では、《原爆の図》と共鳴する部分がある。
 それから、丸木俊さんは「絵は誰でも描ける」という考えをもっていて、その象徴が位里さんのお母さんのスマさんだったわけですが、誰でも表現者になれるという可能性も、この「ゴジラ展」にはあるように思うんです。美大の先生もいれば学生もいる、あるいは中学生、小学生もいっしょに展覧会を作り上げていく、そういう意味で多くの人に開かれる可能性を持った展覧会としておもしろいと感じたんです。
 初代ゴジラの映画は、この間、何度か観直して、昨夜も観たんですが、核実験から生まれてきたということに加えて、ゴジラが東京を襲い、人びとが逃げ惑うイメージは完全に空襲ですよね。戦争が終わってからまだ9年しか経っていない、多くの人たちの中にまだ空襲の恐怖が染みついている時期に、ゴジラは東京を襲う。
 母と子が抱き合いながら、「もうすぐお父ちゃまのところに行けるのよ」という台詞が出てきたりとか、電車の中の会話で「いやね、原子マグロだ、放射線雨だ、その上今度はゴジラときたわ」と言った後に、「せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた大切な体なんだもの」と原爆につながる台詞が出てきたりとか。映画の最後に「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。あのゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない」という、まさに無数の「小さいゴジラ」の出現というイメージともつながる終わり方をしている。いろんな部分で戦後の日本の歴史やわれわれの現在が重なるんです。
 最初にゴジラが出現する島でも、実はゴジラは初めて出てきたわけじゃない、ゴジラを鎮める神楽が伝わっているし、昔の島の伝説のなかにゴジラが語られている。それを多くの人は忘れているけれども、老人は知っていて、語り継いでいる。それは3.11の津波の言い伝え、土地の古い人たちは覚えているという話にもつながると思いました。

長沢 ぼくは大学時代に映画をやっていて映画がすごく好きで、「ゴジラ」も小さい頃に観て怖いなと思っていたんですけど、今見ても暗くて。あの暗さがすごくいいですね。学生に聞いても、あんな暗い映画に接したことがないので、新鮮に見えるみたいですね。
 いろんな不安の背景がある中で想像力を巡らせる、日本人の想像力は凄いなと思いますね。もっと自分たちの歴史として誇っていいと思います。今回、アメリカで公開された「ゴジラ」の監督は若い監督ですが、日本のゴジラをすごくリスペクトしている人ですよね。
 ただ、映画としてはヒットしているのですが、ぼくはあまりいいとは思いませんでした。

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岡村 アメリカの「ゴジラ」との比較を聞かせてください。

長沢 ゴジラをとらえるリアリズムの問題ですね。アメリカは、生物学的なリアリズムに基づいた怪獣としてゴジラを設定しないと、映画として動かせない。だから、足を見ても、恐竜やトカゲに近い設定になっているわけです。
 ところが日本は、着ぐるみ――ゴジラスーツを履いて、ドシン、ドシンと歩いて行って、ミニチュアのセットを相手にする。大きい、小さいという問題には昔から興味があるですが、それをうまくやっている。ゴジラに人が入っているんだということはみんな知っているわけです。人が入っているのに、巨大な怪獣に見なす力は、西洋のリアリズムとは違っているんですね。
 ぼくは、文楽にある日本のリアリティと共通するものを感じるんですが、一つの人形が出てきて、三人の男が操作するわけですよね。それを最初に観たときびっくりしてしまった。人形といっしょになぜ三人の男が出てくるんだと。ところが、ずっと見ていると、気にならなくなって、物語に引き込まれてしまう。そういう見方を日本は昔から持っているんですね。西洋のリアリズムとは違う。だけど、ぼくらは西洋のリアリズムを勉強しないと、もっと深みに行けないと思ってしまうところがあって……そうでない、リアリズムとも呼べないようなリアルを見つければ、発揮できるものがたくさんある。その象徴がゴジラである気がするんですよ。
 この展覧会では、映画そのものは出さないけど、映画へのオマージュとして《フィルムとしてのゴジラ》も展示しているんです。フィルム面に描いた作品に光が透過することによって、映画が成立する。それから、ものを描くのも光と影でドローイングが成立する。絵画と映画の原点です。

岡村 川越では、窓に展示していた作品ですよね。丸木美術館にはこれだけ大きな窓がなかったので、壁に展示していますけれども。
 2014年のアメリカの「ゴジラ」映画は、どうご覧になりましたか?

長沢 えーと……あまり顔が良くないですね(笑)。

岡村 下半身は、日本のゴジラみたいでしたよね。

長沢 下半身はどっしりした感じで雰囲気良くなっていると思うんですけど、顔がやっぱり……眼の開き方が恐竜みたいで。あそこに展示した《ゴジラの目》は3日くらいで、新聞紙で作ったんですけど、ああいう日本のゴジラのぱっちりした目のかたちに比べると、アメリカのゴジラはリアリズムに基づいているんでしょうが、違和感がある。
 それから全体的にはハリウッドの基本である家族の大切さ、親子の物語になっているけれども、なんでムートーという敵役の怪獣が出てくるか必然性がわからない。
 それに比べると日本のゴジラは、かなりひどい状況になっても、なればなるほど、人間は想像力を働かせるんじゃないかと勇気を与えてくれる映画ですよね。今回の2014年のアメリカのゴジラは、残念ながらそういう感じではなかった。

岡村 都合のいいゴジラだな、とは感じましたよね。50年代の核実験が、実は実験ではなくてゴジラを倒すためだったという正当化には、びっくりした。

長沢 都合がいいですよ。

岡村 人類にとって脅威になっていたムートーをゴジラが倒してくれて、倒したらすぐに太平洋に帰っていく。初代ゴジラのある種の不条理な人間に対する脅威とは違ったエンターテインメントかなと思いました。

長沢 それと、放射能をゴジラが食べちゃって、ない、という設定が。

岡村 反対ですよね。

長沢 そうそう。ぼくらがあれだけの福島原発事故を体験した後では、説得力弱いですよね。ネバダの核実験場で働いていた人だったら、突っ込みが浅いということになるのかもしれませんが、全体にアメリカのリアリティとしては、スリーマイルの事故が起きたけれども、そんなに切羽詰った放射能の問題はないのだなと。日本はリアルに放射能の脅威を感じちゃってるわけですよね。

岡村 初代の「ゴジラ」は、ゴジラの足跡でガイガーカウンターが大きく反応するシーンがありましたね。

長沢 ぼくが「小さいゴジラ」を設定したのも、放射能が広がったということが大きいわけです。見えないものとして無数に広がったということをどう捉えたら良いのか。それこそ、ガイガーカウンターなどの機器での数値じゃなくて、具体的なものとして。

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岡村 《日常のゴジラ》に描かれた、3.11以後の言葉であるとか、風景であるとか。

長沢 そうですね。これはもう学生たちが夢中になって描いた。日常のゴジラを描いてくれと言ったら、いっぱい描き込んだのですね。それぞれ楽しくやっていると思います。銭湯に行ったらゴジラがいて、富士山の絵の奥に消えていったりとか、なかなかおもしろい。

岡村 食卓の上のゴジラとか、舌打ちをしたり、「それ以上こっちに来ないでもらえますか」と言ったり、われわれがドキッとするような表現もある。大きな都市の風景も描かれていますね。何てことない光景のようでいて、奥の方が歪んで、破壊されているんでしょうか。

長沢 これは学生が二人で描いたんです。自分らが感じている日常のゴジラからどういうものがつくれるのかと問いかけたときに、これをつくったのですね。絵を描く人は、自分たちが思っていることを描きはじめると止まらなくなるんですが、まさにそのとき感じたことを絵にしたんです。他にも「第2、第3のゴジラが出てくるかもしれない」という言葉をいっぱい描いた作品もあるんですね。まあ、今回は展示できなかったんですけれども。

岡村 さっきの《ゴジラの目》は長沢さんが作られたんですけど、この《尻尾》もいいですね。

長沢 棚が開くようになっていたんで、向こうに大きなゴジラがいるという……

岡村 映画のゴジラって、全体を映さないで、一部を映して大きさを表現するというところから始まっていくんですよね。

長沢 先ほど岡村さんが言った島の山の向こうからニョキって出てくる感じ。あれもルドンの絵の一つ目の巨人を思わせたりして、面白い。

岡村 今回の企画は「ゴジラ展」だけではなくて、隣の部屋では黒田征太郎さんが《原爆の図》をテーマにした作品をたくさん描いてくれたり、《戦争童話集》の映像を流していたり、その向こうの部屋では、粟津潔さんが日本の土着性とも深く関わりながら核や戦争をテーマにしたポスターを展示しています。展示をしながら考えていたのは、想像力とは、語り継いでいく物語になりうるということですね。 
 1954年という時代を私は知りませんが、福竜丸の事件が起きて、久保山愛吉さんが亡くなって、放射能の雨が降って、そういう過酷な状況に対して、どこかで蓋をして手打ちをしてしまうという、福島の原発事故もそうですけれども、そういう力が働いていたんだと思います。
 それをかいくぐって現状を考える力とか、次の時代に語り継いでいく力が、こうした、なかばフィクションの現実の中に潜んでいるという気がする。
 もしかすると、丸木夫妻の《原爆の図》も、語り継いでいく表現のひとつだったのかも知れない。この美術館の空間でつなげて考えてみたときに、そんなことを思いました。

長沢 作品というのは、いつもある程度の読み直しが可能なんですね。美術館は作品を保管する重要な場所ですが、ある意味で「墓場」みたいな部分もある。作品は新たな現代の、ぼくらが生きている時代の解釈を待っていると思うんです。だから《原爆の図》があったとしたら、ぼくらが新たな意味を見出していかないといけない。
 ぼくらは今の時代、ここに生きているわけですから、今ならではの解釈がどうしても必要になる。そのときに想像力が重要になってくる。作品はその証しです。そういう場として美術館が機能すると楽しいですね。

岡村 命を吹き込んでいく場所でもあるということですね。

長沢 新たな解釈がないと、固定した意味になってしまう気がしますね。こういう企画展のような何らかの違った考えや風が入ってきて、新しい意味で読み直しができるということが必要なんだと思います。

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(質疑応答は省略、写真撮影は丸木美術館事務局・山口和彦)

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お世話になった長沢先生はじめ、ご来場頂きました皆様に、心から御礼を申し上げます。
展覧会は11月15日(土)までの開催。関連イベントは10月に入ってもまだまだ続きます。
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2014/9/7

企画展展示替え「第五福竜丸/ゴジラ展」  企画展

丸木美術館の展示替えにとって、最大の敵は雨。
収蔵庫と展示室のあいだは必ず屋外を通らなければならないので、雨はとても困るのです。
前日から降り続いた雨に、一体どうなることかと心配しましたが、運よく作品移動の頃には雨が上がり、今回も大勢のボランティアの協力のおかげで、予定通り、展示替え作業が終了しました。

好評だった「はだしのゲン絵本原画展」と「竹田信平 ベータ崩壊展」の作品を撤去し、《原爆の図》14点を従来の常設展示に戻し、展示室の一室のペンキを塗り直し……
次回企画展「ビキニ事件60年企画 第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」のための粟津潔のポスター展示も、粟津潔のご子息のケンさんとともに、作業を進めました。

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部屋じゅうの壁にポスターを貼りめぐらすという、丸木美術館にしては珍しい展示。
第五福竜丸の被ばく事件を機に、翌1955年から開催された原水爆禁止世界大会。そのポスターを手がけた粟津潔の、その後の幅広いデザインの仕事のなかから見出せる核や戦争に対峙する精神、地球環境への問題意識、無名の民衆へのまなざしを紹介する内容です。

今回の企画展では他に、ニューヨーク移住や野坂昭如『戦争童話集』との出会いを機に「ピカドン・プロジェクト」としてキノコ雲の絵を数多く描き続けてきた黒田征太郎さんの《原爆の図》から想を得た新作絵画群や、画家の長沢秀之さんのディレクションによる「大きいゴジラ 小さいゴジラ」の展示を行います。

9月13日(土)午後2時からは、オープニングトークとして「想像力としてのゴジラの復活」と題し、長沢秀之さんと岡村が対談を行います。
多くの方のご来場をお待ちしています。
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2014/9/5

Josemar Gonzalez映像作品“Beta Decay”  企画展

今年の夏、丸木美術館に出現した竹田信平さんの現代美術作品「ベータ崩壊」の展示も、残すところあとわずかになりました。

展示を手伝ってくれたメキシコ・ティファナの若いアーティストJosemar Gonzalezが、丸木美術館で熱心に記録を撮っていたことは知っていたのですが、6分25秒の映像にまとめたという報告を受けたので、ご紹介いたします。

http://vimeo.com/105298284

これまで日本で撮影されてきた映像とは少し雰囲気が異なり、エキゾチックな印象を受けますが、しかし、とても鋭敏な感覚のある興味深い作品だと思います。

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写真は、映像のなかでも少しだけ映っていた、「ベータ崩壊」の環を起こす作業のシーン。
手前で輪を引き上げているのがJosemarです。
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2014/9/4

アートスペース「東日本大震災の記録」展  特別企画

現在、丸木美術館のアートスペースでは、所沢在住の画家・鈴木誠さんによる「東日本大震災の記録展」を開催しています。
https://readyfor.jp/projects/earthquake

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この展覧会は、東日本大震災の被災地の現状を絵画で残す活動をしている鈴木さんが、「展示会でしか見られない絵画ではなく、画集を通じてより多くの人たちに、ご覧いただき、震災を忘れないでほしい!そして、震災の様子が分かる資料を後世に残したい」との思いで、画集制作の基金プロジェクトの一環として行っているものです。

鈴木さんは子どもの頃に丸木俊の絵本『ひろしまのピカ』を読んで強烈な印象を受け、《原爆の図》にヒントを得て、「東日本大震災の記録」を描きはじめたそうです。

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展示作品は、福島、宮城、岩手の被災地に実際に足を運んで描いた油彩画19点。

【福島県】
@ いわき市久之浜町金ヶ沢 旧見渡神社跡
A 双葉郡富岡町仏浜釜田 富岡漁港より福島第二原子力発電所を望む
B 双葉郡浪江町請戸中島
C 双葉郡浪江町中浜 請戸海水浴場、防潮樋門跡
D 南相馬市原町区 北泉海浜公園より東北電力原町火力発電所を望む
【岩手県】
E 大船渡市三陸町越喜来 夏虫山放牧場
F 大船渡市三陸町越喜来 三陸スーパー裏
G 大船渡市三陸町越喜来 越喜来小学校移転予定地の高台
H 釜石市唐丹町小白浜港 小白浜港防潮堤
I 宮古市女遊戸 女遊戸海水浴場防潮堤・宮古水産試験場
J 大船渡市三陸町越喜来 浦浜漁港跡
K 大船渡市三陸町越喜来 三陸スーパー跡の駐車場より熊富酒店の庭
L 陸前高田市高田松原 一本松
M 大船渡市三陸町越喜来 熊富酒店のポプラとNPO法人リグリーンの放羊場
【宮城県】
N 石巻市泊浜泊 
O 気仙沼市本吉町 JR気仙沼線陸前小泉駅前の高架橋
P 石巻市長面浦 
Q 本吉郡南三陸町志津川 
R 本吉郡南三陸町志津川 南三陸町中心部


会期は8月31日から15日まで。
入間市仏子の「ギャラリーと談話室こむ」(9月2日〜13日)と2会場同時開催となっています。
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