2014/8/31

『東京新聞』、『埼玉新聞』に加藤登紀子さんトーク&ライブ紹介  掲載雑誌・新聞

大好評だった加藤登紀子トーク&ライブ「広島 愛の川を歌う」。
取材に駆けつけて下さった記者さんの記事が、さっそく翌朝の新聞に掲載されました。

“反戦の思い 歌い継ぐ 加藤登紀子さんがトーク&ライブ”
 ―2014年8月31日付『東京新聞』埼玉版

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取材して下さったのは、中里宏記者。
記事全文は、次のサイトで読むことができます。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20140831/CK2014083102000120.html

以下は、記事からの一部抜粋です。

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 加藤さんは、はだしのゲン作者の中沢啓治さんが体験した原爆による家族の悲惨な最期の話を紹介。「原爆を落とされたのは、戦争したことが何よりの原因。戦争をさせられた、加害者にさせられた人々も犠牲者。そんなばかなことは止めなければならない」と話した。

 中沢さんが残した唯一の詩に作曲家の山本加津彦さんが曲を付けた「広島 愛の川」など七曲を歌い、大きな拍手を受けていた。

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“遺言の歌 平和の旋律 加藤登紀子さん東松山で披露 「ゲン」作者中沢さん 広島テーマに作詩”
 ―2014年8月31日付『埼玉新聞』

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こちらの取材は磯田正重記者。
以下に記事の一部を抜粋します。

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 同館では広島での自らの被爆体験を描いた、はだしのゲンの絵本版(80年、汐文社)のカラー原画展を開催しているが、「広島 愛の川」は中沢さん(1939〜2012年)が平和への願いをつづった唯一の詩という。

 「未発表の詩が自宅で見つかった」との新聞記事を昨年読んだ作曲家山本加津彦さん(35)が心を動かされ、中沢さんの妻ミサヨさんを訪問。了解を得て作曲し、歌は加藤さんに依頼した。今年6月にシングルCD「広島 愛の川」(ユニバーサル・ミュージック)として発売された。

 〈愛を浮かべて川流れ/水の都の広島で/語ろうよ 川に向(か)って/怒り、悲しみ、優しさを/ああ、川は 広島の川は/世界の海へ流れ行く〉

 加藤さんは「『広島 愛の川』は中沢さんの遺言です。『はだしのゲン』はヒロシマの原爆投下の悲劇を描いただけではありません。どんな時もいのちは輝き、生きて行く人には無限の力があることを教えてくれる」(CDジャケットから)と話す。


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コンサートの前に、登紀子さんのマネージャーから、美術館の前を流れる川の名前を確認されたのですが、「都幾(とき)川」という名前を、登紀(とき)子さんはたいへん気に入られたようです。
「広島 愛の川」を歌うには、まさに、ぴったりの舞台だったのだと思います。
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2014/8/30

加藤登紀子トーク&ライブ「広島 愛の川を歌う」  イベント

午後3時より、歌手の加藤登紀子さんをお迎えして、「広島 愛の川を歌う」と題するトーク&ライブを行いました。

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丸木夫妻の大壁画がぐるりと飾られた会場に、ぎっしりと並んだ椅子の数は約200脚。
予約チケットは1か月前に早くも完売。
当日はスタッフも念入りな準備をして臨んだのですが、程よい涼しさで、熱中症で倒れる人もなく、大きな混乱もなく、素晴らしい時間を過ごすことができました。

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「魂が押し寄せてくるような会場ですね」と語りかけるようにライブをはじめた登紀子さん。
終戦時には家族で満州ハルビンにいたという体験を語りながら、最初に歌ったのは「遠い祖国」でした。

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続いては、《アウシュビッツの図》の前でのコンサートということで、ポーランドのパルチザン・ソング「今日は帰れない」。
そして、朝鮮半島で歌われた抗日歌「鳳仙花」。

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戦争の不条理を見つめる歌とともに、登紀子さんが語られていた、「何人だからどう、というのではない。人と人の問題。私の国があなたの国に酷いことをしてしまった。あなたと私はどうやったら愛しあえるのだろうか」という言葉に、とても心を打たれました。
その言葉は、丸木美術館の根底をなす思いとつながっていると感じました。

今日のお客さんのなかには、生まれた頃から知っている、私の小さな友人もいました。
その子のお父さんは中国人で、お母さんは日本人。個人的には本当に素晴らしいことだと思っているのですが、最近の社会の変化のなかで、辛い思いをしてはいまいかと、少々気がかりでもあります。
彼女に、登紀子さんの言葉や歌はどのように届いたのか。一生忘れられない体験となって、生きる支えになってくれたらと、願わずにはいられませんでした。

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そして、いよいよ「広島 愛の川」。この日のメインの歌です。
会場には、作曲家の山本加津彦さんも駆けつけてきてくれました。
最後はアンコールまで怒濤の歌尽くし。

新曲「愛を耕すものたちよ」に続いては、登紀子さんの代表曲「百万本のバラ」。
グルジアの国民的画家ピロスマニの、踊り子への恋を歌った歌と言われています。

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お客さんから花束を頂いた登紀子さんは、客席に下りて、握手をしながら歌い続けます。

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鳴りやまない拍手のなかで、アンコールは「知床旅情」。
お客さんに喜んで頂くレパートリーの豊富さ、そして人びとを惹きつけていく魅力は、さすがに来年芸能生活50周年を迎えるというキャリアを積み重ねて来られた方だと、最後は目頭が熱くなりました。

もちろん、こうしたイベントの裏では、毎回、大勢のボランティアが支えて下さっています。
片付け作業の後は、最後まで残ってくれたボランティアのみんなと職員らで、登紀子さんを囲んで記念撮影。

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お世話になったトキコ・プランニングの皆さま、そして今回の企画のために協力して下さった東松山CATVの皆さまにも、心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
(写真撮影:丸木美術館 山口和彦)
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2014/8/28

M中学校での《原爆の図》出張授業  講演・発表

朝一番に、事務局のYさんとともに、《原爆の図》の原寸大複製画3部作を携えて、埼玉県内のM中学校へ出張授業に行きました。

M中学校は昨日から2学期が始まっています。
夏休みのあいだに平和に関するレポートが宿題として課されていたそうで、今回は、そのまとめとして、《原爆の図》を全校生徒が鑑賞するという試み。

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さっそく、体育館の壁に、軸装されている《原爆の図》3部作を並べていきました。
先生方もたくさん協力して下さって、無事に、縦1.8m、横7.2mの壁画が3点できました。

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ふだんの展示室ではとても大きく見える《原爆の図》ですが、体育館はとても広いので、いつもと違った印象です。

ちょうど展示が終わった頃、全校生徒300人が入場してきました。
まずは絵の前で丸木夫妻と《原爆の図》の説明を20分ほど行いました。
特に、3部作が目の前にあるので、それぞれの作品の見どころを、ちょっと鑑賞の手助けのつもりでお話ししました。

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そのあとは、3学年に分かれて、1作品ずつ順番に鑑賞。
皆さんワイワイと賑やかに、それでも、じっくりと絵を隅々まで観る子や無言になる子など、絵に引き込まれていく様子が見えました。

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1950年代に、《原爆の図》が日本全国を巡回したときは、こんな感じだったのかな……と、ふと思いました。
今でも丸木美術館には「私が学生のとき、学校の体育館に展示された《原爆の図》を見たんですよ」と、懐かしそうに言いながら、訪ねて下さる方がいらっしゃいます。
今日初めて絵を観た中学生の心にも、《原爆の図》がしっかり焼き付くといいですね。
お世話になった校長先生はじめ、M中学校の皆さまに御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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2014/8/27

NHK FMラジオ出演/埼玉近美「戦後日本住宅伝説」/『漫画が語る戦争』  他館企画など

午後6時からNHKさいたま放送局のFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」に、30分ほどのスタジオ生出演で、「はだしのゲン絵本原画展」について、お話ししました。
聞き手は、岡弘子キャスターでした。
岡さんは、この日の放送のためにわざわざ丸木美術館へも足を運んで下さっていて、そのときの感想なども織り交ぜながら、とても丁寧に丸木美術館や展覧会のことを紹介して下さいました。

リクエスト曲は、元ちとせさんの「死んだ女の子」と、今月30日に丸木美術館でライブを行う加藤登紀子さんの「広島 愛の川」。いずれも、広島の原爆を主題にした曲でした。

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浦和のスタジオへ行く途中に、埼玉県立近代美術館で開催中の企画展「戦後日本住宅伝説ー挑発する家・内省する家」を駆け込みで観てきました。

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丹下健三、磯崎新、安藤忠雄、宮脇壇、原広司、石山修武、黒川紀章、伊東豊雄ら16人の建築家による16点の住宅建築を、立体や映像なども交えて多角的に紹介するという企画。
平日の閉館間際にもかかわらず、会場には大勢の人が訪れていました。

この展覧会で見ておきたかったのは、“無窓”という大胆なコンセプトで「原爆シェルター」と呼ばれたともいう白井晟一の虚白庵の展示。
虚白庵については、ご子息の白井晟麿さんが次のように記されています。
http://shiraiseiichi.jugem.jp/?eid=32

会場では、等身大に引き延ばした展示写真が撮影可とのことだったので、虚白庵の内部写真を撮影しました。

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白井晟一は、丸木夫妻の《原爆の図》に触発された「原爆堂計画」で知られる建築家でもあります。
この「学芸員日誌」ブログでも、たびたび紹介してきました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/578.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1444.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1653.html

白井晟一の原爆についての強い関心は、もっぱら哲学的なもので、決して字義通りの「原爆シェルター」を構想したわけではないのですが、無窓あるいは極端に窓の小さい重厚な作風は白井建築の特徴でもあり、それが自宅の設計にも取り入れられていることを面白く感じました。

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「原爆シェルター」と言えば、小学館から今月発行されたばかりの『漫画が語る戦争 平和をわれらに!』を読了しました。

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水木しげる、手塚治虫、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎という4人の巨匠が描いた、あまり知られていない「平和」をテーマにした短編を収録した漫画集。
冷戦時代に描かれた、核戦争を主題にした漫画が収められていることに興味を惹かれました。

手塚治虫「猫の血」(1969年)
藤子・F・不二雄「マイシェルター」(1983年)/「カンビュセスの籤」(1977年)/「ある日……」(1982年)
石ノ森章太郎「そして…だれもいなくなった」(1967年)


手塚の「猫の血」は、猫神信仰を続ける僻地の集落から来た「猫の血をひく」女性の物語。1960年代の中ソ対立という国際情勢を背景に、核ミサイルが東京の上空を襲う壮絶なラストへ続く印象的な作品です。

藤子・Fの「ある日……」と石ノ森の「そして…だれもいなくなった」は、似たような構造の作品で、核戦争によってある日突然平凡な日常がぷっつりと終わりを遂げるという恐怖を漫画で表現した実験作。

同じく藤子・Fの「カンビュセスの籤」は、手塚の「火の鳥」を連想させるような、核戦争後に地球最後の一人になった人間のシニカルな物語。

そして「マイシェルター」は、謎めいたセールスマンによって核シェルターの購入を誘われた一家の主が、核戦争後の地球を想像してさまざまなシミュレーションに心を乱されながら、結局、自分たちだけが助かるより「原水爆禁止運動の署名でもしよう」と思い直す、平凡といえば平凡な、しかし、藤子・Fらしい優しい哲学が垣間見える良作でした。

もちろん手塚のもたらした影響が大きいのでしょうが、こうした日本を代表する漫画家たちが、核の脅威に向き合って作品を残していたことの意味については、これからも考え続けていきたいと思います。
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2014/8/26

『子どもの本棚』巻頭エッセイ執筆  掲載雑誌・新聞

月刊書評誌『子どもの本棚』No.551(2014年9月号)に、「『はだしのゲン』を読む子どもたち」と題する巻頭エッセイを執筆しました。

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某日本語米国詩人の“代打”という事情により、「1時間以内に書いてほしい」という、今まででもっとも〆切の短い原稿だったのですが(そして今後も、この記録が破られることはないと信じたい……)、「はだしのゲン絵本原画展」の光景を記憶に留めておきたかったので、一気に書き上げました。

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 美術館の廊下を歩きながら展示室を覗くと、椅子に寝そべって漫画を読みふける子どもがいる。廊下の壁に寄りかかり、あるいはしゃがみこんで読む子どももいる。
 この夏、原爆の図丸木美術館では、『はだしのゲン』の絵本原画の特別展示を行っている。展示室では全十巻の漫画も自由に読めるようにしているのだが、売り物の漫画の立ち読みに熱中している子どもを見ると、昔の本屋の親父のように、はたきでパタパタしてみたくなる(一度やってみたかった!)。
・・・・・・(冒頭からの抜粋)

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本日は、東松山市主催の「河童会議」という、子どもたちの川遊び+美術館見学の日。
丸木美術館の展示を観終わった子どもたちが、まるでエッセイそのままに、思い思いに立ち読み、座り読みしている光景も見られました。

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微笑ましくて、思わず撮影してしまいました。
売り物なので、子どもたち、きれいに読んで下さいね。

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ちなみに展示室には、絵本原画だけでなく、世界各国の翻訳漫画も展示しています。
現在展示しているのは、フランス語、ポーランド語、朝鮮語、ブラジル語、スペイン語、フィンランド語、ドイツ語、トルコ語、タイ語、クロアチア語、ペルシャ語、英語、ウクライナ語、ロシア語の計14言語版。
『はだしのゲン』は、世界のさまざまな国で読まれているのです。
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2014/8/24

川口隆行+小沢節子対談「『はだしのゲン』を読み解き、読み継ぐために」  企画展

午後2時より、「はだしのゲン絵本原画展」の関連企画として、川口隆行さん(広島大学大学院准教授・原爆文学研究)と小沢節子さん(歴史家)をお迎えして、「『はだしのゲン』を読み解き、読み継ぐために ―核の時代の表現として」と題する対談を行いました。

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会場に用意した40席の椅子は、ほぼ満席。
美術館学芸員や大学教員など、専門的な研究者の姿も見られました。
非常に興味深い充実した内容の対談でしたので、以下に、抄録をまとめておきます。

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岡村(司会) 今日は、「はだしのゲン絵本原画展」の対談企画として、川口さん、小沢さんに、作品としての『はだしのゲン』を語って頂こうと考えています。
 はじめに、この作品との出会いや、どんなところに魅力を感じているかをお話し下さい。

川口 70年代から80年代にかけて小学校時代を過ごしたんですけど、学校で読んだ覚えがないんです。小学校4年生くらいに、行きつけの散髪屋で当時出ていた4巻までを繰り返し読んだ記憶があります。
 全巻読んだのは大人になって。2005年頃に必要があって再読したのですが、ベッドの脇に置いていたら、当時4歳の娘が自分で読み始めたんです。取り上げるのもどうかなと思っているうちに、私より先に全巻読み終わりました。
 ちょっと後悔したのは、全然手がかからなかった子どもだったんですが、数日夜泣きをしたこと。それが止むと、『はだしのゲン』の感想を話し始めました。「人間はね、お腹がすいたら犬を食べたらいいんだよ」とか、「人間はいつか死ぬんだよ。でも、意外と死なないもんだよ」と哲学的なことも言いました。彼女なりに「人は死ぬ」ということを知り、同時に「意外としぶとく生きていくもんだ」という受け止め方もしたんですね。
 これは『はだしのゲン』を読む上で重要な点だと思いました。学校の平和教育では原爆の落ちた後がクローズアップされがちですが、戦後になっても、ゲンたちが必死で生きていくなかで、多くの人が死んでいく。実は生き延びようとしていく「戦後の物語」なんだと思います。
 『ゲン』は去年の閉架問題のような政治的主張の良し悪しが話題になりがちですが、メッセージ性はもちろん外して考えることはできない一方で、身体感覚で感情を揺さぶっていく作品でもある、二つの要素が絡み合った漫画として面白いと思います。
 原爆について研究していると、さまざまな原爆の表現に触れる機会があります。『はだしのゲン』を読むと、中沢啓治という一人の被爆体験だけが反映されているわけではなくて、中沢さんが見聞きした話、メディア体験なども含まれている。個人の体験であると同時に、集合的記憶が埋め込まれているんです。
 《原爆の図》にも、丸木夫妻の体験だけが描かれているわけではなく、いろいろな人たちの体験が入り込んでいますが、『はだしのゲン』も丁寧に読み込んでいくと、先行する原爆の表現、体験が織り込まれた作品であるということがわかります。

小沢 私は10年ほど前に、大学の学生が『はだしのゲン』で卒業論文を書きたいと言ってきて、指導のために全巻読みました。彼は小学校に『はだしのゲン』があった世代で、漫画を読んで怖くて辛い思いをしたが、原爆や戦後史を学んであらためて『はだしのゲン』を読み返したらどう思うのかということを書きたいと思ったんですね。結論としては、身体感覚や情動に訴える部分が子どもの頃に怖かったけれども、それが漫画の魅力であり強さだったということに気づいたという論文でした。
 私は《原爆の図》をはじめ原爆表現を研究しているのですが、そういうことをしていると、多かれ少なかれ中沢さんに会うんですね。長田新編の『原爆の子』に中沢さんの体験が出てきますし、スティーブン・オカザキの映画『ヒロシマ・ナガサキ』にも中沢さんが登場します。そういう関わりといっしょに漫画を読んだという経験があります。
 中沢さんがお元気だった頃に、授業に来て頂いてお話を聞く機会もありました。印象に残っているのは、学生が「漫画に描いてあるのは本当のことなんですか」と聞くと、「基本的に本当のことなんだ」と答える。私が「骸骨に“怨”という字を書いて米兵に売ったというのは本当のことなんですか」と聞いても、「あれは自分がやったわけではないけれども、ああいうことはあったんだ」と。学生が「何が一番辛かったか」と聞いたときには、「原爆は辛かったけれども、原爆が落ちた後の方がもっと辛かった。原爆が落ちた時はみんなが地獄だったけど、戦後は同じ被爆した者のあいだに亀裂や差が出てくる。取り残された者たちは本当の地獄だった」と戦後の体験の過酷さを強調されていて、『はだしのゲン』の物語は1953年まで話が続くわけですが、「占領期の物語」という側面を面白く思っています。

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岡村 今のお話をうかがって、二つのポイントを設定したいと思います。ひとつは、中沢さんの個人の体験だけでなく、集合的記憶としての『はだしのゲン』が、時代や原爆表現にどう向き合い、取り込んでいったのかという点。
 もうひとつは「戦後の物語」としての視点。これは3.11後を生きる私たちにも重要な問題を提示していると思うのですが、あるいは「復興」に抗う物語かもしれません。この二点を中心に話を進めて頂くということでよろしいでしょうか。まずは最初の設問からお願いします。

川口 『はだしのゲン』には、被爆のときに唱歌の「海」を歌いながら、男性教師と子どもたちが輪になって沈んでいくシーンがありますが、『原爆の子』をもとにして1953年に作られた映画『ひろしま』の中にも、女性教師と子どもたちの同じようなシーンが出てきます。
 それから、戦後に進駐軍が来たときに、ゲンの仲間たちが「父ちゃん、母ちゃん、ピカドンで、ハングリー、ハングリー」と歌う場面があるんですが、これも映画『ひろしま』の中に同じシーンがあって、進駐軍にガムやお菓子をもらう。
 あと、映画の最後の方に、宮島の土産物売り場で、原爆で死んだ人のドクロを売るという話が出てきます。『はだしのゲン』の中にも、ドクロを掘り出して、ドクロの額に「怨」の字を書いて米兵に売って、米兵は「怨」の意味がわからずに「ナイス・デザイン」とか言って、お土産としてアメリカへ持って帰らせようとする場面があります。
 映画『ひろしま』に影響されているというよりも、映画『ひろしま』自体が『原爆の子』という作文集をもとにした集合的記憶から成り立っているんですが、『はだしのゲン』にはそうした集合的記憶が織り込まれていると言えるんですね。
 もう一点、『はだしのゲン』には、夏江と勝子という顔にケロイドの火傷をもった女の子たちが登場します。本当は踊り子になりたかったんですけど、火傷のために人前に立てず、二人でミシンを買って洋裁店を開くというのが夢になるんですね。ミシンを買って洋裁店を開くというのは、当時若い女の子にとってたいへんな憧れであって、広島の場合では原爆乙女という絶望にひしがれている女性たちが、ミシンで服を作って売りながら、自分の傷を回復していくということもあったんですが、こうしたいろいろな広島の体験・物語を『はだしのゲン』は上手に取り込んでいるんです。

小沢 『はだしのゲン』の連載は1973年6月から始まるんですね。60年代末から70年代初めまでに積み重ねられてきた原爆表現の歴史や原爆をめぐる認識を中沢さんが取り込んでいったのだろうと、私も思います。
 原爆が落ちたその日にお母さんが赤ちゃんを産むという話も、栗原貞子さんの「生ましめんかな」という有名な詩を連想させますし、米兵の被爆した姿を市民が見つけて石を投げるシーンがあるんですが、お婆さんが「アメリカのばかたれ、わしは一人ぼっちになったじゃないか」と恨みを述べながら石を投げて、「家を返せ、爺さんを返せ、娘を返せ、孫を返せ」と言う。これが個人の恨みから突き抜けて「平和を返せ、人間を返せ」となれば峠三吉になるわけです。

川口 隆太の父親代わりになる小説家のお爺さんが亡くなる前に自伝小説の『夏の終わり』を出版したいというので、ゲンたちが紙を探したりして奔走するんですが、GHQの検閲がありますから、普通の印刷所は印刷してくれない。どこが印刷してくれたのかというと、刑務所なんですね。実際には、正田篠枝さんの『さんげ』という最初の歌集が刑務所で100部秘密出版されたということがありました。
 探せばきりがないくらいにエピソードが放り込まれていますが、いろいろな人たちの記憶が織り込まれていくことが大事なんだと思います。

小沢 ここの美術館でやることの意味として結びつければ、《原爆の図》という絵も、そういうものであったと。それから、描かれている被爆者は、映画『ひろしま』や《原爆の図》で作られたイメージも投影されているんだろうと思います。もちろん中沢さんは実体験があるわけですけれども。
 それが描きはじめる時代までの積み重ねだとすると、73年から85年まで続いた連載では、同時代の新たな動きも取り込まれていく。さっき、米兵捕虜に石をぶつけてうんぬんというのがありましたが、そういうことが、ジャーナリズムであらためて取り上げるようになる。それから朝鮮人被爆者が大きな社会問題になってくる。
 今まで必ずしも公には語られてこなかった、抑圧されてきた原爆被害の記憶が語られ、被爆した市民の絵画なども描かれるようになる。原水爆禁止運動の分裂とはちょっと離れたところで新たな証言運動が出てくる。そういう動きを取り入れるかのように、さまざまな物語が描かれていく。特に朝鮮人の問題はそうですよね。

川口 そのときに、『はだしのゲン』に対して、つまんない批判――事実と違う、違わないという問題が出てくるんですよね。朝鮮人みんなが連行されたわけでは決してないと、私もそう思うんですが、みんなが連行されたように描いていて、それは極端だとか、嘘だとか言われる。
 事実誤認という批判もまったくわからないではないけれども、作者である中沢さんが、どのようにそのものを捉えていったのかという意味では、それは強調されて語られることもあるだろうし、事実ではないという批判はあまり生産的でないと思っています。

小沢 私は、川口さんが『中国新聞』に中沢さんの追悼文を寄せているのを読み返して、「原爆投下はやむを得ないことと昭和天皇が発言したのは、『はだしのゲン』連載中の75年のことだ。この発言に対抗するかのように政治的言説のようなものを描き込んだ」というので、ああそうか、と思ったんですが、ちょうど連載途中でアメリカから帰国した昭和天皇が中国放送の記者の質問を受けて「原爆が投下されたのは気の毒だけど、戦争だからやむを得なかったんだ」と答える。『はだしのゲン』の後半に昭和天皇批判が目立ってくるのは、中沢さんが同時代の反応として、漫画の中に描き込んでいるんでしょう。
 それから82年の歴史教科書をめぐる「侵略」を「進出」と言い換える検定の問題が出てくる、いわゆる第1波の戦後の歴史修正主義の台頭。最後の方に出てくる、政治的言説として批判されることの多い表現は、連載途中の政治的なコンテクストの中から出てくるんじゃないかと思うんです。

川口 そのへんが『はだしのゲン』をどう読むのか、立場が分かれてくるところだと思います。ゲンの演説には固い言葉が並ぶんですが、ある思想だけにはまった理念的な人物かというと、そういう言葉が説得力をもって聞こえる人として造形されている点が面白い。
 中学生が先生から習ったばかりのような、ある意味で幼稚な政治的メッセージをしゃべっているんですが、同じことを言ってもそれがつまらなく聞こえる人物もいれば、単純だけど当たっているよね、そうかもしれないと思わせる人物がいる。ゲンは後者なのだと思います。

小沢 ゲンの過剰なまでの政治的言説は、戦前のお父さんからはじまるわけでなんですが、ゲンの言葉は政治的言説であると同時に、啖呵を切ってるんだと思います。啖呵売というか、啖呵師というか、啖呵は喧嘩だけじゃなくて、大声で物を売る時の口上だとか、そういうときも啖呵って言うんですね。
 ゲンはいろんな口上を並べ立てて物を売ったりするんですが、そういうゲンの言葉と政治的言説は、一見違うもののようでいて、一人の人間のなかで両立している。政治的言説であり啖呵である言葉を使う子どもとしてゲンが造形されていて、もうちょっと言うと、ゲンは時代に啖呵を切り続けて生きている。それは中沢さんの同時代に向けての啖呵でもあるんだと思います。

川口 その中で、日本国憲法が大事だとか、戦争反対とか、ある意味で決まったような言葉が出るんだけど、ゲンがしゃべると説得力も持ってしまうのは、ゲンの中に、そうした言葉を梃子にして、理不尽な力に対して生き延びていく力にしているところがあるんだと感じます。自分が置かれている虐げられた状況とつながっていて、他人事ではなく自分に必要な言葉として発せられているんです。

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岡村 「時代に啖呵を切る」という言葉が出てきましたが、「戦後の物語」という視点はどうでしょうか。

川口 今週、広島で大雨が降って、安佐北区、安佐南区がたいへんな状況になっているのはご存知と思いますが、ぼくは広島という街に居心地の悪さを感じる部分があるんです。
 戦後、「平和都市」として出来上がっていくんだけど、挑発的に言えば、薄っぺらい、一皮めくれば平和でないというか、そもそも平和とは何かを問うてない。戦前と変わっていないという状況があるのではないかと思うのです。
 『はだしのゲン』で言いますと、戦争中に狭い共同体のなかで威張っていた町内会長が、戦後の民主主義になってどうなったかというと、何も変わっていないわけです。むしろ差別や矛盾、対立点が増幅されて残っていく。戦前から現在まで続いている社会構造や人間の関係があって、原爆はそれをより鮮明に、見やすくさせているのではないかと思う。ですから、原爆が落ちたところで話が終わるのではなく、その後もずっと生き延びていくまでの歴史が描かれているのがたいへん面白いと思います。
 そこで出てくるのが、「復興」に対する違和感です。「復興」とは、壊れたものが元あるように戻ること。もちろん傷ついた人や町が傷を治したいと思うのは当たり前ですが、本当に元通りになるのか。元通りになるというその前は、みんなが幸せだったのか。「復興」というなかで、「復興」しきれないものはないだろうか。
 『はだしのゲン』には、平和都市建設に対する痛烈な批判が随所に出てきます。ゲンの家族たちが最終的に住んでいた家も、平和都市建設法の道路拡張のために「お前ら立ち退け」と壊されるわけです。「原爆の悲惨さ」という以上に、「復興の悲惨さ」にこだわった漫画なんだろうと思います。

小沢 象徴的なのは町内会長さんですよね。戦前は町内会長としてゲンの家族たちをいじめて、戦後は結局、市会議員から県会議員になるんですよね。そのときには「平和日本」といったメッセージを発しながら成り上がっていく。そういう人物に象徴されるような、戦前から戦後まで実は何も変わっていないかのような権力関係の構造がある。
 ゲンは戦争とか天皇制とか大きなものに向き合って啖呵を切っているんだけれど、実際には大衆の隅々に巣食っている戦前から変わらない権力構造に抑圧されて抗っている。
 だから核被害者の困難とかトラウマとか苦しみという物語であると同時に、「復興」神話へのアンチテーゼでもある。そう思って読むと、今の私たちにも身近なものと感じられないことはない。大きなカタストロフィの後の亀裂とか分断とか断絶を描いた漫画として、新たに読み直されるものかもしれない。

川口 『はだしのゲン』の中に、「本当の敵を忘れて、差別して、いがみ合ってばっかりいやがる」という戦後の広島の人たちに対して言う台詞がある。決してみんなが協力して、一致団結して戦ったとかでなくて、裏切り、いがみ合い、だまし合い、憎しみ合い、殺し合いが延々と繰り返されています。
 広島の街には、戦後巨額の資金が入ってくるわけです。ヤクザがいっぱい出てくるのはまさに『仁義なき戦い』の世界で、なぜ広島で抗争するかというと、都市の建設で巨額の資金が流れ込むからです。縄張りや人員を管理するためにヤクザが浸透していく。
 平和都市建設のプロセスの中に暴力が含まれ、埋め込まれる。それが戦後の広島、あるいは日本のひとつのあり方なんですね。

小沢 同時に、そういうものを含む中で、強い思いが託されているのが、最近何人かの人が指摘しているんですが、『はだしのゲン』は「画家の物語」だということ。
 後で岡村さんも言うと思いますが、ゲンのお父さんは戦前のプロレタリア芸術運動にかかわった日本画家……ほとんど丸木位里さんと同じような画家で、実際、丸木位里さんと中沢さんのお父さんは同じ展覧会に出品していた。
 もっとも印象深いエピソードで、政二さんという画家を看病する場面も出てきます。それから、ゲンが看板屋に勤めるきっかけになる絵を教えてくれる絵描きさんも出てくる。
 すごくベタですけれども、芸術で人々の心を動かすことができるとか、芸術は現実から切り離した異なる次元を持つものなんだとか、そういうことが非常に前向きに訴えられる。そういう中でゲンも表現者として自立していきたいと思うようになる。
 いま川口さんが仰ったような、戦前から続く過酷な現実を対象化するものとして表現への憧れが出てくると思います。

川口 ゲンが面白いのは、非常に乱暴なんですよね。よく相手をぶん殴る。決して暴力反対ではなく、理不尽な相手に対して殴ってでも立ち向かっていく。
 腕っぷしが強いと同時に、歌もうまいし、絵も描くし、詩を口ずさむし、広島は浄土真宗の安芸門徒なんですけど、彼は5日間で浄土真宗の正信念仏偈と蓮如の御文章を覚えて、まわりの葬式に行って小銭を稼ぎ、自分の妹を救おうとするけど、救えなくて、結局、自分で覚えたお経で妹を弔うんですね。
 芸術の基本は模倣だとするならば、ゲンはある人たちの技術を学んでいって、上手に身体化して表現していく。きれいな骨壺を作ったりとか、乱暴な人間であると同時に、表現に対して特異な才能を持った少年として描かれていて、暴力を昇華していくんですね。

小沢 苦しみと怒りに追われているだけの物語ではないので、若い読者が直感的に理解できるものがあるんだと思います。

川口 ゲンはよく怒るんですよね。先ほどの芸術との関わりもあるのですが、怒ることは悪いのか、と自分は悶々と悩んでいるんです。
 怒るという感情は自分を滅ぼすこともあるし、他人に対して攻撃的にもなる。でも怒ることがなかったら、自分たちの置かれている不当な立場に向かっていくことができないし、怒るという感情はとても大事だと思うんです。
 怒るというのはどこにいくかわからない、人を壊してしまうかもしれないし、状況を切り開いていく力になるかもしれない。ゲンは怒るんだけど、その感情に乗っ取られることがないんですよね。怒ることがどういう意味を持つのか、『はだしのゲン』を通じてずっと考えているんです。

小沢 つい先日、練馬区立美術館で『あしたのジョー』の展覧会を見てきて、丈が力石徹と戦うあたりは同時代で見ていたんですが、冒頭場面の原画を見ていたら、15歳くらいになって養護施設を出てきた孤児の少年が東京の辺境にたどり着くところから始まる物語だった。10年のタイムラグはあるものの、まるで広島から東京に出てきたゲンじゃないか、『あしたのジョー』は東京に出てきたゲンの物語だったのかと、そう結びつけて思いました。
 丈は東京に出てきて、はじめは孤児たちを集めてユートピアを構想するけれども、少年院に送られてボクシングに目覚めていく。ボクシングという括弧つきの暴力による自己実現を目指す孤児の物語です。結局、興行化された暴力・ボクシングで燃え尽きてしまう物語の連載が終わるのが1973年の4月20日で、そのひと月半後の6月4日から『はだしのゲン』がはじまるんですね。
 今までそんなふうにつなげて考えたことはなかったんですけど、やっぱり孤児の物語、戦争を引きずって一人で生きる少年の物語、そういう少年たちがどうやって大人になったのか、なれたのかということを、『はだしのゲン』の最後のシーンとともに考えたりもしています。

岡村 最後に少しだけ。『はだしのゲン』を読んでいくと、丸木位里と重なる点が多いんですね。戦前に中沢啓治のお父さんは演劇をやっていたんですが、プロレタリア演劇活動というのは、まさに画家になる前の位里がやっていたことであり、同じ広島の日本画家として同じ県美展に入選していて、位里の方が年齢が上で、立場も上なんですけど、その展覧会の会場が今の原爆ドームになっている、産業奨励館だった。
 あるいは、ゲンが看板屋で絵を学んでいくというのも、位里が最初に広島に出てきて勤めた仕事が看板屋だったことと重なる。もうひとつ、さっき「怒り」ということが出てきましたが、「怒り」に対してゲンが乗っ取られないで、広い意味での表現に転化させる、状況を変えていくという点は、丸木夫妻が《原爆の図》に怒りをぶつけていく過程とも重なって見えるんですね。
 『はだしのゲン』と《原爆の図》は、社会のなかでの叩かれ方も似ているんです。「ことさら声高に怒りを表現するのではなく」という社会的な主題の芸術を評価する際の常套句は、むしろその常套句を使うことで芸術の可能性を狭めていると思うんですけど、「ことさら声高な表現」の代表例として《原爆の図》や『はだしのゲン』が言外に否定されることが多い。
 けれども、そうした色眼鏡を外して、怒りを表現に転化させていった芸術だってあるんだというふうに見ていく必要があると、最近特に考えています。

川口 以前はよく、「怒りの広島、祈りの長崎」という、それこそ常套句が言われていたわけです。広島は政治的に反核運動やっていて、長崎へ行くとキリスト教の、永井隆以来のお祈りをするイメージがある。ぼくは怒ることと祈ることを対立的に別個の感情と離すことに違和感があって、ゲンの御文章ではないけれども、深いところで二つは結びついていると思ったりもします。
 あと、「祈りの長崎」と言われていたはずなんだけど、ここ数年の「平和宣言」は、長崎が一番怒ってますよね。市長と被爆者代表の挨拶が連携しながら、今の状況や社会のあり方に対して、人を抑圧する怒りではなくて、必要なものに対する真っ当な感情を公的にちゃんと表現している。
 それに対して広島は腰砕けというか、取り込まれているというか、怒りでもなければ、祈ってもいない。「祈りの長崎」が真っ当な怒りを、長崎もいろいろあるとは聞いていますけれども、それでも真っ当な怒りを表明できているのは面白いと思っています。

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(質疑応答は省略、撮影は丸木美術館事務局・山口和彦)

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たいへんお忙しい中、ご来場くださった川口さん、小沢さんに心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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2014/8/23

工作教室「牛乳パックで箱型カメラを作ろう!」  ワークショップ

午後2時から、写真家の小原佐和子さんをお招きして、夏休み工作教室「牛乳パックで箱型カメラを作ろう!」を開催しました。

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牛乳パックの内側に添って黒画用紙で四角い筒をつくり、底の部分に穴をあけてプラスチックレンズを貼り付けます。
さらに牛乳パックの口の部分にトレーシングペーパーを貼り、外側を黒画用紙で梱包して光を遮断し、底にのぞき穴を空けます。
そして牛乳パックの内側に筒を差し込んで、ピントを調節できるスライド式の“カメラ”が完成。

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穴をのぞくと、レンズの外側の風景が反転してくっきり見えるので、参加者はみんなびっくり!
カメラの基本原理は、こんなに単純なものだったのですね。

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さっそく外へ出て、思い思いにカメラを設置する場所を決めます。
太陽の光が強く、かたちがくっきり見えるものの方が、撮影に向いているようです。
感光紙をセットして、カメラを設置。
この日は曇り空だったので、待つこと20分少々。
そのあいだ、子どもたちは庭でトカゲやバッタをとったり、追いかけっこしたりして、楽しく遊んでいました。

最後に感光紙にアイロンで熱をかけて現像すると……みるみる画像が浮き上がってきました!

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デジタルカメラ全盛の時代に、牛乳パックでも写真が撮れてしまうなんて、本当に不思議。
それでも、カメラはカメラ。原理は変わらず同じなのだそうです。
全員きれいに撮影できました。大成功です。

元気いっぱい、子どもたちの指導をして下さった小原さんに、心から御礼を申し上げます。
とても楽しく、貴重な体験になりました。どうもありがとうございました!
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2014/8/21

『読売新聞』“形にのこす 2014原爆忌”/『琉球新報』“非戦の価値”  掲載雑誌・新聞

夏は新聞掲載が多かったため、この間、紹介しきれなかった記事をまとめておきます。

まずは2014年8月6日付『読売新聞』(西日本版)の連載記事“形にのこす 2014原爆忌”。
「痛み」への想像力を”との見出しで岡村、“1%の事実 大切に”との見出しで小説『八月の青い蝶』作家の周防柳さんのインタビューが掲載されました。

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取材して下さったのは、広島支局の岸下紅子記者。
以下、記事から一部抜粋いたします。

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 「原爆の図」は、投下時の体験者でない者が想像力でどう原爆に迫るか、初めての試みでした。私自身、被爆者から「実際はこんなきれいなものではなかった」と指摘を受けることもありました。確かに絵の中に、ガラスが無数に突き刺さった人や、眼球が飛び出した人はいません。

 丸木夫妻が残したもの、それは原爆の被害を伝えるだけでなく、いつの時代も「痛み」を負った者への想像力を持つということです。だからこそ「原爆の図」は様々な読み方ができます。

 例えば中学生にこんなふうに説明をします。「今、日常の差別や偏見、いじめといろいろな暴力があります。他人の痛みに想像力を広げること、それが人間にとって一番大事なことだと丸木夫妻は考えていました」

 69年前の歴史上の出来事にしてしまうのでなく、現在の日常とつなぐ。その時代、時代に合わせた新たな語り方を見いだす。そうしたアプローチは被爆者がいなくなったとしても、残された絵から想像し続けていくことができる。ヒロシマに新たな命を吹き込む大事な方法だと思っています。


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また、7月20日付『琉球新報』の連載記事“非戦の価値 揺らぐ平和主義”にも、“弱者の痛み感じて”という見出しで岡村のインタビューが掲載されました。
こちらは、社会部・国吉美千代記者の取材です。
まだ手もとに掲載紙が届いていないので、画像はありませんが、記事の文面を以下に紹介いたします。

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 4月から7月上旬まで開催した「宮良瑛子展」には4千人が訪れた。東京近辺では、宮良さんのことを知る人は少ないが、関心を持って見てくれた。東京にいると、沖縄から発信されるものに触れる機会は少ない。美術もそうだが、沖縄戦、米軍基地に関する問題もしかり。

 2008年に沖縄展をやった時、ある新聞記者から「なぜ6月にやるのか。8月じゃないと取り上げにくい」と言われた。それだけ落差がある。

 宮良さんの絵は丸木位里・俊夫妻が描いた「原爆の図」と共鳴していた。宮良さんは弱者の視点で女性と子どもを描いてきた。痛みを感じることが、戦争を想像する上では必要だ。

 今の時代は「国のために」という風潮が非常に強くなっている。そして他者の痛みへの想像力が欠けている。自分たちの都合で歴史を語り「自虐」の枠に閉じ込めようとしている。

 丸木夫妻の作品に一貫しているのが、弱者の視点から見た痛み。丸木美術館の存在そのものが、今の時代風潮のカウンターになり得るのではないか。


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自筆原稿と異なり、インタビューは、記者の方が自分の言葉をどのように聞き、感じたかという性質の記事なので、実は微妙なニュアンスの違いも感じます。
それでも、大きく趣旨が異なるのでなければ、基本的には記者さんの原稿を生かして、そのまま載せて頂くようにしています。

原稿執筆とは違った意味で、自分の考えを整理し、いろいろと勉強させられる貴重な機会になります。取材して下さった記者の皆さま、どうもありがとうございました。
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2014/8/16

アキノ隊員の高江報告「高江の昆虫たちと米軍ヘリパッド計画」  イベント

午後2時から、日本鱗翅学会保護委員の宮城秋乃さんを沖縄からお迎えして、「アキノ隊員の高江報告 高江の昆虫たちと米軍ヘリパッド計画」を開催しました。

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米軍ヘリパッド建設計画が進み、環境破壊が心配されている沖縄県東村高江の現在を、昆虫たちのミクロの視点で見つめていこうというユニークな試みです。

来場者は約30人。
アキノ隊員が用意した3本の短い映像を見ながら解説を聞き、1本ごとに会場からの質問に答えていくという方式で、トークは進みました。
アキノさんの自然科学系のこどもミュージアムのような丁寧なわかりやすい受け答えがなかなか新鮮でした。

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考えさせられたのは、米軍の北部訓練場区域が、人間の開発を免れて自然生物の宝庫になっているという現状。韓国と北朝鮮のあいだの非武装区域を連想させられる話ですが、本当に人間は周囲の生物にとって迷惑極まりない存在だと思わされます。

そして、広大なヘリパッド建設やオスプレイの飛来は、無数の生物が死滅し、生息地を分断し、生態系に悪影響を与えていくというわけです。

沖縄の県鳥でありながら、生育数が減少し、国内希少野生動植物種に指定されているノグチゲラの雛が、オスプレイの飛来による騒音に驚いて巣にこもり、鳴き声を出さなくなるなどの映像も見せて頂きました。

   *   *   *

個人的にアキノ隊員にお聞きしたかったことは、沖縄戦の連作や絵本を描くときに、丸木夫妻が描いていた沖縄の蝶について。
たとえば、絵本『おきなわ 島のこえ』で、丸木夫妻は次のように描いています。

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 おきなわでは、いまでも 畑や草むらから、
 しんだひとの ほねや ふはつだんが、でてきます。
 あおい 海のそこに 船と いっしょに しずんでしまった
 ひとたちも います。海のそばを とおったとき、
 「タスケテー」
 という こえを きいたと、はなす ひとが います。
 冬でも 白い ちょう、黒い ちょうが、とびまわっています。
 しんだひとの たましいが、ちょうになったのでしょうか。


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1986年に描かれた《沖縄戦 きゃん岬》の画面にも、蝶の群れが印象的に描かれています。
生者と死者の魂の交感の象徴として、沖縄の蝶を描いていたようにも思えます。
この丸木夫妻が描いた蝶は、どんな種類の蝶なのでしょうか?

アキノ隊員は、ひとめ見るなり、「あ、これはコノハチョウですね」と言いました。
沖縄県指定天然記念物に指定されていて、環境省のレッドリストにも載っている準絶滅危惧種だそうです。
現在は沖縄県北部にわずかに生息しているものの、「丸木夫妻が描いていた頃には、沖縄全域でも見られたかも……」とのこと。
浜比嘉島出身のアキノ隊員にとっては、4月のお墓参りの季節に先祖と重ねて見る蝶は黒い羽のジャコウアゲハだそうですが、いずれにしても、蝶が死者の魂のあらわれだという考え方は、あちこちに伝わっているそうです。

昆虫をテーマにしたトークショーで、丸木夫妻の作品についても勉強することができました。
楽しいトークを聞かせて下さったアキノ隊員に、心から感謝です。
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2014/8/15

『東京新聞』伝統芸能欄に神田香織さん講演会紹介  掲載雑誌・新聞

“神田香織 平和を叫ぶ 「はだしのゲン」語り28年”
 ―― 2014年8月15日付『東京新聞』朝刊伝統芸能欄より

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特別展示「はだしのゲン絵本原画展」のオープニング企画として、7月19日に丸木美術館で行われた講談師・神田香織さんの講演会の様子が紹介されました。
取材をして下さったのはライターの神野栄子さん。写真は丸木美術館スタッフのYさんです。

以下、記事からの抜粋です。

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 埼玉県東松山市の「原爆の図 丸木美術館」で開催中の漫画「はだしのゲン絵本原画展」(九月六日まで)。その初日の七月中旬、記念のイベントで演台の前に立った香織は「ゲンを語っていくうちに戦争と平和に対する考えが芽生えた」言霊(ことだま)が移り、演じるたび元気をもらいます」と語った。

 講談では香織の熱演にさく裂する原爆投下時の光と爆音が重なる。音と照明を使い、鬼気迫る熱地獄の極限を立体的に表現。父と姉、弟を亡くしながらもたくましく生きる少年ゲンの姿をあぶりだす。「魂の叫び」は客席をのみ込み、拍手はいつまでも続いた。


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2014/8/15

映画『GODZILLA ゴジラ』と秋の企画展  企画展

映画『GODZILLA ゴジラ』を観ました。
前回のハリウッド版とは違い、造形的には1954年の初代ゴジラへの敬意が感じられる重量感のあるゴジラで(それでも、首から上の造形にはやはり多少の違和感があったのですが)、かなり見応えはありました。

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もっとも、1950年代に頻繁に行われていた水爆実験は、実はゴジラを撃退するための「攻撃」だったというあまりにひどい正当化には、いかに米国制作の映画とはいえ、がっかりしました。

また、初代のように人類の文明に対する脅威として立ちはだかるのではなく、むしろムートーという新怪獣を撃退する、都合の良い「救世主」の存在になってしまっている点も、残念でした(商業化された日本における後期ゴジラの流れですね)。

初代ゴジラから「芹沢博士」の名を引用している渡辺謙扮する日本人科学者も、とってつけたように父親が広島で被爆死したという設定で、8時15分で止まってしまった形見の時計を持っているものの、ストーリーにあまり生かされていませんでした。

ゴジラの見せ方や放射熱線の迫力などはさすがと思わせる表現だったので、初代『ゴジラ』が抱えていた歴史観や哲学の重み、核に対する想像力も、しっかり継承して欲しいと思ったりもしました。

   *   *   *

さて、丸木美術館では、9月13日より、「ビキニ事件60年展 第五福竜丸→ゴジラ 1954→2014」展を開催いたします。
現在、展覧会の開催に向けて、準備を進めているところです。

この展覧会は、第五福竜丸やゴジラを直接扱うものではありません。
ビキニ事件から60年という節目の年に、第五福竜丸やゴジラから派生して現在まで続いている、核の脅威に対する想像力を展示するものです。

世界的に広がる反核運動の契機となったビキニ事件ですが、60年という歳月が経過した現在、思うことは、核は廃絶に向かうどころか、抑止力、エネルギー利用という名目で、むしろ私たちの日常に浸透し、世界じゅうを覆いつくしてしまったという現実です。

そうした現実に対し、私たち人間の想像力は、どのように迫ることができるのか。
3つの章に分かれた芸術表現から、隠されてしまった核の脅威への想像力を取り戻す。
今回の展覧会は、そんな挑戦的な試みです。

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 2014年は、太平洋ビキニ環礁における米軍の水爆実験によって、日本のマグロ漁船・第五福竜丸が被ばくしてから60年という節目の年に当たります。
 1954年3月1日未明、マーシャル諸島近海で操業中だった第五福竜丸は、米軍の水爆実験キャッスル作戦(ブラボー実験)に遭遇しました。降り注いだ放射性降下物「死の灰」を浴びた23名の乗組員は全員被ばくし、半年後の9月23日には、当時40歳だった無線長の久保山愛吉が死去。核実験による放射能汚染は広域に及び、多くの住民が居住していたロンゲラップ環礁に深刻な被害をもたらし、第五福竜丸以外にも1000隻近い漁船が被ばくしました。
 この事件をきっかけに、東京・杉並の主婦からはじまったと言われる原水爆反対の署名運動は全国に広がり、翌1955年8月には、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれました。また、ビキニ事件を受けて制作された映画『ゴジラ』は“水爆大怪獣映画”と銘打たれ、社会に大きな反響をもたらしました。
 ゴジラは米軍の水爆実験によって突然変異して目覚め、日本を襲撃するという設定で、可視化された核の象徴と見ることもできます。

 今展は、2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故を経た私たちの現在と未来が、60年前の被ばく事件とどのように接続していくのか、3つの章に分けて展示された芸術作品によって、想像力を拡げる試みです。
 原水爆禁止世界大会のポスターをはじめ、核や戦争に対峙する問題意識をテーマにしたデザインを数多く手がけたグラフィック・デザイナー粟津潔の仕事。
 今も精力的に原爆や第五福竜丸、福島原発事故など核被害の歴史を主題にした作品を描き続ける画家・イラストレーターの黒田征太郎が《原爆の図》に触発されて描き下ろした新作絵画群。
 そして1954年の映画のゴジラを「大きいゴジラ」、2011年3月の東日本大震災・福島原発事故で生まれたゴジラを「小さいゴジラ」と設定することで、ゴジラを現実につながる想像力として捉えた画家・長沢秀之のディレクションによる展示「大きいゴジラ、小さいゴジラ」。
 それぞれの想像力の連鎖によって、目に見えない核の脅威に、2014年という地点からどのように迫ることができるのか。
 この物語は、今も私たちの日常につながり、続いているのです。

【会期中の主な企画】 
●9月13日(土)午後2時 オープニングトーク「想像力としてのゴジラの復活」
 出演:長沢秀之(画家)+岡村幸宣(原爆の図 丸木美術館学芸員)
 参加費 500円(入館料別途)
 交通は市内循環バスをご利用ください。

●10月13日(月/祝)午後2時 黒田征太郎(画家)トークペインティング
 参加費 500円(入館料別途)
 当日は午後1時に東武東上線森林公園駅南口に送迎者が出ます。

●10月18日(土)午後2時 粟津潔 MEETS 秩父前衛派
 演奏:秩父前衛派=笹久保伸(ギター)、青木大輔(サンポーニャ)、イルマ・オスノ(歌)、トーク:粟津ケン(KEN主宰)
 参加費 1500円(入館料別途)
 交通は市内循環バスをご利用ください。

●11月2日(日)午後2時 特別講演「やわらかい はだ ―― 原爆の図は本当に原爆を描いたのか」
 出演:アーサー・ビナード(詩人)
 参加費 500円(入館料別途)
 当日は午後1時に東武東上線森林公園駅南口に送迎車が出ます。
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2014/8/14

RCCラジオ「日々感謝、ヒビカン。」8月6日放送  TV・ラジオ放送

今年の8月6日は、広島のRCCラジオの番組「日々感謝、ヒビカン。」に、詩人のアーサー・ビナードさんがゲスト出演して「被爆69年のヒロシマから」という特集が放送されました。

アーサーさんや青山高治アナウンサーら一行が丸木美術館を訪れたのは8月2日のこと。
そのときの印象も含めて、番組内ではたっぷり丸木夫妻の《原爆の図》が語られました。

3時間におよぶ番組であるにもかかわらず、Iディレクターが録音CDをお送りくださったので、以下、《原爆の図》に関連する主要な個所を文字に起こしておきます。
さすがはラジオ、と思うほど濃密な情報量で、素晴らしい内容です。

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青山高治(メインパーソナリティ) 戦争について原爆について後世に伝えるものはたくさんありますが、今日は原爆投下直後の広島を描いた《原爆の図》を取り上げてみたいと思います。
 あらためて簡単に紹介しますと、広島出身の水墨画家・丸木位里と、奥さんの油彩画家・丸木俊の共同制作で、1950年に発表された第1部《幽霊》をはじめとして、1982年の《長崎》まで全15部の連作となっています。
 日本はもちろん、世界中を巡回しておりまして、ちょうど今朝の『中国新聞』社会面に載っておりましたけど、来年、アメリカの首都ワシントンで展示されるのが決まったという会見が、昨日あったんですよね。

アーサー・ビナード(詩人) そうですね。ぼくも記者会見でしゃべったり、アメリカン大学のピーター・カズニック先生も来てて、通訳もやらせてもらったんですけど、本当に、アメリカの首都で70年のときに、一番、広島の本質をつかんでる絵の展覧会ができる意味は大きいと思うんですよね。カズニックさんが言ってたのは、70年たって、広島では多くの人が振り返って歴史を考える。アメリカでは来年がどういう一年になるか、わかりますよね。

田口麻衣(アシスタント) 戦争に、勝った、という言い方になるんでしょうか。

アーサー 戦争は、素晴らしかった……

青山 簡単に言うと祝賀ムードに包まれる。

アーサー 戦争は素晴らしかった、輝かしかった、正しかった。戦争はアメリカの正義の勝利だった。ナチスを負かしたのはアメリカだ。それだけでなくて、戦争を終わらせたのは原爆だという、根拠の全くない薄っぺらい歴史のペテン伝説が、また大々的に宣伝される一年になるわけです。
 原爆で戦争が終わったというのはフィクションですよ。ポツダム宣言が受諾になったのは、ソ連の満州侵攻ですよね、8月9日の。それは歴史的事実としてわかってるんだけど、戦争を早く終わらせたのは原爆だというまったく逆のことが来年唱えられる。その中心にあるのは、戦争はやっていいことだ、いいことがいっぱいあるということですよね。ガザを見て、アフガンを見て、イラクを見て、本質と全然違うということがわかるはずなのに、PRの力、70周年のお祝いムードが強く出てくる。
 そのなかで、戦争は子どもを焼いて殺して、みんなを焼いて殺して、生活を破壊していくものだという本質を伝える丸木位里さん、俊さんの絵をワシントンで展示するというのは意味が大きい。カズニックさんもそう言っていて、ぼくもまったくその通りだと思いました。

青山 この《原爆の図》、長崎の原爆資料館にある第15部《長崎》を除く14の作品が、現在、埼玉県東松山市にある原爆の図丸木美術館に所蔵されています。
 実は先日、本物の《原爆の図》を観るために丸木美術館へ行ってきまして、すごくのどかなところにあるんです。埼玉のなかでものどかなところで、向こうに行って、アーサーさんと会った時に、アーサーさんがいきなり、「ほらそこに、カブトムシがいるよ!」っていうくらい。

田口 そんなに!

アーサー 美術館のすぐ裏に川が流れていて、でも川は結構下の方で、その美術館のまわりに大きい木があって、立派なクヌギが、あれはなかなかないよね、クヌギの木の樹液を一番好むのは、カブトムシと、クワガタと、カナブンと、まあゴキブリも吸いにくるんですけど。

青山 正確に言えば、「ほら、カブトムシが交尾しているよ!」って言ってたんですけど。

アーサー いちゃいちゃしてたんですよ。青山さん、捕りたそうにしてたんですけど、まあ、交尾してたからちょっと遠慮した。

田口 それは遠慮してください。

青山 それくらい、自然に恵まれてて、都幾川という川が流れてるんですけど、広島の太田川にちょっと似ているというので、丸木位里さんの故郷に近いということで、その場所を選ばれたそうなんですね。

アーサー 位里さんは三滝の方が実家なので、ちょうど見下ろすような感じも似ている。

青山 そこに1967年に開館しまして、《原爆の図》はもちろん、お母さんのスマさん、素晴らしい絵を描かれるんですけど、妹のあやさんの作品も展示しているんですね。
 丸木美術館で学芸員を務める岡村幸宣さんに、《原爆の図》がどうして生まれたのか、聞いてきました。

岡村(録音)丸木夫妻は原爆投下の知らせを聞いて、位里のふるさとである広島にすぐに駆けつけたんですけど、そのときにはまだ原爆を描こうとは思っていなかったんですね。一カ月くらい夢中で広島で過ごして、東京に引き上げてきてから放射能の影響でずっと体の具合が思わしくなかった。そして、自分たちの命がどれだけ続くかわからない、生きているうちに、見たこと、体験したことを絵に描き残しておく、そういう責任があると考えはじめたわけですよね。
 それだけじゃなくて、当時はアメリカ軍の占領下にあったので、原爆の被害についての情報が新聞や雑誌などで公開されなかった。このままでいくと、忘れ去られてしまうかもしれない、その痛みを伝え残さなければいけないという思いもあったと思います。

青山 《原爆の図》のきっかけとなった丸木夫妻の思いを岡村さんに語っていただきましたけど、その思いが、かたまりとなって表れているような絵なんですよ。絵からものすごいパワーというかメッセージというか、描いた丸木夫妻の強い思いが感じられる作品なんですよね。

田口 結構大きな絵なんですよね。

アーサー 大きいですよ。包みこまれるような絵ですね。

青山 この惨状を後世に伝えるため、はじめは一作のつもりだったのが、30年以上という長い時間をかけて15部の連作となったという作品なんですが、ぼくは今回はじめて本物の《原爆の図》を拝見しました。

   *   *   *

青山 実はですね、この《原爆の図》を題材に、絵はこの《原爆の図》からとって、ストーリーはオリジナルというアーサーさんが考えた紙芝居が今回あるんですよね。

アーサー あるっていうか、作りつつあるっていうか。今日、発表しますけど。

青山 今日はこの後、高校生の皆さんの前で紙芝居を見て頂きたいと思いますが。

アーサー すみません、後で紙芝居のおじさんになります。紙芝居は、いろんなかたちがあって、昔自転車で走り回ってた人たちも自分でいろいろ工夫してたんですけど、今回、絵は位里さんと俊さんで、《原爆の図》ってものすごくスケールが大きいんですよね。とても把握できないような絵なので、それを小さい、B4くらいの絵にして見せても、迫力は伝わらないですよね。だって、屏風絵で、8枚……

田口 もともと、縦が1.8mで、横が7.2mの絵なんですよね。

アーサー それがいっぱいあると、絵を見てるっていう感覚じゃないでしょう。描かれている人物は、ほとんどこっちと同じ大きさだし、猫がいたり、犬がいたり、牛がいたり、いろんな動植物出てくるんだけど、結構本物なんだよね。そういう絵に囲まれてると、ルーブル美術館でセザンヌの絵と向き合うって感じじゃなくて、自分が当事者。

田口 その絵の中にいるような。

アーサー 自分が、幽霊たちといっしょに火の中を逃げ惑う、自分が核分裂の連鎖反応の放射線を受ける、自分が黒い雨に降られる、そういう体験をさせてくれる絵なんですよね。
 そのことを、ある時、童心社っていう紙芝居をたくさん作っている絵本の出版社の会長に話したんだよね。その会長はピカソの《ゲルニカ》が好きで、ちょうど見てきたというので、「ぼくは《ゲルニカ》もいいなあと思うんだけど、《原爆の図》の方が凄い」って言ったら、「そうですか?」と言うから、「そうだよ!」って語ったわけ。「《原爆の図》はただの絵じゃないんだよ。大作っていうのでもない。《原爆の図》は巨大な紙芝居なんだ」って言ったんですね。うっかり。そしたら、「紙芝居を作りなさい」って言われて。

田口 それがきっかけなんですか。

アーサー それが6年前。『さがしています』っていう絵本を作りはじめたときにそういう話をして。

田口 実際に絵のなかに入ったような気持ちにアーサーさんがなって、そこから聞こえてきた会話もあったんじゃないですか。

アーサー ぼくがはじめて広島に来たころに、位里さんと俊さんの絵にも出会って、ずっと広島を少しずつ体験した方々の話を聞きながら知っていく歩みと、《原爆の図》に包まれながらいろんな声を聞く歩みとは、ぼくのなかではいっしょなんですよね。だから絵は東松山、埼玉にあって、たくさんの人にたくさんのことを教わったのは広島なんですけど、ぼくのなかではまったく同じなんですよね。広島の本質が一番わかるのはあの15点の連作じゃないかっていう気がするんですね。

青山 ぼくは今まで画集などで見たことはあったんですけど、初めて今回、生で見る。見る前にアーサーが、「あのね、包まれるよ! 巻き込まれるよ!」って教えてくれるんです。どんな感覚なのかなって思って、しかも自分はアナウンサーなので、初めて絵を見るレポートもしているんですけど、没になったんです。アナウンサーなので、見る前にいくつか頭のなかでスイッチを入れて準備をしているんですよね。言葉の準備とか、こんなふうにしゃべろうとか、何となく準備をしているんですけど、その状態で《原爆の図》の前に立ったときに、何にもしゃべれませんでした。

田口 珍しいですね。

青山 固まって。

アーサー この人、何にもしゃべれなかった。ぼくはこっそり聞いていたんですけど。

青山 ずっとしばらくは、ごくっ、ごくっって唾をのむ音が入っている。

田口 えー。そんな感覚になったことは、今まで……

青山 なかったですね。そこで初めて、アーサーさんの言っていた、「包まれるんだよ」「巻き込まれるんだよ」っていう感覚が、わかりましたね。絵の前に自分が立ったっていう主導権を奪われるような。

アーサー そうだね。

青山 等身大の、人間と同じ大きさの赤ん坊、同じ大きさの猫が描かれていて、なおかつ、ちょっと目があうんですよね。そこに描かれている人たちと。

アーサー 俊さんと位里さんは本当に、才能も、二人の画家としての技術も対照的で、実は激しいぶつかり合いをしながら描いているんですけど。

青山 水墨画と西洋画のぶつかりあい。

アーサー 俊さんはとにかく人体がそのまま、本物の人間の体が描けちゃう人。そこに描かれている人たちが本当にいるんだよね。

田口 見たままの。

アーサー 見たままというか、すごく美術作品として工夫しているんだけど、手は本物の手だし、顔は本物の顔だし、生きた人間の存在感がそこにあるわけ。で、位里さんは、ぼかす達人なんですよね。原爆がもたらした空気の淀みとか、埃っぽさとか、火傷の皮膚感覚とか、そういうのを墨で。生きた人間がこういう状況のなかで、どういうふうになるかっていうことが、理屈じゃなくて迫ってくる。

青山 人間が描いてあるんです。動物が描いてある。《原爆の図》なんだけど、きのこ雲とかは描いてないんですよ。

アーサー そう。

青山 アーサーさん、これ、発表されてから、賛否両論が凄かったんですよね。

アーサー だろうね。

青山 発表された時に、原爆を体験していない人が、「これはあまりにも酷すぎる、大げさに描き過ぎじゃないか」という意見もあれば、原爆を体験した人たちが「これは美しく描き過ぎている、こんなものじゃなかった」という。

アーサー そうそう。でも、体験していないって言うんだけど、直後に入ってるんだよ、位里さんは。自分のふるさとなんだよ。それで、俊さんもすぐ後に入って、被ばくして、二人とも内部被ばくに苦しむわけだよね。だから、体験の線引きをどこでやりたいのか、ぼくにはよくわからないんだけれど、二人とも立派に体験してるし、いろんな人の面倒も見てるし、二人とも芸術家として持ってる才能のすべてを注ぎ込んで、ぶつかりあって作った。
 そういう作品が賛否両論を、議論を巻き起こすのは当然。だって、無関心ではいられない。原爆の図の凄さは、10人が見たら10人が受け取るものがあって、100人が見たら100人が受け取るものがあって、このあいだ青山さんと話したのは、ぼくは何度見てるかわからない。100回以上見てるんだよ。たぶん。岡村さんに「多過ぎる」って言われるかもしれないけどね。でも、画集は嫌というほど見てるし、紙芝居を作るために、数年間、ずっと睨めっこしてるわけ。毎回、違うんですよ。今回行って、ぼくもちょっと言葉を失ってた。というのは《幽霊》という1作目くまなく見ているはずなのに、今回行ったときに、違う人に見返されて、全然、違う景色になってた。

田口 先ほど、目が合うっていう表現をされましたけど。

青山 向かって右側に、横たわっている女性がいるんですけど、その女性とアーサーは向かい合うような感じで動けなくなっていて……。

田口 見る人によったら、違う方と対峙するような。

アーサー あるいは、人でなくて犬とつながる。そういうことを絵で体験させてくれるものは、ぼくは他にないような気がする。

青山 それは学芸員の岡村さんもいっしょで、「見るたびに新しい発見がある」って言ってるんですよね。
 再び、《原爆の図》を通して丸木夫妻が残したメッセージとは何だったのかを、丸木美術館学芸員の岡村さんに聞いています。

岡村(録音) もう、丸木夫妻が《原爆の図》を描いた時点――1950年という最初の《原爆の図》が発表された年は、朝鮮戦争がはじまった年でもあるんです――その時点で、過去の原爆の記憶だけじゃなくて、これから生まれてくる未来の被害についての想像力も働いていたはずなんですね。過去と未来、両方に想像力を広げていく。2014年の今を生きている私たちにも共通している問題意識なんじゃないかと思います。
 芸術作品なので、基本的には絵を見ることから受け止めるものは一人一人違っていいと思うんですね。ただ、考えるための場所であって欲しい。今まで自分たちが見ている世界と、何かが違って見えるような、新しい発見が丸木夫妻の絵の中に潜んでいると思うんです。時代を超えて、いつの時代にも共通するような問題ですね。
 それは戦争だけに限らないかもしれない。いつの時代にもわれわれには悩みや葛藤があり、身近なところで起きている暴力のなかで生きているわけで、そういうときに絵を見ることで、ふと自分ではないどこかの誰かの痛みを感じてもらえるんじゃないか。その痛みを感じることで、世界が違って見える、これから先の未来が違って見えてくるようなことがあるんじゃないか。そういう力を丸木夫妻の作品は持ってるんじゃないかと、信じてるんですね。

青山 原爆の図第8部《救出》という作品がありまして、その左側に、原爆投下後に広島に入って救出活動を続けて二次被ばくをした人が描かれているんですね。この作品は、1954年の第五福竜丸事件の後に描かれて、放射能の問題を意識して描いたのではないかと推測されるんですけど、岡村さんは、最近見ると3.11以後の今につながる意味をすごく感じると言われてて、見るたびに新しいものが見えてくるとおっしゃってますね。

アーサー そうですね。丸木位里さんと俊さんは、そういう見渡す力のある人だったんですよね。だから、見て「わかった」「この絵わかった」とこっちが思っちゃうと、後で、全然わかってなかったということがわかるんです。見通す力が本当に凄くて、それが二人の言葉にも現われてるんですね。画集を読むと、いろんなところに、絵について書かれたものも、二人がちょうどそのとき考えていたようなものもあって、ぼくが画集をこないだ読みなおしてて、位里さんと俊さんがずっと前に書いた文章なんだけど、こういうふうに書いてるんですね。
 「戦争のとき、広島、長崎の原子爆弾で殺されました。平和になったとき、原子爆弾は原子力発電所に化けて出ました。エネルギー平和利用の名のもとで放射能がばらまかれているんです。原子力発電所が動いているとプルトニウムが蓄積されていくということです。ある日、日本は巨大な原爆保有国に早変わりするのではないでしょうか。」
 まさに今、起きている、起きようとしていることが、淡々と普通に会話するように書いてるんですね。《原爆の図》も凄く美術作品として工夫されてるんだけど、凄く自然体で人間を描いてるんだよね。赤ん坊が横たわっていて、凄まじい状況のなかで存在しているんだけど、その赤ん坊だけを見ると、何かこう、赤ん坊なんだよね。普通に、ぼくらのまわりにいる天使のような赤ん坊がそこにいるんだっていうそういうふうに感じさせてくれるんだよね。

   *   *   *

青山 丸木美術館なんですが、毎年、8月6日に、目の前を流れる都幾川で、平和を願っての灯ろう流しを行っているそうです。

田口 へええ、そうなんですね。

青山 それも、みんな笑顔で楽しく、自分の手作りの灯ろうを流したりするそうなんですけど、あそこへ行って思ったのは、関東にこういう場所が、《原爆の図》が置いてあるのは、凄く意味があることだなと思いましたね。
 学芸員の岡村さんが「広島にあった方がいいのかもしれませんけど」と仰っていましたけど、関東にああいった広島に触れることができる場所があるというのも、凄く大切なことだなと思いましたよ。

アーサー そうですね。広島は広島の問題じゃない。広島は世界の問題であって、もちろん、関東で一番考えなきゃいけない問題だから。ぼくも最初は、「え、埼玉にあるの」って思ったんだけど、今は埼玉にあって良かったなって思うんだよね。

青山 実際、修学旅行で来たりとか、学校の道徳の時間で来たりとか、見学も多いそうなんですね。

   *   *   *

青山 ここで皆さんからたくさんメール、FAXなどが届いているので、ご紹介しましょう。

田口 「今日8月6日は、広島にとって祈りの日ですね。あの日から69年、私の父は7歳のときに西区の己斐で被爆し、いまだに左足の甲に破片が入っていて、原爆のことはあまり語らなかったのに、やはり自分が生きているうちに語らないといけないと、最近になって被爆当日のことを詳細に語ってくれ、その惨たらしい地獄絵図のような光景だったことを聞き、あらためて原爆の恐ろしさを教えてもらいました。被爆者の高齢化が進み、このままでは語り継ぐ者がいなくなることに、私の父は危惧しており、これからも時間があれば父の話をしっかりと聞き、これからの先の将来、私よりも次の世代の方へと語り継いでいきたいと思う祈りの日でした。」

アーサー 本当ですね。今まで語れなかった方がたが語るというのは、とても重要なことで、50年前にやっと語り出した人もいれば、40年前にやっと語り出した人もいる、30年前にやっと語り出した人もいて、昨日やっと語り出した人もいるんですよね。
 そこにどういう意味が潜んでるかというと、広島で起きたこと、広島で使われたウラン弾がもたらしたことは、ぼくらにとっては未発見なんですよね。まだわかんないんです。だってまだ聞いてない話がゴマンとあるんですよ。今日になってもまだ語れない人がたくさんいる。まだ聞けてない話も、語れない人がいるだけじゃなくて、語れずに亡くなった人たちの話だってある。それを私たちがどうやって掘り起こして、どうやってモノ言えぬモノから聞き出したり、いろんな歴史の事実を掘り下げて聞き出したりするかっていう、それが今問われている問題ですよね。
 今のメッセージのなかでも、誰が語り継ぐかってお父さまが危機感があるんですけど、語るっていうことは、発見していくこと。それをやる必要は70年たっても80年たっても180年たっても同じだと思うんですよね。それをやっていく流れがとても重要だし、それを背負っているのは実はぼくらなんですよね。
 丸木位里さんと俊さんが8月6日の朝広島にいなかった。そこが大きな問題かっていうと、ぼくはそんなに大きな問題じゃないと思うんだよね。彼らがどうやって体験を引き受けたか。ぼくらも同じことが問われているんですよね。引き受けるか、引き受けられるか、どうやって掘り下げるか。こういう風に語り出した人の話を聞くと、力が沸いてきますよね。

青山 本当に、語れなかったわけですもんね。語るのがつらかった、語るのに時間がかかった。語れなかった人たちが、今、いろんなことに気づいて、語り出しているという人もいらっしゃるわけですよね。

アーサー ぼく考えるんですよね。たくさんの人がたくさんの話をぼくにして下さっていて、それで自分が少し書いたりしているんですけど、自分がもし体験していたら、語れたんだろうかって思うんですよね。語れなかったかもしれない。ぼくがもし、8月6日の朝、69年前の今日、広島にいて、ピカにあってたら、書けなかったかもしれないんだよね。そう思うと、いかに大きなものをみんな背負ってるか、そういうことも実感できるんですよね。

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番組ではこの後、広島や福島の高校生とアーサーさんとの語らいがあり、アーサーさんが高校生の前で紙芝居『やわらかい はだ』の現時点での原稿案を演じるという風に続いていくのですが、文字起こしはここまでにしておきます。

紙芝居『やわらかい はだ』は、最後までアーサーさんが推敲を重ねた後に、童心社から出版される予定です(刊行時期は未定)。《原爆の図》を大胆にトリミングし、物語も完全なオリジナルに近いかたちに再構成されていますので、はじめて《原爆の図》に触れる方も、「何度も見た」という方も、新しい作品として多くの発見があるのではないでしょうか。

8月6日という大事な日に、素晴らしい番組を制作して下さったRCCラジオの皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2014/8/13

愛知県美「これからの写真」/名古屋市美「挑戦する日本画」/「痕跡」  館外展・関連企画

8月最初の休日は、名古屋へ。
午前中に愛知県美術館で開催中の「これからの写真」を観に行きました。

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新井卓、加納俊輔、川内倫子、木村友紀、鈴木崇、鷹野隆大、田代一倫、田村友一郎、畠山直哉という9名の芸術家、写真家の多様な作品を展示して、「写真」という枠組みが揺らぐ時代における可能性を探る展覧会です。

新井卓さんは、2012年夏に丸木美術館で個展を開催している銀板写真(ダゲレオタイプ)の写真家。
今回の展覧会では、丸木美術館でも展示した「3.11後」の福島のシリーズをはじめ、米国の核実験場トリニティ・サイトや第五福竜丸、広島、長崎という核の歴史を主題にした写真が展示されていました。

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ダゲレオタイプは写真の最初期の技法ということで、ただでさえ手間と時間のかかる撮影手法なのですが、さらにひとつの被写体をいくつもの画面に区切って撮影してならべるという、想像もつかないほどの労力から生み出されるのが「多焦点モニュメント」の作品です。

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この複雑に存在する焦点によって、歴史的モニュメントが無数の個人の記憶へと解体されていくような、新井さんらしい作品です。

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会場には第五福竜丸展示館に保存されているビキニ事件の際の放射性降下物「死の灰」も展示されていました。

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瓶の奥に設置されている放射線測定器によって、大気中の放射線量が一定に達すると、展示室中央の水銀灯が、核の閃光を連想させるほどの強い光を発するという仕掛けも興味深く思いました。
その光が発せられたときだけ、トリニティサイトのモニュメントの写真や長崎の爆心地をとらえた銀板写真が見えるようになるという仕掛けです。

   *   *   *

このほかにも、鉱山をダイナマイトで発破する瞬間を撮影した畠山直哉さんや、震災後の東北をまわりながらその日常のなかで生きる人びとの姿をポートレートとして撮影し続けてきた田代一倫さんなど、興味深い展示を見て回っていたのですが……実はこの日の朝、鷹野隆大さんの作品シリーズ「おれと」をめぐって愛知県警が猥褻物陳列罪に抵触する可能性があるとして撤去を求め、展示作品の一部が隠されたというニュースが流れていたのでした。

http://www.asahi.com/articles/ASG8D65H8G8DOIPE034.html

そうとは知らない私は、鷹野さんの展示室に入り、裸体の上で冷房の風にヒラヒラと揺れている半透明の薄紙を目にして、どうしてこんな(ある意味で、むしろ作品を猥褻にするような)ものがついているのかと思わずめくってしまい、監視の方の注意を受けてしまいました。

後で新井さんを通じてさまざまな状況がわかってくるのですが、明治期の黒田清輝の裸体画をめぐる「腰巻事件」のパロディのような対処によって、ある意味では作品の問題意識を増幅させ、公権力の介入さえも物語に取り込んでしまう作者の対応の鮮やかさが見事でした。

http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/301249/

新井さんは、愛知県警に対し、鷹野隆大さんの展示への不当介入の撤回を求める署名も集めています。私も行きがかりで賛同人に名を連ねましたが、以下のWEBサイトから署名ができますので、どうぞよろしくお願いいたします。
http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E8%AD%A6%E5%AF%9F-%E6%9C%A8%E5%B2%A1%E4%BF%9D%E9%9B%85-%E6%AE%BF-%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E7%BE%8E-%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F-%E5%B1%95-%E9%B7%B9%E9%87%8E%E9%9A%86%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E5%B1%95%E7%A4%BA%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%BD%93%E4%BB%8B%E5%85%A5%E3%81%AE%E6%92%A4%E5%9B%9E

   *   *   *

午後は名古屋市美術館で開催中の「挑戦する日本画」展へ。

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この展覧会には、原爆の図 第6部《原子野》と丸木位里の水墨画《牡丹》が出品されています。
「日本画滅亡論を超えて」という副題がありますが、戦後の新しい日本社会の現実に対応できない「日本画」への批判を超えて、「日本画」の革新を目ざした画家たちの作品を見つめなおす内容です。

2010年から11年にかけて、戦前の日本画の革新に焦点を当てた「『日本画』の前衛」展が京都、東京、広島で開催されましたが、今回の名古屋市美術館の企画は、その戦後版といったところ。
そして、その両方の展覧会に、丸木位里という名が連なっていることの意味を、あらためて考えさせられました。
もちろん、岩橋英遠や三上誠、星野眞吾、山崎隆ら二つの展覧会に名を連ねている画家は他にもいるのですが、位里の場合、シュルレアリスムを「日本画」に取り入れようとした戦前の革新と、雄大な水墨の大画面に挑んだ戦後の革新の意味は異なります。
戦前、戦後の二度の革新の流れに、それぞれ違う表現で関わっていたという彼の実験精神は、もっと注目されて良いのかも知れません。

この展覧会の図録の冒頭には、何と日本国憲法の前文の一部が掲げられています。

日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を
地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ


展覧会を企画した山田諭学芸員の論文には、戦後の日本の急速な復興を支えた根幹には日本国憲法の三大原則「国民主権(民主主義)」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」があり、「日本画」の変革に向かった美術家たちの批判精神も、これらの理念に基づいていたという指摘がありました。

彼らの目ざした「日本画」の変革とは「世界」に挑戦する絵画の創造だったのだ、という思いをかみしめる内容の濃い展覧会でした。

   *   *   *

夕方の新幹線に乗って東京へ戻り、午後7時半からは、来年1月に閉館が予定されている青山円形劇場で、劇団KAKUTA公演「痕跡」を観ました。
出演女優の斉藤とも子さんからお誘い頂いた舞台です。

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嵐の夜に発生した子どものひき逃げ事件。事件の被害者、加害者、目撃者、そして偶然通りかかった一人の男。はじめは交わりの見えなかった群像劇が、次第につながって、事件の真相に近づいていく……。

希望と絶望がないまぜになった社会の荒波のなかで、日本戸籍を得るために偽装結婚をする韓国や中国出身の若い女性、失踪者として名前を変えて生きていく男性など、人生の重みを背負った個性的な登場人物たちの懸命に生きているリアリティが、ときに滑稽に、もの悲しく、舞台上で展開されます。
斉藤とも子さんは、息子を事故で失いながらも、最後まで生存をあきらめずに捜索を続ける余命半年の母親の役を、切なく清楚に、しかし熱く、演じられていました。

http://news.walkerplus.com/article/49443/

終演後、斉藤さんにご挨拶をして、帰宅。
8月の丸木美術館は慌ただしく、なかなか休みが取れないのですが、貴重な休日に充実した時間を過ごすことができました。
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2014/8/13

『北海道新聞』に原爆の図米国展記事掲載  掲載雑誌・新聞

“「原爆の図」ワシントンへ 故丸木夫妻の代表作 来夏展示”
 ――2014年8月13日『北海道新聞』朝刊より

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先日、『東京新聞』などでも報じられましたが、来年夏に米国ワシントンのアメリカン大学での開催が決まった「原爆の図展」の紹介記事です。
執筆して下さったのは、東京支局の山本倫子記者。
わざわざ丸木美術館まで足を運んで下さって、丁寧に取材して下さいました。
どうもありがとうございます。

以下、記事からの抜粋です。

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 米国での展示実現は、原爆投下に否定的なアメリカン大のピーター・カズニック教授(現代アメリカ史)が今春、同美術館を訪れたことがきっかけ。カズニック教授が米国での展示を美術館側に提案し、美術館も以前から米国開催の構想があったため、来年6月中旬から8月中旬にワシントンのアメリカン大美術館での展示が決まった。

[中略]

 作品を「迫力と美しさと恐ろしさを持つ作品」と評価するカズニック教授は「米国は来年、大戦勝利の70年で、国家をあげて米軍がいかに素晴らしい事をやったかが宣伝される。しかし、いい戦争などない。(作品は)アメリカ市民に核の恐ろしさや危険について考える大きな力となる」という。

 丸木美術館の岡村幸宣学芸員は「核保有国が増え、脅威が高まっている中で、作品が持つ意味はますます重要になっている。きのこ雲の下にいた人々の命の視点で核を見つめ、国境を越えた危機意識を持ってほしい」と話す。


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原爆の図アメリカ展についての詳しい情報は、こちらをご覧ください。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2015/2015america.html
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2014/8/12

『毎日新聞』「論争」の戦後70年 第5回[原爆を語り継ぐ絵]  掲載雑誌・新聞

「論争」の戦後70年:第5回[原爆を語り継ぐ絵]“立場超える「ノーモア」”
本日8月12日付『毎日新聞』朝刊オピニオン欄に、丸木夫妻の《原爆の図》と「市民の描いた原爆の絵」、中沢啓治『はだしのゲン』をとりあげた記事が掲載されました。

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記事全文は、毎日新聞のサイトでご覧になれます(無料会員登録が必要)。
http://mainichi.jp/shimen/news/20140812ddm004070029000c.html

以下、《原爆の図》関連個所のみ抜粋します。

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 世界で最も知られる原爆の絵画、「原爆の図」。水墨画家の丸木位里(いり)さん(1901〜95年、現広島市出身)、洋画家の俊(とし)さん(12〜2000年、北海道出身)夫妻の共同制作による「幽霊」(50年)から「長崎」(82年)までの15部の連作だ。各縦180センチ・横720センチの屏風(びょうぶ)画は、俊さんが添えた説明文とで一つの作品を成すと言える。

 高評価の一方、「原爆投下の当日に広島にいなかった」「50年代、共産党の花形文化人だった(64年に党の方針を巡って除名)」ことを理由に、作品の真実性に加え、「美術ではなく政治的宣伝」との批判にさらされ、美術界で論争を呼んだ。

 45年8月6日、夫妻は埼玉県に疎開中だった。翌日の大本営発表「B29、広島に新型爆弾。相当の被害」を報じた8日付新聞を見て、位里さんはすぐに帰郷した。東京から急行で19時間。俊さんも追って広島入りした。まだ占領下の50年、東京都美術館で開かれた日本美術会主催のアンデパンダン展で発表した「八月六日」(後に「幽霊」)は人々を驚かせた。異様な群像。「誇張だろう」の声に、「これどころではなかった」と反論した被爆者の老人が、「このくらいで原爆を描いたと思われては困る」と会場にいた俊さんに迫った。応えるように夫妻は、同年に「火」「水」、51〜52年に「虹」「少年少女」「原子野」と第2〜6部を完成。連作は全国を巡り、53年までに少なくとも36都道府県で計数百万人が観覧したとされる。

 さらに、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が米核実験で被ばくしたビキニ事件(54年)後に描いた第9部「焼津」、第10部「署名」を含め、20以上の国と地域で巡回展が開かれた。70〜71年に米国でも公開され、帰国後に制作した第13部「米兵捕虜の死」(71年)、第14部「からす」(72年)で、日本の戦争責任や加害者意識を表した。

 「『原爆の図』描かれた<記憶>、語られた<絵画>」の著者で近現代史研究者の小沢節子さん(58)は「聞き取りや入手した被爆写真を基にした生者と死者の姿は、そもそも誰も語り尽くせない出来事を、多くの人に伝えるという困難さを背負って描かれた。(原爆投下当日の)非体験者でも、深い関わりによって当事者性を得ている。政治的宣伝という側面だけで論じることは、作品の絵画的な価値を見失うことになる」と話す。67年に開館した「原爆の図丸木美術館」(埼玉県東松山市)の学芸員、岡村幸宣さん(40)も「原爆を表現することの困難さを越えて記憶を継承していく。これからますます意味を持つ」と強調する。

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「ノートから」欄には、映画監督ジャン・ユンカーマンさんのコメントも掲載。
取材して下さった奥村博史記者に御礼を申し上げます。
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