2014/7/30

『朝日新聞』に「竹田信平展」紹介記事掲載  掲載雑誌・新聞

“米大陸の被爆者 刻まれた記憶 メキシコ拠点の竹田信平、埼玉で個展”
 ――2014年7月30日付『朝日新聞』夕刊文化欄より。

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先日、『朝日新聞』関西版に掲載された加戸靖史論説委員による「竹田信平展」の紹介記事が、全国版の夕刊文化欄に掲載されました。

以下のWEBサイトで記事全文を読むことができます(要無料会員登録)。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11274710.html

記事から一部を抜粋します。

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 α崩壊は、原子核が放射線を出して変化すること。被爆者の感情に共鳴した自分の変化が、他人にも反応をもたらす、との含意を込めた。竹田は音声を電子的に分析した声紋に着目。模様の振れに、人格を感じ取った。パソコンで印刷した声紋を一つひとつ写し取り、展示空間を埋めた。

 各地を回った日々を「α崩壊 現代アートはいかに原爆の記憶を表現しうるか」(現代書館)として出版。9月6日まで個展「ベータ崩壊」も開催中だ。メキシコ先住民の伝統織物の下地に自身の記憶を描き、人間の奥に潜む残虐性を探る作品を展示している。


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展覧会をご紹介くださった加戸靖史編集委員に、心から御礼を申し上げます。
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2014/7/29

『JAPAN TIMES』に「はだしのゲン絵本原画展」紹介  掲載雑誌・新聞

“Original ‘Barefoot Gen’ manga on atomic bombings goes on display”
2014年7月29日付『JAPAN TIMES』に、現在開催中の企画展「はだしのゲン絵本原画展」が紹介されました。

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以下のWEBページで全文をご覧いただくことができます。

http://www.japantimes.co.jp/news/2014/07/28/national/original-barefoot-gen-manga-on-atomic-bombings-goes-on-display/#.U9eioOnlrIV

記事の後半では、丸木美術館の常設展示である《原爆の図》や、秋の企画展「ビキニ事件60年 第五福竜丸/ゴジラ 1954→2014」の内容も紹介されています。

丁寧に取材して下さった共同通信の平野恵嗣記者に、心から感謝いたします。
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2014/7/27

長岡市立中央図書館にて講演会  講演・発表

長岡市立中央図書館2階美術センターで開催中の「原爆の図展」
朝から新幹線で長岡に向かい、午前中に会場をまわりながらギャラリートーク、そして午後に「いのちを描いたふたりの画家−丸木位里・俊の遺したもの」と題する講演会を行いました。

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長岡での《原爆の図》の展覧会は、1952年6月19日から長岡市立阪之上小学校で開催されたという記録があります(下写真、1952年6月7日付『朝日新聞』より)。今回の展覧会は、そのとき以来、実に62年ぶりの長岡開催ということになります。

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画像は、長岡市立中央図書館のS主査が素早く調べて提供して下さいました。
記事にはただ「原爆展」とあるだけなので、これだけでは《原爆の図》の展覧会とは別の企画の可能性も考えられますが、当時、《原爆の図》を背負って全国を巡回していたヨシダ・ヨシエ、野々下徹のメモにも1952年6月に長岡で開催との記録があるので、同一のものと判断して間違いないでしょう。
おそらく、版画家の上野誠の主導によって、1952年3月から、塩沢町、六日町、十日町、新潟市、加茂町、柏崎町、高田市、三条市と新潟県内各地を巡回した巡回展の一環だったと思われます。

今回の講演会では、こうした新潟と《原爆の図》の関わりなども交えながら、丸木夫妻の個々の画業、《原爆の図》の誕生とその後の展開などを、映像資料によって紹介しました。

ご参加くださった方は、約80人。
「62年前の長岡展をご覧になった方はいらっしゃいますか?」と会場に向かってお聞きしたところ、数人の方が手をあげて下さいました。
午前中のギャラリートークの参加者の中には、1951年の桐生展をご覧になったという方もいらっしゃいました。
《原爆の図》が当時いかに強い印象を残し、今にいたるまで深く記憶に刻まれていたのかを知る貴重な機会になりました。

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写真は長岡市の広報で紹介された展覧会情報です。
講演の後、参加者の方々がご記入くださった感想文を読ませて頂きました。
ほとんどの方が好意的な感想を残して下さったことに、何より安心いたしました。
お世話になった中央図書館のスタッフの皆さま(帰りにタクシーに乗った際には、総出でお見送りをして下さいました)はじめ、温かく迎えて下さった方々に、心より御礼を申し上げます。
展覧会は8月10日まで続きます。ぜひ、お近くの方は、長岡で《原爆の図》をご覧ください。
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2014/7/26

映画『ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード』上映/竹田信平展作家トーク  企画展

いよいよ企画展「竹田信平 ベータ崩壊展」がはじまりました。

初日の午後2時からは、映画『ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード』(2010年、竹田信平監督)の上映会と作家トークを開催。
会場には、約30人の方が来場して下さいました。

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『ヒロシマ・ナガサキ ダウンロード』は、米国に移住した被爆者たちをたどり、証言を集め続ける竹田さんと友人の旅を記録したドキュメンタリ映画です。



アメリカへわたり、長く封印していた被爆の記憶を、目の前の出来事のように語り、涙を流す〈被爆者〉たち。そして、偶然泊まった宿の主人であり、体験談を語るホロコーストの生き残りの女性。

映画は、それらの証言を記録するというだけでなく、過酷な過去を抱えながら生きてきた戦争の体験者たちと、浮遊するように〈何か〉を探し続ける現代の若者のあいだの実感の断絶を照らし出しているようにも見えました。

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竹田さんは南北アメリカ在住被爆者の証言を集め、国連軍縮部との共同プロジェクトで多言語ウェブサイト「HIROSHIMA NAGASAKI DOWNLOAD MEMORIES FROM THE AMERICAS」として公開しています。
http://www.hiroshima-nagasaki.com/

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その一方で、その編集過程で目にした被爆者の声紋図を写し取り、インスタレーション作品「アルファ崩壊」として、これまでメキシコのティファナやメキシコシティ、日本の東京や沖縄、中国の北京などで公開してきました。
「アルファ崩壊」とは、放射線としてアルファ線(α線)を放出する放射性崩壊の一種のこと。
被爆者の証言を単なる「情報」としてとらえるのでなく、言葉を超えた部分で共有・継承していきたいという竹田さんは、みずからの身体に刻みこむように声紋をなぞり、作品として〈記録〉していったのです。

声紋を写し取ること、その作品を展示して見せることが、被爆体験の継承に有効な手段であるかと問われれば、それは私にもわかりません。
むしろ継承の不可能性を示しているのかもしれません。
本当の意味での継承の不可能性を知りながら、それでも身体に刻むように(竹田さんの行為は写経を連想したりもします)記憶の痕跡をたどり続ける。そうせざるをえないという思いが、竹田さんのプロジェクトの根源にあるのかもしれません。

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竹田さんのトークを聴きながら、彼の作品そのものが被爆体験の継承をテーマにしているだけでなく、その作品が展示される場所の歴史も、声紋と〈共振〉しながら、記憶を掘り起こし継承していくことの意味を深めているのだろうと感じました。

竹田さんが活動拠点にしているメキシコとアメリカの国境の町ティファナ。
そして東アジアの複雑な政治・歴史を反映する沖縄や北京。
われわれが継承すべき不条理の歴史や悲しみの記憶は、広島・長崎だけでは、もちろんないわけです。

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その竹田さんが今回選んでくれたのが、丸木美術館という場所。
《原爆の図》のならぶ美術館で、「アルファ崩壊」に続く新たなシリーズ「ベータ崩壊」がスタートしたのです。
メキシコ・オアハカの先住民族サポテカ族の伝統的な織の技術で作られた糸の束に、「アルファ崩壊」の声紋を反転させた模様を染めたスケールの大きな作品。
手前の小展示室の壁面には、「アルファ崩壊」の声紋も書き刻まれました。

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展覧会は9月6日(土)まで開催されます。
今回の展示が、竹田さんの今後の活動に、新たな刺激を与える機会となれば幸いです。
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2014/7/25

「竹田信平 ベータ崩壊展」展示完成!  企画展

ここ2週間ほど企画展示室で作業を続けてきた竹田信平さんの展示作品が、ようやくできあがりました。
企画展示室いっぱいに設置されたスケールの大きなインスタレーションです。

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竹田さんはメキシコのアメリカとの国境の町ティファナ在住の現代美術家で、北米や中南米に戦後移住した被爆者の証言を集めてきました。
今回の展示「ベータ崩壊」は、これまで国内外で発表してきた被爆者の声紋の「振れ」を主題にした「アルファ崩壊」を発展させた新シリーズです。

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個別の体験を語る「言葉」ではなく、その根底にある言葉にならない無数の「感情」の集合体を、「ノイズ」のような微細な模様のついた糸を束ねることで抽象的に表現した作品と言っていいのでしょうか。

大きく開いた環の前に立つと、70年前の過去へと続いていく「時間」や「記憶」の渦の中に、吸い込まれそうな錯覚がします。

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写真左が竹田信平さん。
このたび、現代書館から『α崩壊 現代アートはいかに原爆の記憶を表現しうるか』(3024円、丸木美術館でも取り扱い中)を刊行されました。
2012年には北京でも個展を開催していて、そのときの興味深い展評が「artscape」にも掲載されています。
http://artscape.jp/focus/10058599_1635.html

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最後は展示を手伝ったスタッフの皆さんといっしょに作品の前で記念撮影。
画面左端は若いメキシコ人アシスタントのホセ。
この日は彼の撮影しているビデオ映像のために、丸木美術館や竹田信平作品についてのインタビューにも答えました。

   *   *   *

そして、本日、2014年7月25日付『朝日新聞』関西版夕刊文化欄に、竹田信平さんの新著と展覧会を紹介する記事が掲載されました。
執筆して下さったのは、論説委員の加戸靖史さん。
関東圏で読めないのが残念ですが、簡潔で要領を得たとても良い記事です。

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7月26日(土)午後2時からは、オープニング企画として、竹田さん監督の映画『ヒロシマ・ナガサキダウンロード』(2010年)の上映と、作家トークを開催いたします。
多くの方のご来場をお待ちしています。
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2014/7/23

久しぶりの丸木スマ展示室  作品・資料

ひろしま忌も近づき、午前中は事務局員のYさん、午後は岡村が順番に草刈りを行いました。
とうろう流しを行う都幾川へ続く河川敷の道の整備です。
炎天下で道なき道の草を刈る作業は毎年たいへんで、自然と人間の共生の困難さを実感します。

さて、この夏は、久しぶりにひと部屋を使って「丸木スマ展示室」を設けました。
展示作品は全部で8点と決して多くはありませんが、今回の見どころは、スマさんと直接的、間接的に縁のあった各界の人たちがスマさんの絵について語っている文章などを、絵とともに抜粋して展示している点です。

今までやったことのない試みで、意外な人物との接点が興味深く感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

以下は、スマさんの絵と文章によるバーチャル展示。
ぜひこの機会に、実物をご覧になることをお勧めします。展示は9月6日まで。

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簪(かんざし) 1955年

 俊先生が、「簪」と題せられた作品について、スマさんの「生涯の曼荼羅図(まんだらず)となりました」と書かれているけれども、すべてからうつつに匂い立ってくるのは、現代のわたしどもが、観念としてしかとらえられなくなっている曼荼羅の世界である。
 ひとりの田舎の、名もない(位里先生の母堂とはいえ)百姓老婆の上に蘇ったこの世界は、たぶん現代という荒野に起きたひとつの秘蹟ではあるまいか。神さまがひそかに約束なされていた地に、ほかならぬ丸木スマというしるしの血に、それがあらわれたのだとわたしには思える。
 日本という、かつては香しかった地が、人類史の悪しき必然の中で、本来の姿を喪ってしまった時に、丸木スマという耤(せき)やしていた老いた女に悲しみの地の霊が宿り、神は約束の土地の、血を受け継ぐものに、香しいしるしの世界を、ひらかせ給うたのではあるまいか。丸木スマの手を借りて、それを描かせ給うたのではあるまいか。


 ――石牟礼道子「黙示的な野の光」(1985年)より

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ひまわり 制作年不詳

 ゴッホの「ひまわり」の絵は一度見たら忘れられない。が、あえていうとすれば、ぼくは丸木スマの「ひまわり」の印象のほうが強烈だ。たったの一輪が、花びらと葉を大きく広げてすっくと立ち、茎の下までは描かれていなくても、切り花じゃなしに逞しく根を張った向日葵だと分かる。日光を集め、地中から水分を吸い上げている力が、絵から確実に伝わってくる。そしてその構図よりも、大胆なのは色だ。向日葵の茎も葉もコバルトブルーに描かれている。

 ――アーサー・ビナード「村の夕暮れ」(2004年)より

   *   *   *

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村の夕暮れ 1954年

以前、原爆の図丸木美術館で開催された「丸木スマ」へ出かけ、「ひまわり」をはじめ八十点の輝かしい絵に会ってきた。「村の夕暮れ」と題した風景画の前で、ロングフェローの「いまわの挨拶」という詩が、久しぶりに頭に浮かんできた。

  For age is opportunity no less
  Than youth itself, though in another dress,
  And as the evening twilight fades away
  The sky is filled with stars, invisible day.

  見栄えは違うが、本当は老いが、若さに
  負けないくらいの可能性を孕んでいる。
  日が沈み、夕闇が迫ると、昼間はまったく
  見えなかった星が、天いっぱいに現れる。


 ――アーサー・ビナード「村の夕暮れ」(2004年)より

   *   *   *

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河童 制作年不詳

 この本のために、私は諸先輩に奇妙奇天烈なお願いをした。四十三篇をそれぞれ異なった人たちのカッパ・カットで飾りたかったからである。これまで一度もカッパをかいたことのない人たちが多かったにちがいないし、多分、私の依頼は突飛で変てこな無理難題であったであろう。それにもかかわらず、承諾して下さった方々が次々にカッパのカットを寄せられ、私を狂喜させた。特に、つけ加えておきたいのは、お婆さん画家丸木スマさんのカッパが入ったことである。八十数歳で絵をかきはじめた丸木さんは私をおどろかせたが、画集が出版されるとき、私はすすんで推薦文を書いた。すると、よろこんだスマさんが、火野さんはカッパ好きだからといつて、生まれてはじめてというカッパの絵を彩色入りでかいて下さった。ところが、そのスマさんは、気の毒なことに、まもなく不慮の死を遂げたので、カッパの絵が形見みたいになってしまった。

 ――火野葦平『河童曼荼羅』(1957年)より

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内海の魚 1954年

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暮れる畑 1952年

 何という自然讃歌だろう。スマさんの絵心に畏れを感じた。誇張でなく哲学的で、一見童画風ながら、まったくちがう。人生の苦惨を経た人の、無心な絵に心をうばわれたのである。「動物」も「仙人」も「内海の魚」も「暮れる畑」も、みな丸木スマの稀有な七十こえてから拡得した、云いかえれば、七十すぎて噴きだした芸魂の所産である。誰からも教わらずに、自分ひとりが、永年自分の眼で見てきたものを、紙に描いた。背景の色彩の使い方の妙は吐息を呑ませる。これはもうスマさんの心田に培われた感性で、唯我独尊である。

――水上勉「丸木スマの芸術」(1984年)より

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凡夫人とスケッチ 1955年

 「目が見えんようになったら、手さぐりで描きます。
絵を描きはなえてから、面白うての。
こりゃ、まだまだ死なりゃせん思うて。
わしゃ、今が花よ」
と、言いながら、末川凡夫人(ぼんぷじん)たちと、
元気に、スケッチに出かけていきました。


 ――丸木スマ画集『花と人と生きものたち』(1984年)より
 ※ 末川凡夫人は、丸木位里と親しく交流した広島の油彩画家

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めし 1950年

『めし』は、前の画集では、
右側を上にした、たて長の絵として収められています。
私も、その方が気に入っていたのですが、
いつの頃からか、横にして飾られるようになりました。
どうしてそうなったのか、調べてみました。
落款が、横に飾るように押してありました。
描かれて、しばらくの間は、落款が押されてなかったのです。
“砂麻”と彫られたこの印は、おばあちゃんとなかよしだった、
浜崎左髪子(さはつし)という絵描きさんが、作ってくれたもので、
おばあちゃんは、たいへん気に入っていました。
『めし』は、たてに見ても横に見てもよい絵なのです。
めしを喰う猫の背中を、真上から見ているのです。


 ――丸木スマ画集『花と人と生きものたち』(1984年)より
 ※ 浜崎左髪子は広島の画家で、老舗の和菓子屋・平安堂梅坪の包装デザインを手がけています。
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2014/7/20

ポレポレ東中野『坑道の記憶』/萩原義弘写真展/「岡村昭彦の写真」展  他館企画など

午前中、ポレポレ東中野で上映中の映画『坑道の記憶〜炭坑絵師・山本作兵衛〜』(2013年、プロデューサー・構成=大村由紀子)を鑑賞しました。
昨年、丸木美術館で開催した炭坑展でお世話になった方々が数多く出演されているドキュメンタリ作品で、東京タワーで開催された「山本作兵衛展」の場面では、私も子どもたちといっしょに(観客として)少しだけ出演しています。

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この映画は、RKB毎日放送の番組として2013年7月15日に放送された「山本作兵衛からのメッセージ〜炭坑絵師がつなぐ未来〜」をもとにしているのですが、そのときにはなかった映像として、作兵衛さんが「原爆を生み出してしまった人類への懸念」を書き記したノートが紹介されていたのが、とても印象的でした。

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映画上映の後には、やはり昨年の炭坑展でたいへんお世話になった美術評論家の正木基さんと、プロデューサーの大村由紀子さんのトークが行われました。
「記録」か「芸術」か、という論争が行われることの多い作兵衛さんの炭坑記録画について、正木さんは「説明的ではあるけれども、頼まれ仕事ではない。絵を描きはじめたときから、一貫して作兵衛さんのものとわかるオリジナリティを持っていて、独自の創意工夫を重ねている点では、とてもアート的」と指摘します。

映画のなかでも、画家の菊畑茂久馬さんが「下手と言ったら下手で、稚拙すぎると言ったらすぎる。でも、何だか知らんけどたまらんのですよ」としみじみ語っていましたが、「記録」や「アート」といった表現上の分類とは遠く離れたところにある、描くことと生きることが一致したような姿勢が、他に類のない作兵衛さん独自の世界をつくりあげていったのだろうと思いました。

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1階のカフェ・ポレポレ坐では、ポレポレタイムス社スタッフのOさんと雑談をしながら、映画公開特別メニュー「ボタ山カレー」を美味しくいただきました。

   *   *   *

続いて訪れたのは、東京・入船のアートスペースモーターで開催されている萩原義弘さんの写真展「黒い屋根・炭鉱住宅の記憶」。この日が最終日だったので、やはり昨年の炭坑展でお世話になっていた萩原さんも会場にいらっしゃいました。

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近年撮影を続けている常磐の炭鉱住宅(炭住)を中心にした17点のモノクロームの写真。
解体されゆく紙屋根(紙にコールタールを塗って屋根にした)炭住や、炭住の崩れた壁からあらわれた戦前の映画ポスターの写真や新聞記事(昭和天皇婚約の記事!)などもありました。

全国を飛び回って、失われゆく炭坑文化を丹念に撮影し続ける萩原さんの仕事は、国内外で高い評価を得ています。
とりわけ、降り積もる雪のなかで見え隠れする炭坑の痕跡を詩的にとらえたSNOWYのシリーズは、昨年、フランスのファッション誌エルメスの宣伝誌で特集が組まれ、大きな反響を呼びました。

従来の炭坑のイメージを(良い意味で)裏切っていくような萩原さんの仕事に、今後も注目していきたいと思います。

   *   *   *

最後は、東京都写真美術館で19日からはじまった「岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて」展。

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1964年に『ライフ』誌上にベトナム戦争の写真が掲載されてフォトジャーナリストとしてデビューし、一躍「キャパを継ぐ男」と注目された写真家の岡村昭彦。名著『南ヴェトナム戦争従軍記』(1965年、岩波新書)でも知られています。

昨年の炭坑展の際、上野朱さんのエッセイを読んで、上野英信の筑豊文庫に頻繁に出入りしていたことを初めて知りました。
その意味では、この日は「炭坑つながり」で三つの展覧会をまわったことになります。

原爆も、沖縄も、炭坑も、そして岡村昭彦が撮影し続けたベトナムやアイルランドの戦争も、人間の精神の根底を見つめ、えぐり出すという点では、テーマは違ってもいろいろな部分が重なってくると思いながら、じっくり写真を見てまわりました。

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夜は新宿に出て、元テレビ局プロデューサーのHさんとK理事長と待ち合わせ、原爆の図米国展の実現に向けて、詳細な打ち合わせを行いました。
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2014/7/19

はだしのゲン絵本原画展初日・神田香織さん講演会  イベント

いよいよ今年の夏の特別展示「はだしのゲン絵本原画展」がはじまりました。
初日から、100人を超える大勢の方が来館して下さいました。

絵本版『はだしのゲン』は、漫画の好評を受けて、1980年に汐文社より刊行されたものです。
表紙を含めて23点の場面からなり(原画展では、中沢啓治直筆の原画展ポスターも含め24点を展示)、戦時中のゲン一家の暮らしから原爆投下直後までをダイジェストで描いています。

漫画の描写と呼応しているので、今回の展示では、カラーの絵本原画とともに、漫画版の同じ場面の複製も並べて比較できるようにしています。

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また、展示室中央には、17言語に翻訳された世界各地の『はだしのゲン』も陳列しています。
美術館入口ロビーでは、関連書籍のコーナーを設け、さっそく子どもたちが『はだしのゲン』の漫画を立ち読みしている光景も見られました。丸木美術館で漫画販売をするのは初めてかもしれません(展示室にも閲覧用に全10巻の漫画を置いているので、ご覧になる方はぜひ展示室で座ってお読みください!)

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午後2時からは、講談師・神田香織さんの講演「はだしのゲン 戦争と原爆の真実を演じる」を開催。
会場には80人ほどの観客が集まって下さり、ほぼ満席状態。
会場の暑さが心配されましたが、ときおり小雨の降る過ごしやすい気候で、ひと安心でした。

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福島県いわき市のご出身という神田香織さん。
みずからの生い立ちを語りながら、集団的自衛権を強引に推し進める政権への批判や福島原発事故などの時事問題を織り交ぜる巧みな話術に、会場の皆さんも惹き込まれるように耳を傾けていました。
ときおり大きな笑い声も生まれ、「こういう美術館だからこそ、笑い声が響く場所でなければいけない」と、かつて永六輔さんがおっしゃって下さったことを思い出したりもしました。

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後半は、音響や照明などの演出効果も取り入れながら、神田さんがずっと取り組み続けている『はだしのゲン』の講談をして下さいました。

講談の内容は、ちょうど展示中の絵本原画と同じように、原爆投下直後までのゲンの物語。
大音量で原爆がさく裂したあと、夫と子どもたちを目の前で失ってしまったゲンのお母さんが、気力を振り絞って赤ちゃんを産む場面がクライマックスになります。

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奪われていく生命と、新たに生み出される生命の強烈な対比は、栗原貞子の詩「生ましめんかな」や丸木夫妻の原爆の図第1部《幽霊》の妊婦像なども連想させられました。

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最後は、スタッフと神田さんで記念撮影。
快く出演をご快諾下さった神田さんをはじめ、スタッフの皆さま、そして丸木美術館ボランティアの方々や、ご来場くださった皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2014/7/18

【沖縄出張2日目】宮良瑛子作品返却/「ニシムイ美術村」跡  調査・旅行・出張

午前9時に琉球物流のトラックと待ち合わせ、宮良瑛子さんの作品の返却作業を行いました。
最初に向かったのは読谷村立美術館
沖縄本島中部の読谷村の、世界遺産(文化遺産)に認定されている座喜味城跡に隣接した施設で、歴史資料館も併設されています。

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借用していた宮良さんの作品2点の画面状態を無事に確認して返却した後、運送スタッフさんの休憩の間に、駆け足で座喜味城跡を覗いてきました。

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座喜味城は15世紀はじめ頃に築城されたという古い歴史を持つ城(グスク)です。
独特の曲線を描く城壁と、沖縄に現存するなかでは最も古いと言われるアーチ型の石門が見どころ。高台に建ち、遠く慶良間諸島まで見通せる景色の良さと、無料で入場できる点もお勧めです。すっかり観光地の首里城に比べて、自由な感じが心地よいです。

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その後は那覇市内に戻り、個人所蔵家のお宅と、那覇市民ギャラリーをまわって、無事に作品を返却しました。
はるばる海をわたっての作品返却が何事もなく終わって、大きな肩の荷が下りた思いです。

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夕方、東京に帰る飛行機の時間までのあいまに、沖縄県立博物館・美術館のT学芸員に連れられて、琉球新報社でちょっとした取材を受け、そのあと、戦後に首里儀保町につくられた「ニシムイ美術村」の跡を案内していただきました。

「ニシムイ美術村」は、沖縄画壇の中心的存在であった名渡山愛順らが中心となって建設したアーティスト・コロニーです。
T学芸員によれば、名渡山らは東京美術学校時代に、現在「池袋モンパルナス」と呼ばれている豊島区長崎のアトリエ村の影響を受け、それを沖縄に再現しようと構想したのではないかとのこと。
「池袋モンパルナス」が、はるか沖縄まで影響を及ぼしたというのはとても面白いのですが、考えてみれば、アトリエ村に住んでいたのは、東京で絵を学ぼうと志した当時の日本の“辺境”(植民地支配を受けていた朝鮮なども含む)の若者たちが多かったわけで、沖縄に第2のアトリエ村が生まれたのも、あるいは必然だったのかもしれません。

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今年に入って設置されたばかりという新しい案内板によれば、この一帯は、首里赤平町の「虎頭山」から続く丘陵の一部で、首里城の北(沖縄言葉で「ニシ」)に位置することから「ニシムイ」と呼ばれたそうです。
かつては松が生い茂り、“首里八景”のひとつに数えられたものの、1945年の沖縄戦の際に、日本軍陣地壕構築のために伐り倒され、さらに米軍の攻撃によって焼失。敗戦後は米軍の余剰物資の捨て場になっていました。

そして、米兵相手の肖像画やクリスマス・カード製作のために、当初は「東恩納美術村」に集められた芸術家たちが、米軍政府および沖縄民政府の知念半島への移転に際して首里での活動を希望したことから、ニシムイ美術村が誕生したのです。

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1948年にはアトリエ兼住宅と研究所・陳列所を兼ねた建物3棟が完成。
屋部憲、名渡山愛順、大城路也、金城安太郎、具志堅以徳、山元恵一、玉那覇正吉、安谷屋正義の8人の芸術家とその家族が移住しました。
また、安次嶺金正らの画家たちも美術村に頻繁に出入りし、美術論議を繰り広げたそうです。

この美術村は、近年、NHKのテレビ番組「日曜美術館」の特集で取り上げられて広く知られるようになり、現在は戦後の沖縄美術の出発点と位置付けられています。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0315/index.html

『楽園のカンヴァス』などの著作で知られる作家の原田マハも、若い米軍医と沖縄の美術家たちとの交流の様子を、『太陽の棘』(2014年、文藝春秋社刊)という小説に描いています(この作品については、個人的には少々物足りない印象を受けたのですが、T学芸員は「沖縄の画家たちの、アメリカや日本に対する複雑な愛憎を描いたという点では、これまでにない作品で、その部分は評価したい」との感想でした。あらためて読み直したいと思います)。

実はこの美術村、1972年に若夏国体に向けて環状線の道路工事が行われた際、南側の丘陵部分が10mほど削り落とされ、かつての美術村の土地のうち、北半分しか残っていません。

しかし、美術村を代表する画家のひとり、山元恵一(沖縄で数少ないシュルレアリスムの画家)のアトリエは、今も当時の面影を残しながら、しっかりと存在していました。

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沖縄を代表する建築家・仲座久雄が、山元から「台風に強い恒久的な建物を作りたい」との要望を受けて、「首里周辺にある野石積みにしたら」と提案したという頑強なアトリエ。
沖縄伝統の城(グスク)からの連続性も、感じられます。

T学芸員の案内のおかげで、アトリエの内部も見せていただくことができました(個人住宅なので、一般公開はしていないようです)。

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建築用材としての木材に恵まれない沖縄に、此の小石こそ神が此の島に與へた美しい小石のような気がします」(「石の家」、『うるま春秋』、1950年2月1日号)と仲座本人が記していますが、琉球石灰岩を丁寧に積み上げて作られた、この美しく、沖縄美術史の証言者のような「石の家」は、T学芸員らの尽力によって、昨年、建築家の真喜志好一氏(佐喜眞美術館の設計者でもあります)の設計で改修工事が行われたそうです。

従来の建築の雰囲気を生かしながら、よりモダンな、心地よい空間になったアトリエを訪問し、沖縄の美術が、またひとつ身近になったようで、とても嬉しく感じました。
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2014/7/17

【沖縄出張初日】沖縄県立博物館・美術館/宮良瑛子アトリエ/『青い海』  調査・旅行・出張

好評だった「宮良瑛子展」も7月12日に無事終了。
翌13日にボランティアの皆さんにご協力いただいて作品の撤去と梱包を済ませ、14日に運送会社が作品を搬出。船便で沖縄に向かっていたのですが、この日は私も朝一番の飛行機で作品返却に立ち会うため沖縄へ向かいました。

午前中、まずは沖縄県立博物館・美術館へご挨拶に伺いました。
いつもは慌ただしくてなかなか見ることのできないコレクション・ギャラリーをじっくり拝見。
第1部は久高島、石垣島、竹富島を撮影した「岡本太郎写真展・岡本太郎の眼」(7月21日まで)。
第2部は玉那覇正吉、儀保克幸らの作品が展示された「オブジェが語るもの」(9月15日まで)。
第3部は藤田嗣治が沖縄を描いた初公開の小品《辻美人》からはじまり、戦後すぐに首里にあらわれた「ニシムイ美術村」の画家たち、儀間比呂志の《海上集会》など米軍統治時代の作品、東松照明、石川真生らの写真、そして照屋勇賢、山城千佳子ら国内外で高く評価されている現代美術の若手作家までをたどる「沖縄美術の流れ」(2015年5月17日まで)。

3つの小企画はいずれも見応えがありました。
とりわけ「沖縄美術の流れ」は、沖縄の近現代の歴史と深くつながる美術表現の流れを俯瞰するもので、日本に数多くある県立美術館のなかで、沖縄ほど固有の文化と地域性が提示される場所はほかにないだろうと、あらためて考えさせられました。
今回、丸木美術館の企画展ではお借りできなかったのですが、宮良瑛子さんの代表作のひとつ《レクイエム沖縄》も、ここで紹介されていました。

昼食は、沖縄県立博物館・美術館を指定管理者として運営する文化の杜企業共同体のA統括、K学芸員、M学芸員とともに、沖縄そばを食べに行きました。

これからも、丸木美術館では沖縄を継続的に取り上げていきたいと思っています。
美術館のスタッフの皆様には、さまざまなかたちでお世話になることが多いでしょう。

   *   *   *

午後は首里にある宮良瑛子さんのアトリエに御礼のご挨拶に伺いました。
宮良さんは少々お疲れのご様子でしたが、展覧会にはとても満足していただけたようで、心から安堵しました。
今回の宮良瑛子展は、会期中に4,000人を超える方が来場してくださり、1日平均約60人となりました。
多くの方のご支援によって盛況となり、本当に感謝しています。

夕食は、今回の宮良瑛子展でたいへんお世話になったT学芸員とご一緒しました。
出張帰りのT学芸員からは、その出張の成果なども伺って、とても楽しく話が弾みました。

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写真は、T学芸員のお父さまがかつて編集されていたという沖縄の郷土月刊誌『青い海』。
沖縄関連書籍の古本フェアで手に入れることができました。
1974年5月発行のNo.32(写真左)では、「創刊三周年に寄せて」という企画で、丸木夫妻とも縁のあった岡部伊都子さんからの、T学芸員のお父さまに対する温かい激励のメッセージが掲載されていました。
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2014/7/17

『毎日新聞』に「はだしのゲン絵本原画展」紹介記事掲載  掲載雑誌・新聞

“「はだしのゲン」24点の特別展 見応え、カラー原画 19日から東松山・丸木美術館”

2014年7月17日付『毎日新聞』朝刊埼玉版に、「はだしのゲン絵本原画展」の紹介記事が掲載されました。

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以下のWEBサイトで記事の全文をご覧いただくことができます(要会員登録=無料)。
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20140717ddlk11040202000c.html

記事から一部を抜粋いたします。いつもご紹介くださる中山信記者に感謝です。

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「原爆の図」などを展示する丸木美術館(東松山市下唐子)は19日から、広島原爆で肉親を亡くした故・中沢啓治氏の自伝的漫画「はだしのゲン」の絵本版カラー原画展を開く。同館が「はだしのゲン」関連の特別展を開くのは初めて。9月6日まで。

 展示されるのは、1980年に刊行された絵本版の原画24点(広島平和記念資料館蔵)と、世界各地の15言語に翻訳された漫画の各言語版。絵本版の原画はフルカラーで、モノクロの漫画を見たことがある人にも見応えがある。

 「はだしのゲン」をめぐっては昨年以降、「過激な表現がある」などとして、学校図書館での閲覧を制限するなどの動きが一部であった。岡村幸宣学芸員は特別展について「戦後、日本が曲がりなりにも戦争をしないできたことには、原爆の図やはだしのゲンが共通のイメージとして社会の根底に広がっていたことが大きな力になったと思う。はだしのゲンを図書館から排斥しようという動きがあるだけに、もう一度きちんと読み返すきっかけになれば」と話している。


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2014/7/16

日本美術家連盟『連盟ニュース』No.451  執筆原稿

日本美術家連盟の機関紙『連盟ニュース』No.451(2014年7月号)の「美術館紹介」欄に、3頁にわたって、原爆の図 丸木美術館の紹介記事を寄稿させて頂きました。

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「豊かな自然に囲まれた美術館」、「丸木夫妻と《原爆の図》」、「丸木スマの絵画」、「核と芸術の歴史を見つめなおす」と4つの章立てにして、丸木美術館の特色や近年の活動の様子などをまとめました。

定価は300円(本体277円)。お求めの方は日本美術家連盟までお問い合わせください。
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2014/7/14

『東京新聞』に「はだしのゲン絵本原画展」紹介記事掲載  掲載雑誌・新聞

“はだしのゲンと戦争の真実 東松山・丸木美術館 19日から特別展”

2014年7月14日付『東京新聞』朝刊埼玉版に、「はだしのゲン絵本原画展」の紹介記事が掲載されました。

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東京新聞のWEBサイトから記事全文がご覧になれます。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20140714/CK2014071402000143.html

初日の7月19日午後2時から行われる講談師・神田香織さんの講演会「はだしのゲン 戦争と原爆の真実を演じる」をはじめ、8月6日ひろしま忌の武蔵大学教授・永田浩三さんの講演、8月30日の加藤登紀子さんのトーク&ライブの情報も掲載して下さっています。

いつも紹介して下さる中里宏記者に、心から御礼を申し上げます。
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2014/7/11

長岡「原爆の図展」内覧会/長岡戦災資料館/平和像  調査・旅行・出張

7月12日から開幕する長岡市立中央図書館2階美術センター「原爆の図 人間、その濁と清 丸木位里・丸木俊の世界展」
前日に行われた開会式・内覧会に参加するため、長岡を訪れました。

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長岡といえば、個人的には子どもの頃に見た「放浪の画家」として知られる山下清の貼り絵の代表作《長岡の花火》を思い浮かべます。
その長岡の花火も、1945年8月1日の長岡空襲の慰霊と復興を願って翌46年8月1日に戦災復興祭が行われ、さらに翌47年から戦争のために中止になっていた花火大会が復活したといういわれがあるとのこと。
いまも花火大会は曜日にかかわらず、空襲の死者を悼んで8月2日・3日に行われています。

また、空襲に先立つ1945年7月20日には、長崎に投下された原子爆弾ファットマンとほぼ同型の、訓練用の模擬原子爆弾が長岡に投下されていたそうです。

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幕末維新の北越戦争で敗れて困窮した際に、支藩から贈られた百俵の米を、「食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の百万俵となる」と学校の建設にあてたという逸話で知られる「米百俵」の精神が今も残る長岡。
そのため図書館の教育普及活動にも熱心で、毎年夏には戦争と平和を考える企画展を開催しているのです。

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長岡は、米軍占領解放直後の1952年6月19日から、市内の阪之上小学校で新潟県教職員組合長岡支部の主催により「原爆の図展」が開催されたという記録があります(1952年6月7日付『朝日新聞』)。
今回の展覧会は、そのとき以来、実に62年ぶりの長岡開催ということになります。

展覧会は、原爆の図第2部《火》、第5部《少年少女》、第8部《救出》の3点をメインに、原爆の図のためのデッサンや、絵本『ひろしまのピカ』(丸木俊)、『赤神と黒神』(丸木位里)の原画、さらに俊の油彩画《裸婦(解放されゆく人間性)》や位里の水墨画《臥牛》などの代表作も展示して、丸木夫妻の画業を俯瞰できる内容になっています。

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開会式では、長岡市議会議長や長岡市教育委員会教育長もご挨拶をして下さいました。
私も少しだけご挨拶をした後、オープニングのテープカット。

平和学習に熱心に取り組んでいるという近隣の南中学校の生徒20名も開会式に参加して下さり、その後、内覧会として展覧会場をまわりながら、作品解説を行いました。

その様子は、地元の『新潟日報』が報じて下さっています。
“戦争の愚かさ訴え 「原爆の図」展”(2014年7月12日付)
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20140712123274.html

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休憩をはさみ、講堂で丸木夫妻の記録映画『劫火―ヒロシマからの旅』を鑑賞していた南中学校2学年の生徒120名が会場に到着。
第5部《少年少女》の絵の前で、再び30分ほどのギャラリートークを行いました。

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長岡市立中央図書館から発行されている『図書館の窓から』No.145(2014年7月号)には、見開きで丸木夫妻の展覧会特集が組まれています。
こうした特集を見ても、図書館活動の充実の一端を感じられると思います。

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展覧会は8月10日(日)まで、約1か月間続きます。
7月27日(日)午後2時からは、「いのちを描いた二人の画家―丸木位里・俊の遺したもの」と題する講演会も行いますので、ぜひ皆さまご来場ください。

   *   *   *

展覧会の帰りに、長岡駅の近くにある長岡戦災資料館を訪れました。

この施設は、新潟県内で唯一無差別爆撃の被害にあった長岡の記憶を伝えるため、多くのボランティアの尽力によって、2003年7月にオープンしました。

入口には、堀田正制作によるブロンズの母子像《懐(おも)い》が展示され、資料館の象徴となっています。
展示内容は、日中戦争のはじまりから戦後の平和事業まで12の章に分かれて、資料や解説パネルでわかりやすく紹介されています。

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なぜ県内で唯一長岡が空襲を受けたのかという疑問については、当初、連合艦隊司令長官を務めていた山本五十六の故郷だったから、という説が有力として信じられていたそうです。

しかし、実際は、米軍の戦略として、日本の都市を人口の多い順に180位まで番号をつけ、地理的に爆撃が難しい都市(山岳地帯や、大型爆撃機B29の基地となったサイパン島・テニアン島・グアム島から距離が遠い都市)と原子爆弾を投下する予定のあった都市(広島・小倉・京都・新潟・長崎)などを除いて、ほぼ人口順に爆撃を受けていたことがわかりました。

新潟県内では、新潟市が34位、長岡市が73位にあたっていましたが(他に135位の三条、168位の高田、172位の柏崎もリストに入っていました)、新潟市が原爆投下候補地であったために、長岡に空襲が行われたのです。

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1945年8月1日午後10時30分から1時間40分にわたり、125機のB29によってM47大型焼夷爆弾2,172発と黄燐焼夷爆弾12発が投下された長岡空襲。当時の人口74,508人のうち死者は1,480人を超え、市街地の約8割にのぼる11,986戸が焼失したそうです。

この日(8月1日夜から2日未明にかけて)は水戸市、富山市、八王子市でも空襲が行われ、特に富山市では2,704人の死者を出す大きな被害が生じました。

ちなみに7月20日に投下された模擬原子爆弾は、原爆投下予定地だった新潟市を想定した訓練だったものの、雲が多くて目視できず、長岡市北部工業地帯を目標としていたにもかかわらず、誤って畑の中に投下されました。
4人死亡、5人重軽傷という数字だけ見ればわずかな被害。しかし、大音量の爆発音の後、「泣き叫ぶ赤ちゃんの声、背負っていた母親には頭部がなく、赤ちゃんは母の血で真っ赤だった」という農家の母親の死についての証言は、胸の痛むものでした。

7月26日にも再度長岡に飛来しましたが、やはり雲が多く爆撃をあきらめ、県内の鹿瀬と柏崎に模擬爆弾が投下されています。こうして天候不順による2回の投下失敗により、新潟市は原爆投下予定地から外されたというから、本当に複雑な思いです。

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数年前に丸木美術館にもバスツアーで来て下さったことがあるという戦災資料館のスタッフの皆さまに丁寧にいろいろな話を聞かせて頂いた後は、市街地の外れの柿川沿いの平和の森公園内にある《平和像》を見に足をのばしました。

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この《平和像》の作者は、長岡市出身の彫刻家・廣井吉之助(1906-1986)。
長岡空襲で犠牲になった280名余りの子どもたちの霊を慰めるため、新潟県教職員組合が全県下から募った150万円でつくられた像です。像の中には、銅版に刻まれた「昭和二十年八月一日長岡市戦災学徒名簿」が納められているそうです。

この《平和像》は、1951年11月に長岡駅前広場に設置されました。戦後区画整理された街並みを見守るように立つ姿は、上の写真の戦災資料館パンフレットにも掲載されています。
しかし、その後74年に悠久山公園に移転。さらに84年に明治公園に再度移転し、96年に平和の森公園が整備されたことを機に、ようやく“安住の地”を得たというわけです。

かつて駅前に“街の象徴”のように建てられながら、時代の変化やさまざまな事情のなかで、川のほとりに移されていくという運命は、昨年、直方市の遠賀川で見た《炭掘る戦士像》を連想させます。

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台座には、次のような文章が刻まれていました。

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平和像

一九四五年八月一
日 ここ長岡に投
下された数千の爆
弾は いたいけな
二八〇余のいのち
さえうばい去った
その霊をなぐさめ
る道は 一すじに
平和をまもり戦争
をなくすることだ


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夕暮れが近づくなか、像を離れて駅に向かおうとしたとき、一人の女性に「どうもありがとう」と、突然、声をかけられました。
驚いて振り返ると、「この像に興味を持って下さったところを見ていました。それだけで、とても嬉しいんです」と女性は静かに話しはじめました。

長岡の空襲で、銀行に勤めていた姉と女学校にいた妹を失ったこと。
裸で路上に寝かされていた姉妹の火傷した皮膚が、音を立ててはがれたこと。
「あんたは焼かれなかったの」と聞かれ、「下穿きを持ってきてほしい」と頼まれたが、数時間後に息をひきとってしまったこと。
優秀な姉と妹だったので、近所の人から「あんたの家は良い子が二人亡くなってしまったね」と言われたこと。
軍人には見舞金が出るのに、空襲で死んでも線香の一本も出ないのが悔しかったこと。
夫と結婚したとき、夫が五人の名前の入った箱を持参し、「自分はこの人たちの面倒(弔い)を見なければいけないが、それでもよいか」と聞かれたこと。自分にも空襲で死んだ姉と妹がいると伝えたこと。
病気で死んだ弟もいるが、結婚もして、現代の進んだ治療を受けて死んでいった弟に比べ、戦争で若くして死んだ姉と妹の方が可哀想だと思っていること。
今でも毎日、夏も冬も、この像まで1時間かけて歩いて通っていること。
黙って祈るのはいいが、声を出すと今でも涙が止まらなくなること。

「勝手に話してしまってごめんなさい」と涙声になった女性に御礼を言ってお別れしたあと、一人で長岡駅までの道を歩きました。
この駅まで続く道も、69年前には焼け野原だったのだと思いながら歩きました。
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2014/7/10

岩波ブックレットNo.904『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』  書籍

7月9日発行の岩波ブックレットNo.904『アートで平和をつくる 沖縄・佐喜眞美術館の軌跡』(佐喜眞道夫著、定価660円+税)が、本日、手もとに届きました。

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丸木美術館からも、丸木美術館の遠景と《沖縄戦の図》図版を提供しています。
佐喜眞館長の生い立ちや、上野誠、ケーテ・コルヴィッツ、ジョルジュ・ルオー、草間彌生などのコレクションの経緯、丸木夫妻との出会いから佐喜眞美術館の開館にいたるまで詳しく語られているお勧めの一冊です。

とりわけ、普天間米軍基地の土地の一部を取り返して美術館を建設する交渉のくだりは、今の日米関係の本質を映しているようで(以前にも佐喜眞館長からお話は聞いていたのですが)、とても重要な意味を持っていると思いました。

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 私は、たった一人で、那覇市にあった防衛施設局に乗り込んで、奪われた私の土地の返還交渉を始めました。対応したW課長は、「この土地を返してください」という私の言葉以前に、私という人間に驚いている様子でした。彼にとって、「われわれ日本政府」は沖縄を完全に屈服させ、沖縄の人間は一人として反抗する者はいないはずなのに、お前は何者だ、という驚きのようでした。私が熊本で生まれ育ったというと、「なるほど、そうだったのか」と納得したようでした。私は、日本官僚の沖縄に対する差別観とゆがみを強く感じ、腹を据えねばならない、と思いました。
 W課長は「返還にはこのような手続きが必要です」と書類を見せてくれました。それによると、一番下に申請者の私がおり、その上にいくつもの会議が続き、最後は日本政府の外務大臣、防衛庁長官(現在は防衛大臣)とアメリカの国務長官、国防長官が決定するというものでした。
 米軍基地のフェンスは、まさに国境です。しかし私にはこの道しか残っていなかったのです。年に四〜五回、施設局へ出向いて進捗状況を確認すると、返答はいつも、「佐喜眞さんの要請は米軍に伝えてありますが、米軍は返還を渋っています」というものでした。ほぼ三年間、同じ返答を聞き続けたある日、「この件は今、どの段階の会議で話し合われているのですか?」と聞きました。「東京との連絡会議にかけるところです。今回は議題がおおくてかけられませんでした。次にかけます」「次はいつですか?」「三カ月先です」。防衛施設局はまったく仕事をしていないことに私はやっと気がつきました。
 私は、地元の宜野湾市役所へ出向いて、当時の桃原正賢市長を訪ね、「私は、美術館をつくろうと思っています。公共性があると思うので、知恵と力を貸してください」とお願いしました。すると、比嘉盛光企画部長(当時)が私の担当になってくれました。
 比嘉企画部長の尽力で、在沖米国海兵隊基地不動産管理事務所のポール・ギノザ所長に会うことができました。そこで私が「美術館をつくりたいので土地を返してほしい」と要請すると、「ミュージアムができたら、宜野湾市はよくなりますね。われわれには問題ありません」という返事でした。
 私は、唖然としました。私のこの小さな体験から言えば、沖縄のささやかな願いを長期間邪魔し、屈服させようとしていたのは米軍ではなく、日本政府の方だったのです。


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佐喜眞美術館は、今年、開館から20周年を迎えます。
ぜひ多くの方にお読みいただきたい一冊。丸木美術館でも、取り扱っています。
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