2014/6/30

ライブ「歌役者とギタリスト」  他館企画など

休館日。
集団的自衛権行使容認の議論が強引に進められるなか、官邸前緊急行動に集まる人びとを思いつつも、午後7時半からオペラシアターこんにゃく座の歌役者・岡原真弓さんからご招待頂いた南浦和のライブへ。

クリックすると元のサイズで表示します

岡原さんは、1週間ほど前に突然丸木美術館を訪れて下さり、そのときには私は外出していてお会いできなかったのですが、その後電話などで連絡を取り合ううちに、ライブの情報を教えて頂いたのです。

アコーディオンを奏でつつ歌う岡原さんと、ブラジリアンギタリストの助川太郎さんの共演。
休憩を挟んで2時間にわたる音楽会は、笑いもたっぷり、そして真剣な話もあって(岡原さんは、丸木美術館の「宮良瑛子展」の宣伝もして下さいました)、とても充実した時間になりました。

とりわけ、林光さん作詞・作曲の「旗はうたう」やカザルスの「鳥の歌」が胸に迫った夜でした。

旗はうたう

 むかし 神だった人の 命令で
 男たちが 戦場へ 向かうとき
 太陽をえがいた 旗をふり
 人びとは 歌ってた

  海で死んだら 水ぶくれ
  山で死んだら 草ぼうぼう

 むかし 神だった人は 生きのこり
 男たちは 帰ってこない
 かわりにもどった 箱のなかの
 石ころが 歌ってた

  海で死んだら 水ぶくれ
  山で死んだら 草ぼうぼう

 むかし 神だった人の 子や孫に
 いまもふられる 太陽の旗
 死んだ男たちの 血でえがかれた
 旗は 歌ってる

  海で死んだら 水ぶくれ
  山で死んだら 草ぼうぼう


戦時中に歌われた「海ゆかば」のパロディですね。

林光さんは東京藝術大学在学中に、大学祭で展示された《原爆の図》の前で「原爆カンタータ」の演奏を企画されたそうです。
それがもとになって生まれた合唱曲「原爆小景」を、いつか丸木美術館で演奏して頂きたいと願っていたのですが、結局、その夢は実現しないまま亡くなられてしまいました。
今でも本当に残念でなりません。

岡原さんは、近いうちに丸木美術館でコンサートをしたいと希望されているので、そのときには、ぜひ林さんの曲を歌って欲しいと思っています。
3

2014/6/29

『埼玉新聞』“さきたま抄”に加藤登紀子コンサート紹介  掲載雑誌・新聞

2014年6月29日付『埼玉新聞』朝刊“さきたま抄”に、加藤登紀子さんが今夏発表した新曲「広島 愛の川」とともに、丸木美術館で8月30日に行う加藤さんのコンサートについて紹介して頂きました。

クリックすると元のサイズで表示します

以下、一部抜粋です。

==========

▼埼玉で原爆といえば、真っ先に思い出すのが東松山市にある丸木美術館。広島出身の丸木位里・俊夫妻が描いた迫真の「原爆の図」14作品が展示され、原爆の恐ろしさと愚かさを伝えている▼その「原爆の図」の前で8月30日、加藤さんのコンサートが開かれる。歌うのはもちろん「広島 愛の川」。7月19日からは「はだしのゲン」絵本版のカラー原画24点も特別展示される。「核なき平和な世界へ」。今夏、丸木美術館の取り組みに期待が高まる。

==========

その加藤さんのコンサートのチケットの残数も、いよいよ少なくなってきました。
ご希望の方はお早目に、丸木美術館事務局までご連絡ください!
0

2014/6/29

『読売新聞』埼玉版にユンカーマン監督講演会記事掲載  掲載雑誌・新聞

“米国の映画監督 日本国憲法を語る”

2014年6月29日付『読売新聞』埼玉版に、ジャン・ユンカーマン監督の講演の様子が掲載されました。

クリックすると元のサイズで表示します

取材して下さったのは、川越支局のO記者。
以下、記事の一部を抜粋します。

==========

 講演では、集団的自衛権行使容認の動きについて、「反対意見が多いなか、解釈拡大を目指す政権は強引」と批判。見直された場合は、「市民から戦争反対の声が上がれば、国は戦争に参加できない。声を上げ続けることが大切」と訴えた。

==========

読売新聞の記者が取材来館されたのは、本当に久しぶりのこと。
できるだけ多くの人に知って欲しかったので、O記者の取材は嬉しかったです。
心より御礼を申し上げます。
0

2014/6/28

緊急企画「日本国憲法を考える」ジャン・ユンカーマン監督講演会  イベント

午後2時から、緊急企画「日本国憲法を考える」として、映画監督のジャン・ユンカーマンさんの講演会が、丸木美術館1階新館ホールで開催されました。

クリックすると元のサイズで表示します

集団的自衛権をめぐる強引な解釈改憲を進めようとしている安倍政権の動きを見て、つい1か月ほど前に急きょ開催が決まった今回の企画。
十分に告知ができたわけではないのですが、しかし、会場には100人近くの方が駆けつけて下さり、大盛況。この問題に対する人びとの関心の高さが伺えました。

ジャン・ユンカーマン監督は、1986年に丸木夫妻の生活と芸術を撮影した記録映画『劫火―ヒロシマからの旅』(Hellfire:A Journey from Hiroshima)を発表し、米国のアカデミー賞にノミネートされました。
また、2002年には『チョムスキー9.11』、2005年には『映画 日本国憲法』を発表し、いずれも高く評価されています。
現在は、沖縄の米軍基地問題を取材した記録映画を製作中とのこと。

   *   *   *

「哲学者のカントは、『自由な憲法とは何か』と問われ、『戦争をするべきか否かを問われた市民がノーと言えば戦争にならない、これが自由な憲法だ」と答えたという。安倍政権は“自衛”と言葉をごまかしながら、国民がやって欲しくなくても国が戦争をするという仕組み――集団的自衛権を通そうとしている」と厳しく批判するユンカーマン監督。

「日本国憲法はこの国の最高法規だが、安倍政権のやり方を見ていると、憲法を上回る二つのトランプ(カード)があるようだ。ひとつは、国連憲章。国連憲章によって世界で認められている権利だから集団的自衛権は許されると主張しているが、国連憲章が憲法を上回る根拠は疑問。たとえば、交戦権だって国連憲章に認められているけれど、日本国憲法では放棄されているはず。そしてもうひとつが日米安保条約です」

ユンカーマン監督は、米軍基地があることで沖縄は守られているのだろうか、米軍は沖縄のことを血を流して勝ち取った戦利品としか考えていないのではないか、という根本的な疑問をつきつけます。
撮影中の映画でも、「コザ暴動」――1970年に、米軍人が沖縄の人を撥ねた交通事故をきっかけに発生した米軍車両などの焼き討ち事件――が重要な位置を占めているようです。

沖縄は現在の日本社会の矛盾が凝縮されたような土地ですが、ユンカーマン監督は、アメリカの「民主主義」と日本の「平和憲法」という、現在の世界でとても重要な二つの考え方を“勝ち取って”いこうとしている沖縄の人びとに、深い敬意と希望を見出していると仰っていました。

「一番の救いは、これだけの市民が反対しているということです」というユンカーマン監督に、会場に集まった大勢の方がたは、今後も安倍政権に対し、粘り強く反対の意志を示していこうという思いを強くされたのではないでしょうか。
0

2014/6/27

かこさとし『未来のだるまちゃんへ』  書籍

絵本作家のかこさとしさんより、新刊書籍『未来のだるまちゃんへ』(文藝春秋、2014年6月刊、1450円+税)をご恵贈頂きました。

クリックすると元のサイズで表示します

かこさんの初めての「語り下ろし」。
ご自身の人生の回想、そして子どもたちへ向けたメッセージがつまった濃厚な一冊です。軍国少年だった戦争中への反省や、敗戦後のセツルメント活動、そして2011年3月11日の福島原発事故に対する思いも記されています。

やはり興味深いのは、かこさんの創作の原点となった紙芝居や幻灯などのセツルメント活動で、劇団プークで川尻泰司の知遇を得たことなどもちらりと触れられていて、50年代の文化運動の貴重な証言として、とても興味深く読ませていただきました。
また、以前にも書簡で教えて頂いたことがありましたが、丸木夫妻との出会いや影響についても言及されています。

以下、第3章「大切なことは、すべて子どもたちに教わった」の「観察者としての覚書」からの引用です。

==========

 子どもたちに紙芝居や絵の指導をしていた頃、教えている僕自身が絵画や美術の修練をしなければと、寸暇を惜しんで市内のデザイン教室に通いました。工場勤務の合間、時には夜勤明けや通し番明けの時間に、かたっぱしから「武者修行」と称し、道場破りを重ねたのです。
 ひたすら展示会に出品をつづけていくなかで、美術家の方たちと知り合う機会がありました。饒舌で自己顕示欲の強い画家のなかにあって、僕は、寡黙で真正面から対象に迫る内田巌さんと、赤松俊子さんの観察の姿勢と画風にひかれていきました。
 また画家の丸木俊さん(旧姓・赤松俊子)と、夫で画家の丸木位里さんとの出会いも、ひとつの転機になったと言っていいかもしれません。おふたりは、共に描いた『原爆の図』を携えて、世界中を回られたことでも知られていますが、銀座の展示会を観に行った時に、僕がつくった紙芝居を見せて「実は、今、セツルメントで子どもたちを相手にこんなことをしています」という話をしたら、即座にこう言われました。
「ぜひ、記録を残しておきなさい。その子ども会のことをよくメモすること」
 なぜするかというのは、何もおっしゃらなかったけれど、僕は、この啓示に従ってそれから出来るだけ記録を残すようになりました。

==========

物語の面白さに加え、「科学」や「労働」といった視点を絵本の世界で確立させたかこさんのお仕事こそ、1950年代の「ルポルタージュ絵画」やサークル運動の非常に良質な成果ではなかったかと、あらためて考えながら、一気に読み通しました。
0

2014/6/25

『朝日新聞』夕刊に「宮良瑛子展」評掲載  掲載雑誌・新聞

2014年6月25日付『朝日新聞』夕刊文化欄に、「宮良瑛子展」が「オサム・ジェームス・中川写真展」とともに“沖縄の痛みと魂に触れる”との見出しで紹介されました。
評者は西岡一正記者。

クリックすると元のサイズで表示します

中川さんの「BANTA」、「GAMA」のシリーズも丸木美術館の「OKINAWA つなぎとめる記憶のために」展(2010年)で展示したことがあるので、嬉しいです。
以下、記事からの抜粋。

==========

 宮良瑛子は1935年、福岡生まれ。沖縄出身の男性と結婚したことから、本土復帰前年の71年に那覇に移住し、画家として活動する。
 当初は市場や祭りなどを描いていたが、やがて沖縄戦がテーマとしてせりあがる。住民や日本兵が逃げ込んだガマ(洞窟)などの戦跡を巡り、戦争を追体験したからだ。韓国の光州事件(80年)や湾岸戦争(91年)でも、民衆の苦しみに思いをはせた作品を残している。
 「焦土」「無辜の民」といった一連の作品は、悲痛で重苦しい。それを救済するのが、例えば「美ら島・辺野古」(2005年)の女たちのイメージだ。たくましいその体躯に、宮良は沖縄に宿る原初的な生命力を形象化している。


==========

丸木美術館まで取材に足を運んで下さった西岡記者には、心から御礼を申し上げます。
0

2014/6/23

NHK総合テレビ「情報まるごと」宮良瑛子さん紹介  TV・ラジオ放送

沖縄戦の「慰霊の日」にあたるこの日、午後2時5分からのNHK総合テレビの番組「情報まるごと」内で、宮良瑛子さんの作品が5分ほど紹介されました。
実は1週間前の18日に沖縄県内ではすでに放送された内容なのですが、時間を数分縮小して(残念ながら丸木美術館での個展の様子を撮影した映像はカットされてしまいました)全国放送されることになったのです。

以下、放送の内容を、紹介された宮良さんの作品とともに、覚書として記しておきます。

==========

[スタジオ]

小澤康喬アナウンサー:沖縄では、戦争の記憶を継承していくさまざまな取り組みが続けられてきました。

實石あづさキャスター:那覇市の画家・宮良瑛子さんは、40年以上にわたり女性の視点から戦争の痛みや平和を訴える作品を描き続けています。

クリックすると元のサイズで表示します

《哭》 1981年

ナレーション(岡本直史記者):子どもを抱きしめる沖縄の女性。宮良瑛子さんの代表作のひとつです。宮良さんは女性の姿を通して沖縄戦の痛みを描いてきました。

[沖縄・那覇にある宮良瑛子アトリエの外観]

[アトリエのなかで絵を描く宮良さん]

ナレーション:宮良瑛子さん、79歳です。沖縄出身の夫と結婚し移住。以来、40年以上にわたって沖縄を描き続けています。宮良さんが女性を描いたきっかけ、それは初めて沖縄を訪れたときに描いたスケッチにありました。

[スケッチブックをめくる宮良さん]

宮良:こういう本当に走り書きだから、見せるようなスケッチじゃないんですけどね。でも、これが原点ですね。

ナレーション:沖縄の市場で目にしたたくましい女性たち、その姿に衝撃を受けたといいます。

宮良:大らかというか、たくましいというか、あっけらかんというか、人間そのものというのが見えたんですね。これはもうなぜ描いたか、絵にしたかというより、描かずにおれなかった。

クリックすると元のサイズで表示します

《水》 1971年

ナレーション:1971年に発表した《水》という作品です。太い足と腕、そしてがっちりとした身体。宮良さんが市場で出会った女性たちがモデルになっています。

クリックすると元のサイズで表示します

《市の女たち》 1973年

ナレーション:宮良さんは沖縄の女性たちと話し合う中で、あることに気づきます。女性たちはたくましさの影に、沖縄戦で負った深い悲しみを抱えていたのです。

宮良:ちょっとした会話の中に、おばさんやお姉さんたちの、決して沖縄戦で無傷ではなかった、家族の中の誰かが亡くなった、何らかのかたちで戦争の犠牲を背負っている人たちだったんで……

[夫・宮良作さんと宮良瑛子さんの写真]

ナレーション:宮良さんは女性の中に感じた沖縄戦の影を絵の中に投影していきました。新たに生まれた「シリーズ焼土」です。

クリックすると元のサイズで表示します

《シリーズ焼土 ―彷徨―》 1982年

ナレーション:子どもを抱えて逃げ惑う母親や、茫然と座り込んでしまう人、沖縄戦の中で追いつめられる女性たちの姿が描かれています。しかし、大きな課題にもぶつかります。沖縄戦を体験していないということに悩むようになるのです。

[アトリエの奥の棚から作品をひっぱり出す宮良さん]

ナレーション:アトリエの倉庫に、まるめられた作品がありました。

宮良:これですね。あの、焼土シリーズというか、それの一番最初の、走りの絵で、あんまり良くないんですけどね。もう痛んでますけど。

ナレーション:自分のイメージと沖縄戦とのあいだには隔たりがあるのではないか。この作品も、一度は発表したものの、満足できず、倉庫の奥にしまい込みました。

クリックすると元のサイズで表示します

《シリーズ焼土 ―地底―》 1981年

ナレーション:それでも宮良さんは、沖縄戦を題材に作品を描き続けます。

クリックすると元のサイズで表示します

《哭》 1981年

ナレーション:直接戦争を描くのではなく、女性のしぐさや表情で表現しようと、試行錯誤しました。

宮良:こんなの絵じゃないとか、あんたは沖縄戦知らないから描けるんだとかって言われたりして。それは私も自分が十分描けてるとは思いません。思わなかったけども、それを描いた自分は精一杯描いたんですよね。

ナレーション:沖縄の近代美術の専門家は、経験していない沖縄戦にも向き合い続けた宮良さんだからこそ生み出された境地があると考えています。

[沖縄県立芸術大学・小林純子教授の研究室]

小林純子教授:作家さん自身も、多分描いているのがつらいと思うんだけれども、それでもなお描き続ける。ストレートに宮良先生の心の動揺や悲しみがストレートに伝わってくる作品なんですね。

[再び、絵を描き続ける宮良さん]

ナレーション:描いても描き切れないという沖縄の戦争。宮良さんは今もキャンバスに向かい、模索を続けています。

宮良:見る人が、何か感じてもらったらいいなと、平和の大事さとかね、何でこんな戦争するんだろう、何で力で、相手を抑えつけてしまうんだろうとか、いろんな疑問や共感をもってもらったらいいなと思うのね。

[スタジオ]

實石キャスター:わからないからわかりたい、寄り添いたいっていう宮良さんの思いが、描くたびに深まっているのかなと感じましたね。

小澤アナウンサー:そうですね。いつかは、戦争を知らない世代が語り継いでいかなければならないときが来るわけですから、宮良さんの試行錯誤というのは、まさに先駆けであるというふうに感じますよね。

實石キャスター:はい。

小澤アナウンサー:埼玉県の東松山市の丸木美術館では、いま、宮良さんの作品を集めた企画展が開かれています。展示は、来月12日までです。

==========

番組内でも紹介されていた通り、丸木美術館の「宮良瑛子展」は7月12日(土)まで。
他に巡回予定もないので、沖縄県外で宮良さんの個展を観ることのできる機会は、当分ないのではないかと思います。ぜひこの機会を見逃さないよう、丸木美術館へお運びください。

6月28日(土)、29日(日)には、宮良瑛子さんも来館される予定です。
2

2014/6/21

日本平和学会「芸術と平和」分科会報告  講演・発表

午後、神奈川大学横浜キャンパスで開催された日本平和学会2014年度春季研究大会の「平和と芸術」分科会にて、「芸術が果たす平和への役割 ―音楽と美術の考察から」と題するテーマで、「ヒロシマと音楽」委員会の能登原由美さんとともに報告を行いました。

クリックすると元のサイズで表示します

写真撮影・提供は、司会を務めて下さった東北芸術工科大学の田中勝さん。

岡村の報告は、「“非核芸術”の系譜 ―1950 年代における丸木夫妻の《原爆の図》を中心に」と題するものでしたが、能登原さんの報告が、映画『原爆の図』(1953年、今井正・青山通春監督、モノクロ、17分)の音楽を担当した大木正夫に関する内容だったので、映画の上映をメインに行いました。
広島・長崎の惨禍を伝える(=過去への想像力)と同時に、来るべき核の惨禍の可能性を示唆する(=未来への想像力)作品である《原爆の図》が、1952年4月のサンフランシスコ条約発効による原爆写真解禁後も、メディアを超えて文学、映画、音楽、幻燈などに拡がっていった事実を紹介し、その意味を考えるという試みでした。

クリックすると元のサイズで表示します

一方、能登原さんの報告は、「音楽における『ヒロシマ』」と題するもの。
「ヒロシマと音楽委員会」の紹介からはじまり、1950年代のうたごえ運動と労音(勤労者音楽協議会)の活動と1980年代の「反核・日本の音楽家たち」などの活動の分析、さらに大木正夫の映画『原爆の図』音楽と、それをもとに作曲した『交響曲第5番「ヒロシマ」』の対比など、非常に多岐にわたる濃密な内容でした。

クリックすると元のサイズで表示します

会場においで下さった参加者も多く、予定を延長して質疑応答を1時間行うなど、私自身も非常に勉強になる分科会となりました。
企画して下さった田中さんはじめ、日本平和学会の皆さまに心より御礼を申し上げます。
0

2014/6/21

神奈川県立近代美術館 葉山「宮崎進展」  他館企画など

午前中、神奈川県立近代美術館 葉山で開催中の「立ちのぼる生命 宮崎進(6月29日まで)を観てきました。

クリックすると元のサイズで表示します

宮崎進は1922年に山口県徳山市(現周南市)に生まれ、20歳で日本美術学校を繰り上げ卒業し出兵。敗戦後シベリアに抑留され、1949年の帰国後に、かつて所属していた旧陸軍広島西部第2部隊が原爆で消滅したことを知ったという経歴を持つ画家です。

今回の展覧会は、初期の油彩画《濹東》(1958年、下関市立美術館蔵)や《祭りの夜》(1965年、周南市美術博物館蔵)などの作品からはじまり、1990年代以後の戦争やシベリア抑留を主題にした巨大な布のコラージュ作品を紹介するという内容でした。

クリックすると元のサイズで表示します

シベリアでの悲惨な生活は写実的に描くことでは表現できないという考えから、麻布をコラージュして表現したシリーズは、過酷な俘虜としての体験のみならず、犠牲者への鎮魂や、荒涼とした大地、そこから生まれてくる生命の芽吹きなど、さまざまなイメージが込められているようです。

2006年には、広島市からの依頼を受けて、《「ヒロシマ」この大地の上で》、《「ヒロシマ」VOICE》などの作品を制作しており、会場の「第T章 原風景」のスペースに展示されていました。
(上写真図録左端に映っているのが《「ヒロシマ」VOICE》)

今回の展示では、同じ主題の作品が横にならぶことで、一見、量塊のような無造作な麻布のコラージュのように見える作品が、実は明らかな構図が意図されて構成・彩色されているということがよく伝わってきました。

また、「第V章 花咲く大地」のメインを飾った、布を赤く染めた2点の《花咲く大地》(2004年、神奈川県立近代美術館蔵/2008年、東京ステーションギャラリー蔵)は、美術館の白壁に鮮やかに映え、生命の輝きを感じさせていましたが、部屋の中央にゴロリと展示された立体像《横たわる》と重なるように奥の「第W章 立ちのぼる生命」の展示室から見える《泥土》(2004年、神奈川県立近代美術館蔵)が対照的な死の匂いを漂わせ、生死の奔流があふれ出るような空間になっていたことが、深く印象に残りました。

戦争への記憶/想像力は、死とともに生命をよみがえらせる、ということを、あらためて考えさせられる展覧会です。
0

2014/6/19

武蔵野美術大学調査/吉祥寺美術館「われわれは〈リアル〉である」  他館企画など

午後から第五福竜丸展示館のY主任学芸員と待ち合わせて、武蔵野美術大学の長沢秀之教授を訪ねました。今秋に予定している共同企画のための調査です。

長沢さんは、1954年の第五福竜丸の被ばく事件によって知られる米軍水爆実験で生まれたゴジラを「大きいゴジラ」、2011年3月の福島原発事故で私たちのまわりに「小さいゴジラ」が生まれたと位置づけ、これまで小平の中学校と川越市立美術館で「大きいゴジラ、小さいゴジラ」という展覧会を企画してきました。
私も今年3月に開催された川越市立美術館の展示を拝見して、大きな感銘を受けました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2305.html

その興味深い展覧会を、今年秋に第五福竜丸展示館と共同企画で行うビキニ事件60年展で丸木美術館に持ってきたいと考えているのです。

クリックすると元のサイズで表示します

この日は、武蔵野美術大学の展示スペースで展示されていた「ゴジラ展」の作品の一部を拝見してきました。
メルトダウンしていく無数の小さなゴジラの展示や、放射能防護服を連想させるゴジラの抜け殻、そして私たちを見つめているかのようなゴジラの「眼」など、いくつかの作品を見ながら、長沢さんの解説を聞きました。

クリックすると元のサイズで表示します

その後は、武蔵野美術大学美術館で開催中の「オオハラ・コンテンポラリー・アット・ムサビ」展(8月17日まで)を鑑賞。ヤノベケンジの《サン・シスター》など、30名47作品による大原美術館の現代美術コレクションの展示でした。

   *   *   *

武蔵野美術大学を出てYさんと別れ、武蔵野市立吉祥寺美術館で開催中の「われわれは〈リアル〉である 1920s-1950s プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで:記録された民衆と労働」を観ました(6月29日まで)。

クリックすると元のサイズで表示します

小さな美術館の小さな企画展ですが、1920年代に起こったプロレタリア美術運動から、戦時期の戦争画と勤労・増産絵画をへて、1950年代のルポルタージュ絵画まで続く「記録」の絵画の連続性を見つめる、重要な試みです。

出品作家は柳瀬正夢、小山内龍、矢部友衛、清水登之、堀田清治、岡本唐貴、江藤純平、須山計一、小畠鼎子、浜田知明、飯田善國、池田龍雄、桂川寛、尾藤豊、中村宏、鈴木賢二、利根山光人、高山良策、千田梅二など。

絵画・版画作品50点に加えて、漫画・雑誌・資料約80点を展示。記録映画『佐久間ダム(総集編)』(岩波映画製作所、1958年)も会場で上映されていました。

丸木夫妻の仕事が直接紹介されているわけではありませんが、《原爆の図》をはじめとする丸木夫妻の仕事を考える上でも、さまざまな示唆を受けることのできる時代の表現が詰まっています。
1

2014/6/18

NHK FMラジオ「日刊!さいたま〜ず」宮良瑛子展紹介  TV・ラジオ放送

午後6時から、NHKさいたま放送局のスタジオで、埼玉県内向けのFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」に出演しました。

現在開催中の企画展「宮良瑛子展」の紹介です。お相手下さったのは、内藤裕子アナウンサー。以前の放送でもごいっしょできる機会があったのですが、前夜に発生した地震の影響で流れてしまったため、今回が初めての対話になりました。

事前にとても丁寧に準備をして下さって、そのおかげで、本番ではリラックスして気持ちよく話をすることができました。
6月23日の沖縄戦の「慰霊の日」の直前というタイミングでスタジオに呼んで下さったご配慮も嬉しく思いました。
今回のリクエスト曲は、ネーネーズ(作詞・作曲=桑田佳祐)の「平和の琉歌」と、実は沖縄戦を歌っていたというTHE BOOMの「島唄」の2曲をお願いしました。

「平和」という言葉が本来の意味とは正反対の方向に言い換えられて使われてしまう時代の状況のなかで、「♪この国が平和だと誰が決めたの/人の涙も渇かぬうちに/アメリカの傘の下/夢も見ました/民を見捨てた戦争の果てに♪」という「平和の琉歌」の歌詞は、どのようにリスナーの皆さまに届いたでしょうか。

内藤アナウンサーはじめ、お世話になったNHKさいたま局のスタッフの皆さまには、心から御礼を申し上げます。
0

2014/6/18

東京都美術館「バルテュス展」  他館企画など

会期終了間際の東京都美術館「バルテュス展」(6月22日まで)を駆け込みで観てきました。

クリックすると元のサイズで表示します

ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめたという孤高の画家・バルテュス(1908-2001)。
個人的には、エミリー・ブロンデの『嵐が丘』の視覚的イメージは、すっかりバルテュスの挿絵そのものになっています。その原画も含めて100点を超える絵画を集めた決定版とも言うべきバルテュス絵画の回顧展。
古典と前衛、東洋と西洋の境界を越えて自由に絵画を探求する(という特徴が20世紀的なのですが)バルテュスの世界をじっくりと観ることができました。

今展にあわせて、ちまたには数々のバルテュス礼賛の評があふれていますが、2014年4月26日付『東京新聞』の石川翠さんのバルテュス評は異彩を放っていて興味深いものでした。

完結したコスモス(秩序)に憩う人類の幸福な時間は、1945年を境とする核時代の幕開けによって終わりを告げた。これは科学技術という物質系のテクノロジーを、生みの親である人間精神が制御できず、ひとが技術にひそむ魔力に翻弄されるカオス(無秩序)の時代への移行にほかならない」と定義する石川さんは、その混沌をピカソに代表される画家たちは新たな表現で模索しようとしたが、バルテュスは「ピカソの戦列に連ならず、かつての神学的世界(古典絵画)と美の自律性(モダニズム)のはざまに、どちらつかずの自閉的なミクロコスモスをこしらえて、永遠の惰眠をむさぼろうとする体たらく」と指摘します。
そして、「そんな彼を冷笑しつつ、限りなく羨望したというのがピカソの本音ではあるまいか」、「バルテュスの絵もまた、内向化による時代への徹底抗戦の牙を秘めている」と仮定するのです。

世俗から離れて独自の絵画世界に耽溺した彼の仕事が、「時代への徹底抗戦の牙を秘めている」かどうかは、あるいは議論の余地があるのかも知れません。
しかし、どのような作品であれ、作家の生きた時代と無縁ではいられないとするならば、石川さんの独創的な指摘も、大きな視座で見ればあながち的外れではないのかも知れないと、人混みにあふれた会場の片隅で、ふと思ったりもしたのでした。
1

2014/6/17

NHKさいたま局 FMラジオ「日刊!さいたま〜ず」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

2014年6月18日(水)午後6時からのNHKさいたま放送局のFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」に出演します。30分ほどのスタジオ生放送で、現在開催中の企画展「宮良瑛子展 沖縄―愛と平和と―」についてご紹介いたします。お相手下さるのは、内藤裕子アナウンサー。
リクエスト曲は、今回、いろいろと迷ったのですが、ネーネーズ(作詞・作曲=桑田佳祐)の「平和の琉歌」をお願いしてみました。
埼玉県内向けの放送(さいたま85.1MHz、秩父83.5MHz)ですが、どうぞお聴き下さい。
0

2014/6/12

大木晴子+鈴木一誌 編著『1969 新宿西口地下広場』  書籍

いつもたいへんお世話になっている丸木美術館評議員の大木晴子さんから、一冊の新刊DVD付書籍が届きました。
大木晴子+鈴木一誌 編著『1969 新宿西口地下広場』(新宿書房、3,200円+税)。

クリックすると元のサイズで表示します

「新宿西口地下広場」を舞台として、1969年2月に数人の若者からはじまった「フォークゲリラ」。
わずか5か月間に、数千人の群衆が集まるようになり、機動隊による排除もはじまります。
7月には「新宿西口地下通路」へと名称が改変され、道路交通法違反容疑で逮捕者が出るなど、地下広場における活動は一気に終息に向かいました。

この書籍は、付属のDVDに収められたドキュメンタリ映画『'69春〜秋 地下広場』(1970年完成/16o/白黒/84分/製作 広場の一味/製作・監督 大内田圭弥)をはじめ、インタビューや写真、論考など、さまざまな視点から当時の「地下広場」をめぐる事象を記録し読みなおした、貴重な資料となっています。

表紙の写真中央には、「フォークゲリラ」の中心として歌っていた若き日の大木(山本)晴子さんの姿も映っています。
『友よ』や『We shall overcome』などの歌声が響くなかで、ベトナム戦争や日米安保、沖縄、三里塚など、さまざまな問題についての議論が熱く交わされるという、時代の狭間に瞬間的に出現した一種の“解放区”のような空間。
その政治的、運動史的考察は、もちろん非常に重要であり、この書籍の基軸となっているのですが、個人的にたいへん興味深く思ったのは、坂倉順三設計(ということも初めて知りました)による「地下広場」の建築としての意味や、1945年5月25日に米軍機の空襲を受け柳瀬正夢が亡くなったという場所としての歴史性、さらには唐十郎や寺山修司、石子順造、ハイレッド・センター、ザ・ドリフターズやコント55号にまで言及して分析された時代性の考察、あるいはフォークソング論や大内田圭弥の映画論・映像作品目録など、広域的に文化的背景にも目配りをしている点です。

美術評論家の東野芳明による次のような論究も紹介されています。

==========

だいたいこの西口広場全体は、多くのレヴェルをもっており、地下広場は、地下鉄、国鉄、小田急、京王の乗客の導線が交じり合うところで、いたるところに階段があり、きわめて錯綜した構造をしている。そして噴水のある広場から放射線状にコンコースがのびていて、そこにも、多くの階段があって、地上に出られるようになっている。シュプレヒコールを叫んで警官に追い散らされた群衆は、あっという間に、蟹が穴へもぐるように近くの階段を上っていったん地上広場の方へ出ると、また、思い思いの階段から下へ降りてきてかたまり、シュプレヒコールを繰り返す。こういう集団があちこちで、出たり入ったりを繰り返すので、警官の方も、狙いを一か所に定めることができず、まるで、分身の術の影丸を追うように、多忙になる。逃げ損なった奴は噴水のそばのタクシー乗場の列にちょこんと並んでしまうと、見分けがつかなくなる。この広場のレヴェルの多い多孔的な設計が、期せずして、ゲリラ的な動きを助ける結果になったのは面白い。
(「新宿西口“広場”の生態学」『中央公論』1969年10月号、『虚像の時代 東野芳明美術批評選』所収)

==========

こうした文章を読んでいるうちに、この書籍が、公的空間の自由をめぐる文化的な“広場論”として読めるということに気づきました。

本来、“広場”のような公的な場で行われるべき論議や表現が、むしろ公的な場から排除されてしまう、という問題は、現在の美術館をめぐる状況も決して無関係ではありません。
美術館は“通路”ではありませんが、しかし、“通路”のように明確な用途を背負わされて、“広場”のような双方向性、身軽さ、自由さ、大らかさを失いつつあることの怖さを、幾度も考えさせられました。
その意味では、45年前の「新宿西口地下広場」は、今のこの国の、あらゆる空間につながっているようにも思います。

新宿ベルクの迫川尚子さんの写真も素晴らしく、さまざまな意味で見どころの多い、お勧めの一冊。丸木美術館でも取り扱いをさせて頂きます。
5

2014/6/8

【広島県北の旅】 奥田元宋・小由女美術館/三良坂平和公園など  調査・旅行・出張

朝から芸備線のディーゼル気動車に1時間半ほど揺られて、田植えの終わった水田の眩しい車窓を眺めながら、三次駅へ。

クリックすると元のサイズで表示します

三次駅には、奥田元宋・小由女美術館のN学芸員が車で迎えに来てくださいました。
「日本で一番、月が美しく見られる美術館」と言われる奥田元宋・小由女美術館は、開館からまだ9年目という新しい、立派な美術館でした。

中国山脈の山容を模したというゆるやかな曲線を描く建物の前には、シンボルツリーのイロハモミジが植えられています。

クリックすると元のサイズで表示します

児玉希望や船田玉樹など、広島の日本画家を専門に研究されているN学芸員に案内されながら、川合玉堂、児玉希望の流れを受け継ぐ日本画家の奥田元宋(1912-2003)と、妻で人形作家の奥田小由女(ともに三次市出身)の作品がならぶ展示室を拝見しました。

元宋の戦前の作品は東京の空襲の際に池袋駅に預けていて焼失してしまったとのことで現存していないのですが、戦後、油絵で下絵を描いてから制作したというボナール風のタッチの実験的な日本画などは興味深く、また、N学芸員が「画業のピーク」という1987年の大作《紅嶺》と《白嶂》が並んだ一室は圧巻でした。

クリックすると元のサイズで表示します

美術館には茶室もあり、工芸や絵本原画の展示にも力を入れているとのことで、企画展では「魅惑の清朝陶磁」展も開催中(7月6日まで)。
陶磁器を通じて、日本と中国の相互の影響関係を知ることのできる興味深い企画でした。

クリックすると元のサイズで表示します

館内の展示を見た後は、新緑の美しい遊歩道も少しだけ歩いてみました。

クリックすると元のサイズで表示します

遊歩道には、歌人としても知られる奥田元宋の歌碑が建っていました。

彩れる秋うつさむと山峡に木葉しぐれの音をきゝ居り

ときどきイノシシやキジも出るそうですが、豊かな自然に囲まれた気持ちのよい美術館です。
満月の夜には午後9時まで開館延長という、ユニークな試みもされています。
ちなみに、次回の開館延長日は6月13日です。

   *   *   *

続いて、N学芸員の車で向かったのは、三次市内の旧三良坂町にある三良坂平和美術館。

クリックすると元のサイズで表示します

途中、馬洗川に架かる芸備線の鉄橋を撮影。福塩線と分岐した直後で、単線です。
馬洗川は江の川の支流とのこと。穏やかな流れの川で、アユなども獲れるそうです。
この日は天候も良く、どこへ行っても、これぞ日本の原風景と言えるような、本当にのどかで美しい風景が広がっていました。

クリックすると元のサイズで表示します

三良坂平和美術館は、旧三良坂町が非核平和自治体宣言を行ったことを記念してつくられた三良坂平和公園内に、1991年に開館した美術館です。
丸木夫妻とも親交があり、「池袋モンパルナス」で活躍した地元画家・柿手春三の作品を中心に展示しています。

クリックすると元のサイズで表示します

M館長が温かく迎えて下さり、さっそく、館内の展示を見せていただきました。
6月29日まで行われている第T期展示では、「柿手の生涯 青年」と題して、池袋時代の柿手の油彩画に加え、この美術館の所蔵品である山路商、長谷川利行、峰村リツ子、福沢一郎、井上長三郎、平澤熊一、古沢岩美、大野五郎、麻生三郎、丸木俊、寺田政明、吉井忠の油彩画がならんでいました。

俊の油彩画は《朝のセーヌ》という小品。制作年は不詳となっていましたが、丸木夫妻が最初にスケッチ旅行でパリを訪れた1975年頃の作品ではないかと推測しました。

展示会場には、絵画とともに、柿手が1980年に『中国新聞』に連載した「池袋交遊録」からの抜粋文が紹介されています。
柿手は1940年に体調を崩して三良坂に帰郷するまで、椎名町のアトリエ村に暮らして、シュルレアリスムの画家として独立美術協会や美術文化協会などで活躍していたのです。

戦後は広島で美術教師をしながら、自由美術展に出品を続け、四国五郎や増田勉らとともに広島平和展を創立。
海田湾埋立反対運動の代表となるなど、社会的な主題の作品も数多く残しました。
上写真、右上の図録で写っている作品は、1978年制作の《御用学者》。原発を推進する御用学者を批判した作品ですが、米国スリーマイル島の原発事故以前に発表された、歴史的にもかなり早い時期の作品であることに驚かされます。

特別展示室では、ちょうど「県北アートシーン」と題する企画(6月29日まで)を開催していましたが、地元作家の紹介や「平和展」にも力を入れているようでした。

クリックすると元のサイズで表示します

美術館の外壁には、被爆50年の夏に、地元のさまざまな世代の150人の方が画家の吉野誠の指導で制作した《飛べ永遠に》と題する鳩と子どもたちのレリーフが設置されています。

クリックすると元のサイズで表示します

平和公園内の施設も、ひとつひとつ見て回ると、たいへん興味深いものでした。
まずは彫刻家・吉田光正制作の、原爆・戦争犠牲者を追悼し、非核・平和を願う記念碑「母と子―わたす像」。
三良坂平和を願う会の募金活動によって1987年に建てられたインド砂岩の像です。
ちょっとケーテ・コルビッツを連想させるような、力強い母子像でした。

記念碑の前には、三良坂町の町花、町木であった「菊の花、樫の木」、「子どもの未来」、「友好」を表現した陶芸家・財満進の陶板の平和記念モニュメントも設置されています。

クリックすると元のサイズで表示します

また、その「母と子―わたす像」に詩人の栗原貞子が寄せた散文詩「わたすの母子像」の詩碑も、記念碑を見守るように設置されています。

わたすの母子像   栗原貞子

インド砂岩の白い裸像の母は
白い裸像の子どもに
何をわたそうとしているのだろう

夕暮れの平和公園の広場には
白い灯ろうがいく百もおかれ
五濁の世を清らかに照らしている
像の前に集まった人々は
母が子どもにわたそうとする願いを
胸に燃やして手を取りあっている

ここ平和公園の白い灯ろうの灯は
いまも絶えない世界の戦火を
しずめようとする祈りの灯
裸像の母が子どもにわたそうとするもの

わたすの像よ
世界中の母と子にわたしてください
私たちの願いを

 1994年8月12日 三良坂町平和を願う会建立


栗原貞子にとっては、広島市内にある「生ましめんかな」に次ぐ2番目の詩碑だそうです。
また、その隣には、詩に感動した翻訳家の早川敦子さんが、被爆60年の夏に英訳したプレートも設置されていました。

クリックすると元のサイズで表示します

さらに公園内を見て歩くと、三良坂町生まれの農民詩人・佐々木昇の歌碑もありました。

朝霧につめたき稲を刈りいそぐ このあさあさや秋深みたり

農民詩人として高い評価を受けながら、1942年に戦死した方だそうです。
1991年に三良坂町短歌会が中心となって遺歌集『流』を復刊、歌碑はそれを記念して建てられたとのこと。

クリックすると元のサイズで表示します

M館長には、三良坂コミュニティセンター内の山代巴記念室も案内していただきました。
代表作『荷車の歌』などで知られる作家の山代巴(1912-2004)は、丸木俊の女子美術学校での同級生。
戦後、アトリエを訪れた山代を居合わせた編集者に紹介したことから、『蕗のとう』という作品でデビューを果たすなど、俊とも縁の深い女性です。

クリックすると元のサイズで表示します

展示室には、晩年の俊が『蕗のとう』を思い出して描いた小品の絵画(1998年制作)も展示されています。

クリックすると元のサイズで表示します

女子美術中退後、プロレタリア美術に触れ、当時非合法だった共産党に入党し、常磐炭坑大争議の指導者だった山代吉宗と結婚した巴は、1940年、夫とともに治安維持法容疑で特高に逮捕されます。そして送られたのが、三次の女囚刑務所だったのです。

この小さな記念室は、そうした巴の生涯を追いながら、山本薩夫監督によって1959年に映画化された『荷車の歌』の資料をはじめ、峠三吉らと行った占領下の被爆者の実態調査、「きのこ会」などの被爆者援護運動、各地の女性サークル運動の育成などの多岐にわたる活動も紹介しています。
以前から訪れたいと思っていた施設でしたが、N学芸員のご案内のおかげで、ようやく念願がかないました。

広島というと、つい広島市周辺や、尾道、福山の瀬戸内海沿いの港町を思い浮かべてしまい、実際、何度も足を運んでいるのですが、県北の山間部にもこのような場所があって、文化そして平和を思い続けているということに、あらためて心を打たれました。
今日訪れることができた文化施設とは、今後も深い連携を続けていきたいと思います。

   *   *   *

その後、地元の豆腐専門店が開いたばかりの田園地帯のなかの喫茶店Cafe mame 茶で遅い昼食をいただいた後、N学芸員に送られて、10年ぶりに尾道の町も訪れました。

クリックすると元のサイズで表示します

尾道を訪れるのは4度目ですが、尾道水道の穏やかな海の表情には、本当に和やかな気持ちになります。
あまり町を散策する余裕もなかったので、海を眺めながら空港行きのバスまでの時間を過ごしました。

クリックすると元のサイズで表示します

以前訪れたときにはまだ開館していなかったシネマ尾道も、ちらりと覗いてきました。
映画『旅する映写機』(森田惠子監督)にも登場していた、NPO運営の映画館。
今度尾道を訪れたときには、ゆっくりスクリーンで映画を観たいものです。
1



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ