2014/5/31

井出博子平和コンサート「ねがい」  イベント

午後2時から、美術館1階奥の新館ホールで、ソプラノ井出博子さん、ピアノ折井美紀さんによる平和コンサート「ねがい」が開催されました。

初夏を迎え、少しずつ気温が上がってきた丸木美術館。
この日は、なんと予想を上回って100人を超える参加者がホールに集まり、素晴らしい雰囲気の中でのコンサートとなりました。

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第1部では、《アウシュビッツの図》を意識されてのことだったのでしょう、映画『シンドラーのリスト』のテーマも歌われました。

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休憩後の第2部では、「死んだ男の残したものは」や「一本の鉛筆」など馴染み深い日本の反戦をテーマにした歌を中心に、企画展「宮良瑛子展」にあわせて「島唄」なども歌って下さいました。
合唱曲として歌われることの多い「死んだ男の残したものは」のソプラノ独唱は初めて聴きましたが、四方の壁面にならぶ丸木夫妻の大作のさまざまな情景が、歌声に重なり響き合うように感じられて、とても心に残りました。

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丸木美術館に少しでも多くの人に来て欲しい、この美術館の存在を知って欲しい、という思いから、まったくの無償でコンサートの開催を申し出て下さった井出さんとそのご家族には、心から御礼を申し上げます。

大勢の知人に囲まれて談笑する井出さんの姿を遠くから眺めて、あらためてその人柄が伝わってくる思いがしました。
本当に、ありがとうございました。
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2014/5/31

『東京新聞』に「宮良瑛子展」展評掲載  掲載雑誌・新聞

“宮良瑛子展「沖縄―愛と平和と―」 矛盾を超える澄明さ”

2014年5月30日付『東京新聞』夕刊(及び31日付朝刊の一部)文化面の「美術評」欄に、芸術評論家の石川翠さんによる「宮良瑛子展 沖縄―愛と平和と―」の展評が掲載されました。

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石牟礼道子や上野誠に言及しながら、宮良さんの作品を歴史的な文脈に位置付ける素晴らしい展評です。
石川翠さんには、心より感謝いたします。
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2014/5/29

東近美「映画をめぐる美術」/府中市美「官展にみる それぞれの近代美術」  他館企画など

美術館の休みを頂いて、午後から都内の美術館めぐり。
東京国立近代美術館の企画展「映画をめぐる美術―マルセル・ブローターズから始める」(6月1日まで)は、見慣れた展示室の雰囲気を大幅に変えて、美術館の中に6つのテーマ室からなるレトロな雰囲気のシネマ・コンプレックスを作り出すという試み。

中央の部屋で5台の16oフィルム映写機がベルギー出身の美術家マルセル・ブローターズ(1924-1976)の映像作品を映し出し、カーテンで仕切られた狭い通路をたどっていくと、たとえば、エリック・ボードレールによる映像《重信房子、メイ、足立正生のアナバシス そして映像のない27年間》(2011年、66分)など、13作家のそれぞれの写真や映像、インスタレーションが展示されている独立した小部屋にたどり着くという趣向が新鮮でした。

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「何かがおこってるU 1923、1945、そして」と題されたコレクション展示も非常に興味深いものでした。前会期の特集「何かがおこってる」の続編で、絵画や彫刻だけではなく、雑誌などの資料や映像(1941年のアニメ映画《動物となり組》など)も用いて、関東大震災、敗戦、東日本大震災……と繰り返してきた日本の災厄の歴史の中の空気を浮かび上がらせ、暗に現在の社会の動きへの批判を想起させる内容。

特集展示「地震のあとで―東北を思うV」も含めて、Chim↑Pomの映像作品《気合い100連発》や《REAL TIMES》などを、国立美術館で観ることになるとは、なかなか感慨深いものがありました。
2012年秋の企画展「実験場1950s」あたりから、歴史的な名品の陳列から現代の問題意識を踏まえたした内容へと、東京国立近代美術館の展示の方向性が変わってきたような気がします。

   *   *   *

続いて府中市美術館の企画展「東京・ソウル・台北・長春 官展にみる それぞれの近代美術」(6月8日まで)へ。
その功罪も問われるものの、近代の美術システムを確立させた明治期の公設公募展「文展」からはじまり、やがて日本の統治下にあったアジアの各都市(ソウル=朝鮮、台北=台湾、長春=満州)でも開かれるようになった官展の歴史を掘り起こすという、非常に意義深い企画でした。

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こうした官展は、各地において近代美術の形成の基礎となる役割を果たした一方で、日本人の審査員が作品を選定するなど、文化的な植民地政策であった面を見逃すことはできません。
しかし、梅原龍三郎の絵画様式の確立に台湾や北京、満州への訪問体験が影響を及ぼし、とりわけ台湾の画家・陳澄波の自由闊達な画風(非遠近法による空間のねじれや歪み、形象の大胆な単純化など)に大きく触発されたのではないかという推測などは、とても興味深く思われました。
その陳澄波もまた、台湾で指導した日本の水彩画家・石川欽一郎の影響を受けているそうで、いわば螺旋状のように日本とアジアの各地は相互に影響を与え、刺激を受け合っていたのだという歴史をあらためて考えさせられました。
満州の現存作品が非常に少ないなど、「戦争記録画」とはまた違った意味で、戦争の傷痕を感じる展覧会でもありました。
絵本『スーホの白い馬』で知られる赤羽末吉が満州を描いた1950年代のタブロー《満洲の冬の街頭物売り》(ちひろ美術館蔵)など、初めて見る作品も数多くあり、各国の研究者が執筆した論文やエッセイ、資料が数多く収められた図録も圧巻。保存版の貴重な一冊です。
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2014/5/27

『琉球新報』に「宮良瑛子展」記事執筆  執筆原稿

“宮良瑛子展 沖縄の色彩 鮮烈に 視野広げ表現し続ける”

2014年5月27日付『琉球新報』朝刊文化面の「展評」欄に、「宮良瑛子展 沖縄―愛と平和と―」に関する記事を執筆させて頂きました。

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「展評」欄ではありますが、客観的な展評というよりは、企画した側の思いを伝える記事として書いたものです。

文化部の新垣毅記者をはじめ、お世話になった国吉美千代記者、沖縄県立博物館・美術館の豊見山愛主任学芸員に心から御礼を申し上げます。
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2014/5/26

川越スカラ座『旅する映写機』  川越スカラ座

休館日。川越スカラ座で上映中のドキュメンタリ映画『旅する映写機』(2013年、森田惠子監督)を観てきました。

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森田惠子監督の映画は、2年半ほど前にも、『小さな町の小さな映画館』という素晴らしいドキュメンタリ作品を観て、非常に感銘を受けました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1724.html
そのとき、実は森田監督が丸木美術館の友の会会員であるということを知って、親近感も沸きました。

今度の作品は、その『小さな町の小さな映画館』の舞台となった北海道浦河町の大黒座を出発点として、岩手県の善映館、みやこシネマリーン、福島県の本宮映画劇場、東京のシアターN渋谷、大島電機、国立ハンセン病資料館、岡山県のシネマ・クレール、広島県のシネマ尾道、愛媛県のシネマルナティック、マネキネマ、内子町の旭館、高知県の大心劇場、そして(われらが)川越スカラ座も含めて、映写機を訪ねてまわった1年間の旅を記録しているのです。

森田監督とともに旅をした映写技師の永吉洋介さんには、6年前にスカラ座が新しい回転盤を導入した際にご指導いただき、たいへんお世話になりました。

映画館のデジタル化にともない、フィルム映写機による映画上映が激減している現在だからこそ、輝いて見える名映写機が続々と登場します。
川越スカラ座の映写室に鎮座している「フジセントラルF-7」(平岡工業、1967年製)が、戦時中に零戦を作っていた中島飛行機株式会社の精密な技術を受け継いで作られていた(埼玉県飯能市の平岡工業は、中島飛行機時代からの下請け会社)互換性が高く耐久性に優れた歴史的な名機であることも、この映画を観てはじめて知りました。

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写真は6年前のメンテナンスの際に撮影した川越スカラ座の映写室内の様子。
右側の映写機が名機「フジセントラルF-7」です。

   *   *   *

森田監督の作品を観て感じたのは、街であれ、村であれ、人里離れた山奥であれ(実際、高知の大心劇場は山の中の一軒家)、ここから文化を発信しようという思いさえあれば、映写機とスクリーンというシンプルな設備で映画が生まれるという、当たり前のようで、今の時代に忘れられがちな大切なこと。
そしてそれは、映画館だけでなく、美術館もきっと同じであるということ。

丸木美術館という、人間の手から手へ守り伝えられてきた美術館で働く者の一人として、今日からまたがんばっていこうと励まされるような、心の温かくなる作品でした。

川越スカラ座での上映は6月6日(金)まで。
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2014/5/23

ブックギャラリーポポタムにて「丸木俊の絵本の世界」展  館外展・関連企画

西池袋のブックギャラリーポポタムにて、「丸木俊の絵本の世界」展がはじまりました。

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池袋は、かつて丸木夫妻が暮らしたアトリエ村「池袋モンパルナス」のあった縁の深い地域です。
ポポタムさんは、とてもかわいらしいブックギャラリーで、品ぞろえもとても良いです。
今回の展示では、丸木俊の絵本や童話の挿絵、子どもを描いた作品、戦後の池袋モンパルナス時代のスケッチなどが紹介され、小品、版画、絵本の販売も行われています。
ぜひ、皆さま、覗いてみてください。

丸木俊の絵本の世界
12〜19時 金曜〜20時 ※最終日は17時終了
水曜・木曜休み 入場無料
ブックギャラリーポポタム
豊島区西池袋2-15-17
03-5952-0114
popotame.m78.com/shop
目白駅から徒歩7分、池袋駅から徒歩9分
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2014/5/22

NHK総合テレビにてピーター・カズニック来館のニュース放送  TV・ラジオ放送

今日は午前中、アメリカン大学の歴史学者ピーター・カズニック教授夫妻らが来館、《原爆の図》などの展示を、丁寧に時間をかけて鑑賞されました。

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ひとつひとつの作品の前で、描かれた時代背景や米軍占領下の巡回展などについて解説を行ったのですが、非常に熱心に話を聞いて下さり、たくさんの質問をされるなど、丸木夫妻の仕事に大いに関心を示された様子でした。

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NHK社会部の撮影スタッフが取材に訪れ、カズニックさんへのインタビューも収録されました。
その様子は、午後6時10分からの総合テレビ「首都圏ネットワーク」のなかで、1分23秒という短い時間でしたが放送されました。

こちらのWEBサイトから動画を視聴できます(おそらく数日間限定公開)。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140522/k10014645251000.html

以下に、放送の内容を書き出します。

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〈スタジオ〉

テロップ:埼玉 東松山 米の歴史学者「原爆の図」美術館訪れる

田中洋行アナウンサー:原爆投下に疑問を投げかける映画を、オリバー・ストーン監督とともに制作したアメリカの歴史学者が、原爆被害の絵が展示されている埼玉の美術館を訪れ、過ちを繰り返さないために私たちは歴史から学ばなければならないと訴えました。

〈丸木美術館の外観映像〉

田中アナ:埼玉県東松山市にある原爆の図丸木美術館を訪れたのは、アメリカ人で歴史学者のピーター・カズニックさんです。

〈《原爆の図》を鑑賞するカズニックさんの映像〉

田中アナ:この美術館には、画家の丸木位里と俊夫妻が、原爆投下後の広島の惨状を描いた作品《原爆の図》が展示され、カズニックさんは当時の状況などについて、学芸員に質問したり、作品を写真に収めたりしていました。

テロップ:ピータ・カズニックさん おととし共同で原爆投下に疑問投げかける映画「もうひとつのアメリカ史」を制作

田中アナ:カズニックさんは、一昨年、オリバー・ストーン監督と共同でアメリカによる原爆投下に疑問を投げかける映画『もうひとつのアメリカ史』を制作し、大きな話題になりました。

〈カズニックさんへのインタビュー映像〉

テロップ:広島と長崎で何が起きたのか 多くの国の若者たちの記憶の風化が進んでいるが
過ちを繰り返さないためにも 歴史から学ばなくてはならない
実際に起きたことを力強く表現した 丸木夫妻の作品を見ることが大切


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もちろん、放送された内容はごく一部で、実際には安倍政権に対する厳しい批判などもカメラの前で語られていたのですが、ともあれ、現在の難しい社会状況のなかで、こうした話題を取材して下さった政治部のスタッフの方々に心から敬意を表します。

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2014/5/21

坂東眞砂子『眠る魚』  書籍

2014年1月27日に逝去された作家の坂東眞砂子さんの絶筆となった未完の小説『眠る魚』(集英社、2014年5月19日発売、1300円+税)が編集部より届きました。

この小説は、集英社WEB文芸「レンザブロー」に2013年2月15日から2014年1月10日まで連載されたものです。WEB上の連載時は、タイトルページに原爆の図 第8部《救出》が使用されていたのですが、単行本の装幀は、原爆の図 第15部《長崎》になりました。

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ブックデザインは鈴木成一デザイン室。
画面のわずかな余白に、白字のタイトルと黒字の著者名を配置した装幀が印象に残ります。

物語の舞台は、「3.11」後の近未来の関東平野の架空の町。著者自身を投影させたと思われる南洋の島で暮らす主人公の女性が、実父の訃報を受けて一時帰国し、日本社会の不条理と混乱に直面するなかで癌を発症するという筋書きで、鋭い社会批判の筆が冴えわたります。

読みはじめるとぐいぐいと引き込まれ、著者が病に侵されながら全身全霊の思いを込めて紡ぎ出した架空の物語に、私たちの日常がまさに近づいているのではないかと背筋の寒い思いがしました。

物語の後半部から、《原爆の図》に触れている個所を引用します。
坂東眞砂子という優れた作家が、最後の最後に、このような文章を遺して逝ったことを、記憶に留めておきたいと思っています。

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 想定外、か。
 皮肉な笑いが浮かんで消えた。
 原発事故を「想定外」と規定した時から、日本の現実は、非現実空間に浮遊しはじめたのだ。「想定外」の事態が現実となる世界と、ファンタジーが現実となる世界は同質だ。
 日本は、福島原発事故を境に、ファンタジー世界に入りこんでしまったのだ。
 私が散歩しつつ目にしている、この大竜川の川辺の穏やかな風景はファンタジーではないか。もしかして、現実とは、『原爆の図』のような光景なのかもしれない。丸木位里と俊の夫婦の共作によるこの絵は、私は図版でしか知らないが、それを見た時の強烈な印象は記憶に生々しい。
 原爆の灼熱に焼かれて、一瞬にして衣類は焼かれ、ぼろぼろになった皮膚を垂らして、幽鬼のように歩く人々の群れ。だが、今回は、一瞬の高熱が人を襲うのではない。体内に取り込んだ放射性物質の熱によって、人はじりじりと内から焼かれていくのだ。そして長い年月をかけて体を蝕まれ、健康を害し、病に臥して斃れていきもする。だから、ほんとうに私の目に映るべき現実とは、内なる熱に焼かれ、身をよじらせて苦しむ人の群れであるべきなのだろう。そして、その人の行列は、二〇一一年三月十一日から未来永劫に連なり続け、途絶えることはないのだ。


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2014/5/20

加藤登紀子トーク&ライブのお知らせ  イベント

7月19日(土)から9月6日(土)まで、丸木美術館では特別展示として「はだしのゲン絵本原画展」を開催する予定です。
残念ながら漫画の原画は作品の状態に不安もあり、広島平和記念資料館から貸出許可が下りませんでしたが、1980年に汐文社から刊行された『絵本 はだしのゲン』のカラー原画全24点を展示できることになりました。

そして、関連企画として、8月30日(土)午後3時から、加藤登紀子さんのトーク&ライブが開催されます。

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『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんが平和への願いをつづった唯一の詩に曲をつけた「広島 愛の川」(2014年7月CD発売予定)を、丸木美術館で加藤さんが歌って下さいます。
(写真は「広島 愛の川」制作発表にて、左から作曲家の山本加津彦さん、加藤登紀子さん、中沢啓治さんの妻・ミサヨさん)
丸木夫妻の《原爆の図》、中沢啓治の『はだしのゲン』そして加藤登紀子の「広島 愛の川」……原爆に対峙する表現者によるジャンルを超えたつながりを体験できる、この夏注目の企画です。

8月30日(土) 開演午後3時 全席自由3,800円(入館料込=丸木美術館友の会会員は800円割引)
限定200席/前売予約は丸木美術館(☎ 0493-22-3266)まで


まだ限定的な告知であるにも関わらず、すでに大きな反響を頂いています。
観覧ご希望の方は、ぜひお早目に丸木美術館までお問い合わせください。
限定200席ですので、定員に達し次第、予約を締め切らせて頂きます。
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2014/5/13

『あいだ』212号に『非核芸術案内』紹介  掲載雑誌・新聞

美術月刊誌『あいだ』212号(『あいだ』の会、2014年4月20日発行)の編集後記で、岩波ブックレット887『非核芸術案内』を取り上げて頂きました。

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《新刊紹介》
岡村幸宣『非核芸術案内』
(岩波ブックレットNo.887,A5判,カラーを含む図版45点。64ページ,\600)

 ▲定式どおり,はじまりは《原爆の図》,といえばいえますが,前座にシケイロスの,《都市の爆発》という1936年の,予見的なキノコ雲の作品をあげています。はじめて知りました。

 ▲本書は,「核」という,ヒロシマ・ナガサキから3・11まで,いや,心に刻みこまれた記憶としてはその後もずっと消えることはない,名状しがたい何ものかが,どのように表現されてきたかを,個々の作品の背後や周辺状況を呼びこみながら,幅ひろくたどっています。もちろん,Chim↑Pomやヤノベケンジ,風間サチコの仕事も。最後に紹介されるのは,いわき市で被災した彫刻家・安藤栄作の,流木をけずった,さながら墓標のような作品……。

 ▲いわゆるシロウトの記憶画にも目配りを行きとどかせたうえで,著者は次のような注意喚起をしています――〈職業的な表現者から一般市民まで,現在,原爆を主題にした表現は数多く見ることができる。しかし,そうした表現のすぐ隣りには,常に表現できない記憶の闇が深く横たわっていることを,私たちは決して忘れてはいけない〉。

 ▲丸木美術館学芸員――唯一の,と聞きます――として精力的な活動をつづける著者にして,はじめて書き得たというべき。


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執筆して下さった編集者の福住治夫さんに感謝です。

丸木美術館の「唯一の」学芸員、とご紹介を頂き、たしかにその通りなのですが、その分、近現代史研究者の小沢節子さんや、川口隆行さんはじめ原爆文学研究会の皆さま、そして他美術館の学芸員や画廊主、美術評論家の方々の示唆、もちろん丸木夫妻の親族や関係者など、とても多くの方がたに導かれてきたという感があります。

とりわけ『非核芸術案内』は、そうした幅広い関わりのなかから生まれてきたといえる一冊なので、このように読んで頂けるということは、この上ない喜びです。
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2014/5/12

東京学芸大学にて「人権教育」出張授業  講演・発表

休館日ですが、ここ数年続けてお招き頂いている、東京学芸大学の1年生向けの「人権教育」の出張授業を講義を行ってきました。

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昨年の講義の様子も、学芸員日誌に報告しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2143.html

もちろん、私は人権教育の専門家ではないので、丸木夫妻の生涯の画業に即して話をして、そこから今日的な問題意識を学生たちにすくい取ってもらうことしかできません。

とはいえ、毎年、多くの学生は、原爆からさまざまな戦争、社会問題に視野を深めて弱者の痛みに寄り添うように想像力を広げていった丸木夫妻の仕事に、新たな気づきを得ているようです。

授業の後に、担当の宿谷先生から、感想メモを見せていただきました。
学生たちにとっては、丸木夫妻がさまざまな葛藤を続けながら描き続けたことが、大きく印象に残ったようです。
2011年3月11日の東日本大震災・福島原発事故に引き付けて考える学生もいれば、「集団的自衛権」をめぐる議論や「慰安婦」問題についての意見を記す学生もいました。

「美術館の学芸員の話を初めて聞きました」という感想もありましたが、ふだんの授業とは異なる視点から、それぞれが思いを深めていただけたのであれば、とても嬉しく思います。
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2014/5/9

「最初に原爆を描いた画家」福井芳郎のインタビュー記事  作品・資料

少し前のことになりますが、NHKプラネット中国支社のSディレクターが、丸木美術館に取材に来館して下さいました。
NHK総合テレビの番組「プライムS」の被爆70年シリーズの一環として、「ヒロシマを描き続けて〜被爆画家・福井芳郎〜(仮)」という番組を制作されているのです。
(放送は6月27日午後8時より、中国地方5県向けの予定)

広島の原爆投下から1時間以内に燃え上がる街をスケッチし、「最初に原爆を描いた画家」とされる福井。しかし米軍占領下の時代には、焼け跡の風景画の発表のみにとどまり、その間に発表された丸木夫妻の《原爆の図》の後を追うように、1952年4月の占領終結後に《炸裂後15分》などの油彩画を発表しています。

福井が丸木夫妻について言及している資料はあまりないのですが、太平洋地域のアメリカ軍総司令部が発行していた英字新聞『Pacific Star & Stripes』1952年7月7日号に、Fred Saito記者によるインタビュー記事が掲載されています。

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丸木夫妻の名前は出ていませんが、記事の中で言及される「a Communist artist」(単数形ですが)が、当時日本共産党員だった(1964年に除名)丸木夫妻を指しているのは間違いないでしょう。

以下に、英文記事と、その拙訳を掲載いたします。

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Japanese Says Sight Beautiful, Dreadful
Artist Portrays Hiroshima Blast

By Fred Saito

HIROSHIMA (AP)―A Japanese painter is now trying to capture on canvas the most unforgettable sight of his life―a sight both beautiful and dreadful.
Yoshiro Fukui, 40-year old Hiroshima artist, was among the handful of survivors within the one-mile radius of the atomic explosion seven years ago.
The First of his series is an oil painting six feet high and 30 feet long. In the center of the scene, a young women looks up with forlorn eyes. Her baby is dead at her feet. To the right, a man carries his mother on his back. Others lie dead or dying.
Flames and smoke shoot up in the background. A patch of pure blue sky is seen above the inferno.

ALL THE PEOPLE in the scene are naked.
“The blast tore clothes from everyone, and these three I have painted dropped dead a few minutes after I saw them standing like this,” Fukui explained.
On the morning of Aug. 7, the artist was standing on the second floor of a military barracks near his present studio. He was a medical sergeant in the Army. From the window, he saw Hiroshima suddenly lit by a flash so bright it surpassed the strong summer sun.
“It was unearthly beautiful,” he said.

A MOMENT LATER he was pinned under the beams of the collapsing barracks. A few minutes after that, he was pulled out of the debris by another solder, who dropped dead shortly after.
In his dazed stupor, Fukui stepped out into the ruined street. Then he became wide awake as the unforgettable sights unfolded before his eyes.
Everything around him was in ruins. All the men and women were naked. They were falling dead by the roadside like burned flies. Flames were rising everywhere. The sky was still unbelievably blue.

FUKUI REMEMBERED his medical duties and ran to the dying. Men, women and children saw his uniform and muttered with their dying breath, “Soldier, revenge for me!”
But Fukui, a big, well built man with scars on his back from the falling beams, said the theme of his work would not be “revenge.”
“The voices of the dying rang in my ears until last year,” he said. “Those voices wracked my nerves and numbed my hands when they held the brushes.
“But now I feel my work can transcend it all, and I think it is my duty to reproduce my most unforgettable sight, which was both beautiful and dreadful.”

HE SAID HE ALSO felt the call when he saw many imaginary pictures of the Hiroshima bombing painted by a Communist artist. These lurid scenes were widely circulated by the Japan Communist party in its anti-American propaganda campaign.
But Fukui, who was there, has nothing but scorn and contempt for the Communist paintings.
“To call such dreadful sights beautiful may sound blasphemous, but nevertheless they appeared to me to have some element of surpassing, unearthly beauty, “Fukui said. “The Communist painting are only hideous and ugly.”
When Fukui finishes about a dozen of his Hiroshima series he will exhibit them in Tokyo, probably this fall.

IN HIS STUDIO were many other of his paintings―still lifes or landscapes. They showed touches of the refined French school.
But his A-bomb painting is altogether different―stark realism itself.
“I have always worshipped Cezanne, both his style and his way of living,” Fukui said. “But this is not for Cezanne. May be Van Gogh. Maybe something different, something entirely new, something all my own.” We must wait and see.
(Pacific Stars & Stripes Monday, July 7, 1952)

   *   *   *

日本人は「美しく、恐ろしい光景」と言った
ヒロシマを描く画家

フレッド・サイトウ

広島(AP)―ひとりの日本人画家が、彼の人生において忘れることのできない、美しく、恐ろしい光景を、描き出そうと試みている。
40歳の広島の画家・福井芳郎は、7 年前の原爆投下の際、半径1マイル以内における、数少ない生存者のひとりだった。
彼の連作の最初の作品は、縦6フィート、横30フィートの油絵である。画面の中心では、若い女性が絶望的な視線を漂わせ、彼女の赤ん坊は足もとで息絶えている。傍らでは、男が母親を背負って運んでいる。累々と横たわる瀕死の人々や死者たちの群れ。背後には炎と煙が立ち上る。そんな地獄の光景の頭上には、真っ青な空が広がっている。

描かれた人びとはみな、裸だった。
「爆風がすべての人の衣服を剥ぎ取った。ここに描いた三人は、私が立っている姿を見た後で、倒れて死んでいった」と福井は説明する。
8月7日(註:原文ママ)の朝、画家は現在のアトリエ近くの兵舎の2階に立っていた。彼は陸軍救護班に勤務していた。窓の向こうに、突然、夏の強い日差しを上回るほどの閃光に照らされた広島を見た。
「この世のものとは思えないほど美しかった」と彼は言った。

一瞬の後、彼は崩壊した兵舎の梁の下敷きになった。数分後、他の兵士によって瓦礫の中から救出されたが、その兵士はすぐ後に亡くなった。
彼は呆然としながら、焼け野原となった街路に歩き出した。そして、決して忘れることのできない光景に目を見張った。
すべてが廃墟となっていた。男も女も裸だった。道端で、虫けらのように焼け死んでいた。そこかしこで炎が燃え上がっていた。空だけが、信じられないほど青かった。

福井は救護班としての任務を思い出し、死に行く人たちのもとへ駆けつけた。男も女も子どもたちも、彼の軍服を見て「兵隊さん、復讐して下さい!」と最後の声を振り絞ってつぶやいた。
しかし、原爆で背中に傷を負ったものの、大柄で体格の良い福井は、作品のテーマは「復讐」ではないと言う。
「昨年まで、私の耳もとに死者たちの声が響いていた」と彼は言った。「彼らの声は、私の神経を不安に苛み、絵筆を持つ手の感覚を無くした」。
「しかし今は、描くことですべてを乗り越えることできると信じている。美しくも恐ろしい、最も忘れられない光景を再現することが、自分の義務だ」。

彼はまた、共産主義の画家によって描かれた広島の原爆の空想の絵を見て、使命を感じたと述べている。これらの不気味な作品は日本共産党によって反米プロパガンダのキャンペーンとして広く巡回された。
しかし、この目で現場をみた福井は、共産主義者の絵画に軽蔑の念を覚えた。
「凄惨な光景を美しく表現したいと言うと、冒涜に聞こえるかもしれない。にもかかわらず、そこには至高の美が潜んでいるように、私には思える」と福井は言う。「共産主義者の絵には恐ろしさと醜さしか感じられない」。
広島の連作を描き終えたとき、福井は東京で展覧会を開催する。それはおそらく、今年の秋になるだろう。

アトリエには、他にも数多くの彼の描いた静物画や風景画があった。それらの絵画は、洗練されたフランス教育を受けた筆致を示していた。
しかし、原爆の絵はそれらとまったく異なるリアリズムの表現だった。
「私は常にセザンヌの画風と生き方を崇拝している」と福井は言った。「しかし、これはセザンヌではない。むしろヴァン・ゴッホだ。おそらく今までとは違う、まったく新しいものが、私の中から生まれてくる」。私たちは、その作品を直視しなければならない。
(1952年7月7日付『パシフィックスターズ&ストライプス』)

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(翻訳協力:吉岡志朗)

実際に原爆を見た(8月6日に広島にいた)画家という立場から、丸木夫妻の《原爆の図》を醜い空想の絵と断定し、自分は「美」を見出したいと語る福井の対抗心と意気込みが伝わってくるインタビューです。

実際、彼は1952年8月に広島の福屋百貨店で原爆記録画の中間報告展を開催し、翌年8月に東京の日本橋白木屋で「ノーモア・ヒロシマズ広島原爆絵画展」を開催しています。

しかし、そこで発表された絵画が、丸木夫妻の《原爆の図》とは異なり、「美」を表現できたかというと、疑問の残るところです(むしろ個人的には、やはり丸木夫妻の作品こそが原爆を広義の「美」に昇華させていると感じます)。

また、占領時代の終結とともに『アサヒグラフ』の1952年8月の原爆特集に代表される「被爆写真」が大量に公開され、絵画で原爆を表現することの意味が、丸木夫妻の最初の《原爆の図》発表時とは変質していた点も、福井にとっては機を逸する大きな理由になったのではないかと思います。

ともあれ、丸木夫妻の作品ほどには社会に衝撃を与えることがなかった福井の作品は、その後、多くの人に知られることなく、現在は広島平和記念資料館に所蔵されています。
とはいえ、もちろん、その仕事に意味がなかったというわけでは、決してありません。
広島平和記念資料館の初代の被爆人形のジオラマの背景画を手がけたのが、「ヒロシマを描いた画家」である福井だったことも記憶に留めておきたいと思います。

知られざる福井の画業が、番組のなかでどのように取り上げられ、被爆70年という節目の年に向けて、新たな意味を見出されていくのか。
熱心に取材を進めているSディレクターの試みに、期待したいと思っています。
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2014/5/7

週刊『新発見!日本の歴史』歴史ミュージアムに《原爆の図》紹介  掲載雑誌・新聞

朝日新聞出版より刊行されている週刊朝日百科『新発見!日本の歴史』第44号(5月18日号)現代4“敗戦・占領の「断絶と連続」”(1945-1950)の連載コラム“歴史ミュージアム”に、丸木夫妻の原爆の図第1部《幽霊》が大きく紹介されました。

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執筆者は、美術史家・美術評論家の足立元さんです。
占領期の「歪められた身体」”との見出しで、鶴岡政男《重い手》(1949年)、桂ゆき《婦人の日》(1953年)、大塚睦《ハンスト》(1949年)、北脇昇《クォ・ヴァディス》(1949年)も紹介されています。

以下は、記事から《原爆の図》にかかわる部分の抜粋です。

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 日本国憲法第21条には「表現の自由」が定められ、国家による検閲も禁じられたはずだった。だが実際、占領軍による封書の検閲は日常的に行われていたし、出版物の事前検閲という「見えない検閲」が存在し、占領軍への批判などは徹底的に言説空間から封殺されていた。絵画においても、軍国主義を批判するものはあっても、占領軍を批判するものはほとんど残っていない。

 朝鮮戦争の勃発によるアメリカ軍の移動に伴い、検閲による言論統制は1950年には収束していた。だが、丸木位里・俊夫妻の《原爆の図》の全国巡回展において、関係者がしばしば逮捕されたという証言が残っている。

 占領軍は、文化財保護行政や東京国立博物館の人事問題などに介入し、旧態依然としたシステムを排して「美術の民主化」に貢献したといわれる。とはいえ、占領軍と大手新聞社が結託し、共産主義色が強い画家たちを画壇の片隅へ追い込んだのも確かだ。戦後美術が始まる占領期には、東西冷戦構造が大きな影を落としていたのである。


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作品解説文には、「屏風仕立ての水墨画でありつつ、モデルの写生に基づく群像表現という点で、日本画と洋画の融合を試みた実験作である」との記述もあります。

この連載コラム、第42号(4月27日号)現代2“日中戦争 総力戦への道”(1937-1941)では、阿部合成《見送る人々》(1938年)や古賀春江《海》(1929年)など、第43号(5月4・11日号)現代3“アジア・太平洋戦争の全貌”(1941-1945)では、藤田嗣治《アッツ島玉砕》(1943年)や宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》(1942年)などの作品が、いずれも河田明久さん(千葉工業大学准教授)の解説によって紹介されていて、見応えがあります。
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2014/5/5

丸木美術館第47回開館記念日  イベント

朝から厚い雲が広がり、天候が心配された丸木美術館の47回目の開館記念日。
今年もボランティアや友の会会員含めて、250人ほどの参加者が来館して下さいました。
さいわい雨もほとんど降らず、無事に一日を過ごすことができました。

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午前中から八怪堂で行われていた、井上ヤスミチさんの鯉のぼり作りワークショップも盛況。

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Oさんによる子どものための企画「きょうりゅうすくい」も、子どもたちの大きな歓声が飛び交っていました。

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原爆観音堂前の庭では、今年もコーヒーや野菜、ソフトクリーム、たい焼き、軽食などの出店がいっぱいにならび、昼食を楽しむ方々がいらっしゃいました。

午後1時から新館ホールではじまった「開館記念日の集い」では、K理事長のあいさつに続いて、沖縄からわざわざ来館して下さった宮良瑛子さんが、展覧会に込めた思いを語りました。

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「沖縄ではずっと絵を評価されなくて……」と語りながら、言葉に詰まって涙を流す宮良さんの姿に、会場は大きな拍手で包まれました。

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元朝日新聞編集委員でフリージャーナリストの外岡秀俊さんの講演「沖縄の明日 不屈の美」では、柳宗悦が「琉球の富」と称賛した沖縄の伝統的な美しい文化の話からはじまり、現在の沖縄を理解するためのポイントとして、琉球処分、沖縄戦、米軍統治の3点が示されました。

宮良さんの作品は、「復帰」前年に沖縄へ移住したことで生まれてきたものです。
外岡さんは、その宮良さんの作品が、「アンマー・シリーズ」と呼ばれる沖縄の女性たちの描写からはじまり、ベトナム戦争・沖縄戦などの「シリーズ焦土」や湾岸戦争の「無辜の民シリーズ」などの厳しい絵を経て、辺野古問題を題材にした「漂泊の島」などのシリーズでまた女性群像に戻っていく点に注目しながら、「しかし、その沖縄の女性たちは、最初の女性たちと同じではない」と強調します。

「沖縄に来て生活することによって、今まで感じられなかったものを、沖縄が沢山のことを感じさせてくれ、学ばせてくれたと思う。そういう意味では本当に、みなさんに育てられたという感じは常に持っていますね」

こうした宮良さんの言葉にもよくあらわれていますが、沖縄という場所に生きることで、問題意識を深めてきた彼女の画業の意味をあらためて整理し、考えたくなるような内容でした。

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講演の後は、寿[kotobuki]のライブ。
沖縄出身のナーグシク ヨシミツと広島出身のナビィの奏でる軽やかな音楽に、最後は会場のみんなも立ち上がり、踊り出しました。

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宮良瑛子展にあわせて、「沖縄」をテーマに行われたこの日のイベント。
最後は、駐車場の整理や駅までの送迎、会場設営、売店、まかないなどで大活躍して下さったボランティアの皆さんが残って、夕闇のなかで打ち上げ会を行いました。
外岡さん、宮良さん、井上さんも残って下さって、食事をしながら、楽しいひとときを過ごしました。
宮良さんの提案で、ボランティアのひとりひとりが順番に「なぜ丸木美術館に関わりはじめたか」という話をしたのは、本当に心に沁み込むような印象深い体験でした。

素晴らしい一日になったことを、出演者、スタッフ、ボランティアの皆様に、そしてご来場下さったたくさんの方々に、心から御礼を申し上げたいと思います。
どうもありがとうございました。
(写真撮影=山口和彦)
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2014/5/4

5月5日は開館記念日  イベント

今年も大勢のボランティアの方々にお手伝いいただいて、開館記念日の準備ができました。

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夕方には、フリージャーナリストの外岡秀俊さんと、宮良瑛子さんも到着されました。
天候がやや下り坂なのが気がかりですが、47回目の開館記念日に、大勢の方にお越しいただきたいと思っています。
丸木美術館は、一年で一番気持ちの良い、新緑の美しい時期を迎えています。

当日は高校生以下入館無料。
イベント(講演・ライブ)参加費・資料代として500円を頂きます(入館料別途)。

[開館記念日のスケジュール]
10:00〜 丸木美術館クラブ・工作教室 
 案内人:井上ヤスミチさん「みんなでこいのぼりを作りましょう」(材料費500円)
 http://yasmichi.blog4.fc2.com/blog-entry-709.html
13:00〜13:15 開館記念日の集い
13:30〜14:45 外岡秀俊さん講演「沖縄のいま 不屈の美 宮良瑛子さんの展覧会によせて」
 東アジアの象徴的な場である沖縄に目を向けてジャーナリズム活動を続けてきた外岡さんを迎え、米軍基地問題で揺れる沖縄、そして不屈の意志を感じさせる宮良瑛子さんの作品について、お話しを伺います。。
15:00〜16:00 寿[kotobuki] ライブ in 丸木美術館
 音楽を通じて社会とつながり続ける2人組のユニット寿[kotobuki]による、沖縄音楽を中心とする魂を揺さぶるライブ。
16:15〜17:30 友の会交流パーティ
 どなたでもご参加いただける交流パーティです。

[出演者プロフィール]
外岡 秀俊(そとおか・ひでとし)
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 札幌生まれ。東大法学部卒後、朝日新聞入社。
 ニューヨーク、欧州総局長、東京本社編集局長、香港駐在編集委員などを勤め2011年に早期退職、フリーのジャーナリスト。〈主な著作〉「3・11複合被災」(岩波新書、2012年)、「震災と原発 国家の過ち」(朝日新書、同)、中原清一郎名で小説「カノン」(河出書房新社、2014年)。

〈外岡秀俊さんからのメッセージ〉
 先日、比屋根照夫先生を囲む会があった。来年は戦後70周年だ。その感想を伺うと、先生は「沖縄は当時も、今も元気です」という。本土の歴史学の泰斗が「この70年、自分たちは何をしてきたのか」と悔し涙を浮かべたのとは対照的だった。宮良瑛子さんの作品には、おおらかな美しさがある。絶望なんかしていられない。そんな沖縄の不屈の意志を感じる。その根源に迫りたいと思います。

寿 [kotobuki]
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 ナビィ(広島)とナーグシク ヨシミツ(沖縄/ギター&三線)の2人で歌い継がれる島唄とオリジナル・ソングを演奏し活動。1991年「エストニア共和国〜ソビエト・ツアー」はじめ海外公演多数、国内は人権、環境、市民運動や教育、NGO、各国民族交流などのつながりでライブ活動。
 2007年に「寿[kotobuki]ヒストリーブック」発表後、メジャーでは得られない人と人とのネットワークのつながりで活動を続ける形や、音楽で社会にかかわり続ける2人の姿に賞賛の声が寄せられる。2011年(キム スンヨン監督で)ライブ・ドキュメンタリーDVD「寿[kotobuki]グレイティスト・ヒッツ」を発売。2013年(小林アツシ監督)横浜のドヤ街、寿町での奇跡のコンサート記録DVD「奇跡の詩@寿町フリーコンサート」発売。日々、ライブで全国を飛び回る。

〈寿[kotobuki]からのメッセージ〉
 戦後70年を前にして、この国は急激に過去を忘れはじめ・・・歴史を忘れさせようとしている様に見えます。政府は憲法改悪に進み「美しい国!」「強い日本!」と洗脳の様なコトバを垂れ流す。国民には「デモはテロ!」の声に同調する様に異なるモノを排除しようとする薄気味悪い空気が覆ってます。そんな国作りの負担を現実的に押し付けられ続ける沖縄の声は大和には届かず、政府とアメリカのあからさまな沖縄差別、植民地状態は続いてます、奪い取った琉球をいつまで利用しつくすのでしょうか?
そして今、日本全てが沖縄化するかの様に進んでるのでは。今だからこそ、ひとりひとりの小さな声や行動を強く繋げ、平和を求める優しい世界を共に求め、作って行きましょう!!

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