2014/3/28

世田谷美術館「岸田吟香・劉生・麗子展」  他館企画など

午後は世田谷美術館で開催中の「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」展へ。
数日前に朝日新聞の美術欄に大きく掲載されていた効果もあって、会場は大勢の人で賑わっていました。

クリックすると元のサイズで表示します

展覧会は、岸田家の血脈のハイライトと思われる、劉生の《麗子像》の展示からはじまり、全体としては「第1部 岸田吟香」、「第2部 岸田劉生」、「第3部 岸田麗子」の三部構成。
それぞれ、第1部は「第1章 吟香その人」、「第2章 吟香の活動」、「第3章 吟香と美術」、第2部は「第1章 銀座生まれ・銀座育ちの劉生」、「第2章 洋画家・劉生の仕事」、「第3章 多芸多才の人・劉生」、第3部は「第1章 劉生とともに」、「第2章 表現者としての麗子」と簡潔な章立てに分かれていて、膨大な量の作品と資料が展示されているにもかかわらず、流れに乗って非常に見やすい展示になっていました。

岸田吟香(1833〜1905)は岡山県の出身で、意外なことに尊王攘夷派の志士として活動したこともあったそうですが、眼病治療のために横浜の医師ヘボンを訪ねたことをきっかけに、和英辞書の編集や新聞の発行に携わります。
そして『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)の主筆となって、日本初の美術批評(高橋由一の《甲冑図》について)を連載したり、台湾に従軍記者として同行するなど、ジャーナリストとして活躍。その一方で、液体目薬の製造販売をはじめさまざまな事業を展開し、多才ぶりを発揮します。
とりわけ一風変わった視点による薬の宣伝広告や、自らの巨体を生かしたキャラクター化?などの独自のユーモアが印象に残りました。

吟香が「楽善堂」を構えた東京・銀座で14人兄弟姉妹の第9子として生まれた劉生(1891〜1929)は、17歳で白馬会の洋画研究所に入り、黒田清輝に師事します。1911年には武者小路実篤ら『白樺』の同人たちに出会って親交を結び、翌12年、高村光太郎らとヒュウザン会を結成。
官展全盛の時代において、旧来の芸術に早くから背を向け、大正期特有の「個の表現」を求めて独自の芸術観を深めていく活動は、やはり圧巻です。
この展覧会では、よく知られている細密な写実による油彩画のほかに、ウィリアム・ブレイクばりの表現による挿絵原画《花咲爺》や晩年の京都時代の洒脱な南画風の妖怪画など、興味深い作品も多数展示されていました。

劉生の長女として生まれた麗子(1914〜1962)は、劉生の目ざした「東洋の美」のモデルとしてあまりに広く知られていますが、今回は、父の教えを糧にして、画家として成長していく彼女の姿を浮き上がらせています。
3月26日付『朝日新聞』夕刊「美の履歴書」に紹介された油彩画《1923年8月の思出》(1958年)は、関東大震災直前の鵠沼時代の父・劉生との幸福な時代の記憶を、写真をもとに再現した作品です。
また、父の死後に教えを受けたという劉生の旧友・武者小路実篤による「新しき村」の運動にも参加して、演劇人としても舞台に立ち、戯曲や小説、随筆など、執筆活動にも才能を発揮している点は、多才な岸田家の血脈を受け継いだと言えるのでしょう(劉生も歌舞伎好きで、舞台を写生した作品や評論も展示されていました)。父が残した膨大な量の日記を精読し、念願の評伝『父岸田劉生』を書き上げた直後に、48歳で急逝。残念ながらその刊行を見届けることはできなかったそうです。

クリックすると元のサイズで表示します

展覧会を担当されたS学芸員、N学芸員にご挨拶。お二人の手がける展覧会は、やはり期待通りに見応えのある、熱度も密度も非常に高い内容でした。

数年前、お二人に誘われて岸田麗子のご息女の夏子さんと、夕食をご一緒したことを思い出します。ちょうどその時期に、この展覧会の企画が立ち上がっていたのですね。

N学芸員に、展覧会の感想として「岸田家三代の活動を見て一番の発見は、ユーモアの精神でした」とお伝えすると、N学芸員は「夏子さんが一番強調されていたのは、そのユーモアなんだよ!」と驚いて下さいました。
夏子さんいわく、それは「論理ではなくハートで感じること」だそうなので、詳しくは記しませんが、絵画の求道者のような劉生のイメージが、この展覧会を見て変化したことは確かです。

図録もボリュームたっぷりで、資料的価値の高い内容になっています。
事前に苦労話を聞いていた、制作を手がけたI社のMさんのお力もあるのでしょう。
ともあれ、必見の展覧会は4月6日まで。
その後、4月18日から5月15日まで岡山県立美術館に巡回予定です。
2

2014/3/28

《無主物》と《明日の神話》と『週刊金曜日』  掲載雑誌・新聞

たまたま渋谷駅を歩いていたら、岡本太郎の《明日の神話》の前で、壷井明さんが《無主物》を展示しているところに通りかかりました。

クリックすると元のサイズで表示します

彼が、官邸前デモだけでなく、代官山や新宿、上野などの路上で《無主物》を展示していることは伝え聞いていました。
驚いて声をかけると、《明日の神話》の前では今日初めて展示したとのこと。

ちょうど若い女性が絵の前で足をとめ、壷井さんが熱心に絵の説明をしていたのですが、その後も、私と壷井さんが話しているあいだに、何人もの人が絵の前で足を止めていたのが印象的でした。

奇しくも、本日発売の『週刊金曜日』の連載「脱混迷ニッポン」欄に、“被災者の肉声胸に刻み原発神話の構造描く「無主物」”との見出しで、壷井さんのインタビュー記事が掲載されています。書き手は、ノンフィクション作家の山岡淳一郎さんです。

クリックすると元のサイズで表示します

私も少しだけ取材に協力させて頂いたので、記事の冒頭部分を抜き出して紹介いたします。

==========

 ゴロリと横たわる巨大な「心臓」は、原発労働者の生命を削って電力を供給する「原子力複合体(産官学軍報)」を思わせる。そこから延びた管には「利益」という生き血が流れ、エリート風の男が独占する。血管が連結した別の男は屈んで腹を掻っ捌き、血の池をこしらえている。

 カラーでないのが残念だが、五六ページの祭壇画「無主物」をとくとご覧いただきたい。池の畔に集まる動物、佇む母子、若いカップル、中高生、津波にさらわれた人たち……。七つのテレビ画像には「ただちに健康に被害は出ない」とくり返す当時の内閣官房長官の顔が張り付けられている。「無主物」は、崩壊したはずの原発神話の構造を見事にとらえる。とともに「おまえは何をしてきたのか」とマスコミの一端に連なる私にも批判の刃をつけてくる。

 筆致が鋭いのは、作者の壺井明自身が幾度となく福島に足を運び、被災者の話に耳を傾けてきたからだろう。このベニヤ板三枚に油絵具で描かれた絵がはじめて人目に触れたのは二〇一二年三月一一日、福島第一原発事故発生から一年後に国会議事堂を取り巻いた反原発デモに壷井が持ち込んだときだった。婚約を破棄された花嫁や、身を挺して汚染がれきの運搬を止めようとした母、自ら命を絶った農夫、健康不安で絶望した少年らの苦しみを彼は受けとめ、想像力の翼を羽ばたかせて描いた。

 以来、壷井は、路上に絵を持ち出して対話を重ね、被災者の肉声を胸に刻みつけては登場人物や動物を描き足し、表現を増殖させてきた。だから絵は「未完」であり、壷井と一緒に動くメディアである。原爆の図丸木美術館の学芸員、岡村幸宣は「無主物」の第一印象をこう語る。

「強烈なインパクトを受けた。いまの時代を、ここまで的確にとらえた表現はない。一九五〇〜六〇年代のルポルタージュ絵画に似ています。当時、水墨画家・丸木位里と妻の俊は、原爆投下後の広島に駆けつけ、惨状を『原爆の図』に描き、占領軍の弾圧をかいくぐって全国を巡回しました。デモや路上で原発の不条理を訴える壷井さんと共通している」

 しかし、壷井さんに丸木夫妻について訊くと「全然知りませんでした」と答える。「放射能汚染された食べ物を強いられる子どもがかわいそうで、(自分が)死ぬ前にこれを描いて、原発のむごさを後世に伝えたかった。日本人はすぐ忘れるし、ほかに描く画家がいなかったから、じゃあやろうと決めた」と動機を述べる。

 岡村は、丸木夫妻と壷井の「違い」を、こう指摘する。

「同じ核がテーマであっても、丸木夫妻は『原爆の図』の時点で惨禍がその後も続くと認識しておらず、一作ずつ完結して世に惨状を伝えた。一方、『無主物』は現在進行形で原爆投下から続く核の歴史性をも批判し、災厄は終わらないと告げている。いまという時代が生んだ作品です」

 あえて言えば、壷井の絵は軍事と産業が一体化した「富国強兵」の近代主義そのものを批判しているようにも見える。この「無主物」は、どのように生み出され、画家・壷井はどこへ向かおうとしているのか。


==========

記事はこの後、壷井さん自身の生い立ちの紹介へと続きます。
個人的には、壷井さんの作品は社会の現状を取材するルポルタージュ絵画のようでありながら、しかし、自らの生きる苦しみを絵画のなかに注ぎ込むタイプの画家だと思っているので、今回の山岡さんの切り口は、そんな彼の本質に迫る、鋭い内容だと感心しました。

死の淵をのぞき込むような壷井さんの苦悩が、作品を見る人の心を揺さぶる力になっているとも思うのですが、この日の彼の表情は珍しいくらい朗らかで、そのことに何だかとても安心したのでした。
4

2014/3/28

川越市立美術館「大きいゴジラ小さいゴジラ展」  他館企画など

午前中、川越市立美術館で開催中の「大きいゴジラ小さいゴジラ展」(3月30日まで)というユニークな企画を見てきました。

クリックすると元のサイズで表示します

この企画は、画家の長沢秀之さんが、武蔵野美術大学の学生や、川越市立第一小学校の子どもたちとともに作り上げた、絵画や立体造形、アニメーションなどの「大きいゴジラ」と「小さいゴジラ」で会場を埋め尽くすという、(良い意味で)手作り感にあふれた内容です。

クリックすると元のサイズで表示します

1954年の第五福竜丸被ばく事件を受けて制作された映画『ゴジラ』を「大きいゴジラ」、2011年3月11日の東日本大震災で生まれた無数のゴジラを「小さいゴジラ」と位置付けることで、そこから見えてくる私たちの「今」や「未来」がどのようなものになるかを考えるという趣旨の展覧会。

クリックすると元のサイズで表示します

1954年からはじまる、ゴジラや核被害の歴史などを中心に記した年譜の周囲には、小学生の描いたそれぞれの「小さいゴジラ」がならびます。
ゴジラを知らない世代による、それぞれの自画像のような、自由な意味を持つゴジラたち。

クリックすると元のサイズで表示します

同じ空間には、長沢秀之さんによる《ゴジラと黄色い点》などの絵画作品も並んでいます。
学生たちの手によるアニメーションや立体造形の作品も見応えがあります。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、こうした作品のあいだに、たとえば次のような言葉が抜き出して提示され、ある視点を示唆しているのです。

ゴジラは「戦災映画」「戦禍映画」である以上に、第二次世界大戦で死んでいった死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちの「鎮魂歌」ではないかと思いあたる。
“海へ消えていった”ゴジラは、戦没兵士たちの象徴ではないか。

  ――川本三郎著「今ひとたびの戦後映画史」岩波書店所収の“ゴジラはなぜ「暗い」のか”から

製作が決定した時、田中プロデューサー、円谷さん、それに小生の三人が申し合わせた事は、決して荒唐無稽の怪獣映画という照れを持たずに原爆の驚怖に対する憎しみと驚きの目で造って行こうという事であった。
  ――本多猪四郎「ゴジラ」の映画監督の言葉「円谷英二 日本映画界に残した遺産」円谷一著、2001年復刻版(小学館)から

クリックすると元のサイズで表示します

ビキニ事件、そしてゴジラ誕生から60年という節目の年に、どのようにゴジラの問題意識を可視化できるか、そして今日的な意味を持たせることができるか、というのは、個人的にもずっと考え続けていたのですが、こうした試みがすでに行われてたことは、とても新鮮な驚きでした。

クリックすると元のサイズで表示します

長沢さんは、この展覧会に向けた『大きいゴジラ、小さいゴジラ』という文章の最後に、次のように記されています。

==========

 このゴジラの展示は何かのメッセージを伝えようとするものではありません。それは現状の問題に対してその処方箋を提出するものではなく、もっと別の想像力とともに別の次元を夢見るものです。別の次元とは可能的現実と置き換えてもかまいません。
 無数の小さいゴジラと大きなゴジラを展示することで、わたしたちは“いま”を見、“いま”を確認したかったのです。現実(リアル)を確認するとともにつくるリアル、生きるリアルを体験したいと思っています。

 そして「ゴジラ」とは架空のお話ではありません。それはわたしたちが直面している現実の物語です。


==========

小さな企画展ではありましたが、思いのほか深く考えさせられる展示でした。
0

2014/3/26

国際雑誌『おりぞん』第5号「平和問答 火野葦平と赤松俊子」  作品・資料

火野葦平資料館のS館長より、国際雑誌『おりぞん』日本版第5号(Horizons/株式会社おりぞん日本支社/編集発行人=淡徳三郎/1955年8月1日発行)に掲載されている「平和問答 火野葦平と赤松俊子」の複写を頂きました。

丸木スマと火野葦平の交流は、これまでにも何度か学芸員日誌で紹介しています。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1445.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2140.html

今回の「平和問答」は、赤松俊子(のちの丸木俊)が火野葦平を取材して絵と文を記した記事で、丸木夫妻と火野葦平の交友をあらためて裏付ける興味深い資料です。

葦平は1955年4月にニューデリーで開かれたアジア諸国会議に日本代表の一人として参加し、その後、中国、朝鮮を訪問して5月末に帰国。俊はその旅程を取材するために、葦平宅を訪れたようです。

冒頭部分を抜粋して紹介いたします。

==========

クリックすると元のサイズで表示します

 こまかい刺しゅうのあるわらじのような、どこかの国のくつが柱にぶらさげてある。のれんがあつて、色の白い、美しい少し太つた小さなおばあさんがお茶を出して下さる。
「あつ、おかあさんですか」
と、あわてておじぎをしたら、
「いいえ、おばさんです」
といわれる。お手つだいの人らしい。秘書の人もきれいなひとだし、そういう清潔な感じのする家。

「お宅のおばあちやんのネコの絵をいただきましたよ。お正月には、また何か下さるといわれたので待つていました。こんどはカッパがほしいです」
 と、先生はいわれる。よく太つて、まだ若々しい体つきです。正直な目をしている。くせものといつた感じはない。
「なるほど、それはいいですね。『カッパちゆうものは見たことがないけえ、ネコけん』、というかもしれません。おばあちやんはリアリストです」
「写実派ですか……」
 サカナかと思つてよく見れば犬です。というおばあちやんの絵を、いあわせたみんなは、思い出して笑い出す。

「火野葦平さんは絵かきだぞ、そのつもりで話して来い、と、うちの亭主が申しました。」
「いや、ほんとうは絵かきになりたかつたのです。今でも百号のカンバスを用意してあります。向井さんのアトリエに置いてあるのです。カッパを描こうと思うのです」
「赤松さんは、一昨年コペンハーゲンの世界婦人大会へ行かれましたね。ちようどあなたがペンクラブの会合に出席されたころです」
と、淡徳三郎さんは、話を本筋へ向けるようにと、私を紹介して帰られた。

「いや、私は美術館ばかりを見て歩きました」
と、また絵の話へもどってしまう。
「ルソーがいいです。ゴーガンがすきですね。ゴヤはますます好きになる。」
「ゴヤの絵と原爆之図を対照して批評されますが、私はまだゴヤの油絵の本もの見ていないのです。どんな感じでしょう」
「すさまじいな。スペインへいらつしやい。ぜひごらんなさい」
「見たいです。ほんとうに怒つてる、怒つてる絵を見たいです」


==========

ふたりの対話はこの後、インドの画壇と文学、中国の民衆の暮らし、朝鮮半島の38度線の非武装地帯の話へ続きます。そして、おそらくこの「平和問答」の核心と思える、文学・芸術の戦争責任について話が及んでいきます。
俊はあえてこの話題に触れようと覚悟を決めて葦平との対話に臨んだようです。
俊が藤田嗣治の戦争画について触れていることもあり、少々長くなりますが、以下に書きとめておきます。

==========

「先生の“麦と兵隊、土と兵隊、花と兵隊”の三部作を拝見いたしましたが――。この事は、美術の方でもいろいろ考えねばならぬことがございます。藤田嗣治は戦争画を描いて、戦後、日本にもいられなくなり、アメリカに行き、アメリカにもいずらくて、パリへ行つた。私も批判をした一人ですが、しかし、“アッツの玉砕”“サイパン島の玉砕”の図など、日本人の死んで行く、自分で銃口を口にあてて足で引きがねを引いて、女は胸に短刀をあてて、あの惨状は、戦争を謳歌するより、戦争を嫌悪する感情の方がずつと強くわいてきます。もう一度かんがえなおさなければならないと思うのです。私たちは、また戦争反対のために勇かんには闘えずに沈黙していたのですし、個人的にも、藤田先生にお手紙でもあげたいと思います。そうして、あのすばらしい腕前で、世界平和のために働いていただきたい」

「麦と兵隊、土と兵隊など、戦争中に書いたが、いま、弁解する気はない。ただ、兵隊の不幸、戦場の悲惨、人間愛、敵味方の別なく、戦場の兵隊の生活を卒直に書いたつもりです。兵隊には戦争を謳歌する気持など一つもない。ただ愛国心、批判もあろうけれど、国が負けては大変だ、という気持しかなかつたのです。そのことは軍歌にも現われているし、日本人は、すぐレッテルをはつて片づけてしまうけれど、もつと、人間の問題について考えていきたい。いたわりながら成長していくものだ。」

 先生は、少し、つらそうな表情で語られる。わたしは、この問題にふれるべきかどうか、昨夜は眠れずに考えた。わたしは決心したのです。大ぜいの文化人が、このことについて、いまこそしんけんに考えてほしい。そうして、私もその一人として、ともどもに手をとりあつて歩んでいただくために。老婆心かしら、うるさいかしら、よけいなことかしら、せんえつだろうかなどと考えた。

「ほんとうに、心からほんとうのことを打ちあけ合い、助け合い、はげまし合つて行きたいものだと思います。いま大変な時でございます。一人でも、たつた一人の人がどんなに大切な時でありますか。」
「人間は過失の中から成長していく。戦争も過失だ。アジア会議で、“みんな仲よくしましよう
”と決議しましたが、こういう気持も戦争という過失から出た成長だと思う。」

 わたしは、質問するのがつらかつた。火野先生も答えて下さるのにつらかつたと思う。でもよかつた。とてもよかつたと思う。わたしは、過失の中から成長する人間、わたしも一歩一歩と成長したい。成長する人間を信じることが出来る。火野先生ありがとうございました。こんな言葉を使つておゆるし下さい。私は黙つて心の中で手をあわせました。
 みんな、しーんとなりました。


==========

最後は北朝鮮での崔承喜との対面、そしてスマのカッパの絵の話で締めくくられています。

==========

「崔承喜さんにおあいになりましたか」
「あつたあつた。若いね。美しいね。まつたくほれぼれするね。わずかの時間だつた。日本の代表が来たというので、わざわざ忙しいなかをかけつけて来てくれたんだ。」
 うらやましいようなたのもしいような気がする。五十近いか、あるいはすぎてるかもしれない崔承喜さんの話をきいて、みんなほつとため息。
「石井漠の門下だつたころは、裸に近い洋舞だつたが、今は、民族衣裳をつけて、民族の踊りです」
 話はつきない。芝居や踊りや絵のことになると、目をかがやかせて語られる。火野先生は、芝居や踊りや絵がほんとうにすきなのです。暗がりで、舞台ばつかり見つめて描いた崔承喜さんのスケッチ。老漁夫の踊りのスケッチなど、脈々と、生き生きとおどつていました。

 おばあちやんは今日は火野先生に贈るカッパの絵を描いています。


クリックすると元のサイズで表示します

==========

スマが描いた魅力的なカッパの絵は、火野葦平のリクエストに応えたのがきっかけだったのでしょうか。
北九州市の火野葦平資料館には、スマが葦平に贈った黒猫の絵《クーちゃん》が、復元された葦平の部屋に展示されています。

貴重な資料をご教示くださったSさんに、心より御礼を申し上げます。
1

2014/3/23

増田常徳展トーク 徐京植+武居利史+増田常徳鼎談  企画展

連日の「増田常徳展」関連イベント。
午後1時から、「ヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマ―3.11以後の社会と美術」と題して、徐京植さん(東京経済大学教授・作家)、武居利史さん(府中市美術館学芸員)、増田常徳さん(画家)による鼎談を開催しました。
この日も若い学生や美術館関係者など幅広い客層で、100人の方が来場して下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

トークの前半は、増田さんを中心に、展覧会の感想や長崎や福島を主題にした作品への思いを語る内容となりました。
そして会場からの発言なども踏まえた後半では、「3.11後」における美術の在り方、そしてそれを受け止める社会の側の問題について踏み込んでいく、たっぷり2時間の聞き応えのある議論でした。

後半部で、三人の出演者が立て続けに長く発言された内容が、今回のテーマの核心をついていると思われたので、抄録として書き留めておきます。

==========

増田 ぼくは、もろもろの出来事に対し、政治性だけを前に出すのではなく、昇華しなければいけないと思う。作品になるというのは、ポスターのように分かりやすくものごとを説明するのではなくて、制作のプロセスのなかで、自分をぎりぎりまで追い込んでいく。
美術館が展示を拒否するという問題がありましたけど、ぼくは拒否されても構いません。
作品の力、独創性を信じて将来に向かいたいと思う。

ぼくはどこで展示をさせてくれということは一切言わない。
美術館の側の要求と自分がやろうとするものが一体になっていいものを展示したいという気持ちがある。その先に起こるもの、アクションがなくてはいけない。
日本では、原爆をテーマに描くと、「お前はその時代に生きてもいないだろう」と攻撃される。
でも創造というのは、その場所に自分が行ったりしながら、触発され、ひらめくもの。
そういうことを心掛けてやっていこうと思っている。
皆さんは本当に直接でないと、直接ではないと言うけれども、自分がいま、行っている行動とか、描いている現実は、相当直接である。

抵抗がないと良い絵はできないと思う。抵抗というのは心の抵抗であり、葛藤であり、生活するうちに何をよしとするかということ。
それは若いときから現在までにだんだん整理されていくもの。向かうべきものは水が浸透していくように、もともとある。その道を変えてもだめなのではないか。そこで圧力を受けても仕方がない。
小林多喜二や田中正造のようになれるかどうかは、ぼくは直接そういう経験をしていないからわからないけれども……。

クリックすると元のサイズで表示します

 増田さんの作品にはリアリティがあると私は思う。しかし、今の日本のマジョリティにとっては、受け入れたくないものだろう。
ひどい災害が起きても責任を追及しないで明るい希望を見たいという人たちが多いなかで、こうした本当の闇の部分を表現できる人は非常に少ない。それを見て、こうした闇は自分のなかにあるかもしれない、と思う人もいる。それがアートの力。増田さんがどう思っているかは別として、「安倍政権打倒」というメッセージを描く以上に、とても政治的な表現だと思う。
そうした作品を、多くの日本人が見ることができる状況でないということは、増田さん個人の力というより、社会の問題でもある。

3.11以後、多くの映像や言説があふれたけれど、こういう風にマチエールと格闘して自分自身の身体的なエネルギーを注ぎ込んで、3.11後の状況とぶつかりあっている人は、多くはない。
野見山暁治さんはその一人。数日間被災地をまわって絵を描いた様子をNHKの「心の時代」が放送したなかで、野見山さんは「やっぱり廃墟は美しいなあ」とつぶやく。不謹慎だとかそういう言説ではないと思う。戦場だって美しいと思うから、浜田知明は絵に描いた。しかし、戦争賛美ではない。芸術の尺度はそうしたものとは違う。

加害と被害の問題を考えることは難しい。
アウシュビッツの生き残りのイタリアの作家プリーモ・レーヴィは、『溺れるものと救われるもの』を書いた翌1987年に、「どんなに書いても人は聞く耳を持たない」と絶望して自殺した。
彼は「灰色の領域」というエッセイのなかで、アウシュビッツの証言を聞く者たちは、どんな怪物のような悪人が善人をいじめたのかという二分法を聞きたがり、生還者が最悪の状況を逃れるためにあらゆる手段を使ったということを理解してもらえない、と書き残した。
そのことを取り上げて、「だから加害者と被害者を分けることはできない」という話は大嘘。
プリーモ・レーヴィもそれに反対して、「ナチスの悪魔的な知恵だ」と書いている。被害者は共犯に取り込まれて、自分は被害者だという意識さえ持てなくなる、と。

それは「福島の電気を使っているお前たちだって手が汚れている」という論理と同じ。
ある組織が善人と悪人を識別してジャッジメントを下せという話ではなくて、構造というものが持っている恐ろしいまでの邪悪さを私たちは透徹して知らなければいけないということ。
「灰色の領域」という言葉は、後ろめたい人が自己弁明のために「誰だって灰色の領域」と使うことがあるが、その認識がプリーモ・レーヴィを死に追いやった。「灰色の領域であることを強いるような構造をやめろ」と言って彼は死んだ。

増田さんがやっている仕事は、そういうことだと思う。人間の中にある保存、帰属、国益と言われたらすぐになびくような心の手触りや臭いを、見る者に感じさせる。

クリックすると元のサイズで表示します

武居 東京都美術館で政治的であるという理由で作品が撤去された問題は、東京新聞が一面で報じたから事件になったので、実は近年日常化している問題。
東京都美術館は税金で運営しているから、作品鑑賞の場であって政治的主張の場ではないという言い方がされるが、それは鑑賞する側の立場であって表現者のことを考えていない。
美術館を多くの方が利用するようになっていく過程のなかで、表現の自由がないがしろにされていると感じる。

増田さんの作品について考えるとき、戦後のリアリズム論争を思い浮かべる。
論争の中心にいたのが、神奈川県立近代美術館をつくった土方定一。
リアリズムには、見えるものを見えるように描く「写実主義」と、現実の社会の矛盾を描く「現実主義」という二つの考え方が存在し、混乱していた。しかし、土方はどちらでもない「第三のリアリズム」を提唱する。画家の造形思考が大事だという考え方。そこには、戦争に協力することによって画家自身が造形思考を自ら失っていった、ということへの反省の意識がある。

その土方が高く評価したのが、戦争に抵抗したという松本竣介らの新人画会のグループ。
彼らは「異端の画家」ではあるのだけれど、ある意味、戦後日本美術のスタートの時点では、土方によって「主流」に位置づけられた。
つまり、美術館は戦争に対する反省の上で展開されてきた。ところが、そうした流れが徐々にあいまいになっている。現代美術が注目され、リアリズムの絵画が顧みられなくなっている。

しかし、私が絵画を重要だと思うのは、土方の言う造形思考を見せてくれるメディアだということ。ただ原発の近くに行っても、原発の恐ろしさや被害の大きさは、そのまま描いたのでは描けない。画家はそれを形にできるし、色にできる。それが造形思考の力。
メディアや表現思考は多様化しているけれども、絵画の領域で伝える人は多くはない。
「異端」を「主流」に戻していく画家が必要なのではないかと思う。

==========

3.11後の芸術、そして今後の丸木美術館の企画の方向性についても考えさせられる、示唆に富んだ内容でした。
ご来場いただいた皆さま、そして増田常徳さん、徐京植さん、武居利史さんのお三方に、心より御礼を申し上げます。
5

2014/3/22

増田常徳展オープニングイベント「トロッタの会」公演  企画展

午後2時より、「増田常徳展 闇の羅針盤」オープニングイベントとして、「詩と音楽を詠い、奏でる―トロッタの会―」公演が行われました。

この日は、増田常徳さんの画家活動を支援している「西風の会」の皆さんも団体で来館され、展覧会場は大勢の人で賑わいました。

クリックすると元のサイズで表示します

沖縄や宮崎県から来館して下さった方もいて、あらためて増田さんの仕事に注目されている方の幅の広さに、驚いています。

クリックすると元のサイズで表示します

今回のトロッタの会の公演は、増田さんが「ぜひとも…」と提案されて実現した企画。
ギター演奏による「鳥の歌」をプロローグとして、詩唱や歌、ピアノ、チェロ、バイオリン、尺八などの演奏によって、増田さんの絵画世界を音楽や詩の世界に開いていくという興味深い試みでした。

クリックすると元のサイズで表示します

会場には100人を超える来場者が集まり、たいへん盛会となりました。
参考までに、この日のプログラムを以下に書き出します。

@「鳥の歌」 カタルーニャ民謡 編曲・佐藤達男 ギター独奏(佐藤達男)
A「裸身 増田常徳“一滴の涙・地球に”より」(2009/2014)
 作曲・田中修一/詩・木部与巴仁 詩唱(木部与巴仁)、ギター(佐藤達男)
B「あかし“いのちに寄せる四つの歌”より」(2011)
 作曲・田中修一/詩・木部与巴仁 ソプラノ(赤羽佐東子)、ピアノ(森川あずさ)
C室内楽劇「白昼夢-増田常徳が描く-」「化石」「月明」「屍」「水筒」「白色」(2014)
 作曲・酒井健吉/詩・木部与巴仁 ソプラノ(赤羽佐東子)、詩唱(木部与巴仁)、ヴァイオリン(戸塚ふみ代)、ヴィオラ(神山和歌子)、チェロ(小島遼子)、ピアノ(森川あずさ)
D「あお」作曲・宮街隼魁ハ2013) 尺八独奏(宮街隼魁ヒ
E つつしんで原爆被災者に捧げるの詩 -トロッタのための- 「泣くな長崎」 (1968/2014)
  作調・田川昌央/詩・高浪藤夫/編曲・酒井健吉 現代詩詠(木部与巴仁)、詩唱(田川昌央)、ヴァイオリン(戸塚ふみ代)、ヴィオラ(神山和歌子)、チェロ(小島遼子)、ピアノ(森川あずさ)
F「ムーヴメントNo.6」木部与巴仁“亂譜 海猫”に依る(2011)
作曲・田中修一/詩・木部与巴仁 ソプラノ(赤羽佐東子)、ヴァイオリン(戸塚ふみ代)、チェロ(小島遼子)、ピアノ(森川あずさ)

クリックすると元のサイズで表示します

こうしたプログラムのなかで、「泣くな長崎」という詩に興味を惹かれました。
この日、詩吟を披露して下さった田川昌央さんが、ご自身で説明を書かれた解説を紹介します。

「泣くな長崎」という詩は、元々長崎の「めがねのコクラヤ」創業者・高波藤夫さんが昭和41年に作詩し、地元の音楽家・深町一朗氏が作曲、声楽家・杉野正男氏によって歌いだされたもので、地元のテレビ・ラジオで放送され、ママさんコーラスでも盛んに歌われていた。被爆から20年経った爆心地付近は若者の遊び場となっており、原爆の悲惨さが風化しているのに心を痛めたという作詩動機を聞いて、私が昭和43年吟詠バージョンにカバーしたものである。世界平和を願いながらもう45年も詠い続けている。

クリックすると元のサイズで表示します

長崎市のHP「歌で巡るながさき」にも、「泣くな長崎」の歌詞と解説が紹介されています。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/040723/index.html
それによれば、「長崎で開かれた核禁会議主催「世界大会」のテーマソングになったほか、ママさんコーラスなどによって歌われて」きたとのことです。

詩吟という表現形式のせいもあったのでしょうが、核とともにあり続けてきた70年近くの歳月の重みがひときわ伝わってくるように感じられ、心を打たれました。

   *   *   *

公演の後は、「西風の会」の皆さんが宿泊されている国立女性教育会館で懇親会に参加。
香雪美術館館長で「西風の会」会長でもあるUさんや、佐喜眞美術館館長夫人のK子さん、府中市美術館のT学芸員らと交流を深めました。
2

2014/3/21

沖縄県立博物館・美術館「木下晋展 生命の旅路」のお知らせ  館外展・関連企画

この2日間、沖縄県立博物館・美術館のK学芸員と画家の木下晋さんが来館し、2月8日まで丸木美術館に展示されていた「木下晋展 生命の旅路」の作品の状態確認・梱包作業が行われました。

丸木美術館にとって初めての出来事なのですが、丸木美術館で開催した企画が、沖縄県立博物館・美術館に巡回するのです(4月4日〜5月6日)。

クリックすると元のサイズで表示します

チラシも、丸木美術館のときと同じデザインを使ってくださいました。
丸木美術館では、1月22日に『東京新聞』首都圏版で紹介されて以来、たいへん大きな反響のあった展覧会でしたが、沖縄の方々には、どのように見ていただけるのでしょうか。

展覧会の構成は、丸木美術館展と同様、木下さんの原体験である絵本原画『はじめての旅』からはじまり、16歳で自由美術展に入選した記念碑的作品《起つ》などの初期のクレヨン画・油彩画を経て、代表作として評価の高い鉛筆画へと続いていく内容です。
人間の「生」の根源へと向かっていく木下さんの作品世界と、木下さん自身の苦難の人生のつながりを提示する試みです。
木下さんご自身によるギャラリートークや記念対談、鉛筆画ワークショップなど、関連企画も盛りだくさん。

私もぜひ、実際に沖縄で展覧会の様子を見ておきたいと思っています。
0

2014/3/18

増田常徳展 明暗の旅から―闇の羅針盤―  企画展

インフルエンザに感染し、1週間近く自宅で休養してしまいました。
そのため、「清野光男展」の撤去と「増田常徳展」の搬入・展示に立ち会えず……丸木美術館に勤務して13年、はじめて展示替えを休むという事態になってしまいました。

同僚のYさんには多大な迷惑をおかけしてしまいましたが、この危機的状況を救ってくれたのは、展示替え作業に精通したボランティアの方々でした。
16日の展示替え作業日には、9名のボランティアの方々が駆けつけて下さって、無事に作業を終わらせてくれたようです。本当に、どんなに感謝してもしきれません。

そんなわけで、3月18日より、予定通り「増田常徳展 明暗の旅から―闇の羅針盤―」がはじまりました。

クリックすると元のサイズで表示します

長崎・五島列島出身の増田常徳は、切支丹の迫害や戦争の歴史を出発点に、原爆、ナチスドイツのユダヤ人虐殺、済州島事件など人間のもたらす不条理の深淵を見つめてきました。そして、福島原発事故後、いち早く核に内在される不条理を、絵画で問い続けてきた数少ない画家のひとりでもあります。
「3.11」という体験を経て、私たちの生きる世界はどのように変わったのか。あるいは変わっていないのか。芸術が記憶を語り継ぎ、忘却の防波堤になるとするならば、増田の突きつける“闇の羅針盤”は、私たちにどのような未来を指し示すのでしょうか。

〈会期中の関連企画〉

@「闇の羅針盤」オープニングイベント 詩と音楽を詠い、奏でる―トロッタの会―

3月22日(土) 午後2時 詳しくは、以下のHPをご覧ください
http://www.kibegraphy.com/jotokutorotta.html
予約・前売り2,000円 当日2,500円(美術館入館料込)
=当日は、午後1時に東武東上線森林公園駅南口に丸木美術館の送迎車が出ます。

A増田常徳展トーク「ヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマ―3.11以後の社会と美術」
3月23日(日) 午後1時 出演:増田常徳、徐京植(東京経済大学)、武居利史(府中市美術館)
=参加自由(当日の入館券が必要です)
1

2014/3/13

『毎日新聞』“それぞれの春 震災3年”に紹介記事  掲載雑誌・新聞

“「福島」置き去りにしない 芸術の力で被害暴く”―それぞれの春 震災3年 埼玉

2014年3月13日付『毎日新聞』朝刊埼玉版に、中山信支局長の執筆による記事が掲載されました。

クリックすると元のサイズで表示します

3年前の「3.11」以後、「悲惨な状況に直面した時に芸術は何ができるのか」と問い続ける丸木美術館の活動をたどる内容です。

記事全文は、毎日新聞の以下のサイトでご覧になれます。
http://mainichi.jp/area/saitama/news/20140313ddlk11040150000c.html
(無料デジタル会員登録が必要)

取材をして下さった中山支局長に、心より御礼を申し上げます。
2

2014/3/11

NHK FMラジオ「日刊!さいたま〜ず」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

3月12日(水)午後6時から、NHKさいたま局の埼玉県内向けFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」(さいたま85.1MHz/秩父83.5MHz)に出演し、3月15日まで行われている「清野光男展 福島から/福島へ」と、18日からはじまる「増田常徳展 明暗の旅から ―闇の羅針盤―」というふたつの展覧会について紹介させていただきます。

今回お相手下さるキャスターは岡弘子さんです。
「3.11」から3年の歳月が過ぎ、東日本大震災・福島原発事故の記憶に、私たちはどのように向き合っていったらよいのか。展覧会の紹介を通して考える機会にできればと思っています。

埼玉県内向けの放送ですが、電波が届く範囲でお時間のある方は、ぜひ、FMラジオをお聞きください。
0

2014/3/10

『遺言 原発さえなければ』/安藤栄作彫刻展/織田千代展  他館企画など

休館日。3年目の「3.11」を前に、ポレポレ東中野へ豊田直巳・野田雅也監督のドキュメンタリ映画『遺言 原発さえなければ』を観に行きました。

2011年3月11日に発生した東日本大震災の翌日から現場に駆けつけ、以来、圧倒的な時間をかけて取材を続けてきたフォトジャーナリストの豊田直巳さんと野田雅也さん。
250時間に及ぶという記録映像を、3時間45分に凝縮(それでも通常の映画2本分の長さなのですが)しています。

クリックすると元のサイズで表示します

土日は上映開始1時間前にチケットが完売、急きょ第2会場を増設しても入場できない状況だと聞いていたのですが、この日も平日にもかかわらずチケットは早々に完売。
新聞に大きく取り上げられた影響と思われますが、映画をご覧になる方は早目に整理券を確保することをお勧めします(3月14日まで、連日12時20分上映開始)。

   *   *   *

映画は、福島原発事故発生後、高濃度の汚染が明らかになっていく飯舘村を中心に、酪農などを営んできた住民たちがどのように事実を受け止め、悩み、苦しみ、土地を追われ、新たな暮らしに向かっていった(あるいは希望を失い、自らの生命を絶った)のかを、「汚染」「決断」「避難」「故郷」「遺言」という5つの章に分けて丹念に記録しています。

この日、ゲストトークとして壇上に立った映画監督の森達也さんは、「ドキュメンタリは人格。この映画は誠実な作品。メッセージではなく、まず人を見ている。人を見ながら考えている」とおっしゃっていましたが、本当に、豊田さん、野田さんのこれまでの国内外の豊富な取材経験によって培われてきた人に寄り添う姿勢が存分に生かされている作品だと思いました。

外からやってきたジャーナリストが被災地を“記録”するとはどういうことか。
そして、その記録を見る私たちが“記憶”するとはどういうことか。
そうしたことを考えさせられる3時間45分でした。

クリックすると元のサイズで表示します

映画は、飯舘村前田行政区区長で酪農家の長谷川健一さんを主人公に、彼の周辺の仲間たちが紹介されていくのですが、個人的には、昨年春に原爆文学研究会で訪れた福島市のミネロファームでお話を伺い、その後、丸木美術館にもお招きした酪農家・田中一正さんの足跡が記録されていたことを嬉しく思いました。

私はこれまで田中さんから二度ほどお話を伺っていたわけですが、なぜ福島にこだわり、福島に戻って酪農を再開しているのかという彼の思いに、本当の意味で想像力が届いていなかったように思います。
それが、この映画によって、飯舘村で被災した当時からの彼の“記憶”のほんの一端を共有させてもらったことで、「自分だけが別の土地で立ち直ってもそれは“復興”ではない。福島のみんなが“復興”するために力を尽くしたい」という思いが、初めて身体感覚で伝わってきたような気がしました。

映画のタイトルにもなった「原発さえなければ」という遺言を残して命を絶った相馬市の酪農家のお姉さんが、現場を視察に来た国会議員に「誰に向かって言っているかわかりますか、国、国会ですよ!」と思いをぶつける場面。
酒を飲み交わしながら、「自分には何もできない・・・」と絶句し涙を流す豊田さんに対し、長谷川さんが温かくも鋭い言葉を投げかける場面。
忘れがたい場面が、何度も出てくる映画でもありました。

連日の盛況を受けて、急きょ新たな上映情報も入ってきています。
ぜひ、この機会に、多くの方にご覧いただきたい作品です。

緊急特別上映「なかのゼロ」視聴覚ホール(ポレポレ東中野の前売り券で入場できます)
3月15日(土) 第1回 午前9時〜午後1時 第2回 午後1時〜5時
http://www.nicesnet.jp/facility/zero/index.html

緊急レイトショー ポレポレ東中野 
3月22日〜28日 午後7時〜11時 

   *   *   *

『遺言』を見た後は、ポレポレタイムス社に顔を出してスタッフの皆さんに挨拶した後、銀座のギャルリー志門ではじまった「安藤栄作彫刻展 ―AFFECTION―」(3月22日まで)へ。
昨年春に丸木美術館で個展を開催して下さった安藤栄作さん。今回の個展のタイトル、AFFECTIONは、「人、ものに対する穏やかで持続的な愛情、好意」という意味で、「震災後、時が経った今こそ、人や自然や物や状況に穏やかで継続的な愛情が必要な時だ。そんな想いを鳳凰を中心にギャラリー空間に放ってみたい」という気持ちが込められています。

《鳳凰》、《光のさなぎ》などの彫刻作品、そして壁面を埋め尽くすさまざまなドローイング(そのなかには、福島原発事故を描いたものもありました)。
『遺言』に登場する飯舘村の住民たちと同じように、土地を離れ、福島を思い続けながらも新しい道に向かって立ち上がっている人がここにもいるのだと思いながら、展示を拝見させていただきました。

安藤さんは4月にも兵庫県のギャラリーあしやシューレで、丸木美術館の展示の関西版ともいうべき、「光のさなぎたち」の個展を予定されています。初日の4月12日には、安藤さんと岡村の対談も行われます(後日詳報)。

クリックすると元のサイズで表示します

その後、安藤さんにご案内いただき、同じ福島県いわき市の織作家・織田千代さんの個展「Fiber Works もうひとつの場所で」(3月16日まで)を見に、銀座一丁目・奥野ビルのGallery Camelliaへ向かいました。

自然の素材を用いながら、立体的な織作品を手がけてこられた織田さんの、3.11以後「目に見える風景は以前と変わらないのに、まるでネガとポジほど違うものに感じられる」という思いが込められた近作展示。
こうした展示を見るにつけ、福島がいかに自然に恵まれた土地であったか、そして自然にかかわりながら生き続ける人が多くいた土地であったかを考えさせられます。
そうした場所こそが狙われて、原発が建設されていくことに(あるいは、辺野古に米軍基地が移設されようとしていることも連想しますが……)、虚しさを覚えます。

そんなわけで、この日は、福島に関連する作品を見ながら都内をまわる一日になったのでした。
2

2014/3/8

『EXPOSE』創刊号・大石又七特集  執筆原稿

写真家の新井卓さんが、タブロイド判の新雑誌『EXPOSE』を創刊されました。
第1号は、第五福竜丸元乗組員の大石又七さんの特集です。
表紙は、新井さんが撮影した大石さんの肖像の銀板写真。

クリックすると元のサイズで表示します

内容は、「第五福竜丸展示館 2012.12.12」、「マーシャル諸島近海 1954.3.1」、「第五福竜丸展示館 2013.9.11」という新井さんの3本のエッセイと、《第五福竜丸の多焦点モニュメント》、《2011年3月11日、等々力緑地、1954年アメリカの水爆実験によって第五福竜丸に降下した死の灰》という2作の銀板写真。小沢節子さんの「つながりながら、開かれてゆく――大石又七さんからの贈り物」、岡村の「小さな墓碑」という短い文章も収められています。

新井さんから、「新しい雑誌」を作りたい、という話を聞いたのは、一年ほど前のことだったように記憶しています。
そのときには文章を寄せてほしいというお誘いを二つ返事で引き受けながら、彼がどんなかたちを作り上げていくのか、とても楽しみに待っていました。
ビキニ事件からちょうど60年目の3月1日という日に新雑誌ができてきたのも、何か不思議な因縁のように思います。

第五福竜丸の撮影を経て“モニュメント”についての思索を深める新井さんと、そして今の時代における大石さんの“闘い”の意味を解きほぐしていく小沢さんの文章は、心を打たれるお勧めの内容。
現代企画室の編集者・小倉裕介さん、デザイナーの上浦智宏さんの丁寧なお仕事で、洗練された紙面になっています。

販売価格は300円。丸木美術館でも入荷し、さっそく美術館入口で販売を開始しています。
ぜひ多くの方に見て頂きたい、鋭敏な感覚を備えた雑誌です。
3

2014/3/7

「田島和子展 イノチノユクエ」  他館企画など

夕方、銀座の中和ギャラリーへ「田島和子展 イノチノユクエ」(3月3日〜8日)を観に行きました。
田島さんは、銀林美恵子さんの教え子で、丸木俊さんの女子美術の後輩という縁もあり、丸木美術館の評議員を務めてくださっています。

クリックすると元のサイズで表示します

今回の展覧会は、田島さんらしい静謐で繊細な作品ですが、「人類だけがこの世の中心ではない」ことを考えさせる、原発事故後の世界を提示する内容です。

クリックすると元のサイズで表示します
写真は、《イノチノキオク》。

土や種子など、生命の循環を感じさせる素材を使った作品も多くありました。

クリックすると元のサイズで表示します
写真は、《遠い日、野あざみの野で》。

ひっそりとした詩のような、しかし、芯に強靭な思いを秘めたような、とても良い展示でした。

   *   *   *

その後は、神保町の岩波書店で待ち合わせ、『非核芸術案内』でお世話になった編集者Yさんと近現代史研究者Kさんとともに、近くのお店で出版の打ち上げ。
お世話になったお二人に、心から感謝です。
0

2014/3/2

岩波ブックレット『3.11を心に刻んで 2014』  執筆原稿

岩波書店より、3月4日発行の岩波ブックレットNo.894『3.11を心に刻んで 2014』(岩波書店編集部編)が届きました。

クリックすると元のサイズで表示します

このブックレットは、2011年の東日本大震災・福島第一原発事故のあと、さまざまな分野の執筆者に毎月書き継がれてきたウェブ連載の第3期分を収録したもので、そのほかに被災地の現在を伝え続ける河北新報社の現地ルポ「歩み」と、同紙記者による書下ろしも加えられています。

以下に目次を書き出します。

==========

T 3.11を心に刻んで
 2013年3月11日 田口ランディ ロジャー・パルバース 細谷亮太
      4月11日 岡野八代 舩橋淳 若松英輔
      5月11日 大島ミチル 落合恵子 かこさとし
      6月11日 宇野重規 川村湊 菅野昭正
      7月11日 大島幹雄 岡村幸宣 瀬戸山玄
      8月11日 佐藤直子 高橋卓志 津村節子
      9月11日 高野寛 中野晃一 半藤一利
      10月11日 近藤ようこ 滝田栄 村田喜代子
      11月11日 小沢節子 斉藤とも子 宮地尚子
      12月11日 金原瑞人 北原みのり もんじゅ君
 2014年1月11日 大友良英 千田有紀 松永美穂
      2月11日 岩崎稔 小森陽一 朴日粉

U 歩み 2013年 河北新報社
 宮城県名取市・閖上地区
 福島県・浪江高校/なみえ交流館
 宮城県石巻市・石巻水産復興会議


==========

丸木美術館に関わりがあった方では、昨年4月にトークをして下さった作家の落合恵子さんや、神宮寺住職の高橋卓志さん、《原爆の図》研究で知られる歴史家の小沢節子さん、一昨年夏に被爆ピアノコンサートで詩の朗読をして下さった俳優の斉藤とも子さんが執筆をされています。

私も、7月11日の回に「もっとも悲しく、辛いことを、もっとも美しく描くことができれば、私は本望なのではないか」という丸木俊の言葉(映画『水俣の図・物語』土本典昭監督)を引用してエッセイを書かせて頂きました。

「3.11」から間もなく3年。時は少しずつ流れていきますが、忘れられないこと、忘れてはいけないこと、それらをもう一度自分の心の中で確認するために、私もこのブックレットをじっくりと読み進めていきたいと思っています。
2

2014/3/1

清野光男+加藤幸子対談「芸術と環境」  企画展

午後2時から、企画展「清野光男展 福島から/福島へ」の関連イベントとして、清野さんと作家の加藤幸子(ゆきこ)さんの対談「芸術と環境」が行われました。
あいにく小雨まじりの一日でしたが、福島県の川俣町や宮城県の石巻、大阪など遠方からの来館者も含めて、25人ほどの方が参加して下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

加藤幸子さんは清野さんのお連れ合いの文子さんの従姉にあたります。
北海道大学を卒業後、農林省農業技術研究所や日本自然保護協会に勤務され、1982年に幼少期に過ごした北京での体験をもとに記された『野餓鬼のいた村』で新潮新人賞を受賞。さらに1982年下半期(1983年1月)に『夢の壁』で芥川賞を受賞するなど文筆活動を行いながら、自然環境問題にも深く関わり続けてきたという方です。

80年代の柏崎原発建設の際には有識者会議にも参加し、原発推進派ばかりのメンバーのなかでひとりだけ異を唱え続けていたとのこと。
現地調査にも参加したものの、「地元の女性の声を聞きたい」と提案すると、集まった女性たちは原発についていいことばかりを話していたそうです。
おかしいなと思っていたら、後で原発関係者の家族ばかりだったという事実を知り、「あんまり人を馬鹿にしている」と怒ったところ、そのせいかすぐにクビになってしまった、との体験も披露して下さいました。

クリックすると元のサイズで表示します

「人間は複雑な生きもので、人間そのものの中に、得体の知れない怪物性がある」とかねがね感じていたという加藤さんは、清野さんの作品のなかに、その怪物性を見いだしたといいます。
清野さんは、「裏にあるのは何か、意識してものを見たいんですよ。沖縄や水俣、チェルノブイリなどの虐げられた人びとのことを知り、自分のいる現在を突き詰めていくと、こういう暗い絵ができてしまう」と応えました。

「国家はすべての人間のためにあるべきなのに、国のために何かを強いられるのは本末転倒」と憤る加藤さん。今の時代が、加藤さんが幼少期に過ごした嫌な時代にすっとつながっていく予感がする、と警鐘を鳴らしていました。

クリックすると元のサイズで表示します

会場に来られていた川俣町の方からは、「国はいま、“復興”や“風評被害をなくそう”と言っているが、15万人が避難生活を続けていることについては触れようとしない。東京オリンピックの国立競技場は着工されたが、復興住宅の工事は進まない。今も仮設住宅で暮らしている人がたくさんいる。放射能にはどんな被害があるかもわからない、その不安をどう解消できるのか、先が見えない」という切実な発言がありました。

また、地元・東松山在住の彫刻家の方からは、「人間が暮らしている大地からインスピレーションを受けながら表現活動をしていくことが大事。そうすると、福島への問題意識も自然に浮かび上がってくる。“グローバル”という考え方が一時期流行したが、西洋の文明をすべて良しとするのでなく、それぞれの場所で、自然と調和しながら、大地とともに思考していくことが必要だと思う」との発言もありました。

『東京新聞』の記事を見て駆けつけたという小川町の方の、「画面に描かれた箱が棺のように見えた。中央の柱のようなものは、想定外の人智を超えた亀裂のように見えた。作品は先行きの見えない世相を表しているのではないか。対照的に、青い色の作品には、中央に水が流れていて、生の希望を感じた。生も死も想定外という可能性を持っているのではないかという印象を抱きました」という感想も心に残りました。

来場された皆さま、そして、貴重なお話をして下さった清野さんと加藤さんに、心から御礼を申し上げます。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ