2014/2/28

東京国立近代美術館「工藤哲巳展」など  他館企画など

美術館の休みを頂いて、都内の美術館・画廊巡りの一日。
まずは東京国立近代美術館で開催中の企画展「工藤哲巳回顧展―あなたの肖像」(3月30日まで)。

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工藤哲巳(1935-1990)は、戦後の「反芸術」運動の中心として活躍し、パリにわたってヨーロッパを舞台に文明批評的な視点と科学的な思考とを結びつけた独自の世界を展開した現代美術家です。
これまで、東京都現代美術館や広島市現代美術館などで断片的に作品を見たことはあったのですが、初めて本格的な回顧展を見て、時代を先取りする鋭い問題意識に圧倒される思いがしました。

展覧会のタイトルとしても使われている「あなたの肖像」は、工藤の作品連作のタイトルでもあり、作品を観る者、そして既成の価値観や約束事に縛られた私たちのことを指します。
同時に、作者である工藤自身をも指し、制御不能な環境汚染から逃れられない人類の肖像でもあるというわけです。
性や原爆、公害、天皇制にいたるまで、その問題意識は多岐にわたりますが、しかし根底では一貫して、近代ヨーロッパを中心とするヒューマニズム(人間中心主義)を批判し、挑発し続けているのです。

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今まで見たことがないほどの厚さの図録が、とにかく凄いです。
持ち歩くのにも勇気が要る重さですが(しばらく手に持って読んでいると、腕が震えてくる)、しかし、図版といい、解説といい、非常に充実した内容です。

平日の昼ということもあって、会場には観客もまばらで、目の前の作品を眺めながら解説を読みふけるという充実した時間を過ごすことができました。

とりわけ、1972年にアムステルダム市立美術館で開催された個展の一部を再現した展示は、原爆をモチーフにしていることもあって、非常に興味深く見ました。
デッキチェアや乳母車に、影のようにへばりついた人間の肉体の残骸、そして肥大化した頭部などの作品は、たしかに原爆の惨禍を連想させます。

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上の写真は、図録に掲載されたアムステルダム個展の際の展示風景。
東京国立近代美術館の展示風景は、次のブログでご覧になれます。
http://www.tetsumi-kudo-ex.com/blog/blog067/

展覧会の企画者である国立国際美術館の島敦彦副館長兼学芸課長は、図録に寄せた工藤哲巳入門H「消滅する肉体―変異する人類」に、次のように記されています。

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 これらの作品に共通するのは、原子爆弾がもたらした悲惨なイメージを容易に連想させる点だ。特にヨーロッパでは、荒廃した人間性の回復のための作品、と解釈されることが多かったようだが、工藤の考えは違っていた。

 たとえば《あなたの肖像 5月》について、これは「日本のアーチストによる原爆への単なる抗議のための作品ではなく、ヨーロッパにおいて行き詰った人間性を示したもの」であるとし、原爆という高度な「テクノロジーと対決しながら風化して影になってしまった人間ども、にもかかわらず彼らがしがみついている鳥籠、そしてその中にあるハート、精神というか心、むしろ愛といっていいでしょうね。キリスト教的な愛にしがみついている愚かなヨーロッパ人、それがあなた方である」と解説する。

 水着の貼りついた《あなたの肖像》に関しては、「原爆によって奇形化されたことによってのみ、あなた方は生存を持続することができる」と述べ、《愛》は原爆が投下後、「頭だけは残るけれども、身体は退化してしま」い、唇をくっつけると「電気接触によってモールス信号のアイラヴユー(筆者註 実際の作品では仏語の“JE VOUS AIME”)が始まるわけです。(笑)もちろん離せば止まります。ですから、愛の告白がいかに哀れなものであるか。(笑)」と報告。愛が何かを救ったり、回復させることの不能を指摘した。


(中略)

 原爆のイメージは、腹切りのハプニングと同様、誰の目にも分かりやすい、いわば紋切り型の日本的な主題である。それはたとえば、美術を純粋に自律的に突き詰める立場からすれば、できれば避けて通りたい、あえて選択しない主題である。しかし、当初から「芸術的なものをつくることには」興味がない反モダニスト工藤は、人類が生み出した破滅的なテクノロジーである原爆にこそ切迫したリアリティを感じ、それを戦略的に利用したのである。

 「私のヴィジョンは楽観主義的である。私には人類のこの変異は必要なのだ……(いく本もの矢と同心円を描きながら)真中は人類で、機械化、商業、爆撃にとりかこまれている。これらの要素のいずれもが人類に放射線を浴びせ、それらの影響が結び合って、最後には人類を変異させる。原爆はこれらの沢山の輻射の中のひとつにすぎない……」

 あなたは、自分とは違うと思いたい「あなたの肖像」を突きつけられ、戸惑うばかりか、嫌悪感を覚えるかもしれない。しかし工藤にとって、作品は芸術と呼ばれる必要はなく、コミュニケーションの道具としてどうすれば相手の反応を引き出せるかが大切なのだ。原爆は、その導入材料として極めて有効に機能したのである。


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原爆を導入に近代そのものの矛盾を抉り出す、という問題意識は、考えてみれば、3.11以後に一斉に表れはじめた「非核芸術」の特徴を、はるかに先取りしているとも感じられます。

工藤哲巳という表現者の遺したもの、そしてその現代的な意味を、これからも考え続けていきたいと思います。

   *   *   *

その後は、銀座のOギャラリーで開かれている須惠朋子展、神田のかねこ・あーとギャラリーで開かれている川田祐子展「自然は鏡」(どちらも3月2日まで)と、知人の画家2人の個展を回りました。

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創画展で活躍中の若手日本画家の須惠さんは透きとおるような沖縄・久高島の海を主題に描き、スクラッチやハッチングといった繊細な技法を駆使する現代美術画家の川田さんは長野の透明な空に広がる雲を描き、それぞれ、人智の及ばない自然への畏敬の思いが込められた作品で、心を打たれました。
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2014/2/26

『毎日新聞』に清野光男展紹介記事  掲載雑誌・新聞

原発事故の怒りと故郷への思い込め 「こんなものに負けちゃだめだ」

2014年2月26日付『毎日新聞』朝刊埼玉版に、丸木美術館で開催中の清野光男さんの個展の紹介記事が掲載されました。

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以下は、記事より一部抜粋。

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 22日に同美術館であった「作家トーク」で、清野さんは人間の頭上に銃や大砲の弾のほか、核実験や原子力発電所の事故で放出した放射性物質などが降り注いでいる状況を「METAL RAIN」シリーズで表現したと解説。また、原発事故以降に制作した作品に太い鉛の柱を描いている理由について、「人間の力ではどうしようもないような訳の分からない力に対し、『人間はこんなものに負けちゃだめだ』と自分に言い聞かせるというか、意志的なものを表している」と明かした。

 さらに清野さんは事故以前は豊かな緑の大地だった福島第一原発周辺地域について触れ、「今は全然近づけない。それがどこまで続くのか」と述べ、「原発ができて良い生活をさせてもらったなどと恩義を感じるのではなく、生活を根底から崩された自分たちをしっかり見つめれば、これからの政治、経済を是正していく力になると思う」と訴えた。

 同美術館の岡村幸宣学芸員は「3.11から3年の歳月が流れ、社会の関心が『福島』を置き去りにしつつあるのではないかと危惧している。福島とゆかりの深い作家の作品を見てもらい、その視点を大事にすることで、私たちの気持ちを福島に寄り添わせる必要があると考えた」と話している。


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記事は毎日新聞のWEBサイトにも掲載されており、会員登録(無料)をすれば全文を読むことができます。
http://mainichi.jp/feature/news/m20140226ddlk11040218000c.html

ご紹介下さった中山信記者、どうもありがとうございます。
展覧会は3年目の「3.11」を経て、3月15日(土)まで開催しています。
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2014/2/22

「清野光男展」作家トーク抄録  企画展

企画展「清野光男展 福島から/福島へ」の作家トークが、午後2時から行われました。大雪の影響のため、来館者の非常に少ないこの頃だったのですが、この日は悪条件にもかかわらず、20人ほどの方が参加して下さいました。
寒さに負けず、約2時間にわたり行われたトークの内容を、以下に抄録として記録します。
少々長くなりますが、どうぞ、ご覧下さい。

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岡村 この展覧会を企画したのは、「3.11」と無縁ではありません。原発事故から3年という歳月を経て、今、社会の関心が福島を置き去りにしているのではないかと危惧しています。
原発事故の前から福島で核問題に関心をもっている表現者は案外多く、福島市生まれの清野さんもその一人ですが、以前からチェルノブイリや広島を描かれ、現在は福島をテーマにされながら、どのように故郷を見つめているのか。「福島から」そして「福島へ」という、清野さんお一人の中に、二重の視線が潜んでいると思うんですね。今日はそのあたりを伺いながら、われわれもどう福島へまなざしを向けていくのか、考えていきたいと思います。

清野 よろしくお願いいたします。

岡村 今回は作品搬入の日が最初の雪で、トラックが走れないということで1日延びて、展覧会が始まってすぐにまた雪で……われわれは便利な時代を生きているので、つい自然をコントロールできると思いがちなんですけど、こんな自然界にとってはささいなことでも、人間は右往左往してしまうということを、あらためて考えさせられたような気がします。
清野さんが福島でお生まれになったのは、1946年。戦争が終わった翌年ですね。その頃の福島は、どういう環境だったのですか?

清野 私が生まれたのは、今は福島市になっていますけれども、昔は信夫郡野田村といったんです。のどかなところでしたね。
私の家は農家で、まわりに畑や田んぼがあって、農家が点在していました。牛から豚から、羊、鶏、それから兎もいました。うちはアンゴラ兎を飼って、毛を刈って小遣いにしたりね。犬とか猫とか、人間も含めて、あらゆる動物がいっしょに暮らしていましたね。そういう中で育ったから、いろんな匂いがしていました。

岡村 子どものころから絵を描くのはお好きだったんですか?

清野 好きでした。上の姉たちが結構絵を描くのが好きだったんで、いっしょになって描きましたね。

岡村 早くから絵の道を進んでいこうと考えていたんですか?

清野 いや、そうでもないんです。小学校6年の10月に、風邪をこじらせて腎臓病になったんですよ。1月まで自宅静養して、田舎の百姓家だから誰もいないんですね。一人でいるわけですよ。それですごくナイーヴになって、このまま死んじゃうんじゃないかと感じたりもしていました。それが命への関心に向かっていったということはありますね。

岡村 その体験と、絵を描くことがつながっていた。

清野 高校が進学校で、皆さん有名大学とか行かれるわけですね。私は体に不安があって、扁桃腺をすぐに腫らせて、蓄膿症にもなって、集中して勉強していられないんですよ。そういうなかで、自分はどう生きたらいいのか、悩んでいたような気がします。
それで浪人しましたから、高校の美術室にいって、一人でデッサンをしていたんですね。その頃に、絵をやっていきたいという気持ちが固まってきた。

岡村 武蔵野美術大学を選ばれたというのは、理由があったんですか?

清野 たまたま。月謝の安い大学も受けたんですけど、ダメでした。笑

岡村 高校時代に松川事件の関係者のお子さんと出会ったとか。

清野 高校卒業して、親が普通の予備校ならということで、行かせてくれたもんですから、そこで知り合ったんです。

岡村 予備校のときに、知り合ったんですか。

清野 ええ。親は、美大なんか行くような生半可な者は、うちの家系にはいない!という感じでしたから。

岡村 反対されていた。笑

清野 そうそう……笑 そこで、いわゆる松川事件の被告の息子さんと知り合ったんですね。その方は、医者になって、いま地域医療をやってらっしゃるんですけど。

岡村 松川事件というのは、1949年に信夫郡金谷川村で起きた列車転覆事故で、当時の占領軍による思想取締りと関わった冤罪事件だと言われています。
この話を清野さんからお聞きして、「あっ」と思ったのは、去年の4月に福島大学で行われた原爆文学研究会で発表されていた福島大学の澤正宏先生が、やはり松川事件に触れられて、「3.11」後の福島を重ねて話をされていたものですから。
丸木夫妻の《原爆の図》も、占領下の時代に生まれてきた作品で、米軍の圧力のなかで全国を巡回して、当時厳しく検閲され隠されていた原爆の被害の状況を芸術の力で暴いていくということをしていたんです。
同じように占領下の出来事と「3.11」後を結び付けて考えるときに、上から隠そうとする力と、それをわれわれがどう暴いていくかという力が、もしかしたら時代は大きく隔てていても、何かつながりをもって感じられるのではないかと思ったのです。
清野さんも松川事件とつながっていたということで、そういう体験が、その後に影響しているのかということをぼんやり考えたのですね。

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清野 私は子どものときに、雑誌の原爆特集のグラビアを見て、これが人間かという姿を突きつけられた。恐ろしさと不安感ですね。

岡村 おいくつでしたか。

清野 12、3歳の頃ですね。そういうものが自分の価値観、物を見る基準を形成してきたと感じますね。人間の生命が危険だという意識が、自分の中に増殖してきたという感じですね。
それから、水俣病などの公害病。ユージン・スミスの写真に衝撃受けたりね。人間とは何かなと、子どもらしくない考え方ですけどね。

岡村 ご自身の健康の不安と結びついていたんですか。

清野 それはありました。それと、ぼくが大学に入って一番解放されたのは、地方から東京に出てきたということですね。やっぱり閉鎖された社会から解放されたというか。
東北から汽車に乗って東京に来ると、白河と那須のあいだで空の色がピカーッと変わるんですね。やっぱり関東は明るいんですよ。温かくてね。向こうに行くと冷たいんですよ。そういう意味で、一人になったということが自分を解放したのかなと思いますね。

岡村 福島にいらっしゃったときには、抑圧感があったんですか。

清野 そうですね、ありますね。やっぱり地域の特質というか、人間関係というか、さまざまなものがありますからね。そういうところから逃れて、逃れるって言うのもおかしいんですが、東北の小説家でも何でも、そこの地域から出てくるということは、石川啄木にしろ、宮沢賢治にしろ、解放感というか、新しい文化に触れるというか、そういう感じだと思いますね。
それで大学で、先輩あるいは先生たちに出会うんですね。

岡村 麻生三郎のもとで学んだんですね。

清野 そう、麻生三郎さんとか、森芳雄、村井正誠……本当に作家らしい作家がいっぱいいましたから、作家としての姿勢や生き方、考え方を教わったんですね。

岡村 そのあと大学を出て、パリに行かれたんですね。

清野 私は会社に就職したことがないんです。アルバイトで造形会社にいましてね。公園のプランを作ったりする仕事をしていたので、そういう意味では違ったものの見方、空間や造形に対するものの見方を学びましたね。日展系の彫刻家がいたり、現代彫刻だったり。

岡村 言われてみると清野さんの作品は、空間的な感覚のある作品が多いですね。作品への影響もあるんでしょうか。

清野 ありますね。物真似で自分も設計したり、デザイン的なものを描いたりしていました。ここで2年ほどやって、それから日本を離れたんです。

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岡村 どうしてパリに行かれたんですか。

清野 画集ではなく、実際にヨーロッパという大地で生まれてきた美術を肌身に感じてみたいという欲求がありましたね。

岡村 それが1973年から75年。その頃はどういう絵を描かれていたんですか。

清野 具象的な絵ですね。ものを見て描くという感じで。

岡村 やはり人間を描かれていたんでしょうか。

清野 そうですね。

岡村 パリではどういう活動をされていたんでしょう。

清野 何でも見て歩きたい、物を見たいという感じで、とりあえず美術学校へ行ってデッサンなどをしていたんです。

岡村 その頃はもう、ご結婚されていて、お二人で行かれたんですね。

清野 ええ、妻は1年遅れで。その頃ヨーロッパにいた方も今日会場にいらっしゃいます。
東松山に住んでいて、ぼくを最初に丸木美術館に連れてきてくださった方もいます。東松山駅から歩いてね。4年生くらいのときでしたかね。

会場の女性 松女(注:松山女子高校)の後輩が俊先生の内弟子になっていて、俊さんの姪御さんもいらっしゃって。
ちょうど《アウシュビッツの図》を描く前で、画家や美術の先生たちのツアーでヨーロッパを丸木夫妻といっしょにまわったんです。俊さんはその頃かなりのお年だったんですけど、大きなスーツケースを持ってね。男性がスーツケースを持ってあげようとすると、きっと睨まれて。すごい人だなと思いましたね。
その頃は都幾川の水もきれいで、鮎が泳いでいてね。位里さんが鮎を捕っていました。私も子どもの頃は都幾川に遊びに来ていたんだけど、最初に美術館ができたときにはびっくりしてね。あんなマムシしかいないような、人が住むような場所じゃないところによく美術館作ったなあ……と思いましたね。

岡村 初めて《原爆の図》を見たときは、どんな印象だったんですか?

清野 まだ二人ともご健在だったので、凄く意志の強い方たちだなあと思いましたね。自分たちの姿勢というか軸がぶれないと感じましたね。

岡村 最初の部屋の油絵《視る》という作品の頃は、どのようなことを考えて絵を描いていたんでしょうか?

清野 公害問題に関心を持っていました。ベトナム戦争やアフリカの戦争もありましたね。

岡村 こちらを見つめる画面の中の目が印象的なのですが。

清野 外を見ているんですけども、自分も見ている。自分に対する問いかけというか。自分はどう生きているのか、どういう仕事をしていればいいのか。人間は不幸の方が多いんですよね。その不幸をどうしたらいいのかと。
命より大切なものがあるのかとよく言いますけど、その命を見ていない人が多いですよね。お金のためとか、企業のためとか。そういう価値観が高度成長のなかで目につきましたね。自分もその中で生活している矛盾を見つめなおさなきゃいけないという作品ですね。

岡村 自分を見つめる目であり、社会も見つめる……

清野 真相は何なのか、正体を見つめなければ。ただ流されるだけでは、絵の力は生きてこないんですよね。

岡村 一方で、清野さんのテーマは経済成長に向かう時代の潮流とは離れていたのでは?

清野 そうですね。誰でも洒落た絵を描けば売れた時代ではありました。ヨーロッパでもいっぱい日本人が行って風景を描いていましたが、そうじゃないんじゃないかなと思いましたね。
ヨーロッパの美術館でルネッサンスなどの絵を見ていくと、中心になっているのは人間なんですね。権力者が絵描きや彫刻家に作らせるんだけど、それぞれの作家の魂がこもっていると言いますかね。ルネッサンスなんて華々しい時代と思われるけど、血で血を争う、滅茶苦茶な時代。その中で、真実のものを残したいというアーティストの魂を感じますね。
グリューネヴァルトの磔刑なんて、現代美術のリアルさを先取りしてますね。人間の原点がそこにあるような気がするんですよ。

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岡村 やがて日本に戻られて、東京にお住まいになりながら、福島でも作品を発表されていますよね。

清野 1980年過ぎから、福島の作家たちと福島で発表しています。リーダー格の橋本章が戦争体験があって大陸へ行っていて、ずいぶん福島の作家を集めていろんな企画をしていました。この方の絵もとても魅力があるんです。

岡村 その頃、東京と福島のあいだにあるギャップ、もしかしたら「3.11」につながる問題意識を感じたりはしていたんでしょうか?

清野 やはり福島は保守的なんですよ。そういうのが私は嫌で東京へ出てきたんですけど、匿っているんですね、保守的な組織が。原発建設にしても、最初から出来レースなんですよ。漁民とか農民が反対しても、結局は誘致が進められていく。地元の有力者がみんなまとめていっちゃう。すると、何も言えなくなっちゃう。村や町が豊かになるんだから、いいじゃないかっていう論法ですね。

岡村 おそらくそういう側面もあって、福島は暮らしが厳しい地域でもあるんでしょうね。

清野 結局、農業中心ですからね。機械でなく、牛や馬で苗代を作って……そういう農民の姿を見ると、貧しかったんだなと思いますね。その後、機械化されていきますけど。
ぼくが小さい頃は、農薬散布が凄かったですね。一時は田んぼも川も魚や蛙を見なくなりましたね。学校に行くとき田んぼのそばを通ると頭が痛くなりましたね。農家の人は平気でマスクもしていなかったですが、今は考えられない。無知というか、農薬のことをちゃんと調べていないんですね。そのうちにレイチェル・カーソンの本なんかが出てきて、日本にも農薬の問題が知られるようになるんですが。

岡村 その意味では、核の問題に似ている。人間の五感で感知できない複合的な影響が、われわれに閉塞感をもたらしているんですね。声をあげても社会の中で阻害されていく。

清野 日本の経済を壊すのか、と言われてしまうんですね。原発もあの当時、補償金もらえればいいんだろ、という感じでしたね。
私たちも田舎へ帰るときには、常磐道から浜通りへ行って、原発の近くの国道を通って浪江町から福島へ入るんですけど、飯館村とか、非常にのどかでいいところだったんですけど、今は汚染地域ですね。

岡村 今回、「3.11」以後の作品は、壊れた建屋やバベルの塔など、4点展示しています。この《METALRAIN》のシリーズは、震災前から作り続けていたんですよね。METALRAINの意味を教えてください。

清野 私の勝手な造語なんですよ。鉛とかアルミニウムを使っているんですが、大砲の弾とか、セシウムとか、ストロンチウムとか、見えないところでわれわれの頭に降り注いでいる得体のしれない力を金属の材質で表現したかったんですよ。
下の方には、人間が作ったハコモノを象徴的に表現しているんですけど、その中身は何なのかということをね。人間が作り出す生活の痕跡、動植物や自然のさまざまな力を表現している作品もあります。

岡村 清野さんは丸木美術館の「今日の反核反戦展」に毎年出品して下さっていて、はじめは《METALRAIN》のシリーズを見て、鉄の雨――戦争の惨禍を象徴的に表現されているのかなと思ったのですが、「フクシマ」もこのシリーズとして作られているのを見て、必ずしも戦争に限らない暴力性がMETALRAINという言葉に含まれているんだなと感じました。
これまでの作品は真ん中の金属部分が上から下に降ってくるように見えるんですが、「フクシマ」では垂直の柱のようになっていますよね。

清野 これは、人間の力ではどうしようもない、訳のわからない力に対して、真ん中にああいうものを通さないと自分がくじけるというか、自分に対する、「こんなものに負けるか」という必死な思いを表したかったんですね。
鉛を貼っているんですけど、放射能の問題を人間は解決しなければいけないという自分なりの発言であるかも知れないですね。

岡村 放射能に対して抵抗していく強い意志ということですね。
ひとつだけ、建屋を描いた作品だけ画面を突き抜けて柱の頭が出ている作品があるんですけど、意志が強すぎて飛び出ちゃったということですかね。

清野 ちょっとモニュメンタルなんですけどね。人間は負けちゃだめだなっていう自分に対する言い聞かせというのかな。

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岡村 「3.11」後に今までの作品を変えていこうという感じではなく、《METALRAIN》の延長線上で捉えていったのでしょうか。

清野 そうですね。福島だけの問題ではなくて、チェルノブイリも全然先が見えないし、さまざまなところで事故が起きてますからね。
これからも都合のいい「想定外」のことが起こる可能性は十分あるわけですよね。安い電力を供給するために原発を動かすんだという人もいますが、そうじゃなくて、人間のコントロールできないものを今後も作り続け、使用していくのかと思うと、不安感、恐怖感がありますね。

岡村 決して原発はコストが安いわけではなくて、最終的な処分を含めた金額を換算しないで「安い」と言ってしまうところにロジックがあるわけですし、そもそも高いか安いかで物事を判断するより大事なことはあるわけですよね。

清野 どちらを向いて計画をしているのか。人間か、企業を向いているのか。

岡村 それが福島だけではなくて、いろいろな状況で起きていると。もしかすると、清野さんの作品も、福島を「視る」作品と初期の作品はつながっているのかも知れませんね。視ていながら、視られている。自分の中に潜んでいる問題意識を見返しながら、世界を見ていくことが大事なのかなと思ったりもします。
最後に「3.11」後の今の社会、あるいは故郷の福島に対して、思うところを語って頂けますか。

清野 自分たちは原発が来たからいい生活をしているんだという考えを止めてほしいですね。そういう恩義を感じるものではないと思います。自分たちの生活が根底から崩されているのに、いい生活させてもらったという。それは優しいものの見方であって、自分たちがどれだけ被害をこうむったか、見つめてほしいと思います。そうすれば、これからの政治や経済に対して発言していく力になると思うんですよ。絵描きの仲間も、自分たちがどのような状況におかれたのか、故郷を破壊されたのか、強く表現して、メッセージを出して欲しい。
誰でも故郷を思う愛情はすごくあふれていますよね。私は福島が嫌いではない。好きなんです。自然が豊かで、ゆったりした時間が流れていて、食べ物は美味しい。たぶん、誰でもそういうところがあって、(会場の)木下(晋)さんも自分の出身地である富山が気になりますよね?

木下 いや、そうでも……苦笑

清野 気になったりしないですか。笑
単純な話ですけど、高校野球でも、自分の故郷の高校が勝ったとか、負けたとか。やっぱり価値観が確立された場所でもありますからね。

岡村 福島と茨城の高校が戦ったら、福島を応援する。笑

清野 いえ、最近は茨城も愛着が沸いてきているんですよ。埼玉も意外と。笑

岡村 その故郷に、いま、人が住めない状態になっているわけですからね。

清野 難民状態ですよ。第二次大戦で地上戦が行われたのは沖縄だけですけど、戦争ではなくて福島の小さい子どもが九州に移り住んだりしているわけですよ。原発周辺の町や村は住めない状況を作っているわけですから、非常に不幸だと思いますね。

岡村 忘れていくというより、見ないようにしていることが、社会の大きな流れになってきているように思います。

清野 何が今起こっているのかということを自分で注意していかないと。こんなはずじゃなかったということになって欲しくないですよね。

岡村 想像する力を個々が持つ。そのために情報や表現を見ていくということですね。

清野 丸木夫妻が命を懸けて残してくれたものを、何らかのかたちで引き継ぐと言えば大袈裟ですけど、自分たちの表現で続けられるように、やっていきたいなと思いますね。

岡村 それぞれが引き継ぎながら、自分の持ち場で生かしていきたいですね。

〈了〉

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2014/2/20

河出書房新社「『はだしのゲン』を読む」刊行  執筆原稿

昨日、河出書房新社から、「『はだしのゲン』を読む」(河出書房新社編集部/編、2014年2月24日発売予定、定価1600円+税)の見本誌が届きました。

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表紙の写真は、ゲンのトレードマークとも言える学帽を上から見たイメージです。
「なぜ、このマンガはくりかえし復活するのか――」
「〈反戦・反核・平和〉だけに収まらない恐るべき力を、各界の俊英たちが読み解く」
「日本の戦後史のすべてが描かれた、恐るべきマンガの核心へ」
という謳い文句が帯に記されていますが、総勢19名のインタビューや論考、エッセイが収められた、非常に読み応えのある濃厚な一冊です。

以下に、目次を書き出します。

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●インタビュー 田口ランディ 命を語る「モノ」の言葉
●インタビュー 佐々木中 ゲン、爆心地の無神論者――『はだしのゲン』が肯うもの
●インタビュー 卯城竜太(Chim↑Pom) マンガの分際、アートの分際
●論考 岡村幸宣 原爆表現史と『はだしのゲン』
●論考 呉智英 陳腐化した正義の枠を超えて――『はだしのゲン』を読み抜くために
●論考 陣野俊史 そのまま読むことの難しさについて
●論考 東琢磨 忘れさせてたまるか/ええから/うたえ/さわぐんじゃ
●論考 竹内美帆 マンガ論と『はだしのゲン』
●エッセイ 山下陽光 猿楽町をゲンと歩く
●論考 みち(屋宮大祐) ゲンはどこへ向かったのか――インターネットで『はだしのゲン』を読む
●エッセイ ガイ/大小田伸二 「TO FUTURE」より
●エッセイ 相澤虎之助(空族) ゲン・ザ・ギャングスター
●エッセイ 工藤キキ 人間は進歩せんわい
●論考 酒井隆史+HAPAX 四つのモチーフについて
●論考 森元斎 地を這う精神
●論考 マニュエル・ヤン 絶対零度プロレタリアの逆襲――『はだしのゲン』と戦後民主主義の理念
●論考 友常勉 ギギギ――私闘するテロリスト漫画
●論考 岡和田晃 「核時代の創造力」と子どもの「民話」――『はだしのゲン』への助太刀レポート
●論考 磯前順一 無垢なるナルシシズム――『はだしのゲン』と戦後日本の平和主義の行方


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この企画は、昨夏の『はだしのゲン』の閲覧制限問題を踏まえて立ち上がったと聞いていますが、その一方で、「反戦(反核)平和の象徴」という従来のイメージを乗り越える新たな作品の読み込みを目指す試みでもあります。いずれにしても、作者が逝去し、作品の“脱神話化”が必要とされる時期に来ているのでしょう。

私も岩波ブックレット『非核芸術案内』の延長として、「原爆表現史と『はだしのゲン』」と題し、丸木夫妻の原爆の図第1部《幽霊》、やChim↑Pom《ヒロシマの空をピカッとさせる》、宮川啓五《太田川》、高山良策《矛盾の橋》などの作品を紹介しつつ、『はだしのゲン』が、自らの「体験」を後の時代から俯瞰する視線によって、単眼的な体験談を越えた「物語」として立体的な奥行きを生み出す作用を果たしている点を指摘する論考を書かせて頂きました。

さまざまな視点から読み解かれる『はだしのゲン』の多層的な魅力。
この意欲的な企画によって生まれてきた一冊が、『はだしのゲン』研究に新たな道を拓き、時代を超えて多くの読者に読み継がれていくことを期待します。
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2014/2/19

『週刊金曜日』、『美術手帖』などに『非核芸術案内』紹介  掲載雑誌・新聞

昨年12月に刊行した岩波ブックレット『非核芸術案内』。
2月に入っても、雑誌、新聞などで取り上げて下さっているので、まとめてご報告いたします。

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広島・長崎への原爆投下〜東電福島原発事故まで、核の脅威を視覚化してきた「非核芸術」を原爆の図丸木美術館の学芸員がたどる1冊。(『週刊金曜日』2月14日発売、979号、「本棚」欄、吉田亮子選)

原爆の図丸木美術館の学芸員である著者が、1945年の原爆投下以降の「核」をめぐる様々な表現を紹介。丸木位里・俊による《原爆の図》を筆頭に、核の脅威を幾何学抽象に託した鶴岡政男、はやくから核の問題に斬り込んだ岡本太郎、ヤノベケンジやChim↑Pomなど3.11後の表現活動にまで言及。「反核」ならぬ「非核」の呼称を用いた背景に、人間と核の共存不可能性を問う態度があることに留意して読みたい。(『美術手帖』2014年3月号、No.1000、「BOOK 新着のアート&カルチャー本から」欄、中島水緒)

核の脅威や、核と人類の共存の不可能性を訴える「非核芸術」は、丸木夫妻の「原爆の図」を筆頭に、多くの人たちがさまざまな手段で表現してきた。広島・長崎への原爆投下、第五福竜丸の被ばく、そして3.11と続く惨禍から生み出されてきた非核芸術の流れをたどる。(『北海道新聞』2014年2月2日付、読書欄)

ご紹介くださった皆さまには、心より御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

   *   *   *

先日の大雪以来、丸木美術館は連日除雪作業に追われています。
ボランティアの方にも来ていただいて、ようやく駐車場は何とか整備することができましたが、美術館北側の道は依然としてこの状態。

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車での通行は、しばらく難しそうです。
美術館の入り口駐車場までは車で入ってくることができますが、ご来館の方は、どうぞ、くれぐれもお気を付けておいでください。
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2014/2/16

大雪の後で  自然・生きものたち

大雪のため臨時閉館となった昨日から一夜明け、丸木美術館に出勤してみると・・・

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大型駐車場に面した道路から美術館に向かう細い道が、完全に埋まっていました。
どこに道があったか、一見わからないほどです。

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木の枝も折れて道(かつて道であった場所)をふさいでいます。
見慣れた景色も一変する凄まじさです。
それにしても、人が足を踏み入れていない雪は、薄青く輝いて、本当にきれいです。

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とはいえ、美術館へ向かう道を整備しなければならないので(車が通れるようになるほどの除雪は難しいとしても)、まずは人が通れる程度の道を作ることにしました。

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母屋のJさん、H子さん、職員のYさんとともに、100mほど続く小路をひたすら雪かきです。

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美術館の建物は頑丈なので被害がなかったのですが、駐車場のワゴン車の屋根は、積雪の重みで昨日足元のコンクリートが陥没、柱が倒れてきてワゴン車に寄りかかった状態になっていました。そのため、ワゴン車も屋根と右前方のライト付近が軽く損壊しました。

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美術館南側斜面では、桜の木の枝がずいぶん折れていました。
折れるというより、裂けている感じ。雪の重みは本当に想像を絶します。
(写真は、強風に吹き飛ばされたテーブルを拾いに斜面に下りて行ったYさん。雪のため、斜面はふだんより下りやすくなっていました)

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まるでゲレンデのようですが、丸木美術館の南側斜面から都幾川を望む風景です。
今回の積雪量は、40cmほどでしょうか。
「丸木美術館はじまって以来の大雪だよ。こんなの経験したことない」とH子さん。
この雪はしばらくのあいだ残りそうです。

それでも、丸木美術館の周辺は何とか軽微な被害で済みましたが、同じ埼玉でも秩父方面、そして山梨の方では相当深刻な被害が出ていると聞きます。
本当にたいへんなことで、心が痛みます。
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2014/2/15

大雪により臨時休館  自然・生きものたち

昨日から続く大雪のため、本日は臨時休館とさせていただくことになりました。

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写真は昨日夕方4時前の時点の美術館周辺の風景。
この時点ではまだ歩いて駅まで帰れましたが、今朝の情報によると、雪かきすらできないほどの積雪量とのこと。
職員も美術館にたどり着くことができません。

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美術館に隣接する母屋に住むH子さんによれば、駐車場の屋根が雪の重みで潰れてしまったそうです。
ともかく、これまでに経験したことのない大雪。
秩父では1mを超える積雪があったとも聞いています。
大きな被害がないことを祈るばかりです。

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2014/2/11

清野光男展 福島から/福島へ  企画展

大雪のため、作品搬入の延期を余儀なくされた「清野光男展 福島から/福島へ」ですが、休館日に急きょ2人のボランティアにも来ていただいて展示作業を終え、無事に開幕を迎えることができました。

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1946年福島市生まれの清野さん。
武蔵野美術大学で麻生三郎に師事し、その後パリへと渡りました。
初期の油彩画を見ると、確かに、麻生三郎を連想させる人間描写が印象的です。

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人間を見つめる清野さんの視点は、次第に、人間だけでなく、それをとりまく世界全体に広がっていきます。

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幼い頃の第五福竜丸の被ばく事件の記憶にはじまり、スリーマイルやチェルノブイリの原発事故などの環境破壊を、どのように絵画として表現できるかと模索した清野さんがたどりついたのが、近年の《METALRAIN》のシリーズでした。

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《METALRAIN》(金属の雨)とは、戦争のイメージでもあり、環境破壊のイメージでもあるとのこと。そして、そのシリーズの一環として、「ヒロシマ」や「フクシマ」も描かれていくのです。

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破損した原子炉建屋をイメージした作品の前に立つ清野さん。
故郷の福島で発生した原発事故を、どのように見つめていらっしゃるのか。

2月22日(土)には、午後2時から作家トークが行われます。
また、3月1日(土)にも、午後2時から芥川賞作家の加藤幸子さんをお迎えして、「芸術と環境」と題し、清野さんとの対談が行われます。
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2014/2/9

雪かき・展示替え作業  ボランティア

大雪の翌日、空は快晴。
丸木美術館の周辺は、30pほどの雪が積もりました。
美術館で働いて以来・・・というより、生まれてこの方初めてと言っていいほどの大雪です。

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どこか道で、どこが駐車場なのかもわからないほど、一面真っ白の世界。

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本来ならば、この日は企画展の展示替え作業の予定だったのですが、朝一番に雪かきをして、道を作らなければなりません。

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写真は、雪かきに励む職員のYさん。
母屋のJさん、H子さんも美術館に通じる道の雪かきをして下さいました。

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そして、こんな雪の日にもかかわらず、なんと6人の男性ボランティアの方々が美術館に駆けつけて下さったのです!

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おかげであっという間に美術館の前の道はこんなに雪がなくなりました。
午後は「木下晋展」の作品撤去作業。
大雪のために、「清野光男展」の作品搬入は翌日に延期となりましたが、予想以上に展示替え作業が進んだので、本当にボランティアの皆さんに感謝です。
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2014/2/8

雪が降る  自然・生きものたち

「木下晋展」最終日ではありますが、天気予報の通りの大雪。

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さすがに今日はお客さんも見えないだろうと思っていたのですが、先ほど、なんと1人(!)いらっしゃいました。もちろん、「雪女」ではなく、寄居町から来られた男性です。
天気がよければたくさんのお客さんが来られていたのだろうと思うのですが、残念です。

そういうわけで、少し早いですが、職員にとって唯一の交通機関である東武東上線の運行が乱れ始めているので、全線運休となる前に、閉館して帰宅したいと思います。
というわけで、これから美術館にいらっしゃる方はいないと思いますが、悪しからずご了承ください。

明日の展示替え作業は、一応、予定通り行うつもりですが、ボランティアの皆さまは、くれぐれもご無理のないようにして下さい。
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2014/2/2

「秩父前衛派」調査  調査・旅行・出張

午後、粟津ケンさんに連れられて、金沢21世紀美術館の北出学芸員とともに車で秩父へ。
「秩父前衛派」を標榜し、興味深い活動を実践しているギタリストの笹久保伸さん、そして前日から彼らの活動の聞き取り調査している多摩美術大学・芸術人類学研究所の椹木野衣さん一行に合流し、そのまま秩父の山間集落に向かいました。

私たちは、どこに向かうのかも聞かされていないまま、とにかく車で笹久保さんたちの後をついていったのですが、どうやら目的は秩父最深部の山間集落である石間(いさま)、そしてさらに奥地である(埼玉県と群馬県の県境に近い)太田部(おおたぶ)であったようです。

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この地域は、明治期に生糸の価格暴落に端を発する反政府武装蜂起事件「秩父事件」の秩父困民党が決起した場所でもあります。
まったく思いがけずに「秩父事件」の舞台を訪れる機会を得たわけですが、その予想以上の山の深さには驚きました。

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秩父市内からさらに車で1時間半の山道。
このあたりの里にも平家の落人伝説(関東の場合は「源平合戦」ではなく、「平将門の乱」の落人)が残っているそうですが、実際には、縄文時代からすでに人が住んでいたようです。

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太田部は、山の斜面に石垣が組まれ、それに沿って家が張り付いていて、こんなところに集落があるのか、と思うような場所ですが、江戸から明治にかけては農耕と紙漉き、養蚕で生計を立てていたとのこと。
http://www.antillia.com/ootabu/index.html

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2000年に廃校になってしまいましたが、1874年創立の吉田小学校太田部分校も、1977年に再建された校舎が残っていました。なぜか、この集落には不似合いな、瀟洒な建物でした。

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校歌を刻んだ石碑も残っていたので、以下に一番だけ記しておきます。

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みどりの風に肩を組む
秩父に生れたしあわせぼくら
あゝぼくら吉田の小学生
あの城峯の青空のように
いつでも 夢を 明るくみよう


==========

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山を下りた後、高砂というホルモン焼き屋で、椹木さんの小中学校時代の同級生や地元の画家・写真家の笠原正夫さんたちと合流し、夕食。
地元の方々と大いに語り、飲み食いした後は、「秩父夜祭」で知られる秩父神社の背後に広がる鎮守の森「柞(ははそ)之森」を散策しました。

笹久保くんや椹木さんたちが前夜に目撃したという、謎の光り輝く白い鳥を探しに行ったのですが、残念ながら(大人数ということもあって?)私たちは見ることができませんでした。
笠原さんによれば、「それは秩父神社の神様だったんだ」とのこと。
あるいは、社殿に彫られた白い鶴の彫刻が飛んだのではないか、との説も。。。

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秩父神社の歴史は古く、もとは妙見信仰(北極星・北斗七星への信仰)から「妙見宮」との呼び名で栄えた時期もあったようです。
現在の社殿は徳川家康の命による造営で、左甚五郎の作とされる立派な彫刻で飾られています。

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「秩父事件」の際には、この秩父神社の境内に秩父困民党軍が集結したそうです。

「秩父前衛派」を標榜する笹久保くんによれば、秩父はそもそも秩父平氏や秩父困民党の歴史が示すように、「反逆の土地」―戦う精神のある土地だといいます。
「秩父前衛派」の活動も、音楽活動を軸としながら、それだけではなく、土地の精神を掘り起こし、現代の視点でとらえ返すことに主眼を置いているとのこと。
ご自身も秩父出身だという椹木野衣さんが、そうした「秩父前衛派」の活動に注目し、調査を行っていることもまた、非常に興味深く感じられます。

丸木美術館でも、笹久保伸と椹木野衣、さらに粟津潔にも連なる(粟津潔は1978年に南良和の写真集『秩父』の装幀を手掛けている)秩父の「前衛」の系譜を、いずれ、何らかのかたちで紹介していきたいと思っているところです。
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