2013/12/27

『北陸中日新聞』文化欄「木下晋展」紹介  掲載雑誌・新聞

2013年12月27日付『北陸中日新聞』朝刊文化欄に、“ひしめく生と死 切実”との見出しで、木下晋展「生命の旅路」が紹介されました。
取材して下さったのは、松岡等記者。木下さんと神奈川県立近代美術館の水沢勉館長との対談に、わざわざ金沢から駆けつけて下さいました。心から感謝いたします。

記事は、中日新聞のWEBサイトで全文をご覧いただくことができます。
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201312/CK2013122702000195.html

以下は、記事からの一部抜粋です。
丹念に取材して下さった松岡記者には、心から感謝いたします。

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(前略)神奈川県立近代美術館の水沢勉館長と記念対談した木下さんは、幼少期に火事で焼け出された後、困窮と孤独の中で美術と出会い、やがて師事する麻生三郎や、同じ富山県出身の滝口修造、滝口の紹介でニューヨークで出会う荒川修作、小林ハルさんを描くきっかけをつくった美術評論家、画商の洲之内徹らとのエピソードを紹介。鉛筆画という表現方法を確立していった経緯を語った。

 水沢さんは、木下さんの初期作品から「日本の近代美術が持っていたいい部分と地続きにあった」と指摘。山形県・月山の注連寺の天井画として描いた墨による「天空の扉」などの宗教性も示しながら、「絵画というより彫刻的。ディテールを立体としてとらえることで、より存在感を感じる」と話した。

 木下さんは、ハンセン病によって目や鼻、骨格までが崩れた桜井さんの肖像を描く際に「彼の前に立ったとき、普通に考える人間に対する概念は変わらざるを得ない。描くことは人間に対する考えを再構築していく体験だった」と振り返った。

 これに応じた水沢さんは木下作品を「単なる精密画とは違い、人間の生死、存在の根幹にかかわる表現」と評し、「鉛筆のように表現の手段が限られていることで、より対象に没入できるのではないか」と分析した。

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 原爆による悲惨のほか、水俣病などの公害、原発問題など日本社会も告発する丸木夫妻の作品が並ぶ丸木美術館。木下さんは「最初に丸木さんの絵を見たときには拒否反応もあった。しかしフィルターを取り除いて作品に向き合うと、人物一人一人が非常にエロティックで、聖と俗がひしめきあっている。だからこそアートとして迫ってくる」という。

 同美術館学芸員の岡村幸宣さんは「東日本大震災後の痛みや苦しみの下、孤独に向き合う木下作品と共鳴し、『原爆の図』の現代性、普遍性があらためて浮かび上がってくるようだ」と話した。


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展覧会は2014年2月8日まで。
その後、4月4日〜5月6日には沖縄県立博物館・美術館に巡回します。
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2013/12/21

「木下晋展」記念対談:木下晋+水沢勉  企画展

午後2時より、「木下晋展 生命の旅路」の関連企画として、神奈川県立近代美術館の水沢勉館長をお迎えして「木下晋の仕事をめぐって」と題する記念対談を行いました。

寒い時期にもかかわらず、会場には約40人の方々が来場して下さいました。
対談は1時間半にわたり、文章に起こすとかなり長くなってしまいましたが、非常に興味深い内容だったので、以下に抄録をお伝えいたします。
充実したお話をして下さった水沢勉さん、木下晋さん、本当にありがとうございました。

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水沢 今回の展覧会では、今年の夏に描かれた最新作の《合掌図》から、16歳で最初に描かれた《起つ》まで、ちょうど50年、半世紀の仕事を一望できます。
6年前の梅野記念館の個展でも油彩画は何点か展示されていたけれども、独立した部屋ではなく、エピソードというかプロローグ的な紹介でした。今回の展示は油彩画がまとまって見られて、現在の鉛筆画の仕事とのつながりがよく見える内容になっていますね。

木下 実は90年代に池田20世紀美術館で個展をした後、ヨシダ・ヨシエさんに「丸木美術館で個展をやらないか」と誘われて。その後すぐに俊さんが亡くなられて、美術館もたいへんなことになってしまったんですけど、今回ようやく実現したんです。

水沢 『はじめての旅』という最新の絵本の原画からはじまって、建物の空間の区切りが作品の内容にうまく寄り添いながら、近年の木下さんを有名にした鉛筆画の世界に続いている。
画家の世界は、創造のエネルギーを絶えず供給しながら、年輪のように変わっていっても、ひとつの樹であるということを、この展覧会を観ながら感じます。今日は、木下さんの創造の根幹に何があるのかということをお聞きしたいと思いました。

木下 幼い頃の家庭の事情や母親の存在がずっと自分のコンプレックスだった。しかし、ニューヨークで荒川修作に出会って、「君は芸術家として素晴しい環境に生まれ育った」と言われて、「えっ」と思い、自分の考えていたことが逆転したんです。「君はもっと母親のことを知るべきだ。母親を描け」と言われて、何をどうしていいかわからなかった。でも、母親をモデルにして絵を描くというのは、ひとつの免罪符なんですね。対話を繰り返しながら、「この人の生き方は、俺には絶対にできない」と考えが変わってきた。

水沢 荒川さんにお会いされたときには、まだ色彩のある油絵を描いていたんですね。鉛筆画としては、お母様の絵が最初ということで、人生の転機になった。木下さんって不思議なんですが、あまり結びつかないけれども、瀧口修造さんとも交流がある。

木下 それは自分のいい加減なところで……1969年に村松画廊で個展をしたんです。そのとき、瀧口さんはすでに著名な詩人であり、美術評論家でもあったわけですが、隣村の出身なんですね。それで、電話をかけたんですよ。そうしたらご本人がでられて、「行きます」って。画廊主の川島さんも信じてくれなくて、「来るわけないだろう」って言っていたんですが、本当に来ちゃったんです。そうしたら川島さんもオロオロしちゃって、そのくらいたいへんなことだったんですね。

水沢 木下さんは、基本的にたいへん破天荒なんですよ。画壇の権威とも関係ないし、美術学校のつながりもないし、16歳の一種「天才少年」として認められて出てきたけれども、独学と言っていいわけです。
そのなかで今回出ている《起つ》は、木下さんの出発点を知る重要な作品だと思いました。でも、描き方としてはとっても変なものなんですよ。絵を描くための下地が、どう見ても普通のものではない。もっとも廉価な合板にクレヨンで描いているんですよね。絵を描くときに常識としてある前提を飛び越えているというか、無化している。

木下 自分は美術学校を出ているわけではなくて、中学のときに美人の美術の先生に誘われて夏休みに彫刻を作って、富山大学の今でいう市民講座のような研究室に参加したんです。そこには、いろんな年齢の生徒が集まっていた。
初めてヌードモデルも描きましたが、13歳だったので、目の前でモデルさんが脱いだら頭が真っ白になった。そのことを後に『芸術新潮』に書こうとしたら、同じような体験をした画家がいるからだめだという、それが池田満寿夫だった。池田満寿夫は二度とモデルを見て描けなくなってしまったそうで、ああ、オレより純粋な画家がいると思いましたね。
研究室には、専門分野の違う文学部や工学部の先生がいて、中学生の作った彫塑のとなりにロダンを並べたりして、そんな普通はちょっと考えられないような、思いもよらない発想が出てくるんです。最初からそういうところにいたわけです。

水沢 どのようにものが評価されたり、見えるかといったことが、凄く自由な場であったわけですね。それは決定的なことですね。技術というよりも、どのように感じるか。

木下 今の美術大学と違って、専門的な技術がどうこういうのではないんです。絵のことは言わないんですよ。そういう問題じゃなくて、もっと本質的な、ものの伝え方、なぜそういう表現をしたのかといったことが、話し合われる。

水沢 いわゆる美術の専門家でない人たちがまざっているのは、すごく少年にとっては大事ですね。美術の専門家だとどうして上級者が初級者に指導するようになるけれども。

木下 70代のおばあちゃんもいました。そのおばあちゃんががんばるんですよ。今と違ってすごく寒い教室で、毎日がんばって5年連続で県展で金賞になったりして。そういう人を見ていたら、がんばらざるをえないんですよ。そういう雰囲気がありましたね。今の美大生はダメですね。才能あるないの前に、まず、やらない。

水沢 やはり最初に肝心な体験をされているんですね。世界的に優れたアーティストも最初は美術以外の、心理学とか哲学とか、人類学とか、そういう勉強をして美術に入る人が多いですね。基本的な思考の訓練がないと、アートは技術になっちゃう。

木下 ラインハルト・サビエのノルウェーのアトリエに行ったことがあるんです。彼は40ぐらいからはじめて、にもかかわらず執念で制作に取り組んでいる。つまらんことは言わないけど、非常に参考になるんですよね。

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水沢 最初の《起つ》に戻ると、描き方も普通じゃないんですね。おそらく下地がバサバサだから、絵を描く作業も非常に無駄の多い、ものすごくエネルギーが投入されている。クレヨンで描いているので、ひとつひとつのタッチをディテールで積み重ねていく描き方ですよね。鉛筆画になっても木下さんの作品は、構図がうまい下手ではなく、ある密度で端から端まで作りあげていくディテールの積み重ねです。《起つ》も、普通の絵具であれば面で一気に塗れるところを、雪が降り積もるように絵具も降り積もるような、そういう絵の描き方は、アカデミックなところではどちらかというと排除されるように思うんですよ。
例えば靉光のクレヨン画も、どう描いたのかまったくわからないです。構図は当人もあまり気にせず、上手い絵を描こうという発想ではないから、端からイメージを追及して積み重ねていくと、誰も一度も見たことがない色や形になるという世界を発見していくわけですね。それはもう、自分一人でやるしかないという腹をくくったから発見できたと思うんですね。
木下さんの作品にも最初からそうした覚悟があって、しかも描きたいという強い衝動があって・・・少年の頃、すでに芸術家に対する憧れというのはあったんですか?

木下 もちろん最初は印象派で、ミレーとかゴッホとか、シャガールとかをくぐって来たんですけど、具体的にどうこうというより、なぜここまで描けるのかという憧れだったですね。畏敬の念からはじまって、自分はどうなのかということですよね。

水沢 16歳のときあの絵をお描きになられて、東京で発表するわけですけど、そのとき作品を見て下さったのが麻生三郎さんだったんですね。

木下 最初に富山大学の木内先生に見せたんですよ。そうしたら、「ぼくは彫刻家だから絵のことはわからん、麻生くんを紹介しよう」ということになったんです。それで当時三軒茶屋にいた麻生さんのところへ行ったんです。絵を見せても何も言わないんですよ、あの方は。だけど彼のアトリエは絵そのものの世界なんですね。絵が出来上がっていくプロセスを目の当たりにして、その中に自分の絵を置いたら、もう一目瞭然なんです。だから、いつも麻生さんのところに行くときは戦いだったですね。あの中に今描いてる自分の絵を置いたら、もつのかと。ほとんどメタメタにやられましたよ。

水沢 優れた絵描きさんのところに絵を持って行くということは、絵を見てもらうというより、その人の空間の中に自分が入っていくということなんですね。

木下 麻生さんはムサビで教えていましたけど、誰がいるからどの大学へ行くというふうに、当時の画家はもの凄く影響力が強いんですよ。教え子が皆、麻生さんの絵のようになっていくんですね。そうすると、気づいたときはそこから抜け出すのに非常に苦しむんですよ。ぼくの親友も苦しんで、あるとき、「やっと自分の絵が描けたから見てくれ」と言われて、それから3日後に亡くなりました。

水沢 そのくらい、麻生さんの世界に取り憑かれるとなかなかね。

木下 少し前に国立近代美術館で展覧会やったでしょ。あれ見るとね、いい作家ですよね。

水沢 いい作家です。筋が通っている世界ですね。
木下さんは、ある意味、日本近代美術の昔の良い部分の構図の中からデビューしてきたと思いますね。絵描きらしい絵描きが生まれる構図といいますか。それが瀧口さんや洲之内さんにもつながる。木下さんの作品を見ていると、つい靉光が浮かんできますし、おのずと村山槐多とか、日本近代の一番いい精神と地続きな部分を感じます。

木下 麻生さんには自由美術への出品を勧められて、そのときに「広隆寺の弥勒菩薩像を見たらどうか」と言われたんですね。ぼくはあまり関心がなかったんですけど、麻生さんが言うから行ってみたんですね。そしたら、とても人間の技とは思えなかった。自然にその形になったように感じた。人間って、ここまで到達できるのかと思った。それから毎年京都に通いました。

水沢 おそらく木下さんが、最初に彫刻を作られたという体験ともつながってくるんでしょうね。そういうものって、こういう作品の中にもありますよね。絵画よりも彫刻、というか空間の問題だろうと。絵画はどちらかというとイリュージョンを作り出す装置で、そこにあるかのように見える。木下さんの絵も、もちろんイリュージョンなんだけれども、むしろ立体物に近い存在感を感じる。おそらく桜井さんのハンセン病で崩れた姿を絵画的な方向だけで描いたらおぞましい印象というか、恐怖感に偏ってしまうけれども、ここまでディテールを立体的に存在として捉えようとしているから、ぼくらも純粋に見ることができる。

木下 人の顔を描くときには、普通は顔の基本的な骨格に沿って描く。でもこの人の場合は、どういうふうに描いたらいいのか、今までの顔の概念が崩された。それでも、この人と話しているとまったく普通なんです。その普通さが異様というか、本当はこの顔にふさわしい人格をこちらが期待していたのかもしれない。

水沢 木下さんの作品は人間がすごく大事なモチーフになるんだけれども、ヨーロッパ絵画の人間中心主義とは違うものを感じます。ことさらな作為ではなく、自然な行為の積み重ねがこういう作品になっていくのだろうという印象があるんですね。最新作の祈りの手の作品も、宗教性といえば宗教性だけど、ことさらなものじゃないですね。

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木下 20年前に鶴岡市の湯殿山注連寺というお寺を再興するために天井画を描くことになって、そのとき住職がとんでもないことを言ったんですよ。「何を描いてもいいけど、1000年後に残るような絵を描いて欲しい」と。だけどそれが一番大変なことなんですよ。1000年と言われても、その頃は油絵から鉛筆画へ移りつつある時期だったけど、鉛筆と紙じゃ1000年は残らないわけですよね。

水沢 中国では紙のものは200年もつと考えられています。だから、200年たつと必ず写しておく。そうしないと伝線しないと。実際もっともっているものはたくさんありますけどね。

木下 当時、平城京から1300年前の木簡が出た。それが墨と木だったんですね。ただ、ぼくは墨の素養が全然なくて水墨画は描けないわけです。それで鉛筆のように線で構築していったんです。材料はそれでよかったんだけど、1000年後って人間が何を考えてるかわからんでしょ。だから、ひとつの宗教じゃなくて、あらゆる宗教に共通するものは何かと考えたんですね。それが合掌図だったんです。手の組み方は仏教でもキリスト教でもイスラム教でもそれぞれ違うんですけど、でも基本的にはね。

水沢 最新作の手の構図は、結果的に、16世紀のドイツルネッサンスのもっとも有名なデューラーの《祈る手》と構図がいっしょになっている。クラシカルな構図ですけど、しかし、《天空之扉》は真正面という非常に特殊な構図を選ばれた。

木下 なぜこんな構図にしたかというと、注連寺の本尊は大日如来なんですが、天井画を上にあげたときに仰ぎ見るようになる。ここから上はいわば天界で、合掌図が開いて、親指が大日如来で天界に導かれるという感じで構図を考えたんです。

水沢 そのとき、広隆寺の弥勒菩薩のような、仏像の影響はあったんですか?

木下 先ほど言ったように、ぼくは16歳の頃から、日本に仏教が伝来した時代の百済系のものが好きで、広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩をずっと毎年見ていた。もともと仏教的なものが好きなんですね。

水沢 直接的な影響というよりは、資質というか、彫刻的な結びつきが木下さんのなかにあるのでしょうね。《天空之扉》のある注連寺も、すごく特殊な信仰の場所ですよね。

木下 奥州藤原氏の末裔があそこに葬られていて、即身仏もある。ぼくは四畳半のアトリエで寝泊まりしていたけれども、3か月間、常に誰かに見られている気配がした。いつもなら絵を描いてるけれども、完全に描かされている。いろいろと不思議なこともあり、死ぬのかなと思うこともあって、あの天井画で新聞にも大きく取り上げられたけれども、もう二度とああいう仕事はやりたくないですね。

水沢 普通の絵描きさんは、だいたい自分のアトリエで描いて納めますよね。現場で描くことの不思議さですよね。

木下 ぼくのアトリエ狭いんですよ。家で描けないんです。

水沢 それは素晴らしい経験でしたね。たいへんなことがあったとはいえ、このときの特別な体験をきっかけに、モノクロームの世界に完全に入っていくんですよね。私も注連寺に行って天井画を見ましたけど、きれいな美術館に運んできて作品を見るのとは全然違う体験になるんですね。

木下 うちの女房が寺だからご飯食べてないだろうと思って、ウニとか高級な食材を送ってくるんですよ。でもそのまましまっておいて、忘れてしまうんです。2週間とか放っておいて、気がつくともう滅茶苦茶になっている。物欲がなくなって、もったいないとか思わなくなるんですよ。

水沢 ミケランジェロも、天井画を描いているとき疲れてしまって這うようにして寝床に帰るんだけれども、靴を脱がない。それで、完成したときには皮膚といっしょになってしまって、もう靴が脱げなくなってしまったという話がありますね。
1000年も残るものを作る機会は芸術家にはなかなかないでしょうけど、注連寺の天井画は、木下さんの画業のちょうど中間の、モノクロームに切り替わる一番大事な作品なのでしょうね。美術の世界の約束事とは少し違う、特別で濃密な経験を経て、結果的に、人間の精神の生きる死ぬという根幹にかかわるようなテーマが、木下さんの鉛筆画の世界に、単なるリアリズムとは違ったものを生み出して、その後も小林ハルさんや桜井哲夫さんのような、普通の絵描きさんとは違う出会いを導いたのでしょうね。

木下 ぼくの場合は、決して計算しているわけではないんですね。例えば、重要な出会いになった小林ハルさんにしても、ニューヨークから帰ってきて落ち込んでいたときに、洲之内さんに連れられて新潟の出湯という辺鄙な温泉の一軒しかない湯治場に行って、バスに乗り遅れて東京に帰れなくなって、宿の主人にごぜ歌を勧められて偶然聞いたんです。彼女の第一声で、今まで聞いていた音域と違う只者ではない世界に打ちのめされたんです。それから、これはどうにもならないと思って、小林ハルさんを描きたいと1年以上通い詰めたんです。

水沢 瀬戸内の豊島の古民家にこのシリーズが飾られていたんですけど、屋根裏のような暗い場所で、こうした美術館で観るのとは全然違うんですよ。あの場所の小林ハルさんも凄くいいですね。時空を超えてやってきたという感じがしますね。
おそらく木下さんは13歳のときに大学の先生たちと話をして、大人としての精神的な目覚めを体験されて、それから今度はアメリカで人生の眼が大きく開かれたという、弁証法的と言っていいのか、人生の根幹を探し出す仕事を重ねられて今があるんだと思います。

木下 ハルさんにしても、桜井さんにしても、この人たちが何を感じているのかが大事なんです。別に障害者でも何でもないんです。この人たちを障害者と思うのであれば、こっちの方がよっぽど障害者なんです。ハルさんのお話を聞いていると、全部映像になって、色を感じるんです。

水沢 芸能、広く芸術と言ってもいい世界は、別の時空を媒介にしてこの場所に持ってくるものなんですね。それが表現の一番強い力であって、絵も考えてみればそういうものじゃないですか。ただ形を写すとか、もちろんマーケットの仕組みとしての絵は当然あるんですけど、一番根幹に何があるかというと、やはり世界を別の世界に橋渡しするというか、そのことによってぼくらはその場にない何かを経験できるし共有できるという、体験の共有の場が広がるもの。おそらくモノクロームの世界になって、色はないようだけど、この木下さんの絵のなかにはさまざまな何かがある。

木下 ただ視覚を通して見るのではなくて、五感を駆使して「見る」というかね、ハルさんも生後100日で視覚を失ったけれども、残った感覚で「見る」意識があって、じゃあ、ぼくらがものを見ているかと言うと、何も見えていない。光の具合でいくらでも見え方が変わってくる。視覚というのはその程度のものなんですね。

水沢 木下さんの世界は、人間の純度の高いドキュメントになっている部分があるので、モデルの精神性が必ず感じられる。でも今回の展示を見ていると、まだまだ足りないという木下さんのつぶやきが聞こえてくる。もっともっとという気持ちが、作品を後ろから突き動かしている。

木下 ぼくは本当に人に助けられている。自分では全然できないですよ。

水沢 うん、自分ではそこまで行けない。浮力のようなものに支えられながら、洲之内さんもそういう人だったけど、絵に没入してしまっているような制作のあり方が、洲之内さんも大好きだったのではないか。上手い下手ではなく、絵の中にすべてを投入してしまったような。

木下 洲之内さんも絵がうまいですよね。生きているときは絶対に表に出さなかったけれども、あの絵が洲之内さんのものでなかったら、洲之内さんに紹介できるほど、結構あの人は描けました。

水沢 洲之内さんは木下さんを見出した重要な人であるわけですが、木下さんの中に、創作する世界の中に没入したいという思いを凄く感じるんですね。そして没入するには、表現が限られている方が没入できるというポイントがあったんじゃないか。鉛筆画も墨絵も、感覚が一部閉ざされるわけで、そうすると他の感覚がより目覚めるという仕組みの中で木下さんの世界が生まれてくるとぼくには感じられる。それがまたたいへん興味深いのは、決して安定していないということ。そのたびに新規巻きなおしという風になる。基準ができていて、これにはこう当てはめて「一丁あがり」というのがないですね。

木下 それは絵が下手だからでしょうね。

水沢 そうかも知れない。うまく描けないと思っているからですね。それは凄く大事ですね。料理人も、自分が「旨い」と思った瞬間に味が悪くなるといいますから。やっぱり、初心がよみがえるというんですかね。今回の絵本もそういうかたちで作られていて、絵本は回想だし、モデルは想像だから、絵画の世界とちょっと違いますね。そういうことにも挑まれていて、これからますます制作をされると思うんですけど、今後、どんなことをしてみたいとか、計画されていることはありますか。

木下 今年の夏にパンダの絵本を描くために中国の四川省へ行って、上野動物園の「養殖パンダ」ではなくて、野生に近いパンダを取材してきたんです。実はパンダって普通のクマより獰猛なんですね。あの白黒の姿は、人間から見ると「かわいい」となるけれども、他の動物には恐怖の対象なんです。先日、生命学者の中村桂子さんと対談したら、今、人間は地球の許容量の倍の人口があるそうなんですね。だからいろんな問題が起きている。だから、パンダを絶滅危惧種というけれども、本当は人間が絶滅危惧種なんだと。人間なんていつ滅んでもいいような生きものだけど、パンダをかわいいと思うのは、大自然がパンダを通して人間にまだ滅ぶなと言っているんではないかと、そんなことを考えているんですね。
来年の8月に原稿をあげて、中国の出版社から絵本を出します。世界のブックフェアに出して、いろんな国で翻訳される予定です。
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2013/12/19

世田谷美術館「実験工房展」/「はだしのゲンを読むプロジェクト」  他館企画など

午後から世田谷美術館「実験工房展 戦後美術を切り拓く」を見たあと、旧知の学芸員Nさんと雑談。

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実験工房の活動は非常に興味深いのですが、展覧会としては、絵画や立体などの作品が少なく、音楽や映像、プログラムなどの資料が軸になってしまうので、構成の難しい企画だと思いました。それでも松本俊夫の映画『銀輪』などは面白く、図録は充実していて資料価値も高いと思います。
Nさんたちが準備を進めているという次回企画展「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」展も楽しみです。

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午後7時半からは、高円寺で山下陽光さんの特別企画「はだしのゲンを読むプロジェクト 中沢啓治没後一周忌」に参加。
出演は、岩波ブックレットの刊行でもお世話になった広島平和記念資料館・情報資料室の菊楽忍さんと、みち(屋宮大祐)さん(はだしのゲンデザイナーズリパブリック)。
菊楽さんは、生前の中沢啓治さんが広島平和記念資料館に一括寄贈された貴重な原画のなかから、絵本版『はだしのゲン』の画像を紹介され、本来のご専門というチェコの建築家ヤン・レツル(原爆ドーム/産業奨励館の設計者)と丹下健三(広島平和記念公園・平和記念資料館の設計者)の因縁の三題噺なども面白く聞かせて頂きました。
「はだしのゲン 公式サイト」を運営されているというみちさんの発表は、インターネットにおけるはだしのゲン表現論という斬新なもの。とりわけ、中川翔子まで参入したという「ドングリまつり」(ドングリは、『はだしのゲン』に登場する少年キャラクターの一人)の話は、ふだん触れる機会のない非常に新鮮かつ興味深い内容でした。

司会の山下さんの計らいで、私もトークに少しだけ参加。
岩波ブックレット『非核芸術案内』の紹介をさせて頂き、その場で販売も行ったのですが、多くの方にお求め頂き、たいへんありがたかったです。

最後にスペシャルゲストとして、静岡県焼津市で生まれ、つまり、10代後半でビキニ事件を体験し、その後カープに入団して広島で暮らすという運命をたどった70代後半の某元プロ野球選手が出演。戦後の広島のヤクザ抗争や野球賭博についての、すでに時効だからこそ語れる生々しい体験談に加え、福島の被ばくをめぐる独特の過激とも感じられる“思い”を語り、存在感を放っていました。

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山下さんは、来年1月18日から3月28日にかけて、広島県福山市の鞆の津ミュージアムで、「山下陽光のアトム書房調査とミョウガの空き箱がiPhoneケースになる展覧会」という興味深い企画を開催されます。近年、原爆投下直後の広島で原爆ドーム前に現れた古書店「アトム書房」についての調査を精力的に進めている山下さんの、独特のユーモアを放つ視線が、どのように展覧会として結実されるのか、たいへん楽しみです。
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2013/12/15

【一日広島旅行】旧日本銀行広島支店Chim↑Pom「広島!!!!!」展  調査・旅行・出張

早朝/深夜の飛行機日帰りで、広島まで飛んできました。
「被爆建物」でもある旧日本銀行広島支店で開催中のChim↑Pom「広島!!!!!」展を、ぜひ観ておきたいと思ったのです。

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午前10時、開館直前の旧日本銀行広島支店に到着。
丸木美術館のChim↑Pom展のときにも正面入口を飾っていた《Red Card》が、今回も看板として展示されています。

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今回の展示のメインは、八羽の《リアル千羽鶴》と対比するように配置した新作《PAVILION》。広島市に全国から送られた大量の折鶴をピラミッドのように積み上げ、裏手からはまさに“玄室”のように折鶴の山の中に入っていける、という展示です。

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それにしても、折鶴の山の物質的な存在感には、近くによると圧倒されます。
いっしょに展示を見た原爆文学研究会のKさんは、「これを最後に燃やしたらどうだ」とカゲキな発言。たしかに、広島市が長年折鶴の処遇に頭を悩ませているという話は、これまでにも何度も伝え聞いています。折鶴の山は、軽々しく廃棄できないという意味で行き場を失った“思い”の塊の、まるで“中間貯蔵施設”のようにも見えました。

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午後2時からは、詩人のアーサー・ビナードさんとChim↑Pomのリーダーの卯城竜太くん、稲岡求くん、そして途中から参加したエリイちゃんのトークがありました。
相変わらず辛口で、鋭い言葉を投げかけるアーサーさん。
それに答える卯城くんも刺激的な答えを連発し、真剣勝負の興味深いトークになりました。

とりわけ興味深かったのは、“折鶴”にも関連するのですが、“平和”という問題につきまとう予定調和の物語の問題。
Chim↑Pomが2008年に騒動を引き起こした作品《ヒロシマの空をピカッとさせる》について、「物議を醸した」ではなく「本質をあぶり出した」と評価するアーサーさんが、原爆をテーマにすることを平和を訴えるという物語に回収しようとするメディアの先入観に違和感を覚えるという卯城くんの話を受けて、「作品にメッセージを込めてはいけない。平和を訴えるのではなく、作品が観る側の思考停止状態を刺激して、そこからそれぞれの人が考えてはじめてメッセージが生まれる」と応えていたのが印象的でした。

また、千羽鶴のもとになった佐々木貞子さんが折った折鶴を「とても美しい」と評価するアーサーさんは、貞子さんの折鶴には自分の病気を治したい、つまり「生きたい」と思って作った「美しさ」があるのに対して、「平和のため」の千羽鶴は、実は意味が飛躍していると、そこに生じる“形骸化”を鋭く批判する発言もされていました。

個人的な話ではありますが、《原爆の図》について館内説明をする際に、一度も“平和”という言葉を使わず、つまり“予定調和の物語”に頼らずに、《原爆の図》をどう新鮮な視点で語れるか、発見できるか、ということを考え続けている身としては、非常に刺激を受けたトークでした。

「Chim↑Pomの凄いところは、まったく考えていない(ように見えて、本当は考えていると思う)けど、本質を当てちゃうところ」というアーサーさんの指摘に、あらためて頷く思いがしました。

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展覧会は、旧日本銀行広島支店という意味深い建物に、これまでのChim↑Pomの広島・福島の作品をすべて集めたという点で、やはり見応えのあるものでした。
そのなかで、終始辛口だったKさんが「本物を見るのは初めてだったけど、やはり、この作品は面白い」と反応したのは、地下金庫に投影された《ヒロシマの空をピカッとさせる》。

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淡々と原爆ドームの上空に飛行機雲が「ピカッ」という文字を描く場面を映し出す、Chim↑Pomには異例とも言える非常に単調な映像作品ですが、やはり彼らの持ち味は、街のなかでゲリラ的に発揮されるのかも知れません。

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一旦会場を出たときに、原爆ドームを川の対岸から眺めてみました。
そして、対岸に原爆投下前の広島県産業奨励館の写真がモニュメントとして設置されていることに初めて気づきました。
古写真と現在の光景を対比して見ることができるように設置されています。

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このアングルは、Chim↑Pomの《ヒロシマの空をピカッとさせる》と同じアングルである、ということにも気づきました。
もちろん、この日の上空には、「ピカッ」という文字は描かれていませんでしたが、不在によって作品の存在を思い起こさせる、というのもまた、Chim↑Pomの手法でもあるわけです。

「原子爆弾」を「上から降ってきた言葉」と捉えるアーサーさんが、「ピカ/ピカドンは、原爆を落とされた広島の人びとが自分たちで名づけた、下からの言葉」と指摘し、「そのピカという言葉を選んで広島の空に描いたところがChim↑Pomの凄さ」と語っていたことを、あらためて思い起こしています。
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2013/12/15

『朝日新聞』読書欄“本の舞台裏”に『非核芸術案内』紹介  掲載雑誌・新聞

2014年12月15日付『朝日新聞』読書欄“本の舞台裏”に、新刊の岩波ブックレット『非核芸術案内』をご紹介いただきました。
記事を執筆して下さったのは、これまで丸木美術館にも何度も足を運んで下さっている文化担当の小川雪記者です。

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美術でたどる「非核」”との見出しで、ブックレットの内容を簡潔に紹介して下さっているのですが、それだけではなく、近年の丸木美術館の企画展の内容とも関連付けて書かれているのが、小川記者ならではの温かい視点。

記事の全文は、以下の朝日新聞webサイトからもご覧いただけます。
(デジタル会員登録が必要)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201312140527.html?_requesturl=articles/TKY201312140527.html

お世話になった小川記者には、心から御礼を申し上げます。
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2013/12/14

鳥羽耕史編『安部公房 メディアの越境者』  書籍

午前中は、都内で原爆の図米国巡回展に向けての打ち合わせ。
その後、銀座奥野ビルのギャラリー・カメリアで開催されている石塚雅子さんの展覧会を拝見した後、美術館に戻りました。

美術館には、戦後文化運動研究で知られる早稲田大学の鳥羽耕史さんから、森話社から刊行されたばかりの『安部公房 メディアの越境者』が届いていました。
充実した内容の一冊、以下に目次を書き出しておきます。

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《T総論》
メディアの越境者としての安部公房=鳥羽耕史
〈社会理論〉としての安部公房=リチャード・カリチマン

《U 戯曲・スペクタクル・パフォーマンス》
幽霊と珍獣のスペクタクル=日高昭二
死者との同化からマルクス的幽霊へ=木村陽子
安部演劇の可能性と限界=高橋信良
『未必の故意』序説=マーガレット・キー
俳優座から安部公房スタジオへ=井川比佐志インタビュー
アヴァンギャルディストの顔=佐藤正文

《V 映像と他ジャンルへの越境》
〈砂〉の闘争、〈砂〉の記録=森山直人
電子メディア時代における異化=永野宏志
ラジオドラマ『耳』『棒になった男』『赤い繭』=守安敏久
実在と非実在の間の空間における探求=コーチ・ジャンルーカ
メディア実験と他者の声=鳥羽耕史
安部公房と日本万国博覧会=友田義行

《エッセイ・劇評》
「快速船」の演出について=倉橋健
共同幻想を裁く眼=大島勉

安部公房年表=友田義行


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これからゆっくり読ませて頂きますが、お忙しいなか、着実に研究成果を発表され続ける鳥羽には、心から敬意を表します。

また、広島大学大学院教育研究課の能登原由美さんからも、『大木正夫と映画「原爆の図」―《交響曲第5番「ヒロシマ」》への軌跡―』という興味深い研究論文をお送り頂きました。
こちらは、丸木夫妻にも直接関係する内容なので、後日あらためて詳しくご紹介いたします。
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2013/12/12

プロモ・アルテ ギャラリー「アベル・バロッソ&サンドラ・ラモス展」  他館企画など

美術館閉館後、表参道の「プロモ・アルテ ギャラリー」へ。
夏に「炭坑展」でお世話になった正木基さんらの企画による、アベル・バロッソとサンドラ・ラモスというキューバの作家の新作展のレセプションに参加しました。

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http://www.promo-arte.com/jpn/ex_files/2013/1212_cuba/1212_cuba.html

挨拶をする正木さんの向かって右隣りが来日中のアベル・バロッソさん。
画面右端に写っている男性は、キューバ大使です。

それにしても、相変わらず、お忙しそうな正木さん。
会場では、写真家の萩原義弘さんや美術館学芸員のSさんなど、「炭坑展」でお世話になった方々とも久しぶりにゆっくり話すことができました。
昨年11月にKENで興味深いキューバ美術の報告をされた沖縄のインディペンデント・キュレーターの岡田有美子さんにも1年ぶりに再会しました。岡田さんは正木さんとともに今展の企画をされています。
この興味深い企画展は、埼玉と沖縄でも同時並行して開催されるとのこと。
日本ではなかなか観ることのできない、キューバの若手作家の展覧会。ぜひ、多くの方に観て頂きたいと思います。
プロモ・アルテ ギャラリーの展覧会は、12月24日まで。
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2013/12/8

朗読+演奏「12月8日:開戦記念の日に」  イベント

午後2時から、高瀬伸也さん、青柳秀侑さんのコンビによる恒例の朗読+演奏企画が行われました。題して、「12月8日:開戦記念の日に」。
いつも、先鋭的な際どい内容をぶつけてくるお二人。これまでの12月8日は、日米戦開戦直後に書かれた文学者らによる戦争賛美の「愛国心」を鼓舞する朗読が多かったのですが、今年は、坂口安吾の「続 戦争と一人の女」をとりあげ、戦争末期の熱狂とは対極的な男女の姿を通して今を照らし出すという試みです。

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事務局職員が手薄なため、朗読公演を半分だけしか聞くことができなかったのですが、高瀬さんが今の時期にこの作品を選んだことの意味――配布資料で記している「戦争も止む無し、というムードが醸成されつつある中で、戦争を受け入れるデカダンな人間が、たとえ本人がそう自覚しなくても、逆に批判的な存在として意味を持つ可能性があるのではないのかと再考した。もちろん、この小説の主人公の「女」の、ある種のデカダンな生活の延長上にある、死への希求とその美化は、そのまま「戦争の美化」と結びつく危険性もある。しかしながら、かれらは、まつろわない女と男であり、ふたりの相互の関係をも含め、多くの関係性において、疎外されている。また、疎外(alienation)という語は、フランス語において精神錯乱も意味するが、ある意味において錯乱しているふたりは、凡庸な言い方だが、狂気の時代においては、逆に正気でいられる、という可能性もあるのではないだろうか」という、少々わかりにくい意図が、午後のうららかな日差しのなかで、うっすらと胸に入ってくるように思えたのでした。

参加者の数は、例によって非常に少なかったのですが、公演のあと、事務所に移ってお茶を飲みながら(男ばかり8人で)話した時間が、久しぶりに思いのほか楽しかったことを、付け加えさせて頂きます。
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2013/12/6

出張ワークショップ/大川美術館/アーツ前橋「カゼイロノハナ」  他館企画など

午前中は、毎年恒例となっている地元の唐子小学校への出張ワークショップ。
今年も体育館に集まった3年生の皆さんと、楽しく工作教室をしました。

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このワークショップは、もともと東松山市の環境保全課の呼びかけではじまったもの。
そのため、工作教室を指導する丸木美術館理事で画家のMさんも、古いレコード盤や、八百屋から頂いてきた果物の包装用紙、赤ちゃん用のベッドの柵などの身近な素材を再利用するという発想で、材料を集めています。

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もっとも、子どもたちのほとんどは、レコード盤をはじめてみる、とのことで、「ここから音楽が流れる」と言われても、ピンと来なかったかも知れません。ジャズが好きだという担任の先生は、一人だけとても喜んでいらっしゃいましたが……。
ともあれ、とても楽しく2時間を過ごすことができました。

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午後からは、市役所のKさん、丸木美術館理事のMさんといっしょに、群馬県桐生市の大川美術館へ。開館25周年記念「大川美術館の軌跡」を観ました。

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大川美術館の膨大なコレクションのうち、展示されていたのは、もちろんほんの一端でしたが、普段と少しだけ展示の仕方を変えていたこともあって、いろいろと新しい発見がありました。
展示を観てまわるうちに、自然と足が止まったのは、ベン・シャーンの《ラッキー・ドラゴン・シリーズ》のひとつ《なぜ?》。久保山愛吉の墓碑を描いた作品の前に立ちながら、「3.11」の際に開催していた「第五福竜丸事件 ベン・シャーンと丸木夫妻」展は、この大川美術館の協力がなければ実現できなかったということを思い起こしていました。
これからも、長くお付き合いさせて頂き、そしてときどき足を運びたい美術館です。

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その後は、前橋市に開館したばかりのアーツ前橋へ行き、開館記念展「カゼイロノハナ」を観ました。
この企画展は、美術や工芸だけでなく、詩や音楽、科学などジャンルを越えた創造的な表現を展示し、前橋の持つ場所性、歴史性を掘り起こしていくという非常に興味深い試みでした。

前橋ゆかりの画家たちの歴史的な作品だけでなく、「生活造形実験室」を主宰し、絵画教室や展覧会活動で日常生活に根づいた文化活動を育んだ画家・近藤嘉男や、「上毛孤児院」を設立するなど社会福祉活動の先駆けとなった宮内文作の活動などが、現代美術家の作品と「対話」するかたちで紹介されているのは、とても新鮮に感じました。

とりわけ、前橋で活動する現代美術家・白川昌生が、「市民科学者」として原発に反対し続けてきた高木仁三郎(前橋生まれ)の活動をインスタレーションとして提示した作品《高木仁三郎からはじまる》(写真:図録右頁上)は、現代美術の真の意味での「現代性」とは何かを考えさせられる内容で、感動的ですらありました。

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必見の展示、会期は1月26日まで。
気鋭の美術評論家・福住廉さんも、例によって鋭い展評を書いています。
http://artscape.jp/focus/10093688_1635.html
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2013/12/4

岩波ブックレット『非核芸術案内』刊行  執筆原稿

岩波書店より、ブックレット『非核芸術案内 核はどう描かれてきたか』が刊行されました。

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 芸術は人間の営みのなかから生まれてくる.その営みに直結する問題である核の脅威と対峙するなかで,「非核芸術」と呼ぶべき作品があらわれ続けることは,決して不思議ではない.

 「芸術の役割は見えるものを表現することではなく,見えないものを見えるようにすることである」とは,画家のパウル・クレー(1879-1940)の残した言葉だ.もちろんクレーの言う「見えないもの」とは魂の領域を指すのだろうが,それも含めて,核に対峙する芸術を思うとき,この言葉が頭をよぎる.核の脅威,とりわけ放射能を人間は知覚できない.その危険性を隠そうとする社会的な力が働くことも少なくない.「非核芸術」の歩みは,「見えない」核を「見える」ものとしてあばき出す試みの連続であったと言える.

 芸術には,時代を越えて語り継ぐ物語となって忘却を防ぐ力がある.それぞれの時代に何が記憶されてきたのかを見つめなおすことは,「3.11」後を生きる私たちの現在,そして未来を照らすことにもつながるはずだ.

 まずは,1945年以後,脈々と受け継がれてきた「非核芸術」の系譜をたどり,「非核芸術」とは何か,そして,その多様な表現がもたらすものの意味について,考えていきたい.


(「はじめに」より)

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/2708870/top.html

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岩波書店編集部の吉田浩一さんをはじめ、本書の執筆においてお世話になった皆さま、とりわけ、日頃からさまざまなご教示を頂いている近現代史研究者の小沢節子さんには、心より御礼を申し上げます。

手もとに届いたブックレットをあらためて見ると、図版も非常に美しく掲載されています。
以下、参考までに、目次とともに図版で紹介している作品を書き留めておきます。

表紙
 丸木位里・丸木俊「原爆の図第3部《水》」(部分)1950年

はじめに
 シケイロス「都市の爆発」1936年

T 原爆を表現する
▼最初に原爆を伝えた絵画
 丸木位里・丸木俊「原爆の図第1部《幽霊》 」1950年/同「ピカドン」1950年
▼原爆を見た画家たち
 福井芳郎「昭和 20 年 8 月 6 日午前 9 時」1945年/同「炸裂後 15 分」1952年/深水経孝「崎陽のあらし」1946年
▼想像を超える破壊を描く
 古沢岩美「憑曲」1948年/山下菊二「オト・オテム」1951年/山本敬輔「ヒロシマ」1951年/増田勉「母子」1949年/鶴岡政男 「人間気化」1953年
▼置き去りにされる被爆者
 高山良策「矛盾の橋」1954年/上野誠「ケロイド症者の原水爆防止の訴え」1955年/中沢啓治「はだしのゲン」1973〜1985年
▼描けなかった記憶
 丸木スマ「ピカ―ゆうれい」1950年頃/「ピカのとき」1950年頃/大道あや「ヒロシマに原爆が落とされたとき」2001年

U ビキニ事件と原発
▼放射能の脅威
 ベン・シャーン「珊瑚礁の怪物」1957年/ゴジラ 1954年/岡本太郎「燃える人」1955年/手塚治虫「第五福竜丸」1985年
▼揺らぐ被害者意識と原発神話
 丸木位里・丸木俊「原爆の図 第 14 部《からす》」1982年/水木しげる「パイプの森の放浪者」1979年

V チェルノブイリ事故後の世界
▼汚染された大地
 貝原浩「風しもの村」1992年/本橋成一「無限抱擁」1995年
▼現実と虚構の間で
 こうの史代「夕凪の街 桜の国」2004年/石内都「ひろしま」2008年/ジミー・ツトム・ミリキタニ「原爆ドーム」制作年不詳/Chim↑Pom「ヒロシマの空をピカッとさせる」2008年

W 3.11 後の「非核芸術」
▼若者たちの挑発
 Chim↑Pom「LEVEL 7 feat.明日の神話」2011年/同「Red Card」2011年/風間サチコ「噫!怒濤の閉塞艦」2011年/同「獄門核分裂235」2011年
▼終わりのない物語
 壷井明「無主物」2012年〜/増田常徳「不在の表象 浮遊する不条理 A」2011年
▼歴史を重ね合わせる
 黒田征太郎「火の話」2011年/鄭周河「奪われた野にも春は来るか」2012年/池田龍雄「蝕・壊・萌」2011年
▼福島に希望はあるか
 ヤノベケンジ「サンチャイルド」2011年/安藤栄作「光のさなぎ」2013年
▼受け継がれる意志
 粟津潔・杉浦康平「原水爆禁止+核武装反対!」1959年/新井卓「2011年7月26日、飯舘村長泥、放射性のヤマユリ」2011年

おわりに

なお、岩波ブックレットは、小さな書店では在庫がない場合も多いので、お近くの書店あるいはインターネットでご注文いただくか、丸木美術館でもお取り扱いしておりますので、ご来館の際にお求めください。
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2013/12/3

ポレポレ東中野『ある精肉店のはなし』  他館企画など

美術館閉館後、ポレポレ東中野で11月29日から公開されている纐纈(はなぶさ)あや監督の映画『ある精肉店のはなし』を観に行きました。

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山口県の祝島で約30年にわたって原発に反対しながら日々の営みを続けてきた人びとを取材した前作『祝の島』に続き、纐纈監督の第2回作品となる今回の舞台は大阪府貝塚市。
一家で牛を育て、みずからの手で屠畜して捌き、肉を売り続けてきたある家族の物語です。

牛からいのちを頂き、そして次の世代へと人間のいのちが受け継がれていく。
纐纈監督は、そうしたささやかな暮らしを丁寧に撮る監督だとあらためて思いました。
前作の『祝の島』からテーマが変わったように見えて、つましくも豊かな人間の暮らしを撮るという点は変わらず、一貫しているのです。

食肉産業にかぎらず、社会のおよそすべてのシステムが、効率化、大型化を推し進めていく現在において、一家ですべての作業を担う“小さな世界”を守り続けてきた北出精肉店。
時代の変化には抗えず、2012年3月には、町の小さな屠場が閉鎖されてしまったのですが、カメラがじっくりと捉えた“最後の屠畜”の流れるような美しさ、いのちをいただく神々しさは、観る側の胸にせまります。

屠畜作業だけでなく、部落差別問題、だんじり祭りなど、地域の歴史、文化を幅広く掘り下げた見どころの多いドキュメンタリ映画。
上映後に舞台挨拶をされた纐纈監督もおっしゃっていましたが、1度だけでなく、2度、3度と観ながら、じっくりと楽しみ、感じていきたい作品だと思いました。

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パンフレットに纐纈監督のサインも書いて頂きました。

いのちが血となり肉となり

今の時代に見えにくくなっている大切なつながりを、しっかりと見せてくれた纐纈監督の仕事に敬意を表します。
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2013/12/2

川越スカラ座『立候補』  川越スカラ座

このところ、岩波ブックレットの校正やその他の原稿の打ち合わせなどで慌ただしくしていましたが、久しぶりの一日休みに川越スカラ座で上映中の映画『立候補』(藤岡利充監督、2013年)を観てきました。

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羽柴誠三秀吉、外山恒一、マック赤坂など世間で言うところの「泡沫候補」の選挙活動や思いに迫るドキュメンタリ映画。
事前に、スカラ座スタッフの女の子から「泣きました」と言われ、マック赤坂で「泣く」のか……と半信半疑でしたが、映画の後半部分のひき込まれる展開には、正直なところ驚かされました。あらかじめ想定された物語を超えていく現実。これこそドキュメンタリという作品です。

映画を見終わったあと、受付で「すみません、泣きました」と自己申告。
詳しくは実際に映画を見ていただきたいのですが、この作品は、たんなるパフォーマンス主義の「泡沫候補」のドキュメントでは決してありません。
マック赤坂の選挙活動を通して、暴走する「多数派」のおぞましさを相対的に浮かび上がらせるという点で、まさに今の時代に生まれるべくして生まれた映画だと思いました。
自分の考えと異なる他者を抹殺することを微塵も躊躇しない「多数派」政権が、戦後の日本がまがりなりにも積み重ねてきた歴史を根底から破壊しようとしている今こそ、観る価値のある重要な作品です。

川越スカラ座での上映は、12月6日(金)まで。騙されたと思って、ぜひご覧下さい。
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2013/12/1

日本近代文学会国際研究集会にてパネル発表  講演・発表

午後から、原爆文学研究会でお世話になっている奈良教育大学の中谷いずみさんや、広島大学の川口隆行さんに誘われて、日大文理学部で行われた日本近代文学会の国際研究集会「日本近代文学のインターフェイス」のパネル発表に参加しました。

パネル発表のテーマは「〈当事者/非当事者〉をめぐるポリティクス」
現代の国際情勢や政治的社会的状況の変化の中で、 文学や映画、美術など表象に関わる分野が、〈当事者/非当事者〉のポリティクス(政治性)にどのように関与してきたのかを捉え直す試み、ということです。
『その「民衆」とは誰なのか:ジェンダー・階級・アイデンティティ』(青弓社、2013年)という著書を出版されたばかりの中谷さんは、権力への対抗軸として政治のひずみを背負わされた社会的弱者が歴史的存在として見出された1950年代前半の国民文学論や国民的歴史学運動をめぐる言説を論じ、台湾の大学で教えていた経験を持つ川口さんは、台湾映画『セデック・バレ』(ウェイ・ダーション脚本・監督)を取り上げ、日本統治時代の「原住民」による武装蜂起「霧社事件」をめぐる語りと国家や地域社会の政治的社会的文脈を考察するという発表でした。
私は、広島の原爆を表現した丸木夫妻の《原爆の図》からChim↑Pomの《広島の空をピカッとさせる》までの芸術作品の流れを見直し、時代とともに揺れ動いていく〈当事者/非当事者〉の問題について考えるという発表。
三人とも、根底では通じる部分があるものの、それぞれ異なる関心領域からの発表で、とりまとめて下さったコメンテーターの松永京子さん(北米先住民文学がご専門)には、ご苦労をおかけしたことと思います。

私自身、こうした学会発表のような形式はあまり経験したことがなく(原爆文学研究会にやっと慣れてきたというのに…)、戸惑い緊張したところもあったのですが、発表後、若い世代の研究者や大学院生にChim↑Pomについてさまざまな質問を頂いたりして、あらためて専門性を越えた交流の大切さなども考える機会となりました。

それにしても、Chim↑Pom。とりわけ若い世代の方々には、芸術という枠組みを越えて、気になる存在のようです。
12月8日から17日には、旧日本銀行広島支店で、ついに「広島!!!!!」展が実現します。2008年の「ピカッ」騒動以来、彼らにとっては待望の広島での本格的な発表です。
http://www.chimpom.jp/hiroshima2013.html
どのような展示ができあがるのか、私も広島に駆けつけて、しっかり見届けてこようと思っています。

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学会終了後は、全体の懇親会や二次会などで国内外の文学関係のさまざまな方とお会いし、問題意識を共有したりして、とても貴重な体験をさせて頂きました。
お世話になった皆様に、心から御礼を申し上げます。
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