2013/11/30

カマル社「3.11憲法研究会」にて  講演・発表

午後から、ルイス・キャロル研究などで知られる元『現代詩手帖』編集長・桑原茂夫さんのカマル社で開催された「3.11憲法研究会」に参加。
詩人の藤井貞和さんをはじめ、『現代詩手帖』編集長や大月書店の編集者などが集まり、毎月開催しているという小規模の研究会で、「非核芸術」についての発表をさせて頂きました。
たっぷり3時間ほどの時間をかけて、ひとつひとつの作品について感想を言ったり、意見交換をしたりという内容で、核表現の問題のみならず、秘密保護法をめぐる情勢なども視野に入れつつ考えを深める、非常に刺激的な体験でした。

藤井さんからは、『言葉と戦争』(大月書店、2007年)と『水素よ、炉心露出の詩 三月十一日のために』(大月書店、2013年)の2冊のご著書をいただきました。

クリックすると元のサイズで表示します

感謝の気持ちを込めて、『水素よ、炉心露出の詩 三月十一日のために』のあとがきより、以下を引用させていただきます。

==========

 詩の営為は予言力が必要な一方で、倫理的なかげりを帯びていつまでも揺曳するということがあると思います。逆に言えば、ここでいう詩とは、具体的な自由詩や短歌や俳句ばかりを言うのでなく、未曾有の災厄のまえでもあとでも、それに立ち向かい、表現を光らせ、また実現しえずとも、運命に直面して輝いた、すべての人間的な魂の営為をさしたいと思います。
 題名の『水素よ、炉心露出の詩』は、「水素爆発」をめぐり、原子力学者の不明朗な動きをとりわけ告発したくて、しつこく書きました。「専門」ということの横暴さが、こんなに進行している日本社会であることにおどろきました。今回は踏み込んでいませんが、経済効率を優先させて数字を操作し、原発の再稼働へ持ってゆこうとするカラクリに対して、もしだれも筆鋒を鈍くさせられている現代だとしたら、お札の樋口一葉ではないが、文学者にも出番があるように思います。一葉は最下層の人間にも経済倫理の導きがあることを作品にして、さまざまな巨悪と斗いました。
 原発を稼働する?
 稼働させることや、再稼働することが、福島県民にとり、どんなに心ない仕打ちか、逆に言えば、いま稼働させないこと、再稼働しないことが、福島県民にとり、県外からの支援となり、励ますことになるという、簡単な理屈をこの国のひとびとはわからないのでしょうか。原発推進をやめることが、かえって経済効果をもたらすというエコノミクスウへ向けて、なぜ足並みがそろわないのでしょうか。


==========

研究会に誘って下さった、『映画芸術』などの編集者で、古くからの知人の小林俊道さんに感謝。
以前に原爆文学研究会でお世話になった広島大学の水島裕雅さんに久しぶりにお会いできたのも、嬉しかったです。
1

2013/11/29

NHKさいたま局佐々さん来館/「日刊!さいたま〜ず」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

お昼に、NHKさいたま放送局の佐々久世キャスターが来館。
現在開催中の企画展「木下晋展 生命の旅路」を観てくださいました。

というのも、12月4日(水)午後6時から、NHKさいたま局の埼玉県内向けFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」(さいたま85.1MHz/秩父83.5MHz)に出演し、「木下晋展 生命の旅路」について紹介させていただくのです。

今回お願いしたリクエスト曲は、先日丸木美術館にも来てくださった、秩父前衛派のギタリスト笹久保伸さんとペルー出身のケチュア語の歌手イルマ・オスノの新作CD「アヤクーチョの雨」。
現在、音楽業界で絶賛されている注目の二人の、前衛とも民族音楽ともつかない音楽世界をお届けします。
ちょうど、佐々さんは、以前に笹久保さんが「日刊!さいたま〜ず」に出演されたときに担当されていたそうなので、打ち合わせも話が早く進みました。

埼玉県内にいらっしゃって、お時間のある方は、ぜひ、FMラジオをお聞きください。
1

2013/11/29

『東京新聞』に“「非核芸術案内」出版へ”記事掲載  掲載雑誌・新聞

2013年11月29日付『東京新聞』の「3.11後を生きる」欄に、“核は過去じゃなくなった――「非核芸術案内」出版へ”という見出しで、12月4日に刊行される岩波ブックレット『非核芸術案内 核はどう描かれてきたか』の紹介記事が掲載されました。

クリックすると元のサイズで表示します

取材して下さったのは、仁賀奈雅行編集委員。
出版直前のタイミングで掲載して下さって、本当に、ありがたいことです。
さっそく、記事を読んで下さった方々から反響が寄せられています。
ブックレットは600円+税という手ごろな値段設定なので、多くの方にお読み頂ければと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
3

2013/11/26

那須・増田常徳アトリエ訪問  調査・旅行・出張

宇都宮駅から烏山線に乗って、大金駅へ。
益子の関谷興仁さんのアトリエを訪れた9月に続いて、またもローカル鉄道の旅で、2014年3月に丸木美術館で個展を開催予定の増田常徳さんのアトリエに伺いました。

クリックすると元のサイズで表示します

駅には増田さんが車で迎えに来て下さり、さっそく、閑静な別荘地のなかにある増田さんのアトリエへ向かいました。

クリックすると元のサイズで表示します

天井までの高さが4mを越える立派なアトリエに、長年、増田さんの描いて来られた油彩画が整然とならんでいます。
長崎・五島出身の増田さんは、切支丹の弾圧や原爆、アウシュビッツなど、人間の不条理の歴史を、重厚な油彩画で表現されてきた画家なのです。

クリックすると元のサイズで表示します

そして近年は、「3.11」をテーマにした作品に取り組んでいます。
12月刊行の岩波ブックレット『非核芸術案内』にも、原発事故を主題にした増田さんの《浮遊する不条理》を紹介しています。
ふと見上げると、アトリエの壁には、2時46分を指したまま動かない時計が……。

クリックすると元のサイズで表示します

このアトリエのある那須も、あの日、相当激しく揺れたそうです。
増田さんはアトリエにはいらっしゃらなかったそうですが、建物の一部は破損し、食器類も飛び散り、時計は床に落ちて壊れてしまったとのこと。
その時間を指したまま壊れた時計を、増田さんは今もアトリエに飾っているのです。

クリックすると元のサイズで表示します

個展の打ち合わせをして、お手製の親子丼をいただき、濃密な時間を過ごすことができました。
3月からの増田さんの展覧会が、ますます楽しみになりました。
4

2013/11/25

森美術館「六本木クロッシング2013展」  他館企画など

休館日ではありましたが、朝から都内に出て、原稿執筆やブックレット宣伝の打ち合わせで一日バタバタと動き回っていました。
その合間に、ようやく、森美術館で開催されている「六本木クロッシング2013展:アウト・オブ・ダウト―来るべき風景のために」を観ることができました。

クリックすると元のサイズで表示します

今回の展示は、「3.11」後を意識した企画ということもあるのですが、個人的に関わりの深い作家が何人も選ばれているというのが大きな特徴です。
丸木美術館という、時代の潮流とかけ離れた(と思われる)場所で働いているので、その対極に位置する(と思われる)森美術館の企画とシンクロする日が来ようとは、少し前まで夢にも思わなかったのですが、いざそれが実現してみると、なかなか複雑な心境ではあります。
時代が丸木美術館に近づいてきたのか……もっとも、その割に丸木美術館の入館者が増えているわけではないので、悩ましいのですが。

クリックすると元のサイズで表示します

最初の部屋に展示されていたのは、今年2月に『東京新聞』の連載「非核芸術案内」で紹介させていただいた風間サチコさんの版画作品。《獄門核分裂235》は、12月に刊行される岩波ブックレットにも図版入りで紹介しています。

クリックすると元のサイズで表示します

さらに進んでいくと、昨夏に丸木美術館で個展を開催した新井卓さんの銀板写真の展示室が。今展で発表した新作は、「極小のモニュメント」と彼が位置づける銀板写真によって、巨大な核被害のモニュメントでもある第五福竜丸の船体を、多焦点的に撮影するという試みです。

クリックすると元のサイズで表示します

そして今年3月に丸木美術館で個展を開催した遠藤一郎くんの「未来へ丸」の展示もありました。黄色い小型バス「未来へ号」で日本全国を旅している遠藤くん、次なる挑戦は、和船「未来へ丸」に乗って海に漕ぎ出すことのようです。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、各地の戦争遺跡を写真に撮り続けている美術家の下道基行さんの作品も、興味深く観ました。下道さんとは直接面識はありませんが、某新聞社で、丸木俊の戦時中の作品と下道さんの関わる企画が進行中なので、どのような展開になるのか、楽しみにしています。
2

2013/11/24

Ring-Bongリーディング「闇のうつつに 我か我かは」in KEN  館外展・関連企画

午後4時から、三軒茶屋のKENにて、演劇集団Ring-Bongのリーディング公演「闇のうつつに 我か我かは」が行われました。

この作品は、Ring-Bongを主宰する文学座女優・劇作家の山谷典子さんがラジオドラマのために執筆した朗読劇です。
丸木美術館のロケーションや原爆の図第12部《とうろう流し》をモデルにしつつ、原爆を東京大空襲に置き換え、登場人物もすべて架空の人物として、丸木夫妻の作品とはまったく別の物語に仕上げています。
もともとジャーナリスト志望だったという山谷さんは、台本執筆の前に綿密な資料調査をすることでも定評があり、今回は私も池袋モンパルナスや戦争画に関する資料をいくつか彼女にお貸ししていました。

出演は《とうろう流し》を描いた女流画家・恩田さき役を演じた山谷さんをはじめ、小笠原良知さん(美術館を訪れる謎の老人役)、辻輝猛さん(美術館の学芸員役)、福田絵里さん(美術館のボランティア役)の4名。演出は丸木美術館の近くにご実家があり、以前からたびたび丸木美術館を訪れていたという小笠原響さんが手がけてくださいました。

戦争の時代と現代を行きつ戻りつしながら、《とうろう流し》の絵の謎を解き、それぞれの登場人物の抱えている悩みや葛藤を重ね合わせていく濃密な50分間。
リーディング公演終了後の会場からは、「朗読劇で涙を流すとは思わなかった」「一度きりの公演ではもったいないから、ぜひ再演をやって欲しい」という声も聞こえてきました。

   *   *   *

クリックすると元のサイズで表示します

休憩をはさんで第2部では、私が聞き手をつとめながら、山谷さんをはじめ出演者の皆さまとのアフタートークを行いました。
トークのはじめには、これまでにRing-Bongが行ってきた公演―2010年の『櫻の木の上 櫻の木の下』、2011年の『名も知らぬ遠き島より』、2012年の『あとに先立つうたかたの』という3本の作品のダイジェスト映像も紹介しました。

クリックすると元のサイズで表示します

いずれも山谷さんが執筆を手がけた作品で、いずれも過去(戦時中または戦後すぐ)と現在を行き来するという共通点があります。

「私の中で、ひとつの問題を考えるときに、そのことだけ考えても答えが見つからないという思いがあるんですね。社会という大きな問題を考える上では親子や家族から見ていった方が答えが見つかるのではないか。現代は過去から照射したらどうなるのか。逆のものを眺めたいっていう思いがありますね」と語る山谷さん。

そうした思いが、困難なテーマに向き合いながら、人間の普遍性に迫る瑞々しい感覚の作品につながっていくのだということを、あらためて考えさせられました。

ご来場くださった皆さまをはじめ、会場提供・運営にご協力くださったKENのスタッフには、本当に御礼を申し上げます。
そして、最後に会場から感動的な挨拶をしてくれた、劇中人物のモデルにもなった丸木美術館ボランティア/文学座演出助手の神田成美さんにも、心から拍手を送ります。彼女が山谷さんを引き合わせてくれたことで、今回の素晴らしい作品が生まれてきました。
きっと彼女にとっては、深く思い出に残る作品になったのではないかと思います。

   *   *   *

次回のRing-Bong公演『しろたへの春 契りきな』は2014年1月18日から26日まで、小竹向原のサイスタジオコモネAスタジオにて。
ソウルにある西大門刑務所の受刑者の記録写真を撮影する写真技師の家族を主人公に、1940年代の日本統治下の京城、1970年代のソウル、現代の東京を舞台にした物語です。
日本と韓国のあいだに困難な問題が横たわる今の時代だからこそ、ともに考え続けていきたい、見逃せない内容の作品になるのではないかと期待しています。
2

2013/11/19

岩波ブックレット『非核芸術案内』刊行のお知らせ  執筆原稿

本日、午前中に岩波書店へ伺い、12月4日に刊行される岩波ブックレットNo.887『非核芸術案内 核はどう表現されてきたのか』の色校正を行いました。
最後の画像使用の許可もどうにか間に合い、これで校正作業はすべて終了しました。
お世話になった編集者のYさんには、本当に心から感謝です。

==========

クリックすると元のサイズで表示します

岩波ブックレットNo.887 非核芸術案内 核はどう描かれてきたか
 岡村幸宣 定価(本体600円+税)

広島・長崎から福島まで
忘却に抗い、核の脅威を視覚化し続けてきた「非核芸術」の系譜をたどる
【カラー図版多数】

丸木位里・俊《原爆の図》、ベン・シャーン《ラッキー・ドラゴン・シリーズ》、こうの史代『夕凪の街 桜の国』、ヤノベケンジ《サン・チャイルド》――1945年の広島・長崎への原爆投下から2011年の福島原発事故まで、核はどのように表現されてきたのか。忘却に抗い、核の脅威を視覚化し続けてきた「非核芸術」の系譜をたどり、人間と核との関係をあらためて問い直す。


==========

表紙に使用されているのは、原爆の図第3部《水》の母子像の部分。
広島・長崎の原爆投下から第五福竜丸の被ばく事件、チェルノブイリ原発事故、そして「3.11」後という4つの大きな章のなかで、全部で45点の作品画像(ほとんどがカラー図版)を紹介する内容です。

全国の書店はもちろん、丸木美術館でも取扱いますので、ぜひ、多くの方にご覧いただければと思っています。
ネットでの注文も、徐々に可能になってきているようです。
http://www.bookservice.jp/ItemDetail?cmId=6039989
4

2013/11/16

木下晋展オープニングトーク  企画展

午後2時から、「木下晋展 生命の旅路」のオープニングトークが行われました。
会場には約30人の参加者が訪れ、熱心に木下さんのお話に耳を傾けて下さいました。
トークの最後には、特別ゲストとして、映画『おくりびと』の原作となったことで知られる『納棺夫日記』の作家・青木新門さんもお話して下さいました。
以下に、そのトークの内容を抄録でお伝えいたします。

   *   *   *

クリックすると元のサイズで表示します

絵本『はじめての旅』について――
映画『砂の器』を見て懐かしさを覚えたんです。でも、なぜ懐かしいのか、わからなかった。
母に聞くと、5歳の頃に富山から奈良の吉野まで旅をしたという。
母はぼくが物心ついた頃から放浪生活をしていたから、母のもとで育った記憶がない。
3歳のときに火事で家が全焼して山小屋で生活するんですが、弟が餓死するような暮らしで、母はそこから逃れて家出するようになりました。
もっぱら連れて行かれたのは兄だったけど、ぼくもたった1回、野宿しながら奈良まで1ヶ月歩いてね。その後、自分のたどった道を取材したけど、とても5歳の子には無理だと思った。その体験はトラウマになって、記憶から消えてしまったんです。
『砂の器』はハンセン病の親子が隔離政策を逃れて逃避行する映画で、自分は後にハンセン病を描くことになるんですが、不思議な縁ですね。
なぜ奈良に行ったかというと、母の最初の結婚相手が吉野の落人の部落出身で、そのお墓まで連れて行かれたんです。
ただ、ぼくの旅の記憶は定かでないし、小学校5年のときに兼六園に遠足に行って撮ったのが一番古い写真だったので、自分の5歳のときの顔もわからない。だから、山の部落に住んでいた老人たちに自分がどんな顔だったか聞きました。それから当時の風俗や子どもたちの顔の写真を調べて、自分の顔を考えた。その写真を部落の老人に見せて、イメージを作っていったんです。若い頃の母の顔もわからないから、妻にモデルになってもらって描きました。

クリックすると元のサイズで表示します

人生の転機――
最初の転機は、小学校4年。母を追って富山の町をさまよい、パンを盗んで少年相談所に入れられた。ぼくは身元を答えず、親父も会おうとしなかった。
そのうちに校長先生が会いに来て、忘れたように『ああ無情』の本を置いていったんです。読んでみると、パンを盗んだジャン・バルジャンの物語だった。ああ、俺と同じ奴がいると思いながら一気に読んだ。その後も、校長先生は来るたびに児童文学の本を置いていった。
そのときが一生で一番本を読んだかもしれない。その校長先生がいなければ、今の方向には進んでいなかったかもしれませんね。
それから中学2年のとき、女の先生に誘われて、夏休み中に彫塑を作った。きれいな先生だったのと、給食代わりにラーメンを食べさせてくれたことに惹かれたんです。
その彫塑を持って富山大学に行った。今でいう市民講座のような雰囲気で、いろんな専門分野の先生が集まって、中学生の彫塑のとなりにロダンを並べたりして、それが凄く勉強になった。
ただ、彫塑は学校でしかできない。家でできるのは絵だった。生活保護家庭だったので、画材は買えない。工事現場からベニヤをとってきて木枠を作り、クレヨンの屑を拾ってきて、油絵具の代用としてクレヨンを使った。目の粗いベニヤにクレヨンを埋め込んでいくと、思わぬマチエールができる。絵はマチエールが大事ですからね。そうして描いたのがデビュー作《起つ》でした。
絵を荒縄で縛って夜行で東京に持っていったが、重いので帰りは捨てていこうと思うくらいだった。すると会いに行った麻生三郎が「今ちょうど自由美術が受付している。この作品なら入るんじゃないか」と言うんです。受付の人も「これなら入るから預かりましょう」と言ってくれた。ぼくは、絵を持って帰らずにすむので清々しました。
それから1週間して、高校の授業中に担任の先生が血相変えて飛び込んできた。「木下、お前何を悪いことしたんだ」と言うわけです。
職員室に連れて行かれたら、自由美術展入選の記者会見場になっていた。会場に入る前に、自由美術に落ち続けていた美術の先生が「おれに習ったことにしてくれ」とお願いしてきましたよ。
富山県内では史上最年少だったので、一時的に甲子園の優勝投手のように騒がれて、勘違いもしたが、人の噂は10日で終わりました。そのときに絵も売れたんですよ。絵なんて売れると思っていないじゃないですか。高岡の職人でしたが、その方が亡くなった時に、ご家族に頼まれて絵は買い戻しました。

油絵への葛藤――
もともと、ゴッホやスーチンの影響を受けて、色に憧れがあったんですよ。
富山は、沖縄や南洋の島々みたいに派手な色彩の光景ではないんですね。だから、なおさら色彩に対する憧れがあるんだけど、こればかりは素質の問題だから。色を極めようとすると、どうしても同系色になって、色の壁にぶちあたるんですね。
それから、当時ぼくはニューヨークに油絵を持って行って、世界のアートシーンでデビューしようと思っていた。テクニックには自信があったんですよ。
ニューヨークは日本と違って実力の世界で、偉い先生の紹介がないから見てやらんということはない。世界的な画商も自分の目で見て選ぶ。
たとえば当時、キース・ヘリングがいた。まだデビューする前で、あの頃は宿にあぶれた黒人や白人が地下鉄で落書きをしてるんですよ。でも、アートとして見ると表現力が弱いんですね。ところがキース・ヘリングは、ぼくも見に行ったけれど、全然違うんですね。それから一気に世界的な作家になって、すぐにエイズで死んでしまうんですが、そうしたダイナミズムが当時のニューヨークにはあった。
テクニックの問題ではなく、オリジナリティがあれば世界デビューできる。
でも、そういう意味では、こっちは完全にだめなんだね。ヨーロッパの前近代の伝統の中でしか描いてないから、評価の対象にならない。
そこでオリジナリティとは何か、と自分なりに考えて、ニューヨークにないものを探して回った。
それが鉛筆画だった。鉛筆画もないわけではないですよ。でも版画と見間違うような小品しかなかった。
鉛筆は一番知られている画材ですが、ぼくは1本の鉛筆で筆圧を変えて表現するのではいかんと思った。
当時、共通規格で9Hから6Bまでの鉛筆が出ていたから、絵具のような色見本を手に入れようとしたが、人によって筆圧が違うから色見本がない。だから、自分で17段階の濃淡のヴァリエーションを作ったんですよ。そうすると、HBならHB、あるいは9Hや6Bの美しさを発見するわけですね。ぼくは油絵の作家だから、絵具を選択してパレットで調合してキャンバスにのせる。そのプロセスを鉛筆でやることにした。
それと、机の上ではなく、キャンバスをイーゼルに立てて描くようにしたら、自分のイメージに近く描けるようになった。

クリックすると元のサイズで表示します

小林ハルとの出会い――
その頃出会った小林ハルの存在は大きかった。
彼女は生後100日で盲目になった。でも話を聞いていると、色彩を感じるんですよ。
ぼくは小林ハルさんに絵を教えてもらった。あの人に絵の資質はないですよ。だけど、ひとつのことを極めた人は、すべてに共通するんですね。ぼくも含めて巷にいる人たちは、絵を描いているようで描いていない。
ハルさんの話は古い新潟方言でほとんど理解できないけど、三分の一くらいは何となくわかる。あの人たちは三味線を弾きながら瞽女歌を歌い、語り部でもあり、シャーマン的な力もある。瞽女が村に行くと蚕が糸を吐くとか、必ずしも虐げられているだけではない。むしろ大切にされて、同時に近隣の情報も運んでいく。表現の能力が凄いんですよ。
視覚に頼るということは、照明が変わるとまったく見方が変わってしまう、その程度でしかないわけですよ。人間の五感、ハルさんの場合は視覚を奪われて残った四つの感覚を駆使すれば、私たちが見ている気になっているものよりも、ものを見ることができる。
当時、ぼくは2、3年でまた油絵に戻ろうと思っていた。今でも画材は使えるようにしてありますよ。でも、もう油絵は使わんでしょうね。
小林ハルさんとの出会いはまったくの偶然でした。1981年5月に帰国したとき、現代画廊の洲之内徹が新潟の山奥の温泉宿に連れて行ってくれた。ところがバスに乗り遅れて東京に帰れなくなって、宿の主人から「瞽女歌があるから聴いていきな」と言われて。
瞽女を知らなかったから、小唄端唄とか都々逸だったら嫌だなと、いつでも逃げ出せるように端の方に座っていた。そしたら、ハルさんが「葛の葉子別れ」という代表的な瞽女歌の第一声を放ったときに、障子がビリビリと揺れた。今まで聞いたことのない音域だった。何を歌っているかわからないけれども、心臓を掴まれたようだった。5、6曲終わったとき、こちらは精も根も疲れ果てていた。
そのあと、「佐渡おけさ」をやったんです。それが決定的だったのは、冬に佐渡へフェリーに乗って行ったときの荒波を彷彿とさせる「佐渡おけさ」だったんです。そうなると、東京に戻っても、寝ても覚めても小林ハルですよ。

クリックすると元のサイズで表示します

母親を描く――
要するに、ぼくは絵を描くというよりも、人を知りたいわけですよね。
最初はモデルになってくれるのは家族しかいないんですよ。知った人間しか描けない。
小林ハルの前に、自分の母親を描きはじめたんです。この母親が普通の人じゃないわけです。幼い頃は母親を慕っていくけれども、大人になると憎しみの対象ですよ。俺がこうなったのもみんな母親が悪いんだ、と。
そんな思いでいたところに、ニューヨークで荒川修作と出会って、「君のアイデンティティは何か」と言うので、母親のことや自分の境涯を語ったんですね。
それまで自分にとってコンプレックスでしかなかった記憶を、荒川は「君は芸術家として最高の環境に生まれ育ったんだ」と言った。「しかるに君は、何をこの絵で言いたいのか」と。相手は世界的作家ですよ。そんな人に、おれの絵見りゃわかるだろ、なんて言えたものではない。立て続けに「君はもっとお母さんを描け。ただ描くだけじゃだめだ。どうせ君の親子関係は無茶苦茶になっているだろうから、修復してお母さんの話を聞け。そしてそれを文章に描け」と言われました。
最初は、ちゃんと親子関係になれるわけがない。でも絵を描くうちに、問わず語りに、いろんなことを聞き出せるんですよ。それまでは忌まわしいだけの存在だったのが、この人にかなわんなと思うようになった。そういう下地があったから、ハルさんと向き合っても、それほど気後れせずにすんだんでしょう。
母にしても、小林ハルさんや桜井哲夫さんにしても、キーワードは、孤独だったですね。われわれが考えている孤独とは全然違うんですよ。あの人たち、例えて言うなら神に選ばれている。
本当は絵なんて描かなくてもいい。必ず断られましたよ。桜井さんにも、小林さんにも、説得するのに1年以上かかった。でも、説得するために1年かけたのではないんですよ。
ぼくは、とにかく話を聞きたい。知りたい。そのために行った。そのうちに彼らはモデルになってもいい、と言ってくれた。
体全体から出てくる孤独。そういう人たちのことを知るのは、自分の心の安定にもつながりますね。信じていいものが目の前にあるわけじゃないですか。人間は誰かを信じなければ生きていけないから、ぼくにとってはそういう人たちがそうだったということですね。絵を描くことは、それほど……もちろん絵描きだから描きますけどね。

丸木夫妻の仕事を観て――
ぼくは最初、拒否反応に近かったんですよ。
ところが、丸木夫妻の概念のフィルターを外すと、絵がエロティックなんですよ。本当にすごいですよ、あのエロティックさは。聖と俗がひしめきあって緊張感を生んでいる。
位里さんは非常に女性好きで、モテもしたわけで、彼の自慢話も聞きましたよ。だけど、それとは違いますね。たぶん、彼と俊さんは、命懸けで向かってるわけですよ。だから、こういうものが出てくるわけですね。
最初からエロティックに描こうとすると、くだらん日本画家と同じになってしまう。あんなものはエロティックではない。だけど、丸木さんには芸術の美がある。究極の状態に自分を追い込んでいるわけです。だからこそ、フィルターを外すと凄い。アートってそんなもんですよ。

クリックすると元のサイズで表示します

特別ゲスト・青木新門さんのお話――
いまから50年前、私は富山でパブみたいなことやっていたんですね。そこへ17歳の彼が店に入ってきたんです。ちょうど16歳で自由美術に最年少に入選して、ぼくは知らなかったんだけど、美術の詳しい放送局の知人から「デッサンの天才なんだ」と聞いたんですね。
それが最初の出会いです。
それから2、3年して、私の店で今の奥さんと駆け落ちの相談をしてどっか行っていなくなっちゃった。しばらくたって私の店は倒産して、葬儀屋に務めて納棺夫に成り下がりまして、その体験を『納棺夫日記』に著しまして、本を出してすぐに彼から電話がかかってきたんです。それから、東京のストライプハウス美術館で対談をやりまして、以来、彼の展覧会を見続けております。
納棺をしておりまして、非常にいい顔をして亡くなった人の最後を聞きますと、だいたい「ありがとう」と言って亡くなった人の顔がいいんですね。そのときの「ありがとう」は、マクドナルドのお客さんへの「ありがとう」とはレベルが違いまして、人生すべての重みが濃縮されているんですね。
木下くんの絵も、中には初めて絵を見た方はドキっとなさると思うんですね。なぜかと申しますと、仏教では生病老死という、それが四苦であると捉えますね。その老病死を隠して、生のみに価値を置いて生きている人は、木下くんの絵を見るとドキっとする。木下くんの絵には、人生を濃縮したものがある。私が『納棺夫日記』に描きました「ありがとう」に凝縮されているものと、木下くんの鉛筆の凝縮は同じだなと、そういう感じがする。
美にまで昇華するということは、ものを「まるごと認める」ということに通じるんですよ。
皆、まるごと認めないで、青春は美しく、老病死は忌み嫌うものという感覚になっている。
木下くんの絵に「光」があることに、私は非常に共感いたしまして、絵を追いかけ続けています。
2

2013/11/12

Ring-Bongリーディング「闇のうつつに 我か我かは」予告  館外展・関連企画

いよいよ「木下晋展 生命の旅路」がはじまりました。
初日の今日は、県内の私立女子高校などの団体が来館し、館内説明を4回行うなどあわただしい一日になりました。
展示作業の仕上げや片付けなども残っていたのですが、事務局のYさんやボランティアのHさんが一日がかりで手伝って下さり、たいへん助かりました。

   *   *   *

夜は都内の稽古場で、演劇集団Ring-Bongのリーディング公演「闇のうつつに 我か我かは」の稽古を見学しました。
この作品は、Ring-Bongを主宰する文学座女優・劇作家の山谷典子さんがラジオドラマのために作られた朗読劇で、丸木美術館と原爆の図第12部《とうろう流し》をモデルにしています。
といっても、ドラマの設定の際に原爆を東京大空襲に置き換え、登場人物もすべて架空の人物ですので、丸木夫妻の作品とはまったく別の物語に仕上げられています。

山谷さんの得意とする、過去と現在を重ね合わせて、異なる歴史軸のなかから現代の問題をあぶり出す力作。登場人物の誰もが自らの状況に葛藤を抱えていながら、しかし、美しく昇華されていく物語の構成が見事です。
公演は、11月24日(日)午後4時に、三軒茶屋のKENで行われます。

現代社会を見つめる芸術表現を紹介する岡村企画の第3弾。
第2部では、アフタートークとして、山谷さんの作品への思いをお聞きします。
2014年1月に公演予定の次回作「しろたへの春 ちぎりきな」では、日韓の植民地支配の歴史を主題にするそうです。その見どころも、お聞きできればと思っています。
会場のKENは収容人数に限りがあるので、ご来場下さる方には、事前予約をお勧めします。

http://www.kenawazu.com/2013/10/post-29.html

=====

「闇のうつつに 我か我かは」 Ring-Bong リーディングの夕べ

日時:11月24日(日)15時半開場/16時開演

第1部 リーディング公演「闇のうつつに 我か我かは」
第2部 アフタートーク 岡村幸宣(丸木美術館学芸員)×山谷典子(演劇集団Ring-Bong主宰)

第1部
出演:小笠原良知 辻 輝猛 福田絵里 山谷典子
作:山谷典子
演出:小笠原 響
企画:岡村幸宣
制作:Ring-Bong

奥武蔵の川を見下ろす丘の上に建つ小さな美術館。
そこに一人の老人が訪れる。
かつて彼は東京大空襲で家族を失い、
同じく空襲で家族を失った一人の女性画家と、この地で出会ったのだった。
「闇のうつつの出来事は、私には夢のようにも思えます・・・」
現代と昭和二十年。
二つの時代を、物語は交錯していく。
生きること、信じること、家族とは、国とは・・・

チケット
2,000円(前売・当日とも)
10/10(木)より予約開始

ご予約・お問い合わせ
 070-6977-0271 ※11/24当日のみ 03-3795-1778(KEN直通)

歴史は繰り返す。
そう言われることは多いけど、本当の意味で繰り返された歴史は一度もないはずだ。
歴史は決して繰り返さない。
とはいえ、異なる時代に似たような状況を見出すことはできる。
過去は未来を照らし出す鑑(かがみ)でもある。
歴史を学ぶということは、生きるための道標を学ぶということだ。
演劇集団Ring-Bong の舞台を、これまでに3度観た。
主宰者である 山谷典子の紡ぎ出す物語は、先の戦争と今の時代を行きつ戻りつしながら、
重く複雑な主題を私たちの日常と重ね合わせていく。
人は生まれてくる時代を選ぶことはできない。
けれども、いつの時代にあっても、人はそれぞれの運命に流されながら、
歌い、笑い、憤り、泣き、奔り、過ちを犯し、そして赦し、赦され、
ただごとでない生を、精一杯に生き切っていく。
悲しみや苦しみにあふれた歴史を知り、明日を生きる糧とすること。
若い演劇人たちの繊細かつ骨太な試みを、これからも見届けていきたい。

原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣


=====
1

2013/11/11

「3.11を心に刻んで」/田代一倫写真展  他館企画など

岩波書店のWEBサイト「3.11を心に刻んで」11月11日更新分に、丸木美術館とも関わりのある小沢節子さん(歴史家)、斉藤とも子さん(女優)が執筆をされました。
お二人とも、それぞれの視点から、とても心に沁みる内容をお書きになっています。

   *   *   *

思うに、特定の状況に対して怒ることのできる能力は、人間の能力のなかでも大切なものの一つであろう。老いてその感情の衰えないことを、私は願う。
(加藤周一「怒る事の大切さまたは『金芝河詩集』の事」(1975)『加藤周一自選集5』)

小沢節子さんは、加藤周一の言葉を紹介しながら、3.11後の悲しみを、元第五福竜丸乗組員の大石又七さんについて考え、書くことで乗り切ったと書かれています。
(全文はこちらのページからご覧になれます)
http://www.iwanami.co.jp/311/DOCs/1311a.html

   *   *   *

美味しいものを食べた時、いい音楽を聴いた時、美しい絵を見た時、亡くなった友達のことを思い出すの……(中略)……。そして最後に思うの。「生きていてよかった。ありがとう」って。
(広島の被爆者Mさん(84歳)の言葉)

斉藤とも子さんが紹介されたのは、被爆者Mさんの言葉。福島の子どもたちが差別を受けているという話を聞き、「我が身のことのように思いをよせ、命をかけても応援したいと思っている」広島の被爆者の人たちがいるという話を書かれています。
http://www.iwanami.co.jp/311/DOCs/1311b.html

   *   *   *

今日は休館日でしたが、午前中に都内へ出て、12月4日に岩波書店より刊行予定のブックレット『非核芸術案内 核はどう表現されてきたか』のため、新聞社の取材を受けました。

その後は新宿のphotographers'galleryで開催中の田代一倫写真展「はまゆりの頃に 2013年春」を観ました。

クリックすると元のサイズで表示します

「3.11」以後、東北を巡りながら、仮設住宅や避難先で暮らす人々、原発労働に従事する人々、山間部や都市部で暮らす人々などと会話をしながらポートレートを撮影し続けてきた若い写真家の展覧会です。
炭坑展でお世話になった写真家の萩原義弘さんに勧められて足を運んだのですが、被災地に生きる人の姿をたんたんと撮り、短い言葉で記録する制作姿勢が興味深く、里山社より刊行されたばかりの写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011〜2013年』も購入しました。
展覧会は11月24日まで。
3

2013/11/10

「木下晋展」展示作業  企画展

土曜日は、ボランティアのSさんにお手伝いいただき、一日がかりで「木下晋展 生命の旅路」出品作品のの写真撮影。今回は、来年春に沖縄県立博物館・美術館に巡回することもあって、図録代わりの小冊子を制作します。
現在、編集作業を進めていますが、展覧会オープンには間に合わないので、木下さんのオープニングトークの内容の抄録を掲載しようと考えています。
小冊子の完成は11月末か12月はじめの予定です。

   *   *   *

今日は、近くのM建設から工事現場用の足場をお借りして、午前中に「平野正樹展」の撤去作業を行いました。
そして午後からは「木下晋展」の展示作業というハードスケジュールでしたが、ボランティアのMくん、Hさん、Kさん、Fさんらの大活躍によって、何とか展示の目処がたちました。

クリックすると元のサイズで表示します

木下晋さんといえば、「最後の瞽女」と呼ばれた小林ハルさんや元ハンセン病の詩人桜井哲夫さんらを描いた細密かつ大画面の鉛筆画が知られています。
もちろん、今回の展示も、近年の「合掌図」をはじめ鉛筆画の代表的なモチーフをひととおり揃えているのですが、それだけでなく、80年代以前の油彩画や最初期のクレヨン画を紹介し、木下さんのこれまでの画業を俯瞰しているのが特徴です。

クリックすると元のサイズで表示します

今回は1階の3部屋を展示に使用したのですが、それぞれの部屋で色彩の印象がまったく異なるように工夫しました。
最初期の作品はクレヨンなどを用いてベニヤに描かれた作品が多く、全体的に青い色彩で統一されてます。木下晋版「青の時代」といったところでしょうか。
シュルレアリスム風の作品が多く、展示を手伝ってくれた画家のMくんも「いいですね」と気に入った様子。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、2番目の部屋は母子像を中心に家族の肖像を描いた作品がならび、黄色が強く印象に残ります。ピカソの「バラ色の時代」ならぬ、木下さんの「黄色の時代」です。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、最後の大きな展示室は鉛筆画のモノクロームの世界。
ひとつひとつの部屋を巡りながら、木下さんの精神世界をくぐり抜けていくような、不思議な感覚を覚えます。
ともかく、この圧倒的な迫力を、ぜひ多くの方に体験していただきたいものです。

11月16日(土)午後2時からは、木下晋さんをお迎えして、オープニングトークを開催します。
皆さまのご来場をお待ちしています。
1

2013/11/7

銀林美恵子さんの訃報  その他

長年、丸木美術館を支えて下さった、銀林美恵子さんがお亡くなりになったという知らせを聞いたのは、今月4日のことでした。
銀林さんは長年江戸川区で被爆者運動に関わり、滝野公園にある原爆犠牲者追悼碑の建立に尽力されました。以前、銀林さんから掲載のご許可をいただいた文章を、再掲します。

=====

平和の願いが鳩になって世界に飛び立った日
―原爆犠牲者の追悼碑・鳩と母子像ができるまで―
銀林美恵子(江戸川区原爆被害者の会副会長/丸木美術館理事)

東京の下町江戸川区には区立公園の一角に、ユニークな原爆犠牲者追悼碑が建っています。「原爆の図」で世界的に著名な故丸木位里・俊夫妻が描く「鳩と母子像」の図柄が浮き立つような緑色の石碑です。

この碑建立までの経緯ですが、26年前区内の三人の住職から、江戸川の被爆者の会に「37回忌に何かを・・・・・・」との申し出があったのがきっかけです。三ヶ寺回り持ちでお寺さんと親江会の役員が毎月集まり相談を重ねました。その頃、私は知人から丸木夫妻を紹介され、広島でともに被爆した友達2人を誘って、初めて丸木美術館にでかけました。東京から1時間余りのところにこんな美しい自然があるのかと驚くような環境です。鶏や山羊も庭を歩いていました。すぐ下に川が流れ、林の中に美術館があり15点の大作「原爆の図」の殆どが展示されています。ご夫妻のアトリエは囲炉裏のある古い日本家屋、そこで、山羊の乳からつくったチーズと焼きたてのパンに山羊のミルクをご馳走になったその日のことは忘れられません。原爆のすごい絵を描かれた偉い先生にお会いする前の緊張でこちこちになっていた私たちでしたが、初めてお会いした時からすぐ打ち解け、すっかり丸木ファンになってしまいました。直接丸木夫妻に絵を描いていただき、被爆者や多くの市民たちで彫る手作りの碑を作りたいという想いで一杯になり江戸川にその話を持ち帰りました。

江戸川の「碑を建立する会」がその方向で活発に動きはじめ、石屋さんに適当な自然石を探すことを依頼し、碑の設置場所としては区長の協力も得て葛西駅近くの区立滝野公園に決めました。1981年4月12日、待望の「ノミ入れ式」。四国から運ばれてきた縦横2メートルの自然石を前に、丸木夫妻を囲んでの集まり。はじめ俊先生が、筆に墨汁を含ませて、母子像を子どもの目から、丁寧に描いていかれました。集まった人々が、固唾をのんでみまもっています。お母さんの髪が長く優しく象徴的に描かれた後、筆が位里先生の方へバトンタッチされました。しばらく、石をにらんでおられましたが、描きはじめるといかにも男性的な勢いで、大胆に母子像を囲む大きな鳩を一気にかき終えられました。皆の目が石に吸い付けられるようなひと時、とても80歳のご老体とは信じられません。参加者一同、平和への願いを込めて石の絵にノミを入れました。「この絵は原爆で亡くなった子どもたちが、鳩に生まれ変わって、世界に平和を訴えている図です。」と話される俊さんのお顔はさわやかでした。

その後約1ヶ月、石を彫る作業が続き色塗りも自分たちでして完成、公園に運ばれて7月26日、除幕式を兼ねた第1回江戸川原爆犠牲者追悼式が開かれました。それから25年、毎年7月末に追悼式が碑前で開かれる他、デモ行進の出発点や終結点になり、韓国の被爆者やチェルノブイリ支援で招いたキエフの子どもたちを案内したりなど、戦争・平和を考える反戦・反核の拠点として滝野公園は定着しています。

この碑に寄せる人々の願いが鳩になって世界に飛び立つことを願っての活動です。

(『ぴーす・ぴあ』2005年初夏号 No.104より)

=====

クリックすると元のサイズで表示します

私がこの追悼碑を訪れたのは、2009年11月21日のこと。
銀林さんに「どうしても追悼碑を案内しておきたい」とお声掛け頂き、江戸川区に伺ったのでした。そのときの記録は、「丸木美術館学芸員日誌」に記しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1275.html

リューマチを患っていた銀林さんは、ご自分で自由に動くことのできる最後の時期だということを、覚悟されていらっしゃったのでしょう。銀林さんが施設に入所されたという知らせを聞いたのは、その翌年のことでした。

   *   *   *

穏やかな人柄で、誰にでも優しい姿勢で接して下さる銀林さんは、決して多くはない丸木美術館の給料で生活をしている私たち家族のことも、ずっと気にかけて下さっていました。

今日は午後から全国の平和博物館の関係者が丸木美術館を訪れ、館内説明を行いましたが、その後、急いで小岩で行われたお通夜に駆けつけました。
安らかにお眠りになる銀林さんのお顔を見ることができて、胸のつまる思いがしました。
銀林さん、本当にありがとうございました。
これからも、丸木美術館を見守っていてください。
1

2013/11/2

第36回日本スリーデーマーチ  イベント

毎年恒例の「日本スリーデーマーチ」。
東松山市を中心に、周辺の比企丘陵を舞台にした国際的なウォーキングイベントです。
第36回を迎えた今年も、好天に恵まれ、大勢の方が参加されていました。

クリックすると元のサイズで表示します

初日のコースに設定されている丸木美術館も、ボランティアの方々を中心に、仮設テントの下でリンゴジュースを販売しました。

クリックすると元のサイズで表示します

また、地元の方々が出店し、ソフトクリームやコーヒー、甘酒などを販売していました。

クリックすると元のサイズで表示します

黒糖チャイなどのお店も人気でした。

クリックすると元のサイズで表示します

そして、地元の観光ボランティアの方々による「丸木美術館ボランティアガイド」も熱心に行われていました。今年で2回目となる試みですが、今回は中学生のボランティアも参加して、ガイドの呼び込みをしていました。

あくまでウォーキング中心のイベントなので、美術館に入場される方がそれほど多いというわけではないのですが、それでも、地元の方々とも交流を深めることのできる、丸木美術館にとっては年に1度の大事な機会です。
ご来館くださった方々、そしてボランティアなどでご協力くださった皆様には、心からお礼を申し上げます。
1



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ