2013/8/31

和泉舞独舞公演「原爆の図 第六部 原子野」  館外展・関連企画

夕方6時半から、町田市の勝楽寺にて、和泉舞さんの独舞「原爆の図 第六部 原子野」を鑑賞しました。

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和泉さんは、原爆の図全15部作の舞踏化をライフワークにされている舞踏家です。
一昨年、「3.11」を機に、6年ぶりに第4部「虹」の公演を行って以来、今回が3年連続の公演となります。

和泉さんの舞踏は、丸木夫妻の共同制作をベースにしながらも、多くの方の原爆体験に耳を傾け、資料を読み込み、それらのなかから浮かび上がる物語を抽象化して身体表現に結びつけています。光や音を効果的に使いながら、舞踏としては物語性を感じさせるつくりになっているのも特徴です。
しかし、今回の《原子野》は、原爆の図のなかでも、とりわけ物語化の難しい作品だったのではないかと思います。
何しろ描かれているのは、原爆によって破壊され、何もかもなくなってしまった「原子野」の虚無。黒い墨が何層にも重なって、深い闇を表現しているのです。

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第1幕 原子野
第2幕 差別・フラッシュバック
第3幕 祈り仰ぐ空に星光り

3幕で構成された舞踏は、琵琶と三味線・フルートの生演奏が効果的に使われていました。
全身を焼かれた女性が襤褸のような衣服をまとって彷徨い歩く様子を表現した和泉さんの舞踏も、いつもながら真に迫るものでした。

原爆投下から7年後の1952年に描かれた原爆の図第6部《原子野》は、「広島は、今でも人の骨が地の中から出ることがあるのです」という言葉が添えられているとおり、画面左側の白骨の描写によって、「原爆の図」シリーズのなかで初めて、現在(描かれた時代)と過去(原爆投下)、という二つの時間が表現された作品でもあります。
和泉さんは、そうした複数の時間の重なりをさらに広く拡大させ、「3.11」後の視点――広島・長崎から福島への連続性を今回の舞踏のなかに取り入れていました。

また、「原子野」という地上の闇からはじまり、最後に視線を引きあげて、夜空という闇に輝く星(宮澤賢治作詞作曲『星めぐりの歌』)で幕を閉じるという構成にも、工夫を感じました。

和泉さんご本人による報告は、WEBマガジン「地の木々舎」の、和泉さんと岡村の往復書簡の第105号(2013年9月上期編成分)に掲載されていますので、どうぞご覧下さい。
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2013-08-23-10
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2013/8/29

直方谷尾美術館中込学芸員来館  企画展

連日、多くの方にご来場頂いている「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展。
この日は、福岡県から、出張の際にたいへんお世話になった直方谷尾美術館の中込潤学芸員がわざわざ来館して下さいました。

例によって、本展企画委員である正木基さんの提案で、午後1時から特別ギャラリーツアーを実施することになりました。

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筑豊の芸術家について、現地で丹念な調査を続けている中込さん。
とりわけ、今回、直方市石炭記念館からお借りしてきた原田大鳳の《炭坑絵巻》や、山近剛太郎の絵画作品については、たいへん貴重なお話をして下さいました。

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今回、山近剛太郎と親交の深い個人所蔵家の方から、スケッチブックを一冊お借りしてきているのですが、中込さんによれば、こうした絵画の制作の秘密を知ることのできる新たな資料が数日前に発掘されたとのこと。
もともと貝島炭鉱の重役で、防災体制の確立に貢献された方らしく、坑内の様子を描く絵画も、間違いがあってはいけないと、人間や坑内馬の身体の比率や角度を綿密に計算し、下絵に細かい情報を書き込んでいたようです。
そして、「いまは原子力エネルギーの時代になっているけれども、破棄物の処理ができないものは必ず行き詰る。そのとき、石炭が見直される時代が来る」という言葉を残していたことも、教えて頂きました。

ちなみに、直方市石炭記念館では、9月10日(火)から11月10日(日)まで「山近剛太郎炭鉱画展」を開催されるとのこと。
ご興味のある方は、ぜひ、ご覧になって下さい。
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2013/8/26

原爆の図《からす》と在韓被爆者支援運動  調査・旅行・出張

休館日でしたが、夕方から新宿の喫茶店にて、近現代史研究者の小沢節子さんとともに、元朝日新聞編集委員で早稲田大学アジア研究機構日韓未来構築フォーラムを主宰されている小田川興さんの聞き取り調査を行いました。

小田川さんは1972年に丸木夫妻が原爆の図第14部《からす》を制作した際、新聞記者として取材され、また、在韓被爆者支援運動にも長年深く関わってこられた方です。
今年5月には、《からす》に描かれた人物の一人のモデルを務めた辛泳洙(シン・ヨンス)さんの御子息である駐広島大韓民国総領事館の辛亨根(シン・ヒョングン)総領事を丸木美術館に案内して下さいました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2142.html

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原爆の図第14部《からす》については、その発表とほぼ同時期に刊行された『幽霊 原爆の図世界巡礼』(丸木俊著、朝日新聞社、1972年7月15日発行)に詳しい記述があります。

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 朝鮮人は、強制的に日本へ連れてこられて、戦争に使う鉄や大砲、船などをつくる工場へ入れられて働かされていたのです。お前も日本人だ、よく働くように、と命令されていたということです。けれど、この集団はしっかりと監視されていたのです。
 そうした工場が日本のあちこちにあり、ひろしま、長崎にもあったわけです。
 こうした朝鮮人たちが、日本人と一緒にアメリカの落した原子爆弾の犠牲となったのです。
 いま、韓国だけでも一万五千人の被爆者が被爆手帳ももらわず、なんの特別の手当もなく放置されているということです。
 長崎で傷ついた朝鮮人被爆者は、救護班のところへ列をつくって並んだということです。八月九日、まだ日本軍は降伏しておらず、軍隊の救護班がテントを張ったのです。
 すると、朝鮮人は日本人ではない、治療をうける資格はない、と治療を断られたというのです。昨日までは日本人、今日からは朝鮮人。
 そうして、救護班のテントの上に日の丸の旗を立てたのだそうです。
 朝鮮人は日の丸のもとへは近づくことができなかったのです。
 治るべき被爆者も、みすみす息を引きとっていったということです。
 日本人の顔と朝鮮人の顔とは、そっくりではありませんか。まるで兄弟か親戚のような表情です。どこで朝鮮人、ということを表現したらよいでしょう。日本人ということになっていたのですし、戦争中でもありますから女たちでもチョゴリは着ていなかったのでありましょう。
 どう描いたらいいものかと、会う人ごとになげいていましたら、お友だちが『朝日ジャーナル』に出た石牟礼道子さんの「菊とナガサキ」という文章のことを知らせてくださいました。
 恐ろしい迫力をもった文章でした。素朴なリアリティが人の心にせまるのだと思いました。
 どう描こう、どのように、思っていたわたしの混迷は、石牟礼さんの文章で、方向がきまったのです。


(中略)

 朝鮮人が屍にまで差別をされ、烏についばまれていた、そのことを描かねばなりません。そんな絵を描いたからといって、今までの罪がゆるされるとは思いません。けれど描かねばなりません。
 わたしは双眼鏡を買って、川原に降りてくる烏を眺めはじめました。旅から帰った位里も、これには気のりがしたらしく、烏を眺めはじめました。
 制作の話を伝えますと、友人たちも共感してくれて、朝鮮人問題を教えにきてくれます。
 また、韓国からは被爆者の人がわざわざ来てくださったりします。
 また、朝鮮人被爆者の映画を作った方があるから見せていただくように、と、安井郁館長先生がおっしゃって、その人とわざわざ見せに来てくださいました。
 その映画の題は、
 『イエノム』
 イエノムとは、ひそかに、日本人のいないところでしか口にしない“日本人”という言葉なのだそうです。
 それは屈辱と圧迫の影でひそかにののしる小さな、しかしはげしい抵抗の言葉なのです。
 ほんの数少ない言葉のなかに、実は恐ろしく深い怨みがこめられているのです。
 お前は日本人、御国のために働けよ、と連れてこられて、原爆にあい、その日からもう日本人ではないぞと宣言され、治療もできず帰国してみると、
「朝鮮の言葉を忘れた朝鮮人」
 とののしられる。朝鮮の生活も日本とおとらず過酷なものであったのです。
 日本では原爆手帳ももらえず、韓国ではなおさら、被爆対策は何ひとつないわけです。
 体は弱く、働くこともできず、死を待つばかり、という被爆者がたくさんいるわけです。
「これもみなイエノムのおかげよ」
 そのように話しては嘆くのです。


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今回の聞き取り調査の目的は、文中にも「韓国からは被爆者の人がわざわざ来てくださった」と記されている辛泳洙さんら当時の在韓被爆者の状況を教えて頂くことでした。
もっとも、私は在韓被爆者問題についてはまったく勉強不足なので、聞き取りは小沢さんが中心になって行われました。
小沢さんの疑問は、丸木夫妻が韓国人被爆者のモデルの存在について詳しく触れずに、石牟礼さんの文章との出会いを強調しながら《からす》誕生の“物語”を形成していったのは、意図的なことだったのではないか、ということでした。

というのも、当時は東西冷戦のまっただなか。韓国人被爆者が日本で、すでに共産党を除名されていたとはいえ朝鮮総連とも関わりのあった丸木夫妻と接触することは、ひとつ間違えれば重罪に問われかねない危険をともなう行為だったからです。
実際、辛泳洙さんは、《からす》のモデルを務めたことを家族にも話しておらず、息子の辛亨根さんはまったく知らなかったそうです。
小田川さんも、それは丸木夫妻の辛泳洙さんに対する“配慮”だったのでしょう、とおっしゃっていました。

お話を伺ううち、韓国人被爆者支援を訴えるために当時たびたび来日していた辛泳洙さんと丸木夫妻、あるいは石牟礼道子さんをつなぐ存在として、「原爆文献を読む会」の活動をされていた長岡弘芳さんや中島竜美さん(在韓被爆者問題市民会議初代代表)の名前が挙がってきました。
こうしたつながりについては、今後もう少し詳しく調べていかなければいけませんが、70年代はじめの在韓被爆者支援運動の大きな流れのなかで、丸木夫妻の《からす》が生まれてきたことをあらためて考えさせられる、とても貴重な機会となりました。

なお、俊さんの回想に登場する「朝鮮人被爆者の映画」は、正確には『倭奴(イエノム)へ 在韓被爆者 無告の二十六年』(「倭奴」制作推進委員会、NDU日本ドキュメンタリストユニオン、1971年、53分)という作品。
《からす》が描かれたのが1972年夏なので、時期的にも完全に一致します。
NDUは、記録映画監督の布川徹郎(1942-2012)を中心として、70年代の日本のドキュメンタリーを牽引した早大中退者による映画創作集団とのこと。『倭奴』は、布川監督の代表作とも言える評価の高い作品のようです。
俊さんの回想を読むと、どうやら布川監督も安井郁初代丸木美術館館長に連れられて、丸木夫妻のもとを訪れていたと思われます。
残念ながらこの映画も未見ですので、いずれ機会があれば調査していきたいところです。
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2013/8/24

神奈川県立近代美術館葉山「戦争/美術」展小沢節子さん講演会  館外展・関連企画

神奈川県立近代美術館葉山で開催中の「戦争/美術 1940-1950 モダニズムの連鎖と変容」展。その関連企画として開催された近現代史研究者の小沢節子さんの講演会を聞きに、展覧会に足を運びました。

波の音が心地よい美しい海辺の美術館です。
海水浴客の声が、潮風に乗って聞こえてきます。

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展覧会は、基本的には1940年(実際には山口蓬春の《立夏》など、1935年頃)からはじまり、時間軸に添って1950年(こちらも実際には朝井閑右衛門の《電線風景》が描かれた1960年)までの作品が紹介されていくという構成。
戦争に翻弄されながら、美術家たちの表現はどのように展開されていったのか……といっても、戦時=抑圧、戦後=解放という従来考えられてきた分断の歴史ではなく、1940年代の表現の連続性を再考するという内容でした。
そして、そんな複雑かつ豊饒な可能性を秘めた時代の結実として位置づけられるのが、丸木夫妻の《原爆の図》というわけです。

もっとも、1940年代を象徴する作品を網羅的に回顧するというわけではなく、同館のコレクションの根幹を形成する松本竣介、朝井閑右衛門、麻生三郎、鳥海青児、山口蓬春などの作品を軸としているので、1951年に開館した神奈川県立近代美術館の文化的背景を見つめなおす、という意味が大きいのかも知れません(丸木夫妻も当時、葉山にほど近い藤沢市の片瀬で《原爆の図》を制作していました)。

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小沢節子さんの講演内容については、10月発行予定の『丸木美術館ニュース』第115号にて抄録を掲載する予定ですが、印象に残ったのは、副題で「モダニズムの連鎖と変容」と記されたこの展覧会の本質を、「表現の連続性と思想の非連続性」という言葉で論じられていたことでした。
1945年8月の敗戦をきっかけにして、作者の意識は当然のように断絶/変容していくのですが、意識下の表現の世界では連続している。それはもちろん、《原爆の図》を描いた丸木夫妻にも言えることです。作者の言葉を読むことは大切だけれども、それだけに引きずられるのではなく、言葉によらない/作者の意図を超えた無意識の表現こそが、絵画の面白さである、という指摘は、この時代を考える上では、とりわけ重要な問題であるように思いました。

また、小沢さんが挙げられていた今展の問題点に「ジェンダー&ポストコロニアルな視点の欠落」があったことも記憶しておきたいところです。
前後期の展示替えをあわせて198点の出品作品のなかで、女性作家は丸木俊(赤松俊子)ただひとり。その丸木俊も、神奈川県立近代美術館所蔵の作品は1点もありません。
これは同館の意識の問題というよりは、従来形成されてきた美術史がいかに男性中心的な視点であったかの表れなのだと思います。
そして1940年代という時代が、植民地主義/帝国主義に深く関わる時代でありながら、今展に「支配される側」の視点からの作品がほとんどなかったということも、やはり従来の美術史がいかに中央主義的な視点であったかを、考えさせられました。
小沢さんはその今展の欠落を辛うじて埋める存在として丸木俊の仕事――とりわけ、当時の「南洋群島」パラオで現地の人々と心を通わせながら制作した一連の作品を評価されていましたが、そうした評価は今後もさらに重要度を増してくるのではないかと思われます。

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同様の意味で、今展の出品作のなかでは、鳥居昇という画家の描いたチマ・チョゴリをまとった《老婆像》が新鮮な発見でした。鳥居の経歴については私はほとんど何も知らず、ただ1943年という時代にとても温かい視線で朝鮮人女性をモデルに油彩画を描いた画家がいたということに驚きを感じたのですが、会場の展示解説や図録に、そうした周辺情報が紹介されていると、よりありがたいとは思いました(水沢館長が図録の論考で触れられていた、靉光と丸木夫妻の表現の連続性も展示を見るだけでは簡単には感じとれないし、版画家の上野誠が1952年に原爆の図新潟巡回展を組織した際に制作したポスター《戦争はもういやです》が原爆の図とならんで公開されるのはおそらく初めてのことではないかと思うのですが、そうした説明も一切ありません)。
年譜のなかにもぐりこんでしまったかのように、ほとんど最低限の年号表記しかないシンプルな会場構成は、それはそれで斬新だとは感じたのですが……。

展覧会は、8月27日(火)から10月14日(月/祝)まで後期展示が行われます。
原爆の図は、前期に展示されていた第1部《幽霊》、第3部《水》が27日に丸木美術館に返却され、修復を終えてこの日に葉山へ直接搬入された第2部《火》、第4部《虹》が後期展示として公開されます。
私も後期展示を観に、もう一度足を運んでおきたいと思っています。
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2013/8/24

『はだしのゲン』閲覧制限の撤回を求める教員・研究者有志からの呼びかけ  分類なし

21日より3日間夏休みを頂いていましたが、その間も95人、127人、76人(無料の幼児団体など含む)と連日、丸木美術館には多くの来館者が訪れているようです。

   *   *   *

そして、松江市教育委員会の『はだしのゲン』閉架問題についても、日頃からお世話になっている研究者の方々が呼びかけ人となって、「『はだしのゲン』閲覧制限の撤回を求める教員・研究者有志からの呼びかけ」が立ち上がりました。

http://hadashinogenappeal.blog.fc2.com/

以下に、ブログから一部を転載いたします。
ご賛同頂ける方は、ぜひ、8月25日(日)午後4時までに、必要事項をご記入の上、メールを送信して下さい。
すでに報道されている通り、次回の松江市教育委員会は8月26日(月)に開催されますので、要望書は、8月25日(日)中に松江市教育委員会宛てに送られる予定です。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

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 報道によれば、島根県松江市教育委員会は、中沢啓治『はだしのゲン』について、2012年12月・2013年1月の二度にわたって、市内小中学校学校図書館での閲覧を制限する要請を行っていました。この問題については、すでに多くの市民から疑問と反対の声があがっており、インターネット署名サイト「Change.org」でも、8月23日現在で20,000筆を超える多くの署名が集まっています。すでに、日本図書館協会・図書館の自由委員会(西河内靖泰委員長)からも、教育委員会委員長・教育長に宛てて、当該措置の再考をうながす「要望書」が送付されています。
 わたしたちは、この問題は、単に学校図書館における自由な図書利用の問題にとどまらず、文学・文化の教育活動にかかわる重要な問題だと認識しています。文学や文化を愛し、広い意味での文学・文化の教育と研究、普及に携わっている立場から、差し当たり、閲覧制限の撤回を求める「要望書」を、松江市教育委員会委員長・教育長宛てにメールとファックスで送付したいと考えています。

 以下、この問題を憂慮する教員・研究者の有志が作成・検討した「要望書」の文面を掲げます。この「要望書」をお読みいただき、主旨にご賛同いただける方は、下記の内容についてご記入の上、8月25日(日)16:00までに、

hadashinogen.appeal[*]gmail.com ※[*]を「@」に変えて下さい 

宛てにメールにて送信くださいますよう、お願い致します。

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松江市教育委員会委員長・松江市教育長宛て要望書「『はだしのゲン』閲覧制限措置の撤回を求めます」に賛同します。

 お名前
 肩書き
 メール・アドレス
 メッセージ(任意。簡潔にお願いします)
-------------------------------------------------------------

*「お名前」「肩書き」は、そのまま「要望書」に添付し、このページでも公開します。
*「メッセージ」は、そのままこのページで公開させていただく場合があります。 
*[追記]「肩書き」の非公開をご希望の方は、「肩書き」欄は空欄のまま、お送り下さい。 
 
呼びかけ人:
 川口隆行(広島大学教員)*世話役
 五味渕典嗣(大妻女子大学教員)*世話役
 石原俊(明治学院大学教員)
 小田原琳(非常勤講師)
 高榮蘭(日本大学教員)
 小沢節子(早稲田大学他、非常勤講師) 
 佐藤泉(青山学院大学教員)
 島村輝(フェリス女学院大学教員)
 杉山欣也(金沢大学教員)
 中谷いずみ(奈良教育大学教員)
 Nobuko Yamasaki (University of Washington, PhD Candidate / Pre-Doctoral Instructor)
 日比嘉高(名古屋大学教員)
 深津謙一郎(共立女子大学教員)
 山本昭宏(神戸市外国語大学教員)
 

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2013/8/21

『埼玉新聞』に“はだしのゲン閲覧制限に批判の声”  掲載雑誌・新聞

2013年8月21日付『埼玉新聞』社会面に、“「読書の自由 子どもに」はだしのゲン閲覧制限で県内、広島から批判の声”との見出しで、松江市教育委員会の『はだしのゲン』閉架要請問題が取り上げられました。

記事は、埼玉新聞社のWEBサイトでご覧頂くことができます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130820-00010004-saitama-l11

昨日、記者の方から取材の電話があり、つい熱く語ってしまって、後から(記事に真意が反映されるように整理して話せばよかった)と反省したのですが、きちんとまとめて書いて下さったので、安心しました。
以下、記事より、「批判の声」の箇所のみ抜粋します。

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 中沢さんは新座、所沢市に住み、昨年12月に肺がんで亡くなった。今回の松江市教委の対応について、妻のミチヨさんは「40年たった今になってなぜ、と驚いています。(夫の中沢さんは)多くの資料を読み尽くし、子どもたちにとってどこまで描いていいかを考え抜いていた。戦争をきれいに描くことなんかできない。読むか読まないかは、子どもたちが決めること」と声を荒らげた。

 広島市で今年6月、「はだしのゲン」連載40周年のイベントを開催した同市の渡部久仁子さん(32)は小学校4年生の時に初めて手に取り、繰り返し読み続けている。「漫画『はだしのゲン』という作品だけではなく、読み手である子どもをもっと信じてほしい。全巻を通して読んだら、子どもたちの読んでいる姿や感想を聞いてもらえたら、理解してもらえると思う」と訴えている。

 原爆の図を描いた画家の故丸木位里、俊さん夫妻の絵を展示する丸木美術館(東松山市)の学芸員岡村幸宣さん(39)は、「悲惨なものを見なくてもいいということはない。痛みに対する想像力に年齢は関係ない。目を背けたくなる戦争が実際にあったことを知る機会を大人が取り上げることはよくない。重要なのは、戦争は人類共通の問題であり、子どもが他者の痛みを感じることができるようになることだ」と話している。


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記事によれば、さいたま市立中央図書館所蔵の『はだしのゲン』は貸し出し予約が相次いでいるそうですが、丸木美術館の図書室兼休憩室・小高文庫では『はだしのゲン』全10巻を自由に閲覧できます(ただし、貸出は不可)。どうぞご利用ください。
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2013/8/20

「入山採炭ほかスケッチブック」公開作品調査  企画展

休館日をはさんで今日も有料入館者は146人。河童会議(東松山市の子どもたちが川遊び+丸木美術館見学を行うイベント)を含む3つのグループが来館したこともあるのですが、7日連続100人超えです。

午後2時からは、版画家・大宮昇のご子息で同志社大学生命医科学部教授の大宮眞弓さんと写真家の萩原義弘さんをゲストにお迎えし、展覧会直前に発見された大宮昇の「入山採炭ほかスケッチブック」4冊と、スケッチブックとほぼ同時期に撮影された「入山採炭アルバム」(撮影者不明)の公開作品調査が行われました。

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ふだんは鍵付きケースに入っている資料を取り出し、公開形式で作品調査を行うという貴重な機会です。

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写真は左から、聞き手の正木基さん、萩原義弘さん、大宮眞弓さん、いわき市立美術館学芸員の杉浦友治さん。

戦前に大宮昇が参加していた武蔵野消費組合の話や、常磐炭田の入山採炭に取材に向かう人脈的なつながりなど、大宮眞弓さんからは重要な証言を聞かせて頂き、1時間半に及ぶ公開調査は、非常に充実した内容になったようです。

私は、3つの団体の館内説明などで慌ただしく走り回っていて、残念ながら結局、ほとんどお話を伺うことができなかったのですが……。
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2013/8/18

「はだしのゲン」、開架に  書籍

今日も美術館の入館者は135人。6日連続で100人を超えました。
暑いなか、多くの方にご来場頂き、本当に感謝です。

今日は午前中に、少し前に寄贈されたまま、多忙にかまけて閉架状態になっていた中沢啓治の漫画『はだしのゲン』(汐文社版)の第5巻〜第10巻をダンボール箱の中から引っ張り出し、以前から公開していた第1巻〜第4巻とあわせて、全10巻を、来館者が自由に閲覧できる開架図書(小高文庫)の目立つところにならべました。

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松江市の「はだしのゲン」閉架要請問題については、ネット署名としては「極めて異例」の2日間で6,000人もの署名が集まっているそうです。
http://www.asahi.com/culture/update/0818/OSK201308180082.html?fb_action_ids=501881596557590&fb_action_types=og.recommends&fb_source=hovercard

この問題については、いろいろ思うところもあるのですが、ともあれ、原爆文学研究会などでたいへんお世話になっている広島大学の川口隆行さんが昨年12月に記された中沢啓治さんへの追悼記事(中国新聞)をぜひ、お読みください。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20121227102416241_ja
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2013/8/18

広島テレビニュース番組Chim↑Pom特集「若さで挑む原爆アート」  TV・ラジオ放送

2013年7月30日に、広島テレビの夕方のニュース番組「テレビ派」にて、Chim↑Pomの広島における展覧会をめぐる特集が8分ほど放映されました。

私も少しばかりインタビューを受けたのですが、先日、取材して下さった渡辺記者からDVDを頂いたので、その内容を書き起こしておきます。
今夏の広島におけるChim↑Pomの評価「見直し」の動きの、ひとつの記録です。

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画像は2011年12月に丸木美術館で開催されたChim↑Pom展「広島!!!!」の会場風景。

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【スタジオから】
テロップ「若さで挑む原爆アート」
森拓磨アナウンサー シリーズでお伝えする「68年目のヒロシマ」です。こちらの作品(註:「ヒロシマの空をピカッとさせる」)は、5年前に制作された作品なんですが、その作品はですね、被爆者たちの琴線にも触れて、大いに物議を醸しました。
馬場のぶえアナウンサー 作品を世に問うたのは、若い芸術家たちでしたが、彼らの作品がこの夏初めて広島で発表の機会を持つことになりました。今なぜ見直されたのか、取材しました。

【Chim↑Pom「広島!!!!!」展 準備展 ギャラリーG(広島市中区)展示風景】
――壁一面を飾るモノトーンの作品。あるものは焼け焦げ、またあるものは煤で、パネルに表現されたかたちを、印象的に伝えています。

【ヲルガン座 廃墟ギャラリー(広島市中区)展示風景】
――個展は今月中旬、広島市のギャラリーGをはじめ、市内11のギャラリーで同時に開かれました。展示された作品はおよそ300点。描くものは違っても、テーマはひとつ、原爆です。

【キヲクの空箱(広島市安佐南区)展示風景】
――あの日、突然奪われた日常が、パネルに写し込まれています。
男性来場者の感想 表現の仕方が面白いなあ、と。
女性来場者の感想 作品としてすてきだと思いました。

【Chim↑Pom集合写真(撮影:松蔭浩之)】
――作品を作ったのは、東京で活動する6人の若手芸術家グループ、Chim↑Pom。

【Chim↑Pom「サンキューセレブプロジェクト アイムボカン」(2007年)ビデオ映像】
――2005年にグループを結成。代表作の「アイムボカン」は、カンボジアの地雷撤去を題材にしたものです。地雷を爆破させて作った作品は、オークションにかけ、売り上げ金はすべて現地に寄付しました。“さあ、Chim↑Pom、いまこそボランティア精神を発揮しよう”

【「ぼくからきみへ –ちかくてとおいたび-」(東京都現代美術館)展示風景】
――フットワークの軽さと社会性が奇妙に同居する彼らは、現代美術での世界でも、目立った存在となっています。

【Chim↑Pom「ヒロシマの空をピカッとさせる」(2009年)作品画像】
――そんなChim↑Pomと広島のつながりは、今から5年前。原爆ドームの上空でピカッという文字を飛行機雲で書いたのです。

【謝罪会見の映像(2009年)】
テロップ「広島での個展は中止に」
――すぐさま波紋が広がり、謝罪会見を開くはめになりました。そして予定されていた個展は、自粛へと追い込まれました。

林靖高(Chim↑Pomメンバー) だから、まあ、そう、単純に言えない作品ではあるし、でも、なんか、そういうものを作るべきだったし……
卯城竜太(Chim↑Pomリーダー) 自分もよくわからないところはたくさんあるんだけど、でもなんか自分にとってすごく関係がある大事な作品だなっていうふうに思えるのは、やっぱり、いいなって思ってますね。

【再び、謝罪会見の映像】
テロップ「1ヵ月広島に滞在し対話を重ねる」
――広島から拒絶されたChim↑Pom。それでもメンバーは、被爆地に向き合いたいと努力を続けました。広島に残り、さまざまな人と対話を重ねたのです。被爆者団体もそのひとつ。

坪井直(被団協理事長) 君らと同じ道は歩めない、ダメだと。しかし、君が言う平和に一所懸命になっていることは、そりゃ私は応援しますよ、と言ったですよ。

【Chim↑Pom「広島!」展会場風景】
――広島で発表の場を失った若者たちは、東京で「広島!」展を開きました。坪井さんも加わり、被爆体験を語りました。ビックリマーク「!」は広島を目指し、各地で開く展示会のたびに重ねていこうという決意のあらわれです。

【原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市)風景映像】
――若者たちが目指す芸術への理解は、被爆者以外にも広がっています。4回目の「広島!!!!」展が開かれた埼玉県の丸木美術館。

【「原爆の図」展示など館内外風景映像】
――原爆の悲惨さを訴えようと、丸木位里・俊夫妻が描いた、名高い「原爆の図」を展示する美術館です。面白い作家だからやるべきだ。いや、絶対にここでやってはいけない。展示をめぐって、理事会は紛糾したといいます。

岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員) 一番、彼らのことを見直したのは、「原爆の図」に対する尊敬の念を非常に強く感じたということですね。その上で、でも自分たちは違うことをして、原爆や平和に関わって、そういうことを作品に取りこんでいくんだということがはっきりしていたんですね。

【Chim↑Pom「Never Give Up」(2011年)作品画像】
テロップ「被爆者坪井直さんの直筆を被災した額に収めた作品」
――その年に起きた東日本大震災。Chim↑Pomは作品を発信し続けていました。
【Chim↑Pom「Red Card」(2011年)作品画像】
テロップ「福島第一原発の作業員として従事したメンバーが制作」

【Chim↑Pom「ヒロシマの空をピカッとさせる」(2009年)作品画像】
――広島で物議を醸した作品の見方も変わったといいます。
岡村 3.11という大きな体験を経た後で、あの作品を見ると、当事者意識が希薄だったのは彼らではなくて、それを批判している、もしかしたら私たちかもしれない、という気もするんですね。

【Chim↑Pom「LEVEL7 feat.「明日の神話」」(2011年)ビデオ映像】
――Chim↑Pomが表現した危機感を、もっともよくあらわした作品がこれです。2011年、岡本太郎さんが第五福竜丸の被ばくをモチーフにした巨大壁画「明日の神話」に、原発事故の絵を加えたものです。

【岡本太郎美術館(東京都港区)風景映像】
――岡本太郎記念館では今、Chim↑Pomの個展が開かれています。岡本太郎のアトリエを再現した部屋に、作品が置かれています。若者なりに作品に込めた訴えは、記念館を動かしました。
【岡本太郎記念館「Chim↑Pom展」展示風景】
テロップ「今は無き芸術家と正面から格闘しようとした/若い想像力の軌跡を見てほしい/刺激的な作品には賛否もあるだろう/彼らと等しく館も責任を引き受けるつもりだ 平野暁臣館長」

【Chim↑Pom展 LEVEL7 feat.「広島!!!!」会場展示風景画像】
――丸木美術館の「広島!!!!」展にもこれまで訪れなかった若者が詰めかけました。

【Chim↑Pom「平和の日」(2013年)ビデオ映像】
――ピカの騒動から5年、Chim↑Pomが再び、広島に帰ってきました。タイトルは「平和の日」。原爆の残り火として、福岡県星野村に伝わる平和の火を使って仕上げた作品です。

【「広島!!!!!」展 準備展トーク会場映像】
テロップ「広島市中区 今月9日」
――5年ぶりの広島。「広島!!!!!」展実現に向けて、積極的に発言をしました。
卯城(トークにて) たとえば広島の問題とかを、当事者しか表現できなくなってしまったら、当事者が許せることしか表現できなくなってしまったら、本当にほとんどの人が表現できなくなってしまうと思うんですよ。で、そういうことが続いてきてしまった果てに何があるのか、ということが結構問題で……

女性参加者の感想1 やろうとしていることを100%理解できているかどうかはわからないんですけど、発信されたものを自分で噛み砕いて、何か違うもの、違う考えとか、考える火種をもらった感じ。
女性参加者の感想2 自分が当事者じゃない問題に対してどう関わっていくかっていう姿勢を教えてもらったっていうか……

【「広島!!!!!」展 準備展会場風景映像】
テロップ「広島!!!!!展 準備展 市内11か所のギャラリーで展示」
――とうとう実現した広島での展示会。中央公園で作った300枚の作品は、「広島!!!!!」展に向けた準備展として、市内11か所のギャラリーが展示を申し出ました。作品は販売し、被爆建物の旧日銀広島支店での「広島!!!!!」展実現の費用に充てられます。

卯城 Chim↑Pomにとっての広島は、いつも、だから、持っているもの、カバンの中に入っているものみたいな感じで続けてずっときたつもりではいるんだけども、手をつないでいる相手というか、そういう温度を感じる相手に、ちょっと変わってきた。
――被爆から68年。被爆体験の伝承が、新たな世代に託されようとしている中、芸術の世界でも模索がはじまっています。5年前、広島の空に一石を投じた若者たちの活動が、続きます。
テロップ「報告 渡辺由恵」

【再びスタジオから】
馬場 正直、私は彼らの表現すべてが好きだとは思わないんですけれども、でも、やっぱり、あの無関心なところからは何も生まれないという意味では、関心があるっていうのはすごく伝わってきますし、広島を表現することをやめない姿勢に本気度を感じます。
 そうですね。冒頭で紹介するはずだったのが、その「ピカ」という物議を醸したこの作品なんですけれども、もちろんね、この作品は今でも認めるわけにはいかないという方いらっしゃるとは思うんですけど、確かに無関心な人までも巻き込んでいく力は彼らにはあると思うんですよね。どのように広島を受け継いでいくかというのは、永遠のテーマではあると思うんですけど、そこにひとつヒントがあるような気がします。

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2013/8/17

『毎日新聞』に「山本作兵衛の生きた時代」展紹介  掲載雑誌・新聞

2013年8月17日付『毎日新聞』朝刊埼玉版に、“炭鉱労働 生き生きと 筑豊の記録画60点”との見出しで、現在開催中の企画展「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」が紹介されました。

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取材をして下さったのは、中山信埼玉西支局長。
毎日新聞のWEBサイトで、記事全文を読むことができます。
http://mainichi.jp/feature/news/20130817ddlk11040165000c.html

以下、記事から一部を抜粋して紹介いたします。

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 作兵衛は筑豊の炭鉱で採炭作業などに従事し、引退後は坑内での労働や生活、労働争議などの実態を推定1000点を超える記録画に残した。解説文もついた詳細な記録画などは2011年、後世に残すべき文書や絵などを保護するユネスコの世界記憶遺産に日本で初登録された。
 作兵衛の作品約60点に加え、同じく筑豊を描いた井上為次郎らによる絵画作品や国内各地の石炭会社の写真帳なども展示。日本の近代化の原動力ともなった炭鉱を多くの画家や写真家らがどう受け止め、世に伝えようとしてきたのかに迫ろうとしている。
 学芸員の岡村幸宣さんは「人々が翻弄(ほんろう)されることが多かった日本の近現代社会の中で、たくましく生き抜いた人間のエネルギーを感じ取ってほしい」と話している。


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TBSラジオの永六輔さんの番組「土曜ワイド」でも、重ねて丸木美術館の「炭坑展」を紹介して下さったらしく、「ラジオを聴きました!」と言って来館される方も多く、ここ数日の新聞・ラジオ効果は素晴しいです。
この日の入館者も159人と大賑わいでした。
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2013/8/16

『毎日新聞』に「足尾鉱毒の図」紹介  掲載雑誌・新聞

お盆休みが終わっても、まだまだ暑い丸木美術館。
今日も入館者は120人を超えました。
これで4日連続の100人超え。ここ数年ではちょっと記憶にないほどの盛況ぶりです。

   *   *   *

新聞報道も増えてきました。
本日、2013年8月16日付『毎日新聞』環境面に、“足尾鉱毒 虐げられた人々の怒り”との見出しで現在開催中の「田中正造没後100年 足尾鉱毒の図特別展示」が紹介されました。
取材して下さったのは、毎日新聞の足立旬子記者です。

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毎日新聞のWEBサイトで記事の一部を見ることができます。
http://mainichi.jp/feature/news/20130816ddm013040028000c2.html

以下に、記事の前半部分を抜粋して紹介いたします。

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●農民らの闘い描写

 鉱毒被害を政府に訴えるため、東京を目指して前へ前へと進む若い女たち。一人一人の怒りが画面いっぱいにあふれる。それを取り締まる馬に乗った警官隊。直訴をする田中正造の姿も描かれている。足尾鉱毒の図第4部「直訴と女押し出し」だ。
 明治時代、足尾銅山(栃木県)開発のため山の木々が伐採され、製錬による有毒ガスが木々を枯らした。その結果、大洪水が起こり、大量の鉱毒が渡良瀬川流域を汚染。農作物に甚大な被害を及ぼした。正造は銅山の操業停止を訴えたが、富国強兵政策を進める政府は顧みなかった。
 日本の公害の原点とされる足尾鉱毒事件はなぜ起こり、どんな被害を及ぼし、農民らはどう闘ったか。全6部で構成される鉱毒の図は、迫力ある水墨画でその歴史を描いている。それぞれ縦約1.8メートル、幅7.2メートルの大作だ。

●原爆の惨状が原点

 広島原爆投下後、広島市内に駆けつけた丸木夫妻は、そこで目の当たりにした惨状と被爆者の証言をもとに「原爆の図」を描いた。その後も、アウシュビッツや水俣病、沖縄戦など、戦争や国家の近代化の歩みの中で、虐げられた人々の姿を描き、1987年、足尾鉱毒の図の制作に着手する。位里86歳、俊75歳。最晩年の共同制作だった。
 夫妻は足尾銅山や、渡良瀬遊水地の旧谷中村跡地など事件のゆかりの地を訪ね、正造の闘いを語り継ぐ人たちに話を聞いた。現地を案内し、「押し出し」の農民のモデルも務めた坂原辰男(市民団体・田中正造大学事務局長)によると、俊さんは「絵というのは勝手に描いてはいけないの。一人一人に会ってモデルにすれば絵が勝手に物を言うようになる。絵の中に10人入れば10人の声が聞こえてくる。何かがしみ出してくるように」と話していたという。
 美術館学芸員の岡村幸宣さんは「現地に入り、多くの人たちの痛みの記憶を聞いて、それを再構成する。誰の記憶でもない、無数の人々の記憶が重なる絵画」と解説する。それだけに多く人々の共感を呼び、胸を打つ。


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「足尾鉱毒の図」は、7月13日から8月8日までの前期展示で第1部〜第3部を公開し、現在は後期展示として第4部〜第6部を公開しています(9月8日まで)。
「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展とあわせて、どうぞご覧下さい。
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2013/8/15

『下野新聞』「今、生きる正造 没後100年」にて丸木夫妻紹介  掲載雑誌・新聞

連日の猛暑のなか、大盛況の続く丸木美術館。
「終戦記念日」のこの日も、有料入館者176人とたいへん大勢の方が訪れて下さいました。
山本作兵衛のお孫さんの緒方惠美さんも3日連続で来館。今日はイタリア留学から帰国した娘のももさんも駆けつけて下さり、母娘でピアノとバイオリンを共演。
まったく突然のミニコンサートでしたが、多くの方が会場で演奏を聴いて下さいました。

丸木美術館に隣接する野木庵では、長谷川修児さんが主催される毎年恒例の詩の朗読会。今年は脱原発アイドルグループ・制服向上委員会の皆さんも出演して、かなり盛り上がっていたようです。
こちらは終日受付応対に大忙しで、朗読やコンサートを聴く余裕はまったくありませんでしたが……。

   *   *   *

さて、本日、2013年8月15日付『下野新聞』朝刊に、連載中の「今、生きる正造 没後100年」の「戦争と平和」編・下として、“国益より人命に軸足 丸木夫妻人間の痛み描く”との見出しで、現在開催中の「田中正造没後100年 足尾鉱毒の図特別展示」の記事が掲載されました。

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取材をして下さったのは、社会部の佐藤洋記者。
以下に、記事の一部を抜粋して紹介いたします。

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 「田中正造を描こうと思う」
 1986年11月、岩舟町にあった丸木美術館栃木館の開館記念祭のあいさつで、構想を明らかにした丸木夫妻。旧谷中村跡の正造の生家などゆかりの地を見て回り、翌年7月に足尾鉱毒の図を2作発表した。以降、92年までに全6作を完成させた。
 県内支援者の要請もあったが、丸木夫妻は以前から、正造に大きな関心と共感を抱いていた。鉱毒事件は近代国家のゆがみの出発点であり、現在につながる問題と考えていた。
 代表作「原爆の図」のほか「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」「沖縄戦の図」など戦争をテーマに、強烈なメッセージを込めた作品を生み出してきた丸木夫妻。水俣や原発、三里塚など、公害や近代化の影にも焦点を当て、苦しめられる人々を描いてきた。位里さんが亡くなる直前には、ノーベル平和賞候補にも名を連ねた。

 「丸木夫妻の生き方や姿勢は田中正造に極めて近い」
 同美術館学芸員の岡村幸宣さん(39)は確信している。
 正造が旧谷中村に入ったように、丸木夫妻は現場に足を運び、体験者に寄り添って構想を練った。
 正造が晩年「無戦論」を展開したのと同様、戦争と公害に共通点を見いだしていた。
 「生身の人間を見れば、戦争とはどういうものかが見えてくる」
 丸木夫妻は専ら、戦争や暴力で傷つき苦しむ人間を描き、見る人の想像力に訴えた。原爆の図でも肉体、生身の人間の痛みに焦点を当て、キノコ雲や焼け跡などはほとんど描かなかった。
 戦争と平和を考えるとき、国益よりもあくまで人命に軸足を置いた正造と丸木夫妻。時代が変わろうとも、変えてはならない視点がそこにある。


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2013/8/14

「山本作兵衛の生きた時代」展盛況は続く  企画展

お盆休みということもあり、この日も120人を超える入館者で賑わった丸木美術館。
山本作兵衛の炭鉱記録画の前では、この日も来館して下さった山本作兵衛のお孫さんの緒方惠美さんが、急きょ作品解説をして下さいました。

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途中からは、やはり山本作兵衛のお孫さんの井上忠俊さんも参加されて、和やかな雰囲気の説明会になりました。

さて、昨日のギャラリートークには、針生一郎元館長の長女のCさんが、どうしても上野朱さんにお会いしたいと駆けつけて下さいました。
その際、針生一郎の文章のなかに山本作兵衛が登場するという貴重な資料を頂いたので、紹介いたします。
『新日本文学』1983年7月号に掲載された「藤田省三と谷川雁 ―時代への証言―」という文章で、『サークル村』を共同編集していた谷川雁と上野英信についての回想が興味深いのですが、ここでは関連箇所のみ抜粋します。

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 その翌年(註:1964年)、まだ八幡製鉄にいた佐木隆三らの尽力で、北九州市の新日本文学会講演会に小林勝とともに赴くと、帰りに中間市にきてくれという上野英信君の伝言がわたしに届いた。そこでわたしは上野家と谷川家が隣りあって住むやや広い間続き長屋をはじめて訪れ、谷川が自分の連れ子、森崎和江の連れ子、二人のあいだの子の三男児を、「デモクラシーの幼児教育」と称して平等に扱うのを見たあと、上野、谷川とともに大正中鶴炭鉱の坑内を見学して、家族が留学中の上野家に泊った。彼らの用件は筑豊の坑夫で定年を迎えながら、独習で「炭鉱絵巻」を描きあげた山本作兵衛の画集を出版してやりたいとのことだったが、わたしが出版社との交渉に手間どるうち、上野と親しい福岡の画家菊畑茂久馬の斡旋で、数年後画集は出た。菊畑は六〇年代末の著書『フジタよ眠れ』で、藤田嗣治の戦争画に対抗しうるものと『炭坑絵巻』を賞揚し、教えに通う東京の美学校でも生徒に画集を模写させた上、山本を招いて講義させた。

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大らかな針生元館長らしく、細かい箇所は若干の齟齬(たとえば、菊畑茂久馬による『王国と闇―山本作兵衛炭坑画集』は1981年の刊行で、その前に『炭鉱に生きる : 地の底の人生記録』が1967年、『ヤマの仕事 筑豊炭坑絵巻:上』と『ヤマの暮らし 筑豊炭坑絵巻:下』が1977年に刊行されている)があるのではないかと思われる文章ではありますが、ともあれ、上野英信が針生元館長に山本作兵衛画集の出版の話を持ちかけたことがあったのだということはわかります。

   *   *   *

夕方からは、ポレポレタイムス社の皆さんの計らいで、東中野駅前の中華料理店にて、井上さん、緒方さん、上野朱さんと息子さん、本橋成一さん、正木基さん、そして上野さんや本橋さんと縁の深い絵本作家の山福朱美さんとお母様など、「炭坑展」関係者で集まって、夕食会を行いました。
初対面の方が多いにも関わらず、笑いの絶えない、とても楽しい会になりました。
今回の企画を通じて、「筑豊組」の皆さんとお近づきになれたことは、本当に嬉しく思います。
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2013/8/13

炭坑展ギャラリートーク「山本作兵衛を語る」  イベント

連日、多くの方にご来場頂いている「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展。
今日は、わざわざ福岡から山本作兵衛のお孫さんである井上忠俊さん、緒方惠美さん、そして作兵衛さんと深く交流した記録文学作家の上野英信さんのご長男の上野朱さんが丸木美術館にお運び下さり、写真家の本橋成一さんを加えて4人のゲストによるギャラリートーク「山本作兵衛を語る」を開催しました。

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この日の有料入館者はなんと180人。有料入館者だけを比較すると、8月6日のひろしま忌を超えました。
会場は人であふれ、ものすごい熱気です。
大型扇風機を7台投入し、さらに来場者にはもれなく保冷剤を配布。
それでも皆さん汗びっしょりになりながら、しかし、非常に濃密で有意義な2時間となりました。

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左から上野朱さん、井上忠俊さん、緒方惠美さん、本橋成一さん。
この4人のお姿を作兵衛の炭坑記録画が飾られている会場で見ることができただけで本当に嬉しかったのですが、ユーモアにあふれ、和やかな雰囲気のトークがとても素晴しかったです。

上野朱さんは「丸木美術館で作兵衛さんの絵が展示される日が来るとは、父の英信が知ったら死ぬほど喜んだと思います……もう死んでいるんですけど」と観客を笑わせ、緒方惠美さんは、「丸木美術館で休憩室に案内されたときに吹いてきた涼しい風は、作兵衛じいちゃんの家の風と同じだった」と嬉しいことをおっしゃってくださいました。

トークは、それぞれの作兵衛さんに対する思い出から「お気に入りの絵」へと及びました。
鉄道好きの朱さんは作兵衛さんに描いてもらったという自慢の一点、「九州鉄道 筑豊線 発車五分前」を紹介されました。とはいえ、機関車よりも駅員を中心に描いた絵に、当時の朱さんは内心がっかりされたとのこと。しかし、後に、作兵衛さんは人間を描いていたのだ、ということに気がついたそうで、「もし、機関車の絵を描いてくれと頼んでいたら、石炭をボイラーに入れて燃やす機関助士の絵を描いていたのではないか」という言葉に、観客もまた爆笑。
そして井上さんは鉄道の発展により船頭の仕事を失い炭鉱夫となった山本家のルーツを描いた「鉄道と川船船頭」を、緒方さんは坑内の光の表現に着目されながら、珍しい青い光が印象的な「明治筑豊バラスラ」「立掘り 先山後山」の二点の作品を挙げて下さいました。
作兵衛さんに近しい存在の方々が絵についての思いを語って下さるだけで、絵の見え方がまったく変わってくるのが面白いところです。

また、会場から作兵衛さんの「座右の銘」について質問された緒方さんは、座右の銘はないけれどもと前置きしつつ、墨絵「ボタ山」の裏側に記された作兵衛さん自身の文章を紹介されました。

ボタ山よ
汝人生の如し
盛んなるときは肥え太り
ヤマやんで日々痩せ細り、
或いは姿を消すもあり
あーあ哀れ悲しき
かぎりなり


どうしても世界記憶遺産という肩書きに注目の集まりがちな作兵衛さんですが、今回のトークでつくづく感じたのは、“世界記憶遺産に選ばれた画家”という以前に、一人の炭鉱夫であり、長年の労働を通じてたくわえていった豊穣な哲学や世界観が、彼の作品世界を深いところで支えていたのだ、ということでした。

朱さんは、広島に丸木位里・俊という二人の画家がいたように、あるいは水俣に石牟礼道子がいたように、よくぞ筑豊に、その土地で生まれ育って働いた山本作兵衛があらわれた……とおっしゃっていましたが、等身大の無名の人びとに焦点を当てて、社会に翻弄されながらも生きようとする人間のエネルギーを描いたという点で、丸木夫妻の残した「原爆の図」と山本作兵衛の「炭鉱記録画」は、実はとても近しいものだったのではないか、とも感じました。

皆さんが口々におっしゃっていた、「作兵衛さんはたくさんの人に絵を見てもらって、炭鉱のことを知ってもらいたいと思っていた」という言葉を聞くにつけ、この美術館に作兵衛作品を展示できたことのよろこびを、つくづく噛みしめる一日でした。

   *   *   *

「炭坑展」のイベントは、まだまだ続きます。
今後の情報をお知らせいたします。

●「入山採炭ほかスケッチブック」公開作品調査−「入山採炭アルバム」と大宮昇「入山採炭ほかスケッチブック」・『炭山画譜』・『石炭を生む山』をめぐって」
8月20日(火) 午後2時〜3時30分
ゲスト:大宮真弓(大宮昇ご子息・同志社大学生命医科学部教授)+萩原義弘 (写真家)
聞き手:杉浦友治(いわき市立美術館)、正木基 (本展企画委員)、岡村幸宣(原爆の図丸木美術館)
美術家・大宮昇氏が1935年、いわきに長期滞在し、入山採炭の内外を仔細に描いた120点のスケッチブック4冊が、展覧会オープ ン直前に新発見されました。一人の美術家が、これほど炭坑取材のスケッチを残した事例はなく、また、その丁寧な描写によって記録性の高さも注目されるものとなっています。このたび、その全容をあきらかにすべく、本作品群に関心を持つ学芸員の方々と、120点一点一点を鑑賞調査する 「公開作品調査」を行うことにいたしました。つきましては、ご子息の大宮真弓氏、常磐炭田を撮り続けている写真家・萩原義弘氏にご同席いただき、作品一点一点へのコメントや感想をお聞きしながら、参加者全員での意見交換も図ります。
尚、このスケッチブックは、展覧会中、アクリルの覗きケース中に収められているため、全点を鑑賞するただ一度の機会となります。

●特別ギャラリーツアー
8月29日(木) 午後1時〜午後4時半 特別ゲスト:中込潤(直方谷尾美術館学芸員)
直方市の直方谷尾美術館で、筑豊の炭坑絵師たちの調査・研究もされている中込潤学芸員が、会場で、本展企画委員の正木基(casa de cuba 主宰)とともに、筑豊の炭坑絵師たちを中心に自由にお話ししています。

●今野勉氏と炭鉱表現を語る
9月4日(水) 14時〜15時30分 
特別ゲスト:今野勉(演出家、脚本家、テレビマンユニオン取締役)+正木基(本展企画委委員)
お育ちになった夕張市登川炭鉱についてのお話、炭鉱の民話を取り上げたNHKスペシャル「地の底への精霊歌 炭鉱に民話の生まれる時.」の裏話、山本作兵衛翁などの作品、本展覧会の感想などについて、今野勉氏と本展画委員並びにご来場の皆様との「公開語らい」を行います。
【略歴】
秋田県生まれ、北海道夕張市登川炭鉱に高校まで在住。1959年(昭和34年)TBS入社。1970年(昭和45年)に日本初の独立系テレビ番組制作会社・テレビマンユニオン創立。1998年(平成10年)には長野オリンピックの開会式・閉会式のプロデューサー。
TV作品:
1965〜68年 シリーズドラマ「七人の刑事」(TBS、40本) 放送作家協会演出者賞
1970〜76年 ドキュメンタリー「遠くへ行きたい」(YTV、44本) ギャラクシー選奨
1993年 ドキュメンタリー・NHKスペシャル「地の底への精霊歌」 ギャラクシー選奨
1995年 ドキュメンタリードラマ・NHKスペシャル「こころの王国〜童謡詩人金子みすゞの世界」(NHK)芸術選奨文部大臣賞
2008年 日中戦争秘話 ふたつの祖国をもつ女諜報員「鄭蘋如(てんぴんるう)の実像」(YTV)民間放送連盟賞優秀番組賞
等多数
著作:
『お前はただの現在にすぎない-テレビになにが可能か』 (荻元晴彦・村木良彦との共著、2008年、朝日文庫)
『テレビの青春』 (NTT出版、2009年)
等多数。

●トム・アレンツ(TOM ARENTS)氏と炭鉱を語り合う
9月8日(日) 午後2時〜3時30分
ベルギーから来日されるトム・アレンツ氏と会場を歩きながら、ベルギーやヨーロッパの炭鉱について、日本の炭鉱を訪ねた印象などのほ か、本展の炭鉱表現を見た印象などをお聞きし、また、ご来館の皆様と炭坑と炭坑美術について語り合います。
【トム・アレンツ氏略歴】
1984年ベルギー生まれ(28歳)。2012年リューバン・カトリック大学日本学科修士課程卒業。修士時にベルギーのケンペン炭田と空知の石狩炭田の比較研究、現在は日本の石狩炭田と筑豊炭田の比較研究中。
国際産炭地ネットワーク・産炭地プロジェクト NPO法人Het Verlog/COALFACE メンバー
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2013/8/10

上野朱『父を焼く 上野英信と筑豊』  書籍

「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展を機に、筑豊の炭鉱画家・山本作兵衛や井上為次郎、島津輝雄、そして写真家の本橋成一に深く関わった記録作家・上野英信にまつわる二冊の本を読んでいます。

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上野英信(1923〜87)は、広島で被爆したことを機に、北九州筑豊の地で、谷川雁や森崎和江とともに『サークル村』を刊行したり、炭住に移り住んで「筑豊文庫」と名付けた自宅を拠点に幅広い文化活動を行いました。

その英信の妻である上野晴子さんが記した『キジバトの記』(海鳥社)、そして長男の上野朱さんが記した『父を焼く 上野英信と筑豊』(岩波書店)を立てつづけに読み、いま、心のなかには、急速に「筑豊文庫」をとりまく世界が広がっているところです。

そして、朱さんの記された『父を焼く』のエッセイのなかに、山本作兵衛と丸木夫妻の仕事をつなぐ文章が登場していることを遅まきながら知って、とても嬉しくなりました。

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 山本作兵衛さんは一八九二年、福岡県笠松村(現飯塚市)の生まれ。小さいころから筑豊各地の炭坑で働き、閉山後は夜警として勤めながら、齢六十歳を過ぎて驚異的な記憶力をもって自らの労働や生活、炭坑風俗を描き始め、一九八四年に九十二歳で亡くなられるまでに千枚を越すといわれる絵を残した方であり、労働者として記録者として、そして酒飲みとしても、私の父が最も敬愛していた人物である。
 作兵衛さんの絵についての解説や残された仕事の意義については、『画文集・炭鉱に生きる』(一九六七年、講談社)や『王国と闇』(一九八一年、葦書房)などの書物があるので、ここであらためて述べることは控えるが、もし山本作兵衛という人物がいなかったなら、私たちは明治期の炭坑の様子などを目に見える像として受け取ることはできなかっただろう。そしてそれは広島に丸木位里・俊という二人の画家が現れず、『原爆の図』が描かれなかった、あるいは水俣が石牟礼道子という人を持たず、『苦海浄土』が描かれなかったというのと同じようなことで、その時その場所にその人物を配した天の深謀に、今さらながら私は感嘆し感謝するのである。


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丸木美術館の空間に、山本作兵衛の絵を展示できたことは、決して単なる偶然ではないのだと、あらためて思います。

8月13日(火)には、その上野朱さんに加えて、山本作兵衛のお孫さんの井上忠俊さん、緒方惠美さんが、わざわざ九州から来館して下さいます。そして本橋成一さんを交えて、午後2時から、山本作兵衛の絵の展示を背景にトークをして下さるという豪華な企画!
本当に見逃せない内容になりそうです。

ちなみに、『父を焼く』は現在、丸木美術館入口の企画展コーナーでも販売しています。
この機会にぜひ、お求めください。
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