2013/7/30

ポレポレ坐「炭鉱から」萩原義弘×本橋成一写真展  館外展・関連企画

今回の「坑夫・山本作兵衛の生きた時代〜戦前・戦時の炭坑をめぐる視覚表現」展において、たいへんお世話になった写真家の本橋成一と萩原義弘さんの写真展「炭鉱から」が、東中野のポレポレ坐ではじまりました(8月10日まで)。

お二人とも炭鉱写真で写真家としてデビューしたというつながりがあり(本橋さんは筑豊、萩原さんは夕張)、萩原さんのお話によれば、まだ学生だった萩原さんが夕張の炭鉱写真の展覧会を開催した際、当時の著名な写真家に片端から案内状を送ったところ、唯一会場に足を運んでくれたのが本橋さんだったというのです。
本橋さんのお人柄をあらわす逸話ですが、そんな出会いから30年ほどの歳月がたち、お二人が時を超えてお互いのデビュー作をならべて展示するというのも、また、心の温まる企画ですね。

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初日のこの日は、午後7時からオープニングイベントとして、本橋さん、萩原さんに正木基さんを交えて、トークが開催されました。
私は丸木美術館の仕事を終えてから駆けつけたので、トークは終わりの方しか聞くことができなかったのですが、その後に行われたオープニングパーティでは、久しぶりに古い野球チーム仲間の歌手(上々颱風)・白崎映美さんに再会し、イラストレーターの山福朱実さんにも初めてお会いできて、とても楽しい時間を過ごすことができました。
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2013/7/30

『朝日新聞』“飯館の被爆二世 原爆被災を語る”記事掲載  掲載雑誌・新聞

2013年7月30日朝日新聞朝刊埼玉版に、“飯館の被爆二世 原爆被災を語る”との見出しで、丸木美術館8月6日ひろしま忌の記事が掲載されました。
デジタル版の記事はこちら。無料会員登録で全文を読むことができます。
http://www.asahi.com/area/saitama/articles/MTW1307301100006.html

ひろしま忌でお話をして下さる田中一正さんは、福島県飯館村で酪農を営んでいて、2年前の福島原発事故で被災しました。そのことを機に、父親が広島で原爆に被爆している「被爆二世」であることも自覚しはじめたといいます。
記事のなかでは、田中さんの次のようなメッセージが紹介されています。
「私の父は戦時中に疎開していた広島で被爆したが今も元気だ。私は被爆二世だが、まさか新規就農で入植して原発事故に被災するとは思わなかった。私にとって広島のことはひとごとではない。初めて丸木美術館を訪れることに深い感慨を覚える」

ひろしま忌についての詳しい情報は、丸木美術館のWEBサイトをご覧下さい。
多くの方のご来場を、心よりお待ちしています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/0806.html
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2013/7/27

炭坑展ギャラリートーク1「炭坑を語る」  イベント

午後2時より、「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展のギャラリートーク第1弾“炭坑を語る”が行われました。
出演者は、今回の炭坑展開催に際し、非常にお世話になった写真家の萩原義弘さんと、詩人のヤリタヒロコさん、コールマイン研究室の菊地拓児さんです。

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炭坑と縁が深く、写真、詩、アートとそれぞれの表現方法を持つ3人が、それぞれの視点から炭坑を語るという企画。
会場には、20名を超える観客が集まり、まずは3つの展示室をまわりながら、萩原さんが展示の狙いや内容について解説をして下さいました。

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山本作兵衛の「炭坑記録画」に関心が集まりがちな今回の企画ですが、実は、そのほかの展示も非常に興味深く、見応えがあります。
それぞれの展示の内容については、いずれあらためて、この学芸員日誌で紹介していきたいと思っています。

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会場をめぐった後は、椅子にすわって3人による鼎談。
ヤリタさんも菊地さんも北海道のご出身ということで、北海道の炭鉱の話がメインテーマになりました。
ヤリタさんは自作の詩から、ご自身が育った炭鉱の街の生活の実感を伝え、菊地さんは、北海道の盆唄と学校の校歌から、炭鉱の歴史や記憶が現在どのような形で残っているかを見つめる、という興味深い調査内容を提示されました。

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芸術表現には、時代を超えて記憶を伝えていく、という力もあります。
トークの最後に、「炭鉱の遺産は今後も残るのか、記憶を残すことにどういう意味があるのか」という趣旨の質問があったことが印象的でした。
萩原さんは、「いまは炭鉱がブームのようになっているが、その一方では、炭鉱住宅などが次々と取り壊されているのも現実。炭鉱はいまだに“負の遺産”。これからも壊され続けると思う」と答えていました。
そうした時代の変遷のなかで、今回の企画展で展示した絵画や写真、彫刻などが、どのような意味を持つのか。これは炭鉱に限った話だけではないのかも知れませんが、人間の生きた証として“描かれた”こと、さらに“描ききれなかった”その先にある思いに、想像力を広げていくということの意味を、もう一度ゆっくり考えてみたいと思える貴重な時間でした。

   *   *   *

午後7時からは、上野の東京文化会館に駆けつけて、Chamber Music,Anyone?“室内楽はいかが?”Vol.16「コントラスト」東京公演を聴きました。

出演は、西本幸弘(ヴァイオリン)、ダビット・ヤジンスキー(クラリネット)、三宅進(チェロ)、崔善愛(ピアノ)。
「コントラスト」というコンサートのタイトルの通り、最後に演奏されたバルトーク・ベラ「コントラスト」に向かっていく曲の構成は、まずA.F.セルヴェ/J.ギス「“God Save the King”の華麗なる変奏曲」作品38からはじまり、J.ブラームス「クラリネット三重奏曲 イ短調 作品114(1891)」、そしてドイツ軍の捕虜となったメシアンがゲルリッツ捕虜収容所で作曲し、1941年1月15日に収容所内で初演されたという「世の終わりの四重奏曲」。
新約聖書ヨハネ黙示録第10章から啓示を受けて作曲したというこの曲は、とりわけ心に響きました。
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2013/7/27

『中国新聞』「ヒロシマを標(しるべ)に」掲載  掲載雑誌・新聞

2013年7月27日付『中国新聞』文化欄の連載「ヒロシマを標(しるべ)に」に、“「原爆の図」に新たな視座”との見出しで、記事が掲載されました。

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本文は、中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターのWEBサイトからもご覧になれます。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20130729101346304_ja

記事を執筆して下さったのは、福島の原爆文学研究会でごいっしょした文化部の渡辺記者。
3.11以後の取り組みについて丁寧にまとめ、原爆文学研究会やひろしま忌、広島での「原爆の図」展示、そして今後の出版予定にも目配りして下さった内容で、とても嬉しく思いました。
渡辺記者には心から御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
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2013/7/25

『埼玉新聞』(共同通信配信)“記憶伝えた原爆作品”  掲載雑誌・新聞

2013年7月25日付『埼玉新聞』に、共同通信配信の記事“芸術が語る 凄惨な体験 記憶伝えた原爆作品”が、全面掲載されました。
記事は、「絵が訴えた被爆の真実」として丸木夫妻の《原爆の図》が大きく紹介され、ほかに「原民喜の意志を受け継ぐ」(原民喜『夏の花』)、「被爆と闘病体験つづる」(石田雅子『雅子斃れず』)、「500分に込めた怒り」(峠三吉『原爆詩集』)という、計4本のトピックからなっています。

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以下に、丸木夫妻の「原爆の図」について書かれた部分のみを記事から抜粋いたします。

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 皮膚が垂れ下がった腕を前に出して歩く裸の男女、折り重なる数々の遺体。背丈ほどのキャンバスを黙々と見続ける人々。丸木位里と俊の夫妻が描いた「原爆の図」第1部「幽霊」が公開されたのは、広島への原爆投下から4年半後の1950年2月だった。
 「何が起きたのかわからなかった」。美術評論家ヨシダ・ヨシエさんは、初めて絵を見た印象をこう表現する。当時はアサヒグラフが被爆地の写真を初めて掲載する2年半前。「被爆地」を描いた画家はほかにもいたが、「人」を描いたほとんどなかった。
 連合国軍総司令部(GHQ)による報道統制の中、主催者は公開中止になることを懸念。題名を「八月六日」に変更して作品を発表したが、被爆の現実と悲惨さを訴える絵の力が衰えることはなかった。
 巡回展は文化人や労働者、学生らによって草の根で広がり、広島では原爆詩人峠三吉らが爆心地付近に展示。どこの会場も人があふれた。絵を背負って各地を回ったヨシダさんは「かぶっていた軍帽を投げ捨てて踏み付けた人がいた。それぐらいショックが大きかったのだろう」と語る。
 原爆の図丸木美術館(東松山市)の学芸員岡村幸宣さんは「情報が制限されている中、これが原爆という衝撃を与えたのではないか」と解説する。
 「こういう知らせ方があるのかと思った」と話すのは、横浜市の西岡洋さん(81)。自らも長崎で被爆し、顔の半分を失った人や血を流した赤ん坊を抱いた母親を目にしていた。東京都立大(現首都大学東京)の学生だった52年、学園祭で関わった被爆地の写真や資料の展示が評判を呼び、巡回展に同行。絵を前に被爆体験を語った。
 「見る人に圧力を与える量感がある」。何度も原爆の図に接して感じた。「子どもからお年寄りまで黙々と見ていた。あれだけ人々の心に食い込んだ展覧会はないのではないか」と振り返る。
 「誇張だろう」「こんなものではない」。原爆の図に対しては、さまざまな意見が寄せられたことも、丸木夫妻が画集に記した回想から読み取ることができる。
 それでも巡回展は53年10月までに、少なくとも36都道府県の160か所以上で開かれた。岡村さんは「実際の被害はもっとひどく、『被爆の実態』を描いているとは言えない。しかし、絵としての美しさが、これだけの広がりにつながったのだろう」と話している。


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取材をして下さったのは、共同通信大阪支社のT記者。
わざわざ丸木美術館を訪ねて丁寧に取材をして下さり、入院中のヨシダさんのもとも訪れて、いっしょにお話を伺いました。
良い記事を書いて下さり、心から感謝いたします。
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2013/7/23

田川市美術館徳永学芸員来館  企画展

週末に大勢のボランティアが草刈り作業をして下さったおかげで、8月6日のひろしま忌に向けて、川へ続く道や駐車場も例年以上に順調に整備されています。

   *   *   *

この日は、山本作兵衛や千田梅二などの炭鉱美術を専門に研究されてこられた田川市美術館の徳永恵太学芸員がわざわざ福岡から来館して下さいました。

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しかも、7月26日(金)までの平日に毎日会場でギャラリートークをして下さっている本展企画委員の正木基さんの提案で、急きょ、徳永さんもゲストとしてトークに参加されることになったのです。
ほとんど告知の時間がなかったにも関わらず、徳永さんのお話を聞きたいと来館された方も何人もいらっしゃって、実直な徳永さんは丁寧に時間をかけて解説して下さっていました。

22日の日曜日は、夏休み最初の日曜日ということもあって、イベントも何もない日とは思えないほどの大盛況でしたが、「山本作兵衛の生きた時代」展、着実に世間に浸透しているようです。

7月27日(土)午後2時からは、第1回目のギャラリートークとして菊地拓児さん(コールマイン研究室)、萩原義弘さん(写真家)、ヤリタミサコさん(詩人)という炭坑に縁の深い3人をお招きして、「炭坑を語る」と題するイベントを行います。
多くの方のご来場をお待ちしています!
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2013/7/18

川越スカラ座『セデック・バレ』  川越スカラ座

久しぶりの川越スカラ座で、映画『セデック・バレ』(2部構成で4時間36分の超大作)を観ました。1930年10月27日、日本統治下の台湾で起きた「原住民族」セデック族による抗日暴動「霧社事件」を描いた作品です。

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そもそもの動機は、12月に参加を予定している日本近代文学会のパネルディスカッションで、台湾と縁の深い文学研究者のKさんがこの『セデック・バレ』と「霧社事件」を取り上げるというので、事前に観ておきたいと思ったからなのですが、スケールの大きさに圧倒されて、Kさんがどんなふうに読み解かれていくのか、俄然、楽しみになってきました。

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山岳地帯の深い森のなかを裸足で獰猛に駆け抜けるセデック族の卓越した身体能力が見事に表現され、アクション映画としても非常に完成度の高いものになっています。
もちろん、日本の植民地政策という歴史に深く関わる物語なので、どのような立ち位置で映画を観るのかは非常に難しいのですが、必ずしも硬直した二分法に寄りかかるのではなく、近代国家という巨大な怪物に否応なく組み込まれ、翻弄され、駆逐される人間の運命を丹念に描いた、普遍的な意味を持つ映画だったように思います。



台湾の山奥に虹を信仰する民族がいた。
ある時、海を隔てた北方から、太陽を崇める民族がやってきた。
2つの民族は出会い、互いの信ずるもののために戦った。
しかし彼らは気づいていなかった。
虹も太陽も、同じ空にあるのだと・・・。


これは、パンフレットの冒頭に記されていた文章。
その言葉を借りれば、“太陽”と“虹”という異なる背景を持つ者たちの、いわば誇りをかけた鎮圧と蜂起の物語ではあります。
しかし、両者のあいだに位置する人たち(たとえばセデック族を理解しようとする日本の軍人であったり、皇民教育を受けて日本兵となったセデック族の若者であったり、その妻たち)が、武力衝突によって、それぞれ身を引き裂かれるような悲劇に直面していくという描写が、非常に心に残りました。
むしろ、この映画の本当の主人公は、誇りを貫く者たちではなく、苦悩し引き裂かれる立場の彼らだったのかもしれません。

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写真は、「日本兵」となったセデック族の若者「花岡二郎」の妻役を演じたビビアン・スー。彼女もセデック族出身なのですが、日本名「高山初子」を名乗り、和服を着て、「霧社事件」の際には日本人の女性たちとともに逃げまどうことになるのです。

川越スカラ座では、8月10日から16日にかけて、連日『セデック・バレ』第1部・第2部連続上映+ドキュメンタリ映画『台湾アイデンティティ』も上映という“台湾まつり”が予定されています。
貴重な機会、ご興味のある方はぜひ、ご覧下さい。
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2013/7/18

足尾鉱毒の図特別展示/炭坑展ギャラリーツアー  企画展

今年は、田中正造没後100年という節目の年に当たります。
そのため、丸木美術館では現在、特別展示として丸木夫妻の「足尾鉱毒の図」(太田市蔵)を公開しています。
前期展示は第1部《足尾銅山》、第2部《押し出し》、第3部《渡良瀬川の洪水》の3点です(8月8日まで)。

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3部とも「原爆の図」と同じ大きさ、180×720pの軸装作品。
あらためて展示室に飾ってみると、やはり非常に迫力があります。
「炭坑展」の隣りの部屋に展示されているので、銅山と炭坑の連続性も暗示できているのではないか、と思ったりもしています。
とりわけ、第1部の《足尾銅山》は、全国の炭坑や鉱山をまわって写真を撮影されている写真家の萩原義弘さんが、「細かいところまできちんと足尾の光景を描写していて、鳥肌が立つ」と太鼓判を押されている傑作。

今回の企画展では、やはり何と言っても山本作兵衛の炭坑記録画が注目されていますが、「足尾鉱毒の図」も滅多に見る機会のない、とても見応えのある作品ですので、お見逃しなく。

   *   *   *

そして、「山本作兵衛の生きた時代〜戦前・戦時の炭坑をめぐる視覚表現」展では、7月26日(金)までの平日に限って、企画委員の正木基さん(casa de cuba主宰)が会場に待機して常時ギャラリーツアーをして下さっています。

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2008年に目黒区美術館で「‘文化’資源としての〈炭鉱〉」という画期的な展覧会を開催された正木さん。
その膨大な知識量と、何より、一度話し出したら止まることのない情熱には圧倒されます。
ぜひ、炭坑を深く知るため、そして正木さんの情熱を体感するために、会場を訪れてみて下さい。
7月23日(火)午前10時から午後2時までは、特別ゲストとして田川市美術館の徳永恵太学芸員も会場にいらっしゃいます。山本作兵衛、千田梅二ほか炭鉱美術を田川市美術館で専門に研究されてこられた徳永さんが、正木さんとともに、会場でフリートークをされるという貴重な機会。こちらも本当に見逃せません。

今日は、地元の東松山CATVのT記者が炭坑展の会場撮影に来て下さいました。
じわじわと展覧会の評判が広がっているようです。
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2013/7/17

鶴ヶ島清風高校出張授業  講演・発表

午前中は、埼玉県鶴ヶ島市にある鶴ヶ島清風高校へ出張授業。
修学旅行で広島を訪れるという2年生を相手に、スライドを用いながら、丸木夫妻の残した仕事や、68年前の原爆投下について学ぶ今日的な意味について1時間ほど話をしました。

担当のE先生や実行委員のメンバーが美術館に打ち合わせに来て下さったり、事前学習が丁寧に行われていたこともあって、体育館に集まった生徒たちは、静かに集中し、プリントにメモをとりながら話を聞いてくれていました。

「誰も話を伝えてくれない」爆心地の状況を考えるには、想像力が必要とされること。
丸木夫妻はそうした想像力によって、人間の痛みを伝える絵画を描いたこと。
「原爆の図」が美しいのは、死者たちに寄り添い、その「生」を描いているからだということ。
武器は多くの命を奪うけれども、他者の痛みに対する想像力は、逆に人の命を救うということ……。

このところ、立てつづけに近隣の公立中学・高校への出張授業が続いていますが、今までにはあまりなかったことです。
近年、さまざまな事情から、丸木美術館に見学に来ることが難しくなっている学校が多いという話も聞こえてきますが、こちらから出張して丸木美術館のことを知って頂くのも大切な機会なので、これからも、多くの学校を訪ねていきたいと思っています。
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2013/7/13

「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展オープニングイベント  イベント

午後2時より、「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展のオープニング・イベントとして、作兵衛さんの曾孫にあたるヴァイオリニストの緒方ももさんたちのコンサートと、「炭坑の視覚表現をめぐって」と題するトークが行われました。

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連日の暑さにもかかわらず、会場には、約50人の観客が集まって下さいました。
コンサートの出演は、ももさんに、奥野幸恵さん(ピアノ)、清水英里子さん(ヴァイオリン)。
ももさんのヴァイオリンは、東京タワーで開催された山本作兵衛展のオープニングでも聴かせて頂きましたが、今日はそのときには叶わなかったという曾祖父の作兵衛さんの着物を仕立て直した黒いドレスを身にまとっての演奏です。

「アリラン」、「炭坑節」といった、ももさんが「炭坑を思うとき、必ず演奏しなければならない」と思っているという曲のソロ演奏からはじまり、ピアノが加わってチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」、3人の共演による「ニューシネマ・パラダイス」と次々と演奏が続いていきます。

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作兵衛さんの炭坑記録画にぐるりと囲まれ、そして本橋成一さんが撮影した作兵衛さんの大伸ばしの写真に見つめられるなかでの、若々しい演奏家たちによるコンサートは、歴史のつらなりと時間の交錯を感じさせる、素晴しいものでした。
アンコールでは、ももさんがバッハの「アヴェ・マリア」を演奏。
聖母マリアへ捧げる祈りの音楽が、炭坑記録画と不思議に溶け合い、心を揺さぶられました。

   *   *   *

休憩のあとは、今展の企画者である正木基さん(casa de cuba主宰)と、鳥羽耕史さん(早稲田大学教授)、保坂健二朗さん(東京国立近代美術館主任研究員)によるトークイベント。

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山本作兵衛の炭坑記録画について、保坂さんは「作兵衛の絵は坑内を断面図として表現しているのが特徴で、その余白に説明文を記すという独自のスタイルが確立されている。様式の破壊と創造という芸術のセオリーから自由であるという意味では、より根源的な衝動によって描かれた“アール・ブリュット”の画家のように見えるが、他の“アール・ブリュット”の画家たちとは視点のありようが違い、第三者としての客観的な視点になっている」と指摘し、50年代の文化運動に精通する鳥羽さんは「50年代の闘争の表現とはまた違うけれども、その発芽が見られる内容で、記憶を記録に近づける作品。こうした作品は、文学や写真・絵画のコラボレーションとしてあらわれることが多いが、作兵衛は自分で絵と文章を記したジャンルを横断する豊かな世界を作っている」と語りました。

2008年に目黒区美術館で「‘文化’資源としての〈炭鉱〉」展を企画された正木さんは、山本作兵衛の絵画とならぶ今展のもうひとつの見どころとして、常磐炭田の入山採炭を取材した大宮昇の《炭山画譜》を取り上げ、「作兵衛は63歳で炭坑記録画を描きはじめるまでずっと炭坑に関わり続けてきた人の表現だが、大宮昇はそれまでまったく炭坑と関わりのなかった人が、短期間に取材して一気に描きこんだという点で、対照的な意味を持つ作品」と紹介していました。

熱気と湿度で会場は決して居心地のよい環境とは言えませんでしたが、最後まで参加して下さった来場者の皆さま、そして出演者の皆さまに、心からお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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2013/7/12

「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展示作業  企画展

空調のない丸木美術館は、このところたいへん暑い日が続いていますが、明日開幕する「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展に向けて、展示作業もいよいよ終盤戦。

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今日は、「炭坑展」実行委員のMさん、写真家の萩原義弘さんに加えて、画家のMくん、都区内某美術館S学芸員がボランティアに駆けつけ、さらに、本橋成一さんとポレポレタイムス社のOさんまで展示に参加して下さいました。

この日のクライマックスは、企画展示室の壁に三段掛けした山本作兵衛の作品展示。
面白い展示になるだろうと予想はしていましたが……期待を超えた圧巻の迫力です。

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午後7時半過ぎ、ついに展示はほぼ完成しました。
大量の汗をかいて疲れ切ったスタッフですが、しかし、充実感に満ちた表情で記念撮影。
途中、おそらくは熱中症で倒れてしまったMさんの具合が心配ですが、明日は午後2時からオープニング・イベントを迎えます。
多くの方のご来場を、心よりお待ちしております!
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2013/7/11

『文化ニュース』第117号「芸術は愉し」  調査・旅行・出張

午前中、炭坑展のポスターをお届けに、東中野のポレポレタイムス社へ。
本橋成一さんはじめ、スタッフの皆さんに温かく迎えて頂き、近ごろ、雑誌『サライ』で紹介されて話題を呼んでいるという「ポレタイごはん」にもお呼ばれされたのですが……残念ながら、午後1時には京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターへ行かねばならず、泣く泣く断念。

   *   *   *

フィルムセンターの試写室では、早稲田大学演劇博物館・演劇映像学連携研究拠点の主催による特別試写が開催されていました。
その試写のなかで、代表者のWさんの御厚意により、1950年夏に上映されたニュース映画『文化ニュース』(理研映画株式会社製作、大映配給)第177号を見せて頂いたのです。
というのも、この映像のなかに、1950年2月に第1部が発表されたばかりの丸木夫妻の「原爆の図」制作の様子が紹介されているのです。

靖国神社の盆踊りを撮影した「夏のひととき」や、1950年7月13日の臨時国会召集を伝える「第八国会ひらく」、浅草の暴力団の検挙を報じた「町のダニ絶えず」といったニュースに続いて、当時丸木夫妻が住んでいた片瀬のアトリエの全景が映し出されました。アトリエの庭の奥の小高い崖の上から撮影したのでしょう。
ニュースの題名は「芸術は愉し」。「原爆の図」の報道には、およそそぐわないような言葉です。
その後、位里の母・スマが丸木夫妻の前でモデルになって第2部《火》が描かれる光景(縞模様の着物を着てうずくまるスマの姿から、山端庸介の写真をもとにした老女の部分を描いていると思われます)が紹介されたり、制作する俊(当時は赤松俊子)の様子が大きく映し出されたり、作品そのものが細部まで丁寧に撮影されたりしているのですが、興味深いのは、「思い出の八月六日」、「あの日の広島を描く大作・火」、「親子三人水入らずの共同制作」……といった具合に、ナレーションにまったく「原爆」という語が使われていないことです。
当時はまだ米軍占領下の時代で、プレスコードも存在し、「原爆」という言葉を大々的に使ってしまうと、どんな弾圧が待っているかわからないという危険がありました。
そうした状況下で「原爆の図」をニュース映画で紹介するための工夫が、1分足らずの短い映像から、はっきり伝わってきます。
また、何気ない表現ですが、作者が「赤松俊子夫妻」と紹介されているのは、当時、“ソ連帰りの文化人”であった俊が、位里よりも著名な立場であったことを示しているのでしょう。
『文化ニュース』には、その後も文学座の杉村春子の話題などに続いて、三鷹事件や朝鮮戦争の生々しい映像が映し出され、時代状況が垣間見られます。

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この『文化ニュース』については、1950年10月に広島の爆心地付近の五流荘で開催された「原爆の図展」のチラシに「製作過程は文化ニュースとして既に廣島でも上映されましたのでおなじみの方も多いと思います。」と記されていたので、以前から存在を知ってはいたのですが、映像を実見するのは初めてでした。
1953年の記録映画『原爆の図』(今井正・青山通春監督)よりも前の、もっとも早い時点での「原爆の図」の記録映像であることは、間違いありません。

現時点では、簡単に一般公開できる映像ではないようなので、たいへん貴重な機会を下さったWさんはじめ早稲田大学演劇博物館・演劇映像学連携研究拠点の皆さま、そしてフィルムセンターの方々に、心から御礼を申し上げます。
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2013/7/11

岩波書店WEB連載「3.11を心に刻んで」  執筆原稿

2013年7月11日更新の岩波書店のWEB連載「3.11を心に刻んで」に、石巻若宮丸漂流民の会事務局長の大島幹雄さん、ドキュメンタリストの瀬戸山玄さんとともに、岡村のエッセイが掲載されました。
http://www.iwanami.co.jp/311/

この連載は、2011年5月からはじまった岩波書店初のWEB連載で、過去から蓄積されてきた言葉を書籍などより引き、その言葉に思いを重ねたエッセイを毎月3名の方が執筆するという内容。
すでに2011年5月〜2月分と2012年3月〜2013年2月分は、単行本としてまとめられています。

今回の執筆の前に、これまで記されたエッセイを通読したのですが、池澤夏樹さんやアーサー・ビナードさん、こうの史代さん、石牟礼道子さん、やなせたかしさん、川上弘美さん、田口ランディさん、かこさとしさん、落合恵子さんなどなど・・・さまざまな方が執筆されていて、とても読み応えがありました。

編集部のYさんよりこのお話を頂いた際、「WEB連載は、もちろん最終的には書籍化するという目的もあるのですが、それよりも、毎月3.11に立ち戻りながら、長いスパンで積み重ねていくことを大切にしたいという思いがあるのです」とおっしゃっていたことが心に残りました。

私がとりあげたのは、丸木俊の「もっとも悲しく、辛いことを、もっとも美しく描くことができれば、私は本望なのではないか。」という言葉。
Yさんからは、「自由な立場で、どんな言葉を選んで下さっても結構です」と言われていたので、せっかくの機会だから、ふだんの立場から離れて書かせてもらおうか……などと、いろいろ迷ったものの、最終的には、やはり丸木美術館学芸員として、3.11に立ち戻ることの意味を考えながら選びました。
http://www.iwanami.co.jp/311/DOCs/1307b.html

   *   *   *

そして、今週の岩波書店の編集会議で、『非核芸術案内 ――核はどのように描かれてきたのか』と題するブックレットを岡村が執筆することも正式決定いたしました。
刊行はまだ先の話なのですが、今回のWEBエッセイは、その前触れという意味も含んだ内容になっています。

ぜひ、この機会に、岩波書店の地道な取り組みにご注目頂ければと思います。
連載は、毎月11日に更新されています。
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2013/7/10

「坑夫・山本作兵衛の生きた時代」展展示作業中  企画展

いよいよ土曜日に開幕が迫った「坑夫・山本作兵衛の生きた時代 戦前・戦時の炭坑をめぐる視覚表現」展。
朝から“casa de cuba主宰”のMさんと、写真家の萩原義弘さんが来館されて、一日じゅう慌ただしく展示作業を行いました。
すでに7日付の『東京新聞』メトロポリタン版に掲載されていることもあって、「山本作兵衛展」についてのお問い合わせも美術館に来ているのですが、今回の展覧会は、「戦前・戦時の炭坑をめぐる視覚表現」と銘打っているように、決して作兵衛さんの炭坑画だけの展示ではありません。

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たとえば、すでに展示のできあがりつつあるこの小展示室では、萩原義弘さんが撮影された戦時中に制作された全国の坑夫の像11体の写真とともに、小さなブロンズ像「救護隊の像」を展示しています。
炭坑がもたらした豊かな表現の一端が、この光景からも感じ取れることと思います。

冷房のない展示室内は、作業で動きまわっていることもあって、まるで炭坑労働のように(?)たいへん暑くなっています。
最後にはもろ肌脱いで褌一枚の姿になって作業を行うかも知れません。。。
メインの作兵衛の炭坑画の展示は開幕前日になりそうですが、どんな空間ができあがってくるのか、たいへん楽しみです。

7月13日(土)午後2時からは、オープニングコンサート+トークイベント「炭坑の視覚表現をめぐって」を開催いたします。
コンサート出演は、山本作兵衛の曾孫にあたるヴァイオリニストの緒方ももさんをはじめ、奥野幸恵さん(ピアノ)と清水英里子さん(ヴァイオリン)。
そしてトークイベントには、鳥羽耕史さん(早稲田大学教授)、保坂健二朗さん(東京国立近代美術館主任研究員)、正木基さん(casa de cuba 主宰)が出演されます。
ぜひ、多くの方にご来場いただきたいと思っています。
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2013/7/9

東松山市立南中学校出張授業  講演・発表

午後、丸木美術館にもっとも近い中学校である東松山市立南中学校へ自転車で走って行き、1年生約200人を相手に出張授業を行いました。今まで、高校や大学へはたびたび行ったことはありましたが、中学校への出張授業というのは、初めての試みです。

きっかけは、南中学校の先生が「郷土を学ぶ」という総合学習の一環として呼んで下さったこと。
そのため、まずは、南中学のとなりを流れる都幾川の風景について、いかに丸木夫妻が気に入っていたか、という話をしました。丸木夫妻は都幾川の風景に位里の生まれ故郷の広島の太田川を重ね合わせ、終の棲家としてこの地を選んだのです。
また、丸木夫妻がなぜ「原爆の図」を描くようになったのか、この絵にどんな思いを込めたのか、という話とともに、たんに戦争の惨禍を伝えるだけでなく、「弱い立場の人の痛みに想像力を広げる」というテーマを生涯をかけて追い続けたのだと説明すると、生徒たちも自分の日常にひきつけて丸木夫妻の仕事を理解してくれたようでした。

しっかり集中して静かに話を聞いてくれた1年生たちとお別れした後、校長室で先生方と雑談をしました。先生のなかには、地元の出身で、子どもの頃から丸木美術館を身近に感じていた、という先生もいらっしゃいました。
南中学校の学区域には、丸木夫妻が校舎の壁画を描いた青鳥(おおどり)小学校もあり、先生の話では、青鳥小学校の卒業生にとって、その壁画が大切な誇りになっている、とのこと。たしかに、授業のなかで、青鳥小学校の壁画――青い鳥に包まれたさまざまな肌の色の子どもたちの絵――が、世界の平和を象徴していると話したときには、しっかりと頷く子どもたちが何人もいたのです。

東松山市で育った子どもは誰もが丸木美術館のことをよく知っている、という状況が理想なので、これからも、お声掛け頂ければどこへでも行ってお話しさせて頂きますよ、と言ったところ、校長先生をはじめ、先生方もたいへん共感して下さったようでした。
南中学校からはじまった試みが、これから大きく広がっていくことを、とても楽しみにしています。
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