2013/5/25

ちひろ美術館「手から手へ」展  他館企画など

夕方、ちひろ美術館・東京で開催中の「手から手へ」展を見てきました。

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この企画は、スロヴァキア在住の絵本作家・降矢ななさんの呼びかけにより、「3.11後の世界から私たちの未来を考える」というテーマで、日本、スロヴァキア、ヨーロッパ諸国からの絵本作家を中心とする有志たちが参加して開かれた展覧会です。
2012年3月にイタリアのボローニャで最初の展覧会が開催され、その後、ブラティスラヴァ、ワルシャワ、アムステルダム、コペンハーゲンを巡り、日本国内の巡回展へとつながりました。すでに安曇野ちひろ美術館で3月から開催されていたのですが、この5月22日から、東京展としてちひろ美術館・東京の展示がスタートしたのです。

出品者は、降矢さんをはじめ、西村繁男、山福朱実、木坂涼、アーサー・ビナード、荒井良二、あべ弘士、いわむらかずお、片山健、黒田征太郎、酒井駒子、田島征彦、田島征三、田畑精一、長谷川義史、浜田桂子、和歌山静子、内田麟太郎など、など、など……お名前をあげていけばきりがありませんが、降矢さんが「作家の思いが込められた力のある表現を展示したい」とおっしゃっていたように、とても見応えのある作品が並んでいました。

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午後5時半からは、『“手から手へ展”のはじまりと、これまで。そして、これから』と題して、降矢ななさんの講演会が開かれました。聞き手は、絵本研究家・絵本作家の広松由希子さんです。

「3.11」の知らせをスロヴァキアで聞いた降矢さんは、日本と海外の原発事故に対する反応のあまりの違いに驚き、また、自分自身のなかでチェルノブイリ原発事故の記憶が薄れていたことにも気づき、絵本に何ができるのかを悶々と考えていたそうです。
そんな中で、数多くのチャリティ展に声をかけられ、「ただ参加すればいいという質の低い展示ではなく、絵本作家の表現の力が見せられる展覧会を自分でも企画したい」と思い立ち、多くの友人たちに支えられながら走り続けてきたとのこと。
スライドで見せて下さったヨーロッパ各地の展覧会の様子は、たしかに手づくりの温かさにあふれ、とても魅力的に感じられました。

降矢さんの絵本は、わが家でも『めっきらもっきらどおんどん』や、「やまんばのむすめ まゆのおはなし」、「ちょろりん」シリーズなどがとても人気で、そのちょっと不思議な雰囲気の作風から、私はひそかに降矢さんのことを「異世界を自由に行き来できる“魔女”に違いない」と敬意を抱いていたのですが、この展覧会の成功を見る限り、やはり降矢さんには“魔術的能力”が備わっているように思われました。

印象に残ったのは、降矢さんが、「ふだん発言をほとんどされない、酒井駒子さんのような静かな方が、こちらが驚くようなはっきりとしたメッセージを寄せて下さったことが、嬉しかった」とおっしゃっていたこと。
酒井さんの絵は、いつもの酒井さんらしい静謐な作品でしたが、メッセージには「本当に私たちは間違っていました。原子力発電をやめなければいけません」と、短く、きっぱりと書かれていたのです。

講演会の後で、ちひろ美術館の学芸員の皆さんに挨拶をしつつ、降矢さんに絵本『イソップのおはなし』(文章は詩人の木坂涼さんという素晴しいコンビ)にサインを頂きました。
穏やかな笑顔の降矢さんは、こちらが勝手に描いていた“魔女”のイメージとは少し違いましたが、しかし、その温かい人柄に、あらためてファンになりました。
展覧会は8月4日まで開催中です。
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2013/5/24

【金沢出張2日目】木下晋さんアトリエ/金沢21世紀美術館  調査・旅行・出張

金沢市官舎・木下晋邸での男三人合宿。
朝早くから、木下さんは6畳の和室で「合掌図」を制作されていました。

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官舎には広々としたアトリエがあるのですが、木下さんは「あそこは絵を描く場所ではない」と言って、和室の壁にベニヤ板を貼り、その上に紙を鋲打ちしているのです。
写真は、合掌する手を実寸の約20倍に拡大して皺を一本一本描いているところ。

森のなかの木のひとつひとつが違うように、人間の皺も一本一本が違う。
そして、一本でも狂ってしまえば、全体が歪んでいく。
そんな話を聞きながら、木下さんの仕事は、その人の歩んできた人生そのものを描く“肖像画”なのだということを、あらためて感じました。
木下さんの展覧会、とても見応えのあるものになりそうです。

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そして、そうした会話の一部始終を撮影しているTさん。今のところ、まだ発表の目処はたっていないそうですが、かなり密着して映像を撮っているようなので、楽しみです。

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木下さんが東京に用事があるというので、結局、三人一緒に特急と新幹線を乗り継いで東京に戻ることにしました。

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途中、金沢21世紀美術館に立ち寄って、木下さんの友人のA館長にご挨拶。
開催中の企画展「内臓感覚―遠クテ近イ生ノ声」も観ました。
「2011年の東日本大震災および原子力発電所事故以降、放射能への我々の漠然とした不安、不快感に代表されるように、自然環境や社会経済システムの綻びや不安が現実となる今、個々の体の内部は何を感じ、何を発しているのでしょうか。本展において、来場者と作品との出会いの瞬間に生じ、交錯するであろう、あらゆる感覚や反応を手がかりとして、今に生きる我々が、自分と自分以外の存在の「遠くて近い生の声」に耳を澄まし、感じ、考える場となることを願います。」という趣旨の企画。
ピピロッティ・リストの映像や志賀理江子の写真など、興味深い作品がありましたが、ビル・ヴィオラの映像が(上映時間外で)観られなかったのはちょっと残念でした。
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2013/5/23

【金沢出張初日】木下晋さん作品調査  調査・旅行・出張

秋に企画展を予定している画家の木下晋さんの作品調査のため、金沢を訪れました。

鉛筆画による圧倒的な描写力で、瞽女の小林ハルさんや元ハンセン病患者の詩人・桜井哲夫さんらを描いた作品で知られる木下さんは、現在、金沢美術工芸大学大学院の博士課程で専任教授をされています。

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まずは木下さんが生活をされている大学の官舎へ。
立派な二階建ての官舎でしたが、木下さんはその家のなかを展示スペースのようにして、初期の油彩画作品を飾っているのです。
鉛筆画とはまた雰囲気の違う、木下さんの内面の深い闇を表現した20点ほどの作品に心を打たれつつ、木下さんからお話を伺いました。

また、大学の研究室にもお伺いして、収蔵されている鉛筆画46点の確認と寸法のチェックも行いました。
丸木美術館の企画展は、鉛筆画の大作はもちろん、初期油彩画、そしてもうすぐ福音館書店から刊行される木下さんの幼少時の体験(放浪癖のある母親に連れられて、富山から奈良まで歩いて旅した記憶)を描いた絵本の原画も紹介して、木下さんの歩んできた人生をたどる内容になるのではないかと思います。

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研究室からの帰り道には、戦国時代に一向一揆の山砦だったという椿原天満宮も案内して頂きました。

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江戸時代に天満宮が建てられたそうですが、その前は堅牢な石垣に囲まれた山砦で、加賀一向一揆の大将、洲崎兵庫の屯営地だったとのこと。当時の古い石垣も現存しているのです。

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ちょうど木下さんの活動を映像で記録しているというTさんも滞在されていて、木下さんの官舎で男三人合宿を張ることになりました。
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2013/5/22

『西日本新聞』に原爆文学研究会福島開催の記事掲載  掲載雑誌・新聞

今日は午後から神奈川県立近代美術館から2人の女性学芸員が来館。
今夏に同葉山館で開催される企画展「戦争/美術 1940-1950 ─モダニズムの連鎖と変容─」の出品作品の撮影と状態チェックを行いました。
戦争と美術が密接に関わった複雑な時代を、従来の分断の視点ではなく、40年代という時代の連続性でとらえるという興味深い展覧会。岡村も、展覧会図録に丸木夫妻と《原爆の図》についての原稿を執筆させていただくことになっています。

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2013年5月22日付『西日本新聞』文化欄に、“原爆文学研究会 初めて福島で開催 見えないものと向き合うこと”との見出しで、4月末に福島で開催された原爆文学研究会の記事が掲載されました。
記事を執筆されたのは、原爆文学研究会にもたびたび参加されている大矢和世記者です。
以下に、記事の一部を抜粋します。

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 毎時0.17マイクロシーベルト。1日目の会場、福島大(福島市)に設置された測定器が、空間放射線量率を示す。「健康には影響しない」値というが、この地では放射線量が、気温や湿度と同じように数値で示される。でも、暑くも寒くもべたつきもしない。今回の原文研は、それを知覚しようとする試みではなかったか。
 非当事者による3.11以降の美術表現で、丸木美術館(埼玉県東松山市)の岡村幸宣学芸員は「多くが福島だけでなく、別の問題意識を重ねている」と指摘した。例えば韓国人写真家鄭周河(チョンジュハ)さんは福島を撮った写真集に、植民地時代の朝鮮詩人の詩句「奪われた野にも春は来るか」と名付けた。佐賀県出身の画家池田龍雄さんは、福島原発事故を主題にした連作『蝕・壊・萌』に、広島の原爆詩人峠三吉の詩を添えた。岡村さんはパウル・クレーの言葉「芸術の役割は(略)見えないものを見えるようにすること」を念頭に「福島の光景は美しく、視覚的には問題が見えにくい。他のものを重ねることで見えるものもあるのでは」と言う。
 一方、澤正宏・福島大名誉教授(日本近代詩)の発表は、当事者の“内側”にある痛苦だった。詩人で英文学者の西脇順三郎研究の第一人者である澤さんだが「研究どころではなくなってしまった」と、現在は約40年前の福島原発設置反対裁判の再検証などを行う。原発作業員募集の求人が並ぶ広告を手に、澤さんは「福島には二つの時間がある」と強調する。原発事故など無いように取り繕われる日常の時間と、汚染水処理や廃炉など収拾が見通せない時間とが同時に流れる。本来なら、到底一致し得ないほどかけ離れた時間軸にあるにもかかわらずに。


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こうした研究会の報告に続いて、大矢さんは、「原爆文学」には落とす側と落とされる側が存在し、戦争の残虐性があらわれるのに対し、今回の原発事故の問題は複雑多岐にわたる、と指摘します。
そして、2日目のフィールドワークで出会った人びと―飯館村から福島市へ避難し、加工品や弁当を調理販売する女性グループや、富岡町民の生活支援のアドバイザーを務める女性、飯館村から避難し、福島市で仲間と牧場を営む被曝二世の男性の言葉を紹介しながら、次のような重要な問題を提起していました。

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 彼らは「見えないものと向き合うこと」を選んだわけではない。あの日、全く違う世界に投げ込まれ、向き合わざるを得なくなった対象が「見えないもの」だったのだ。その世界に投げ込まれる者が、私たちではないと、誰が言えるだろう。当事者/非当事者の線引きを、誰ができるだろう。
 フィールドワークで走るバスの車窓から、至る所に咲き誇る菜の花が見えた。目にまぶしいほどだ。だがこの2年、菜の花やヒマワリが、土壌中のセシウムを吸収する効果を期待して被災地に植えられたことも、私たちは報道で見聞きしてきた。美しくて、悲しい。この光景の二重性を意識することから、現在地が見えてくるのだと思う。


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初の福島開催ということで、いつもにまして参加者が多く、個人的にも非常に心に残った研究会でしたが、こうしたきちんとまとまった報告記事を読むことで、自分があの研究会で体験したことがよみがえり、これからの仕事にどのように接続させていくか、あらためて考えさせられる良い機会になりました。
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2013/5/19

山本作兵衛炭鉱画撮影と平凡社コロナブックス  企画展

朝から元学芸員のMさん、カメラマンのOさん、印刷博物館のT学芸員が来館され、先日搬入したばかりの山本作兵衛の炭鉱画などの写真撮影を行いました。

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一日がかりで撮影、額装を繰り返す重労働でしたが、皆さんの頑張りのおかげで無事に作業は終了。
撮影は、今夏に丸木美術館で開催される「坑夫・山本作兵衛の生きた時代〜戦前・戦時の炭鉱をめぐる視覚表現」展のためでもありますが、実は、この展覧会に合わせて、平凡社コロナブックスから『山本作兵衛から遡る炭鉱』が刊行されることになっているのです。

この書籍は、山本作兵衛のご遺族が所蔵される炭鉱画の全点解説や、作兵衛以前の筑豊の炭鉱画家(原田大鳳、島津輝夫、山近剛太郎ら)、井上為次郎の炭鉱絵画『明治時代の炭鉱風俗』などの絵画をはじめ、彫刻、写真、映画、ポスターなど戦前・戦時の多様な視覚表現を取り上げる読み応えのある内容になりそうです。

岡村も、先日、M元学芸員や萩原義弘さんといっしょに調査に行った加藤恭平の炭鉱写真を軸とする戦時期の炭鉱写真についての文章を執筆することになりました。
書籍の刊行は、「炭鉱をめぐる視覚表現」展がはじまる7月6日を目標にしているので、現在、編集者のSさんが急ピッチで編集作業を進めて下さっています。
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2013/5/18

池袋モンパルナス対談/KEN壺井明トーク  他館企画など

午後2時から、立教大学太刀川記念館で開催されたトークショー「二人の芸術家と池袋モンパルナス」を聞きました。
出演は画家の野見山暁治さんと造形作家の高山登さん。
お二人とも「池袋モンパルナス」と呼ばれているアトリエ村で暮らした経験をお持ちの方です(ただし、野見山さんは戦時中、高山さんは戦後にアトリエ村に居住)。また、野見山さんが東京藝術大学の教師となった際の1期生が高山さんだったそうです。

高山さんのお母様が赤松俊子(丸木俊)と女子美術の同級生であり、高山さんも幼い頃丸木夫妻にかわいがられたという話は、以前に学芸員日誌でも紹介しました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1830.html

トークショーでは、野見山さんが戦時中にアトリエ村で暮らしていたときの隣組長が赤松俊子だったという縁もあり、俊さんが隣組の集まりの際に戦陣訓を数秒で話し終えてさっさと食糧配給に移っていたことや、位里さんの朝帰りにまつわる秘話など、ユーモラスな逸話が次々と紹介されました。

印象に残ったのは、「戦争画を描くことについては、当時さまざまな議論があったが、決してアトリエ村の外には洩れなかった。憲兵に密告する人もいなかった。ふだん絵描きはいい加減なものだと思っていたが、人間を不審にする戦時下にあって、それだけは信頼できた」という野見山さんの回想でした。
誰もが貧しく、アトリエも狭く粗末な建物で、「池袋モンパルナス」との呼び名から感じられる瀟洒なイメージには程遠いものだったようですが、今でも多くの人の心を惹きつけるのは、“何もないけど自由はあった”という雰囲気だったのでしょう。

今回の企画は、「第8回新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」の一環。
6月1日(土)には、午後1時より東京芸術劇場にて、土本典昭監督の映画『水俣の図』上映とともに、「池袋モンパルナスの記憶」と題する高山登さんと岡村のトークも企画されています。

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午後5時からは、三軒茶屋のKENにて、トークイベント「壺井明 《無主物》を語る」を開催。

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KENの黒壁に一日限定で《無主物》が展示され、壷井さんの生い立ちや芸術観、絵画作品《無主物》についての思いなどを、2時間ほどお聴きしました。

父親の仕事の都合で転校が続き孤独だった少年時代に、自分が作ったもので人とつながりたいという思いが強まっていたこと。
自分の抱えている葛藤が決して自分一人の問題ではなく、現在の社会のなかで多くの人が抱えている問題であると気づいていったこと。
西アフリカの仮面や北米の先住民のトーテムポールなどに惹かれ、言葉による思考を超えた意味を込める「現代のイコン」のような絵を描きたいと思ったこと。
さまざまな要素が混在する“多様性の木”や、下北沢の再開発によって破壊されていく時間の持続性を描いた作品、アフガニスタンの戦争、生命の連鎖をテーマにした食供養画を描き続けてきたこと、などなど。

そうした話は私も初めて聞く内容で、彼の生きてきた過程そのものが、福島原発事故を描いた《無主物》という作品に、実は深くつながっているということを考えさせられる、非常に興味深いトークでした。
「3.11」という体験は、プライベートの部分でも壷井さんに悲しい別れをもたらし、自殺を考えるほど追いつめられていたそうですが、だからこそ「フィクションが成立するのは、悲惨な現実に直面したとき」という壷井さんの言葉は、重く響きました。

トーク終了後、会場に残った方々と壷井さんの作品について雑談をしたのですが、皆さんそれぞれの視点で彼の仕事に深い興味を抱き、《無主物》という絵画から何かを読み取ろうとしているように感じました。
その後はいつものように、KENのご家族と写真家のAさん、デザイナーのUさん、第五福竜丸展示館のY学芸員、同館顧問のYさんに壷井さんをまじえて、近くの居酒屋で打ち上げ。楽しい時間を過ごすことができました。
貴重な企画の場を与えて下さったKENの皆さんに感謝です。
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2013/5/17

【筑豊出張3日目】炭鉱犠牲者復権の塔など  調査・旅行・出張

筑豊出張最終日は、朝一番にEさんに案内されて、宮若市の千石公園にある「炭鉱犠牲者復権の塔」(1982年建立)を訪れました。

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塔の上に建つのは、夫婦の坑夫のブロンズ像。夫は先山(石炭を掘る熟練した採炭夫)、妻は後山(採炭夫の助手)として2人一組になって坑内労働を行っていた様子をあらわしています。

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注目すべきは、塔の裏面に彫り込まれた次の文字です。

すべての国の働く人々は
世界の仲間である
かつては断絶や抑圧もあったが
このごには連帯と尊厳があるように

WORKERS OF EVERY NATION
ARE CITIZENS OF THE WORLD
THEIR PAST-ISOLATION AND OPPRESSION
THEIR FUTURE-SOLIDARITY AND DIGNITY


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この塔を見たとき、私にはまったく予備知識がありませんでしたが、この練り込まれた言葉に、ただごとではない思いが込められているように感じました。

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塔の三方には、坑内作業の様子やボタ山の風景などが刻まれたレリーフが飾られています。

M学芸員の教示によれば、塔の建設を筑豊の人びとに理解してもらい、建設費用を集めるため、山本作兵衛の絵による紙芝居が各地で上演されたそうです。
炭鉱の犠牲者、そして炭鉱の労働に従事させられた外国の人びとの復権を目的とした塔建設のために尽力されたのは、牧師の服部団次郎さん。
服部さんの生涯については、以下のWEBサイトに詳しく紹介されています。
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/242837/www.town.miyata.fukuoka.jp/Kouhou/H17/Nov/txt/kouhoutextP0512.htm

戦前に沖縄へ渡りハンセン病患者の救済運動に従事されていた方で、この「炭鉱犠牲者復権の塔」は、沖縄の「ひめゆりの塔」や「魂魄の塔」から想を得ていたようです。
筑豊と沖縄を重ねて見る、という視点には、驚きと同時に、ああやはり……という思いもありました。「3.11」後の現在においてその視点は、原発事故の被害を受けた福島にもつながっていくということなのでしょう。

Eさんは、「本当は朝鮮人犠牲者を追悼する無窮花堂も見せたかったのだけど」と言って下さったのですが、時間がないために残念ながら今回は断念しました。

   *   *   *

小竹駅でEさんとお別れし、写真家の萩原義弘さんと合流。
炭鉱画を描いた山近剛太郎のスケッチブックを所有されている元貝島炭鉱の重役Fさんのお宅を訪れ、スケッチを拝見させていただきました。

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坑内で作業をする女坑夫の墨画や、坑内馬を描いた彩色画など、興味深いスケッチばかり。
丸木美術館の展覧会への出品をお願いしたところ、快く了解して下さいました。

   *   *   *

最後に、小倉駅に向かう途中、萩原さんの案内で、遠賀川のほとりに建つ「炭掘る戦士像」を訪れました。
1954年に地元有志の発案で直方駅前に設置され、“炭都”直方のシンボルとして長年市民に親しまれた花田一男(直方出身の彫刻家)の制作によるセメント彫刻です。

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キャップランプをかぶり、ドリルで石炭を掘る炭鉱夫の力強い姿の像。
1996年に駅前ロータリーの再整備によって河川敷に移転されたのは、時流のせいというべきなのでしょうか。

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炭鉱画が世界記憶遺産となり、炭鉱の遺跡群も再び注目を集めつつある現在にあって、河川敷の片隅でクモの巣まみれになっている坑夫の像は、少々寂しそうに見えました。

今回の筑豊出張はこれで終了。
作品を無事に丸木美術館に搬入し、夏の企画展の準備を少しずつ進めていきます。
お世話になった皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2013/5/16

【筑豊出張2日目】直方・田川・飯塚炭鉱画巡り  調査・旅行・出張

筑豊出張2日目は、昨日に引き続き、山本作兵衛の御孫Eさん、元学芸員Mさんとともに、朝一番に直方市石炭記念館へ。
ここで写真家の萩原義弘さん、直方市谷尾美術館のN学芸員と合流しました。

直方市は、明治のはじめから約100年間に8億トンの石炭を産出した筑豊炭田の中心地。
筑豊地区で採れた石炭は、直方駅に集められてから、汽車で輸送されていったのです。
線路を見下ろす立地に建てられた石炭記念館の前には、貝島炭鉱の大之浦炭坑で資材運搬用としてドイツから輸入した炭鉱専用の機関車コッぺル32号が保存展示されています。

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石炭記念館の本館は、筑豊石炭鉱業組合の直方会議所として1910年8月に建てられた貴重な建物で、直方市の有形文化財に指定されています。

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1885年に設立された筑豊石炭鉱業組合は、石炭産業最初の組合団体。
木造2階建、瓦葺きの洋風建築である直方会議所は、さまざまな会議に使用され、貝島太助、麻生太吉など当時の炭鉱経営者がここで激論を交わしたそうです。
1922年4月にはこの場所に同組合の救護練習所を設けられ、救護隊員養成と救命器使用訓練が組織的に行われました。
その後、戦時下に石炭統制会、九州石炭鉱業協会などの所属になり、1952年には九州炭鉱救護隊連盟が設立され、同連盟の直方練習所となりました。
この間、基礎訓練終了者数は作業隊員9,682名、整備員480名に及んだそうです。
しかし、1969年に九州鉱山保安センターが開設されたことによりその役割を終え、直方市に寄贈されて石炭記念館となったというわけです。

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庭には他にも、鉱夫の像などが建っています。

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石炭をかたどったモニュメントには、坑内作業の様子を表現したレリーフもありました。

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まずは本館2階の展示室に上がり、かつて日鉄二瀬鉱業所本館の玄関正面に掲げられていたという柏原覚太郎の油彩画《やまの戦士》や、北島浅一作の女坑夫を描いた炭鉱坑道風景の油彩画などを萩原さんが撮影しました。
これらの作品は、丸木美術館で開催する炭鉱展には出品されませんが、展覧会開催に合わせて刊行される平凡社のコロナブックスに写真を紹介する予定になっているのです。

この資料館は、石炭に関わる実物の資料とともに、絵画の紹介にも力を入れています。
別館の2階には、山本作兵衛の炭鉱画がひとつのコーナーとして展示されていました。

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また、山本作兵衛より早い時期に「明治時代の炭鉱風俗」を描いていた井上為次郎の炭鉱画も、複製ですが展示されていました。丸木美術館の企画展では、ご遺族のご厚意により、オリジナルの作品を全点展示できることになりました。

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そして、今回の私たちの目的は、貝島炭磧の重役をつとめた山近剛太郎のペン画。
山近の作品も充実した展示となっています。

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石炭記念館のN館長は、かつて丸木美術館にボランティアとして通っていた時期もあるそうで(!)、展覧会にも快くご協力頂き、原田大鳳の炭鉱絵巻と、山近作品の中から坑内馬を描いた貴重な小品をお借りすることができました。

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次に訪れたのは、直方市中央図書館。
この図書館の郷土資料室には、“大正の広重”と言われた鳥瞰図絵師・吉田初三郎の筆による、《直方市鳥瞰図》(1960年作)が所蔵されています。

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炭都・筑豊の中心地として栄えた直方市の町並みを描いた作品。

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直方駅周辺のにぎわいも詳細に描かれていました。
こちらも、お借りすることができないので、コロナブックス用の撮影のみ。

さらに、今回の調査でたいへんお世話になったN学芸員の所属先である直方市谷尾美術館も訪れました。

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現在、この美術館では、N学芸員の企画による「なぜ、絵を描くのですか?」という山本作兵衛、野見山暁治ら18名の作家による興味深い展覧会(前・後期制)を開催中。もっとも、残念ながら山本作兵衛は前期展示ということで、すでに展示替えになってしまった後でした。

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N学芸員とここでお別れし、田川市に移動して昼食は料亭あをぎりへ。
初代田川市長・林田春次郎の邸宅であったという立派な和風建築です。

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ここでは、かつての筑豊の郷土料理であるクジラの肉を使った唐揚げの定食を頂きました。

午後は田川市石炭・歴史博物館へ。

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筑豊地方最大の炭鉱であった三井田川鉱業所伊田坑の跡地に、1983年に前身の田川市石炭資料館として開館した施設です。

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ここでは、現在、田川市石炭・歴史博物館開館30周年記念・世界記憶遺産登録原画特別公開として、「山本作兵衛墨画展―炭坑記録画の源流―」という特別展示が行われています(5月26日まで)。

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作兵衛の炭鉱画の原点とも言うべき墨画を中心とした見応えのある展覧会です。
墨画は初期作品なのですが、彩色画と比較しても、動きが躍動感にあふれています。
昨日の借用調査で、作兵衛の絵は武者絵から出発しているのかなと感じていましたが、墨画の作品群に描かれた人物の表情はまさに武者のように表情も引きしまっていました。

   *   *   *

続いて、今度は飯塚市歴史資料館へ移動。展示替えのため休館日でしたが、私たちのためにわざわざ開けて下さり、ここでも山本作兵衛の炭鉱画の展示を見せて頂きました。
“世界記憶遺産”に登録されたのは田川市所蔵の資料ですが、それだけではなく、実は筑豊地区の各地に作兵衛の炭鉱画が点在している、ということを、今回の出張で初めて知りました。
もちろん、“世界記憶遺産”の炭鉱画と、その他の場所で保存されている作品とのあいだに、本質的には差異はありません。
それでも、人はつい“世界記憶遺産”かそうでないか、という視点で作品を見てしまう。
“世界記憶遺産”という権威のおかげで、山本作兵衛という名は一般の人びとのあいだに広く認知されたのは確かですが、そのために見えなくなってしまうものもあるのではないかということも、同時に気になるところです。

この資料館では、吉田初三郎の絵巻物も見せて頂きました。今度は飯塚市の鳥瞰図です。
写真の画面中央に、忠隈鉱業所や飯塚鉱業所の煙突やボタ山が描かれています。

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次に訪れた旧伊藤伝右衛門邸にも、蔵の展示室に作兵衛の炭鉱画が飾られていました。
この蔵の内部を利用した展示室は、今回見せて頂いた作兵衛の展示のなかで一番雰囲気があり、とても良い展示でした。作兵衛の故郷の飯塚市が、いかに彼の炭鉱画を愛し、大切にしているかを、垣間見たような気がしました。

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写真は、“炭鉱王”伊藤伝右衛門に嫁いできた柳原白蓮の部屋から見下ろした庭園の風景。
もともとこの日本建築の粋を集めた大邸宅は、白蓮のために建てられたそうです。この二人をめぐる物語も非常に興味深いものでしたが、書いていくときりがないので、今回は省略。

さらにEさんの案内で、丸木美術館もお世話になっている東京藝術大学のS先生の従兄弟Oさんが経営している喫茶店へ行き、珈琲を飲みました。

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   *   *   *

そして、この日最後に訪れたのは、原口炭鉱大門(おおかど)坑跡。
2010年夏に雑木林の中から“発見”されたという貴重な炭鉱遺跡です。

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1896年頃に江口倉之助によって開坑された際には宮ノ浦炭鉱と呼ばれ、大正期に一度麻生に売山されたようですが、1948年に木曾重義が再開。
田中角栄も関与した石炭国管疑獄事件の舞台にもなりました。
その後、何度か経営者が変わり、1957年から原口鉱業の所有となり、1963年に閉山しました。
そのまま埋もれていた炭鉱跡を、土地を買い取り、一人で掘り起こして整備したというのが、今回、私たちを案内するために先回りして待って下さっていたAさんでした。

その“仕事”のスケールの大きさ、そして飾らない気さくな人柄……筑豊の地を腕一本で生きてきた人らしい豪放さと優しさを併せ持つようなAさんに、私たち一行も感心しきり。

中小規模の炭鉱ではありますが、そのほぼ全容を今もそのまま見ることができるというのは、全国の炭鉱跡を撮り続けている写真家の萩原さんも「他に例がない」と絶賛するほど。

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私も、炭鉱の跡地に立ったという感覚を、初めて肌身で味わった気がしました。
中でも珍しいのは、主坑道と副坑道のふたつの坑道の坑口が、そのままの状態で残されているという点です。

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こちらが主坑道(本卸)。坑夫たちの入坑や採掘した石炭の運び出しはここから行われました。
幅は約3.25m、高さは2.4mの坑口です。奥は12mほどコンクリートの坑道が続いています。

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そしてこちらが副坑道(連卸)。坑内に新鮮な空気を送り込むために使われた坑道です。
幅3.3m、高さ2.45mで主坑道と同じように約12mほどコンクリートの坑道が続き、その奥は素掘りの坑道が続いていたそうです。

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副坑道には、地面から垂直に空いた大きな竪坑があり、おそらく吸排気に関わるものだろうということです。

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そして、主坑道の延長線上には、20度という急傾斜の主坑道から石炭や人を積んだトロッコを巻きあげるための、太いコンクリート柱6本で支えられた堅牢な捲揚機の台座が残されていました。Aさんは、この捲揚機台座からの位置関係を推測して、土中に埋もれていたふたつの坑口を掘り当てたのだそうです。
この立派な遺構には、百戦錬磨の萩原さんも興奮気味にシャッターを切っていました。

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閉山が近い時期に形成されたと思われるボタ山(採掘した石炭に含まれる不純物などを選別し集積した山)も、Aさんが木を切って当時の姿に近づけたもの。
こうして見ると小さな山のように見えますが、もちろん、その大部分はいまだ土中に埋もれていて、本来の姿はもっと壮大なものだったことでしょう。
映画に出てくるボタ拾いの子どもたちのような気分になって、ボタ山の頂にも上りました。

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山の上から見下ろす景色はとても見晴らしがよく、気持ちのよいものでした。
ボタ山が子どもたちの遊び場になっていたというのも、よくわかります。
写真の下の方に小さく映っているのは、途中まで上ったものの、急傾斜に危険を感じて山頂に上がるのを断念し、引き返しているMさんです。ごめんなさい、写真を載せてしまいました。

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この他にも、水洗機や貯炭場、選炭機、沈殿槽などの跡も、非常に良い状態で残っていました。
別に金のためにやったわけではない、人生には遊びが必要、と笑顔で語るAさんの言葉の余韻に浸りながら、夕闇の迫る炭鉱跡を後にしました。
私たちに「あれも見せたい、これも見せたい」と熱い思いで一日じゅうたっぷりと案内をして下さったEさんに、心から感謝の一日でした。
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2013/5/15

【筑豊出張初日】 筑豊文庫と山本作兵衛作品集荷・調査  調査・旅行・出張

7月13日からはじまる企画展「坑夫・山本作兵衛の生きた時代〜戦前・戦時の炭鉱をめぐる視覚表現」の作品集荷のため、元学芸員Mさんとともに福岡へ。
小倉駅に迎えに来て下さった山本作兵衛の孫のEさんの車で、まずは鞍手町に行きました。
かつて炭鉱住宅だった廃屋に移り住み、自宅を「筑豊文庫」として開放しながら、『追われゆく坑夫たち』(岩波書店、1960年)などの作品を発表し続けた記録作家の上野英信(1923-87)のご子息、上野朱さんを訪ねたのです。
朱さんも、古書店経営者であると同時に、『父を焼く 上野英信と筑豊』(岩波書店、2010年)などのすぐれた随筆を発表されている素晴らしい文筆家です。

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「筑豊文庫」跡に建つご自宅には、色あせてはいるものの、「筑豊文庫」の文字が記された看板が大切に保存されていました。

今回、お伺いさせて頂いたのは、企画展に出品する島津輝雄(1927-75)の炭鉱画作品をお借りするため。彼もまた、上野英信から炭鉱画を描く山本作兵衛という人物がいることを聞き、鞍手で絵筆を執ったという方です。

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以前から本橋成一さんにお話を伺っていた、ポレポレタイムス社の机のモデルになったという「筑豊文庫」時代の分厚い板机の前に案内され、早速、島津輝雄の炭鉱画の点検を行いました。

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作品梱包を終えた後は、朱さんお手製のお昼御飯をご馳走になりました。
ワラビの味噌汁やご自宅の庭で育てているというトマトやインゲン、そしてEさんが握って下さったおにぎりも、たいへん美味しく頂きました。

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板机に置かれたカンテラの向こうで珈琲を飲んでいらっしゃるのが、朱さんです。

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古い「筑豊文庫」の写真も見せて頂きました。
かつて炭鉱夫の住んでいた長屋、いわゆる「炭住」のひとつが廃屋となっていたところを上野英信が買い取り、そこが「筑豊文庫」となったのです。

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珍しい鳥瞰写真もありました。
聞けば、「毎日新聞にいたカメラマンが雲仙普賢岳噴火の取材のついでに、ヘリコプターで飛んできて空撮した」とのこと。それはもしかして……と思ったら、やはり、萩原義弘さんでした。全国の炭鉱の写真を撮り続けている萩原さんの作品も、今回の丸木美術館の展示では紹介させて頂きます。

   *   *   *

ひとしきり貴重な時間を過ごした後は、朱さんのお宅を後にして、ご遺族所蔵の作品を中心に、山本作兵衛の炭鉱画を保存管理されている作たん事務所へ。ここで今回の企画展でお借りする作兵衛作品59点をすべて梱包しました。
実は作品数が多いため、2日間にわたる梱包作業も覚悟していたのですが、作兵衛の孫にあたるIさんやEさん、そして地元の美術家・アートディレクターのBさんが手伝って下さったおかげで、予想以上に作業を早く終えることができました。
本当に、皆さん、とても温かく協力して下さって、ありがたい限りです。

その後は、Eさんに案内されて、田川市弓削田にある作兵衛さんの自宅の跡にも伺うことができました。

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すでに家が解体されてから10年以上が経過し、跡地は草が生い茂っていましたが、草をかきわけて進んで行くと、井戸がまだ残っていました。

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Eさんによれば、家の入口の坂道が、当時の面影をかろうじて残しているそうです。

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さらに飯塚に戻る途中、田川市図書館に常設展示されている、《山本作兵衛炭鉱画模写壁画》9点も見てきました。

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この壁画は、1970年から71年にかけて現代思潮社美学校の講師となった菊畑茂久馬の指導のもとに学生たちが共同制作した作品で、2009年に目黒区美術館で開催された「文化資源としての炭鉱」展や、先日まで東京タワーで開催されていた「山本作兵衛展」に出品されていました(今夏の丸木美術館の企画展には出品されません)。

   *   *   *

飯塚では、数日前に筑豊入りして撮影の仕事をされていた萩原義弘さんと合流し、Eさんのご案内で山本家のお墓にもお参りさせて頂きました。

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墓石には、少し読みにくいですが、右から3番目に「山本作兵衛」の名前が刻まれています。
墓前にお線香を供えて、展覧会開催の報告をさせていただきました。

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田川市と福岡県立大学所蔵の「山本作兵衛コレクション」が日本最初の“世界記憶遺産”(「世界の記憶」、英語表記はMemory of the World)に認定されたために、田川市の印象が強い山本作兵衛ですが、実は生まれは飯塚市で、筑豊各地の炭鉱を転々としていたため、炭鉱画も田川市の炭鉱の絵はそれほど多くはないのだそうです。

夜は、こうの湯温泉に浸かって身体の疲れを癒し、Eさんのお宅に泊めて頂きました。
美味しい夕食をご馳走になった上に、「作兵衛部屋」にならんでいた遺影や手作りの小引き出し、アルバムやさまざまな資料も見せて頂きました。

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炭鉱の様子や風俗を詳しく記録した彼の1000点にも及ぶという「炭鉱画」は、資料的価値という意味でももちろん非常に素晴らしいのですが、それだけではなく、一人の人間として、生きてきた証を記すために晩年になって絵筆をとり、独学で自分の世界を拓いていったという点では、丸木スマの絵にも重なり、心を打たれます。

作兵衛さんの蔵書もいくつか見せて頂きました。そこには、所蔵を示す印とともに、自分の気づいた点や書籍の誤りなどについて、細かく赤字で几帳面に書き込みがされているのです。
そのうちの一冊に、角川書店から出ている瀬川拓男・松谷みよ子編「日本の民話」シリーズ第12巻『現代の民話』がありました。
この刊には、炭鉱の民話として作兵衛さんの記録した話をもとにした物語も2編収録されていて、そこにも作兵衛さんが赤字を入れていることをEさんから教わりました。
実は、「日本の民話」シリーズの挿絵を手がけたのは丸木夫妻なのです。
ですから、もしかすると、作兵衛さんが松谷さんに語った民話に丸木夫妻が挿絵をつけていたかもしれない、とちょっとドキドキしながら頁をめくったのですが……残念ながら、炭鉱の民話には挿絵がありませんでした。

それでも、夏の作兵衛展のときには、どのように関連づけながらスマさんや丸木夫妻の絵本原画をいっしょに展示していこうかな、とあれこれ考えながら、夜が更けるまで作兵衛さんの資料を読ませて頂いたのでした。
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2013/5/14

KEN壷井明トークのお知らせ  館外展・関連企画

7月からはじまる次回企画展のため、山本作兵衛をはじめとする炭鉱画の借用と調査に15日から17日まで福岡県に出張へ行ってきます。

18日には三軒茶屋のKENにて「福島原発事故を描く - 壷井明、《無主物》を語る」と題しトークイベントを行います。
午後5時からです。ぜひお運び下さい。

福島原発事故を描く - 壷井明、《無主物》を語る
2013年5月18日(土)
OPEN 16:30 START 17:00

http://www.kenawazu.com/events/#okamura2

福島原発事故から2年が過ぎました。可視化することのできない放射能被害、そして地域のなかに生じる信頼関係の亀裂......壷井明は、そんな福島の人びとの苦悩を聞きながら、絵物語として油彩画《無主物》に描き込み、首相官邸前デモなどの"路上"で発表し続けています。その一連の姿勢は、はからずも丸木夫妻の《原爆の図》や1950年代のルポルタージュ絵画などの歴史的な系譜を連想させます。今回の企画では、《無主物》を前にして、この絵画がどのようにして生まれてきたのか、どのような思いを込めて、何を描いてきたのかを、対話形式で作者自身に語っていただきます。

企画 / 聞き手:原爆の図丸木美術館 岡村幸宣

参加費 : 1000円
※予約不要  (定員40名 先着順)
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2013/5/13

東京学芸大学「人権教育」講義  講演・発表

休館日でしたが、国分寺市の東京学芸大学を訪れて、午前中に1年生向けの人権教育の講義、午後は大学院生向けのゼミで講義をしました。
東京学芸大学には、法学を専門にされる宿谷晃弘先生にお声がけ頂いて、このところ年に1回足を運んでいます。主に「原爆の図」の話をするのですが、自分にとっても「原爆の図」をめぐる言説を整理・更新する良い機会になっています。

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今回の講義では、「原爆の図」を、次のような視点から見ていきました。
・“人間の肉体の痛み”を表現し、世界で最初に原爆被害を広く伝えた絵画
・美しく描きたい、事実を伝えたいという思いに代表される複雑な視点の葛藤
・人びとの証言に耳を傾け、その記憶を重層的に注ぎ込み再構成した“記憶の器”
・決して“体験”することのできない原爆の本質に想像力で迫る試み


また、第13部《米兵捕虜の死》や第14部《からす》といった後期の「原爆の図」、南京、アウシュビッツ、水俣、沖縄戦、足尾鉱毒などに広がっていく作品群を通じて、「加害」と「被害」、国や人種の壁を超えて、人類共通の問題として、戦争や公害などの“暴力”の根源を見つめ続けたことも紹介しました。

「人権教育」の授業のあとでは、学生たちの感想メモを見せて頂きました。
学生の数は100人を超えるので、まだすべての感想に目を通しているわけではないのですが、「他者の痛みに対する想像力」について話したことが印象に残ったと書いてくれる学生の感想が目につきました。
以下に、授業でお話した内容から、まとめの部分を記きとめておきます。

   *   *   *

 原爆からはじまり、生涯をかけてさまざまな社会的な問題に向き合い続けてきた丸木夫妻ですが、すべての仕事に一貫していたのは、「もっとも弱い立場の人間の視点に立って、ものごとを見つめていく。彼らの語る話に耳を傾け、その記憶を絵の中に注ぎ込んでいく」という姿勢でした。
 この姿勢は、今の時代を生きる私たちにとっても、非常に示唆を与えてくれるものだと思います。いや、東日本大震災・福島第一原発事故を体験した私たちにこそ、身近に突きつけられた問題だと言えるのかも知れない。

 歴史は、人びとの記憶の集積によって形作られていきます。しかし、ともすれば弱者の視点は切り捨てられ、時間とともに忘れ去られてしまう。
 大きな歴史の記録のなかからこぼれ落ちていく、ささやかな個人の記憶に、どこまで耳を傾けていくことができるのか。そしてそこからどのようにして自分の考えを構築していくことができるだろうか、ということです。

 戦争だけではない、かたちを変えた暴力は、いつの時代にも、私たちの生きる社会にも存在しています。公害や貧困、基地問題、差別、いじめなどもそうですね。私たちの社会は、そうした構造的な見えない暴力の上に成り立っていると言えるのかもしれない。
 けれども、私たちは誰でも、自分の痛みには敏感になるけれども、他者の痛みを自分のことのように感じるのは非常に難しい。あるいは、自分の国の歴史的な痛みについては繰り返し教えられ、報道されるけれども、よその国に対してしてしまったこと、遠くの国の人びとの痛みは忘れてしまったり、気づかないことも多いのですね。
 他者の痛みを感じることは本当に難しい。けれども、だからこそ、私たちは、想像力を広げる必要がある、と思います。

 傷つき、死んでいった人たちの痛みに想像力を広げることは、その人たちの生にもう一度命を吹き込むことでもあります。それは、これからやってくる時代に、同じような惨禍を引き起こさないための防波堤にもなるでしょう。また、それらの記憶を語り継ぐことは、異なる状況で同じような苦しみに陥っている人びとの心を支え、励ますこともあるかも知れない。
 原爆などの武器は、多くの命を奪います。公害や差別などの暴力は人の心を引き裂き、命を脅威にさらします。けれども、痛みに対する想像力は、直接目で見えるかたちではないかもしれませんが、他者の命を救うさまざまな可能性を秘めていると思うのです。

 二人の画家が残した仕事から私たちが感じとれることは、極めて今日的な問題であり、時代を超えて受け継がれるべき、普遍的な問題でもあると、私は思っています。


   *   *   *

午後のゼミでは、4人の大学院生が相手だったので、講義というより、対話を中心にしながら、そしてときに宿谷先生にも参加してもらって法学的な観点から注釈を入れて頂き、楽しく充実した時間を過ごしました。

また、宿谷研究室から発行されている『共生と修復』第3号(共生と修復研究会編集、2013年3月31日発行)を頂きました。
岡村も「丸木夫妻の仕事の意味を考える 《原爆の図》―現在と過去をつなぐ絵画」という短い論考を執筆させて頂いています。
お問い合わせは東京学芸大学人文社会科学系法学政治学分野宿谷研究室(nakaga55@u-gakugei.ac.jp)まで。
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2013/5/13

『東京新聞』埼玉版に「安藤栄作展」紹介記事掲載  掲載雑誌・新聞

2013年5月13日付『東京新聞』朝刊埼玉版に、“思いやりと真心 作品に込め 「3・11」体験の彫刻家・安藤さんが個展”との見出して、現在丸木美術館で個展を開催中の安藤栄作さんが紹介されました。
取材をして下さったのは、いつも熱心に足を運んで下さる川越支局のN記者です。

東京新聞のWEBページで記事の全文をご覧になることができます。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20130513/CK2013051302000167.html

WEB上には安藤さんと彫刻の写真しか掲載されていませんが、新聞紙上には、安藤さんが福島原発のドローイングを制作している様子を俯瞰する写真も掲載されていました。
以下は、記事からの一部抜粋。

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 3・11では、自宅とアトリエが津波に襲われ、数百点の作品と愛犬が行方不明になった。三週間後、都内の大学に通う長男と高校生の長女、妻の一家四人で自宅跡を訪れた。がれきの中から、妻が幼い娘のために作った木彫りの人形がきれいなまま見つかった。帰り際には安藤さんが長男のために作った木彫りのミニカーも。

 「社会に認めてもらいたいという気持ちで、がつがつ作った彫刻作品がすべて流され、子どものために作った人形やおもちゃだけが残っていた」

 二カ月後、奈良県の避難先に落ち着いてから、妻が「子どもたちに写真ぐらい残してあげたかったな」とつぶやいた。それから間もなく、ボランティアから幼い長男、長女の姿を収めたアルバムの写真がクリーニングされて届けられた。安藤さんは思った。「お互いを思いやる気持ちや真心が、世の中で一番強い種類のエネルギーなのではないか」

 これらの体験を書いたエッセー「『3・11』を超える作家たちへ」がネット上で発表されると、大きな反響があった。

 エッセーを読んだクレヨンハウス主宰者の落合恵子さんから依頼を受け、初めての絵本にも挑戦した。「あくしゅだ」は、少年が大地や空、海と握手をし、最後に少女と出会う物語。今回の個展「光のさなぎたち」の作品群も、福島第一原発の巨大なドローイング(線描)を背景に、男女が抱き合い融合したようなヒノキの作品などが並ぶ。

 「何もかもなくなったとき、残るのは男と女しかいない。お互いを大切な存在として愛し、光を生み出すときだ」と話した。


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展覧会は7月6日(土)まで開催しています。
どうぞ皆さま、お見逃しなく!
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2013/5/12

原爆の図第14部《からす》のモデル  来客・取材

午後から、駐広島大韓民国総領事館の辛亨根(シン・ヒョングン)総領事と、早稲田大学アジア研究機構日韓未来構築フォーラム主宰の小田川興さんが来館されました。

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辛亨根さんの御父様は、韓国原爆被害者援護協会会長として、長年、在韓被爆者運動を続けて来られた辛泳洙(シン・ヨンス)さん。
実は辛泳洙さんは、丸木夫妻が原爆の図第14部《からす》を描いた際にモデルをつとめられたそうです。
画面中央下部で、からすの群れの合い間から仰向けになって顔を見せている人物が、辛泳洙さんとのこと。さすがに辛亨根さんは、画面を見てすぐに「これが父です」と特定されました。

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小田川さんは、当時、朝日新聞記者として丸木夫妻を取材し、《からす》制作の様子も間近でご覧になっていたとのこと。
館内を案内して、小高文庫に上ったところ、丸木夫妻の旧蔵書のなかに、朝日新聞社より1975年に刊行された『被爆韓国人』(編=朴秀馥、郭貴勲、辛泳洙)がありました。
この出版には小田川さんも深く関わり、辛泳洙さんが「臨時の陸軍病院で迎えた解放記念日」と「怒りと感謝の日々」という二つの文章を記しているのはもちろん、当時20歳だった辛亨根さんも「父の悲運を引き継いで―被爆二世は主張する」と題する文章を寄せています。

辛亨根さんや小田川さんのお話をうかがって、1972年に描かれた原爆の図第14部《からす》が、在韓被爆者運動と密接な関わりを持っていたことを、あらためて感じました。
1999年に辛泳洙さんが亡くなられた際に寄せられた文章をまとめた「辛泳洙さんを偲ぶ」という以下のサイトには、小田川さんはじめ、丸木美術館の元理事で江戸川区の被爆者運動を続けてこられた銀林美恵子さんの文章が紹介されています。
http://www.asahi-net.or.jp/~hn3t-oikw/kaihou/No_25/9907_1shin.html
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2013/5/10

NHK国際放送“Telling Stories Through Art”放映  TV・ラジオ放送

2013年5月9日午後8時からのNHK国際放送のニュース番組のなかで、現在企画展開催中の安藤栄作さんの特集“Telling Stories Through Art”が放映されました。
英語による4分17秒の映像です。

以下のサイトで1週間ほど映像をご覧になることができます。
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/newsline/201305092022.html

安藤さんの作品に込めた思いや、丸木美術館での展示の会場風景が紹介されています。
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2013/5/9

大塔書店版『丸木スマ画集』内容見本  作品・資料

先月、福島で開催された原爆文学研究会の折に、福岡県のSさんから「火野葦平の旧蔵書のなかに、大塔書店版『丸木スマ画集』の内容見本があった」とご教示を頂きました。

火野葦平が1954年11月に大塔書店から発行されたスマ画集の推薦文を書いていたということは、2010年7月30日の福岡出張でわかっていたのですが、肝心の推薦文が掲載されているという「内容見本」が、丸木美術館には残されていなかったのです。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1445.html

本日、そのSさんから、貴重な「内容見本」の現物が送られてきました。
B5版中綴じ8頁の冊子を、早速、スキャナでPCに取り込みました。

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表紙には次の文章が掲載されています。

畑仕事や養蚕や手内職に、八十年の歳月を送ったお婆さんが、ふとした機縁から絵筆をとり、その生活の経験と実感を、絢爛たる絵心に託し、驚嘆すべき美の世界を創造した……純朴な詩情、誇らかな色彩、土の香りに満ちた画面からは、動物達の話声さえ聞えてくる。これは正に、完全に解放された人間の仕事であり、現代文化の中に、奇蹟のように咲いた原始の花である。

頁をめくると、《きのこ》、《餌》、《庭先》の3点のモノクロ画像が掲載され、安田靭彦(芸術院会員)、太田聴雨(日本美術院同人)、森田元子(女流画家協会)、中谷ミユキ(女流画家協会)、火野葦平(作家)、野田宇太郎(詩人)、末川博(立命館大学総長)という7人の方々の推薦文がならんでいます(安田靭彦の文章は画集序文からの抜粋)。

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かつて位里と研究会を行っていたこともある太田聴雨が、《柿もぎ》に描かれた「大きな柿の実の間からのぞいている小さな子供らの顔がちょうど中宮寺曼荼羅の刺繍下絵にみるそれと共通したものを思わせ、古代人のナイーブな感覚にふれたようでたのしかった」と記していたり、丸木家と同郷の中谷ミユキが「丸木のおばあちゃんは、その頃はまだ若くて頭のいいおばさんだと思っていました。きりきりと働き、はきはきと物を言う、まめまめしいお百姓さんでした。八十才を越えて絵でも描こうというのだから、字は読めなくても、絵は描かなくても、人並みとは一寸違ったものが、その頃からあったのかも知れません」と回想していたり、いろいろと興味深い部分があります。
なかでも、火野葦平がスマについて記した文章は、これまでほとんど知られていないと思いますので、以下に抜き出して紹介します。

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 丸木スマさんの絵をはじめて見たときのおどろきをどう表現したらいいのだろうか。私も絵は好きだし、ずいぶん多くの画家の多くの絵を見て来たが、この八十三才の老画家の絵の感銘は、これまで嘗て感じたことのない異種のものであった。一見して、私は、アンリ・ルソオと、マルク・シャガールと、特異児童清さんの貼り絵とを思いだした。また、その或るものはシュールやアブストラクトのにおいさえする。けれども、眼に一丁字がなく、広島の田舎で百姓仕事をしていたスマさんが、突如、八十才から描きはじめたという絵は、いかなる伝統のうえにも立っていない。唐突に眼ざめた絵画への情熱がこれまでまったく隠れていた天賦の才質を呼びさましたのだ。理論も持たず、主張も傾向も一切そういう種類の雑念に煩わされることなしに描くスマさんの絵は、絵をかくことが楽しくて仕方がない、というあの野放図な情熱によって、完璧な天衣無縫さをさらわしている。
 けれども、その絵は破格の自由さのなかに、多くの天才たちが天から与えられたすぐれた稟質、色彩とコンポジションとの無類の調和を示していて、私の眼をみはらせるのである。長い修練の時を経てさえ容易にたどりつけぬ境地を、一挙に表現するこのお婆さん絵かき、稚拙を近代芸術の高さにおいたルソオの美しさとともに、私はなお今後のスマさんの画業を楽しみにしている。


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「内容見本」は、続いて原色版見本として、《きのこ》、《巣》の図版を掲載しています。

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さらに頁をめくると、《にわとり》、《柿もぎ》、《撃たれた鵜》、《母猫》の四点の画像とともに、金島桂華(日展参事)、北川桃雄(美術評論家)、中谷泰(春陽会会員)、仲田好江(女流画家協会)、水沢澄夫(美術評論家)の5人の方々の推薦文が掲載されています。

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その年の正月にスマのもとを訪れ、対談を行った(『中国新聞』1954年1月13日掲載)金島桂華の文章が、その様子を詳しく伝えていて興味を惹きます。

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白いエプロンをして居られて、普通の田舎のおばあちゃんだった。この人のどこからあのようなものが産れるのかと、つくづく顔を見た。小さな机の上に、五六本の筆と四五枚の絵具皿とポスターカラーと小さな筆洗があって、筆洗の水は絵具で濁っていた。襖に三四枚のかきかけのような絵がピンで張ってあった。「これはかきかけですか」と聞いたら、「出来上ってるんです」と云って平気な顔をしていられた。どれも面白いものだった。「私の絵はいいのではない、面白いと云う事は永く続くまい。面白いと云う事は倦きて来るから、その内落されるでしょう」といってすましていられた。私は只のお婆さんではないと思った。

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最後の頁は、《蝶》の画像と丸木位里・赤松俊子連名の文章です。

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二人の連名になっていますが、俊が記した文章でしょう。

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『デッサンというものは何か』
 と、だしぬけに母が聞きます。どうしたのかと思ったら、小学校の絵の先生がおばあちゃんにデッサンを教えて下さい、といって来た、というのです。
『デッサンというのは、絵を描く前、初歩の勉強、又は下描きのようなことを言うのです』
 と、いいますと、
『そうかい』
 と、母はわかったようなわからないような返事をしました。
 五十年も六十年も、三代のしゅうと、姑につかえ、畑を耕し、稲を植え、山へ行って木を切り、父を助け、子供を育てて来た母には、これ以上のデッサンがありましょうか。
 この苦難な母の一生。女の一生。
 筆で線を引き、色をつける。こんな楽なことがどこにあろうか。
 絵を描き初めた母は、まずこう考えたにちがいありません。何の苦もなく、どんどん絵は生れ、はじめの一年間のすばらしい速度は驚くばかりでありました。


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文面からは、俊の女性としての視線や、当時彼女が提唱していた「絵はだれでもかける」という“国民芸術論”が垣間見られます(俊の“国民芸術論”については、『原爆文学研究』第8号の小沢節子さんの論考「丸木スマと大道あやの『絵画世界』」参照)。
http://www.genbunken.net/kenkyu/08pdf/kozawa.pdf

この画集の発行と同時期(1954年11月)に、俊は新書版『絵はだれでもかける』を室町書房より刊行しています。そうした点からも、スマの絵画が俊の“国民芸術論”のひとつの体現として位置づけられていたということが感じられます。
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