2013/3/31

【パラオ旅行3日目】南洋神社・海軍墓地そして赤松俊子の南洋随筆  調査・旅行・出張

3日目は、早朝に一人でホテルを抜け出してコロールの町をジョギング。
目的地は、町外れにある南洋神社跡と海軍墓地です。
コロールの中心部から見ると東の方向で、日の出に向かって走ることになりました。
パラオには放し飼いの犬が多く、某学芸員さんは南洋神社で犬に咬まれてしまったという話も聞いていたので、細心の注意を払ってのジョギングです。

走りはじめてすぐに、道路沿いに天理教の「殉教碑」があるのを見つけました。

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碑文によれば、1929年に布教と調査の目的で単身パラオに渡ってきて志半ばに倒れた清水芳雄という方の碑であるようです。

坂道を上りきった高台には、町を見下ろすように大きな石灯籠が道の両脇に遺されていました。

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元は南洋神社の参道の石灯籠だったのでしょう。
石灯籠を過ぎてしばらくしてから、南に向かう細い道が分かれています。
その道を進んでいくと、道の右側にまた小さな石灯籠が。よく見ると、もうひとつの灯籠の土台と、奥には太鼓橋の跡がありました。

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南洋神社は、1940年に紀元二千六百年記念事業の一環として創建されたとのこと。
終戦後に廃止となったものの、この先の参道をさらに進んで行けば、1997年に再建された新しい神社があるそうなのですが、私有地でもあり、あまり時間に余裕もなかったので、かつての遺構を見たところで引き返すことにしました。

一旦大きな石灯籠の方までもどって、今度は北に向かって下りていく細い坂道に向かうと、港を見下ろすように小さな海軍墓地があります。

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墓地の中には、個人の墓とともに、さまざまな慰霊碑が建てられています。

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「パラオ島ニ於ケル(旧)日本陸海軍戦没者鎮魂ノ碑」や「白蝶貝取扱業殉職者慰霊碑」、「長野県パラオ諸島戦没者慰霊碑」など。

もっとも古いと思われる碑は、1938年8月10日の飛行艇事故で亡くなった南洋航空の7名の職員の殉教碑で、もとはパラオ公園に建立されていたものが、米軍の攻撃で破壊され、1973年に博物館に放置されていたものを発見し移設したのだそうです。

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そうしたなかに、1977年8月に南洋群島帰還者会とパラオ帰還者有志によって「パラオ諸島沖縄県人物故者を偲び霊の冥福を祈り」建立されたという「沖縄の塔」がありました。

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前日に訪れたペリリュー島の墓地にも「沖縄の塔」がありましたが、いかにパラオに沖縄の移住者が多かったかと感じます。
また、墓地の一角には、個人の墓のようでしたが、ハングルが刻まれた碑もありました。

   *   *   *

日本統治時代のパラオでは、日本人を頂点とする、沖縄、朝鮮、パラオ現地住民という順の階級が存在していたといいます。
ベラウ国立博物館のHPに掲載された当時のコロールの写真を見ると、とてもきれいに整備された街並みで、日本が相当インフラに力を入れていたことがわかります。
http://www.belaunationalmuseum.org/exhibits/indoor/japan/photoarchive.htm

そうした歴史のせいか、今もパラオは親日的な国であるようです。
それでも植民地支配という仕組みが、複雑な差別の構造を生んでいたことは見逃せません。

「南洋群島」を訪れた若き日の俊は、そうした状況をどのように見つめていたのでしょうか。
東京に戻った俊は、南洋帰りの画家として次々と絵画を発表し、絵本や随筆の仕事を手がけていきます。それは、当時の日本の植民地政策に合致した仕事でもあり、ずっと後になって“戦争協力”を咎められる要因にもなります。
しかし、注意深く彼女の記した文章を読んでいくと、必ずしも当時の国策に従うだけではない、俊独自の視点が伝わってくるのが興味深いです。

たとえば、1940年7月発行の雑誌『東海堂月報』に掲載された俊の「南洋處々」という随筆。

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俊は「貴女が内地へおかへりになつたら是非文化南洋も宣傳していたゞかなくては困ります」と南洋文化協会から依頼されたと冒頭で記し、「事實、この南洋の都パラオは文化地でした」と、デパートや学校、ホテルなどの「誠に美しく活々とした殖民地の文化的な風景」を描写しているのですが、現地の島民が「一體何處にどんな家に居るのかしらと考へた。一體そして何を考へ、何をよろこんでゐるのかしら」という疑問を抱き、最後に以下のような文章を記しています。

=====

「はいわかりました。文化南洋を宣傳いたしませう、はいはい」
とうなづいてゐた私が、横目でちょいちょい島民の女や男をながめながめ如何してもこの人たちの顔や目や口や動作から來る匂ひや空氣に對する好奇心を捨てさることは出來なかつた。ここの所へ描かれたカツトもついつい島民の女の生活をのせてしまつた。如何してこんなにこの人々のことが、面白いと思ふのだらうかと考へた。そしたら、私たち内地人の顔は、皆變哲もない顔に思へて來た、じつとしてゐて嬉しいことも悲しいこともみんなおさへて、おさへおさへてがまんしたため何にも言へない顔になつたのではないかと考へた、そして隣のおかみさんも、隣の奥様も鏡にうつつた同一人の二つの像のやうに、つんとすました、硬い顔になつてしまつたのかもしれない、こうなつた原因がどこにあるかなんどゝ考へは次々と湧いて來て困る。
それは兎に角私は文化南洋の文化方面の姿にみちた島へと入り込んで行つた。私は叱られてゐるかもしれない。
「ゑかきなんかに南洋に來てもらつては困る島民ばかり面白がつて」と。


=====

また、雑誌『新女苑』1940年11月号に掲載された「南洋を描く 二つの風景」という随筆には、現地で親しくなったメカルという少女の日本人観と、アンガウル島へ燐鉱の仕事に行く太郎という少年の姿が記されています。

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いずれも、さりげない描写のなかに、日本の植民地支配の不条理をとらえる印象的な文章です(以下は一部抜粋)。

=====

T
……メカルと二人で集會所(アバイ)を見物に來た東京風の旅行者をながめてゐた。
「東京へ行きたい?」
「觀光團に入つて死ぬまでには一度行きたいです。」
「今貯金してゐる。中村さんの奥さんの洗濯したり、洋裁してゐるよ。」
ていねいな日本語がこゝでとたんにくづれた。
「横濱についたらね。島がズーッと大きくて、どこ迄も續いてゐるつて。それから、雪が、もう寒い、わたが冷たいとおなじと言つてゐた。雪がみたい。」
メカルが銀の腕輪をいぢりながら大きな白眼と、大きな黒眼のくつきりした彫刻的な目をふせたり、とぢたり、又は、じつと私の目にそゝいだりして話してゐた。
「さうを。」
私は大きな息を一つはきだして手についたゑのぐをこすつた。
「南洋の娘は早くお嫁になるんでしよ、メカルはどうしてならない?」
「先生が、ニジユツサイまで行かない方がよいと言つた。」
「ニジユツサイになつたら、どんな人の所へおよめに行くの?」
「働く人。」
「働く人つて?」
「役所へ行つたり、會社へ行つたりしてお金をもつて來る人。」
「それぢゃ内地の人は。」
メカルはニコッと笑つて、内地の人のお嫁になつた人が、とてもゐばつてゐると言つた。
私はまるで訊問する人のやうに問を續けてゐる。メカルは誠に見事に私の問に答へていつた。
「女の子が一ばんしてはいけないと言はれてゐること何?」
メカルはこの問に即座に答へた。
「男。」
丁度すつかり暗記してゐるやうに、すばやくて、聲もはつきりしてゐた。男。私は驚いた。この言葉のもつ意味は何だらうかと。
「誰がいけないつて?」
「先生も、それから家でも。」
「何故?」
メカルは少しもたじろかずに、
「遊ぶことは、わるいことだつて!」
「さう!」
メカルのお答はみんな大層立派であつた。
丁度生徒が暗記してゐるやうに立派であつた。たじろがずに瞬きもせずにはつきりとお答をした。
さう言つたといふ先生は、公學校の先生であらう。反射的に答が出來る程、彼等の習慣、古い長い習慣を、變へなければならぬ、と説かれてゐるのであらう。
南洋の都、都會の島民の娘は、アッパッパに下駄をはいて、パーマネントを短く切つて、東京風の洋裁を習ひ、遊ぶことをつゝしんで、一度内地を見物して、それから働く人に嫁入り、内地人にならう、とするのが望のやうであつた。

 U
太郎はゑを描いてゐました。私の眞似して。徽章のとれた學生帽をかぶつて、手ぬぐひを首に巻いて、前でむすんでたらしてゐました。
赤ふんどしの太郎。
刺青をした太郎。日の丸と軍艦旗の交差した刺青。
太郎はゑを描いてゐました。私の眞似して、ボール箱の片方に、私が太郎をスケツチするから太郎は私を描いてゐるのです。
毛がもさもさと生えた私の顔を。首からすぐ手の生えた私の顔を。
太郎は混血児でした。
「うまいうまい。上手に描けた。」私は出來たゑをほめました。

……(中略)……
青い透明な波に何度も眞赤なつばきをはきました。太郎と並んでつばきをはきました。
赤いつばきが、波の上でぱつと廣がつて、すつと流れて行きました。
太郎のお父さんは日本人だと言ひました。
太郎のお母さんはカナカ娘。太郎は今出稼ぎに行くのです。他の島へ行くのです。燐鉱の出る島へ。
太郎のお母さんは太郎の歸りを待つてゐるのです。だが、太郎のお父さんは居ないのです。唯、日本人だといふことが分つてゐるだけなのです。太郎は白い顔をしてゐました。日の丸と軍艦旗の刺青をして、とり膚たてゝ檳榔樹(びんろうじゅ)を噛んでゐました。そして眞赤なつばきを、
「ペッ。」
「ペッ。」
とはき出してゐました。


=====

帰りは、宿泊していたホテルの裏通り、通称「ゲイシャ通り」を走ってみました。
何となく、日本統治時代の色街の雰囲気が残っているような通りです。

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前日にガイドのDさんから教えられた、旧日本軍の高射砲を探してみたのです。
民家の庭先にあると教えられた通り、本当に物置のようなところに紛れていましたが、すぐに見つかりました。

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Dさんの話では、ときに洗濯物がかけられていたりもして、生活に溶け込んでいるとのこと。パラオにおける日本統治時代の遺物は、そんな大らかな環境で現在まで遺されているのです。

   *   *   *

ホテルに戻り、この日は、家族でシュノーケリングを体験しました。
空港のあるバベルダオブ島の橋の近くにある桟橋から、今日もスピードボートに乗って珊瑚礁の海に飛び出します。

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ガイドさんがついてくれて、幼い娘も海中を覗ける眼鏡をつかって、シュノーケルや足ひれなしで、海を泳ぐ色鮮やかな熱帯魚たちをたくさん見ることができたようです。
深い海に向かってゆっくりと泳いでいくウミガメも見ました。

子どもたちが少し疲れて来てからは、ゲリル島という無人島に案内され、小さなビーチで遊んだり、ハンモックに寝転んだり、カヌーに乗せてもらったり、とれたての椰子の実のジュースを飲んだりして南国気分を満喫しました。

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「また遊びに来たいね。今度は無人島に泊まりたいね」と妻子たち。
「南洋群島」を訪れた俊もまた、アンガウル島の北にある、干潮時には歩いて渡れる無人島を買いたい、と考えながら東京に帰りました(南洋庁が5万円くらいで払い下げてくれるだろうと言われたそうです)。
1941年2月発行の雑誌『美之國』第17巻第2号には、俊が島にアトリエを建てる夢を綴った「南洋の獨言」という文章が残されています(以下、一部抜粋)。

=====

遠く東京を離れたこの島。十五日に二日たして十七日、そう十七日も離れたこの島。
この島の、あうベラボーなでつかいたまなの木で。
大きな大きな仕事場を建てたい。
それはこの島の中央に。長いひさしのある仕事場。
ベランダの三間も巾のあるのを建てたい。
床は段々がたくさんついてゐて高いのを。
台所。机のある部屋と。ベットは中二階にしようか。
仕事場の周りには椰子の木が一つぱいある筈だし。
屋根には、アンテナを置いて、ラヂオをつけたいぞ。
そうそう。天水を蓄える水槽はベランダの下にコンクリートで大きい奴を作らにやならぬ。毎日陽は東より出で西に入るか。
空は高くて飛行機鳥が眞白い尾を引いてとんでゐる。
スコールが來る。
椰子の葉をゆさぶり、地ひゞき立てゝ。
でもラヂオはなつてゐる。
世界の事が手に取るやうに見える。
そうだ、この仕事場は開放しなければなるまい。東京の、日本のゑかきさんに。疲れた私の友人を呼ばう。この空氣を吸いなさい。
貧乏した友人を呼ばう。


=====

しかし、帰国後は丸木位里と出会ったり、時局が変化したりという事情もあって、次にパラオを訪れたのは38年後の1978年11月のことでした(そのときは国立博物館で個展を開催しています)。

私たちが次に再びパラオを訪れるのは、いつの日になることでしょうか。
今度は、俊が夢を抱いた小さな離島も訪れてみたいものです。
本当に名残り惜しく思いながら、翌日未明の飛行機でパラオを後にしました。
4

2013/3/30

【パラオ旅行2日目】ペリリュー島戦跡巡り  調査・旅行・出張

パラオ2日目は朝から、日本で予約をしていたペリリュー島戦跡巡りツアーへ。
ペリリュー島はコロール島の南西約40kmにある、島民約600人、面積約13kmの小さな島です。
この島は、太平洋戦争末期の1944年9月15日から11月25日にかけて、米軍と日本軍守備隊のあいだで激戦が行われたことで知られています。

前日にパラオ国立博物館で戦争体験者の証言を読み、沖縄戦を思い起こしました。
沖縄の戦跡巡りは、2008年11月に行っています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1091.html?rev=1
このとき沖縄を訪れたのは、「美術家たちの『南洋群島』展」での講演が主目的でした。
今回はその「南洋群島」版の戦跡巡りとなります。

ホテルに迎えに来てくれたバスに乗って、ミナトバシを渡りマラカル島へ。
パラオ・ロイヤル・リゾートの桟橋からスピードボートに乗って、珊瑚礁の海に出発します。

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穏やかな波の上を、文字通り飛ぶように走るスピードボートの勢いに、われわれ一行はびっくり。
想像以上の風の強さに圧倒されて、全員ただ笑うしかない、といった状況です。

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昨年世界遺産に登録されたというロックアイランドの島々も船の上から眺めました。
パラオには300を超える島があるそうですが、そのうち人の住む島はわずかに9つ。ほとんどが無人島なのです。船から見ても、上陸できそうな浜のある島は、ひとつもありません。

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1時間ほどでペリリュー島のノースドック(北波止場)に到着。
ここからは車に乗り換えて、ペリリュー島ツアーがはじまります。
案内をして下さったのは、若いツアーガイドのDさんと、ベテラン運転手のNさん。
運転手のNさんは、わが家の4歳の娘Mとなぜかお互いに気があったようで、途中からMに誘われて車を降りてツアーに参加したりもしていました。

   *   *   *

この日案内された場所を、以下に順番に書き出していきます。

トーチカ
ノースドックを出発してすぐに、道路沿いにコンクリート製のトーチカ(ロシア語で、攻撃側の射撃から火器を守る構造物)がありました。

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島の北側から米軍が上陸してくるのを警戒して作られた日本軍のトーチカですが、米軍は島南西部のオレンジ・ビーチから上陸してきたので、実戦では使われなかったようです。


千人洞窟
ペリリュー島最大の洞窟陣地で、南北96m、東西36mにわたって迷路のように広がっています。

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内部が暗いのでペンライトを持って入っていくのは沖縄のガマを連想させますが、ガマよりずっと足もとが平らで歩きやすかったです。

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洞窟内には、火焔瓶として使われたという硝子瓶や鉄兜がたくさん転がっていました。
病室として使われていたスペースもあり、部隊が洞窟を離れるとき、移動ができずに残された負傷兵が死を強いられたという点は、沖縄にも重なります。

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洞窟の出口には、米軍が火炎放射を行った際に黒く変色した焦げ跡もありました。
この焦げ跡も沖縄のガマと重なります。


トーチカ
千人洞窟の南部にも、地中にもぐり込むようなトーチカがありました。

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日本統治時代、ここには南洋興発株式会社の燐鉱石精錬所があり、このトーチカは精錬所の土台を利用して作られた急造のものだったようです。


戦没者慰霊碑
島の共同墓地の一角にある数々の戦没者慰霊碑。

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そのなかには、「沖縄の塔」と記された石碑がありました。

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「南洋群島」には沖縄から渡航した人びとも数多く暮らしていて、現地召集された沖縄県人も多数戦死しています。


ペリリュー第二次世界大戦記念博物館(旧日本軍通信局)
米軍攻撃の弾痕が残る外壁をそのままに補修し、内部は戦争博物館になっています。

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展示解説は基本的に英文で、米国側の視点から見た戦争の展示です。
残念ながら、われわれは見逃してしまったのですが、博物館の隣には、広島の相生橋付近で使われていた市内電車の被爆敷石がはめ込まれた平和記念碑も建てられていたようです。


海軍司令部跡
密林のなかに突如あらわれた廃墟は、海軍司令部跡。

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米軍の攻撃により、屋根には大きな穴があき、壁には銃痕が残っています。

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しかし、密度の濃い鉄筋コンクリートの2階建の建物は、頑強にその姿をとどめています。

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1階には風呂や便所の跡も残っています。

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建物のすぐ隣の草むらの中には防空壕も残っていました。

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九五式軽戦車
密林の道をさらに進むと、すっかり錆びついた旧日本軍の軽戦車が遺されていました。

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ガイドのDさんによれば、米軍の戦車よりもかなり小さく、装甲も薄いので銃弾が簡単に貫通してしまったとのことです。


ペリリュー飛行場滑走路
日米戦当時ペリリュー島には南洋群島最大の十字滑走路があり、そのためにこの島は戦略上重要な拠点として激しい戦闘が行われたそうです。

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現在は、北東から南西へ伸びる一本の滑走路だけが残っていますが、ふだんは使用されず、緊急用の滑走路となっているようです。


オレンジ・ビーチ
1944年9月15日にはじまった米軍最初の上陸地点です。

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日本軍の一斉射撃により海は米兵の真っ赤な血で染まったそうです。
もっとも、Dさんのガイドによれば、それまでのサイパン、テニアン、グアムにおける「水際作戦」(上陸してくる敵を迎え撃つ作戦)は、ことごとく圧倒的な兵力の差によって短時間の「玉砕」に終わっており、ペリリュー島では一旦撤退して島のなかの密林での持久戦に持ち込みました。この結果、米軍が3日で終わらせると考えていた戦闘は、11月24日まで3カ月に及んだそうです。

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こうした作戦の「成果」により、その後に行われた硫黄島や沖縄の戦闘は、ペリリュー島の戦法を踏襲したのです。もちろん、それは補給路の断たれた中での、勝ち目のない持久戦だったわけですが。そしてペリリュー島では事前に住民を他の島に避難させていたものの、沖縄戦では住民を巻き込んだ悲惨極まりない地上戦へと突入していったというわけです。


アンガウル島
オレンジ・ビーチの沖には、燐鉱石の採掘が盛んだったアンガウル島の影が見えました。

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アンガウル島でもペリリュー島同様、激戦が行われ、最後は「玉砕」となったそうです。
若き日の俊も、アンガウル島を訪れてスケッチなどを残しています。

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1941年に描いた《アンガウル島へ向かう》には、「パラオ島よりアンガウル島に向ふ船上」と記されています。

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1943年7月発行の絵本『ミナミノシマ』(中央出版協会)には、アンガウル島の燐鉱石採掘場の絵が描かれています。


零戦の残骸
密林のなかに墜落した、日本軍の戦闘機・零戦の残骸にも案内されました。
機体は車輪を出した状態で破壊されており、撃墜されたのではなく、地上で爆撃されたと思われます。

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草生していますが、翼の表面には、いまだに生々しく日の丸の赤い塗料が残っています。

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サウスドック(南波止場)
島の南端の岬にはペリリュー平和記念公園があるそうですが、台風の被害により道が寸断されているとのことで、サウスドック(南波止場)でお弁当を食べました。

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戦後に米軍によって整備されたそうですが、静かで海の色の美しい入江です。
食事の後は、再び密林のなかをドライブ。

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トーチカ
午後は、最初に密林の中に埋もれているような円形状のトーチカに行きました。

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規模の大きな施設で、中に入って見ることができます。天井には大きな丸い穴が開いていました。ガイドのDさんによれば、室内の熱を冷ますためではないかとのことです。

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床には錆びついた薬きょうなども転がっていました。


米軍機の残骸
米軍機の残骸にも案内されました。

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すっかり破壊されていますが、新品のように輝く金属の部品もあり、刻まれた文字が読めます。

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米軍LVT-4
米海兵隊の水陸両用兵員輸送車LVT-4も草生した状態で遺されていました。

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後部に乗降扉がついていて、30名ほどの兵士が輸送できたようです。
浅い珊瑚礁の上をこの舟艇に乗って移動し、海岸に上陸するのだそうです。

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米軍LVT-A1
さらに米軍の水陸両用戦車LVT-A1も見学。日本軍の戦車に比べて格段に大きく、装甲も厚くなっています。

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また、砲塔が360度回転するという点も、日本軍の戦車との違い。九五式軽戦車は、車体の向きを変えなければ砲撃できず、勝負にならなかったとガイドのDさん。
全体に錆びついていますが、まだ回転する歯車がひとつ残っていて、子どもたちは喜んでまわしていました。

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日本軍捕虜収容所跡
米軍戦車のすぐ近くには、日本軍捕虜収容所のフェンスの残骸も残っていました。

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現在は密林ですが、当時は飛行場を中心に、島の南部にも市街地が開けていたそうです。
公学校(日本化教育を行った学校)の門柱も、密林の中にぽつんと取り残されていました。


砲台跡
燐鉱採掘跡に鉄骨の足場を組んで据えられている砲台の跡にも行きました。

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実際はこの砲台が据えられている方角とは反対側から米軍が上陸してきたので、実戦での使用機会はあまりなかったそうです。

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ペリリュー神社
島の高台には、日本の右翼団体によってペリリュー神社が建立されています。

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そして、そのすぐ近くには米国側のモニュメントも。

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ペリリュー神社の境内には、日本軍の戦いに衝撃を受けた太平洋艦隊総司令官のチェスター・ニミッツの作として次のような石碑もあります。
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz」

こうしたモニュメントを見ながら、ふと思い出したのは、詩人のアーサー・ビナードさんのエッセイ。
自身も戦争体験を持つアーサーさんの義父(同じく詩人で、丸木美術館とも縁の深い栗原克丸さんのことでしょう)が教えてくれた“戦争責任早解り法”は、「地図を広げ、どこで、だれがやっているか、それさえ見れば大体、戦争責任の所在は明らかだ」というくだりです。
その方法に則れば、ペリリューという美しい島で、遠く離れた日本と米国の軍隊が激戦を行ったことの不条理が浮かび上がります。
二つの国の愛国心が競い合うようにならぶこの地に、ペリリュー島の人びとの存在がすっかり抜け落ちているように感じるのは、どうにも居心地が悪いものです。


中川大佐自決の地
最後に、ペリリュー島の守備隊長・中川州男大佐が自決したという洞窟を目ざして、山のなかを歩いていきました。

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沖縄戦の牛島満総司令官の自決の地を訪れたときのことを思い出します。

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今回、台風で道が寸断されていたため、敗戦後も2年間抵抗を続けた34人の日本兵の隠れていた洞窟に近づくことはできませんでしたが、こうした洞窟を拠点にして長期的なゲリラ戦を展開するという方法は、本当に沖縄戦と同じで、何度も既視感に襲われました。


ノースドック(北波止場)
戦跡巡りを終えて、ノースドックから再びスピードボートに乗ってコロール島に戻りました。

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ペリリューという南の小島に、これほど戦争遺跡が遺されているということにあらためて驚きましたが、逆に今まで、「かつて“日本”とされていた地」の戦禍がいかに自分の視界に入っていなかったのかということに、気づかされました。
沖縄の先には「南洋群島」があり、ずっとつながって続いていたのですね。
「美術家たちの『南洋群島』」展の沖縄会場で、担当学芸員の豊見山愛さんが「南から南へ」という意味深い副題をつけていたことを、あらためて思い起こします。
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2013/3/29

【パラオ旅行初日】ベラウ国立博物館と日本統治時代の建築物  調査・旅行・出張

1940年1月、27歳の赤松俊子(丸木俊)は、ゴーギャンのように南の島で絵を描き続けることを決意し、横浜港から南洋航路船・笠置丸(西廻り線)に乗って、当時の日本委任統治領だった「南洋群島」(ミクロネシアのマリアナ、カロリン、マーシャルの各諸島の総称)に向かいました。

すでに「南洋群島」に長く暮らしていた彫刻家・民族学者の土方久功の1940年1月27日の日記には、俊と初めて出会った記録が残されています。

昨日ノ笠置丸デ来タ、赤坂(原文ママ)俊子ト云フ女流画家ガ役所へ訪ネテ来ル

その後俊は、土方にパラオの島々を案内されたり、展覧会を世話してもらったり、6月初旬に横浜港に帰国するまで、半年ほど充実した日々を過ごすのです。

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1940年3月24日の日付の入った俊による土方久功の肖像スケッチ(土方家旧蔵)。

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こちらも土方家の旧蔵で、1940年3月30日、「かやんがる島雨の日に、土方先生を描く」と記されたスケッチです。

油彩画も数多く描いており、このときの体験は、俊の生涯の画業においても、裸体の人物表現や鮮やかな色彩などに重要な影響を与えたと言われています。

   *   *   *

今回のパラオ行きは、近現代史研究者のKさん、お連れ合いのYさんとわが家の家族の遠足旅行。若き日に「南洋群島」を旅した赤松俊子の足跡をたどる調査の旅です。
Kさんとの遠足旅行は、これまで藤沢、北海道、沖縄、広島、水俣を訪れ、長崎行きは東日本大震災の影響でキャンセルとなりましたが、それ以来久しぶりの復活で、海外は初めて。

前日の午後1時55分成田空港発の大韓航空に乗って、ソウル経由でパラオ国際空港に到着したのが日付が変わって午前1時すぎ。途中のトランジットが長かったせいもあるのですが、現代でもパラオは決して近くはないと実感しました。俊が「南洋群島」を訪れた際には、船で10日間ほどかかったようです。
それでも当時は日本郵船によってサイパン丸、パラオ丸、横濱丸、近江丸、山城丸、天城丸、泰安丸、笠置丸、駒丸丸といった多くの船が日本と「南洋群島」を行き来し、1935年の島勢調査で群島人口102,537人のうち日本人(朝鮮人、台湾人含む)人口51,861人が、現地住民50,573人を上回るほど多くの人が住んでいたのです(ただし、その多くは沖縄出身者でした)。

   *   *   *

空港に到着した夜は真っ暗闇のなかを車でホテルに移動したので、あまり実感はなかったものの、翌朝目が覚めると、そこは確かに、南の島でした。
輝くような陽ざしに照らされたホテルのプールに、子どもたちも大よろこび。

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朝食をとった後、まずはパラオの中心・コロール市内にあるベラウ国立博物館(Belau National Museum)を訪れました。

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ベラウ国立博物館は、1955年設立の、ミクロネシアではもっとも古い博物館。
現在の展示室は、2005年9月に建てられた新館です。

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隣接する旧館は、今はライブラリーとして使われており、かなり改築されていますが、日本統治時代に気象観測所庁舎だった建物だそうです。

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前庭には、カヌーや日米戦争の遺物(戦闘機のプロペラや、高射砲、戦車の一部)などが展示されていて、その奥には、木造藁ぶき屋根のバイ(ア・バイ)が建っています。
バイはパラオの伝統的な施設で、身分の高い男性専用のものと、地域の集会用のものがあるそうです。集会用のバイでは、年長者が年少者に生活の様々な知恵を授ける学校のような役割を果たしていたとのこと。

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かつては各地の集落に存在していたのですが、19世紀後半より次第に減り始め、日米戦争時の戦火によって激減。博物館前のバイは、1969年に政府によって建てられたのですが、79年に放火により焼失し、90年に再建されたものです。

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俊の1940年の油彩画《パラオ島》(1940年第27回二科展入選作《パラオ島民集会所》の可能性あり)には、バイの入口に3人の男性が座っている情景が描かれていますが、よく観ると絵の奥にも別のバイが描かれており、2棟並んでいることがわかります。

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南洋群島文化協会発行の8枚組絵葉書『笹鹿彪画伯筆 南洋群島 その1』に収められている《コロール・アバイ》にも、俊の油彩画と同じ装飾が施されたバイを含んだ2棟のバイが描かれています。おそらく俊の油彩画《パラオ島》は、当時コロール島に存在した2棟並びのバイを描いているのでしょう。

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バイの外壁には、色彩鮮やかな装飾が施されています。
魚やサメ、動物たち、女性、漁や狩りの様子から、戦争などの歴史やまざまな伝承が彫り込まれているのです。

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俊の油彩画にも描かれているニワトリの絵が目をひきます。
パラオでは今もあちこちの家でニワトリ(セキショクヤケイ、パラオでは「マルクレオムル」と呼ばれる)が飼われていて、夜明けには一斉に鳴き声が響いていました。

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不思議な鳥の姿も見られるのですが、これは土方久功の記した「ア・バイの絵」(『パラオの神話伝説』、1985年、三一書房刊)によれば、「パラオの珠貨を産んだと伝えられる、デレロックと呼ばれる神鳥」で、「オカク鳥(ちゅうしゃくしぎ)に形どられたもの」だそうです。

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入口の梁には、赤い目をした大コウモリが笑っています。

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内部は板張りになっていて、火を起こす場所が2カ所あり、柱や梁にも装飾が施されています。

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屋根の内側を見上げると、釘が一本も使われずに組み立てられているのがわかります。

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裏側の外壁には、巨大な人のもとに食料を運ぶ人々の様子が描かれていました。これは、パラオ諸島の創世神話のひとつウアブの物語でしょうか。

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バイの装飾は、ユーモラスな表現とストーリー性のある内容が面白く、じっくり見ていくと非常に興味深いです。

   *   *   *

国立博物館のなかに入ると、パラオの神話的起源からはじまり、スペイン、ドイツ、日本、アメリカに統治された時代ごとの資料が展示されていました。

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パラオ人は、どうやら3000年ほど前にインドネシアやフィリピンから渡来してきた人びとの末裔のようですが、パラオに伝わる伝説では、「海からやってきた(エビから生まれたという話が伝わる)」とされているそうです。
歴史年表を見ると、西洋人がはじめてパラオを訪れたのは、1579年に英国のフランシス・ドレイクが現れ交易を行ったのが最初とのこと。
もっとも、パラオでしばしば目にしたのは、1783年に英国人ヘンリー・ウィルソン船長率いるアンテロープ号がアラカベサン島沖で座礁したという事件の逸話。その際に初めて西洋人との本格的な交流がはじまり、英国人たちが小型船を建造して帰還するとき、パラオの部族の長・アイバドルの息子リー・ブーが英国に留学したのです。
リー・ブーはロンドンに着いてから半年もしないうちに天然痘で病没してしまうのですが、彼が携えたジュゴンの骨のブレスレットやベッコウの皿などは大英博物館に収められており、この悲劇が英国人のパラオへの関心を高めたそうです。
現在、コロールの中心部にあるパラオ・コミュニティ・カレッジの正面には、リー・ブーの像が立っています。

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その後、19世紀後半にはドイツ・スペイン・英国が太平洋諸島の支配権を争い、ローマ法王の裁定で1885年にスペインの植民地となります。しかし、米西戦争で敗れたスペインは、1899年にパラオをドイツに売却。このドイツ支配時代にアンガウル島の燐鉱石採掘がはじまり、後に日本の南洋進出にも影響を与えていくのです。

日本がパラオの統治をはじめたのは1914年。第1次世界大戦に連合国として参戦し、軍事占領したのです。1920年に国際連盟が発足すると、「南洋群島」は日本の委任統治領となり、1922年にパラオ・コロール島に南洋庁が設置されました。
植民地時代には、島民向けの公学校が相次いで作られるなど、現地の日本化政策、皇民教育が行われ、移民主導による殖産興業も進められました。
しかし、日米開戦後は戦局の悪化にともない、1944年3月30日、31日にはパラオ大空襲が行われ、秋にはペリリュー島、アンガウル島が「玉砕」戦の舞台となるのです。
戦後は米国を施政権者とする国連信託統治地域となり、1981年にパラオ憲法を施行して自治政府を発足。ところが、憲法に「非核条項」を含んでいたため米国との交渉が難航し、正式に独立したのは「非核条項」を米国に関して棚上げするかたちで承認された1994年のことでした。

日本統治時代の「南洋群島」における文化活動については、2008年から翌年にかけて町田市国際版画美術館、高知県立美術館、沖縄県立博物館・美術館を巡回した「美術家たちの『南洋群島』」展で詳しく紹介されました。
企画者の滝沢恭二学芸員(町田市国際版画美術館)が図録に記された論考によれば、「南洋群島」に渡航した美術家は50人あまり。その多くは日本が国際連盟を脱退した1934年以降に渡航しています。
そうした美術家のなかで、俊は「自分のなかにある「南洋群島」のイメージに沿うように島の典型的な風俗や自然だけを選んで描くのでなく、新旧混ざり合った現代の現地住民たちの姿を同じ高さの目線で等身大に描き出している」という制作姿勢が特異であり、「そこにはエキゾチシズムの視線がないわけではないが、むしろ旅行者の域を超えて現地住民の生活に溶け込もうとする画家の姿を感じ取ることができる」と評価されています。

日本統治時代の芸術文化展示には、土方と俊が現地の人と共に撮影した写真がありました。

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そして、土方によるスケッチ4点と彫刻1点、俊によるスケッチ6点(いずれも複製と思われる)が展示されています。以下に、俊の作品に添付されていた英文タイトルを書き出します(括弧内は、画面に記入されていた日付など)。

In Ngarchelong (1940 アルコロンにて)
Traveling by ship (1940.2.29 Tachibana)
Sewing Lesson (2600 俊子)
Chief of Koror (1940.2.11 コロール村長さん)
Two Men in Bai (1940.1.30)
Hijikata-san (1940.2.26)

俊についての展示解説文は次の通り。

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1940年、若き女性芸術家、赤松俊子がパラオを訪問しました。
戦後、赤松俊子(丸木俊)は、「原爆の絵」など戦争をモチーフにした絵画を描き、反戦芸術家として知られています。
赤松が戦前のパラオで描いたスケッチは、くったくのない明るさに満ち、パラオの人びとの日常生活が生き生きと描かれています。


=====

ドイツ統治時代の芸術文化コーナーに、20世紀初頭にパラオを訪れ、水彩画やスケッチで現地の風俗を描いたエリザベス・クレーマー(Elizabeth Kraemer)や、ドイツ表現主義の芸術家集団「ブリュッケ」の一員であったマックス・ペヒシュタイン(Max Pechstein)やエミル・ノルデ(Emil Nolde)の作品が紹介されていたのも興味深く思われました。
「南洋群島」時代の画家たち以前にも、芸術家にとって南の島は魅力的な場所だったのです。
ペヒシュタインとノルデについては、「美術家たちの『南洋群島』」展図録で奥野克仁学芸員(高知県立美術館)が論考を記しています。

   *   *   *

日本統治時代の展示の最後に「太平洋戦争と日本統治時代の終焉」というパネルがあり、1942年に「資源調査隊」としてパラオの現地住民約60名が、1943年に「挺身隊」として約30名が徴収され、ニューギニア島などへ派遣されたことや、戦争のパラオ人の死者が100〜200名あったことが記されていたのにも興味を惹かれました。

1944年3月30日、31日のパラオ空襲では70名の死者があり、日本の航空機147機、艦船21隻が失われたそうです。
また、同年9月15日から11月24日まで行われたペリリュー島の戦闘では米軍1,684人、日本軍10,022人が戦死。アンガウル島でも9月17日から10月19日まで激しい戦闘が行われ、米軍260人、日本軍1,150人、パラオ人数名が戦死しました(日本軍の生還者はペリリュー島446人、アンガウル島50人)。
両島のパラオ人住民は事前にバベルダオブ島に疎開させられたため直接の犠牲にはなりませんでしたが、島は徹底的に破壊され、村は完全に消滅してしまったそうです。バベルダオブ島では米軍の上陸はなかったものの、米軍機の機銃掃射によりパラオ人、日本人ともに民間人に被害が出ました。
当時の食糧事情は困難を極め、ペリリュー島とアンガウル島以外の日本側の戦死者4,838人の大半は餓死と伝染病による戦病死であったそうです。
戦争末期にはパラオ人による「斬込隊」が結成され、軍事訓練を受けましたが、実戦の機会はありませんでした。
戦争終結時には約4万人の日本の軍官民とパラオ人がいましたが、9月21日より引き揚げが開始され、翌年2月26日に完了したそうです。

続いて、現地の人の戦争体験談が展示されていました(以下は証言の要約)。

沖縄や朝鮮の人が多く働いていたアイライの飛行場で水汲みの仕事をしていたところ、米軍機の機銃掃射にあい、すぐとなりにいた朝鮮の人が二人死んでしまった。アイライの山から見ると、コロールが火だらけになっていた。(マルキョク出身、1927年生)

空襲から疎開した先で、漁を終えて村に帰るとき、仲間たちが日本の軍曹に理由もわからず集団で殴られ、蹴られて、ひどい目にあった。自分も歩けないほど殴られて、人に手伝ってもらって移動した。このとき、ある酋長は手を縛られてひっぱたかれ、耳が聞こえなくなった。(アイライ出身、1920年生)

空襲から避難して二人の子どもや両親、夫の姉妹やその家族と一緒にジャングルに逃げ、はじめはタロイモを食べていたが、次第に食料がなくなり、ペロイという苦い毒のある実のあくをとって食べて命をつないだ。(コロール出身、1917年生)

アンガウル島から避難できなかった現地住民は、毎日米軍の機銃掃射や艦砲射撃から逃げ回っているうちに日本軍といっしょになってしまったが、日本軍といっしょでは危ないと考え、連隊長に「最前線に僕らがいると兵隊の邪魔になるから、一歩下がります」と言ったら許可された。やがて米兵に出会って仕方なく投降したら、テントには食料がたくさんあり、日本軍や学校の先生には「アメリカ兵に捕まったらひどい殺され方をする」と言われていたのは、嘘だったんだとわかった。(アンガウル出身、1928年生)

こうした証言を読むと、パラオ諸島で行われた戦争は、まったく、その半年後にはじまる沖縄戦の前触れです。この美しい南の島で、遠く離れた日本と米国が戦争を行うことの理不尽を思わずにはいられません。

   *   *   *

博物館を見学した後は、住宅街を歩いて町の大通りに向かいました。

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南国の情緒あふれる道を、駆け足で小さな野性の鳥が通り過ぎていきます。

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見上げると、バナナの実がなっています。

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ハイビスカスも咲いています。

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パラオで一番の大通りにも、空高くヤシの実が揺れています。
南の島の光景です。

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コロールの中心部では、日本の植民地時代の名残の建築物を見てまわりました。
まずはアサヒ・フィールド。野球も日本の植民地時代に伝えられ、「旭球場」が作られたのです。

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パラオでも現在は野球が一番人気のスポーツ。16の州にそれぞれチームがあり、パラオ・メジャー・リーグというリーグ戦が開催されています。とても開放感のある気持ち良いフィールドなので、ここでパラオの野球の試合を観てみたいものです。

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一塁側スタンドの裏には、旧日本軍の戦車が放置されています。

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すっかり錆びついていて、内部は草に覆われていますが、車体には「特二式」と記されたラベルがあります。
日本海軍(海軍陸戦隊)の水陸両用戦車で、1942年(皇紀2602年)に制式採用された「特二式内火艇 カミ」という種類。「特二式」というのは皇紀から名づけられたそうです。

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後から調べて知ったのですが、この戦車の特徴は、水上走行時は前後に大型のフロート(浮き)を装着して浮力を得て、上陸後はフロートを切り離して走行する仕組みだそうです。
実は3日目に再びこの戦車を見に立ち寄った際、年配の米国人男性と出会い、彼が盛んに車体の後部の装甲に斜めの切り込みが入っているのを不思議がっていたのですが、どうやら後部フロートを後方へ滑らせて切り離すための切り込みだったようです。

これも後から知ったのですが、戦車の上には、「九六式二十五粍高角機銃」が乗せられていました。戦車とは別のもののようです。

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こうした旧日本軍時代の遺跡は、パラオのあちこちに残されているとのこと。しかし、特に看板などがあるわけではないので、自分で探して歩くより仕方がないのです。

続いて訪れたのは、大通りのネコ・プラザ前にある「パラオ公園」の石碑。

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裏面には「昭和御大典記念事」とあり、その下は土に埋まっていて読めません。
1928年11月の昭和天皇即位式を記念して作られた公園の跡なのでしょう。

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大通りを西に進み、Y字型の分岐点に立つ鉄筋コンクリート造の建物は、旧南洋庁ラパオ支庁庁舎。現在はパラオ最高裁判所として使用されています。
おそらく土方と俊が初めて出会ったのは、この庁舎だったのではないでしょうか。

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この南洋庁に向かって右側にあった南洋庁職員厚生施設の昌南倶楽部で、俊は1940年3月15日から18日にかけて、土方や南洋群島文化協会の野口正章らの協力によって個展を開催しています。
ベラウ国立博物館の展示によれば、「昌南クラブは、日本人の娯楽施設で、普段は碁会所などとして使われていて、時には展覧会やパラオの伝統的なダンスショーなどが開催された。クラブの庭にスクリーンを持ち込んで映画上映がなされることもあったという。今日この場所はパラオ高校となっているが、当時の門柱が残っている」とのこと。
その門柱も確認してきました。

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このほか、最近までパラオの国会議事堂だった建物も、かつての無線電信所庁舎でした。
増築を重ねてほぼ原型をとどめていないようですが、もとは海軍特設無線電信所で、1926年竣工という、現在パラオに残る日本統治時代の建物の中で最も古いものだそうです。

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実際に町を歩いてみると、南洋庁を中心とする建物は、1km程度の本当に狭い地域に密集して建っていたことがわかります。俊や土方、そして俊が滞在した翌年に南洋庁に赴任してきた作家の中島敦らも、この大通りを何度も歩きまわったことでしょう。

まだまだコロールには日本統治時代の建物や遺構、防空壕などが残されているようですが、さらに調査を進めていきたいところです。
「パラオ・コロールにおける日本委任統治期建築物の現存状況」という、熊本県立大学の研究もあるようです。
http://www.pu-kumamoto.ac.jp/~m-tsuji/ronbun.html/paper04.html/pap0407.pdf

   *   *   *

建築物調査のあいだ、妻と子どもたちはホテルのプールでたっぷり遊んでいました。
この日の夕食は、ホテルに近い人気のパラオ料理店。
目の前で選んだ新鮮な魚をフライにしてもらい、タロイモやタピオカの料理、シャコ貝のココナッツ煮やマングローブガニなどのパラオフードの盛り合わせを美味しく頂きました。

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2013/3/27

美術館ニュース第113号入稿  美術館ニュース

毎度のことではあるのですが、今回もバタバタとS印刷さんに『丸木美術館ニュース』第113号を入稿しました。
発送作業は4月6日(土)。ボランティア募集中です!
丸木美術館の桜も少しずつ花が開きはじめました。ニュース発送の頃に満開だといいのですが。
今回の表紙の絵は、春らしく丸木俊の《12のつきのおくりもの》から、3月のおくりもの、すみれつみの場面です。鵜飼哲さんの原稿、そして安藤栄作さんや壺井明さんの文章も読みごたえがあります。
以下に、ニュースの目次を紹介いたします。

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丸木美術館ニュース第112号(発行部数2,500部)

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〈主な記事〉
5月5日開館記念日のご案内 …… p.2
開館記念日出演者紹介 高橋哲哉さん、豊田勇造さん …… p.3
作品がみつめる世界―二つの巡回展の経験から (鵜飼 哲) …… p.4,5
「丸木美術館クラブ・工作教室10年展」を終えて (万年山 えつ子) …… p.5
札幌で丸木俊生誕百年記念展―「女絵かき」ふるさとに帰る― (清水 眞知子) …… p.6
「安藤栄作展」によせて 光のさなぎたち (安藤 栄作) …… p.7
連載 丸木位里・丸木俊の時代〈第14回〉 女子美術の指導教員/山代巴との出会い/秋香会の仲間たち (岡村 幸宣) …… p.8,9
美術館の日常から (中野 京子) …… p.10
丸木美術館情報ページ …… p.11
リレー・エッセイ 第45回 (壷井 明) …… p.12

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さて、明日からは、しばらく休暇を頂いて、若き日の丸木俊が訪れた「南洋群島」―パラオへ調査を兼ねて旅行に行ってきます。
次に丸木美術館に出勤するのは4月3日(水)の予定です。
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2013/3/23

「安藤栄作展 光のさなぎたち」のお知らせ  企画展

4月20日から7月6日まで丸木美術館で開催される「安藤栄作展 光のさなぎたち」のチラシが納品されました。

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チラシは、丸木美術館HPの安藤栄作展サイトからもダウンロードすることができます。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2013/2013ando.html

安藤栄作展 光のさなぎたち
原爆の図丸木美術館
協力:泉谷木材商店、クレヨンハウス、奈良災害支援ネット


手斧で原木を削り、人と自然との交感をテーマに作品を作り続けてきた彫刻家の安藤栄作さんは、2011年3月11日の東日本大震災による津波と火災で福島県いわき市の家を失いました。
その後、一家で関西に移り住んだ彼は、「人間の強欲の証」である原発を鎮め、和解とともに手放していけるようにという祈りを込めて、原発の見える土地に人知れずみずからの作品を埋めるという試みをはじめました。
今展では、原発に対峙する「魂」のあらわれとしての彫刻作品《光のさなぎ》を中心に、安藤栄作さんの個展を開催いたします。

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バックのドローイングは福島第一原発。
僕らはどんな状況にあっても光を生み出すサナギのようなもの。
男性は女性のたおやかさと朗らかさを、
女性は男性の気高さと誠実さを愛する。
その行為そのものが光で、
二つが合わさると光はより増幅される。
原発事故とその後の落胆だらけの様々な出来事、
そんなものに魂まで絡め捕られていてはいけない。
今こそ自分自身が光のさなぎであることを思い出し、
男性は女性を女性は男性を大切な存在として誠実に愛し、
その光で世界を満たす時だ。
  安藤栄作(彫刻家)


また、クレヨンハウスより刊行される安藤さんの初めての絵本『あくしゅだ』の絵本原画も展示し、5月8日からの全国販売に先駆けて、丸木美術館で先行販売をいたします。

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『あくしゅだ』 あんどうえいさく作 クレヨンハウス 定価1,575円

4月20日(土)午後2時からは、オープニングイベントを開催いたします。
安藤さんによる作家トークと、安藤さんと親交の深い舞踏家の鈴木ヴァンさんとのコラボレーション・パフォーマンスも開催いたします。
参加自由(当日の入館券が必要です)。当日は、午後1時に東武東上線森林公園駅南口に美術館の送迎車が出ます。どうぞ皆さま、お気軽にご参加ください。
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2013/3/22

炭鉱展調査/銀座ニコンサロン/宇都宮美術館/栃木県立美術館  他館企画など

午前中、元学芸員のMさんと写真家の萩原義弘さんといっしょに、六本木のクロマート社へ。
同社の設立者でもある写真家の故・加藤恭平が撮影した炭鉱写真の調査に伺いました。
加藤恭平は、戦時期(撮影年は不明)に常磐炭田の入山採炭を撮影していて、坑内の作業現場や人車で運ばれていく坑夫たちの姿、そして炭住に暮らす人びとや選炭婦の作業の様子など、人間の生き生きとした姿を写真に収めているのです。

   *   *   *

興味深い写真を拝見した後は、萩原さんに勧められて銀座ニコンサロン「北島敬三写真展 PLACES」へ。
東日本大震災から2年という歳月を考える企画。被災地を撮影した北島さんの写真も見応えがあり、また、簡単なアンケートに答えると昨年ニコンサロンで開催された連続企画展 「Remembrance 3.11」の図録が無料で頂けるのです(非売品、限定500冊)。
http://www.nikon-image.com/activity/salon/news/index7.htm

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図録には石川直樹、笹岡啓子、新井卓、吉野正起、和田直樹、田代一倫、鷲尾和彦、宍戸清孝の作品を収録。

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昨夏、丸木美術館で個展を開催した新井卓さんの銀板写真も10点収められています。

   *   *   *

その後、萩原さんと別れ、午後はMさんとともに現代美術家の柏原えつとむさんに合流し、宇都宮へ。宇都宮美術館と栃木県立美術館をめぐりました。
宇都宮美術館では、現在、「ミニマル/ポストミニマル ─1970年代以降の絵画と彫刻─」展を開催中。
遠藤利克、戸谷成雄、堀浩哉、川島清、辰野登恵子、中村一美ら、1970年代以後に活躍する作家たちの表現によって、「ミニマリズム」以降の日本の絵画と彫刻を再考するという企画です。

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柏原さん、Mさんという経験豊富なお二人の会話に耳を傾けながら(ただただ感心する一方だったのですが)、遠藤利克《空洞説(ドラム状の)―2013》や戸谷成雄《森Y》、堀浩哉《池へ―81.4》などの作品を観てまわるという貴重な時間。お二人はこうした作家たちといっしょに歳月を重ねてこられたのだな……という歴史の厚みを感じ、心を打たれました。

   *   *   *

最後に、栃木県立美術館の「アジアをつなぐ 境界を生きる女たち 1984-2012」展へ。
昨年暮れに沖縄県立博物館・美術館で開催していた同展を拝見していたのですが、この展覧会は栃木県立美術館のK学芸課長による長年の調査を軸にしている企画。やはり栃木の展示を見逃すわけにはいきません。

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「アジア」そして「女性」というテーマ設定のなかで選ばれた個々の作品をどう観るのか。
それらの作品を他者のものではなく、自分自身とつながる問題としてどう捉えていくのか。
そんなことを考えながら、常設展スペースの2階まで使って展開される大規模な展示を観てまわりました。
沖縄展のときは一人でまわったのですが、今回は柏原さん、Mさんのお二人が、どんな作品に反応されるのかを観察しながら観てまわるという楽しみもありました。

展評で賛否が分かれたり、入館者数の伸びが芳しくなかったりという話はちらほらと聞こえていたのですが、しかし、アジアの女性アーティストの大規模な紹介というのは、これまで国内では一度も開催されたことのない企画。
観る人に本当に新しい視点を投げかける企画は、批判の刃にさらされるものなのでしょう。
けれども、そうした新しい試みは、美術館、そして学芸員の仕事にとって、とても重要なものなのだと思います。
その意味で、今日には滅多に観ることのできない刺激的な企画のひとつとして、Kさんの長年の調査研究に、あらためて敬意を示したいと思いました。
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2013/3/21

川越スカラ座『ニッポンの、みせものやさん』  川越スカラ座

川越スカラ座で上映中の『ニッポンの、みせものやさん』(奥谷洋一郎、2012年)を観ました。

いまも活動を続けている唯一の見世物小屋「大寅興行」の活動を中心に、見世物小屋の歴史をたどるドキュメンタリー映画です。



私には見世物小屋を観た記憶はありませんが、川越まつりでもつい数年前まで蓮馨寺に見世物小屋が出ていたそうです。
見世物小屋は、かつて福祉制度が整備されていなかった時代に、障碍のある人たちが生計を立てる手段になっていたとのこと。そういえば以前、幼少時に両手足を切断し、見世物小屋で「だるま女」として働いていたことのある中村久子の生涯を紹介するTV番組を観た記憶があります。

貧しい家に生まれた子が口減らしのために働いていたのはもちろん、「昔は裕福な家に“奇形”の子が生まれると世間体が悪いんで大金包まれて見世物小屋にもらわれてきたんだよ」という映画のなかのインタビューの言葉が胸に刺さります。
それでも、倫理観だけではとらえきれない得体の知れないエネルギーに圧倒されます。
そして、肩を寄せ合うように生きる見世物業界の人びとは、他人に対してとても優しい。
この優しさは、いったい何なのだろう。
「異界へようこそ」という呼び込み看板の文字が、頭から離れません。

最近、仕事でごいっしょすることの多い写真家の萩原義弘さんが、見世物小屋の撮影をされていて、HPに見事なヘビ女の写真がありました。

http://ysnowy.exblog.jp/tags/%E8%A6%8B%E4%B8%96%E7%89%A9%E5%B0%8F%E5%B1%8B/

川越スカラ座での上映は3月29日まで。
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2013/3/20

「ジミー・ツトム・ミリキタニ回顧展/丸木スマ展」のお知らせ  館外展・関連企画

立命館大学国際平和ミュージアムより、5月14日から7月20日まで開催される春季特別展「ジミー・ツトム・ミリキタニ回顧展」及び特別企画展示「丸木スマ展」のポスター、チラシが届きました。

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企画担当のK学芸員からは、数年前からこの展覧会の構想を聞いていたのですが、ようやく実現にこぎつけることができたようで嬉しく思います。

ジミー・ツトム・ミリキタニ(1920-2012)は、アメリカで生まれ、幼い頃を広島で過ごしました。やがて再び渡米しますが、第二次世界大戦中にツール・レイク収容所へ送られ、強制収容を体験。晩年にはニューヨークでホームレスとなりながらもアーティストとして生き、その活動は映画『ミリキタニの猫』(リンダ・ハッテンドーフ監督、2006年)でも知られています。

K学芸員は、そのミリキタニの絵画と、同じように戦争を体験した後でユーモラスに生命のよろこびを描いた丸木スマの絵画をいっしょに見せる展覧会を考え続けていたのです。
丸木美術館からも、《母猫》や《ピカのとき》などのスマ作品を貸出します。

6月15日には、映画『ミリキタニの猫』の上映会も計画されているようです。
なかなか見応えのある企画になりそうで、今からとても楽しみです。
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2013/3/17

壺井明特別展トークイベント「福島の現状と活動を知る」  イベント

午後2時から、特別展示「壺井明 無主物」の関連企画として、トークイベント「福島の現状と活動を知る」が行われました。

この企画は、特別展示中の《無主物》を描いた壺井明さんが、いま、福島で起きている問題を生の声で聞いてもらいたいとの思いで企画したものです。

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ゲストは、福島市から米沢市に避難された主婦のSさんと、ふくしま共同診療所の杉井吉彦医師、避難プロジェクト@ちばの木内敦子さん。
会場には約50人の聞き手が集まり、小さな展示室はいっぱいになりました。

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最初に話して下さったのは、福島市から子どもを連れて避難されたSさん。
日常生活の場から高い放射線量が検出され続ける中で、福島では被ばくについての話題が避けられ、その不安から人間関係の分断が起きているという内容です。
避難区域が日に日に広がっていくなかで、子どもたちを守りたい一心で、泣きながら車に乗って福島を離れたという話。
本当に子どもたちを被ばくから守ろうという気があるのかどうか、首を傾げるような対応が続く学校に質問に行ったところ、「原発は国策だからあなたにも責任がある」と言われたという話。
今ここにいる子どもを守らないで「少子化問題」を説く政治家には失望しか感じないという思い。
そして、福島では子どもたちの甲状腺を診てくれる病院がなく、ようやく市民の募金によって開設した民間診療所は、政治的な中傷を受けてたいへんな思いをしているという報告。

福島では自分の思っていることも言えず我慢して生きている人がたくさんいる。何よりも大事なのは、一人の子どもの命を救うこと。そのために尽力してくれている医師や病院関係者を、外部の人が簡単に中傷することに心から憤っている……そう、Sさんは訥々と語りました。診療所の価値は、それを必要としている私たちが決める、と。

東京から福島に通って診療を行う杉井医師も、「いま、福島の子どもたちと向き合わなければ、何のためにこれまで医療を学んできたのか」という思いで、ふくしま共同診療所に参加した医師のひとりでした。

福島の人びとの声を聞き、それを絵物語として作品化していった壷井さんは、その一方で、やはり直接、福島で暮らす人や支援を続ける人の声を、より多くの人に届けたいという気持ちがあったようです。
有名になった人の話を聞くことも大切。けれども自分は、ふだん声を届けることができないような立場の人の声を聞く機会を設定したい……この企画を提案したときの壷井さんの言葉を思い出します。
小さな企画ではありましたが、非常に充実した良い時間だったように思います。
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2013/3/16

東京タワー「山本兵衛展」・KEN「璃葉展」  他館企画など

午前中、4月20日から丸木美術館で個展「光のさなぎたち」を行う彫刻家の安藤栄作さんが来館され、実際に会場を見ながら企画展の打ち合わせを行いました。
安藤さんはこの春、クレヨンハウスから『あくしゅだ』と題する絵本を刊行します。
今回は、クレヨンハウスのご協力により、絵本原画の展示と、丸木美術館での絵本の先行販売も行う予定。そうしたスケジュールも少しずつ固まってきて、展覧会が楽しみです。

   *   *   *

午後2時からは、東京タワー1階特設会場で開幕した「世界記憶遺産の炭鉱絵師 山本作兵衛展」のレセプションに参加。
写真家の本橋成一さん、萩原義弘さん、小原佐和子さん、かつて「炭鉱展」を企画した元学芸員Mさんと現地で待ち合わせ、わが家の息子Rと娘Mも連れていきました。

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レセプションでは、作兵衛さんの曾孫にあたるバイオリニストの緒方ももさんが炭坑節を披露されました。

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丸木美術館では、安藤栄作さんの個展のあと、7月13日から作兵衛さんの絵を中心とする炭鉱の視覚表現の展覧会を予定しています。
そのため今回は、作兵衛さんの秘蔵の炭鉱画を実際に拝見し、そしてご遺族の皆さまにご挨拶をさせていただくという目的もあったのです。

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美学校菊畑茂久馬アトリエ全生徒の共同制作による山本作兵衛炭坑画模写作品の前で記念撮影。ご遺族の皆さまと、岡村+息子Rと娘Mです。
撮影は、元学芸員Mさん。Mさんは、わが家の子どもたちにとても気を遣って下さって、東京タワーの前でもたくさんの写真を撮って下さいました。

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こちらは展覧会場にて。作兵衛さんの炭鉱画を前にして、息子Rに解説をされているMさん。
小学2年生に向かっているとは思えないほど、熱い口調で語って下さいました。
その勢いにやや圧倒されつつ、それでも静かに頷きながら聞き入る息子R。
この日、彼の宿題の日記には「Mさんが絵のことを教えてくれました」と記されていました。貴重な経験になったことでしょう。
Mさんも「静かにしっかり聞いてくれたので癒された」とのことです。

   *   *   *

東京タワーに上った後は、三軒茶屋のKENでオープンした展覧会「Riha's House」へ。

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会期中、KENの住人となって公開制作をしていくという新鋭アーティストの璃葉さん。
その繊細かつ強靭な世界は、今後どのようになっていくのか、とても楽しみです。

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この日のオープニング・パーティには、たくさんの人が訪れ、“秩父前衛派”のギタリスト笹久保伸さんの演奏と、南米の民俗楽器サンポーニャを奏する青木大輔さんのコラボレーション、さらに璃葉さんの彩色による仮面をつけたAyuoさんの歌声が、璃葉さんの絵が飾られた地下空間に響きわたりました。
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2013/3/15

東中野BESPOQUEと野々下さん  調査・旅行・出張

夕方、都内に出て、原爆の図のアメリカ巡回展を企画されている方々にお会いして、近況報告と打ち合わせ。

その後、友人のイラストレーターOさんと待ち合わせて、東中野駅近くにあるビスポークというパブへ。
http://bespoque.exblog.jp/

このお店のシェフのレイさんは、1950年代はじめに丸木夫妻の《原爆の図》を背負ってヨシダ・ヨシエさんとともに全国を巡回した画家の野々下徹さんの娘さんなのです。

野々下さんは、松江で中学校の教師をしていた1950年11月に松江市公会堂で開催された原爆の図展を見て衝撃を受け、藤沢市片瀬の丸木夫妻のアトリエを訪れ、居住するようになりました。そこで絵の勉強をしながら映画館の看板描きをしていたのですが、あるとき、同じように丸木夫妻のアトリエに出入りしていた若者のヨシダ・ヨシエさんに声をかけ、原爆の図の巡回展に旅立つのです。
1952年3月の新潟県内巡回展からはじまり、1953年秋にかけて続いた巡回展で訪れた都市を、野々下さんは几帳面に記録されていました。その“野々下メモ”は、現在の原爆の図研究に欠かせない貴重な資料になっています。

余談ですが、私がはじめて丸木美術館を訪れた1996年春に開催していた企画展が「野々下徹遺作展」でした。晩年の野々下さんが丸木美術館を描いた水彩画は、現在、事務局の壁にかかっています。

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レイさんも、当然、幼い頃から何度も丸木美術館を訪れていたそうで、話が弾みました。

英国風のキッシュやフィッシュ&チップスなどがとても美味しく、イギリスのお酒や紅茶も充実しているお勧めのパブです。
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2013/3/14

群馬県立近代美術館「破壊された都市の肖像」展  他館企画など

午後から、群馬県立近代美術館で開催中の「破壊された都市の肖像」展(3月24日まで)を観に行きました。

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この企画は、もともと群馬県立近代美術館が「戦争と平和」をテーマに収集した作品と、故砂盃富男コレクションの寄託作品から構成されています。
そのため、決して規模の大きな展覧会というわけではないのですが、パブロ・ピカソのスペイン内戦におけるゲルニカ爆撃を主題にした絵画《ゲルニカ》のタピスリ(つづれ織り、世界に3点しか制作されていないうちの1点)や、オシップ・ザッキンのドイツ軍によるアムステルダム空爆を主題にした彫刻作品《破壊された都市》、ヘンリー・ムーアがロンドン空襲の際に地下鉄に避難した母子を描いた《奉献(三人の女性と子供)》、そして井上有一の前衛書《東京大空襲》連作などが展示された、なかなか見応えのある内容でした。

最初の部屋の中央には、ザッキンの《破壊された都市》がそびえたち、その背後にピカソの《ゲルニカ》のタピスリが重なるように見えます。非常に迫力のある空間です。
福澤一郎の《敗戦群像》や鶴岡政男の《夜の群像》などの見慣れた作品も、この空間に展示されると、複雑な意味を帯びて見えてきます。浜田知明の版画《初年兵哀歌 風景》が展示されていたのも印象的でした。「都市の破壊」とは、もちろん、加害者の記憶としての破壊、という面も含まれています。

そして、井上有一の《東京大空襲》連作30点が天井から吊るされ、壁面に《噫横川國民學校》の展示された空間は圧巻でした。

猛火狂奔襲難民 親庇愛児縋親
米機殺戮十萬人 江東一夜化地獄

昭和二十年三月十日 東京大空襲
余前夜有一録本所区横川国民学校宿直 終生不可忘


生々しく表現された前衛的な書の迫力。
静寂の中でそれぞれの作品が風にかすかに揺れる様子は、焦土となった東京の下町の風景を思い起こさせるようでもあり、死者たちの追悼碑のようでもあります。
このところ、「非核芸術」について考え続けていましたが、「非戦」というテーマも含めて、芸術表現とは記憶をつなぎとめるものであり、個人が自由を手にする手段なのだということを、あらためて考えさせられます。
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2013/3/14

『東京新聞』に「非核芸術案内」最終回掲載  執筆原稿

2013年3月14日付『東京新聞』4面「3.11後を生きる」欄に、「非核芸術案内」が掲載されました。
昨夏に5回、そして今春に6回、計11回続いた連載の最終回です。
紹介した作品は、1959年に粟津潔・杉浦康平が共同制作した第5回原水爆禁止世界大会ポスター《原水爆禁止+核武装反対!》と、新井卓の銀板写真《第五福竜丸元乗組員・大石又七》。
グラフィックデザイナーの粟津潔と、三軒茶屋の芸術スペースKENを主宰する粟津ケンさんの父子の物語を中心に、現在上映中の映画『〜放射能を浴びた〜X年後』などの紹介も盛り込みながら、渾身の思いを込めて、核に抗する芸術の意味を問う文章を書きました。
自分なりに、最終回にふさわしいまとめ方ができたのではないかと思っています。

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本当は、まだまだ紹介したい非核芸術がたくさんあるのですが、連載の流れのなかでどうしても紹介しきれない作品がでてきてしまい、それだけが心残りです。
また、いつか発表の機会がありましたら、続きの非核芸術を取りあげていきたいと思っています。
お世話になった担当のH記者はじめ東京新聞の皆さま、そして快く連載に協力して下さった作家および関係者の皆さまに、心より御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
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2013/3/10

『北海道新聞』「異聞風聞」に壷井明《無主物》掲載  掲載雑誌・新聞

2013年3月10日付『北海道新聞』2面「異聞風聞」欄に、編集委員の大西隆雄さんが“福島の悲しみと希望の絵”との見出しで、現在特別展示中の壷井明さんの絵画《無主物》が紹介されました。

1枚の絵が現実よりも雄弁に「現実」を語るときがある―。

という書き出しではじまるコラムには、壷井さんが絵を描きはじめたきっかけや、絵画の具体的な内容が丁寧に紹介されています。
「異聞風聞」は活字のみのコラムなのですが、今回は壷井さんの絵の一部、子どもたちが風船を手に飛び立っていく場面などが掲載されています。大西さんによれば、これは例のないことだそうです。それだけ、大西さんが《無主物》に思い入れを抱いて下さったのでしょう。

壷井さんのインタビューを交えたコラムの後半部分を、以下に抜き出して紹介いたします。

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 どんな思いで描いたのか。壷井さんに会うと、こう言った。
 「被ばくという人間の犠牲。それなしには成り立たない原発の根源的な仕組みと莫大な富の独占――。そうした不公正の構造と、同時に、そこからの脱却も描きたかった。祈りのようなものを表現したかった」
 風船をつかむ子供は祈りを象徴する。被ばくを逃れ、安全な場所へ。わが子の肩を押して、風船をつかませようとする母親も描いた。だが、風船の行き先は―。絵の問いは、原発のある社会に生き、恩恵を受けながら、被害を一部の人びとに押し付ける私たちにも向いている。

 この絵は、未完である。作者が福島に通い、そこで聞いた話を描き加えているからだ。いつ完成するとも知れない絵は、大震災と原発事故から2年を経て、苦闘する福島を写している。
 「自分の絵が、いま起きていることを考えるきっかけになればいい。絵に興味のない人や、若い人に見せたい。だから路上に置くんです」
 絵を展示中の丸木美術館は、北海道が生んだ反戦画家・丸木俊が、夫の丸木位里と建てた。夫妻の「原爆の図」は広島の惨禍を描いた大作だ。同美術館の岡村幸宣学芸員は「丸木夫妻は全国の巡回展で聞いた被爆者の声を連作に注ぎ込んだ。壷井さんも福島の被災者の言葉に耳を傾け、想像力を介して現実以上に現実を描き取った」。
 福島は、福島の人びとは、どうなるのか。壷井さんに尋ねると、次作のイメージに託してこう語った。―福島の人びとは、この国の扉を開く鍵を持っている。誰も手にしたことのない鍵だ。無数の鍵穴にそれを差し込み、次の時代を開いていける。筆者もそれを願う。


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いつも素晴らしい記事を書いて下さる大西さんに、心からお礼を申し上げます。
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2013/3/8

大阪大学『日本学報』第32号  講演・発表

大阪大学大学院文学研究科日本学研究室発行の『日本学報』第32号(2013年3月発行)が、送られてきました。
特集「被爆体験とその表象」では、昨年秋に大阪大学大学院の研究会で報告させて頂いた内容がそのまま掲載されています。
研究会の日誌はこちら http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2012.html
以下に、『日本学報』の目次から関連箇所を抜き出します。

【特集 被爆体験とその表象】
趣旨説明……宇野田尚哉(1)
《原爆の図》は何を描いたのか―米軍占領下からはじまる絵画の旅―……岡村幸宣(5)
コメント:歴史としての巡回展―絵画としての《原爆の図》―……山本潤子(23)
記憶を記録するということ―在韓被爆者をめぐるドキュメンタリー映像での個人的な取り組み―……イトウソノミ(29)
コメント:記録映像と立場性―「記憶」との対話をめぐって―……西井麻里奈(47)
討論……(55)
研究会を終えて……宇野田尚哉(61)


資料として、1950年から53年のあいだに行われた原爆の図国内巡回展の調査記録の最新版も掲載されています。
上記特集部分のみの抜き刷りも頂きました。
ご興味のある方にはお分けできますので、どうぞ岡村までご連絡ください。

お世話になった宇野田さんはじめ大阪大学大学院日本学研究室の皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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