2012/12/8

美術館クラブ「たのしいクリスマスツリーを作ろう」  ワークショップ

10年間続いた毎月1回の丸木美術館クラブ工作教室。
実は、今回の「楽しいクリスマスツリーを作ろう」が最後のワークショップとなるのです。

船の木製工作キットの部品をレコード盤に貼って、クリスマスツリーを作るという内容。
いつものように和やかにワークショップがはじまりました。

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かたちを決めたら、部品にマジックで色を塗っていきます。
色鮮やかで楽しいデザインのツリーができていきました。

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なかには、クリスマスツリーじゃないものをつくっている人もいます。
でも、この工作教室は何をつくってもOK。
企画者のM年山さんは「すごいじゃな〜い!」と褒めてくれます。

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こうして、個性的なクリスマスツリーがたくさんできあがりました。
から傘お化けや怪獣も交じっています。

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工作のあとには、妻T差し入れのクリスマスケーキを食べました。

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毎年恒例、サンタクロースも登場!
子どもたちはプレゼントをもらってよろこんでいました。

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10年間に、約120回行われたワークショップ。
たくさんの子どもたちで賑わった頃もありました。
わが家の子どもたちも、生まれたばかりの頃から参加して、お兄さん、お姉さんたちにかわいがってもらいました。

いろいろなことがあったけれど、M年山さんの「すてきね〜、いいじゃな〜い」の言葉に励まされながら、みんなが楽しそうに工作にとりくんでいたことを思い出します。
そして、いつも裏方で材料の準備をしてくれた、T口さんはじめカルディア会の皆さんには、本当に心から感謝。

この10年の総決算として、1月26日(土)から2月23日(土)まで、「丸木美術館クラブ工作教室の10年展」を開催します。
初日の1月26日には、M年山さんもいろいろとオープニング企画を考えているようです。
寒い時期ではありますが、楽しく盛り上げていこうと思っています。
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2012/12/7

第1次琉大事件と“原爆の図”  1950年代原爆の図展調査

原爆展の開催など大学への届け出なしに平和運動を行ったことを理由に、4人の学生が退学処分になったことで知られる1953年4月の「第1次琉大事件」。
このとき、復帰前の沖縄で《原爆の図》が展示されていたという情報が以前から気になっていたのですが、先日、大阪大学大学院「日本学方法論の会」でお世話になったU先生や院生のYさんから資料を提供していただき、当時の状況がわかってきました。

1953年3月17日付『沖縄タイムス』朝刊に、次のような記事が掲載されています。

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“原爆図”で訴う 琉大生全島廻り平和運動

“再び原爆の悲劇を繰返すな”写真の“この子の「目」を見よ”“戦争はいやだ”
十六日、那覇市内の辻々で琉大生活擁護委員会の学生約十名が、プラカードをかざし、道ゆく人に呼びかけていた。十二日から春休みになつた琉大生らがアルバイトの暇をみて平和愛好者五十名で申合せ、一日十名ずつ、アサヒグラフから切抜いた“原爆の図”三十点をはり出して、かわるがわる説明に立ち「皆で協力すれば必ず平和になれる、この図を沖縄全島の人びとに見せたいのです。私たちの運動にお力ぞえを…」と訴え運動費を募っていた。
……(以下略)

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写真の説明にも、【写真は原爆の図に見入る人びと】と記されているのですが、記事を読めばはっきり書かれている通り、展示されていたのはアサヒグラフ(1952年8月6日号の原爆特集)から切り抜いた写真だったようです。

現存する唯一の「原爆展」写真という、『琉大事件とは何だったのか』(大学人九条の会沖縄 ブックレット編集委員会編、琉球大学大学院法務研究科発行、2010年)の表紙に使用されている浜田富誠氏所蔵の写真を見ても、はっきりとアサヒグラフだとわかります。

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1953年の沖縄に展示されたのは、どうやら(複製も含めて)《原爆の図》ではなかったようです。
もっとも、見逃せないのは『沖縄タイムス』が原爆写真を「原爆の図」と報じていること。
当時、原爆写真と《原爆の図》がいかに混同されて広がっていたかをあらわす「誤報」として、興味深い記事なのは間違いありません。
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2012/12/6

埼玉近美「ベン・シャーン展」/NHKさいたまFMラジオ「屠場」紹介  TV・ラジオ放送

午後から、浦和へ出て埼玉県立近代美術館で開催中の「ベン・シャーン展 線の魔術師」(来年1月14日まで)を観ました。

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朝霞市にある丸沼芸術の森のコレクション約300点によるベン・シャーン展。
丸木美術館も、昨年春の「第五福竜丸事件―ベン・シャーンと丸木夫妻―」展の際には、同コレクションからラッキー・ドラゴン・シリーズをお借りして、たいへんお世話になりました。

「線の魔術師」というタイトル通り、線描による小品を中心とする展示ですが、しかし、ベン・シャーンの特徴である力強い線の魅力には、やはり圧倒されます。
そして、初期の版画集『レヴァナとわれらの悲しみの貴婦人たち』の原画を同コレクションが持っているということも初めて知りました。

今回の展覧会の図録の冒頭に掲げられた以下の一文、今の時代にも、心に響きます。

わたしは、個人の神聖と優越を信じ、また人間のうちの最下層のものの生命と安全が、もっとも偉大で重要な人間のそれと同等な価値をもつものであることを信じます。
                       ――ベン・シャーン


展覧会を観た後は、企画担当のY学芸員にご挨拶をすることができました。埼玉県立近代美術館の学芸員の皆さんは、いつも温かく迎えて下さるので、本当にありがたいです。

   *   *   *

午後6時からは、NHKさいたま局でFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」に出演。

お相手して下さったのは、キャスターの山崎薫子さん。とてもしっかりしていて(新卒とは思えないほど!)落ち着いたトークで、楽しくお話をすることができました。

番組の構成も山崎さんが丹念に考えて下さっていて、前半は丸木美術館と本橋成一写真展「屠場」の簡単な紹介。先日、美術館に足を運んで下さった彼女の感想を中心に話が進み、いきなり「おこたでいっしょに味噌煮込みうどんを食べた」と暴露されてちょっとあわてましたが、おかげで和やかに会話が進みました。

そして最初のリクエスト曲は、『ドナドナ』。
この曲を美術館で流したところ、子牛に感情移入してしまって屠場の写真を見られなくなるのでは……との苦笑まじりの意見もあったのですが、もちろん、笑いをとるために選んだわけではありません。
もとはナチスによって強制収容所に送られるユダヤ人の子どもたちを子牛に重ねた反戦歌といわれていることや、丸木美術館には《原爆の図》だけでなく《アウシュビッツの図》も展示していること、差別という“暴力”も丸木美術館や本橋さんの写真から見ることのできる隠れたテーマであると説明をしたうえで、曲を聴いていただきました。

後半は、本橋さんがこれまでに撮り続けた炭鉱やサーカス、上野駅、チェルノブイリ原発事故の汚染地で生きる人びとの写真の仕事を紹介しつつ、「屠場」のテーマである「命あるものは自分の命を保つために、命がけでほかの命をいただく」という根源的な問題に話を進めました。

今回、ぜひ紹介したかったのは、以前、新聞のインタビューで読んで印象に残った、本橋さんが大切にしているという言葉。
若き日の本橋さんが出会った、筑豊の文化運動を先導した上野英信の記憶です。

「我が身を投ずる」って言葉が上野さんは大好きだったんです。自らをその場に投げ込んでしまうということ。文章も写真も、ものを伝えるってことはそういうことなんだと。いきなりひょいっとやってきてペンと紙を取り出して「さあ、あなたの苦しみや悲しみを話してください」と言われて、だれが話したくなるだろうか。ともに時間をすごし、「こいつになら自分のことを書いてもらいたい」と思われないとね。どの立ち位置でおまえは写真を撮っていくのか、と考えさせられた。
 (2012年3月22日付『朝日新聞』夕刊「人生の贈りもの」より)

こうした姿勢を大切にされている方だからこそ、「屠場」という複雑なテーマの作品を撮り、発表することができたのだろうと、つくづく思います。
そして、この姿勢は、本橋さんだけでなく、ベン・シャーンや丸木夫妻にも共通していると思うのです。こんなふうに時代と向き合っている作品を、これからも丸木美術館で紹介していきたいと、心から思うのです。

「日刊!さいたま〜ず」の出演は、今回でちょうど10回目。お世話になったキャスター・アナウンサーの方は、山崎さんで6人目となりました。皆さんそれぞれ個性が違うので、今度はどんな話になるのかと、毎回とても楽しませていただいています。
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2012/12/3

Yahooきっず環境エコニュースに丸木美術館紹介  掲載雑誌・新聞

2012年12月3日付で、インターネットサイトの「Yahoo JAPAN キッズ環境」のエコニュースに、丸木美術館の太陽光発電の取り組みが紹介されました。

http://contents.kids.yahoo.co.jp/environment/news/2012/20121203.html

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原爆の図、太陽光発電で再び照らせ!

今年8月、埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」に13.5kWの太陽光パネルが設置された。同美術館では、原爆が落とされた1945年8月の広島を描いた「原爆の図」を通じて、約半世紀に渡り、非核や反原発のメッセージを発信してきた。館内の電力を自然エネルギーでまかない、脱原発の意思を示そうというこのプロジェクトは、作者である故・丸木位里(いり)、俊(とし)夫妻の悲願でもある。
1989年、丸木夫妻は電力会社に対して、原発分の電気の支払いを拒否したことから、1年以上にわたって美術館への送電を止められてしまう。そこで同館では寄付金を募り、太陽光発電を設置。翌年8月より発電を開始したが、財政難から設備の維持・修理ができなかったために太陽光発電は長くは続かず、運用を断念せざるをえなかった。
しかし3.11をきっかけに、脱原発への具体的なアクションとして、丸木美術館は太陽光発電の復活を決意。その想いに対する賛同が、寄付となって全国から集まった。電気を止められ、薄明かりのなか絵を観賞することもあった同館だが、いまや館内で使用する以上の電気を生み出し、販売するまでになっている。将来的には全電力の自給自足を目指すという。


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夏にエコロジーオンラインの取材で来館して下さったKさんが、記事を書いて下さったようです。

子ども向けのニュースでも情報を発信して下さるのは、嬉しいことですね。
Kさん、どうもありがとうございます。
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2012/12/3

『東京新聞』埼玉版に本橋成一写真展「屠場」掲載  掲載雑誌・新聞

2012年12月3日付『東京新聞』朝刊埼玉版に、“大阪・食肉処理場30年の記録 命と食に向き合う”との見出しで、本橋成一写真展「屠場」が紹介されました。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20121203/CK2012120302000128.html

いつも足しげく取材して下さるN記者に心から感謝です。
以下は、記事からの一部抜粋。

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 本橋さんは戦後の少年時代、焼け跡のバラックでかわいがっていたニワトリを月に一、二羽、父親が絞めるのを手伝い、悲しみと肉が食べられるうれしさを感じた体験を写真のキャプションにつづっている。「あの時代、大人も子どもも一片の肉のありがたさを知っていた。生きものとして、食としてのいのちのつながりが見えていた」と、生き物の命をいただいていることが見えにくくなっている飽食の現代に訴えかける。

 展示写真の多くは、食肉処理場が機械化される前、作業員が熟練の技で、ナイフ一本で牛を解体していた時代のものだ。いわれなき差別と戦い、職人としての誇りを持ち続ける人たちの姿が、自然にとらえられている。


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先週、11月28日(水)の『朝日新聞』夕刊「マリオン」首都圏版ミュージアム欄にも、「屠場」の情報記事が掲載されました。明日は『朝日新聞』朝刊埼玉版の「さいたまマリオン」にも情報記事が掲載予定です。
そして、明後日にはNHKさいたま局FMラジオ放送と、広報もいよいよ本格化してきました。
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2012/12/1

占領下の「原爆の図展」に対する調査書  1950年代原爆の図展調査

11月末は、原爆文学研究会『原爆文学研究』、アジア女性資料センター『女たちの21世紀』、日本の戦争責任資料センター『Let's』の3つの機関誌の原稿と、大阪大学大学院「日本学方法論の会」に提出する発表原稿などの〆切が集中してどうなることかと思いましたが、かなり綱渡りではあったものの、なんとか予定通りに収めることができました。

まあ、ひと安心するのも束の間のことで、12月にはまた別の原稿の〆切があり、年内にはあと数本仕上げなければ年を越せないのですが……。

   *   *   *

大阪大学に提出した発表原稿のなかで、占領下における「原爆の図展」の立場をあらわす資料として、1951年5月31日付で福島県の耶麻地方裁判所から管轄町村に向けて発せられた調査書を紹介しました。
「プレスコード」のような表現に対する検閲ではなく、政令325号「占領目的阻害行為処罰令」への抵触を示唆する内容が具体的に記されている興味深い行政文書です。
以下、全文の書き起こしです。

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昭和二十六年五月三十一日
耶麻地方事務所長
各町村長殿

丸木位里赤松俊子共同製作に係る「原爆の図」展覧會に関する調査について

標記の件に関し昨年八月頃より全國各地において展覧會を開催しこれと並行して催される平和懇談会等において反米反戰熱を煽っている模様であるが責町村内において過去における該展覧會の開催状況及び将来の開催予定を調査の上その結果を六月五日まで期日厳守報告願いたい。
なお過去の状況については(1)開催年月日及び場所(2)主催者名(3)入場者の数及び性別階層等(4)反響(5)会場における宣傳活動(資料等あれば添付のこと)(6)懇談會等の状況等を又爾今開催の場合は前記同様により調査され至急報告されたく申添える。


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この文書に対し、管轄内の慶徳村からは村長の名で以下の返答が出されています。

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丸木位里赤松俊子共同製作に係る「原爆の図」展覧調査報貢標のことについて照會ありましたが左記之通報告致ます。

      記
一、本村には過去に於ても予定等とも該当ありません

昭和二十六年六月二日 慶徳村長 長谷部新
耶麻地方事務所長殿


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この貴重な資料は、『喜多方市史3 近代・現代通史編V』(2002年発行)の編纂に携わった元高校教師M氏からご提供頂いたものです。

調査書は1951年5月31日付となっていますが、これは画文集『ちび筆』に出てくる俊の回想のなかの、空知支庁から秩父別村に届いた文書と時期も内容もほぼ一致しています。
つまり、福島県の耶麻地方だけではなく、広域的に(おそらくは全国規模で)調査が行われていたものと思われます。
1951年10月、俊の母校である秩父別の小学校は、「原爆の図展」開催直前に、この通達を理由に断っています。通達が、文面通りの単なる「調査」ではなく、無言の圧力となっていたことは容易に想像されます(結局秩父別では、俊の実家の善性寺で開催)。
また、秩父別展の直後に開催された札幌展では、「反米的」な感想文を会場に掲示したという理由から、展覧会場責任者が逮捕されるという事件も起きています。この事件も調査書の内容とつながっているように感じられます。

M氏のご教示によれば、この時期は「原爆の図展」だけではなく、ほかにもさまざまな労働・社会・文化運動の内偵的な調査が行われていました。メーデー関連の行事や、共産党指導下に展開されている各種平和運動、各種文化サークル活動(前進座や劇団プーク、楽団カチューシャなど)などの調査書も現存しているようです。

なお、当時の行政資料は当然ながら手書き文書。写しをいただいたものの、私の教養では解読できない略字や崩し字もあり、書き起こしには元美術館学芸員Mさんや書家のI先生にご協力を仰ぎました。心から御礼を申し上げます。
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