2012/12/30

KEN年末パーティ  他館企画など

今年最後のイベントは、三軒茶屋のKENで開催された年末パーティ。
妻や子どもたちといっしょに参加しました。
粟津ケンさんのご家族をはじめ、銀板写真家のAさん、グラフィック・デザイナー(そして、息子Rのたこやき師匠でもある)Uさんとそのご家族、都立第五福竜丸展示館のY学芸員、同館顧問のYさんと娘のMさん、バイオリニストと画家のTさん姉妹、ギタリストのSさんご家族、サンポーニャ(アンデスの民族楽器)奏者のAさん、編集者のOさん、作曲家・演奏家・舞踊家のTさんなどなど、たくさんの方々にお会いしました。

思い返せば、昨年の「3.11」直後に出会ったKENという場所は、私にとって非常に重要な意味を持っていました。
“核”という現代の日常に直結する脅威に向き合うために、いかに想像力を広げていくか。
既存の価値感に安住することなく、ひりひりとした実験的な表現に足を進めていくか。
そうした問題意識を抱えた人びとと出会い、つながっていくとても貴重な“場”だったのです。

また、硬直化しつつある日本の現状のなかで、この2年近くのあいだ、KEN、第五福竜丸展示館、丸木美術館が連携しながら繰り広げてきた活動は、実はとても重要なものだったのではないか。これまでの、そしてこれからも続けていく活動は、もっと広く社会に投げかけるべきであり、また、記録として残していくべきではないか。
この日のパーティのなかでも、そんなことをケンさんたちと話しました。

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写真は、サンポーニャを演奏するAさん。粟津ケンさん撮影です。
本当に凄い演奏で、三軒茶屋の地下にアンデスの風が吹きました。

2012年の丸木美術館学芸員日誌は、今回で最後となります。
今年もまた、たくさんの皆さまにお世話になりました。心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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2012/12/28

『原爆文学研究』第11号  執筆原稿

今年も無事に仕事納めとなりました。
嬉しいこと、たいへんだったこと、振り返ればさまざまな出来事のあった一年ですが、丸木美術館を支えて下さった多くの方々に感謝いたします。

   *   *   *

スタッフ、ボランティアの皆さんとの忘年会を終えて家に帰ると、原爆文学研究会事務局から『原爆文学研究』最新号が届いていました。
正月休みにじっくり読む、というのがここ数年の恒例になっている読み応えのある機関誌です。

今号は、岡村も「Chim↑Pomと《原爆の図》」と題するエッセイを執筆しています。
目次はweb上でも公開されています。
http://www.genbunken.net/kenkyu/kenkyu.htm#dai11gou

原爆文学研究 第11号

◆批評―articles
「生活記録」から「証言」へ―「長崎の証言の会」創設期と鎌田定夫 東村 岳史 2
大江健三郎の核時代観とW・H・オーデン―深瀬基寛訳のオーデン「支那のうへに夜が落ちる」の受容― 高橋 由貴 22
一九八〇年代の雑誌『宝島』と核の「語り易さ」 山本 昭宏 34
消尽の果ての未来あるいは襞としてのエクリチュール―三・一一以後の原爆文学と原発表象をめぐる理論的覚書 柳瀬 善治 47
核時代の『英語青年』―「広島」「長崎」「原子爆弾」関連記事リスト(一九四五〜五二年)― 齋藤 一 65
◇特集 北米文学における核の表象について
特集「北米文学における核の表象について」報告 高野吾朗 105
ニュークリアリズムと戦後アメリカ文化 Michael Gorman(マイケル・ゴーマン/松永 京子 訳) 107
核をめぐるアメリカ南西部の文学―サイモン・J・オーティーズの詩を中心に 松永 京子 117
日系カナダ人作家ジョイ・コガワ『オバサン』における「原爆」 松尾 直美 131
◆証言―testimonies
「紫色の砂漠」はレトリックではなかった 中村 泰(解題 宇野田 尚哉) 137
元編集者が残す『日本の原爆文学』全一五巻の記録 近藤 ベネディクト(解題 川口 隆行) 141
◆書評― book reviews
山本昭宏『核エネルギー言説の戦後史1945-1960―「被爆の記憶」と「原子力の夢」』のアクチュアリティ 西 亮太 169
◆エッセイ― essays
Chim↑Pomと《原爆の図》 岡村 幸宣 175
『希望(エスポワール)』復刻にいたるまで 越水 治 177
三十五年ぶりの広島再訪 島村 輝 179
授業報告―「原爆文学」から読む「戦後」― 深津 謙一郎 181
林京子「九日の太陽」に寄せて 村上 陽子 183
◎彙報 185
奥付


第11号の発行にともない、昨年12月に発行された『原爆文学研究』第10号のPDF公開がはじまりました。
http://www.genbunken.net/kenkyu/kenkyu.htm#dai10gou

いつも献身的に動いて下さる事務局のNさんに感謝。
今年は一度も研究会に参加することはできませんでしたが、来年こそ、年に一度くらいは参加していきたいと思っています。
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2012/12/27

中沢啓治さんへの弔辞  その他

12月25日に、中沢啓治さんが亡くなったという知らせを聞いて、たいへん驚きました。
ちょうど休館日だったので、携帯電話にNHKの方から取材の連絡が来たのですが、私には『はだしのゲン』の読者であるという以上に、語れる言葉はなく。
同じ埼玉県在住者として、一度お目にかかってお話を聞く機会があればと後悔しています。

本日、12月27日付『中国新聞』に、原爆文学研究会の川口隆行さんが“中沢啓治さん「はだしのゲン」に寄せて”と題する寄稿をされています。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20121227102416241_ja

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……「はだしのゲン」とは、美辞麗句に塗り固められた支配的物語にあらがうことで、歴史の闇に消え去る無数の経験と存在の記憶を取り戻そうとした試みにほかならない。中沢は、空洞化した「ヒロシマ」の「平和」に対する根本的批判者でもあった。「はだしのゲン」の続編はついに書かれることはなかった。その未完の劇の続きは、残された私たちがそれぞれの仕方で書き、語り継いでいくしかない。

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川口さんの中沢さんに対する精一杯の弔辞とのこと。原稿を依頼されたのはD記者だそうです。昨年夏、川口さん、D記者と三人で広島の愛友市場のお好み焼き屋で夜更けまで飲んだことを思い出します。

丸木美術館の図書室兼休憩室・小高文庫にも、『はだしのゲン』を書棚に並べています。
中沢さんを偲びながら、あたらめて読みかえしたいと思います。
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2012/12/23

知の木々舎「往復書簡:記憶に架ける橋No.5」  執筆原稿

遅くなりましたが、WEBマガジン「知の木々舎」に連載中の舞踏家・和泉舞さんとの往復書簡「記憶に架ける橋」第5回(2012年12月下旬号、岡村から和泉さん宛て書簡分)が掲載されましたので、報告いたします。
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-12-12-3

ちなみに第4回の和泉さんから岡村宛ての書簡分はこちら。
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-11-26-10

今回は、和泉さんが書かれた「私たちは死者の上を歩いている。その上を歩く。」という大野一雄さんの言葉から想を広げて、石牟礼道子さんが丸木美術館について書いて下さった1972年の文章「妣(はは)たちの国のこと」を紹介させて頂きました。

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ここはどこの広野かしらん……。
なんとまあ、ひとりひとり、やさしい幽霊さんたちだろう。ひょっとすると丸木俊さんは、幽霊たちの悲母さまかもしれないな、と。

するとわたくしは、逆さになって垂れ下がっていたり、赤んぼを抱いていたり、そのような母子を運んでいる男の幽霊たちが、もう好きで好きで、親しくてならなくなってくる。そこでいろいろと、幽霊たちと話をし、許されない筈のにんげんたちが許されて、自分もつい、許されたような気になって、外に出ると、景色がまたもやぱあっと陽転し、丸木さんたちの国の、陽の当る歴史の野原がそこにあり、お地蔵さんがいるかと思うと、埴輪や羅漢さまが長々とのびて寝ていらっしゃる。


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私たちは、幽霊たちに守られて生きている、という内容です。
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2012/12/21

KEN「EXPOSE 2012 いま。」新井卓展オープニングトーク  他館企画など

夕方、東松山CATVの「屠場」取材に立ち会った後、三軒茶屋のKENに駆けつけました。
KENでは「EXPOSE 2012 いま。」と題する連続企画の第3回として、新井卓銀板写真展がはじまっています。

初日午後6時からは新井卓さんと、ピアニストの崔善愛さんのトークがありました。

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私は途中からトークを聞いたのですが、社会のなかの多くの人びとが興味を示さない――つまり、“近づいては自分の痛いところに触れてしまう”予感のある問題を、どう表現者として投げかけて行くか、という話は、二人の立ち位置ならではの“重み”も感じられて、興味深い内容でした。

トークの後には、崔さんがすっとピアノの前に立ち、30年ぶりに弾くというショパンのピアノソナタ第2番第3楽章と、カザルスの鳥の歌を演奏して下さいました。
いつもながら、場の空気を一変させる力強い音の響き。「生きることと演奏がつながっている」という思いをかみしめながら、じっくり聴かせて頂きました。

会場に展示された新井さんの銀板写真は、元第五福竜丸乗組員の大石又七さんの肖像、飯館村のヤマユリ、被爆ピアノなど。なかでも一度は病に倒れながらも回復しつつある大石さんの写真は、深く心に沁みる必見の作品になっています。

イベント後のパーティでは、すっかりお馴染みの面々、そして初めてお会いした方々との話が弾み、中華料理店での打ち上げにも参加。
家に帰りついたのは、午前1時をまわっていました。
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2012/12/20

『女たちの21世紀』に「慰安婦」作品撤去記事執筆  執筆原稿

アジア女性資料センター発行の『女たちの21世紀』no.72(2012年12月号)に、丸木美術館企画展「今日の反核反戦展2012」に特別展示された韓国人作家2人の「慰安婦」作品が、東京都美術館での展示の際に撤去された問題についての執筆記事が掲載されました。

東京都美術館が「慰安婦」テーマ作品を撤去”と題する1頁のみの短い記事です。
記事のなかでは、撤去問題が起きた「JAALA」展の経過報告とともに、11月2日にメディア・アーティストの大榎淳さんが中心となって東京都美術館の壁に作品映像を投影する抗議行動を行ったことにも触れました。
1月10日発行予定の『丸木美術館ニュース』第112号には、その大榎さんに“東京都美術館の検閲に抗議する会とは何だったのか”と題する報告を執筆していただきました。
合わせてお読み頂ければ幸いです。

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『女たちの21世紀』no.72の特集は、「風俗産業と女性」。
表紙には韓国在住の芸術家ユン・ソクナムさんのドローイング《ひかりに会う》が掲載され、裏表紙に嶋田美子さんによるロンドンの日本大使館前でのアクション「MISSING―日本人慰安婦ブロンズ像になってみる」が写真入りで紹介されています。

目次はこちらのサイトでご覧いただけます。購入もこちらから可能です。
http://ajwrc.org/jp/modules/myalbum/photo.php?lid=184&cid=1
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2012/12/19

『朝日新聞』に本橋成一写真展「屠場」紹介  掲載雑誌・新聞

2012年12月19日付『朝日新聞』夕刊文化欄に、“被写体との接近と隔たり”との見出しで、北井一夫「いつか見た風景」(東京都写真美術館)とともに丸木美術館で開催中の本橋成一写真展「屠場」が紹介されました。
http://www.asahi.com/news/intro/TKY201212190616.html?id1=3&id2=cabcbcca
(全文をご覧になるには無料のデジタル会員登録が必要です)

取材をして下さったのは、文化部の西岡一正記者。
以下、記事から「屠場」についての紹介部分の抜粋です。

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……「屠場」の被写体は大阪の食肉処理場で働く人々。80年代半ばに撮影した写真を中心に構成する。撮影者は、炭鉱の閉山が進む60年代の筑豊や、86年の原発事故で汚染されたチェルノブイリ周辺の村の写真で知られる本橋成一。この撮影では、偏見にさらされがちな営みの現場に自らの身を投じた。

 とはいえ声高な社会派の写真ではない。本橋がまなざしを向けるのは、特殊なピストルで牛を気絶させる技術員の厳粛な表情であり、ナイフを研ぐ職人の誇り高い手業であり、解体作業にいそしむ男たち女たちの笑顔である。一言でいえば、日々「いのち」そのものに向かい合う人々の姿となろうか。

 二人の写真は、実はもう一つの「距離」を浮かび上がらせている。被写体と現代の私たち、とりわけ都市生活者との間に横たわる「距離」だ。時代の変化が背後にあるとはいえ、彼我の「生のかたち」の隔たりに呆然とさせられる。


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「屠場」展、本当に見応えのある写真ですので、ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思います。
わざわざ足を運んで下さった西岡記者に、心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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2012/12/19

【沖縄出張第3日】画廊沖縄/ひめゆり平和祈念資料館  調査・旅行・出張

今日もまた思いもよらない展開が続きます。
午前中、沖縄県立博物館・美術館のT学芸員に連れられて、南風原の画廊沖縄に行きました。
画廊沖縄のUさんは、30年ほど前から沖縄の芸術家たちを支えて来られた方で、その噂はかねがね伺っていたのですが、車でなければ不便な場所にあるというので、今まで訪れたことがなかったのです。

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画廊沖縄では、現在、阪田清子展「Story Reclaimed Land」を開催中(12月23日まで)。
Uさんにご挨拶をして、画廊の階段を上がっていくと、展示室の中央に古い木製の机がありました。琉球石灰岩で固められた土台の上に机が置かれ、机の下の空間にもがっちりと琉球石灰岩が詰め込まれています。デスクランプが何もない机の上をほんのりと照らし、古い木製の椅子は脚が焼け焦げて長さも不揃いになった状態で、机から離れたところに傾きながら辛うじて立っています。そして壁には埋め立て地の地平・水平線を撮影した写真が展示されていました。

Uさんの話では、この展示は「復帰40年」のための特別企画であるとのこと。
暴力的に埋め立てられた「本来の場所」から不条理にはじき出され、傷を負いながら不安定に立つ椅子の姿こそ、現在の沖縄そのものだというのです。
そして、この琉球石灰岩を別のものに置き換えて、たとえばコンクリートで固めてしまえば、それは原発事故を負った福島の姿にも重なると。

阪田清子さんは1972年新潟県生まれ。
沖縄県立芸術大学大学院修了後も沖縄に残って制作を続けている芸術家です。
ご本人の記されたテキストを読むと、この《Story Reclaimed Land》という作品は、“ナイチャー(内地人)”としての孤独や新しい地への渇望も投影されているようです。ともあれ、多様な解釈を可能にする作品ということでしょう。
「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち」展に出品されている《止まったカーテン》も、日米安保/基地問題を日常の一瞬の風景からつなげて見せるという非常に印象に残る作品でした。

阪田さんのドローイングが展示されている部屋で、Uさん、Tさんといっしょにお茶を頂きながら、沖縄の現代美術の歴史や、米軍基地・原発事故をめぐる現在の社会の状況など、時間を忘れるように話をしました。
昨日からずっと、私は今まで何度か訪れて見てきた沖縄の姿とはまったく違ったものを見せて頂いている、という思いがありました。
きっとTさんが意識的に「見ておくべきもの」と見せて下さっているのだろう、とも思いました。
本当にありがたいことです。
おかげで今後、沖縄を見続ける視点が、大きく変わっていきそうです。

   *   *   *

Tさんといっしょに昼食を食べたあと、車でひめゆり平和祈念資料館まで送っていただき、そこでTさんとはお別れ。この2日間、本当にお世話になりました。

ひめゆり平和祈念資料館を訪れた目的は、今年完成したというアニメーション映像『ひめゆり』を見せて頂くことでした。
まずは「平和のための博物館ネットワーク」でいつもお世話になっているF学芸員、N説明員にご挨拶をして、映像を拝見。海津研さんによる原画をもとにした物語映像は、いわゆるアニメーションと聞いて想像される、流れるような動画ではなく、絵本や紙芝居を映像化したような素朴な印象の作品です。しかし、その抑制の効いた映像表現が、逆に見る側の想像力を広げて、戦争体験の継承という意味ではリアリティを呼び起こす可能性があるように感じました。
先月に京都の立命館大学国際平和ミュージアムで行われた「平和のための博物館ネットワーク全国交流会」の際にも部分的に映像を見てはいましたが、やはり、あらためて30分ほどの全編を見せて頂いたことは、とても良かったです。

その後は4年ぶりに展示室を拝見。企画展「生き残ったひめゆり学徒たち―収容所から帰郷へ―」(3月31日まで)も、証言映像を含めてじっくり見せて頂きました。

閉館後、那覇空港までNさんが車で送ってくださいました。
さまざまな方にお世話になりながら、予想以上に充実した日々を過ごすことができた3日間の沖縄出張。
今後の丸木美術館の企画などに、ぜひとも今回の体験を生かしていきたいです。
お世話になった皆さま、本当にありがとうございました。
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2012/12/18

【沖縄出張2日目】「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち」展など  調査・旅行・出張

午前中、ホテルで『丸木美術館ニュース』第112号の入稿を済ませた後、昼から沖縄県立博物館・美術館へ行き、沖縄在住の画家・宮良瑛子さんにお会いしました。

宮良さんは1935年福岡県生まれ。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)を卒業後、日本美術会会員となり、日本アンデパンダン展などに出品されていましたが、71年に夫の郷里である沖縄に移住。以後、沖縄女流美術家協会や反核沖縄平和美術展の設立・発展に大きく貢献しながら、制作活動を続けて来られた画家です。

まずは宮良さんが出品されている小企画「ART IS MY LIFE 沖縄の女性アーティスト」展を、宮良さんに案内して頂きながら鑑賞しました。
沖縄の女性アーティストの第1世代である久場とよ、山元文子から、1970年代生まれの若手作家まで13名の作品33点によって構成された展覧会は、沖縄女性美術の歴史にしっかりと目くばりしながら、最近の表現の動向も抑えているという内容で、決して沖縄のアートシーンに明るくない私にとっても、非常に興味深いものでした。

そのなかで、沖縄の作家のほとんどは触れることができないという沖縄戦を主題にした作品を作り続けてきた宮良さんの仕事の意味というものが、あらためて見えてきたような気がしました。
とりわけ227.3×181.8cmの大画面に、戦争の痛みを抱えた女性を中心に人間群像を描いた《レクイエム沖縄》は、忘れがたい印象を残す作品です。

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展覧会を観た後は、4年前に「美術家たちの南洋群島」展でお世話になったT学芸員と合流し、宮良さんと三人で学芸室でさまざまな話をしました。

丸木夫妻と何度もお会いしたことがあるという宮良さんの思い出話や、沖縄の女性アーティストの連携・育成に大きな役割を果たしている「沖縄女流美術家協会」を事実上立ち上げ、育ててきた彼女の貢献、戦争をはじめ社会的主題を沖縄で描き続けてきたことの意味、などなど。
それは、まるで沖縄の戦後美術史・社会史の一端に立ち会っているかのような、とても貴重な時間でした。

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宮良さんのお話をたっぷりうかがった後は、現在開催中の企画展「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち 1984-2012」を観ました。

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栃木県立美術館のKさんが長年にわたって行ってこられた研究調査の集大成ともいうべき内容で、すでに福岡アジア美術館での開催を終え、沖縄を経て年明けから栃木県立美術館、三重県立美術館へと巡回していく、日本で初めてのアジアの女性アーティストだけをとりあげた大規模な展覧会です。

大きな手織りの絹布から横糸を引き抜いて女性の乳房のかたちを浮かび上がらせたタイのピナリー・サンピタックの作品《乳房の塔》をくぐりながら会場に入っていくと、まずは大小さまざまな無数の糸玉と女性の身体をつなげる中国のリン・ティエンミャオ(林天苗)のインスタレーションが目をひきます。モンゴル、ネパール、韓国、インドネシア、シンガポール、パキスタン、インド、ベトナム、マレーシア、ミャンマーなど、アジア各地の約50人のアーティストによる約200点の作品がならぶ、圧巻のボリュームです。

展覧会の構成は、「女性の身体―繁殖・増殖、魅惑と暴力の場」、「女性と社会(1)女性/男性の役割、女同士の絆 (2)ディアスポラ、周縁化された人々」、「女性と歴史―戦争・暴力・死・記憶」、「女性の技法、素材―「美術」の周縁」、「女性の生活―ひとりからの出発」といった具合に大きな章立てがなされているのですが、観て行くうちに、実際の展示作品がかならずしも章立てのとおりに並べられているわけではないことに気づきました。

そのことに、はじめは少し途惑いましたが、次第に、美術館の展示空間にあわせて作品そのものを生かそうとしていること、そして「沖縄」という場所性を意識しながら展示の順序を組みたてていることが、わかってきました。
とりわけ、塩田千春からはじまり、山城知佳子、出光真子、井上廣子……と続いていく沖縄・日本の女性作家たちの展示の流れは、世代を越えた戦争体験の継承、無意識下の加害/被害、福島にもつながる中央と周縁の関係性と、さまざまな問題意識を作品の連続性のなかで考えさせられる、印象深い展示でした。

沖縄展を担当されたT学芸員は、「美術家たちの南洋群島」展の際にも、大胆に展示の順序を変え、沖縄展のみの作品を追加して、内容に変化をもたらしていたことを思い出します。
「沖縄」という場所から「南洋群島」を見ることの意味、そして今回は「沖縄」から「アジア」を見ることの意味を真剣に考えながら、その場所でなければ成立しない展示を組みたてているのだということが伝わってきて、心を打たれました。
先に見ていた小企画「ART IS MY LIFE 沖縄の女性アーティスト」展も、「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち」展に対する、沖縄からの応答という意味があるそうです。

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閉館までじっくり展示を観た後は、T学芸員と同僚のMさんに連れられて、沖縄市コザへ行き、若手アーティストたちの活動拠点をいくつか見せて頂きました。
実はコザでも「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち」展の関連企画として、4か所のアートスポットで若手女性作家の展示が行われていたのです。

Tさんたちの説明によれば、現在、沖縄の若手作家たちの活動拠点は、那覇からコザに移っているとのこと。必ずしも沖縄で育った作家ばかりではなく、全国あるいは台湾などから沖縄県立芸術大学に進学してきて、そのまま沖縄に残ることも多いそうです。
私も埼玉県出身の作家さんに2人ほど出会い、思わぬところで“県人会”のような状態になって驚きました。
また、丸木美術館で2年前に「OKINAWA つなぎとめる記憶のために」展を開催した際に紅型の作品《結い You-I》を展示させて頂いた照屋勇賢さん、そしてその染織を手掛けた紅型工芸士の金城宏次さん、ギャラリー・ラファイエットのAさん、沖縄県立芸術大学のKさんなどに偶然お会いして話をすることができたのも、予想外の収穫でした。

コザからの帰りには、写真家のタイラジュンさんが米軍ハウスを改装して開いているお店rat&sheepで食事を頂き、気がつくと非常に充実した盛りだくさんの一日になっていました。
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2012/12/17

【沖縄出張1日目】佐喜眞美術館  調査・旅行・出張

早朝の飛行機に乗って、1年半ぶりに沖縄に来ています。
初日の今日は、まず、宜野湾市の佐喜眞美術館を訪れました。
佐喜眞美術館では、現在、「命どぅ宝 「沖縄戦の図」展」という収蔵品展を開催中。

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丸木夫妻が描いた沖縄戦の連作をじっくり観ることのできる機会なのですが、前回の企画展「復帰40年の軌跡 時の眼―沖縄 比嘉豊光・山城博明写真展」の作品の一部も引き続き展示されていました。

琉球新報の報道カメラマンをされている山城博明さんによる、沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故の現場や、貴重なヤンバルクイナやイリオモテヤマネコの生態を撮った写真を観ながら展示室に入っていくと、比嘉豊光さんの「島クトゥバで語る戦世」……沖縄戦の体験を語る証言者の写真が壁一面に貼りめぐらされたその奥に、《沖縄戦の図》が重なるように見えてきます。
よく工夫された展示空間だと、佐喜眞美術館を訪れるたびに思います。

いまは修学旅行シーズンらしく、全国から分刻みで学生団体が来館し、佐喜眞館長はじめスタッフの皆さんも説明等の対応に大忙し。
椅子に腰をおろして、じっと作品を眺めていると、ときおり、上空からバタバタバタ……と騒音が聞こえてきます。今日もオスプレイが飛んでいたそうです。

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美術館の受付で、岩波ブックレットの『フォト・ドキュメント 骨の戦世 65年目の沖縄戦』(比嘉豊光・西谷修編)を購入。
沖縄に今も埋もれている戦死者の骨のドキュメントです。

美術館閉館後は、佐喜眞さんご夫妻といっしょに夕食をいただきながら、昨日の衆院選挙の結果や、沖縄の作家の動向について話をしました。
今後の丸木美術館の企画展に関する情報も仕入れることのできた、充実した一日でした。

そしてホテルに帰ってからは、『美術館ニュース』第112号の編集作業。
今年は年末年始の曜日のめぐりの関係で、かなり慌ただしい入稿になりそうです。
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2012/12/14

映画「ひまわり」試写会/「実験場1950s」/会田誠展・山城知佳子展  他館企画など

午前中、有楽町朝日ホールで行われた映画『ひまわり 〜沖縄は忘れないあの日の空を〜』の完成披露試写会を観に行きました。

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この映画は、1959年6月30日に石川・宮森小学校にジェット戦闘機が墜落し、12名の小学生と近隣住民6名が死亡、210名もの重軽傷者を出したという事件と、2004年8月13日に米軍大型輸送ヘリが普天間・沖縄国際大学に墜落したという事件、そしてオスプレイ配備に揺れる現在の沖縄という3つの時間を交錯させながら、基地問題に翻弄され続ける沖縄の人びとの姿を描いた作品です。

舞台挨拶には出演者の長塚京三さん、須賀健太さん、福田沙紀さんや、監督の及川善弘さん、主題歌を歌ったCivilian Skunk(メンバーの一人が現役の沖縄国際大の学生だそうです)が立ち、それぞれ映画への思いを語っていました。
http://eiga.com/news/20121214/11/

丸木美術館では、昨年12月に石川・宮森ジェット機墜落事故を伝える演劇「フクギの雫」の東京公演に協力しました。
若い出演者の須賀さんや福田さんも挨拶で話していましたが、東京ではなかなか大きく報道されない米軍機墜落事故を「初めて知った」という方には、沖縄の基地をめぐる状況がとてもよくわかる作品なのではないかと思います。



来年、NHKの朝の連続テレビ小説でヒロインを演じる能年玲奈さんも、父親が基地で働くことに負い目を感じながら基地問題を考える大学生という難しい役を好演しています。
佐喜眞美術館で毎年5月に独り芝居を行っている女優の北島角子さんも、戦争の影を負い続ける“おばあ”役を熱演されていました。

この映画は、来年1月26日から新宿武蔵野館などで全国公開されます。

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午後からは、東京国立近代美術館で開催中の「美術にぶるっ!ベストセレクション日本近代美術の100年」(2013年1月14日まで)という企画展の第2部「実験場1950s」を観に行きました。

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現代の原点としての1950年代の意義を、ジャンル横断的な想像力をキーワードに、美術、写真、映像、デザイン、漫画を含む約300点の作品・資料によって捉え直す。」という内容で、実はTV番組などで大々的に宣伝されている第1部の「コレクション スペシャル」より、はるかに重要で深い意味を持つ必見の展覧会です。

「原爆の刻印」と題された導入部では、1952年夏公開の朝日ニュース『原爆犠牲第1号』の映像(原爆投下直後の広島・長崎の被害を撮影し、占領終結まで地下に隠し続けた日映新社のフィルムをもとに制作したニュース映画)が流され、土門拳の「ヒロシマ」、川田喜久治の「地図」という原爆を主題にした写真が対比されるように展示されていました。

会場で無料配布されていた資料には、「原爆イメージの先駆的「伝道師」丸木位里・俊」との見出しで以下の記事もありました。

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原爆投下の知らせを受けたのち、両親や親戚の暮らす広島に赴いた丸木位里・俊夫妻は、その惨状に大きな衝撃を受け、原爆をテーマにした作品を制作することに決めた。1950年第3回日本アンデパンダン展において、《原爆の図》(当時は《8月6日》と題された)を彼らは発表、大きな反響を呼ぶ。その後続編を描き連ね、全国各地に作品を展示して回った。GHQの占領下において原爆に関する情報公開は禁じられていたため、丸木夫妻が試みた全国巡回の展示活動は、原爆の実情を伝達するための先駆的な役割を果たしたといえよう。なお、彼らの活動は今井正・青山通春監督作品『原爆の図』(1953年)というドキュメンタリー映画によって紹介されるなど、さまざまなメディアによって流布していった。

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鶴岡政男の《重い手》や河原温の「浴室シリーズ」などで構成された「静物としての身体」の章を通過すると、池田龍雄らによるルポルタージュ絵画をはじめ、北関東の版画運動や花森安治の『暮しの手帖』、土門拳のリアリズム写真運動など、記録と運動体を特集する章へと続きます。
九十九里の米軍射撃運動場の反対運動を題材にした粟津潔のポスター『海を返せ』の原画、砂川闘争を描いた中村宏の《砂川五番》、山下菊二の《あけぼの村物語》もありました。映像作品では、亀井文夫の『流血の記録砂川』、野田真吉の『忘れられた土地』、松本俊夫『安保条約』などのドキュメンタリ映画も見逃せません。

先日、東京都写真美術館で観た企画展「記録は可能か。」でも感じたことですが、1950年代に隆盛となった現実の社会に介入する表現運動の意味が、いま、あらためて問い直されているのだと強く感じます。
もちろん丸木夫妻と《原爆の図》とその全国巡回展は、1950年代のこうした表現運動と相互に影響を与え合いながら深くかかわっていたわけで、そのあたりの問題も含めて、今後さらに掘り下げて考えていきたいと思っています。

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その後は、六本木の森美術館で開催中の企画「会田誠展 天才でごめんなさい」「MAMプロジェクト18:山城知佳子」展を観ました。

会田誠は、昨年丸木美術館で個展を開催したChim↑Pomの師匠筋にあたる芸術家。
「戦争画リターンズ」のシリーズなどは以前にも単発で観たことがありましたが、今回はこれまでの制作の全貌を明らかにするという試みです。
エロティックやグロテスクな表現、そして政治的、歴史的な問題など社会でタブー視されているテーマに鋭く切り込んでいく作家なのですが、ともかく一筋縄ではいかないので、森美術館も思いきったなあと感心しながら会場をまわりました。
18歳未満入室禁止の部屋がある展覧会というのは初めてでした。

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そして、沖縄を主題にした写真や映像作品で知られる山城知佳子の展覧会。
2008年に東京国立近代美術館「沖縄プリズム」展で見た《アーサ女》の印象は鮮烈でした。

今回展示されたのは、新作の3面映像《肉屋の女》。
米軍基地敷地内にある「黙認耕作地」の闇市で肉屋を営む女性を主人公に、沖縄のさまざまな現実(たとえば、日本と沖縄、女性と男性、環境と開発、あるいは生命など)を示唆する不条理な物語が映し出されます。約20分間の映像は、終わりと同時にはじまりにつながり、永遠にループを続けるかのようです。



「黙認耕作地」という人工的な境界線を侵食する民衆のエネルギーの象徴のような“無法地帯”を舞台にしているところが非常に興味深く、一切の説明のない映像にさまざまな思いをめぐらせながら、3回ほど続けて観てしまいました。
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2012/12/12

ポレポレ坐「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」連続上映会@屠畜  他館企画など

丸木美術館の閉館後に、東中野のポレポレ坐へ駆けつけて、「20世紀の映像百科事典エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る 連続上映会@屠畜」を観ました。

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「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」(EC)とは、私も今回の企画で初めて知ったのですが、ドイツの国立科学映画研究所で1951年にはじまったプロジェクトで、世界じゅうで撮影された2000タイトル以上の映像記録を集積したアーカイブだそうです。
日本でも1970年より下中記念財団(平凡社の創立者下中弥三郎を記念した教育・出版への助成を目的とした財団)によって、アジアで唯一のフルセットの映像が管理・運用されているそうですが、現在、ドイツのECプロジェクトは解散し、日本でも16mmフィルムの上映機会がほぼ途絶えている状況とのこと。

今回は、「屠畜」をテーマに、以下の4本の映像記録を上映。

@中央ヨーロッパ・チロル/ヴィルアンダースの家庭の屠殺 ベーコンとソーセージづくり
A北ヨーロッパ・ノルウェー/サミ人/初秋のトナカイの狩り集め、耳への刻印、去勢、屠殺と解体
B北ヨーロッパ・ノルウェー/サミ人/トナカイ肉解体
C西ニューギニア・中央高地/ファ族/豚の屠殺と料理


さらに特別上映として、現在、纐纈あや監督が撮影中の映画『ある精肉店のはなし(仮)』のラッシュフィルムを観せて頂きました。

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ゲストは、人類学者・外科医の関野吉晴さん、北出精肉店店主の北出新司さん、写真家・映画監督の本橋成一さん。
世界各地の屠殺の映像を観ながら、さまざまな視点の専門家が「これはこういう作業をしているところで……」とか「シベリアのトナカイの屠殺の場合は……」と言った具合に、補足の説明を加えてくださるという、たいへん興味深い、時間を忘れてしまうような3時間でした。

生きものの命を頂き、食べるための“肉”へと解体していく……というと、グロテスクな映像のようなイメージが浮かぶのかもしれませんが、その作業のあまりの手際の良さ、そして所作の美しさが、映像を観終わったあとも、ずっと心に残っています。
纐纈監督の映画も、これは絶対観なければ、と期待の高まるラッシュフィルムでした。

イベントの最後に、司会のNさんに紹介されて、現在丸木美術館で開催中の本橋成一写真展「屠場」について少し話をさせていただきました。
そのとき、ふと口をついた「全部つながっている」という言葉。
丸木夫妻の《原爆の図》も、本橋さんや纐纈さんの「屠場」も、全部つながって、現代の社会と“いのち”を考えるための鏡なのだと思います。

この「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」連続上映会の第2回は、年明けに「アフリカの音楽・芸能」をテーマに行う予定だそうです(日程未定)。
ぜひ、また足を運んでみたいと思っています。
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2012/12/11

ジャン・ユンカーマン監督と対面  作品・資料

午後から、東京・中野区の喫茶店で、映画監督のジャン・ユンカーマンさんにお会いしました。
実は、ユンカーマンさんには、これまで電話やメールで何度もご連絡をしていたにも関わらず(ユンカーマンさんが丸木美術館に来て下さったときに私が不在だったこともありました)、直接お会いするのは初めてだったのです。

今回は、元TV局プロデューサーH川さんや被爆者団体H田さんとともに、ある企画についてのご相談にうかがったのですが、とても優しく対応して下さったので、心強く思いました。

ユンカーマンさんの言葉で記憶に残っているのは、2003年8月6日に放送されたNHK国際短波放送の“「原爆の図」は今”という番組のなかのインタビューです。
『丸木美術館ニュース』第78号(2003年12月25日発行)に抄録をまとめる仕事をしたこともあって、そのインタビューはひときわ印象深いです。
以下は、その抄録からの抜粋です。
(N=ナレーション、加賀美幸子/JJ=ジャン・ユンカーマン)

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N 1975年、一人のアメリカ人が丸木美術館を訪れました。
名前はジャン・ユンカーマンさん。そのとき23歳でした。

JJ 日本に初めて来たのは高校生のとき。広島と長崎をまわって資料館などを見たけれど、そこに抜けているのは人間の像、人間の顔なんですね。
丸木美術館の「原爆の図」を見たときに、初めて被爆者の顔を見たという感じがしたので、大変ショックを受けて感動しました。


N ジャン・ユンカーマンさんは1952年に生まれました。父は朝鮮戦争に従軍した軍医で日本にも駐留していました。本棚には原爆の資料や写真集が並び、幼いユンカーマンさんはそれを見ておびえました。

JJ やっぱり怖かったですね。まだ子どもだから理解はできてなかったかも知れないけど、あの当時は意識的には誰でも、大人の中では原爆が大きな存在ではなかったかと思います。

N 世界は冷戦の時代でした。

JJ ぼくが一番よく覚えているのはキューバ危機です。62年、ぼくは10歳でした。当時、ぼくは死ぬんだなと思っていたんです。核戦争が起こるという恐れが強かったんで、泣き出して、お母さんのところへ走っていったことを覚えています。

N 1964年、アメリカは北ベトナムに爆撃を開始し、ベトナム戦争への介入がエスカレートしていきました。12歳のユンカーマンさんは小さな平和団体に入って平和を訴えるボタンをつけたり、ステッカーやポスターを貼ったりしました。高校生のとき、ユンカーマンさんは日本に留学して広島を訪れました。

JJ 平和公園に行って原爆ドームを見て、犠牲者のことを考えると深い責任感を感じたし、アメリカが原爆を落としたことには特別な責任があるとぼくは思うんですけどね。

N スタンフォード大学日本語科を卒業し「原爆の図」に出会ったユンカーマンさんは、「原爆の図」をアメリカの人々に紹介したいと映画の勉強を一から始めました。
10年がたちました。望みがかなって1985年、丸木夫妻のドキュメンタリー映画「劫火」を監督したとき、ユンカーマンさんは「劫火」、地獄の炎を描いている位里さんのひとことに強く打たれたのです。

JJ 天国なんてないと言うんですね。誰だって地獄に落ちると。善と悪というように分けられないんですね、世の中は。戦争が起こったら、戦争をやった人だけが責任を持つんじゃなくて、ぼくたちにも戦争を反対しきれなかったところに責任があるんじゃないかという発想で、とても大事だと思うんです。

N 映画「劫火」はアカデミー賞候補にノミネートされ、今もアメリカで上映されています。2002年、ユンカーマンさんは世界的な言語学者ノーム・チョムスキー博士が平和を訴えて講演するドキュメンタリー映画『チョムスキー9.11』を監督しました。
現在、ユンカーマンさんは、なぜアメリカが世界中の反対を押し切ってイラクを攻撃したかについて考え続けています。
ジャン・ユンカーマンさんにとって「原爆の図」は今、どんな存在なのでしょうか。

JJ 人間とか人生の存在を否定するのが原爆です。原爆は人間の存在を否定するものなんです。それに対して「原爆の図」は、とても強い武器、ウェポンになるんです。人間の大切さを訴える武器になると思うんですね。
そういう力になり得るということは、ぼくにとって大きな勉強になったし、今でもそういう仕事ができるといいなと思うモデルでもあるんですけど。


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ユンカーマン監督が丸木夫妻を記録した映画『HELLFIRE:劫火―ヒロシマからの旅』は、1988年の第60回アカデミー賞記録映画部門にノミネートされるなど、国内外で高い評価を受けました。
米国のアカデミー賞は惜しくも逃しましたが、「東中野アカデミー賞」を受賞してポレポレ坐で授賞式が行われたと当時の新聞記事(1988年4月15日付『朝日新聞』)に報じられています。

現在、ユンカーマン監督は新たな映画の撮影にとりかかっていらっしゃるとのこと。
その構想についても少しばかり話をお聞きしたのですが、忙しい時期にわざわざ時間を割いて下さったことに、心から御礼を申し上げます。
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2012/12/10

東京都写真美術館「記録は可能か。」内覧会  他館企画など

休館日。夕方から、東京都写真美術館の企画展「映像をめぐる冒険Vol.5 記録は可能か。」(12月11日〜2013年1月27日)の内覧会に行ってきました。

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「記録としての映像」をテーマにした興味深い企画なのですが、私も去年から少し関わらせて頂いている早稲田大学演劇博物館演劇映像学連携研究拠点における幻灯に関する公募研究プロジェクトが展示に参加しているのです。

今回、上映されている幻灯作品は、以下の5本。
ぼくのかあちゃん
1954年、製作=東大セツルメント川崎こども会、構成=加古里子、協力・配給=日本幻灯文化社、フィルム提供=神戸映画資料館、ナレーション=藤原和真
自転車にのってったお父ちゃん
1956年5月、製作=東大セツルメント川崎こども会、作画・構成=加古里子、配給=日本幻灯文化社、フィルム提供=熊本学園大学・水俣学研究センター、ナレーション=オヌ齊藤花
日鋼室蘭首切反対斗争記録 嵐ふきすさぶとも 
第1巻、1954年9月、製作=日鋼室蘭労働組合、配給=日本幻灯文化社、脚本・構成=久保田俊夫、フィルム提供=神戸映画資料館、ナレーション=鷲谷花、合唱=今村由美子、入江涼子、中沢俊之、渡辺一利(中央合唱団)
にこよん
1955年頃、製作=全日自労・飯田橋自由労働組合、脚本・演出・撮影=桝谷新太郎、フィルム提供=神戸映画資料館、ナレーション=紙屋牧子
みんなで守ろう 水俣のたたかい
1962年10月、カメラ=新日本窒素水俣労組写真班、脚本・編集=合化労連教宣部、配給=日本幻灯文化社、フィルム提供=熊本学園大学・水俣学研究センター、ナレーション=鳥羽耕史

このうち、『日鋼室蘭首切反対斗争記録 嵐ふきすさぶとも』に記録されている日鋼室蘭争議の関係者は、1951年10月28日から30日まで北海道で最初の原爆の図展を室蘭で開催された方々と重なります。
昨年10月に室蘭で60年ぶりに再現された原爆の図展の際に、当時を知るH氏に証言をお聞きしたのですが、今回の幻灯の調査の際にも、H氏は大きな協力をして下さったようです。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1744.html

幻灯の脚本・構成の担当者である久保田俊夫という名前にも見覚えがありました。
日鋼室蘭文学サークル誌『ひろば』の主宰者で、やはり室蘭原爆の図展の際に、中心となって活躍されていた方でした。
社会運動と文学・芸術が密接なつながりをもっていた1950年代の様子が、この一本の幻灯からも浮かび上がってきます。

また、加古里子の絵本のファンとしては、最初期の作品を幻灯で見ることができるという貴重な機会はたいへん嬉しいものでした。

もちろん、過酷な肉体労働を行う一人の女性労働者に焦点を当てた『にこよん』や、『みんなで守ろう 水俣のたたかい』もたいへん貴重な記録。
図録によせた紙屋牧子さん、鷲谷花さん連名の論考「幻灯の映す戦後社会運動」には、「もっとも貧しい労働者や、貧困家庭の主婦や子どもなど、それまで「自分の声を伝達するためのメディア」を持ち得なかった人々にも手の届くメディアとして、多くのユニークな記録や表現を生んだことは注目に値する」と記されていますが、そうした幻灯の特質が、非常によく伝わってくる展示といえるでしょう。

幻灯展示のほかにも、城之内元晴の『日大大衆団交』(1968年、22分)や中谷芙二子の『水俣病を告発する会―テント村ビデオ日記』(1971-72年、20分)、小川紳介の『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年、50分)など、社会的主題をとらえた注目に値する映像がいくつも紹介されています。

展覧会そのものは必見と言えるのですが、すべてを見ているとたいへん時間がかかってしまう点、そして複数の映像の音声が重なってしまって集中して観るのが難しい点は気になりました。
時間をたっぷりとって、集中力を高めた状態で展覧会を観に行くことをお勧めします。

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内覧会を観た後は、幻灯研究プロジェクトのお二人と、W大の50年代研究者Tさん、東京国立近代美術館フィルムセンターのOさんといっしょに打ち上げに参加しました。
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2012/12/9

アーロン&アッシュ スピーキングツアーin丸木美術館  特別企画

12月8日(土)、9日(日)の2日間、丸木美術館2階アートスペースで特別展示が行われました。
来日中の反戦イラク帰還兵アーロン・ヒューズとアッシュ・キリエ・ウールソンの全国スピーキングツアー「戦争そして人間の和解を求めて」の展示です。

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沖縄からはじまり、約1か月に及んだ全国ツアーの最後を飾る展覧会。
アーロンとアッシュは展覧会前日から東松山に入って、展示作業を行いました。
二人とも心優しい好青年で、元兵士だということは、外見からはなかなか想像できません。

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アッシュの作品は、大きく引き延ばした骸骨の画像。死と破壊の記憶でしょうか。

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パネルに貼り付けた画像を、参加者は少しずつ手ではがしていくのですが、しっかりとこびりついたイメージは、なかなかはぎ取ることができません。

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アッシュにとって、このイメージは戦争の記憶を意味しているようです。
足もとには、その記憶の破片が、バラバラになって散らばっています。

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アーロンのグラフィックデザインのような作品は、クリップにとめて展示室に並べました。
写真右で展示室内を歩いているのがアーロンです。

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彼のスケッチブックには、心象風景のようなイラクのスケッチが描かれていました。

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2日目には、野木庵でお茶を飲みながら、2人のイラク体験を聴く会も行われました。
イラクの白血病の子どもたちを支援するJIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)のスタッフの方々も駆けつけて下さいました。

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とても短い期間の展示ではありましたが、“イラク帰還兵”という立場の2人と、直接顔をあわせて話をする、というのは貴重な機会でした。
企画を世話して下さったOさんはじめスタッフの方々に心から御礼を申し上げます。
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