2012/10/30

大阪精華美術学院と松村景春  作品・資料

「平和のための博物館ネットワーク全国交流会」に参加した関西出張の帰りに、大阪精華美術学院の校長・松村景春のお孫さんご夫婦のお宅にお伺いして、さまざまな資料を見せて頂くことができました。

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写真は松村家のアルバムから、松村景春の肖像写真(1952年5月撮影)。
トレードマークの立派な髭をたくわえています。

丸木位里は広島・飯室村の小学校を卒業後、しばらく各地を放浪するような生活をしており、1919年頃に大阪の知人宅に居候して天王寺の上本町(うえほんまち)にあった大阪精華美術学院に通いました。
また、位里が通ってから20年ほど後に精華美術学院の門をくぐったのが、鳥取県出身の武良茂という青年。のちの漫画家“水木しげる”でした。
無試験で美術を学ぶことができるというこのユニークな学校について、二人がどのように回想しているかは、以前にも学芸員日誌で紹介したことがあります。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1545.html

今回、見せて頂いた資料のなかで、もっとも興味深かったのは『精華美術50年の歩み』という1963年に同窓会が編纂した刊行物でした。
そこには、松村景春の「経歴書」などの詳しい資料が掲載されていたので、それをもとにしつつ、お孫さんのお話をまじえて紹介いたします。

   *   *   *

松村景春は1882年1月7日に大阪府中河内郡南高安村(現在の八尾市)の豪農の長男に生まれました。先祖は神社の神官だったそうです。
八尾中学を経て、1900年3月に京都市美術工芸学校(現京都市立芸術大学)を卒業。

驚いたのは、その後、1902年に「意匠図案研究」のためアメリカへ渡航していたこと。
前回の企画展で紹介した画家・吉田博が「決死の思いで」渡米したのが1899年ですから、美術家の海外進出の最初期にいち早く海を渡った一人だと言えるでしょう。
同年10月にはニューヨークのコロンビア大学美術部へ入学しています。
翌1903年6月にクーパーユニオン大学へ転学。お孫さんの話では、すでに実家が傾き、後援者あっての留学だったので、奨学金獲得のための転学だろうということです。
1905年に同大学を卒業すると、まもなく5番街プレスピテリアンビルディング内に日本図案製作所を開設。さまざまな美術工芸品の実用図案を研究開発し、成功をおさめました。

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写真は、景春がニューヨークに向かう道中の貴重な写真(提供:松村眞吾さん)。

やがて1911年に帰国すると、翌年4月には大阪市天王寺区上本町9丁目に精華美術学院を設立。9月に学院長に就任しています。
第1期生・家川弥吉の回想によれば、「上本町九丁目電車道を南入小路角の二階家の借家で、付近には大阪の名所紅葉寺、毘沙門池の墓地、五条神社、四天王寺墓地、愛染堂、清水寺等運動場にもなり、写生材料にもなった、思出の多い処である」という恵まれた立地だったようです。
開校の主旨は次の通り。「本院ハ絵画及工芸図案ヲ教授シ専ラ海外貿易ニ関スル応用美術ノ奨励ト美術思想ノ普及発展ヲ計ルヲ以テ本旨トス
つまり、国外輸出を目的とする絵画・工芸の図案教育のための学校だったわけです。

「図案」という言葉が新しく生まれ、杉浦非水による『非水図案集』などが刊行されて注目を集めた時代。流行の先端を行く、デザイン系の専門学校といった感じだったのでしょうか。
1912年11月24日付『大阪朝日新聞』や『大阪新報』には、校内に生徒が製作した新図案を陳列する展覧会を開催し、犬塚大阪府知事らが参観したと紹介されています。
また、神戸大学附属図書館のデジタルアーカイブでは、1926年12月23日付『大阪毎日新聞』に、大阪府工芸協会理事という肩書きの松村景春が記した「対米工芸品輸出に就て」という記事を読むこともできます。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00842025&TYPE=HTML_FILE&POS=1

もっとも、そうした先進的な理念とは異なり、指導方法は、「畳敷きにレザーをしき、用具一式を列べて、机にして、粉末絵具を、ニカワでとくという製作態度であった。先生は下のアトリエにおられたが、その部屋へは、自由に出入ができ、先生をお呼びしては指導を受ける。時には画具の合せ方、筆を加える等、現代的ではないが、細にわたりお指図を受けた」(家川弥吉の回想)という古典的な内容だったので、丸木位里や水木しげるにとって、あまり肌が合わなかったのもわかるような気がします。

とはいえ、「先生が大風呂敷と学院のPL(岡村註:PRのことか)が中々上手で新聞社もよく抱き込まれ当時は精華美術といえば大阪では大体知れ亘り「美」の字の校章の帽子にはかまをはいて歩いた学生姿は誇らしく嬉しいものだった」(卒業生・大沢龍太郎の回想)とのことで、位里も画文集『流々遍歴』では、美術の学校に入ったことが嬉しくて、早速学帽に「美」の徽章をつけ、スケッチブックを持って天王寺界隈を得意になって歩き回ったと回想しています。

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『精華美術50年の歩み』には、(なかなか前衛的な色使いの印刷なので見にくいのですが)「美」の一字の校章や、当時の学校風景の写真も紹介されています。

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天王寺美術館前で撮影したと思われる写真や、校旗(?)や松村校長の銅像などが写った集合写真も残っています(提供:松村眞吾さん)。

入学試験もなく、学びたい者は誰でも来て学べばいい、という開放的な校風の精華美術学院。
松村校長が単身31年間続けてきたこの個性的な学校が幕を閉じたのは、1943年12月のこと。
戦局悪化により在校生が次々と応召され、「国家非常時に鑑み」廃校となりました。
さらに1945年3月の空襲で学院も焼失。景春も故郷の高安へ隠居したそうです。

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晩年の景春が手がけた日本画を数点、見せて頂きました。
お孫さんの話によれば、景春は京都の四条派に傾倒していたとのこと。
「景春」という画号(のちに本名に改名)も、四条派の始祖・呉春(松村月渓)と松村景文から一字ずつとったようで、本当は日本画家になりたかったのではないか、ともおっしゃっていました。

敗戦後の1947年には、戦後貿易輸出品向上研究会を主体として学院再興計画も持ち上がったようですが、結局実現しないまま、1963年に景春は死去しました。
自由で開放的な家風は景春亡き後も家族に引き継がれ、子どもや孫たちの多くは、日米両国を渡りながら、多方面で活躍されているようです。

快く調査にご協力下さった、松村眞吾さん・敦子さんに、心から御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
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2012/10/28

【関西出張2日目】平和博物館ネット全国交流会/大阪松村家調査  調査・旅行・出張

立命館大学国際平和ミュージアムの「平和のための博物館ネットワーク全国交流会」2日目。
この日も引き続き、全国の会員からの報告が行われました。
山梨平和ミュージアム(石橋湛山記念館)、中帰連平和記念館、丸木美術館からは岡村が報告、そしてナガサキピースミュージアム、わだつみ記念館……長野県飯田市に新たに開館する予定の満蒙開拓平和祈念館からの報告もありました。
最後にピースあいちから、開館5周年記念事業として夏に開催され、大成功を収めた「原爆の図展」を中心とする報告が行われました。

全体としては、前日に引き続き、ここ数年における平和博物館の逆風、危機的状況が話題の中心となっていましたが、WAMの池田さんが引用されていたミラン・クンデラさんの言葉「権力に対する人間の闘いとは、忘却に対する記憶の闘いに他ならない」の通り、人々の記憶を残す平和博物館の役割は、今後ますます大きくなっていくと思います。

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午後には、立命館大学国際平和ミュージアムで開催中の企画展「未完の作品/永遠のはじまり−「無言館」収蔵作品から芸術の原点を考える−」(12月1日まで)を見学。

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その後、安斎育郎さんの特別講演「福島原発事故と生命―研究者の倫理を考える」(日本生命倫理学会共催企画)を聴き、さらに立命館大学国際平和ミュージアムのK学芸員と来年度企画に関する打ち合わせを行いました。

打ち合わせの後は、慌ただしく京都駅に駆けつけ、新快速に乗って大阪へ。
若き日の丸木位里が通っていた大阪精華美術学院の松村景春校長のお孫さんご夫妻と連絡がとれたので、ほとんど資料が出回っていない大阪精華美術学院の実態や松村景春の生涯について、聞き取り調査を行いました。
非常に興味深い調査となりましたが、詳しい内容については、後日あらためて報告いたします。
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2012/10/27

【関西出張初日】飛鳥に安藤栄作さん訪問/平和博物館ネット交流会  調査・旅行・出張

関西出張初日。朝一番に奈良の飛鳥を訪れ、彫刻家の安藤栄作さんにお会いしてきました。
安藤さんは、2008年に埼玉県立近代美術館で開催された「丸木スマ展」の際、スマさんに共鳴する現代の作家の一人として、ユーモラスな生きものたちの木彫作品を会場に展示して下さった方です。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1010.html

当時は福島県で暮らしていたのですが、昨年3月11日の東日本大震災の際、津波によってご自宅とアトリエは全壊。幸い安藤さんとご家族は買いものに出ていて無事でしたが、原発事故もあり、この1年半のあいだ、飛鳥で仮住まいを続けていたのです。

ここ2年ほど、銀座のギャルリー志門で個展を開催されているのは拝見していましたし、大阪の関西電力前の脱原発デモに毎週のようにジャンベを叩きながら参加されていることや、原発を「鎮める」ために浜岡や大飯の原発の見える場所にみずからの作品をひそかに埋めに行っているという近況も、お聞きしていました。

そして近々飛鳥を離れて奈良県内の別の場所にアトリエを構えると聞き、その前に一度お訪ねしたいと思ったのです。

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仮住まい(といっても、立派なお屋敷)の窓から見える飛鳥の風景は、山なみが美しく、時間もゆっくりと穏やかに流れているようです。
人はもう一度、宇宙的な自然のつながりのなかに戻る必要がある、と語る安藤さん。
来年春に向けて、そんなテーマで絵本を描く企画も進んでいるとのことで、いろいろと面白い展開になっていくかも知れません。

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午後1時半からは、小寺理事長とともに、京都の立命館大学国際平和ミュージアムで開催された「平和のための博物館ネットワーク全国交流会」に参加しました。

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今回、特別報告を行ったのは、大阪人権博物館(リバティおおさか)学芸員の文公輝さんと、女たちの戦争と平和資料館(WAM)の池田理恵子さん。
文さんは、来年度から大阪府・大阪市からの補助金がすべて打ち切られ、大阪人権博物館の運営継続がたいへん厳しくなるという現状報告と支援のお願い。そして池田さんの報告は、右傾化する日本社会と「慰安婦」問題についてでした。

その後も、平和のための博物館国際ネットワーク(INMP)の報告や、都立第五福竜丸展示館、ひめゆり平和祈念資料館などの活動報告が続きました。
こうして年に一度、全国各地の平和博物館の報告を聞き、活動の内容や課題を共有するというのがこのネットワークの重要な意義となります。

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午後6時からは、キャンパス内のレストランに移って、懇親会を開催。
今夏に「原爆の図展」でたいへんお世話になったピースあいちの方々もいらっしゃっていて、懐かしくお会いすることができました。
立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長、そして国境なき手品師団名誉顧問(!)の安斎育郎先生の見事な手さばきによる手品も披露され、会場は大いに沸きました。
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2012/10/26

11月のトーク・講演のお知らせ  講演・発表

この週末は、京都の立命館大学国際平和ミュージアムで開催される「平和のための博物館・市民ネットワーク」の全国交流会に参加します。
久しぶりの京都。といっても観光などする時間はまったくないのですが……。

11月中旬には、大阪と愛知で講演やトークを行う予定が重なっています。
いずれも一般参加可能ですので、ご興味のある方はぜひご来場ください。

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11月10日(土)は大阪大学大学院文学研究科日本学研究室の主催による「日本学方法論の会」の研究会に参加します。

2012年度 日本学方法論の会 研究会「被爆体験とその表象」
日時:2012年11月10日(土)午後1時〜午後5時
場所:大阪大学待兼山会館会議室(大阪府豊中市待兼山町1-3)
内容:【第1部】岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)「《原爆の図》は何を描いたのか―米軍占領下からはじまる絵画の旅―」/コメント 山本潤子(文学研究科院生) 【第2部】イトウソノミ(映像作家)「記憶を記録すること」/コメント 西井麻里奈(文学研究科院生) 【第3部】総合討論
問い合わせ:日本学研究室・宇野田(unoda@let.osaka-u.ac.jp)


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11月11日(日)は一宮市立三岸節子美術館で「生誕100年記念 丸木俊展」のギャラリートークを行います。

生誕100年記念 丸木俊展スペシャルギャラリートーク
日時:2012年11月11日(日)午後2時
場所:一宮市立三岸節子記念美術館(愛知県一宮市小信中島字郷南3147-1)
※観覧券をお持ちの上、2階ロビーにお集まりください。
問い合わせ:0586-63-2892


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同日夜には、名古屋の多目的スペース「パルル」で、「丸木夫妻と非核芸術の現在」と題するトークを行います。
元目黒区美術館、現在は愛知県立美術館の石崎学芸員から頂いたお誘いです。

FILE-N004「丸木夫妻と非核芸術の現在」
日時:2012年11月11日(日)午後7時30分〜午後9時 入場無料/予約不要
場所:パルル/parlwr(名古屋市中区新栄2-2-19)http://www.parlwr.net/
最寄り駅:地下鉄東山線「新栄町」2番出口より徒歩4分
主催:FILE-N(石崎尚、筒井宏樹)、新見永治
内容:3.11以降、この出来事に対してアーティストがどのように向き合うのかということが、大きな課題になってきています。このことを考える際に一つの手がかりになるのが、丸木夫妻が生前に行っていた継続的な活動です。戦争や核などを否定する立場を、自らの人生と制作を通して貫き続けたその歩みは、今あらためて大きな注目を浴びています。今回のトークでは丸木夫妻を出発点に、核や原子力に対して戦後から現在までの美術家たちが、どのように応答してきたのかを振り返ることで、現在私たちが置かれている状況を見つめ直してみたいと思います。


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また、11月15日(木)には、美術評論家で多摩美術大学教授の椹木野衣さんにお誘いいただき、多摩美術大学でゲスト講義を行います。
こちらは学生対象の講義ですが、一応、お知らせまで。

多摩美術大学 共通専門教育科目「20世紀美術論」(担当教員:椹木野衣)
日時:2012年11月15日(木)午後1時〜午後4時10分(3・4時限目)
場所:多摩美術大学 八王子キャンパス(東京都八王子市鑓水2-1723)レクチャーホール/Aホール
対象:多摩美術大学美術部生1・4年生(267名)
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2012/10/24

「戦時下に描かれた絵画」展作品返却/袖井林二郎氏より位里作品寄贈  作品・資料

朝から事務局のYさんとともに、車で都内をまわりながら「戦時下に描かれた絵画」展の作品を返却。ようやく企画展の作業もこれで一段落です。
快くご協力下さった皆さまにあらためて感謝。本当にありがとうございました。

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すべての作品を無事に返却した後、法政大学名誉教授・袖井林二郎さんのお宅を訪ねました。
実は一週間ほど前、袖井さんからお電話があり、私蔵されていた丸木位里の水墨作品をすべて丸木美術館に寄贈して下さるというありがたい申し出を頂いていたのです。

袖井さんは日米戦後政治史を専門とされる研究者で、『マッカーサーの二千日』(1974年、中央公論社刊)で大宅壮一ノンフィクション賞や毎日出版文化賞を受賞された方。丸木美術館の開館以来、長い歳月にわたって事務局長や理事として運営に携わり、1970年には原爆の図アメリカ巡回展を実現させるなど、夫妻とも深く交流をされていたのです。

今回ご寄贈下さったのは、1970年代の作品を中心に全部で6点。

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《マッターホルン》 1978年制作 紙本墨画

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《蔵王》 1977年頃制作 紙本墨画

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《風景》 制作年不詳(1970年代?) 紙本墨画

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《焼岳 4》 1988年 紙本墨画

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《ラバンの裸婦》 1976年 紙本墨画淡彩

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《長浜》 制作年不詳 墨・色紙

大道あやさんのかわいらしい色紙作品《水仙と猫》も寄贈して下さいました。

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夕方には無事に丸木美術館に帰着して、寄贈作品の状態チェックと写真撮影を行いました。
今後、貴重な美術館のコレクションとして、今後、大切に保存・展示させて頂きます。
袖井さんには心から御礼を申し上げます。
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2012/10/23

赤松俊子と『コドモノクニ』  作品・資料

先日、『日本経済新聞』に紹介された赤松俊子(丸木俊)の『コドモノクニ』の仕事について。
遺族のH子さんが詳しい資料を見せて下さったので(深謝!)、以下に覚書を記しておきます。

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俊が最初に『コドモノクニ』に掲載した童画は、1944年1月号に掲載された「オフネノ トモダチ」でした。文を書いているのは、後に『二十四の瞳』を記した作家の壷井栄です。

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船乗りの息子が丘の上に立って、日の丸を振りながら父親の乗る船を見送る場面が描かれています。父親の船が「ゴヨウセンニ メサレテカラハ」一度も村の沖を通らないけれども、息子は父親の友達の船だと思って旗を振り続けているという内容です。

『コドモノクニ』は1944年3月号(先日の日経新聞にも紹介された俊の「海洋少年団」が掲載)を最後に、出版統制により22年間の歴史に幕を閉じます。
大正期のモダンな雰囲気と児童教育への意識の高まりの中から誕生し、美術、文学、音楽などの表現分野の第一線で活躍する作家たちの仕事を子どもたちに提供し続けてきた絵雑誌の最末期、不本意ながらも次第に戦時体制追従を余儀なくされていくなかで、俊は『コドモノクニ』にデビューしていたのですね。

「海洋少年団」は、絵だけではなく短い説明文も俊が記したのでしょう。

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俊はこの前年、1943年1月に誠美書閣から『海の子魂 海洋少年団南洋遠航実記』(原道太作、初版6,000部、1円50銭)という書籍の装幀・挿絵を担当しています。
著者の海洋大佐・原道太が団長となって、13歳以上23歳までの18人が参加し、1934年7月15日から11月1日まで、「義勇和邇丸」でマニラ、サイゴン、バンコク、昭南島(シンガポール)、パラオ、ヤップ、サイパンなどを経由した112日間の海洋少年団の航海の記録です。
丸木美術館の蔵書ではないので、内容をすぐに確認することはできませんが、この遠航記の一場面を幼児向けに描いて『コドモノクニ』に発表したのではないかと思われます。

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当時の子どもたちに夢を与え、戦後に活躍する手塚治虫やいわさきちひろらにも多大な影響を及ぼしたと評される『コドモノクニ』は、2010年から11年にかけて、全5巻の名作選がまとめられています。
俊の「オフネノ トモダチ」はvol.5(ハースト婦人画報社)に、「海洋少年団」はvol.1の下巻(アシェット婦人画報社)に収められています。

巻末の資料を見ると、武井武雄や初山滋といった当時の代表的な童画家だけでなく、竹久夢二、岡本一平、伊東深水、東山新吉(魁夷)、古賀春江、村山知義、三岸節子、柳瀬正夢、藤田嗣治、脇田和、野田英夫といった画家たちに加え、写真家の土門拳やグラフィックデザイナーの亀倉雄策らも絵や写真を手がけ、文学者では野口雨情、北原白秋、西條八十、室生犀星、サトウハチロー、濱田廣介、新美南吉、小川未明、島崎藤村、中野重治、まど・みちお、坪田譲治、金子みすゞ、横光利一など錚々たる顔ぶれが原稿を寄せています。

幼児向け、という枠を越えた内容の充実ぶりには、あらためて圧倒される思いがしました。
福音館書店の「こどものとも」シリーズに代表されるような、戦後の日本の児童向け文化の豊穣さの原点も、『コドモノクニ』にあったのだと感じます。
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2012/10/22

富田牧子さんらによる弦楽アンサンブル  他館企画など

休館日。夕方から、子どもたちを親戚にあずかってもらって、夫婦で文京区の同仁キリスト教会へ弦楽アンサンブル「田村安祐美・富田牧子・安保龍也 〜デュオ、トリオの愉しみ〜」を聴きに行きました。

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チェリストの富田牧子さんは、現在開催中の一宮市立三岸節子美術館「生誕100年記念 丸木俊展」で11月17日(土)午後5時30分からミュージアムコンサート「無伴奏チェロの夕べ〜大地のことば〜」を開催されます。
今年8月には、ご夫婦で丸木美術館にも来て下さいました。
富田さんはブログに、来館のときのことを書いて下さっています。
http://tomitamakiko.seesaa.net/article/285289922.html

そのとき、今回の教会コンサートのご案内を頂いたのですが、家に持ち帰ると、驚いたことに妻も同じチラシを持っていました。偶然、妻の元職場の同僚の方の夫が、富田さんと一緒に出演されるコントラバス奏者の安保龍也さんだったのです。

そうしたご縁もあって、今回は夫婦でコンサートに訪れることにしました。
演奏プログラムは、以下の通り。
J.S.バッハ/「主イエス・キリスト、我らを顧みたまえ」BWV655
マラン・マレ/ヴィオール曲集第二集より「村娘」「人間の声」
ヴィルジリオ・モルターリ/デュエッティーニ・コンチェルタンティ
ゾルターン・コダーイ/ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲
ゾルターン・コダーイ/合唱曲より「聖霊降臨節めぐり」

富田さんは、かつてブダペストのリスト音楽院に留学し、バルトーク弦楽四重奏団チェロ奏者のメズー・ラースロー氏に師事されたという方。今回演奏された「聖霊降臨節めぐり」も、バルトークとともに(当時近隣の強国に支配されていた)ハンガリーの農民音楽の収集を行っていたコダーイ作曲の、ハンガリー民謡を多分に取り入れた曲だそうです。

人間の耕す大地からたちのぼる音楽の響きの豊かさに、心を強く揺さぶられたアンサンブル。
教会でこうしたコンサートを気軽に聴けるのはとても良いですね。
三岸節子記念美術館のミュージアムコンサートでも、富田さんは丸木俊の絵画世界に溶け合うような素晴らしい演奏を聴かせて下さることでしょう。
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2012/10/21

『日本経済新聞』の“美の美”に赤松俊子「海洋少年団」紹介  掲載雑誌・新聞

2012年10月21日付『日本経済新聞』の“美の美”欄「「コドモノクニ」とモダンニッポン」に、赤松俊子の童画「海洋少年団」が紹介されました。
ボランティアのK林(T)さんが記事を持ってきて下さいました。

大正時代に創刊された本格的な子ども向け絵雑誌として知られる『コドモノクニ』。
その終刊号(1944年3月発行、第287号)に、俊が童画を描いていたことは、これまでまったく知りませんでした。
丸木美術館に掲載誌は現存せず、従来の年譜にも『コドモノクニ』の仕事は抜け落ちています。

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新聞に掲載された図版を見ると、南洋パラオ帰りの俊が、この時期に手がけていた絵本『ヤシノミノタビ』(1942年、帝国教育出版部)や『みなみの海』(1943年、二葉書房)などを連想させる、独特のリズミカルな線描によって海の波が表現されています。

記事には、次のように俊の仕事が紹介されています。

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 自由を尊び、優れた芸術で子どもの精神を育む「コドモノクニ」の理想はもはや戦中の日本とは相いれなかった。紙の配給もままならないなか、44年3月号で終刊を迎える。

 最終号に載った「海洋少年団」。作者は後に丸木俊と名を変える赤松俊子。原爆投下直後の広島で惨状を目の当たりにし、以後、夫・位里とともに原爆の絵を描き続けた。日本の子どもと南の島の子どもが一つの海で楽しく遊ぶこの作品には、画家のヒューマニズムの精神がうかがえる。この号で「コドモノクニ」の22年の歴史は幕を閉じるが、読者の心には着実にそのメッセージは伝わっていた。

 戦後、絵本作家のいわさきちひろや赤羽末吉、漫画家の手塚治虫らかつての愛読者が新たな芸術を切り開き、「コドモノクニ」の遺伝子は次の世代の子どもたちに受け継がれていった。


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日本の子どもと南の島の子どもがいっしょに遊ぶという筋書きは、俊の最初の絵本『ヤシノ木ノ下』(1942年、小学館)とも重なります。
記事にあるように、(戦後へと続く)俊のヒューマニズムの精神の発揮であり、また、当時の大日本帝国の植民地政策の正当化を支える役割も果たしていたことでしょう。
ともあれ非常に興味深く、また、俊の質の高い仕事をあらわす作品のひとつだと思います。

残念だったのは、この童画の存在がわかったのが、一宮市立三岸節子記念美術館の「丸木俊展」図録の刊行が終わった後だったということ。
今回、現時点でできるだけ詳しい年譜を入れて頂いたたつもりなのですが、さっそくこぼれ落ちた仕事がいくつか見つかっているので、悔しいです。
単行本であれば図書館等の目録で比較的簡単に見つけることができるのですが、『コドモノクニ』のような絵雑誌の仕事は、総目次(などの資料が、整理されているとして)を丹念に調べなければなかなか“発見”できません。
まだまだ、丸木夫妻の残した仕事の整理作業は、これからも続いていきそうです。
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2012/10/20

「今日の反核反戦展2012」開幕  企画展

今年も88人の作家(グループ含む)が参加して、「今日の反核反戦展2012」が開幕しました。
大勢の作家さんが出品して下さる「反核反戦展」は、事務作業が非常に大変で、今年は事務局体制の変化の影響もあって、一部の作家さんに対し不手際が発生してしまいました。
本当に申し訳ありません。

会場は、美術館1階の4つの部屋を使っています。
絵画、彫刻、写真、インスタレーションなど、さまざまな表現が並びます。

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原発事故や沖縄の基地問題を主題にした作品、過去の戦争を忘れまいとする作品、一見反核反戦とは関わりがないようでいて、実は精神の根底でつながっている作品など、自由参加なのでテーマもさまざまです。

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呼びかけ人をつとめて下さった画家の池田龍雄さんは、文化(culture)という言葉の語源に「耕す・耕作する」の意味があることを決して忘れてはならない、美術は非自然、反自然的な「資本主義」からの脱却に寄与すべき役割を担っていることを自覚しなければならない……と呼びかけ文のなかで美術の存在価値を説いています。

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この展覧会が、現在の困難な時代を少しでも「耕す」ことができればと願っています。
来館者の方はぜひ、多様な表現の中から「心に残るこの一点」を見つけてみて下さい。

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今年は、急きょ特別出品として、2人の韓国人美術家の作品を展示することになりました。

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1人はKim Seo-kyeongの彫刻《a Figure of Young Girl》(写真下)。
もう1人はPark Yon-binの油彩画《Comfort Women!》(写真上)。
出品の経緯については、JAALA(日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)美術家会議から寄せられた文書を引用します。

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 この2作品は、韓国・民族美術人協会に所属する2人の作家...の作品です。
 作品は去る8月東京都美術館で開かれた「第18回JAALA国際交流展−2012」に出品されました。しかし会期中に東京都美術館より、政治的主張の強い作品の展示を禁止した使用規定に該当するとして撤去を求められ、表現の自由を基とする反論、抗議をしましたが結果的にやむなく会期途中での展示終了となりました。
 今回、原爆の図丸木美術館での「今日の反核反戦展2012」にご厚意を得て出品させていただきました。観客の皆さんによくご覧をいただき、美術行政の芸術表現に対する視点についてお考えをいただきますようお願いいたします。

 (JAALA美術家会議)
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あまり一般的には知られていませんが(『月刊ギャラリー』10月号で美術評論家のワシオ・トシヒコ氏が「政治的過剰反応の犠牲となった韓国二作品」とコラムで取り上げています)、決して見逃すことのできない事件が東京都美術館で起きていたのですね。
今年の「反核反戦展」にとっては、小さいけれども重要な意味をもつ作品になりそうです。

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午後2時から開かれたオープニング・レセプションでは、池田龍雄さんの乾杯のあいさつのあと、5組のパフォーマンスが行われました。

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毎年恒例、奈良幸琥さんによる鎮魂の舞踏。今年は赤い扇が一段と鮮やかでした。

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初参加のイノチコア(石川雷太・羅入・鷹塀三奈・加藤瀬巳奈・他)は、原発反対デモの再現パフォーマンスで登場。

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飯田晃一&シュガーライス・センター&puku他によるパフォーマンス「地球、あるいは非人間」は、1階奥のホールで行われました。こちらも初参加です。

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夕暮れの原爆観音堂前では、村田訓吉さんらダツゲンオーケストラのコンサート。

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最後のパフォーマンスは、恒例の黒田オサムさんによる「ホイト芸」で締めくくり。
黒田さんのパフォーマンスは、本当に凄いです。
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2012/10/16

「知の木々舎」にて和泉舞さんとの往復書簡  執筆原稿

ウェブマガジン「知の木々舎」にて、2012年10月下期発行の第84号より、「記憶に架ける橋」と題し、舞踏家の和泉舞さんと往復書簡を連載することになりました。

和泉さんは、2003年よりライフワークとして、原爆の図全15部作の舞踏化に取り組み続け、今年の8月には第5部《少年少女》の上演を行っています。

往復書簡のきっかけは、9月16日に明治大学で開催された「被爆者の声をうけつぐ映画祭」。
ジャン・ユンカーマン監督が撮影した丸木夫妻の記録映画『HELLFIRE 劫火―ヒロシマからの旅』を上映した後で、岡村がトークを行ったのですが、そのときに会場から寄せられた「実際の広島は《原爆の図》のように美しくはなかった。丸木夫妻は美しく描いてあげたかったと言っているが、その点をどう考えるか?」という質問に対し、記録と芸術とのあいだで揺れ動いた丸木夫妻の葛藤についてお話ししたことが、和泉さんには興味深く聞こえたようです。

第1回目は、和泉さんがそのときの思いから書きはじめて下さっています。
以下のサイトでご覧いただくことができます。

http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-10-10-8

今回に限って、二人の往復書簡を掲載。
次回からは、毎月1日に和泉さん、15日に岡村が順番に執筆することになります。
原爆の“記憶”に表現を通して近づくという視点からのキャッチボール。
どういう展開になっていくのか、これからが楽しみです。
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2012/10/15

エコロジーオンライン:file089「太陽光発電で再び照らせ、原爆の図」  掲載雑誌・新聞

インターネットの市民メディアエコロジーオンラインの連載企画「エコピープル」第89回に、「太陽光で再び照らせ、原爆の図」と題するインタビュー記事が掲載されました。

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eco people file:089 太陽光発電で再び照らせ、原爆の図

取材をして下さったのは加藤聡さんとカメラマンの小林伸司さん。
8月の緑豊かな丸木美術館で、川を見下ろしながらのインタビューでした。
たいへん丁寧に記事にまとめられ、また、写真もきれいに撮って下さって、お二人には本当に感謝です。

この「エコピープル」の企画、これまで環境に関わるさまざまな仕事をされている方々や、坂本龍一さん、いとうせいこうさん、映画監督の纐纈あやさん、海南友子さん、俳優の中嶋朋子さん、伊勢谷友介さん、サッカーの岡田武史監督など、幅広い方々に取材をされていて、非常に読み応えがあります。

ぜひ、一度「エコロジーオンライン」のWEBサイトを覗いて見て下さい。
http://www.eco-online.org/
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2012/10/14

アートスペース喜連川雲彩展と企画展展示替え  特別企画

10月13日(土)、14日(日)の2日間、丸木美術館2階のアートスペースにて、喜連川雲彩さんの「心の花びら展」が開催されました。
詳しくは喜連川さんのHPに報告されていますので、ご覧下さい。

http://unsai.grupo.jp/blog/226900

多くの方が来場されて、和やかな雰囲気のただよう会場だったようですが……
階下は、企画展の展示替えで大忙し。
14日は、博物館実習生の上智大学のT村さんに加えて、ボランティアのY浅さん、K峯さん、K林(T)さん、I葉さん、初参加で福島県双葉町出身のOさんが展示作業を手伝って下さいました。

「戦時下に描かれた絵画」展から、「今日の反核反戦展へ」。
この1週間は慌ただしい日々が続きそうです。

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2012/10/13

「発掘:戦時下に描かれた絵画」終了  企画展

企画展「発掘:戦時下に描かれた絵画」が好評のうちに終了いたしました。

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最終日は、ニューヨークの美術家Tさん(栃木県立美術館の小勝さんが勧めて下さったそうです。また、ちょうど友人の喜連川雲彩さんがアートスペースで「心の花びら展」も開催されていたのでご来館)や、世田谷美術館のS学芸員、日本の戦争責任資料センターの方たちが来館して下さいました。

ささやかな規模の、そして丸木美術館にとっても実験的な意味を持つ企画でしたが、会期中、トークセッションがあった日はもちろん、そのほかの日も会期終了が近づくにしたがって、元目黒区美術館のM学芸員や美術家のHさん、町田市国際版画美術館のT学芸員、美術史家のIさん、日本近現代美術史研究者のAさん、朝日新聞文化部のOさんなど、「滅多に見られない作品だから、ぜひ来なくてはと思って……」とおっしゃりながら連日のように関心の高い方が訪れて下さったのは、本当にありがたかったです。

多くの方が「こうした作品が表に出てくるのは本当に貴重な機会」、「最近、丸木美術館では興味深い企画が続いていますね」という感想を伝えて下さり、心励まされる思いがしました。

《弾痕光華門外》などの作者不詳の住友資料館蔵の作品については、「作者が誰、という問題を離れても、ひとつの時代を反映した絵画として、こういうものがあったのかと興味深く観られた」という感想を聞かせて下さる方がいました。

そして吉田博の従軍スケッチを中心とする作品群についても、「吉田博のこうした作品を実見するのははじめてのこと。現存していることも知らなかった」、「やや説明的な大画面の油彩画より、スケッチが非常に興味深かった。いわゆる戦争画は最近少しずつ観る機会が増えているが、従軍スケッチをこれだけまとめて観る機会はあまりないですね」という声があり、「(攻撃対象を目視する)《急降下爆撃》のような作品を観ると、B29のような大型航空機の巨視的な爆撃と比較して、攻撃における“身体性”/対人間性の意識の問題を考えずにはいられない」というかなり踏み込んだ感想を伝えてくれる方もいました。

ある友の会の方は、「戦争画を考える場合、それが当時どのような機能を果したのかということを考えると、今現在、あるいはこれまでの原発推進キャンペーンのなかで戦争画と同じ機能をはたしているものは何かという問題も浮かんでくる。丸木美術館で戦争画を取り上げたことは重要」と興味深いレポートを送って下さいました。

今回の展覧会、予算の問題で図録は発行できなかったのですが、記録的な意味が大きいと考えていたので、その代わりにA4二つ折りチラシに出品作品をすべて掲載するという試みを行いました。このチラシもたいへん好評で、美術館にはもう残部がまったくありません。
展覧会のためにご協力下さった皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2012/10/12

KENにて「記録 π=3.14....ヨシコ・チュウマwith勝見淳平」  他館企画など

今日は、夕方から狛江で上映される映画『ひろしま』を観に行くつもりだったのですが、朝日新聞のO記者が企画展を観るために急きょ来館され、その関係で予定を変更して三軒茶屋のKENで行われた「記録 π=3.14....割り切れない周縁 酵母パンとその世界 ヨシコ・チュウマwith勝見淳平」を観に行くことにしました。

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ヨシコ・チュウマさんは、ニューヨークで30年以上も活動を続けているダンサー、振付家、演出家です。近年は歌手のおおたか静流さんやバイオリニストの金子飛鳥さんらとパレスチナで地域の人びとと深く関わる表現活動を行い、2009年には『Newsweek』誌の「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれているとか。
今年8月6日の丸木美術館ひろしま忌では、おおたか静流さんのコンサートに金子さんとともに駆けつけ、特別出演をして下さいました。

今回のKENでの企画は、黒壁に勝見淳平さんが焼いた酵母パンによる曼荼羅世界(竹炭を混ぜて焼いた黒パンに、白い粉で星の名前や「脱原発」の文字や模様を記し、小宇宙を構築する凄い作品)が設置され、その前で突然ダンスがはじまり、パレスチナで行われた活動の記録映像が投影され、音楽も流れ、その合間にヨシコさんがマイクを持って語る、あるいは観客に語らせる、という実験的でスリリングな内容。
しかも最後に勝見さんのパンとキノコのスープも食べられます(美味!)。

スリリングなどと書きながらも、実は私はついウトウトしてしまったところをすかさずヨシコさんに目ざとく見つけられ、突っ込まれてしまいましたが……
それでも、なぜヨシコさんが丸木美術館に来て感動されたのか、これまでどんな生き方・活動をされていたのか、そうした活動が現在の福島にどうつながっていくのかが、言葉を超えて感覚的に伝わってくるような、引き込まれる企画でした。
「危機的な」現在の日本に対するヨシコさんの“挑発”は、心して聞かなければなりません。

   *   *   *

会場にはおおたか静流さんも来られていたので、あらためてひろしま忌の御礼とご挨拶。
静流さんには、先日、新作のアルバムIKORを送って頂いたばかりでした。
IKOR―イコロとは、アイヌ語で「宝もの」の意だそうです。
魂に響いてくる静流さんならではの美しい曲、お勧めです。
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2012/10/11

「日本の70年代」展/「かもめ来るころ」/「自画像★2012」展  他館企画など

美術館の休みをいただいて、午前中は埼玉県立近代美術館で開催中の「日本の70年代1968-1982」展へ。

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学生運動や大阪万博の熱い「反抗の時代」からはじまり、西武百貨店を中心とする軽やかな「若者たちが選びとった文化」へと移行していく1970年代(正確には1968年から1982年までの15年間)を、美術、デザイン、建築、写真、演劇、音楽、漫画などジャンルを横断しながら俯瞰する見応えのある展覧会でした。

私は、企画をされたM学芸員が「1970年代の転換点」と位置づける1974年の生まれなので、この世に存在してはいたのですが、「時代の気分」までは記憶にありません。
かろうじて、1980年代はじめの西武百貨店の「不思議、大好き」や「おいしい生活」などのポスターの糸井重里のコピーを覚えているくらい。

もっとも、ここ1、2年のあいだ、粟津ケンさんのおかげで身近になった粟津潔や寺山修司たちの仕事が、どれほど横断領域的に展開されたのか(展覧会はのっけから粟津潔の映像作品、山下洋輔が燃えるピアノを演奏し続ける《ピアノ炎上》からはじまります)、また、大学時代のゼミの恩師のM先生が西武美術館の学芸課長・副館長として深く関わっていた「セゾン文化」の意味(80年代のバブル期になだれ込んでいく予兆としての功罪も含めて)も考えることのできる、たいへん貴重な機会になりました。

平日の午前中にもかかわらず、会場には学生らしきグループや、70年代を実体験されている世代の方々が数多く訪れていて、展覧会の注目度の高さがうかがえました。

   *   *   *

午後は亀戸へ移動して、7月に丸木美術館の被爆ピアノコンサートに出演して下さった斉藤とも子さんの出演する舞台『かもめ来るころ』を観ました。

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大分・中津の豆腐屋として働きながら歌を詠み、ベストセラーとなった『豆腐屋の四季』を著した後に、火力発電所の反対運動に取り組んだ松下竜一と妻の洋子の生涯を描いた物語です。

弱者の視点に立ち、時代の奔流に逆行しながら、あらゆる動植物が健康に生きるための環境を守る権利・環境権を提唱して孤独な闘いを続けた松下さんの生き方には深く共感するところがありましたが、慎ましい生活を支えた妻の葛藤も描かれていて、そのあたりはどこかで見た光景のような……
公演のあと、斉藤とも子さんに「何だか身につまされた芝居でした」と感想をお伝えしたところ、「そうよね、どこも大変だもんね」と爽やかな笑顔。

客席には、昨年丸木美術館で公演して下さった肥田舜太郎さんや、以前ひろしま忌でお話をして下さった江戸川区の被爆者団体「親江会」の西本宗一さんも来られていました。

   *   *   *

帰りは銀座のギャラリー58に立ちよって、「自画像★2012」展を観てきました。
出品作家は赤瀬川原平、秋山祐徳太子、池田龍雄、石内都、篠原有司男、田中信太郎、中西夏之、中村宏、吉野辰海という錚々たる前衛芸術家の方々。

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自画像展といっても、さすがにふつうの自画像は1点もありません。
ギャラリーのNさんのお話では、新聞を観て画廊を訪れたお客さんが、「……で、自画像はどこに?」と質問されることもあるとか。
それでいて、それぞれの芸術家の歩んでこられた人生が感じられる、面白い展覧会でした。
ちょうど田中信太郎さんが画廊にいらっしゃったので、ご挨拶。

本当は、画廊香月で開催されている池田龍雄展も観ておきたかったのですが、残念ながら木曜休廊とのことで(銀座に着いてから気づきました)、観られなかったのが残念でした。
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