2012/7/31

『中国新聞』に“原爆の図、167回の展示判明”記事掲載  掲載雑誌・新聞

2012年7月31日付『中国新聞』に“原爆の図、167回の展示判明”との見出しで、1950年代はじめの原爆の図全国巡回展の調査についての記事が掲載されました。

以下のWEBサイトで、記事全文を読むことができます。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201207310037.html

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 画家の丸木位里、俊夫妻が被爆者などを描いた「原爆の図」(全15部)の初期3部作が、完成直後の1950〜53年に、少なくとも36都道府県で167回、展示されていたことが原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)の調査で明らかになった。同図が終戦後の社会に与えた影響の大きさが裏付けられた。

 巡回展は労働組合や学生団体などが主催。丸木夫妻の回想から、広島市などで多数開催されたことが知られていたが、現存する記録が少なく、実態は不明だった。

 2008年、丸木美術館の岡村幸宣学芸員が丸木夫妻の旧アトリエから、ガリ版刷りの巡回展の記録集を発見。10年には、俊の出身地である北海道で大規模巡回展が開かれていた新事実を突き止めるなど、資料や証言の掘り起こしが進んだ。

 「原爆の図」は2組巡回していたことも判明。丸木夫妻は52年、サイズも構図も同じ3部作を控えのためにもう1組制作。現在、最初の3部作は丸木美術館が、後の再制作版は広島市現代美術館(南区)が所蔵している。

 中国地方では広島、呉、福山、岩国、松江、岡山、米子の各市などで計17回の開催が分かっている。岡村学芸員は「まだ記録が埋もれている可能性は高い。情報を寄せてほしい」と呼び掛けている。


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記事を書いて下さった中国新聞社のN記者に心から感謝です。
この記事によって、中国地方の巡回展に関する調査が新たに進むと良いのですが。
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2012/7/30

下関の帰りに広島へ  調査・旅行・出張

午前中に下関を出発して新幹線で広島へ。
広島駅で市電に乗り継ぎ、平和記念公園に向かいました。
あと1週間で8月6日を迎える広島は、雲ひとつない青空です。

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原爆ドームの南側、現在は大きな樹が枝を広げているあたりに、かつて五流荘と呼ばれる建物がありました。全国巡回展の実質的な出発点として、1950年10月に峠三吉ら「われらの詩の会」の尽力で「原爆の図三部作展」が開かれた場所です。
巡回展は、まさにグラウンド・ゼロからの出発だったわけです。

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今回、平和記念公園を訪れたのは、8月1日からはじまる国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の開館10周年記念特別企画展「失われた爆心の街」(9月30日まで)を、主事のIさんの御厚意により、見せていただくためでした。
この特別企画展は、“爆心の街”――現在の平和記念公園周辺に焦点をあて、この地域で被爆した方々の遺影や、被爆前の街の風景、そして地層の断面標本などを紹介する内容です。

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最初に見せていただいたのは、館の入口付近に展示された地層の断面標本。
爆心地の地層というものを、私ははじめて見ました。
Iさんの解説によれば、最表面のきれいな層は平和記念公園整備のために運ばれてきた土。
その下の層は、原爆投下後の焼け跡に住みはじめた人びとが住居を建てるために盛った土。
3番目の層は、瓦礫や焼け焦げた石などが生々しく残る原爆投下当時の層で、現在の地上からは60cmくらい下になります。
さらにその下には、デルタ地帯特有の、川の水によって堆積した細かい砂の層もあります。
瓦礫の上に盛り土をしたというので、当時も放射能対策(福島で表土を掘削したように)を考えていたのですか、と質問をしたのですが、Iさんによればそうではなく、単に家を建てるために土地を平らにする必要があったという理由のようです。

爆心地で被爆した方2,111人の遺影がぐるりと部屋をめぐるように展示された部屋では、丸木位里ら広島の画家たちの作品の熱心な収集家であった医師の黒川節司の遺影を見つけました。爆心直下の細工町で黒川病院を経営していた方です。
祈念館では、体験記閲覧室のコンピュータで原爆死没者の名前や遺影、被爆体験記、証言映像などを検索することができるので、黒川節司について少し調べてみることにしました。
すると、黒川節司の娘さんが当時のことを証言している映像がみつかりました。
彼女の証言によれば、黒川家の妻や子どもたちは郊外に疎開していたのですが、節司だけは原爆投下を細工町の病院で迎えており、家族が探しに行ったときには建物は完全に壊滅して「これでは人間が生きているはずがない」と思ったそうです。結局、遺骨さえも見つからず、瓦礫の中から愛用の茶碗を持ちかえったとのこと。何しろ、黒川病院は爆心地といわれる島病院の並びでわずか5軒隣り。その破壊の凄まじさは、想像を絶するものであったことでしょう。

遺影の展示は、それぞれの居住地によって分かれているのですが、それだけでなく、学徒動員にあたっていた広島一中、二中、一女などの学校ごとにも展示されています。広島一女の女学生たちの遺影を見ながらふと気づいたのは、全員が同じおかっぱ頭であったことでした。
以前に訪れた沖縄のひめゆり平和祈念資料館の展示では、三つ編みのおさげ髪の記憶が強かったのですが、広島の女学生はおかっぱ頭だったようです。
ということは、原爆の図第5部《少年少女》に描かれた髪の長い少女たちは、丸木夫妻の思い描いたイメージで、実際の女学生の姿とは異なっていたというわけですね。

地下2階には、被爆当時の広島の街並みを360度のパノラマで表現する平和祈念・死没者追悼空間もあり、それを見て(恥ずかしながら初めて)平和記念公園にあるレストハウスが被爆建物・旧燃料会館であることを知りました。
そこで祈念館を出たあとは、レストハウスに立ち寄って「原爆被災掲示板」を撮影。

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燃料会館(爆心地から約170メートル)
この建物は、1929(昭和4)年、大正屋呉服店として完成しました。戦争が激化し、経済統制も進められ、1944(昭和19)年6月、県燃料配給統制組合に買収されました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、すぐ近くの爆心地約580メートル上空でさく裂した原子爆弾により、コンクリートの屋根は大破、内部も破壊炎上し、地下室にいて奇跡的に生き残った1人をのぞいて全員が犠牲となりました。
戦後直ちに改修し、燃料会館として利用され、1957(昭和32)年には広島市東部復興事務所がおかれ、都市の復興の拠点として貢献しました。
[開店当時の大正屋呉服店(清水建設提供)]
[被爆直後の燃料会館(松本栄一氏撮影)]


さらに市電「原爆ドーム前」の近くにある猿楽町通り周辺の「原爆被災掲示板」も撮影。

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猿楽町通り周辺
この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師をはじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートルでさく裂し、驀進直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。焼け跡には、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。復元地図は、原爆で消えたかつての町並みを後世に残すため、1998(平成10)年に作成されたもので、この一帯が最も活気あふれていた1940(昭和15)年前後を生存者の情報をもとに再現したものです。
[写真 広島商工会議所屋上から猿楽町通りを見下ろす 1945年10月初旬 林重男氏撮影]
[復元戸別地図作成・監修 矢倉会(爆心地猿楽町周辺生存者の会)]


この掲示板には、復元個別地図も乗っていて、爆心地の島病院の5軒下に黒川病院、そしてその左下に猿楽町通りに面して佐伯便利社の字も見えます。

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佐伯便利社は、戦前に雑誌『実現』を発行し、丸木位里や船田玉樹、靉光ら若い前衛芸術家を支援して「藝州美術家協会」結成にも尽力した佐伯卓造の経営する印刷会社。
黒川節司や佐伯卓造については、昨年にも広島で調査して報告記事を書いています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1738.html

   *   *   *

午後は、一宮市三岸節子記念美術館S学芸員とともに、佐伯家の子孫のお宅に伺いました。
佐伯便利社は海軍の仕事をしていた関係から、前年に広島市郊外へ部分的に疎開していたため、卓造をはじめ家族たちは原爆に遭わずにすんだのです。

聞き取りをしていくなかで、非常に興味深かったのが、卓造が16歳で移民としてサクラメントに渡米し、現地の学校を卒業してビジネス界で成功していたという話でした。やがて米国で日本人排斥運動が起こったために帰国するのですが、その際に米国からフォードの自動車を持ち帰るなど、かなり華々しい“凱旋帰国”だったそうです。
やがて佐伯便利社を作るのですが、市電通りに面した一等地に当時としては珍しい3階建ての建物。もちろん英語は堪能で海外の動向にも通じていたわけですから、前衛的な芸術家たちの支援者として活躍したのも納得できようというもの。
広島の美術……というより、現在、日本近代美術史の視点から注目されている「日本画の前衛」は、まさに彼の尽力によって支えられていたと言っても過言ではありません。
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2012/7/29

下関散策と「丸木俊絵本原画展」講演  講演・発表

海風の涼しく感じられる下関の朝。
ホテルの前には1915年に建てられた、立派な旧秋田商会ビルがあります。

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そのビルの前を基点に、下関ゆかりの童謡詩人金子みすゞの詩碑をめぐるコースがあるというので、朝の散歩を兼ねて詩碑巡りをすることにしました。

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彼女の終焉の地にほど近い寿公園にある顕彰碑(写真上)をはじめ、詩碑は全部で10カ所。

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そのひとつに、港を見下ろす山上の“関の八幡”と呼ばれる亀山八幡宮の詩碑があります。
詩碑には、みすゞの作品「夏越まつり」が刻まれています。

ぽつかりと
ふうせん、
瓦斯の灯が映るよ。

影燈籠の
人どほり、
氷屋の聲が泌みるよ。

しらじらと
天の川、
夏越祭の夜更けよ。

辻を曲れば
ふうせん、
星ぞらに暗いよ。


詩を主題にした絵のレリーフも設置されているのですが、作者の名は、熊谷まちこさん。
見覚えのある名前です。今年の春に、銀の鈴社から刊行された児童向けの丸木夫妻の評伝『平和をねがう「原爆の図」』の絵を担当されている方なのです。

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調べてみると、熊谷まちこ(くまがいまちこ)さんは、下関のご出身。
現在は埼玉県にお住まいで、丸木美術館にもおいで下さったことがあるのですが、ここで熊谷さんのお仕事に巡り合うとは思ってもいませんでした。
しかも、今日はその「夏越(なこし)祭り」の当日なのです。
境内は、祭りの準備でとても忙しそうでした。

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八幡宮の階段を下りて海へ向かうと、新鮮な海産物が取引される「唐戸市場」があります。
ところせましとならんだ露天の店先には、旬のアワビやササエがひしめきあっています。

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ここでは、店先で寿司も握って食べさせてくれるので、観光客は皿と箸を持って露天のあいだの狭い通路を歩きまわっています。
私も、鯛や海老などの寿司をつまんで、お土産にまだ動いているサザエを買いました。

   *   *   *

講演を行うために下関市立美術館へ向かう途中、源平壇ノ浦の海戦で敗北し、入水した安徳天皇を祀る赤間神宮に立ち寄りました。
「海のなかにも都はございます」との二位の尼の言葉を再現したような、鮮やかな朱色の竜宮城のような水天門が目につきます。

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赤間神宮を訪れたのは、ここに小泉八雲の『怪談』で知られる耳なし芳一を祀った芳一堂があるからです。
明治時代に神仏分離が行われるまで、この赤間神宮は阿弥陀寺という名の寺でした。
耳なし芳一がつとめていたのは、その阿弥陀寺であったといわれています。

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今日の講演は、丸木俊の絵本の仕事についての紹介で、そのなかで『日本の伝説』(1970年、講談社)に収録されている「耳なし芳一」の挿絵も紹介するので、事前に挨拶をしておきました。

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芳一堂のとなりには、七盛塚と呼ばれる平家一門の墓群があります。

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芳一が亡霊に誘われて夜な夜な琵琶を弾いたという墓は、ここだったのでしょうか。

   *   *   *

そしていよいよ下関市立美術館へ。
長府毛利藩の城下町の入口に立つこの美術館では、26日から「生誕100年 丸木俊・絵本原画展〜いのちへのまなざし〜」を開催中です。

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会場には、俊の手がけた多数の絵本原画をはじめ、数点の油彩画、絵本の実物、そして原爆の図第11部《母子像》やスマの絵画も紹介されています。なかなか見応えのある内容です。

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展覧会を担当して下さった副館長のNさんは、丸木夫妻と下関は地縁もなく、あまり知られているわけではないので、果たしてどれだけの方が講演会に来るかと心配して下さっていたのですが、熱心のファンと思われる方を中心に、会場には多くの方が訪れてくださいました。

「大地に根ざした物語を描く―丸木俊と絵本」と題して行った講演は、@故郷の北海道、南洋、ロシアの体験を描く、A戦争と公害を描いた記録絵本、B大地に根ざした物語を描く、という3つのテーマから、「原爆の画家」や「絵本の画家」というふうにどちらかだけを見るのではなく、両方とも深くつながっていると考えてはじめて丸木俊という画家の仕事を知ることができるという内容をお話しました。

講演の報告は、今日はこれでおしまい。

   *   *   *

そのあとは、H館長に案内されて、長府の城下町を車で見てまわることになりました。
これまでにも、地元の方に案内されて街を見て歩く機会は何度かあったのですが、いつも基本的には「おまかせ」でお願いすることにしています。
というのは、自分で観たい場所は時間のあるときに自分で見に行けばいいので、地元の方が何を「見せたい」かを知る方が、はるかに興味深いのです。

というわけで、最初に連れて行って頂いたのは、幕末に高杉晋作が挙兵した地として知られる功山寺。といってもH館長が「見せたい」のは高杉晋作挙兵の像ではなく、鎌倉時代の唐様建築の美しい、日本最古の禅寺様式を残した国宝の仏殿でした。

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何でも、前回の大修理の際に、柱に残された墨書から、鎌倉の円覚寺よりも建立年が古いことが判明したのだそうです。

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また、功山寺の境内にある下関市立長府博物館も、1933年に長府尊攘堂として建てられたそうですが、戦前の博物館建築の典型として国の登録文化財になっている興味深い建物です。

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冷房がなく、館内は決して広くはないのですが、下関を知る興味深い歴史的資料がならんでいて、思いのほか長い時間をかけて展示物を見てしまいました。
江戸時代には朝鮮や琉球の使節団も下関に上陸していて、まさに本州の玄関口として、海外に開かれた街であったことが感じられます。

   *   *   *

続いて訪れたのは、城下町らしい雰囲気の練塀が残る古江小路。
長府藩の藩医を代々務めた菅家の長屋門は、当時の面影をそのまま残しているそうです。

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H館長のお気に入りだという横枕小路も訪れました。
狭い路地の両側が練塀になっていて、歩いていると江戸時代にさかのぼっていくような不思議な感覚に陥ります。

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その横枕小路の突き当たりにあるのが、忌宮(いみのみや)神社。
仲哀天皇・神功皇后が西国平定の際にここに豊浦宮を建てて滞在したという伝説の地です。

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ちょうど、8月7日からはじまる奇祭「数方庭」の準備で、鳥居の奥には十数メートルもある長い竹の幟が天に向かってひしめいていました。
「数方庭」は、境内にある鬼石と呼ばれる石のまわりを、竹の幟を一人で抱えてまわるという勇壮な祭りで、やはり仲哀天皇による熊襲平定を起源にするようです。

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それにしても、長くて重い幟を一人で抱えるのは、相当な力とバランス感覚が必要です。
祭りならではの“男を見せる”という心意気のあらわれのひとつなのでしょうか。
幟を見上げているだけで、凄い迫力に圧倒されます。

   *   *   *

最後に、関門海峡を見下ろす火の山の頂上にある展望台に案内して頂きました。

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関門橋の手前が下関、向こう側が門司です。
その奥には、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地である巌流島も見えます。
海峡を眺めながら、H館長と「下関には歴史が重層的に詰まっている」という話をしました。
神話時代の西国平定からはじまり、源平の海戦、宮本武蔵、馬関戦争などの幕末維新、さらに日清講和条約締結と、この小さな町はたびたび歴史の表舞台に顔を出します。しかし、かえってそのためにPRのポイントが絞りづらく、中途半端になっているとH館長はおっしゃっていました。
けれども、個人的には見どころのたっぷり詰まったとても面白い町だと思います。
何より、この狭い海峡に激しく流れこむ急潮、さまざまな船が行き交う風景は、それを見ているだけで本当に胸が高鳴ります。

金子みすゞにしろ、画家の香月泰男にしろ、あるいはこの地で生まれた作家の林芙美子の家族にしろ、このあたりに生まれた人は、まずは出発の地である下関を目ざす、というH館長の話も印象に残りました。
お世話になったH館長はじめ、下関市立美術館のスタッフの皆さまには、心から感謝です。

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暮れていく海峡の風景を眺めながら、夕食は港でふく定食(下関ではふぐをふくと書きます)を注文しました。

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ふぐの刺身、ふぐの唐揚げ、ふぐ汁というふぐ尽くし……まあ、二日間がんばったので。

外は夏越祭りのお囃子の音が賑やかです。
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2012/7/28

ピースあいち「原爆の図展」初日・ギャラリートーク  講演・発表

朝7時半に東京駅を出発する新幹線で名古屋に向かい、今日からピースあいちで開催される「原爆の図展」を訪れました。ピースあいちは大勢のボランティアが運営を支える民営の平和博物館で、今年5周年という節目の年を迎えています。
N館長やMさんなどスタッフのなかには、26年前に愛知県美術館で開催された原爆の図展に尽力された方もいらっしゃいます。

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Mさんに案内されて、まずは館内の展示をひとまわり。
2階の常設展示では、愛知県下の空襲、戦争の全体像、戦時下の暮らし、現代の戦争と平和の四つのテーマを、豊富な資料と展示パネルでわかりやすく見せています。

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戦時下の雑誌や日用品などはもちろん、焼夷弾によって穴の開いた天井板や、空襲で焼けて炭化した家の柱という貴重な資料が町屋を再現したブースに展示されていて、展示パネルでは加害と被害が複雑に交錯する戦争の実相を丁寧に解説しています。

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今回、私が知りたかったのは、1945年8月の愛知県下の空襲についての情報でした。
というのも、丸木位里が原爆投下後の広島に駆けつけた際、列車の車窓から「名古屋の空襲を目撃した」と回想しているからです。「広島に新型爆弾投下」との大本営発表があったのは8月7日の午後3時半。翌朝に東京を発ったとして、その日の前後に名古屋周辺で空襲が行われていれば、話の辻褄があいます。ピースあいちの展示資料を見ると、名古屋ではありませんでしたが、たしかに、8月7日に豊川で大規模な空襲が行われていたことがわかりました。位里が目撃したのは豊川空襲だったのでしょう。
位里の回想には、さらに翌日、尾道のあたりで、「昨夜の空襲」でまだ町が燃えている中を「曲芸師の火渡りのように」突っ走ったとあります。これは死者354人、重軽傷者864人の犠牲を出した8月8日夜の福山空襲を指しているのでしょう。
こうして位里の回想から空襲の目撃情報をたどっていくと、位里が広島に到着したのは8月9日深夜/10日未明であったことが、はっきり裏付けられるのです。

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今回、丸木美術館から貸し出した原爆の図第5部《少年少女》と第12部《とうろう流し》は、3階の展示室にならんでいました。こじんまりとした空間ですが、その分、間近に原爆の図を観てもらえそうです。会場を案内する係の皆さんからも、原爆の図展を成功させようという深い思いが伝わってきて、本当にありがたい限りです。

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午後11時からは、原爆の図展の開会式。中京テレビが取材に来て下さいました。
1階のホールで、まずはN館長が開会のご挨拶。続いて岡村が挨拶をした後、来場者に丸木俊についての映像資料を見てもらいました。

午後1時からは、岡村が担当するギャラリートーク。
まずは3階の原爆の図の前で、絵の説明を行いました。
原爆の図は、キノコ雲でも原爆ドームでもなく、人間を描いた絵画であること。
丸木夫妻は傷ついた人の視線から戦争・社会問題を描くという姿勢を生涯貫いたこと。
美しく描きたいという芸術家としての思いと、事実を伝えなければという使命感が、二人のなかに常に葛藤としてあったこと。
占領下の時代のなかで原爆の記憶を共有するために行われた巡回展が、はじめて愛知県で開かれていたのは、サンフランシスコ講和条約が発効し、ちょうど占領が終結した日(豊橋市中央公民館、1952年4月26日〜29日)であったこと……。
20分ほどそんな話をした後で、1階に移動して、今度はモニタを使用しながら、丸木夫妻と初期原爆の図の歩みを中心に紹介しました。

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写真は、司会を務めて下さったKさんと、会場の風景です。
ちょうどピースあいちボランティアの丸山泰子さんが、丸木俊といわさきちひろの関わりについてメールマガジンに執筆して下さっていたので、俊とちひろの師弟関係や、絵画表現と精神性の類似についても触れました。
また、丸木夫妻以外の画家たちがどんな原爆の絵を描いていたのか、彼らと丸木夫妻の表現はどこか違っていたのか、というような話もしました。
トークの終わりには、この日会場を訪れて下さった一宮市立三岸節子記念美術館のS学芸員に、秋に同館で開催する企画展「生誕100年 丸木俊展」の紹介もして頂きました。

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お世話になったスタッフの皆さんに心から感謝しつつ、夕方には新幹線で下関へ移動。
明日は下関市立美術館「生誕100年丸木俊 絵本原画展」で講演を行います。
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2012/7/26

『東京新聞』「非核芸術案内」第2回  執筆原稿

2012年7月26日付『東京新聞』4面「3.11後を生きる」欄に、岡村が執筆している連載「非核芸術案内」の第2回が掲載されました。
今回は丸木スマの《ピカのとき》や、大道あやの絵本『ヒロシマに原爆がおとされたとき』を取り上げ、原爆表現の多様な広がりと、その一方で表現することのできない「記憶の闇」に触れました。

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以下、スマ、あやの作品について記した部分を抜き出します。

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……被爆から五年後には、早くも丸木位里の母・スマが《ピカのとき》という絵を残している。スマは七〇歳を過ぎて初めて絵筆をとり、身近な自然を天真爛漫に描いた。そのごく初期に、広島市郊外の三滝町で彼女が目にしたであろう被爆者の群像を、独特の色面分割の画面上に表現している。スマは、原爆を「天災と思ってあきらめましょう」という周囲に対し、「それは違う、ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」と言い切る鋭さと気丈さを持っていた。彼女の語る体験が、とりわけ初期の原爆の図に与えた影響は大きい。

 しかし、被爆という強烈な記憶を、誰もが的確に表現できたわけではない。むしろ、長い歳月を経た後でも、原爆を表現することへの葛藤を抱え続けた人は多かった。位里の妹の大道あやは、原爆の図が描かれた当初「広島には持ってきてくれるな」と拒み、母の後を追うように六〇歳で絵をはじめてからも、原爆を描くことはなかった。二〇〇〇年にNHKの企画で原爆の絵本を作る決意をした際には、苦心の末に描いた爆心地付近の風景を、翌朝に「生きながら死んでいった人たちは描けん」と激しい憤りをぶつけるように鉛筆で塗り潰している。

 原爆というテーマが幅広い表現者によって広がりをみせるそのとなりには、常に「表現できない」記憶の闇が深く横たわっている。彼女の憤りもまた、そのことを伝えているのだろう。


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お読み頂いた皆さま、そして感想を伝えて下さった皆さまに、心から御礼を申し上げます。
次回は第五福竜丸の被ばく事件を中心に、「見えざる核の可視化」について考えます。
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2012/7/24

ピースあいち原爆の図展のお知らせ  館外展・関連企画

午前中は草刈り、午後は原爆の図貸出の準備と、いよいよ夏本番の丸木美術館。
アメリカの大学から夏休み帰国中のAさんがインターンとして手伝ってくれているので、たいへん助かっています。

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この日は、名古屋のピースあいちで7月28日から開催される「丸木位里・丸木俊 原爆の図展」の準備をしました。

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原爆の図第5部《少年少女》と第11部《とうろう流し》が貸し出されます。
初日の28日(土)には、午後1時半から岡村がギャラリートークを行います。
また、8月11日(土)午後1時半からは、「丸木俊 女絵かきの誕生」と題して、山田昌さんと天野鎮雄さんの朗読会も行われます(参加費1500円、定員70名申し込み順)。
ぜひ、多くの方にご来場いただきたいと思います。
 
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2012/7/23

『朝日新聞』に新井卓写真展紹介  掲載雑誌・新聞

今日は休館日でしたが、東京M市の中学校団体が来館するので出勤。
15分ほどの館内説明を行ったあと、館内を自由に見学してもらっていたのですが、そのあいだに一般のお客さんも少しずつ来館。結局、中学校が帰った後も客足が途切れず、夕方まで勤務することになりました。

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2012年7月21日付『朝日新聞』朝刊埼玉版に、現在開催中の企画展「福島から広がる視線2 新井卓銀板写真展」の紹介記事が掲載されました。
以下のWEBサイトで全文を読むことができます。
http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000001207210006

記事の一部を抜粋して紹介しておきます。

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 磨いた銀板を直接カメラに入れて撮影し、水銀蒸気で現像する銀板写真。この技法による作品を制作してきた新井卓さんは東日本大震災の発生当時、第五福竜丸の死の灰を展示館から借りて撮影中だった。

 東京電力福島第一原発の事故後は何度も福島入り。三春の滝桜や飯舘村のヤマユリ、飯舘村から福島市に避難している母子らを撮影してきた。

 美術館は「福島に視線を向けるというのはどういうことか。私たちがもう一度深く考え直すために貴重な展覧会」と説明する。


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いつも企画展を紹介して下さるK記者に感謝です。
また、毎日新聞の「まいまいクラブ」にも、新井さんの写真展が紹介されています。
https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/shashinbu35/details.php?blog_id=687
こちらも、わざわざ美術館に足を運んで下さったIさんに感謝です。
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2012/7/21

代官山ヒルサイドフォーラムにてトーク  講演・発表

葉山で「松本竣介展」を観た後は、代官山へ戻ってヒルサイドフォーラムで開催中の「マクリヒロゲル、粟津潔の世界展」へ。
午後5時から、都立第五福竜丸展示館の安田和也学芸員と「ベン・シャーン、丸木位里、俊、粟津潔と……いまぼくたちが思うこと」と題するトークを行いました。

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(写真提供:小林俊道氏)

安田さんにはいつもお世話になっていますが、ごいっしょにトークをするのは初めて。
もっとも、緊張感はまったくなく、スライドを交えながらのリラックストークとなりました。

はじめに安田さんが、粟津潔が1955年に日宣美新人賞を受賞した『海をかえせ』のポスターを紹介し、海が米軍の演習場に使われた社会状況と第五福竜丸につながる木造漁船の歴史について説明されたあと、話は原水爆禁止世界大会のポスターの仕事へと移っていきます。

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《原爆の図》で世界的な知名度があり、原水禁運動の象徴的な画家となっていた丸木俊は、第1回原水禁大会をはじめ、初期の頃は2度ほどポスターの仕事を手がけていたのですが、「運動であっても、画家ではなく、専門のグラフィックデザイナーの仕事が必要」と当時の事務局員Yさんが判断されたことから(それは英断だったと思います)、第5回目からは粟津潔、杉浦康平の共同制作でポスターが作られるようになります。
そして作られたのが、日宣美特別賞を受賞したという上の写真右から2つめの作品。ちょっと分かりにくいですが、粟津潔による“群死”というベン・シャーン風のデッサンの上に、杉浦康平が無機的な放射状の直線を配し、爆心地の情景をデザイン的に表現しているのです。
ちょうど新聞連載で、「見えない」核をいかに「見える」ように描くか、という問題を考え続けていたので、このポスターの表現は、私にとってはまさに鮮烈な、興味の対象そのものでした。

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さらに話は、丸木夫妻の原爆の図巡回展や、ベン・シャーンの“ラッキー・ドラゴン・シリーズ”、水木しげる、ヤノベケンジ、岡本太郎へと広がっていきました。
キーワードは、“核を表現する”。
美術館と博物館の違いこそあれ、“3・11以後”ではなく、その前から、丸木美術館と第五福竜丸展示館は、核をめぐる表現の紹介という点では、ほかに類のない活動をしてきました。
ともに予算規模が小さいため、知恵を絞って工夫を重ねなければ、なかなか企画もできない施設ではありますが、これからも連携して、少しずつ活動の幅を広げていきたいと、あらためて思うトークでした。

会場には、先日丸木美術館で被爆ピアノコンサートに出演して下さった、ピアニストの崔善愛さんや女優の斉藤とも子さんもわざわざおいで下さいました。
ご来場いただいた皆様には、心から感謝いたします。
そして、貴重な場を設定して下さった、粟津ケンさんにも感謝。
いつも背中を押して下さって、嬉しいです。
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2012/7/21

神奈川県立近代美術館「生誕100年 松本竣介展」  他館企画など

午前中から地元市役所職員Kさんといっしょに、神奈川県立近代美術館葉山で開催中の「生誕100年 松本竣介展」へ。
丸木俊と同い年、そして同じ「池袋モンパルナスの画家」である松本竣介の、決定版ともいえる展覧会です。

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今年生誕100年を迎える芸術家は、俊と竣介のほかにも、画家の寺田政明、彫刻家の佐藤忠良、船越保武、映画監督の今井正、木下恵介、新藤兼人などがいます。
その誰もが、戦争が人生に大きな影響を及ぼしています。20代から30代にかけてという、働き盛りの時期に戦争を体験しているのだから、無理もありません。
他の表現者と違うのは、竣介がわずか36歳、1948年に亡くなったということです。
戦争とは何だったのかを後から長い時間をかけて考え作品化した、たとえば丸木夫妻の《原爆の図》とは異なり、戦争の時代を今まさに生きながら彼がとらえたものを、私たちは作品として観ているわけです。その点は、1946年に亡くなった靉光と共通しています。
彼らがそのときどきの瞬間に、どのように時代をとらえ、何を表現しようとしていたのかを考えるのは、だから非常に興味深いところです。

展覧会はこの後、宮城、島根を経て、11月23日から世田谷美術館に巡回します。
もう一度世田谷でゆっくり、作品を観ておきたい展覧会です。
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2012/7/20

下関市立美術館「丸木俊絵本原画展」作品搬出  館外展・関連企画

午前中から、下関市立美術館「生誕100年 丸木俊絵本原画展〜いのちへのまなざし〜」の作品搬出作業。
企画協力アートシードのSさんとDさん、そして美術運送スタッフの方々が来館され、原爆の図第11部《母子像》をはじめに、丸木俊の絵本原画99点、油彩画5点、水彩画1点、スマ作品3点、そして資料となる絵本などを搬出しました。
このところ猛暑の続く日々でしたが、運の良いことに暑さがやわらぎ、梱包・搬出作業もはかどりました。
事務局では、N事務局長を筆頭に、販売物の準備作業が大忙し。
たくさん物品が売れると良いな、と願いつつ、図録や絵葉書などを送り出しました。

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展覧会の会期は、7月26日(木)から9月9日(日)まで。
九州・中国地方にお住まいの方、あるいは近くに旅行される方は、ぜひご来場ください。

7月29日(日)午後2時からは、「大地に根ざした物語を描く―丸木俊と絵本」と題して、岡村が講演会を行います。
戦時中から最晩年まで、半世紀以上にわたって続けられた絵本の仕事を基軸に、丸木俊の作品世界を考える内容です。
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2012/7/19

『東京新聞』「非核芸術案内」第1回  執筆原稿

2012年7月19日付『東京新聞』4面「3.11後を生きる」欄に、岡村が執筆した「非核芸術案内」が掲載されました。
第1回目は丸木位里・丸木俊夫妻の原爆の図第1部《幽霊》などをとりあげています。
これから5週ほど、毎週木曜日に連載させて頂く予定です。

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以下、冒頭から少しだけ抜き出して紹介します。

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 芸術は人間の営みのなかから生まれる。核の脅威は、その営みに直結するから、今日、非核芸術と呼ぶべき表現があらわれることは、決して不思議ではない。
 「芸術の役割は見えるものを表現することではなく、見えないものを見えるようにすることである」とは、画家のパウル・クレーの言葉だ。もちろんクレーの言う「見えないもの」とは魂の領域を指すのだろうが、それも含めて、核に対峙する芸術を想うとき、この言葉が頭をよぎる。

 核の脅威、とりわけ放射能を人間は知覚できない。その危険性を隠そうとする社会的な力が働くことも、少なくない。非核芸術の歩みは、こうした「見えない」核を「見える」ものとしてあばき出す試みの連続だったといえるだろう。
 核の脅威を最初に世界へ知られた作品といえば、原爆の図が挙げられる。広島出身の水墨画家・丸木位里と、妻で油彩画家の赤松俊子(丸木俊)は、原子爆弾投下後の広島に駆けつけ、その惨状を目撃した。米軍占領下の一九五〇年、厳しい検閲制度が存在し、原爆被害の実情が公開されなかった時代に、二人は原爆の図第一部《幽霊》を発表する。
……

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担当のH記者からは、局長さんや部長さんからもお褒め頂いたとのメールが届きました。
また、多くの方からご感想なども頂いています。本当にありがとうございます。

夜には、詩人のアーサー・ビナードさんから電話があり、原爆の可視化と人間の肉体の問題について、話をしました。ちょうどアーサーさんも、原爆をテーマにした、ある新しい企画を考えているので、いろいろご協力することになりそうです。

7月26日(木)掲載の第2回では、絵画、デザイン、映画、写真、漫画など多様な領域の表現と、職業的な表現者ではない体験者の絵画を取り上げながら、原爆表現の可能性/不可能性について考えます。
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2012/7/15

熱気あふれる被爆ピアノコンサート  イベント

午後2時より、丸木美術館開館45周年記念被爆ピアノコンサートが開催されました。

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当初120席を用意した会場には、当日券を求める方が予想以上に多く来て下さったこともあって、160人を超える超満員。会場は、文字どおり“熱気”にあふれかえりました。
なにしろ冷房がないので、扇風機を総動員したものの、比喩ではなく本当に“熱気”が凄かったのです。

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そんな熱気のなか、《アウシュビッツの図》の前で、祖国ポーランドを奪われたショパンの名曲を次々と演奏したのは、ピアニストの崔善愛さん。
「暑ければ暑いほど燃える」(拍手喝采!)との名言を口にしつつ、外国人登録の指紋押捺を拒否して一時特別永住権を奪われた自身の体験とショパンを重ねるように力のこもった演奏を聴かせて下さいました。
会場には、目に涙を浮かべながら演奏を聴く人たちもいました。

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そして井上ひさしの舞台『父と暮せば』で主人公の娘を演じたことから、広島の被爆者と関わりはじめ、原爆小頭症患者と家族の生活史をまとめた著書まで出版された女優の斉藤とも子さんは、第1部ではショパンの手紙や日記を朗読し、第2部では、大陸から必死の思いで引き揚げてきた父親が朝鮮の人びとに命を救われたという話を、心に沁み渡るように語って下さいました。

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丸木夫妻の壁画に囲まれた空間、広島で被爆したピアノ、そして忘れられなくなりそうなほどの暑さ……といった条件はもちろんですが、このコンサートで一番響いてきたのは、崔さんと斉藤さんの、これまで生きてきた姿勢がにじみ出るような存在感だったのではないかと思います。

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お二人とも、音楽と演劇というそれぞれの表現手段を持ちながら、一人の人間として、目の前の社会の現実と関わり続けている。昨夜の「マクリヒロゲル」粟津潔の展覧会で感じたものと同じような種類の感動が、心に湧き出てきました。
「芸術は人間の心を内側から変えることができる」という言葉も、ふと思い浮かべました。

暑さのなかで、すばらしい演奏と朗読を聴かせて下さった崔さん、斉藤さん。そして広島から被爆ピアノを運び、調律して下さった矢崎さん。駐車場の案内や駅までの車での送迎、売店コーナーの販売など、イベントを手伝って下さったボランティアの方々。何より、会場あふれんばかりに集まって下さった大勢の観客の皆さま、本当にありがとうございました。

いつまでも心に残り続ける、とても素敵なコンサートと出会いになりました。
心から御礼を申し上げます。
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2012/7/14

ヒルサイドフォーラム「粟津潔の世界展」竹内万里子×新井卓トーク  他館企画など

練馬区美術館「生誕100年 船田玉樹展」レセプションの後は、代官山のヒルサイドフォーラムで開催中の「没後3年 マクリヒロゲル、粟津潔の世界」展へ。

戦後日本を代表するグラフィック・デザイナーである粟津潔。
というよりも、枠にとどまらず、あらゆる表現領域を横断して自由に活動し、また、社会と向き合い続けた稀有な存在である彼のポスターやドローイング、写真が会場全体にはりめぐらされ、熱度の高い空間ができあがっていました。

例えば、米軍の軍事演習のため漁場を奪われた漁民たちの反対闘争ポスター『海を返せ』(1950年、日本宣伝美術会日宣美賞受賞)に描かれた漁民の表情の根ぶとさ。
1959年に杉浦幸平と共同制作した第5回原水爆禁止世界大会のポスター(日宣美会員賞受賞)では、ベン・シャーンばりのペン画で屍の群を描いた上に、放射状の直線が配置され、「爆心」を象徴的に表現しています。
『砂の女』や『他人の顔』などの勅使河原宏の前衛映画や、演劇作品のポスターの仕事も数多く見られます。
予定調和に迎合しない孤独な自由さ、そして目の前の現実に表現の力で関与しようという意志と熱情。さまざまな思いが湧き上がってくる必見の空間です。

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写真は会場風景と、イベントの挨拶をする粟津潔の長男のケンさん。
この日は、丸木美術館で企画展を行っている写真家の新井卓さんと、評論家の竹内万里子さんによる、「写真と言葉 ひとりずつで立ち上がるために」と題するトークが行われたのです。

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銀板写真という写真黎明期の技法をあえて用いて、震災後の福島のかけがえいのない“記憶”を残す試みを続ける新井卓さん。
ルワンダのジェノサイド(集団殺戮)の際に「武器」として性的暴力を受けた母親とその子どもたちの写真集を翻訳して日本に紹介した竹内万里子さん。
二人の共通点は、写真の作家・評論家という狭義の枠にとどまらずに、一人の人間として、目の前の社会が抱えている問題に向き合いながら活動を行っていることです。

印象に残ったのは、“批評家”という肩書きについて竹内さんが語られていた言葉でした。
自分では“批評家”という言葉はあまり好きではないけれども、一番みんなが納得してくれる肩書きなので名乗っている。それでも、自分なりに見えてきた“批評家”としてのスタンスは、「そのときの自分の手つき、足もとをも批評的に見ていく仕事」だというのです。
作家や批評家は社会問題に関与するべきではない、という風潮は確かに日本にあります。
しかし、竹内さんは、ただ書くだけではなくて、問題と出会ったことで自分でも思いがけない方向に展開しながら、現実の社会と関わっていくことも必要なのではないか、と考えているようです。そうしないと、子どもの頃好きになれなかった、口で言うだけで何もしようとしない「イヤな大人」、「イヤな批評家」に自分がなってしまう、と。

その思いは、私にもよくわかるような気がしました。
そして、その仕事の先に見えてくるのが、粟津潔であり、あるいは丸木夫妻やベン・シャーンの姿でもあるのです。
次週、7月21日(土)午後5時からは、今度は第五福竜丸展示館学芸員の安田和也さんと岡村が、「ベン・シャーン、丸木位里、俊、粟津潔と……今、ぼくたちが思うこと」と題するトークを行います。
どんな内容になるのかは、あまり安田さんとは打ち合わせをしていないので当日の出たとこ勝負になるのですが、ご来場頂ければさいわいです。

竹内さんと新井さんのトークの後は、「マクリヒロゲル筝 沢井一恵」のコンサート。
小柄な身体の全体を使って、筝とは身体表現である、ということを示してくれたような沢井一恵さんと、若き尺八奏者長谷川将也さんの圧倒的な演奏世界を堪能した後、皆さんにご挨拶をして、ひと足早くヒルサイドフォーラムを後にしました。

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写真は会場の外から。
まだ熱の冷めきれない空間が、闇のなかにぽっかりと浮かび上がっていました。
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2012/7/14

練馬区美術館「船田玉樹展」レセプション  館外展・関連企画

今朝は『朝日新聞』埼玉版に“被爆ピアノの祈り”と題して、いよいよ明日に迫った崔善愛さんの被爆ピアノコンサートの記事が掲載されました。
おかげで午前中から電話の問い合わせもずいぶんありました。
取材をして下さったK記者に感謝です。
以下、記事の全文を読むことができます。
http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000001207140003

   *   *   *

そして今日は、「新井卓銀板写真展」の初日。
来館者の方に、どんなふうに写真を見て頂けるか、ちょっとドキドキです。
企画展示室が暗いので、中に入っていいのかどうか、戸惑う方もいらっしゃったようでした。もう少し、誘導の方法を工夫してみた方がいいのかも知れません。

同じく今日からはじまった特別企画「さがしています展」は、広島の被爆者の遺品を写真家の岡倉禎志さんが撮影し、詩人のアーサー・ビナードさんが詩を書いた絵本をもとにした展示。
とはいえ、絵本の刊行が大幅に遅れており、昨日ようやく“見本”の絵本が届きました。
本格入荷は来週とのことなので、丸木美術館でも販売いたします。

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午後には練馬区美術館を訪れ、「生誕100年 船田玉樹展」のレセプションに参加しました。

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2年前に京都・東京・広島で開催された「『日本画』の前衛」展で彼の作品を観て、古典的教養と前衛思想のあいだを往還しながら凄みのある世界を拓いた画家としての力量には感嘆していたのですが、今回は約200点の作品で生涯を回顧するという見逃せない企画。
しかも、玉樹の師である速水御舟や小林古径の作品とともに、同郷の友人として交流のあった靉光や丸木位里の絵も紹介されているのです。
丸木位里の作品は、丸木美術館から貸出した《馬(部分)》と、広島県立美術館所蔵の《不動》や《雨乞》などが展示され、位里のファンにとっても見応えのある内容です。

すっかり“日本画の前衛”の代表作となった第1回歴程美術展出品作《花の夕》(1938年)など戦前の作品の存在感は何度見てもやはり凄いのですが、今回初めて見た戦後の作品群―九品仏や滝などの、モチーフや表現の実験を繰り返しながら果てしなく絵画の可能性を探求する情熱と手わざの確かさにはあらためて圧倒されました。
広島県立美術館のN学芸員によれば「むしろ積極的に中央画壇や画廊と距離をとっていた」という孤高の存在であったために、これまではきちんと評価されていなかったのですが、玉樹自身は常に“世界史的視野”で制作に励んでいたそうで、その突き抜けたような誇りと矜持は作品から十分に伝わってきます。
むしろ、よくぞこれだけの作家がこれまで知られていなかった、と思うほどです。

玉樹については、私も丸木位里の友人として名前を知ってはいたものの、戦後の活動については詳しく知らず、今回も、N学芸員からの依頼によって資料を調べなおし、「大河展」などで戦後も丸木夫妻とともに展覧会活動をしていたことに気づいた次第でした。
会期中にあらためて訪れ、もう一度じっくり作品を見ておきたいと思っています。
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2012/7/14

新井卓銀板写真展示作業終了  企画展

昨日、新井さんと私で足場を組み、天窓をふさぐ作業をしていたのですが、二人とも高所作業があまり得意ではないので、冷や汗をかきながら作業は難航。
そのため、この日は朝からボランティアのMくんが手伝いに来てくれました。
彼は高所作業の名手なので、なんと!午前中のうちに天窓の自然光は完全に遮断。
まったく、ありがたいことです。。。

その後は、新井さんと手伝いにきてくれたバイオリニストのTさんが照明の調整作業を行い、私とMくんは隣室で開催する特別展示「さがしています」の展示作業。
夕方には、どちらも展示が完成しました。

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写真は、銀板写真の展示を見るMくん。
人が近づくと、写真の前に吊るされた電球が発光し、作品を観ることができるのです。

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自然光では見ることのできなかった細部や、とりわけ美しい青い色(銀板写真は、光の強い部分が青く発色するのです)が、周囲を暗くすると浮き上がってくるのが本当に不思議。
いつもの企画展示室とはまったく違った空間になっているので、ぜひ、体験して下さい。
5月21日の日蝕の写真や、先月福島で撮影してきたばかりの新作も2点展示されています。

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この日の閉館間際には、なんと、歌手のおおたか静流さんと、同行のW舎のAさん親子が突然来館されたので、びっくりしました。
静流さん、8月6日のコンサートの下見を兼ねて“おしのび”で来館とのことでしたが、さすがの存在感。私はすぐに気がつきました。笑
静流さんにお会いできて、コンサートがますます楽しみになりました。
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