2012/5/31

東京国立近代美術館「写真の現在」レセプション  他館企画など

午前中、丸木美術館の隣の野木庵で研修会を企画して下さった臨済宗南禅寺派関東地区協議会の団体30人の方々に、じっくりと《原爆の図》をめぐりながら館内の説明を行いました。

そして午後は特別展示「福島原発の闇」の展示作業を行った後、都内に移動して、東京国立近代美術館の企画展「写真の現在4 そのときの光、そのさきの風」のレセプションに参加。

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“発表の手段や場、あるいはイメージをとらえる方法それ自体を自らの手で用意する、いわば等身大の世界に軸足を置いた写真家たちの活動とその成果に注目する”という展覧会の5人の出品作家のひとりに、今年の夏に丸木美術館で個展を行う銀板写真(ダゲレオタイプ)の写真家・新井卓さんが選ばれているのです。

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今回展示されている作品は、昨年3月11日以後に撮影された、飯館村のヤマユリや三春滝桜、浜岡原発、遠野の馬、釜石市の座礁した船、第五福竜丸に残された1954年3月14日の暦など。

それぞれの作家のために区切られた空間のなかで、ひとつひとつ順番に照らし出される銀板写真。撮影時に録音された音が、静かに流れます。
この日は大勢のゲストが訪れていたため、ゆっくり写真を見る雰囲気ではなかったのですが、ふだんの展示では銀板写真に刻まれた“記憶”の世界に深く入っていくことができるでしょう。

図録に収録された新井卓さんのインタビューの一部を抜粋して紹介いたします。

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ダゲレオタイプをやっていると、普通の写真とどう違うかと聞かれたり、デジタルと逆ですね、と言われたりします。それには違和感があって、むしろ全く違うものと考えた方がいい。では何が違うのかというと、まずは複製不可能な「モノ」としての写真だということ、そしてすごく鮮明に写るということです。第五福竜丸の元乗組員の1人、大石又七さんは、自身の体験を語るとともに、第五福竜丸の模型をつくって寄贈していたそうです。彼は自分の言葉よりも、模型を渡すことでもっと通じるものがあるんだと書いている。第五福竜丸は木造の大型船という圧倒的な存在感を持つモニュメントですが、それとは物質的に切り離された模型も、コンパクトなモニュメントとして機能している。いわばモニュメントをリレーしていくように。そうしたかたちでダゲレオタイプを使えるのではないかと考えました。震災後にも例えば陸前高田の一本松などは、すでにマスメディアのなかでモニュメント化されはじめています。それとは違う意味で、もっと小さいコミュニティや個人の記憶を呼び覚ますような、集団的な記憶の表象ではなく、もっと曖昧な、見た人それぞれの個別の記憶を引き出すようなモニュメントとしてダゲレオタイプを使えないかと考えています。人や出来事を忘れないための、マスだけどパーソナルなものとして。

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“記憶”のための装置であり、そして、同時に“集団的記憶”への抵抗という意味も持つ新井さんの銀板写真に注目です。

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レセプションの後は、新井さんをはじめ、第五福竜丸展示館のYさん、Iさん、三軒茶屋のスペースKENを主宰するKさん、ピアニストのCさん、デザイナーのUさん、バイオリニストのTさんら“チームKEN”ともいうべき豪華メンバーの方々とごいっしょに、飲み会へ。
皆さん、とてもパワーのある方なので、これからもいろいろな企画が広がっていきそうです。
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2012/5/30

新藤兼人監督逝去/『一枚のハガキ』上映会  他館企画など

『裸の島』や、『原爆の子』、『第五福竜丸』などの作品で知られる新藤兼人監督が、5月29日に逝去されたそうです。享年100歳でした。
個人的に大きな影響を受けた映画監督なので、天寿を全うされたのだろうと思いながらも、しかし非常に残念です。
http://eiga.com/news/20120530/9/

原爆を主題にした映画をたびたび撮られている新藤監督ですが、作品制作の上で丸木夫妻との接点は、おそらくほとんどないと思います。
しかし、1967年8月11日『週刊朝日』の連載対談83「ふたりで話そう」には、“まだ描き足りぬ原爆の悲惨”と題して、新藤監督と丸木俊さんの対談が収録されており、冒頭で新藤監督が「ぼくらが「原爆の子」という映画をとったのは、昭和二十七年でしたけれども、あのときに丸木さんの「原爆の図」のいくつかを参考にさせていただきました」と語っています。
ちなみに俊さんも生きていれば今年で100歳なので、お二人は同い年、ということになります。

新藤監督への追悼の思いを込めて、この対談の一部を抜粋して紹介いたします。
《原爆の図》の世界巡回展について、絵の衝撃によって西洋の人たちの考えが変わった、と語る俊さんに対し、新藤監督は次のように答えます。

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新藤 見ればわかるんですから、見せなきゃいけませんね。映画も原爆を主題にしたものが数本あるんですけど、この絵ほどの強い表現、こんな怒りのこめられた表現にまで、まだ達していないように思いますね。その表現力のすさまじさは、誇張したように思ったとしても、心が通じる、胸を打つということでしょうね。

丸木 これを誇張だといっても、被爆した人は、これどころじゃない、もっとひどいんだ、というわけですね。ですから、絵だけでは言い足りない。映画を作られる方は映画で、小説家は小説で、音楽家は音楽で表現しなきゃならんと思うんです。それぞれ弱いんですから、詩人は詩を書かなきゃいけないし、おしゃべりできる人はしゃべって、それぞれの分野で……

新藤 それを総合しないと、大きな力になれないでしょうね。ぼくらのつくった映画も反響が大きくって、アメリカでは、もちろんアメリカの興行者は上映しませんけれども、カトリックの牧師が、全米を映写してまわりたいから寄贈してくれ、といってきましてね、一本寄贈したんです。それから四、五年たって、あのフィルムは磨滅したから、また寄贈してくれないか、というので送りました。アメリカ以外では世界じゅうの常設館で上映されたんです。

丸木 やっぱりアメリカはむつかしいですね。

新藤 だから、井伏鱒二さんの「黒い雨」、あれはひどく淡々と書いておられるんですけど、とても描写がよくて、すごいと思うんですよね。落した人を告発するという態度はとっておられないけど、ある意味では告発性があると思うんですね。原爆が落ちたと言って嘆くだけじゃ足りない。告発性がなければいけない。それは憤りだと思うんです。日本人しか知らない憤りですね。いまさらアメリカを告発するというような意味じゃなしに、原爆という武器を告発するという態度だと思うんですよ。いままで絵画、文学、映画、音楽、いくつも扱われていますけど、それで済んでしまったわけじゃない。まだ第一段が終わっただけでね、さらにほんとうのものが出てこなきゃいかんのじゃないか。だから、飽きないで何べんでもよく繰返して、もっと正確な形で、いろんな作家の表現力でやっていくべきだと思うんですね。
 丸木位里さんは広島のお生れですけど、ぼくも広島生れですから、原爆以前のきれいな広島の町も知っています。それが瓦礫の町になったのも知っています。縁者のなかに被害者もいます。だから、多少は実感的に知ってるわけですけど、その程度のことをみんなに話したって、へえーそんなことですか、というようなもんですよね。

丸木 どうしても、みなさんは誇張と思われますね。

新藤 だから、いま世界のいろんなところで、局地戦争みたいなものが行われています。そこに原爆は使われてないかわからんですけど、原爆的な武器、人間を殺す凶暴性をもった武器は使われている。原爆に近い武器、それに似た武器が、表現を変えて現れてると思うんですよね。それをやめさせるためには、日本人が大きく訴えなきゃいかんのでしょう。原爆は、広島の人、日本の人しか知らないんですから、言う義務があるんですね。原爆のこわさを世界じゅうの人は知らないんです。むごたらしく殺された人、死ななかった人のその後の悲劇性、人間にとって耐えられない大きな罪悪をもつ武器ですね、ええ。


(中略)

新藤 被爆者の家族ということがわかったら嫁にもいけない、といって隠してる人もあるし、基町のバラック建に住んでる被爆者の生活なんて、ものすごくひどいですよね。広島市の中心は繁栄しています。よその人がはいってきて、観光事業を進めてますからね。そうして住民は、すみのほうへ追込まれてるんです。
 最近は観光的なほうへばかり目がむいちゃって、そういう広島の悲劇の現実面は表面に出てこない。また隠そうとしてると思えるんですよね。そういう人たちの真の味方になる人は、ないとはいえないんですけれども、少ないんですね。

丸木 ほんとにそのとおりですね。

新藤 原爆についての威勢のいい議論は盛んに行われているけれども、実際に広島の被爆者を中心にした、あるいは悲劇を中心にした考え方でやる運動は、少ないですからね。

丸木 山陰の松江で展覧会をやったときに、あそこにいる被爆者のおばさんたちがきてくれたんです。そうして、もう一人くるはずだったけど、今朝になってから、いやだって言いだして、こなかった。だけど、丸木さんによろしく伝えてくれっていうことだった、というんです。
 その人は顔にひどいケロイドがあるんだそうですよ。旦那さんが戦争にいってて、自分は広島で留守してたところへ原爆が落ちて、うんとひどいケロイドになって、戦争が終って旦那さんが戦地から帰ってきたんですけど、奥さんの顔を見て、あまりのひどさに、こわくなって、離縁になっちゃったんですね。しようがなくてニコヨンさんになって、流れ流れて松江まできたっていうんです。それで展覧会へいきたいけど、思いだすからいやだって。そういう女の人もいますからね。

新藤 ぼくも広島でそういう人に、たくさん会いましたよ。離婚ということまでいかなかったけれども、夫婦でいっしょに町を歩かないとか、子どもの運動会にもいかないというんですね。
 顔にひどいケロイドをのこした女の人が、わたしは裏山へいって落葉拾いをするときが一番いい。たった一人で松葉なんかをかき集めてるときだけ、気持が休まる、というようなことを話しておられたですがね。こういう人は町へ出て叫びもしないし、ひっそりと我慢しよう、という生活をしてるわけです。こういう人たちの代りに、だれかが訴えてあげなきゃいかん、という気がするんですよ。

丸木 そうです、そうです。

新藤 そんな悲劇が、まだ無数にあるんですからね。


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新藤監督のご冥福を、心からお祈りいたします。

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なお、6月24日(日)には、東松山・「一枚のハガキ」を観る会主催により、松山市民活動センターホール(このホールには、丸木夫妻の《平和のやまんば》の緞帳がかかっています)で、新藤監督の遺作となった『一枚のハガキ』が上映されます。



時間は、午前10時、午後2時、午後6時からの3回上映。
前売券1,000円は、丸木美術館受付でも販売しております。
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2012/5/26

池田龍雄展オープニング  企画展

いよいよ「福島から広がる視点1 池田龍雄展」がはじまりました。
池田さんの個展は、いつか丸木美術館で開催させていただきたいとずっと思い続けていたので、感慨深いです。

昨年3月11日の東日本大震災・福島原発事故発生の日、丸木美術館では、偶然のめぐりあわせですが、丸木夫妻とベン・シャーンの作品をならべた「第五福竜丸事件」展を開催中でした。
以来、5月には貝原浩さんの絵と本橋成一さん、広河隆一さんの写真で構成した「チェルノブイリから見えるもの」展、12月には広島と福島をテーマにした「Chim↑Pom展」と、この1年は核をめぐる芸術を紹介し続けてきました(9月の「追悼 大道あや展」でも、被爆後の広島で生えてきた巨大な粟の絵が展示されていました)。

その流れのなかで、今回の展覧会では、池田さんが一貫して見つめ続けてきた戦後社会の歪みと福島原発事故の連続性、という歴史的な視点を提示できたのではないかと思っています。
特攻隊体験からはじまり、環境問題、安保、9.11同時多発テロ、イラク戦争……
これまでの池田さんの個展では紹介されることの少なかった、丸木美術館ならではの池田さんの作品世界の一断面が見られると思います。

   *   *   *

午後2時からは、60人ほどが参加して、個展会場で池田さんの講演会が行われました。

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この世界のすべての生命はひとつにつながっている。
胎盤には原始の宇宙があり、目ざすもの、真のリアリティはそこにある。
それこそが、見えない心の奥底を見えるようにする超現実の世界である……というお話を、非常に興味深く聴きました。

目の前の現実の社会の問題点を鋭く見つめながら、それを全生命・宇宙的な感覚でとらえて超現実的に視覚化するというのが、池田さんの続けてきた仕事なのだと、あらためて理解できたような気がしました。
展覧会は、7月7日(土)まで開催されます。
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2012/5/25

facebookについてのお詫び  その他

本日早朝、岡村とメールのやりとりをした履歴のある方へ、自動的にfacebookのご案内メールが送られてしまったようです。
私の不注意による誤操作が原因と思われますが、メールがどの範囲まで送られているのか、まったく把握できません。そのため、ブログ上でのお詫びをお許しください。
皆さまにご迷惑をおかけしてまい、本当に申し訳ありませんでした。
メールはそのまま削除して下さって結構です。
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2012/5/24

丸木俊展作品返却など  企画展

「生誕100年 丸木俊展」が無事に終わり、夕方、東京・調布の個人宅と、練馬区のちひろ美術館・東京をまわってお借りしていた作品を返却してきました。
途中、高速道路の工事による大渋滞で予定を2時間も遅れてしまいましたが、何とかまわりきることができて、ほっとしています。

ちひろ美術館では、「ドキュメンタリー映画公開記念展 ちひろ 27歳の旅立ち」(8月26日まで)を開催中。
返却のあと、少しだけ展示を見せて頂いたのですが、ちひろが丸木夫妻のデッサン会に通っていた当時のデッサンなども紹介されていて、なかなか興味深い内容でした。

   *   *   *

土曜日から開幕する池田龍雄展の準備も、事務局のYさんが看板を、M子さんがキャプションを作ってくれて、ようやく作業が終わりつつあります。
あとは初日を待つばかり。さっそく、いくつかの新聞社から取材の依頼を頂いているので、多くの人に伝わっていくといいなと思っています。

   *   *   *

今日は午前中に東京新聞社会部のH記者が来館。今年の夏に“非核芸術案内”というテーマで執筆させていただくことになりました。詳細は、後日あらためてお知らせいたします。

また、NHKさいたま局のSキャスターからも電話をいただき、6月13日(水)午後6時からのFMラジオ放送「日刊!さいたま〜ず」に出演させていただくことになりました。
こちらは、企画展「池田龍雄展」についてのご紹介です。
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2012/5/23

『朝日新聞』埼玉版に池田龍雄さん企画展紹介  掲載雑誌・新聞

2012年5月23日付『朝日新聞』埼玉版に、“福島原発事故3連作 池田龍雄さん企画展”との見出しで、26日から開かれる池田龍雄展の紹介記事が掲載されました。

以下、記事からの一部抜粋です。

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 池田さんは1928年生まれ。特攻隊員として敗戦を迎え、師範学校に進むが軍国主義者と見なされて教師への道を阻まれた。
 前衛絵画の道に進んでからは、「芸術は人々の意識に働きかけることによって間接的に世界を変えることができる」と、基地闘争、水爆実験、再軍備など社会性の高い作品を次々と発表してきた。丸木美術館恒例の「今日の反核反戦展」にも毎年出品している。

 今回展示されるのは、〈「蝕(むしばむ)―津波―」、「壊(こわす)―原発―」、「萌(もえる)―復興―」〉の3連作を始めとする約40点。東日本大震災前に描かれた《散りそこねた桜の碑》なども含まれる。


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いつも取材して下さる、K記者に感謝です。

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この日は、午前中から池田さん立ち会いのもとで、作品の展示作業を行いました。

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池田さんは、2010年に川崎市岡本太郎美術館などを巡回した大規模な個展を開催しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1501.html
しかし、今回は、その個展でも紹介されていなかった近作がずいぶん展示されました。
ご自身の特攻隊体験を作品化した《散りそこねた桜の碑》からはじまり、福島原発事故や9.11のテロ、イラク戦争など近代社会の歪みを主題にした作品、そして《場の位相》や《場の貌》などの、宇宙的な感覚の絵画世界。企画展示室は、かなり見応えのある空間になっています。

初日の5月26日(土)午後2時からは、オープニング企画として池田さんの講演会も行いますので、ぜひ、多くの方にご来場いただきたいと思っています。

   *   *   *

夕方には、神奈川県立近代美術館のM館長とN学芸員が来館されました。
来年度に企画されている展覧会への《原爆の図》貸出に関する打ち合わせです。
こちらも、たいへん楽しみな企画になりそうです。
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2012/5/22

ホタルの里整備  自然・生きものたち

朝9時から、地元の唐子地区で取り組んでいるホタルの里の整備活動に参加。
地元の方がたの顔ぶれは変わりませんが、これまで関わっていた市役所の職員は皆この4月に異動となり、丸木美術館も新職員となったYさんが初参加。
時は少しずつ変化していくのですね。

この日は、草刈りや竹林整備が中心でしたが、私とYさんは、ホタルの育つ池のまわりをめぐっている柵を修繕しました。

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写真は、古くなった竹の柵を、新しい竹に交換しているYさん。
1時間ほど経った頃、雨が降ってきたので作業は中止。
6月のホタルが飛び交う頃には、毎年恒例の「キャンドルナイト」のイベントを行います。
今年は6月16日の予定だそうです。
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2012/5/21

金環日蝕/地人会新社第1回公演『シズウェは死んだ!?』  他館企画など

休館日。
朝は息子が金環日蝕の全校観察のため6時半に小学校に登校し、妻と娘といっしょに自宅で日蝕を観察しました。
薄い雲がちょうど良いフィルターになって、きれいな金環を撮影することができました。

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太陽と月と地球がひとつの直線上にならぶことの不思議を目の当たりにすると、やはり心を動かされます。

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日蝕と両性具有者の神秘的な物語を紡いだ平野啓一郎の小説を思い浮かべたりもしました。

   *   *   *

夜は赤坂RED/THEATERで地人会新社第1回公演『シズウェは死んだ!?』を観ました。
南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離政策)時代の差別に苦しむ黒人たちの姿を描いた作品です(公演は5月31日まで)。

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初演は1972年、南アフリカ。当局の検閲を避けるため、当時は台本もなく、劇作家のアソル・フガード(白人)と俳優のジョン・カニ、ウィンストン・ヌッショナ(ともに黒人)が共同で作りあげた戯曲は、すべて暗記だったそうです。

舞台は、ポートエリザベスの黒人居住区にある小さな写真館。館主のスタイルズは、白人に搾取されるフォードの工場を辞し、独力で生きる道を選びました。そこへ、「ロバート・ヅヴェリンジーマ」と名乗る男が、田舎の妻に送るための写真を撮りにやってきます。彼の本当の名はシズウェ・バンシ。カメラのシャッターが切られた瞬間、シズウェの回想がはじまります。
なぜシズウェ・バンシは、ロバート・ヅヴェリンジーマとなったのか。
彼の個人的な視点で語られる、ごく日常的な生活の出来事が、差別という普遍的な問題を照らし出します。
そして、人間の尊厳とは何か、「生きる」ことの意味についても、深く考えさせられるのです。

名もなき市民の肖像写真が、リアルな歴史の一断面をあらわにする、という意味では、今年の夏に丸木美術館で開催する新井卓さんの銀板写真を連想する部分もありました。

戦争や公害という目に見えやすい“暴力”だけでなく、差別や偏見という目に見えにくい“暴力”も世界にはたくさんあります。そうした“暴力”に、正面から“暴力”で対抗するのでなく、物語や芸術表現によって少しずつ人の心を内側から変えていくことの意味についても、あらためて考えさせられました。
私たちの住む世界は、簡単に白と黒に塗り分けられません。
だからこそ、“日々の生活の中のちょっとしたことを個人の視線でとらえて描く”ことで見えてくるもの、広がっていく想像力を、大切にしていかなければならないと思うのです。

演出は鵜山仁、出演は嵐芳三郎と川野太郎。川野太郎は、体調不良により降板した渡辺徹の代役でしたが、二人の息の合った熱演は見事でした。
演出助手を、丸木美術館のボランティアでもある文学座の神田成美さんが務めています。
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2012/5/20

企画展展示替え「特集・丸木俊」  ボランティア

好評だった「生誕100年 丸木俊展」も無事終了。
この日は8人のボランティアの方々が参加して下さり、展示替えの作業を行いました。
常設展示の《原爆の図》も、久しぶりに14部すべてがそろっています。

企画展は終わりましたが、今年は何といっても俊さんの生誕100年なので、2階の展示室では、規模を縮小して丸木俊特集展示を継続することにしました。

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丸木美術館の所蔵作品を中心に、企画展では展示していなかった絵本原画や油彩画もならべています。こじんまりとした展示ではありますが、俊さんの絵画世界をお楽しみいただければと思います。
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2012/5/19

1950年「原爆の図展」新資料の発掘  1950年代原爆の図展調査

なかなか整理する余裕がなかったのですが、このところ、1950年代の国内外の原爆の図巡回展に関する新しい資料が出てきています。
大きな“発見”というわけではないのですが、これまでの調査を裏づけるような貴重な資料なので、少しずつご紹介していきます。

まずは、京都大学新聞社発行『學園新聞』1950年7月10日・17日号の特集「よみがえる傷痕」に掲載された水沢澄夫による“胸打つ戦争憎悪の響き”という評論。

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美術批評家の水沢澄夫(1905-1975)は、最初の《原爆の図》が発表された1950年当時、日本美術会の書記長を務めていたようです。
《原爆の図》に関する従来の記録や評論のなかには、この文章に言及しているものは、おそらくないのではないでしょうか。存在そのものが埋もれていた文章だと思います。

記事には、《八月六日》(現在の原爆の図 第1部《幽霊》)の全体写真が掲載されています。
《原爆の図》は三部作完成後に広島で軸装されるのですが、この写真は、軸装前の表装を記録した貴重な一枚。興味深いのは、作品が額装されているように見える点です。
丸木夫妻は、当初《原爆の図》は仮張りの状態であったと回想しています。
横幅720cmの大画面を分割せずに額装していたのでしょうか。持ち運びは相当大変そうです。

少し長くなりますが、以下に記事の内容を抜粋します。

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 四五日前の夜、彼女の勤め先の新聞社から、たのんであつた「八月六日」の複写写眞を持つてかえつたときの妻の話。
 いまね、市場の八百屋さんに寄つて買物をしたのよ。そのついでに八百屋の若い人たちに写眞を見せたらね、「うわあ、こりやすげえや」と大声をあげたので、お客さんやそこらの人たちまで集つて來て、「だけど、すこし大げさすぎるようだね」なんていう人もいたから、「この画かきさんはね、原爆三日後ヒロシマへ行つて、それから何百枚も写生して、それでこういう画ができあがつたんですつて。だからうそはちつともない、ほんとにこのとおりだつたつて」と説明したら、みんな、「やりきれねえな。戦争はまつぴらだね」とうめくように言うのよ」。


(中略)

 この作品はさる二月、東京都美術館で開かれた第三回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出陳された。そしてさらに四月、これは私がすすめて敢えてふたたび、日本橋丸善画廊での「原爆の図」展に出してもらつた。上野の美術館へは行く人も限定され、こういう作品は街なかでできるだけ多くの人に見てもらわなければならぬと思つたからである。はたして丸善画廊はじまつていらいの連日満員、いつ行つても画廊いつぱいの人人人であつた。このときは「八月六日」とともに、百数十点の、この作品の土台となつたデッサン、およびさらに第二部作の「夜」の一部が出陳された。私は分量的に全「原爆の図」の約三分の一程度見ているわけである。そういう程度の立場に立つて、この作品についてものをいうべきであろう。

 ×   ×

 訂正されたにしても、素人評の一部にあつた「大げさすぎるようだ」という言葉、それはいわゆる玄人がわにもある。エロ・グロだというような言葉は批評以下としても「内容と表現とのあいだに問題がある」とか「レアリズムに徹していない」とか、そういつた批評である。構図にしまりがたりなかつたり、部分的には人体のデッサンがくるつていたりする点はたしかにある。それはたぶん、一言でいえば「伴大納言絵詞(えことば)」の構図や「病草紙(やまいそうし)」のレアリティには及ばないというような事であろう。けれども作者たちは、なぜ油画的表現をえらばないで、日本画的材料をえらんだのだろうか。私はここに、うちわにうちわにと表現することによつて逆にふくむところ多かろうとする、作者たちの一つの野心――彼らの世界観の上にたつ古くてしかも新しい美の創造――の片鱗を見るのである。

 彼らは第二部第三部へと精進をつづけている。そしてそれらはさらに何べんか描きあらためられるだろう。私は現在の『八月六日』にあらわれたもろもろの欠点をつくよりも、これが共同制作であること、二人の作者の成長によつて作品が着々と成長してゆくであろうこと、そこに期待をもつべきだと考える。何よりも、こういうテーマとつつくんだこと――他のどの作家がそれを成し得たか――、すでに五年のとしつきをこれについやしていること、それはわが國の美術界として稀有なことであり、そこに新しいものの創造を期待していいことではないだろうか。「五年経つた。わたしたちは何をしていたのだろう。戦争の痛手にまだ戸惑つていたのだろうか。そうして今原爆の悲しみをさえ忘れようとしている……」自らをそしてお互いにはげましあいながら、丸木・赤松の両氏は制作をつづけているのである。

 『きけ、わだつみのこえ』を見た観衆は、戦争の非人間性・惨忍さに胸つぶされる思いで映画館を出てしばらくは口もきかない。けれども翌日、またその翌日、だんだんとうすれてゆくものを感じ、ストーリーの手薄さや映画技術の安易さが氣になつてくる。『屍の街』を読んだ人は、豊富な素材が、これは作者みずから釈明しているところでもあるが、文学作品としては十分にまだ熟していず、生かされていないものを感じる。

 「八月六日」はその点、いろいろな欠陥をもちながら、私たちのうちにいつまでも一種のやりきれなさをのこす作品である。これは映画や文学と画とのちがいだけではなさそうだし、また、私がいわゆる美術批評家であるからでもなさそうだ。それはたぶん二人の作家の手を組んだうちこみの強さと可能性とに関するものなのであろう。この作品を思いおこすたびに、私も亦、八百屋の若い衆のことばで「やりきれねえな、戦争はまつぴら」と思わずにはいられないのである。


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文中には「四月」とありますが、実際に日本橋丸善画廊で「原爆の図展」が開催されたのは1950年3月22日から25日のことです。
現存するガリ版刷りのチラシによると、主催は桃季会(日本美術会)、発起人には村雲大撲子、内田巌、後藤貞二、別府貫一郎、椎名剛美、水沢澄夫という美術家たちが名を連ねています。
広島県立文書館所蔵の今堀誠二文書「丸木・赤松『原爆の図』についての調査メモ」には、当初はこのメンバーで展覧会を行う予定だったものの、村雲が「個展にした方がよい」と勧めたため、「原爆の図展」に変更されたと記されています。
細かい経緯はともあれ、丸木夫妻の最初の「原爆の図展」に、水沢らが大きく関わっていたことは確かなようです。

《八月六日》が発表された日本アンデパンダン展では、日本美術会の機関誌である『美術運動』と『BBBB』誌上で、この作品が大きな話題となり、水沢が指摘するようにさまざまな批評にさらされています。
それに対し、水沢が「作者たちは、なぜ油画的表現をえらばないで、日本画的材料をえらんだのだろうか。私はここに、うちわにうちわにと表現することによつて逆にふくむところ多かろうとする、作者たちの一つの野心――彼らの世界観の上にたつ古くてしかも新しい美の創造――の片鱗を見るのである」と作品のあり方を積極的に評価している点は興味深いところです。

とりわけ、「私は現在の『八月六日』にあらわれたもろもろの欠点をつくよりも、これが共同制作であること、二人の作者の成長によつて作品が着々と成長してゆくであろうこと、そこに期待をもつべきだと考える。何よりも、こういうテーマとつつくんだこと――他のどの作家がそれを成し得たか――、すでに五年のとしつきをこれについやしていること、それはわが國の美術界として稀有なことであり、そこに新しいものの創造を期待していいことではないだろうか」という箇所、そして「「八月六日」はその点、いろいろな欠陥をもちながら、私たちのうちにいつまでも一種のやりきれなさをのこす作品である。これは映画や文学と画とのちがいだけではなさそうだし、また、私がいわゆる美術批評家であるからでもなさそうだ。それはたぶん二人の作家の手を組んだうちこみの強さと可能性とに関するものなのであろう」という箇所を読むと、まるで現在の視点から《原爆の図》の持つ意味をとらえているようで、同時代にこれだけ作品を正当に評している批評家がいたのか、というのは本当に新鮮な驚きでした。

   *   *   *

そしてもう一点、重要な資料が発掘されたのでご紹介します。
1950年10月に広島市の爆心地・五流荘で開催された「原爆の図三部作展」のチラシです。

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丸木位里 赤松俊子 兩畫伯共同製作
原爆之圖三部作展覽會
日時 十月五日、六日、七日、八日
會場 爆心地 元五流荘 文化會館
主催 廣島美術鑑賞會

原爆から五年たちました。八月六日を中心に、東京の丸善畫廊と三越で開かれたこの原爆の圖展は、九万の入場者を迎えて、東都の人々の魂をゆさぶり泣かせました。
廣島の現實を傳えた歴史、悲しくも香り高いこの作品は、近くアメリカえ出版されることゝなり、ヨーロッパの展覽會にもまねかれている問題作であります。
製作過程は文化ニュースとして既に廣島でも上映されましたのでおなじみの方も多いと思います。
外國や東京、それよりも何よりも地元、廣島の皆様にみていたゞき、強くその御批判をいたゞきたいという兩氏の願いと鑑賞會の希望が一致して、開催のことゝなりました。
廣島の皆様お誘い合せておいで下さいませ。


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このチラシが現存するとは思っていませんでしたが、丸木夫妻が原爆の図海外巡回展の際に関係者に宛てた書簡を集めた袋のなかから出てきたのです。
五流荘展には、峠三吉らの詩人サークル「われらの詩の会」が深く関わっています。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/904.html

五流荘は1947年頃、茶華道の発展を意図した建築主・梶尾健一によって建てられました。
当初は茶室や住まいが建てられましたが、やがて大きな集会場や客間が増築されました。
本来はそれらの集合が五流荘なのですが、一般には棟高5.5m、広さ40坪の三角屋根の大きな集会場を五流荘と読んでいたとのこと。
のちに小島辰一が居住し「広島爆心地文化研究所」と名付けて、平和運動などに極めて開放的に使われていたようです。
チラシに「元五流荘」とあるのは、「原爆の図展」の頃にはすでに「爆心地文化研究所」あるいは「爆心地文化会館」に名称が変わっていたことを示しているのでしょう。

チラシの内容で注目すべきは、「製作過程は文化ニュースとして既に廣島でも上映されましたのでおなじみの方も多いと思います」という箇所。
1950年の時点で、丸木夫妻の《原爆の図》製作過程を記録した映像があったようです。
現在知られているもっとも初期の映像は、1953年公開の今井正・青山通春監督の記録映画《原爆の図》ですが、チラシにある「文化ニュース」のフィルムは、どこかに残っているのでしょうか。
残っていれば、ぜひ実見してみたいのですが……
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2012/5/17

『美術手帖』6月号「日本近代美術の傑作150」に丸木位里紹介  掲載雑誌・新聞

『美術手帖』2012年6月号の特集「頂上バトル!日本近代美術の傑作150」に、丸木位里《ラクダ》(1938年、広島県立美術館蔵)が紹介されました。

豊田市美術館の天野一夫さんが文章を寄せて下さっています。
以下は、文章の冒頭部分からの一部抜粋。

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 画面を描いた後に洗っているのであろう、生な描線は霧散していて細部は見えず、また対象を横に描き、感情移入しにくい形にしている。画家の視線は、文学的な興味も、異国趣味も通過して、その不可解にして大きい茫洋とした塊りのような存在自体に届こうとしている。ここでは2頭のラクダが一体化して奥行きの浅い画面を形成しているのを強調するように、コブを特徴とするその形態の曲線は、尾の描く弧とともに、画面を横ざまに描く。同様に表面的な装飾性や華美さとは別の美を探求していた洋画家・靉光とともに、画家は毎日のように上野の動物園に通っていた。作家の言葉によればこの作品は靉光の手も入っている絵であるという。

(以下略)

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丸木位里の他にも、靉光や川端龍子、中村正義、野見山暁治、福沢一郎、山下菊二など、ゆかりの作家が数多く紹介されています。
とても読み応えのある特集記事です。
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2012/5/16

池田龍雄展作品集荷  企画展

今日は、新緑の眩しい軽井沢の山麓の池田龍雄さんのアトリエへ作品の集荷に伺いました。

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油彩画やポスター、半分立体のようなレリーフ状の作品など、全部で32点。
無事に丸木美術館まで搬送いたしました。

池田龍雄展は、5月26日(土)から7月7日(土)まで開催予定です。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2012/2012ikeda.html

福島原発事故を主題にした《蝕・壊・萌》三連作を軸に、戦争や社会の歪みを表現してきた池田さんの近年の作品を紹介しながら、現代文明が抱えている問題をとらえなおす企画です。
初日の5月26日(土)午後2時からは、オープニング企画として、池田さんの講演会も行います。
ぜひ、多くの方にご来場頂きたいと思います。
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2012/5/15

川越スカラ座『誰も知らない基地のこと』上映のお知らせ  川越スカラ座

今日は沖縄復帰から40年という節目の日。
昨日のNHK国際放送局の佐喜眞美術館からの中継をはじめ、いまだ変わらぬ米軍基地の状況にフォーカスするさまざまな企画が行われています。

さて、今回は私がボランティアで関わっているNPO映画館・川越スカラ座のお知らせ。
今週末の5月19日から6月8日まで、『誰も知らない基地のこと』(エンリコ・パレンティ、トーマス・ファツィ監督、2010年、イタリア)の上映が行われます。

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世界の国々に700以上の軍事基地を持つアメリカ軍が基地周辺で起こすさまざまなトラブル、アメリカ軍の衝撃の事実を取材した社会派ドキュメンタリー。コソボのアメリカ軍基地内部での撮影、さらにはアメリカ軍に対して住民が声を上げているイタリア・ビチェンツァとディエゴ・ガルシア、沖縄県の普天間を取り上げる。取材には住民たちのほかに、アメリカの思想家ノーム・チョムスキーなど識者もインタビュー映像で出演。世界の各地域の事情を背景に、またさまざまな角度から、住民に及ぼすアメリカ軍の問題や軍産複合体の裏側をつまびらかにしていく。

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6月2日(土)16時45分からの上映終了後には、ゲストに沖縄戦を指揮した牛島満司令官の孫にあたり、沖縄の米軍基地問題に取り組んでいる牛島貞満さんをお迎えして、トークイベントを行います。
牛島さんは、1959年に起きた宮森小学校への米軍機墜落事故(児童ら17人死亡)を語り継ぐ活動に精力的に取り組まれている方で、「軍隊は住民を守らない」という視点から、沖縄の基地の現状を語って下さいます。

ぜひ、多くの方にご来場頂きたい企画です。
お問い合わせは川越スカラ座(電話049-223-0733)まで。
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2012/5/14

NHK WORLD「NEWS LINE」に佐喜眞美術館が紹介  TV・ラジオ放送

本日のNHK WORLDの海外向け英語ニュース番組「NEWS LINE」で、沖縄本土復帰40年特集の第1回として、普天間基地から返還された土地に建つ佐喜真美術館から生中継がありました。
丸木夫妻の共同制作《沖縄戦の図》の紹介や佐喜真道夫館長のインタビューが行われています。国内ではインターネットでしか見れませんが、1時間ごとに繰り返し放送されています。
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/r/movie/
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2012/5/11

清澄画廊/Galerie Or・Terre「靉光展」/KEN被爆ピアノコンサート  他館企画など

今日は午前中に都内私立女子校の団体250人に館内説明をしたあと、埼玉県立近代美術館へ伺い、午後1時半から学芸員のOさん、デザイナーのYさんと打ち合わせ。
2008年夏に埼玉県立近代美術館で開催した「丸木スマ展」の図録を再編集して丸木美術館から画集を刊行する計画が進行中なのです。
丸木美術館ではほとんど図録や画集を刊行する機会がないので、お二人には基本的なところから丁寧にアドヴァイスを頂いています。本当にありがたい限りです。
画集の刊行は、夏頃には……と考えていますが、見通しが立ち次第お知らせいたします。

   *   *   *

その後は、銀座の清澄画廊に移動して、友人の谷口幹郎さんをはじめ4人の画家が出品されているグループ展「NOUS ALLONS」を覗きました。

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谷口幹郎さんは、2007年1月に丸木美術館アートスペースで個展を開催して下さっています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/594.html
今回の展示は、2007年の個展出品作を含むナスカの地上絵を主題にした作品2点。
近年は体調面の問題もあって、あまり発表をしていない谷口さんですが、久しぶりの展覧会に表情も明るく、少し安心しました。

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続いて訪れたのは、京橋のGalerie Or・Terreで開催中の「靉光展」。
画廊主のIさんから丁寧なご案内を頂いた展覧会です。会期は5月11日(金)、12日(土)、18日(金)、19日(土)、21日(月)〜26日(土)と不定期なので要注意。

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田邊哲人コレクションから靉光の油彩画を中心とする20点の小品が展示されていました。
靉光が画家として活躍した時期は、ほぼそのままアジア・太平洋を舞台にした15年戦争に重なり、少なからぬ作品が戦災で焼失していることもあって、なかなか全貌を知ることができません。

今回の作品は、菊や向日葵、椿、葉鶏頭、薔薇、菖蒲などの花を主題にしたものが多いのですが、中でも興味深かったのは、1936年制作の《花》という油彩画でした。
キャンバスの裏面右枠に添付された貼り紙には、「靉光芸州展 花 昭和丙子年秋日 佐伯卓造」と記されており、佐伯卓造の世話によって広島県産業奨励館で開催された第1回藝州美術家協会展(1936年11月22日−26日)の貴重な出品作のひとつと思われます。

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また、靉光と交友の深かった寺田政明の旧蔵作《寓意》(画像は展覧会案内ハガキより、49.9×18.0cm、板・麻布張り・油彩・蝋画法、1933年頃、画題は寺田によってつけられたと思われる)は、靉光らしい細密な描写による独創的な表現の蝋画で、非常に見応えがありました。この一点だけでも、足を運んだ価値があったと思うほどの魅力的な作品です。

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午後6時からは三軒茶屋に移動して、7月15日から丸木美術館で個展を行う銀板写真家・新井卓さんと展覧会の打ち合わせ。

そして、午後7時半からは、KENで行われた被爆ピアノコンサートを聴きました。

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広島の爆心地から1.8kmの民家で被爆したヤマハのアップライトピアノ(ミサコのピアノ)を、ピアニストの崔善愛さんが弾き、女優の斉藤とも子さんが朗読を行うという企画です。
こじんまりとした地下の会場は大入り満員。
最初の曲、崔さんの熱情がほとばしるようなベートーベンのピアノソナタ第14番(月光)がはじまると、まず、ピアノの音色の豊かさに心を揺さぶられました。
当時のピアノはひとつひとつの部品が職人の手作りで、そのせいか、響く音の密度が濃いように思えるのです。マイクなどは一切使っていないのに、音量も非常に大きく感じられます。

続いて、ショパンの練習曲作品「エオリアン・ハープ」、歌曲「願い」が演奏されました。
かつて「外国人登録」の指紋押捺を拒否して米国に留学し、再入国不許可・特別永住権剥奪という経験をされた崔さんにとって、故国ポーランドを失ったショパンは特別な作曲家です。
以前にもKENで開かれた崔さんのショパンのコンサートを聴かせて頂いたことがありますが、たいへん感動的な内容でした。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1751.html

さらに4曲目は高橋悠司作曲の「光州 1980年5月」。
韓国で起きた民主化運動と政府の弾圧「光州事件」を題材にした作品です。
そして話題は日本と朝鮮半島の植民支配の歴史へ。
斉藤とも子さんが登場し、吉林(中国東北部)生まれで羅清(朝鮮北部)育ちのお父さまが、敗戦後に10ヶ月かけて朝鮮半島を逃げのびて帰国したときの体験を描いた手記を朗読されました。
侵攻してきたソ連軍に追われ、家族とも離れ離れになり、何度も生命の危機に立たされながら、(それまで日本人から差別を受けていたはずの)朝鮮の人びとの情けの深さに救われて帰国することができたお父さまの、「国家や民族や主義などの壁を越えて、思いやりの心は人を生かす」と結ばれた手記は、非常に心を打たれるものでした。

休憩をはさんで後半は、崔さんと斉藤さんのトークを中心にしながら、オリヴィエ・メシアンの「交わり」のピアノ演奏と「ちちをかえせ」で知られる峠三吉の原爆詩集の「序」の朗読。そしてグリークの「アリエッタ」のピアノ演奏と堤江実の詩「自由」の朗読、再びショパンの「バラード」のピアノ演奏といった具合に、詩と朗読を組み合わせたプログラムが続きました。

崔さんも斉藤さんも、お父さまが、立場は異なるもののほぼ同時期に、戦後の混乱期の朝鮮半島を北から南に逃げのびて、日本にたどりつくという体験をしていたそうです。
お二人は生まれながらにして日本と朝鮮の複雑な歴史を背負われていたわけですが、しかし、自分の体験ではないので重みを実感できない、と口をそろえておっしゃっていました。
(余談ですが、「親子というのは不思議なもので、父の苦労話は子どもの心に響かない」とさらりとおっしゃる崔さんの言葉は、ユーモアのなかに真実味があり、会場の笑いを誘っていました)
しかし、その歴史をくぐり抜けて、お父さまが生きのびたからこそ、今お二人がここに生きている、というのも確かなのです。「語り継ぐ」ということは、まず「生命をつなぐ」ということなのだと、あらためて考えさせられました。

「被爆ピアノ」という過酷な物語を背負った楽器の存在が媒体となって、日本とアジアの複雑な歴史に視線が広がっていくことの不思議を感じつつ、あるいはそれも必然なのではないかという思いも味わいました。お二人のトークの内容は、丸木夫妻の共同制作の長い歩みにも重なるようにも思われたのです。

崔さんと斉藤さんによる被爆ピアノコンサートは、7月15日(日)午後2時から丸木美術館でも開催されます。
一般2000円(当日2300円)、18歳以下1500円(当日1800円)
※美術館入館料含む、丸木美術館友の会会員は各500円引き

http://www.aya.or.jp/~marukimsn/event/others/20120715hibakupiano.html

ぜひ多くの方にお聴き頂きたい、素晴らしいコンサートです。
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