2012/4/15

李徳全来日と赤松俊子の《鳩笛》  1950年代原爆の図展調査

少し前に、早稲田大学の幻灯研究プロジェクトのWさんから、神戸映画資料館での幻灯資料調査にあたっていたところ、1954年の紅十字会代表の李徳全の来日を記録した『平和のかけ橋—李徳全女史一行来訪記録』(おそらく1954年製作、日本幻灯文化社)という幻灯作品のなかに、赤松俊子(丸木俊)の登場する一枚があったとの報告を頂きました。

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(15)赤松俊子さんの鳩笛の絵
ふるさとの鳩よ、日本の婦人の平和の願いをこめて平和平和と鳴け・・・・・・
赤松俊子さんは、東北弘前地方に残る郷土芸術、鳩笛に日本女性の姿をたくして
喜びと感謝の真心こめてこの絵を送りました


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東京都日中友好協会のKさんのご教示によれば、1954年10月30日から11月12日にかけて、李徳全会長を団長、廖承志顧問を副団長とする中国紅十字会代表団が日本を訪問しました。
この代表団は、日本赤十字社・日中友好協会・平和連絡会の三団体の招請によって来日したもので、1949年中華人民共和国が建国されてから初めての正式訪日代表団だったそうです。

その年の9月には、中国文化学術視察代表団(安倍能成団長)が訪中して周恩来総理と面会し、10月には日中・日ソ国交回復国民会議(風見章理事長)が結成されるなど、日中国交回復に向けての機運が広がっていましたが、この中国紅十字会代表団の訪日によって日本各界との幅広い交流がはじまり、その後の民間レベル、政治・経済レベルでの日中関係の発展や、中国残留日本人・戦犯未帰還者の帰国が促進されるなどのきっかけとなりました。

 代表団一行のメンバーには、廖承志副団長をはじめ、肖向全、楊振亜、呉学文などの日中友好関係でその後大きな足跡を遺した要人が含まれていました。東京・京都・大阪など、各地で熱烈な歓迎を受け、なかでも11月6日に大阪市内の扇町公園で開かれた西日本歓迎大会では、会場内に3万人、場外に1万余人があふれ、各新聞はそれを“李徳全ブーム”と呼んだそうです。

私も当時の新聞を調べてみたのですが、たしかに大きく取り上げられていて、李徳全らの来日が社会的な現象を起こしたことが伝わってきます。しかし、彼女に赤松俊子が鳩笛の絵を送ったという記録は登場せず、丸木夫妻の回想にも出て来ないので、幻灯の記録が今のところ唯一の証拠のようです。

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丸木位里・赤松俊子画文集『ちび筆』(1954年3月1日、室町書房)のなかに、「鳩笛」と題する印象的な随筆が収められています。
1953年6月の第2回世界婦人大会に、俊子が日本代表の副団長として参加し、壇上で挨拶をする機会を与えられたときの体験を記したものです。

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 挨拶のあと何を贈りものにしたらよいのでしょう。あわてふためき、汗にまみれたまま出発したのです。なにもないのです。でも何か贈らねばなりません。わたしはトランクの中をひっくりかえしました。原爆の被害写真が出てきました。原爆の科学の本が出てきました。幻燈が出てきました。これ等一切を贈りましょう。日本の悲しい姿のはじまり、そうして、この原爆から今日の基地、パンパン、浮浪者、失業者が続いているのですから、それは必ず見てもらわねばなりません。
 だが、あの宝石のような、心温まる贈りものはないでしょうか。トランクの隅から鳩笛が出て来ました。可愛いい鳩笛です。土の香のある鳩笛です。これは、出発の前日、弘前の女の人がとどけて下さった玩具でした。そうだ、これにしよう、と私は壇上に登りました。わたしは日本語で話しました。五ヵ国語に訳されて同時に放送されていきます。そうして挨拶を終えると鳩笛を取り出しました。みんな何だろうと見ています。鳩笛の首に字が書いてあります。それを朗読いたしました。
 『平和のために倒れたリツ子と共に、世界婦人大会にこの鳩笛を贈ります。郷土の鳩笛よ、リツ子の魂こめて、平和平和と鳴け、世界の果てまで。息子の嫁、リツ子の母、山本梅子』
と書いてありました。そうしてわたしは鳩笛を吹いたのです。
 『ホーホー』
 二声です。
 会場は拍手、立ち上って。泣いている人もありました。会長マダム・コットンさんのところへ鳩笛と原爆の資料を持って行きました。
 『宝石はなかった。立派な品物はないのです。でも、日本の女性の気持をおくみとり下さい。日本の女は、嫁も姑も、もう争うことをやめ、心を合せて平和のために働きはじめました』と、まごころ込めて渡しました。
 マダム・コットンは、鳩笛といっしょにわたしを抱いて下さいました。泣けて泣けて仕方がありません。今抱かれているのは、わたし一人ではないのです。日本のすべての女性なのです。ぼう然としているわたしの頬へチュッ、チュッと、右と左へ接吻をして下さいました。わたしはのぼせてしまって、拍手してくれていることも忘れてしまっていました。こんどはデンマークの代表のルースハーマンさんです。ルースハーマンさんも鳩笛といっしょに抱いてキッスをして下さいました。こんな、接吻などというものは生れてはじめてです。おかえしの感謝接吻をしなければならないのに、わたしはつっ立っているばかりです。こんどは中国代表の李徳全さんです。李徳全さんも鳩笛とわたしをいっしょに抱いて下さいました。東洋人だから抱くだけだろうと思っていたら、チュッ、チュッとキッスです。わたしはびっくりしてしまいました。


(『ちび筆』pp.242-245)

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こうした関係があったために、翌年に李徳全が来日した際には、俊も再会し、自作の油彩画を贈るという運びになったのでしょう。

この随筆には、俊が鳩笛と出会った経緯についても記されています。
それによれば、俊が世界婦人大会に旅立つ直前に、山本梅子と名乗る中年の女性が訪ねて来て、ヨーロッパの土産にと鳩笛を託したのだそうです。
梅子は、「原爆の図展」が弘前で開催(1951年6月16日から18日まで、弘前市かくはデパート5階)されたときに、俊が慰労会で出会った若い夫婦の母親だといい、嫁のリツ子が、その後、貧しさのなかで病気で亡くなってしまったと知らせてくれたのです。

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 『覚えています、覚えています。真赤な頬、リンゴの頬の津軽美人だった……』
 『平和活動というのはなまやさしいことではなかった。貧しさと闘いながら、彼女は病を得て死んだ……。せめて、息子の嫁のためにと、鳩笛に姑の願いをこめて、コペンハーゲンへ持っていって頂いたのです』
 日本のあちこち、世界婦人大会の模様を話して歩きました。世界の女性は手を握り合いました。平和のためにつながりました。日本女性の願いも同じ、この鳩笛を吹きました、と。
 鳩笛を吹きながら、弘前へ行きました。弘前の人人がびっくりしました。
 『わたしたちの郷里にそんなものがありましたか』
 『全く良い声の鳩笛です。そんな立派な郷土芸術があったのか』
と、放送局がホーホーと鳩笛を吹いて放送してくれました。
 それから、東京に帰った或日、山本さんが訪ねてくれました。
 『弘前のリツちゃんのほんとうのお母さんが、泣いてあやまりに来ました。わたしが悪うございました。あなたがそんなにわたしの娘のことを思っていてくれたことは知りませんでした。こんど、はじめてわかりました、と』
 『わたしはこれで満足です。嬉しうございます。――リツちゃんは他へ嫁にいくことになっていたのです。リツちゃんの家は金持ですから、リツちゃんは美人でしたので、やっぱり弘前でも指折りの家へ決めたのです。その結婚式の前の日にリツちゃんはわたしの家へ逃げて来たのです。山本の息子が誘惑したと、怒り続けていました。そうしてリツちゃんが死んだので、それ山本の赤がわたしの娘をとうとう殺してしまったと言っていました。鏡もない二人。わたしは鏡台とたらいを買って送ってやりました。二人はその鏡台もたらいも使わずに、結婚の用意をする人に売ったというのです。売った金がまた手に入らない。きっとその人も金に困った人だったのでしょう。また、あなたはおなかがすいている。顔にかいてある、といってリツちゃんは、平和活動家の若い人たちに自分たちは食べずに食べさしていました。ほんとうにやさしい娘でした、嫁でした。生活に疲れ活動に疲れて死んだのです。
 せめてリツちゃんのお墓に地蔵さんでも建ててやりたい、と思っていたのです。貯金が六千円貯まりました。でも地蔵さんより鳩笛にしました。それだけみんな鳩笛を買いました。その鳩笛を、一軒一軒売って歩いています。平和の願いをこめて、民族のほこりをこめて』
 津軽弁のたどたどしい言葉です。わたしは鳩笛を吹いている山本さんの肖像を描くことにしました。日本の鳩笛、郷土の鳩笛を吹く日本の婦人を。


(『ちび筆』pp.248-250)

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おそらく、この山本梅子の肖像が、李徳全来日の際に俊が彼女に贈った油彩画だったのではないでしょうか。
俊はこの頃、他にも若い娘や外国の婦人をモデルにした《鳩笛》の作品を残しています。

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鳩笛(1956年、原爆の図丸木美術館蔵)

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鳩笛(1960年第13回日本アンデパンダン展出品、個人蔵)

この2点は今回の「生誕100年 丸木俊展」にも出品しているのですが、最初に描かれた《鳩笛》は、李徳全の手に渡って、中国へと運ばれていったことと思われます。
現在は所在がわかりません。

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李徳全(1896-1972)は、牧師の娘に生まれ、抗日戦争中から女性解放と託児所事業に従事し、女性の地位向上に尽力した方です。1949年4月には中華全国民主婦女連合会副主席となり、建国後は国務院衛生部長(衛生相)、中国紅十字会々長、中国人民救済総会副主任などを歴任しています。

また、フェリス女学院大学S教授のご教示によれば、位里と同じ田中頼璋門下で日本画を学び、俊と同じ女子美術学校を卒業している中国の女性画家・革命運動家の何香凝も、李徳全とはさまざまな因縁があり、ともに革命と内戦のただ中を生きながら、新中国建設に深く関わったということです。

幻灯に記録された一枚の油彩画から、激動の20世紀の歴史の一断面を見ることができました。
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