2012/4/12

ワタリウム美術館/田中三蔵さんお別れの会  館外展・関連企画

午後からワタリウム美術館で開催中の「ひっくりかえる展 ―Turing around―」を観に行きました。

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この展覧会は、アーティスト集団のChim↑Pomが企画したもので、社会のタブーや問題に対して真っ向から立ち向かい、社会の変革を目ざして行動する国内外の表現者を紹介するという挑戦的な内容です。

エレベータを上って展覧会の入口の2階へ行くと、まず最初に展示されているのが、丸木夫妻のコーナー。

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原爆の図が最初に発表された1950年、日本はGHQによる報道規制「プレスコード」の真っ只中で、原爆投下に対する表現もその対象であった。丸木位里・俊夫妻が全国各地100か所以上で行った原爆の図巡回展は、プレスコードの対象外であった「アート」による、原爆の惨事を伝える唯一のメディアでもあった。とはいえGHQにとって「面白くない」行為であることに変わりはなく、展示は関係者の逮捕など様々な障害のもとで行われたにも関わらず、巡回展の評判は口コミで広まっていき、ついに1か所で1万人もの観客を集めるまでになる。当時、原爆の図は「巻物」として並べて展示されていた。これは移動しやすさの追求であるとともに、「何か」が起きた場合素早く撤去出来る仕組みでもあった。

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こうした説明とともに、60年前に《原爆の図》を入れて全国を巡回した木箱が展示され、当時の記録映像が流れています。
社会に飛び出し、「アート」によって世界の変革を目ざした活動の先駆者として、丸木夫妻の仕事が“再発見”された格好でしょうか。
従来の丸木夫妻の展示とは趣きがずいぶん異なりますが、こうした形で新たな文脈で注目されることは、作品にとっても決して悪いことではないような気がします。

1952年8月の立川展会場の貴重な記録映像のなかで、《原爆の図》の説明を大きな身振りを交えて行っているのは、若き日のヨシダ・ヨシエさんです。
まだ美術評論をはじめる前、丸木夫妻のアトリエに寝起きしていたヨシダさんは、《原爆の図》を背負って各地を巡回したことでも知られています。
先日、近現代史研究者のKさんといっしょに、埼玉県内の病院に入院されているヨシダさんのお見舞いに行ってきました。
そのとき、先にワタリウム美術館の展示をご覧になっていたKさんから、「Chim↑Pomの展示では省略されていたけれど、《原爆の図》からChim↑Pomの間には脈々と続いてきた前衛美術の歴史があって、そこにずっと立ち会い続けてきたのがヨシダさんだったのね……」というお話を聞いて、ああ、まったくその通りだ、と思いました。
病院のベッドで横になっているヨシダさんは、顔色も良く、身体の具合も悪くないご様子でしたが、やはり少々元気をなくしているように見えました。
ヨシダさんの残してきた仕事を若い世代のアーティストたちにもつないでいかなければいけないと、あらためて感じています。

「ひっくりかえる展」では、この展覧会で初めて作品を知ったフランスのJRの洗練された表現が非常に印象に残りました。
ワタリウム美術館のWさんのお話では、JRは表現者として経済的にも自立し、作品の舞台になる貧しい国や地域への支援も積極的に行っているとのこと。これからもその活動には注目していきたいところです。

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午後7時からは、銀座東武ホテルで行われた「田中三蔵さん お別れの会」に参加。
朝日新聞の編集委員として、長年美術記事を担当されてきた田中三蔵さんが、2月27日に膵臓癌のために63歳で逝去されたのです。
田中さんが2004年に書いて下さった記事のことは、以前にもブログ「丸木美術館学芸員日誌」でご紹介させて頂きました。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1817.html

もうひとつ、田中さんがお書きになった記事で印象に残るのは、田中さんの仕事の集大成でもある「ニッポン人脈記 前衛バカ伝説」の連載で、2009年3月27日に取り上げて下さった丸木夫妻の記事です。

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平和への軍旗「原爆の図」”という見出しの記事に、田中さんは次のように記されています。

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 埼玉県東松山市。武蔵野のおもかげを残す林のなかに「原爆の図 丸木美術館」がたたずんでいる。
 焼けただれた肌がぼろ布のように垂れ下がる裸の女たち。幽霊のような人の群れ。朱色の業火、折り重なる屍……。見ているのがつらくなるほど、鬼気迫る絵が展示されている。
 「原爆の図」は、丸木位里と俊夫妻が半生をかけた15部の連作である。
 位里は広島で生まれた。上京して日本画を学び、戦前、シュールレアリスムの美術団体にも加わる。俊は北海道で育ち、東京で洋画家になった。
 1945年8月、丸木夫妻は被爆直後の広島に入る。位里の家族の安否をたずね、惨禍を目の当たりにした。
 原爆の絵を描かねば、そう思いたつのは3年後の夏の夜だった。「屍のにおいが風に流れていたひろしまの夜」がよみがえってきた、と俊は著書「女絵かきの誕生」に書いている。

 そのころ丸木夫妻のアトリエは神奈川県藤沢市にあった。美術評論家ヨシダ・ヨシエ(79)は近くに住んでいた。20歳すぎの文学青年だった彼は「掘っ立て小屋のようなアトリエ」で夫妻の仕事を見た。
 俊が人物を描くと、「リアルすぎる」と位里がいって、その上に墨を流して情感を与え、さらに俊が手を加える。2人が闘うような日々。
 ヨシダ自身も、俊の素描のモデルになる。裸になり、地面をひっかくポーズをとった。できあがった絵を見て「言いしれぬ寒気を感じた」という。
 50年、「原爆の図」初期3部作が完成した。ヨシダらは藤沢の旅館の広間を借りて展示した。もっと多くのひとに見てほしい。そう思っていたある日、丸木宅に居候していた画家志望の青年、野々下徹から声をかけられた。
「『原爆の図』を持って旅にでないか」
 ヨシダは野々下と絵を木の箱にしまい、ズックの袋に入れて背負った。2人は列車に乗り、各地で巡回展をひらく。寺、学校の教室や体育館、図書館。集まった人々に絵の説明をした。「新潟から鹿児島まで1年に100か所近く回ったかな」
 まだ連合国軍総司令部(GHQ)の占領時代。原爆の報道は統制されていた。「原爆の図」で初めて被害のすさまじさを知った、と驚く人が大勢いた。
 旅で絵が汚れ、傷んでも、俊は「平和への闘いの軍旗だからかまわない」といった。ヨシダは美術評論を書きはじめ、前衛の伴走者となる。


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記事はこの後、当時館長であった針生一郎の話に移り、「原爆の図と前衛の時代の風化」を打開する試みが紹介されます。
ヨシダさんへの取材の場には私も立ち会い、お二人の熱い対話の様子を間近に見ていました。

思えば田中さんは、Kさんのおっしゃるような《原爆の図》と前衛をつなぐヨシダさんの存在を、このときにしっかり記事に書かれていたのですね。
その慧眼に経緯を表しつつ、慎んでご冥福をお祈りいたします。

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写真は、「お別れの会」で頂いた、田中三蔵さんの似顔絵の入ったどら焼き。
このユーモラスな似顔絵は、秋山友徳太子さんが手がけたそうです。
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