2012/4/2

映画『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』  他館企画など

立川の映画館で、人生初の3D映画『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(ヴィム・ヴェンダース監督、2011年)をレイトショーで観てきました。

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2009年に急逝した舞踏家で振付・演出家のピナ・バウシュ(1940-2009)が作りあげた4つの代表的な舞台作品「春の祭典」、「カフェ・ミュラー」、「コンタクトホーフ」、「フルムーン」の再現と、ヴッパタール舞踏団の団員たちの断片的なインタビューを、ヴィム・ヴェンダース監督が3Dによる迫力ある映像にまとめた作品です。



ドキュメンタリ映画といいながらも、言葉による説明的な描写はほとんどなく、まさにピナの舞台のように、身体から身体へと共振するような作品。
3Dの映像技術とは、このように活用されるものだったのか、と強く心を揺さぶられました。

   *   *   *

ピナ・バウシュが舞踏団とともに丸木美術館を訪れたのは、2003年11月26日のことです。
日本国内の各地をめぐりながらさまざま体験をして、それを作品として昇華させるというプロジェクトの一環でした。
館内を案内してまわり、後日、さいたま芸術劇場で行われた公演に招待されて観に行ったという、ささやかな関わりでしたが、私の解説に静かに耳を傾け、言葉を選びながら、「このような困難のともなう作品を描きつづけた丸木夫妻の仕事に、心から敬意を表します」という感想を聞かせてくれたことは、今でもときどき思い出します。

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美術館を見終わった後、外の川を見下ろす椅子に座って手をふわりと上げれば、それだけでもう舞踏のような、周囲の空気に緊張をもたらす存在感のある方でした。

以下は、1999年に来日公演した際のプログラムに掲載された彼女の言葉からの引用です。
後からこの文章を読んで、私は彼女の精神性に強く惹かれたのです。

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舞踏団のメンバーには様々な国の人がいますし、
異なる人々が混在しています。
多様さの中に何らかの調和が生み出されるものなのです。
全世界がそうなのです。
すべて異なる「ものごと」によって構成されているのです。

身体を使って表現するのに沢山の
「ものごと」が色々の役割を果たします。
例えば草地(芝生)なら人々はその上を歩いても
人工的なものと異なり、
大きな音はしません。
特有の匂いがあります。
水に濡れた服は、
冷たく音をたてたり光を反射したりします。
何もかも全く違うように存在しているのです。
また土は汗をかいた身体に
さまざまな形でくっついてくる筈です。
感覚的な問題です。
それらのものは現実の自然と違い、
舞台の上につくられているのです。

私は自分の心の内にあるものを語り、
見せ、
外へ出そうとしているだけです。
それを上手に構成すること、
感じてもらうことはとても難しいと感じています。
というのも、それは言葉なしで、
動きでコミュニケーションすることに関わっているからです。
いつも「ものそのもの」によって
その背景に潜むものを感じ取らなければならないのです。
とはいえ、
本格的に具体的なこと、
唯一の尺度は、
一人一人が探している場所に行き着くこと、
そこである形式を見つける気持ちになることです。
ダンスは常に絶望や喜びから生まれます。
絶望から踊ることもあれば、
喜びから踊ることもあります。
私達は現在ある定まった時代の中で生きていますが、
まさにその中でダンスは生まれなければなりません。
これは決して大言壮語しているわけではありません。


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2012/4/2

炭鉱展「夜の美術館大学」講義録  1950年代原爆の図展調査

先日、2009年11月4日から12月27日まで目黒区美術館で開催された「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」の関連企画として行われた「夜の美術館大学」の講義録を頂きました。
川俣正、本橋成一、野見山暁二、岡部昌生、菊畑茂久馬、石内都ら錚々たる顔ぶれの講師による非常に興味深い講義の記録に加えて、「補講」として、昨年中止になった「原爆を視る展」の図録に本来は掲載される予定だった北海道近現代史研究者・白戸仁康さんの論考「GHQ占領下の「原爆の図」北海道巡回展 1951年10月28日-1952年5月1日」が収録されています。

人々の記憶の中に埋もれかけていた1950年代はじめの北海道巡回展を調査された白戸さんの仕事ぶりは、この丸木美術館学芸員日誌ブログでもたびたび紹介していますが、今回、あらためて白戸さんの論考から「はじめに」の部分を抜粋してその経緯をご紹介します。

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 2009年12月、原爆の図丸木美術館学芸員・岡村幸宣の論考「『原爆の図』全国巡回展の軌跡」の中で、1952年の北海道巡回展の一部についてもはじめて紹介された。丸木位里・俊夫妻が「原爆の図」五部作を帯同した道内5カ所の1951年巡回展については、俊もたびたび回想しているが、引き続き行われた52年の道内巡回展については触れていない。
 1952年の道内巡回展調査のきっかけは、2009年11月4日から12月27日まで目黒区美術館で開催された、「'文化'資源としての<炭鉱>展」の調査・準備で来道した正木基学芸員が、三菱美唄美術サークル共同制作「人民裁判事件記録画」の制作者の一人で札幌市在住の画家・平山康勝に取材中、一枚の子どもたちの小さな集合写真を“発見”したことにある。丸木美術館の岡村幸宣学芸員が、それが美唄展会場前で撮られたものと確認し、その後の調査の発端となった。
 2010年2月27日付『北海道新聞』も、丸木美術館の調査や取り組みの意義について報道し、51年の巡回展でも不明だった期日や会場もふくめ、様々な情報が寄せられた。その幾つかは、ネットのブログ「丸木美術館学芸員日誌」及び『丸木美術館ニュース』101号(2010.4.10)ほかでも随時紹介されたが、52年の巡回展が予想を遙かに超える広がりを持っていたことがわかってきた。
 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により日本はようやく連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)、実質米軍の占領政策から脱し‘独立’した。丸木夫妻が「全五部作」を帯同し、1951年10月から道内5カ所で開かれた巡回展は、翌52年1月以降も別なかたちで継続され、日本独立から3日後の1952年5月1日までの間に、さらに30カ所の地域で開催されていたのだ。
未解明の地域も残っているが、本稿ではあらためて、1951年10月28日から実質6カ月に及んだ道内巡回展の経緯や背景、各地の状況などについて概観する。


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以下に論考の見出しを書き出します。
これだけでも圧倒的な調査の充実ぶりが伝わるのではないかと思います。

はじめに
1 丸木位里・俊夫妻による北海道巡回展(1951年10月28日-12月2日)
 【室蘭展】
 【旭川展】
 【秩父別展】
 【札幌展】
 【函館展】
2 「全道くまなく原爆展をやろう!」―第二期北海道巡回展
3 空知地方産炭地を中心に―夕張市より赤平町
 【夕張展】
 【岩見沢展】【美流渡展】【幌内展】
 【美唄展】
 【砂川展】【上砂川展】
 【赤間展】【赤平展】【茂尻展】【豊里展】
3 狩勝峠を越えて道東拠点都市へ―帯広市より北見市
 【帯広展】
 【根室展】
 【釧路展】
 【網走展】
 【北見展】
4 道東から日本海岸、そして山間部―名寄町より沼田町浅野雨龍
 【名寄展】
 【稚内展】
 【留萌展】
 【浅野雨龍展】
5 南へ北へ、太平洋岸から再び内陸部へ―小樽市より幕別展
 【小樽展】【余市展】【大和田展】
 【浦河展】【静内展】
 【深川展】
 【富良野展】【足寄展】
 【幕別展】
おわりに


北海道全域にわたるネットワークをお持ちで、炭鉱史、労働運動史にも精通された白戸さんでなければ到底まとめられなかったと思われる、ひとつひとつの原爆展を掘り起こした丹念な仕事を、ここですべてご紹介することはできません。
しかし、この論考をご覧になれば、「炭鉱展」から「原爆展」へとつながる連続性が、よく伝わってくるのではないかと思います。
この講義録は目黒区美術館でも販売される予定と聞いているので、興味のある方はぜひ問い合わせてみてください。
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