2012/4/12

ワタリウム美術館/田中三蔵さんお別れの会  館外展・関連企画

午後からワタリウム美術館で開催中の「ひっくりかえる展 ―Turing around―」を観に行きました。

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この展覧会は、アーティスト集団のChim↑Pomが企画したもので、社会のタブーや問題に対して真っ向から立ち向かい、社会の変革を目ざして行動する国内外の表現者を紹介するという挑戦的な内容です。

エレベータを上って展覧会の入口の2階へ行くと、まず最初に展示されているのが、丸木夫妻のコーナー。

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原爆の図が最初に発表された1950年、日本はGHQによる報道規制「プレスコード」の真っ只中で、原爆投下に対する表現もその対象であった。丸木位里・俊夫妻が全国各地100か所以上で行った原爆の図巡回展は、プレスコードの対象外であった「アート」による、原爆の惨事を伝える唯一のメディアでもあった。とはいえGHQにとって「面白くない」行為であることに変わりはなく、展示は関係者の逮捕など様々な障害のもとで行われたにも関わらず、巡回展の評判は口コミで広まっていき、ついに1か所で1万人もの観客を集めるまでになる。当時、原爆の図は「巻物」として並べて展示されていた。これは移動しやすさの追求であるとともに、「何か」が起きた場合素早く撤去出来る仕組みでもあった。

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こうした説明とともに、60年前に《原爆の図》を入れて全国を巡回した木箱が展示され、当時の記録映像が流れています。
社会に飛び出し、「アート」によって世界の変革を目ざした活動の先駆者として、丸木夫妻の仕事が“再発見”された格好でしょうか。
従来の丸木夫妻の展示とは趣きがずいぶん異なりますが、こうした形で新たな文脈で注目されることは、作品にとっても決して悪いことではないような気がします。

1952年8月の立川展会場の貴重な記録映像のなかで、《原爆の図》の説明を大きな身振りを交えて行っているのは、若き日のヨシダ・ヨシエさんです。
まだ美術評論をはじめる前、丸木夫妻のアトリエに寝起きしていたヨシダさんは、《原爆の図》を背負って各地を巡回したことでも知られています。
先日、近現代史研究者のKさんといっしょに、埼玉県内の病院に入院されているヨシダさんのお見舞いに行ってきました。
そのとき、先にワタリウム美術館の展示をご覧になっていたKさんから、「Chim↑Pomの展示では省略されていたけれど、《原爆の図》からChim↑Pomの間には脈々と続いてきた前衛美術の歴史があって、そこにずっと立ち会い続けてきたのがヨシダさんだったのね……」というお話を聞いて、ああ、まったくその通りだ、と思いました。
病院のベッドで横になっているヨシダさんは、顔色も良く、身体の具合も悪くないご様子でしたが、やはり少々元気をなくしているように見えました。
ヨシダさんの残してきた仕事を若い世代のアーティストたちにもつないでいかなければいけないと、あらためて感じています。

「ひっくりかえる展」では、この展覧会で初めて作品を知ったフランスのJRの洗練された表現が非常に印象に残りました。
ワタリウム美術館のWさんのお話では、JRは表現者として経済的にも自立し、作品の舞台になる貧しい国や地域への支援も積極的に行っているとのこと。これからもその活動には注目していきたいところです。

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午後7時からは、銀座東武ホテルで行われた「田中三蔵さん お別れの会」に参加。
朝日新聞の編集委員として、長年美術記事を担当されてきた田中三蔵さんが、2月27日に膵臓癌のために63歳で逝去されたのです。
田中さんが2004年に書いて下さった記事のことは、以前にもブログ「丸木美術館学芸員日誌」でご紹介させて頂きました。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1817.html

もうひとつ、田中さんがお書きになった記事で印象に残るのは、田中さんの仕事の集大成でもある「ニッポン人脈記 前衛バカ伝説」の連載で、2009年3月27日に取り上げて下さった丸木夫妻の記事です。

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平和への軍旗「原爆の図」”という見出しの記事に、田中さんは次のように記されています。

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 埼玉県東松山市。武蔵野のおもかげを残す林のなかに「原爆の図 丸木美術館」がたたずんでいる。
 焼けただれた肌がぼろ布のように垂れ下がる裸の女たち。幽霊のような人の群れ。朱色の業火、折り重なる屍……。見ているのがつらくなるほど、鬼気迫る絵が展示されている。
 「原爆の図」は、丸木位里と俊夫妻が半生をかけた15部の連作である。
 位里は広島で生まれた。上京して日本画を学び、戦前、シュールレアリスムの美術団体にも加わる。俊は北海道で育ち、東京で洋画家になった。
 1945年8月、丸木夫妻は被爆直後の広島に入る。位里の家族の安否をたずね、惨禍を目の当たりにした。
 原爆の絵を描かねば、そう思いたつのは3年後の夏の夜だった。「屍のにおいが風に流れていたひろしまの夜」がよみがえってきた、と俊は著書「女絵かきの誕生」に書いている。

 そのころ丸木夫妻のアトリエは神奈川県藤沢市にあった。美術評論家ヨシダ・ヨシエ(79)は近くに住んでいた。20歳すぎの文学青年だった彼は「掘っ立て小屋のようなアトリエ」で夫妻の仕事を見た。
 俊が人物を描くと、「リアルすぎる」と位里がいって、その上に墨を流して情感を与え、さらに俊が手を加える。2人が闘うような日々。
 ヨシダ自身も、俊の素描のモデルになる。裸になり、地面をひっかくポーズをとった。できあがった絵を見て「言いしれぬ寒気を感じた」という。
 50年、「原爆の図」初期3部作が完成した。ヨシダらは藤沢の旅館の広間を借りて展示した。もっと多くのひとに見てほしい。そう思っていたある日、丸木宅に居候していた画家志望の青年、野々下徹から声をかけられた。
「『原爆の図』を持って旅にでないか」
 ヨシダは野々下と絵を木の箱にしまい、ズックの袋に入れて背負った。2人は列車に乗り、各地で巡回展をひらく。寺、学校の教室や体育館、図書館。集まった人々に絵の説明をした。「新潟から鹿児島まで1年に100か所近く回ったかな」
 まだ連合国軍総司令部(GHQ)の占領時代。原爆の報道は統制されていた。「原爆の図」で初めて被害のすさまじさを知った、と驚く人が大勢いた。
 旅で絵が汚れ、傷んでも、俊は「平和への闘いの軍旗だからかまわない」といった。ヨシダは美術評論を書きはじめ、前衛の伴走者となる。


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記事はこの後、当時館長であった針生一郎の話に移り、「原爆の図と前衛の時代の風化」を打開する試みが紹介されます。
ヨシダさんへの取材の場には私も立ち会い、お二人の熱い対話の様子を間近に見ていました。

思えば田中さんは、Kさんのおっしゃるような《原爆の図》と前衛をつなぐヨシダさんの存在を、このときにしっかり記事に書かれていたのですね。
その慧眼に経緯を表しつつ、慎んでご冥福をお祈りいたします。

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写真は、「お別れの会」で頂いた、田中三蔵さんの似顔絵の入ったどら焼き。
このユーモラスな似顔絵は、秋山友徳太子さんが手がけたそうです。
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2012/4/11

NHK FMラジオ「丸木俊展」紹介  TV・ラジオ放送

白熱する名人戦を一旦抜け出して、午後6時から30分ほど、NHKさいたま放送局のスタジオで、埼玉県内向けのFMラジオ番組「日刊!さいたま〜ず」に生出演させて頂きました。
お相手をして下さったのは、野田亜耶奈キャスター。今年からさいたま局に入られた新人さんで、この日が初めてのラジオ放送担当だそうです。
そのため、スタジオには滝島雅子アナウンサーも付き添い、温かく放送を見守っていました。

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初々しくも、しっかり落ち着いて番組を進める野田キャスター。
これは私も丁寧に応えなければ、と気を引き締めて、予定の時間を数分越えてしまうほど、たっぷりと「生誕100年 丸木俊展」について紹介させて頂きました。

事前の電話での打ち合わせで、野田キャスターが俊さんの“アクティブ”な性格にかなり惹かれている様子だったこともあって、今回の放送では、若い頃に外交官の家庭教師としてモスクワに滞在したり、当時の「南洋群島」ミクロネシアに一人旅に行ったりという、俊さんの外国体験を中心に話すことになりました。
さまざまな土地を訪れながら、現地の人たちと出会い、同じ人間として心を許しあう俊さんこそ、本当の意味での“グローバル”な人間なのだろう、と話をしながらつくづくと思いました。

ともあれ、記念すべき野田キャスターのデビュー放送にごいっしょできたことは、とても嬉しく思います。これからも、埼玉の魅力をたくさんお伝えして下さい。応援しています。
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2012/4/11

第70期将棋名人戦第1局観戦  他館企画など

娘の幼稚園の入園式や病院通い、NHKさいたま局のラジオ出演などの合間を縫って、この2日間は東京・目白の椿山荘で開催されている第70期将棋名人戦第1局を観戦しました。
A新聞社のO記者の御厚意で、控室や終局後の対局室にも入れて頂き、貴重な体験をすることができたのです。

今回の名人戦は、ともに永世名人の資格を有する森内俊之名人と、挑戦者・羽生善治二冠の対局。将棋界の最高峰である名人の座は、過去10年間、同い年のこのお二人によって独占されていて、まさに現在を代表する見応えのある顔合わせとなりました。

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すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、結果は139手で森内名人の勝利。しかし、最後まで優劣がわからない白熱した内容でした。

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20畳という広い対局室の床の間には、今回、関西将棋連盟から運ばれてきた三幅の書がならんでいました。

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右から、木村義雄十四世名人の「天法道」(天は道に法る)、大山康晴十五世名人の「地法天」(地は天に法る)、中原誠十六世名人の「人法地」(人は地に法る)。
この三幅の書が関西を離れたのは、今回が初めてのことだそうです。
本当はこの他に谷川浩司九段(十七世名人有資格者)の「道法自然」(道は自然に法る)という書も並んでいるそうですが、今回は谷川九段は立会人として対局に列席。森内名人は十八世、羽生二冠は十九世の資格を有しているので、十四世以後の歴代の名人が一堂に揃う豪華な景色が実現しているというわけです。
もちろん対局中は入室禁止なので、写真は終局後の感想戦のときに撮影したものです。

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対局中、控室では大勢のプロ棋士の方々が集まって、盤を囲んで賑やかに勝負の検討をしていました。
それをじっと見ているだけでも非常に面白かったのですが、せっかく控室に自由に出入りできる機会を頂いているので、思い切って棋士の方に話しかけて“将棋と美”について考察を深めることにしました。

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まず最初にお話を聞かせて下さったのは、屋敷伸之九段。
不躾な質問にも関わらず、屋敷九段は「強い人の将棋というのは大抵自然で美しい」と丁寧に答えて下さいました。
将棋というのは、「自然な手を重ね、美しさを構築していく中で、優劣が生ずる」もの。とはいえ、従来美しいとされていた形から逸脱する新しい形もあります。そんな新しい形には「はじめは違和感を覚えるけれども、優秀さが証明されていくと、それもまた美の形になる」というのです。何となく、やはり芸術と通じる話を聞いているような思いがしました。

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続いて控室で寡黙に座っていらっしゃった谷川九段にも、お話を伺ってみました。
「自然な手、美しい手は八割が正しいが、時には例外もあって、違和感のある不自然な手が最良手になることもある」と谷川九段。やはり、勝負の世界は最良手が美しい、ということなのでしょうか。冷静に言葉を選びながらお話しされる谷川九段には、深みとともに鋭さを感じました。
「将棋における常識・伝統美とは、もっぱら格式や儀式にあり、対局の内容に関しては常に変化・革新美を追求していると考えていいのではないか」というお話や、将棋には「守破離」や「名人に定跡なし」という言葉が昔からあり、あまり保守的だと新しい発想が出てこないというお話も聞かせて下さいました。
21歳で史上最年少名人の座を勝ち取り、50歳を越えてもなお第一線で活躍されている谷川名人の言葉の余韻に浸りながら、こちらがじっと沈黙していると、最後に、「強くなるといろいろなことがわかってくる。知識や経験を取り入れながら、どれだけ自由でいられるか。遊びの境地というのか、自由である、まっさらな心境を持つことが重要」という重みのある言葉を聞かせて下さり、それには本当に心を打たれました。

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感想戦の後、控室に戻って、最後にお話を伺ったのは門倉啓太四段。
門倉四段は今回、BS放送の解説にも抜擢された有望な若手棋士です。
朗らかな話しやすい方で、将棋が大好きだという気持ちがひしひしと伝わってくる内容でした。
「最善を追求していけば、必ず美しい結果が出る。でもそれは人間だからありえないし、不完全な面白さこそ将棋の魅力」と門倉四段。
たとえば、チェスやオセロは局面が進んでいくと、だんだん選択肢の幅が狭くなってくるけれども、将棋は一度とった駒をもう一度使えて、しかもどこに置いてもいいというルールがあるので、無限に可能性が広がっていくのが魅力だと、わかりやすく教えてくれました。

門倉四段の話で非常に面白かったのは、「将棋の対局は作品だと思う。でも、良い作品を作るには一人ではできない」という意見でした。
「今日対局した森内さんや羽生さんは、作品という意識を持って指しているはず。特に羽生さんは、勝負として将棋を指すというより、お互い最善を尽くして作品をつくるという気持ちが強いように思う。だから勝っても、相手が羽生さんの高みについてこられないとがっかりすることがある。今日の対局は、負けてしまったとはいえ、作品として深いものだったので、ある程度の満足感は残っているのではないか。対局は相手との共同作業。二人が調和しながら作品を作りあげていくもの。羽生さんの相手が森内さんだからこそ、ここまで見事な勝負が生まれて、そこに周囲が感動する」と熱っぽく語って下さったので、最後に何だかとても爽快な気分になったのでした。

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名人戦は、この後、次の日程でどちらかが先に4勝するまで行われます。

第2局 4月24日、25日(新潟県長岡市)
第3局 5月8日、9日(福島県いわき市)
第4局 5月22日、23日(静岡県静岡市)
第5局 5月31日、6月1日(京都府京都市)
第6局 6月12日、13日(福岡県北九州市)
第7局 6月26日、27日(山形県天童市)


森内名人、羽生二冠には、名人400年そして第70期という節目の年にふさわしい、素晴らしい勝負を期待したいと思います。

最後に、滅多に味わうことのできない体験をさせて下さったA新聞社のO記者はじめ、企画事業本部のKさん、文化くらし報道部のM記者、S記者、そして貴重なお話を聞かせて下さった谷川九段、屋敷九段、門倉四段に心から御礼を申しあげます。
本当にありがとうございました。
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2012/4/9

第70期将棋名人戦前夜祭  他館企画など

休館日でしたが、美術担当としてお世話になっていたA新聞文化部のO記者が将棋担当に変わったことから、第70期将棋名人戦に招待されることになり、東京・目白の椿山荘で行われた前夜祭に行ってきました。
今年は1世名人・初代大橋宗桂に徳川家康から扶持が与えられてから、ちょうど400年という節目の年。

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壇上には今期に対局する森内俊之名人と羽生善治二冠をはじめ、中原誠16世名人や、17世名人の資格を持つ谷川浩司九段など、過去に名人のタイトルを獲得した8人の棋士が勢ぞろい。

400年前に名人位を設けた功績をたたえて、徳川家康を将棋の10段とする推戴状が徳川宗家18代当主の長男・家廣氏に渡されました。
その家廣氏の挨拶は、短いながらも印象に残るものでした。
「家康はいかにこの国から戦をなくすか、周辺の国と戦をしないかと考えて国づくりをした人だと思っている。将棋の保護もその一環だろう。将棋は懸命に知恵を振り絞って、それでも負けてしまうもの。負けることの痛みを、誰も傷つけることなく体験できる。その体験は、平和を築く上でとても大切なことだと思っている」という趣旨です。

今年は、第3局が福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズで開催されることもあって、その後はフラガールが登場して、森内名人・羽生二冠を祝福する場面もありました。

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パーティの席で、第1局の観戦記を新聞に執筆される作家の海堂尊さんにお話を伺いました。
美術の世界にも共通するような話ですが、将棋界も現在はいかに領域を越えて他業種の人と接点を持ち、将棋の可能性を広げていくことが重要な課題になっているとのこと。
海堂氏が観戦記を書くのも、その一環といえるのでしょうが、美術/芸術という視点から将棋を見つめるのもお互いの分野にとって意味のあることではないか、とご教示頂きました。

O記者とは、20世紀を代表する現代美術家のマルセル・デュシャンは、チェスの名手として知られていて、チェスと将棋の先祖はいっしょなので、案外、将棋とアートの接点というか、共通する思考を探っていくと面白いかも知れない、という話を前々からしていました。
「羽生さんはデュシャンが好きらしい」という話も聞いていて、二人でデュシャンについて聞くために羽生二冠に近づこうとしたのですが、さすがに人垣が多く、順番を待っているうちに、翌日の対局のため退席する時間になってしまったので、残念ながらお話は伺えませんでした。
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2012/4/7

ニュース発送作業  ボランティア

今年は例年になく桜の開花が遅れ、残念ながらお花見というわけにはいかなかったのですが……ボランティアの方々の協力によって、美術館ニュースの発送作業が行われました。

作業に参加して下さったのは、M川さん、N島さん、S崎さん、N村さん、M園さん、T口さん、K村さん、K野さんご夫妻といういつもの顔ぶれに、初参加のT中さんとA木さんの総勢11人。

今回は、同封物が多くて作業が大変だったのですが、皆さまのおかげで無事に発送することができました。
もちろん、昼食はいつものM年山さん一家が用意して下さった美味しいカレー。
皆で楽しくいただきました。
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2012/4/6

ホタルの里竹林整備  自然・生きものたち

午前9時から、地元・唐子地区のホタルの里の整備事業に参加しました。
長年、東松山市や地元の方々と協働で続けてきた取り組みですが、この4月に市の大規模な組織改編が行われ、ホタルの里の担当部署も、従来の環境保全課から、みどり公園課に変更になりました。
ずっとお世話になっていたKさんや、Nさんとも最後のご挨拶。
新しい担当のT主任を紹介され、また、新年度らしく、東松山市に新規採用となった職員が10人ほど体験研修として参加して、新鮮な雰囲気の整備作業となりました。

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竹林の伐採や、先日からの強風で折れた木の枝の片付けなど、大勢でてきぱきと作業が進んでいきます。毎度のことながら、いつも少人数で周辺環境を整備している丸木美術館にとっては、ちょっと羨ましい光景です。

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池には、オタマジャクシの群れも賑やかに泳いでいました。

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作業の後は、ここ数年、ホタルの里周辺の田んぼで育てている「原爆米」(長崎で被爆した稲の子孫)で作った美味しい混ぜご飯を皆で食べました。
いつも近所の農家の女性部隊が腕によりをかけて作って下さるのです。

すっかり地域に定着したホタルの里の活動。
今年もたくさんのホタルが飛んで欲しいと思いますが、そもそもこの取り組みを提唱した元環境保全課のKさんの狙いは、ホタルを軸にして里山の人間的なつながりを再生させること。その意味では、こうして地域の方々と楽しく声をかけあいながらひと時を過ごすことこそ、かけがえのない“宝”なのだと思います。
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2012/4/5

NHK FMラジオ「日刊さいたま〜ず」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

来週の水曜日、4月11日(水)午後6時から、NHKさいたま放送局FMラジオ(さいたま85.1MHz、秩父83.5MHz)の番組「日刊!さいたま〜ず」に生出演させて頂きます。
3月に高校野球中継のために延期になった放送の再出演で、現在開催中の企画「生誕100年 丸木俊展」の紹介をいたします。

今回お相手して下さるのは、4月から新しくさいたま局に来られた野田亜耶奈キャスター。
本日、電話で打ち合わせを行いましたが、明るくはきはきと対応して下さり、好奇心も強そうな方なので、ごいっしょできるのがとても楽しみです。

リクエスト曲は、前回お願いする予定だった、《原爆の図》に想を得て作曲したという大木正夫の「交響曲第5番ヒロシマ」と、俊さんの絵本『そりすべり』の情景を彷彿とさせる明るいメロディのルロイ・アンダーソンの「そり遊び」を、引き続きお願いすることにしました。

埼玉県内のみという限定の放送ですが、電波の届く環境にいらっしゃる方は、どうぞ11日の夕方はNHK-FMラジオをお聴きください。
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2012/4/2

映画『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』  他館企画など

立川の映画館で、人生初の3D映画『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(ヴィム・ヴェンダース監督、2011年)をレイトショーで観てきました。

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2009年に急逝した舞踏家で振付・演出家のピナ・バウシュ(1940-2009)が作りあげた4つの代表的な舞台作品「春の祭典」、「カフェ・ミュラー」、「コンタクトホーフ」、「フルムーン」の再現と、ヴッパタール舞踏団の団員たちの断片的なインタビューを、ヴィム・ヴェンダース監督が3Dによる迫力ある映像にまとめた作品です。



ドキュメンタリ映画といいながらも、言葉による説明的な描写はほとんどなく、まさにピナの舞台のように、身体から身体へと共振するような作品。
3Dの映像技術とは、このように活用されるものだったのか、と強く心を揺さぶられました。

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ピナ・バウシュが舞踏団とともに丸木美術館を訪れたのは、2003年11月26日のことです。
日本国内の各地をめぐりながらさまざま体験をして、それを作品として昇華させるというプロジェクトの一環でした。
館内を案内してまわり、後日、さいたま芸術劇場で行われた公演に招待されて観に行ったという、ささやかな関わりでしたが、私の解説に静かに耳を傾け、言葉を選びながら、「このような困難のともなう作品を描きつづけた丸木夫妻の仕事に、心から敬意を表します」という感想を聞かせてくれたことは、今でもときどき思い出します。

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美術館を見終わった後、外の川を見下ろす椅子に座って手をふわりと上げれば、それだけでもう舞踏のような、周囲の空気に緊張をもたらす存在感のある方でした。

以下は、1999年に来日公演した際のプログラムに掲載された彼女の言葉からの引用です。
後からこの文章を読んで、私は彼女の精神性に強く惹かれたのです。

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舞踏団のメンバーには様々な国の人がいますし、
異なる人々が混在しています。
多様さの中に何らかの調和が生み出されるものなのです。
全世界がそうなのです。
すべて異なる「ものごと」によって構成されているのです。

身体を使って表現するのに沢山の
「ものごと」が色々の役割を果たします。
例えば草地(芝生)なら人々はその上を歩いても
人工的なものと異なり、
大きな音はしません。
特有の匂いがあります。
水に濡れた服は、
冷たく音をたてたり光を反射したりします。
何もかも全く違うように存在しているのです。
また土は汗をかいた身体に
さまざまな形でくっついてくる筈です。
感覚的な問題です。
それらのものは現実の自然と違い、
舞台の上につくられているのです。

私は自分の心の内にあるものを語り、
見せ、
外へ出そうとしているだけです。
それを上手に構成すること、
感じてもらうことはとても難しいと感じています。
というのも、それは言葉なしで、
動きでコミュニケーションすることに関わっているからです。
いつも「ものそのもの」によって
その背景に潜むものを感じ取らなければならないのです。
とはいえ、
本格的に具体的なこと、
唯一の尺度は、
一人一人が探している場所に行き着くこと、
そこである形式を見つける気持ちになることです。
ダンスは常に絶望や喜びから生まれます。
絶望から踊ることもあれば、
喜びから踊ることもあります。
私達は現在ある定まった時代の中で生きていますが、
まさにその中でダンスは生まれなければなりません。
これは決して大言壮語しているわけではありません。


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2012/4/2

炭鉱展「夜の美術館大学」講義録  1950年代原爆の図展調査

先日、2009年11月4日から12月27日まで目黒区美術館で開催された「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」の関連企画として行われた「夜の美術館大学」の講義録を頂きました。
川俣正、本橋成一、野見山暁二、岡部昌生、菊畑茂久馬、石内都ら錚々たる顔ぶれの講師による非常に興味深い講義の記録に加えて、「補講」として、昨年中止になった「原爆を視る展」の図録に本来は掲載される予定だった北海道近現代史研究者・白戸仁康さんの論考「GHQ占領下の「原爆の図」北海道巡回展 1951年10月28日-1952年5月1日」が収録されています。

人々の記憶の中に埋もれかけていた1950年代はじめの北海道巡回展を調査された白戸さんの仕事ぶりは、この丸木美術館学芸員日誌ブログでもたびたび紹介していますが、今回、あらためて白戸さんの論考から「はじめに」の部分を抜粋してその経緯をご紹介します。

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 2009年12月、原爆の図丸木美術館学芸員・岡村幸宣の論考「『原爆の図』全国巡回展の軌跡」の中で、1952年の北海道巡回展の一部についてもはじめて紹介された。丸木位里・俊夫妻が「原爆の図」五部作を帯同した道内5カ所の1951年巡回展については、俊もたびたび回想しているが、引き続き行われた52年の道内巡回展については触れていない。
 1952年の道内巡回展調査のきっかけは、2009年11月4日から12月27日まで目黒区美術館で開催された、「'文化'資源としての<炭鉱>展」の調査・準備で来道した正木基学芸員が、三菱美唄美術サークル共同制作「人民裁判事件記録画」の制作者の一人で札幌市在住の画家・平山康勝に取材中、一枚の子どもたちの小さな集合写真を“発見”したことにある。丸木美術館の岡村幸宣学芸員が、それが美唄展会場前で撮られたものと確認し、その後の調査の発端となった。
 2010年2月27日付『北海道新聞』も、丸木美術館の調査や取り組みの意義について報道し、51年の巡回展でも不明だった期日や会場もふくめ、様々な情報が寄せられた。その幾つかは、ネットのブログ「丸木美術館学芸員日誌」及び『丸木美術館ニュース』101号(2010.4.10)ほかでも随時紹介されたが、52年の巡回展が予想を遙かに超える広がりを持っていたことがわかってきた。
 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により日本はようやく連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)、実質米軍の占領政策から脱し‘独立’した。丸木夫妻が「全五部作」を帯同し、1951年10月から道内5カ所で開かれた巡回展は、翌52年1月以降も別なかたちで継続され、日本独立から3日後の1952年5月1日までの間に、さらに30カ所の地域で開催されていたのだ。
未解明の地域も残っているが、本稿ではあらためて、1951年10月28日から実質6カ月に及んだ道内巡回展の経緯や背景、各地の状況などについて概観する。


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以下に論考の見出しを書き出します。
これだけでも圧倒的な調査の充実ぶりが伝わるのではないかと思います。

はじめに
1 丸木位里・俊夫妻による北海道巡回展(1951年10月28日-12月2日)
 【室蘭展】
 【旭川展】
 【秩父別展】
 【札幌展】
 【函館展】
2 「全道くまなく原爆展をやろう!」―第二期北海道巡回展
3 空知地方産炭地を中心に―夕張市より赤平町
 【夕張展】
 【岩見沢展】【美流渡展】【幌内展】
 【美唄展】
 【砂川展】【上砂川展】
 【赤間展】【赤平展】【茂尻展】【豊里展】
3 狩勝峠を越えて道東拠点都市へ―帯広市より北見市
 【帯広展】
 【根室展】
 【釧路展】
 【網走展】
 【北見展】
4 道東から日本海岸、そして山間部―名寄町より沼田町浅野雨龍
 【名寄展】
 【稚内展】
 【留萌展】
 【浅野雨龍展】
5 南へ北へ、太平洋岸から再び内陸部へ―小樽市より幕別展
 【小樽展】【余市展】【大和田展】
 【浦河展】【静内展】
 【深川展】
 【富良野展】【足寄展】
 【幕別展】
おわりに


北海道全域にわたるネットワークをお持ちで、炭鉱史、労働運動史にも精通された白戸さんでなければ到底まとめられなかったと思われる、ひとつひとつの原爆展を掘り起こした丹念な仕事を、ここですべてご紹介することはできません。
しかし、この論考をご覧になれば、「炭鉱展」から「原爆展」へとつながる連続性が、よく伝わってくるのではないかと思います。
この講義録は目黒区美術館でも販売される予定と聞いているので、興味のある方はぜひ問い合わせてみてください。
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2012/4/1

「美術館としての原爆堂に関する覚え書」  原爆堂計画

先日、武蔵野美術大学非常勤講師の石崎尚さんから、武蔵野美術大学研究紀要No.42抜刷「美術館としての原爆堂に関する覚え書―丸木位里・俊夫妻と白井晟一の交流について―」(2012年3月1日、武蔵野美術大学発行)を頂きました。

丸木夫妻の《原爆の図》を収蔵する美術館として構想され、1955年に発表された白井晟一の建築計画「原爆堂」。結局、実現にはいたらなかったものの、白井建築を象徴する作品として評価の高いこの計画がどのような経緯をたどったのかを、石崎さんは丹念に調査し、なぜ実現しなかったのかを読み解いています。
今回あらためて発掘された資料も多く、すでに知られている伝説的な言説を建築家と美術家の両方から複眼的にとらえなおす、非常に興味深い内容です。
以下に論文の見出しを紹介いたします。

1. はじめに
2. 原爆堂計画の経緯
 2-1. 1955年4月、原爆堂計画の発表
 2-2. 1954年8月、原爆美術館の公表
3. 原爆堂の設計と双方のすれ違い
 3-1. 原爆堂の名称
 3-2. 原爆堂の理念
 3-3. 原爆堂の収蔵品
4. 実現されなかった原爆堂
 4-1. 1956年3月、計画の難航
 4-2. モダニズムと民族主義
 4-3. 原爆体験との距離
5. 1967年5月、丸木美術館の開館
6. おわりに


石崎さんは、原爆堂が実現しなかった理由として、敷地や予算などの現実的な条件だけではなく、白井側と丸木側の意見の相違が大きかったことをあげ、その相違について「民族主義」と「原爆に対する立場」という2つの違いが考えられると論じています。

丸木夫妻は、広島の悲劇を表現するには日本の画材を用いて日本人の理解者とともに運動を推進しなければならないと(少なくともこの時点では)考えており、白井は原爆を人類共通の悲劇であり文明の生み出した課題であると考えていたため、「徹底的に非日本的な要素で」原爆堂を組み立てていた。
また、自分たちが直接体験しなかった原爆の中心部分へ肉薄するために努力を尽くして絵を描いた丸木夫妻に対し、白井は体験としての原爆から遠ざかり、記号化され抽象化された原子エネルギーに近づくことで思想を深めていった。

こうした方向性の違いを提示した上で、石崎さんは、「両者の作品がそれぞれの思想の結晶化だとするならば、これほどまでに異なった二つの思想が一つの美術館として結実するには、神学論争にも似た隔たりを乗り越えねばならなかっただろう。そして原爆という出発点から発した二つの作品の隔絶を等閑視できるほどには、両者は不真面目ではなかった。仮にそれが実現していれば、という空想は自由であるが、結果が必ずしも幸福な作用を生んでいたわけではないだろう。ともすると実現させなかったという判断こそ、極めて妥当なものであったかもしれない。」と結論づけています。

このあたりの論考はとても読み応えがあり、丸木夫妻の《原爆の図》に(意図的に)一度も原爆の象徴的なイメージである“キノコ雲”が登場していないこと、白井晟一の「原爆堂」がまさにその“キノコ雲”のイメージを抽象化して設計されていることの“隔たり”に、今さらながら思いいたりました。
個人的には、原爆堂を「実現させなかったという判断こそ、極めて妥当なもの」という石崎さんの結論に同意します。

「原爆堂」計画の経緯については、まだ謎の部分も多いのですが、石崎さんの論考によって研究が大きく前進したことは間違いありません。
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2012/4/1

『東京新聞』に「生誕100年丸木俊展」紹介  掲載雑誌・新聞

2012年4月1日付『東京新聞』の埼玉版に、“丸木俊さん 足跡たどる 生誕100年展”との見出しで、現在開催中の企画展「生誕100年 丸木俊展」が紹介されました。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20120401/CK2012040102000063.html

以下は、記事からの抜粋です。

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 俊さんは一九一二年、北海道生まれ。女子美術専門学校(現女子美術大)を卒業後、外交官の子どもの家庭教師としてモスクワに滞在したり、日本統治下にあった南洋群島を回ったりしながら創作活動を続けた。四一年に位里さんと結婚。四五年八月、原爆投下直後の広島市に入り、後に共同制作した「原爆の図」で世界に知られることになった。

 同美術館の岡村幸宣学芸員は俊さんの画業を「人間の本質を見つめ、鋭い観察眼と卓抜した技量で人間を描き続けた」という。

 ゴーギャンの絵を見て感動したことがきっかけで訪れた南洋群島では、色使いにゴーギャンの影響を感じさせる作品も残した。労働争議を題材にした「広島製鋼事件によせて」(四九年)や、六〇年安保闘争で亡くなった樺美智子さんにささげた「犠牲者」(六一年)など社会的な主題を持つ作品も多い。

 四六年から十七年にわたって丸木夫妻と交流した、いわさきちひろさんの作品には一室が設けられ、ベトナム戦争下の子どもたちを描いた絵本「戦火のなかの子どもたち」や広島で被爆した子どもの手記に絵を付けた「わたしがちいさかったときに」などから十点の復元作品が展示されている。

 岡村さんは「いわさきちひろの初期のデッサンは丸木俊によく似ている。画家としての基礎技術を俊から学び、『にじみ』や『ぼかし』など水墨画の技法は位里の影響を受けた」と話している。


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いつも取材して下さる川越局のN記者に心から感謝です。
暖房のない丸木美術館ですが、ようやく少しずつ暖かくなってきました。
あと1週間ほどで桜の花も満開になるのではないしょうか。
ぜひ、多くの方に美術館に足を運んで頂きたいと思います。
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