2012/4/30

丸浜江里子著『原水禁署名運動の誕生』  書籍

ゴールデン・ウィークは、一般の来館者の方々もたくさん丸木美術館に足を運んで下さいますが、今日は研究者の方の来館も続きました。
はじめは元M美術館のM学芸員。そして入れかわるように、1954年に杉並から全国に広がった原水禁署名運動の研究をされている丸浜江里子さんが来館して下さいました。

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昨年5月に刊行された丸浜さんの『原水禁署名運動の誕生』(凱風社)は、ビキニ水爆実験後の原水禁署名運動を支えた杉並の市民活動を、戦前・戦中の前史にさかのぼりながら、丹念に調べ上げた約400頁の労著です。

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表紙には、丸木夫妻の原爆の図第8部《署名》が使われています。
丸浜さんのお話によれば、杉並の原水禁署名運動――とりわけ1954年の署名運動は、街頭署名ではなく戸別訪問が中心だったこともあり、記録写真がほとんど残っていないのだそうです。
丸木夫妻の《署名》は、その杉並の署名運動のイメージをもとに描かれた当時の貴重な“視覚資料”という側面もあるわけです。

杉並の署名運動といえば、2年前の10月、署名運動に大きな役割を果たした杉並区立公民館跡を訪ねたことがありました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1490.html
その話を丸浜さんにすると、次第に1950年代の公民館運動にも話題が及びました。
丸浜さんは現在、杉並区と国立市の公民館運動の比較に関心を寄せられているとのこと。
国立市の公民館運動が、隣の立川市の米軍基地問題と大きな関わりがあるという話を聞きながら、1952年8月に立川で開かれた「原爆の図展」の会場も、立川南口公民館であったことを思い出しました。

1950年代の原爆の図巡回展について調べているなかで、1954年3月のビキニ水爆実験を境にして、巡回展の報道が極端に減少していることに気づきました。
それは、原爆の図の初期三部作が1953年6月に海外へ渡ったことや、巡回展がはじまって3年が経過し、全国の主要箇所をひとまわりしていたことも影響しているのだとは思います。
しかし、何よりも世間の関心が、「原爆投下」から「原水爆実験」に大きく移行していったことを示しているのでしょう。
とはいえ、こうした変化を別々の運動と捉えるのでなく、ひとつの連なり(あるいは戦時体制からの連続性も含めて)として見つめることによって、公民館などを軸にした当時の市民活動の姿がより鮮明に見えてくるのではないかと考えています。
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2012/4/29

草地のハト  自然・生きものたち

先週の日曜日、4月22日はボランティアの日で、6人の方々が参加して竹林整備や周辺の草刈りをして下さいました。
5月5日の開館記念日に向けて、その後も美術館スタッフは交替で美術館周辺の整備を続けています。4月から新職員になったYさんも大活躍です。

今日は午前中に、臨時でお借りするスタッフ用の駐車場の草刈りをしました。
タンポポが咲き乱れる草地を草刈り機で丸坊主にするのはしのびないので、塀際などの邪魔にならないところに咲くタンポポはお目こぼし。

そしてクローバーの群生する場所は、ハート……ではなくて、ハト型に刈り残してみました。

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鳩サブレじゃなくて、平和の鳩です。
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2012/4/28

茨城県近代美術館「小川芋銭展」  他館企画など

東松山市の職員のKさんといっしょに、茨城県近代美術館で開催中の「小川芋銭展 ―震災後の眼で、いま―」を観に行きました。

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小川芋銭(1868-1938)は、茨城県南部の牛久沼の畔で暮らし、農村の風物や水辺の生き物を描いた画家です。特に河童を好んで描いたことで知られ、「河童の芋銭」という異名でも親しまれました。
また、幸徳秋水ら当時の社会運動家とも親交があり、『平民新聞』や後続紙の『直言』、『光』の挿絵を手がけるなど、自由思想・社会主義思想にも深く共鳴していました。
小川芋銭と大逆事件については、2010年4月20日付『毎日新聞』夕刊に、日本近現代美術史研究者の足立元さんが興味深い論考を書かれています。
http://dl.dropbox.com/u/980030/%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E5%85%83%E3%80%8C%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A8%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%80%8D%E3%80%8E%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%80%8F2010%E5%B9%B44%E6%9C%8820%E6%97%A5%E5%A4%95%E5%88%8A4%E9%9D%A2.pdf

そんな芋銭の絵を、丸木位里は次のように評価しています。

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 わしは日本画だから日本画のことをいうが、小川芋銭とか村上華岳というのが割合好きなんだ。ほかには好きなのいないね。むろん横山大観は大嫌いだしね。絵はまあうまくかいとるないう絵はあるがね、考え方のはっきりしたのは極端にいえば一人もいないんだよ。
 いまいう芋銭だ華岳だいうのは、割合に待遇を受けずにずっときておるし、だれもやらんようないわゆる自分の絵をかいた人だろうと思うね。


 (『閃きの芸術・流々人生 丸木位里・俊の遺言』p.61)

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自由闊達で飄々とした画風や、「芋を買う銭さえあればいい」という些事にとらわれない生き方は、二人の画家に共通しているような気がします。

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展覧会には、愛知県美術館の木村定三コレクションと茨城県近代美術館の二大コレクションを中心に、100点近い作品がならんでいました。

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「震災後の眼で、いま」という展覧会の副題は、関東大震災を体験した芋銭がその後に描いた、枝葉を失ってもなお生きる意思を持っている木を表した《寒根生意》などの作品を通じて、彼の自然観、人生観をあらためて今このときに感じ取る、という意図を込めているそうです。

会場を巡りながら目を惹かれたのは、やはり「河童百図」のシリーズなどの河童の絵でした。辺境の地で、世間の喧騒とは無縁に、自然に溶け込むように生きる異形の精。河童は、芋銭そのものの自画像のようにも思えます。
あるいは、国家という枠組みに取り込まれることのない、前近代的な存在としての河童に、芋銭は精神の根底にあるアナーキズムをひそませたのかも知れません。

ちなみに、位里の河童の絵は見たことはありませんが、芋銭と世代の近い位里の母・丸木スマ(1875-1956)の河童の絵は見事です。芋銭やスマの時代の人びとは、本当に河童とともに生き、同じ世界を観ていたのだということを、つくづく感じます。

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小川芋銭《水魅戯(すいみたわむる)》1923年、再興第10回日本美術院展出品

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こちらは、丸木スマ《河童》制作年不詳(1950年代)

河童とは、得体の知れない大きな力に飼いならされる以前の人間が持ち合わせていた精神の“野生”の象徴ではないかと、芋銭の絵を観ながらふと考えたのでした。
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2012/4/26

映画『いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜』試写会/ポロック展など  館外展・関連企画

六本木シネマートで行われた映画『いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜』(海南友子監督)の試写会に行ってきました。
絵本画家として知られるいわさきちひろの初のドキュメンタリ映画です。

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現在、丸木美術館で開催中の「生誕100年 丸木俊展」でも紹介していますが、戦後すぐに上京したちひろは、丸木夫妻のアトリエに通いながら絵画を学んでいました。
映画には、ちひろがモデルを務めて描かれた位里や俊のデッサンも登場します。

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こちらは位里によるデッサン。

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そして俊によるデッサン(ともに1947年10月2日の日付あり)。

取材に3年をかけたという映画は、戦争に大きく翻弄されたちひろの波乱の生涯を丹念にたどりつつ、黒柳徹子さんや高畑勲さん、中原ひとみさんなど関係者や家族たちの証言を集めた内容で、とりわけ晩年の絵本の代表作『戦火のなかの子どもたち』の制作過程を追った部分は非常に興味深く感じられました。

個人的には、戦争の痛みや悲しみを、子どもたちや母親の視点から、誰にでもわかるようなイメージで伝えたという点において、ちひろと俊は戦後の日本を代表する二人だと思っています。
その一方で、二人はしばしば“力強くたくましい”俊と“やさしく繊細”なちひろという、わかりやすい対比で語られることが多くあります。
しかし、この師弟の残した仕事は、本当にその対比だけで見てしまって良いのか。
両者の仕事を固定観念を抜きに見かえして、きちんと影響関係を考えていくことが必要なのではないかと、映画を観ながらあらためて考えさせられました。
『戦火のなかの子どもたち』について語るちひろの言葉は、根底の部分で『ひろしまのピカ』について語る俊と重なっているように思えてなりません。

映画は7月から、ヒューマントラストシネマ有楽町などで公開される予定です。

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せっかく都心に出たので、今日は朝早くに家を出て、東京国立博物館で開催中の「ボストン美術館 日本美術の至宝」展、国立新美術館の「セザンヌ−パリとプロヴァンス」展「大エルミタージュ美術館展」、東京国立近代美術館の「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」を観てまわりました。

「ポロック展」では、会場で池田龍雄さんと画廊主のKさんに偶然お会いしました。
以前、池田さんの講演をお聞きした際、1950年代にポロックを代表するアンフォルメル旋風が吹き荒れ、それまでの日本のルポルタージュ絵画の流れが吹き飛んでしまったときに、「わが国の現実に根ざした必然性に基づくものではなく、いわばファッションの流行に近い変化だから、一過性のもの」と冷ややかに見つめていたと話されていましたが、ポロックの作品自体は、池田さんにどのような印象を残したのか。
同時代の証言をぜひ伺ってみたいと思いつき、後から追いかけたのですが、どこへ行かれてしまったのか、あるいはもう帰られてしまったのか、残念ながら池田さんの姿を見つけることはできませんでした。
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2012/4/25

佐喜眞美術館にて「生誕100年記念 丸木俊展」開催  館外展・関連企画

今日から、沖縄県普天間市の佐喜眞美術館で「生誕100年記念 丸木俊展 沖縄を描いた作品と絵本原画」がはじまりました(〜6月4日まで、火曜休館)。

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丸木俊の生誕100年を記念して、俊が愛し描いた沖縄の風景の油彩5点、水彩70点、絵本原画38点を中心に展示されています。
丸木美術館からも、絵本『つつじのむすめ』や『12のつきのおくりもの』、『きつねのおきてがみ』などの原画を出品しています。

沖縄でこうした俊の絵本原画を見る機会はなかなかありません。
ぜひ、多くの方にご覧頂きたいと思います。
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2012/4/23

そして今日は『朝日新聞』にも太陽光発電記事掲載  掲載雑誌・新聞

休館日ですが、今朝は『朝日新聞』埼玉版にも“反原発 遺志継ぐ太陽光”と題する、丸木美術館の市民共同太陽光発電基金についての記事が掲載されました。
昨日の『毎日新聞』、一昨日の『東京新聞』に続いて、3日連続の紹介です。
次のWEBサイトで記事全文を読むことができます。

http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000001204230005

以下、記事からの部分的な抜粋。

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 美術館が太陽光発電を導入したのは1990年にさかのぼる。その前年、福島第2原子力発電所で原子炉の再循環ポンプが破損する事故が起きた。
 丸木夫妻は「日本でも深刻な原発事故が絶対に起きないとはいえない」と受け止めた。さらに、「放射能の恐ろしさを描きながら、原発でまかなわれた電気を使うのはおかしい」として電気料金のうち原発稼働分の支払いを拒否。これに対し、東電は引き込み線を撤去して送電を停止した。
 美術館には市民から激励の声が次々と届いた。90年夏には市民グループの協力でソーラーパネルが設置され、8月6日の広島原爆の日に、太陽光発電の「点灯式」が行われた。
 それから22年。夫妻は故人となり、ソーラーパネルは老朽化。ここ数年は、発電能力がなくなり利用できなくなっていたという。昨年の福島第1原発の事故を受け、改めて市民に協力してもらい、太陽光発電復活に取り組むことになった。
 基金の名称は「丸木美術館 市民共同太陽光発電基金」。13.5キロワットの発電能力があるパネルを取り付けるのに、費用は約600万円かかると見込む。美術館が4月から公益財団法人に移行したことで、寄付は税金控除の対象になる。
 美術館理事長の小寺隆幸京都橘大教授は「目先の快適な生活のために危険なものを動かしていいのかが問われている。電気が足りなくなるというなら、こちらは電気を作る。寄付の形で市民の思いを集め、大事なことは何か、一緒に議論していきたい」と話す。


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取材をして下さったのは、西埼玉支局の菊地記者。
広く紹介して下さった記者の方々に、心から感謝いたします。
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2012/4/22

『毎日新聞』にも太陽光発電記事掲載  掲載雑誌・新聞

昨日の『東京新聞』に引き続き、2012年4月22日付『毎日新聞』埼玉版にも、“丸木美術館 太陽光発電復活へ”との見出しで、丸木美術館の市民共同太陽光発電基金についての記事が掲載されました。
こちらのHPで記事全文をご覧になれます。

http://mainichi.jp/area/saitama/news/20120422ddlk11040189000c.html

以下は、記事からの一部抜粋です。

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 代表作「原爆の図」が有名な夫妻は晩年、環境問題への関心を深めた。89年1月の東京電力福島第2原発ポンプ破損事故をきっかけに電気料金のうち原発分の支払いを拒み、東電から送電を止められた。このため全国からの寄付金で90年に開発間もない太陽光発電を導入したが、その後の故障で不払いを停止せざるを得なかった。
 小寺理事長は「我々は夫妻の思いを受け継いできたつもりだが、福島第1原発事故を防げなかった」と嘆き、
「子供たちと未来の世代に大変な負の遺産を残すことになってしまった」と現役世代の責任を強調。そのうえで「電力不足を口実に原発が再稼働されようとしている今、脱原発の具体的行動として再度、太陽光発電に取り組みたい」と話している。


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今日は、丸木美術館のHPにも太陽光発電基金についての詳しい情報を掲示しました。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/

新聞記事の影響で、昨日から、非常に多くの寄附申し込みの電話が鳴り続けています。
たいへん心強いことで、御賛同頂いた皆さまに心から感謝しています。
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2012/4/21

『東京新聞』に“丸木美術館 再び脱原発”掲載  掲載雑誌・新聞

2012年4月21日付『東京新聞』朝刊に“「原爆の図」太陽光発電で照らせ 丸木美術館 再び脱原発”との見出しで、丸木美術館市民共同太陽光発電基金についての記事が社会面に大きく掲載されました。
以下のHPで記事全文をご覧になれます。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012042102000089.html

記事の一部抜粋も掲載しておきます。

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 今回は一三・五キロワットの発電能力を持つ設備を導入。業者の協力で破格の六百万円で設置できる見通しとなり、同額を目標に寄付を募る。夏の電力ピークを迎える前の七月には稼働させたい考えだ。

 同美術館の小寺隆幸理事長は「電力不足を理由に原発再稼働の問題が出てきている。こうした動きに反対する一方で、自分たちにやれることはやろうと決めた」と話す。

 前回、太陽光発電を導入したきっかけは、一九八九年に東京電力福島第二原発で起きたポンプの破損事故。丸木夫妻は集金に訪れた東電社員に「安全なエネルギーに変えてほしい」と訴え、独自の試算を基に原発分だとして料金の24%の支払いを拒否。東電は約一年間、送電を止めた。

 自然光を取り入れてはいるものの、薄暗い中で絵を鑑賞してもらう異例の状況。全国から寄せられた寄付金などで九〇年夏、自家発電を始めた。市民による太陽光発電の草分けとも言える存在だったが、設備の故障や劣化に悩まされながら十数年間続けた末、館の財政難もあって維持できなくなった。

 小寺理事長は「夫妻は自ら横断幕を作って原発反対運動の先頭に立った。その横断幕はいまでも私たちがデモなどに参加する際、使わせてもらっている。今回の太陽光発電も夫妻と寄付をいただく皆さんの思いがこもったものにしたい」と語る。


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丸木美術館では、美術館45周年の開館記念日にあたり、42年ぶりに国内の原発がすべて停止する予定の5月5日に公式発表を行う予定です。

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太陽光発電基金に関する基本情報は以下の通りです。
どうぞ皆さま、ご協力をよろしくお願いいたします。

名称=丸木美術館 市民共同太陽光発電基金
設置パネル=CIS薄型パネル(ソーラーフロンティア社製)13.5kw 費用600万円
目標額=600万円
募金=個人 一口1,000円  団体・企業 一口5,000円 
 ※何口でも結構です。継続的募金も大歓迎です。
税金控除=公益財団法人への寄付は税金控除の対象となります。募金額から2,000円を引いた額の4割が税金から控除されます。
報告=募金者のお名前は美術館壁面に末永く掲示させていただきます。また毎年1月に、確定申告用の書類とあわせて発電状況、および美術館としての反原発の取り組み報告をお送りします。
振込先=郵便口座00150-3-84303 公益財団法人原爆の図丸木美術館
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2012/4/20

図画教師・戸坂太郎  執筆原稿

2012年4月10日発行の『丸木美術館ニュース』第109号の連載記事「丸木位里・丸木俊の時代」第10回で、俊の旭川高等女学校時代の美術教師であった戸坂太郎を紹介しました。

戸坂太郎については、宇佐美承著『池袋モンパルナス』(1990年、集英社)に唯物論研究で知られる戸坂潤の甥という記述があるばかりで、どのような方だったのか詳しいことはほとんど知らなかったので、北海道立近代美術館のS氏を通じてご遺族を紹介して頂きました。
その結果、戸坂太郎は実際は戸坂潤の4歳年少の従弟であったことや、旭川高女に14年間勤務した後、北海道学芸大学、北海道教育大学などの教授となり、版画や図学を教えていたこと、1961年に設立された北海道版画協会の初代会長を務めていたことなどがわかったのです。

今回の記事には、「戸坂先生に旭川高女で4年間美術を受け持ってもらった」という元教え子の方からお電話があったり、室蘭在住の画家・北浦晃氏から北海道版画協会の設立の経緯に詳しく触れたご自身の論考「版画についての断章」(2004年文化女子大学室蘭短期大学研究紀要)を送って頂いたりと、思わぬ反響が寄せられました。

こうした反響の大きさから、あらためて、戸坂太郎という人が優れた教育者で芸術家であったのだという思いをかみしめています。俊が彼から受けた影響も、本当に大きかったことでしょう。

下の「連載 丸木位里・丸木俊の時代〈第10回〉」をクリックすると、ニュースに執筆した記事の内容を読むことができます。

連載 丸木位里・丸木俊の時代 〈第10回〉
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2012/4/19

テレビ埼玉「丸木美術館紹介映像」取材  TV・ラジオ放送

午前中、テレビ埼玉のH記者が来館されて、先日、東京新聞や毎日新聞で報道されたばかりの「丸木美術館紹介映像」について取材をして下さいました。

映像を制作した東松山CATVのIさんも、カメラの前で緊張気味に制作の経緯についてのインタビューを受けていました。いつもは取材する側のIさん。同じテレビの仕事でも、取材される立場というのはずいぶん勝手が違うようです。

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おかげさまで、この「丸木美術館紹介映像」は、かなりの反響が来ています。
テレビ埼玉での放送予定はまだ決まっていませんが、連絡が入り次第、学芸員日誌ブログでご報告いたします。
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2012/4/18

吉武輝子さんの訃報  その他

評論家として女性の地位向上や平和運動などに尽力され、丸木美術館の理事も務めて下さっていた吉武輝子さんが、2012年4月17日、肺炎のため80歳で逝去されました。
葬儀は21日正午から東京都新宿区神楽坂5の36の善国寺で行われます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120418-00000001-jij-soci

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吉武さんは、丸木俊が亡くなった際、2000年1月18日付『東京新聞』(夕刊)に“ほら貝に泣いた日のこと”と題する追悼記事を書いて下さいました。
吉武さんが世話人をされていた「戦争への道を許さない女たちの連絡会」主催による“女たちの憲法の集い”が、1993年5月3日に東京・有楽町マリオンで開かれたときの回想です。
このとき、吉武さんは当時80歳だった俊に綿々と思いを書き綴った手紙を書き、俊に登壇を快諾させたと記しています。
集会に登場した俊は2分ほど近況を語った後、布袋から木製のほら貝を取り出し、「昔、昔、百姓一揆のときに吹いたものです。今日は憲法改悪阻止の女の一揆。だから私はほら貝を吹きに来ました」と言って、長々とほら貝の音を鳴り響かせました。
吉武さんはその音に鳥肌が立つような感動を覚え、「丸木さんの怒りと祈りのすべてがこめられて」いると感じたそうです。

もっとも、吉武さんならではの視点が発揮されるのは、この後に続く後半の文章。

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 「みなさん、位里と私のことをおしどり夫婦だとおっしゃる。でも本当は仇敵同士。原爆の図を二人で三十年近く描いてきたけれど、彼は日本画、私は洋画。手法の違う二人が共同制作をするのだから当然ぶつかり合うものがある。絵のほうは歳月を重ねるうちに、日本画、洋画を融合させた新分野を作り出していくことができた。
 でも、位里の女性観は終始一貫変わらなかった。位里は絵かきであり続けたが、私は家事や生活費稼ぎに時間を取られすぎた。私が絵に打ち込みすぎると、位里はぐんと遠ざかる。そして必ず女の影がちらつく。若くして夫に死別した三岸節子さんを、うらやましいと思ったことが何回かあった」
 七歳先輩の洋画家の先駆者三岸節子の伝記を書きたいと私が言ったとき、ふと真情を吐露した丸木さんの言葉が鮮明に蘇ってきた。

 旧姓赤松俊子が十二歳年上の丸木位里と結婚したのは四一年のこと。位里は三度目の結婚だった。俊は北海道生まれ、位里は広島生まれ。原爆投下直後に位里の両親の安否を求めて広島を訪れ、悲惨な光景を目の当たりにしたのが、夫婦で十五部の大作「原爆の図」を描き続けるきっかけだった。
 人の命を無惨に奪う戦争への怒りと、二度と同じ過ちをくり返すことがないようにとの祈りとを、俊は塗り込めていったのだろう。そして同時に、戦前と変わらぬ夫位里の女性観に対する怒りとよきかかわりへの祈りをも。祈りはかなわなかった。それを怒り、また祈る。その切々たる思いがほら貝の音となって響き渡ったのだろう。今も耳を澄ますとあの日のほら貝の音が聞こえてくる。
 だがこの水と油のような男女が夫婦にならなかったら、「原爆の図」は誕生することはなかったのである。


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男に抑圧される女の哀しみ、そして男女の愛憎の果てに見えてくるものを、吉武さんは鮮やかに表現される方でした。
“水と油のような”丸木夫妻の関係は、吉武さんにとって非常に心を惹かれるものだったのではないでしょうか。
2002年8月20日付『デーリー東北』には、小沢節子著『「原爆の図」―描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(岩波書店、2002年)の書評も記されています。

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 「私と俊が夫婦にならなかったら、『原爆の図』はなかったろう」と言ったのは丸木位里だが、確かに丸木位里と赤松俊子という二人の画家の出会いと人生の軌跡を抜きにしては、三十年にわたる夫妻の連作「原爆の図」について語ることはできない。そして同時に、水と油のような男女が夫婦になったことによって、被爆体験の思想化という苦行にも等しい重荷を背負い続けていくことにもなったのである。
 全世界の人々の心を揺さぶり、二十世紀の黙示録的な役割を果たしたにもかかわらず、戦後美術史の中に位置づけられることもなく、社会的な意味さえをも検討されることのなかったのはなぜか。
 著者は「原爆の図」がたどった運命を、この連作の生成の経過を克明に見詰めながら、そこに描かれたイメージを分析し、かつ社会的な働きをち密に解明しつつ謎解きに迫っていく。


(中略)

 未曾有の体験をしたとき、多くの人たちは、既成の言葉や表現に依存して、悲惨な事実を記憶という形で忘却のかなたに葬ろうとする。常に同時代の問題として迫ってくる「原爆の図」には、あいくちを突きつけてくるようで、時にはいら立ちを、あるいは忌避感を抱かせもするのだろう。

(後略)

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《原爆の図》に犬や猫や鶏などが描かれていることを、小沢さんの著書を読んで初めて気づかされたという吉武さんは、小さきもの、そして他者への心配りを忘れず、優しい心づかいをされる方でもありました。
体調がすぐれないにも関わらず、いつも満面の笑顔で丸木美術館に来られていた吉武さんの姿を思い出します。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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2012/4/17

毎日新聞・東京新聞“丸木美術館紹介映像完成”  掲載雑誌・新聞

2012年4月17日付『毎日新聞』埼玉版に、“丸木夫妻の作品、後世に 美術館紹介のDVD完成”との見出しで、このたび完成した丸木美術館紹介映像の記事が掲載されました。
この映像は、地元の東松山CATVの全面的な協力によって制作されたもので、DVDとブルーレイの2種類があり、@丸木美術館A原爆の図(上)B原爆の図(下)C丸木位里D丸木俊E丸木スマの全6巻にわたって構成されています。

http://mainichi.jp/area/saitama/news/20120417ddlk11040286000c.html

以下は、記事からの一部抜粋です。

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 丸木夫妻は反核・反戦芸術家として世界的に知られる。一貫して脱原発を訴えていた姿勢も原発事故以降、再評価されている。
 しかし、同美術館の入場者が年々減少する中、関係者は「伝えること」の難しさを痛感している。「丸木夫妻が残した作品や思想を風化させずにどう受け継いでいくか」。岡村さんはそう話す。
「原爆の図」などを紹介する映像作品は多数あるが、収録時間が長く授業などでの活用が難しいものが大半だという。このため、コンパクトに分かりやすくまとめたものを制作することを決めた。
 同美術館が地元の東松山ケーブルテレビに制作を依頼したところ、同テレビ側が「地域の財産になるので、番組として作って地域の活性化につなげたい」と無償での制作を快諾したという。同テレビは4月から番組の放送を始め、美術館でも希望者に貸し出すことになった。
 岡村さんは第5巻の「丸木俊」編で、こう語りかける。
 「弱い立場の人たちの声に耳を傾け、全力で駆け抜けた魅力的な女性だった」「そのメッセージに耳を傾ける時が来ている」
 撮影と編集に当たった同テレビの稲葉栄美さん(27)は「芸術作品は生で見るのが一番だとは思う。でもこの映像を見て、美術館に行ってみようと思ってもらえたらうれしい」と話している。


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   *   *   *

また、同日の『東京新聞』首都圏版にも同様の記事が掲載されました。
こちらも、記事の一部を抜粋いたします。

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……同市の東松山ケーブルテレビが約二か月かけて制作したもので、美術館の岡村幸宣学芸員は「遠くて来館できない方に活用していただきたい」と話している。
 一巻には同美術館の紹介、二、三巻に原爆の図、四巻以降に丸木位里、丸木俊、丸木スマの作品が収められ、岡村学芸員が時代背景などを含めて解説している。各巻に特集も組まれ、米軍の発禁処分を受けた幻の絵本「ピカドン」などを収録している。
 制作を担当した同テレビの稲葉栄美さんは「これまで美術館などにあまり縁がなかった方でも楽しめる一方、すでに作品をご覧になった方でも理解が深まる内容に仕上がったと思う」と説明している。


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映像の貸出料は1回につき5000円(期間などは応相談)、来館予定の学校・団体への貸し出しは無料となります。
取材して下さった毎日新聞の中山信さん、東京新聞の仁賀奈雅行さんに心から御礼を申し上げます。
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2012/4/15

李徳全来日と赤松俊子の《鳩笛》  1950年代原爆の図展調査

少し前に、早稲田大学の幻灯研究プロジェクトのWさんから、神戸映画資料館での幻灯資料調査にあたっていたところ、1954年の紅十字会代表の李徳全の来日を記録した『平和のかけ橋—李徳全女史一行来訪記録』(おそらく1954年製作、日本幻灯文化社)という幻灯作品のなかに、赤松俊子(丸木俊)の登場する一枚があったとの報告を頂きました。

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(15)赤松俊子さんの鳩笛の絵
ふるさとの鳩よ、日本の婦人の平和の願いをこめて平和平和と鳴け・・・・・・
赤松俊子さんは、東北弘前地方に残る郷土芸術、鳩笛に日本女性の姿をたくして
喜びと感謝の真心こめてこの絵を送りました


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東京都日中友好協会のKさんのご教示によれば、1954年10月30日から11月12日にかけて、李徳全会長を団長、廖承志顧問を副団長とする中国紅十字会代表団が日本を訪問しました。
この代表団は、日本赤十字社・日中友好協会・平和連絡会の三団体の招請によって来日したもので、1949年中華人民共和国が建国されてから初めての正式訪日代表団だったそうです。

その年の9月には、中国文化学術視察代表団(安倍能成団長)が訪中して周恩来総理と面会し、10月には日中・日ソ国交回復国民会議(風見章理事長)が結成されるなど、日中国交回復に向けての機運が広がっていましたが、この中国紅十字会代表団の訪日によって日本各界との幅広い交流がはじまり、その後の民間レベル、政治・経済レベルでの日中関係の発展や、中国残留日本人・戦犯未帰還者の帰国が促進されるなどのきっかけとなりました。

 代表団一行のメンバーには、廖承志副団長をはじめ、肖向全、楊振亜、呉学文などの日中友好関係でその後大きな足跡を遺した要人が含まれていました。東京・京都・大阪など、各地で熱烈な歓迎を受け、なかでも11月6日に大阪市内の扇町公園で開かれた西日本歓迎大会では、会場内に3万人、場外に1万余人があふれ、各新聞はそれを“李徳全ブーム”と呼んだそうです。

私も当時の新聞を調べてみたのですが、たしかに大きく取り上げられていて、李徳全らの来日が社会的な現象を起こしたことが伝わってきます。しかし、彼女に赤松俊子が鳩笛の絵を送ったという記録は登場せず、丸木夫妻の回想にも出て来ないので、幻灯の記録が今のところ唯一の証拠のようです。

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丸木位里・赤松俊子画文集『ちび筆』(1954年3月1日、室町書房)のなかに、「鳩笛」と題する印象的な随筆が収められています。
1953年6月の第2回世界婦人大会に、俊子が日本代表の副団長として参加し、壇上で挨拶をする機会を与えられたときの体験を記したものです。

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 挨拶のあと何を贈りものにしたらよいのでしょう。あわてふためき、汗にまみれたまま出発したのです。なにもないのです。でも何か贈らねばなりません。わたしはトランクの中をひっくりかえしました。原爆の被害写真が出てきました。原爆の科学の本が出てきました。幻燈が出てきました。これ等一切を贈りましょう。日本の悲しい姿のはじまり、そうして、この原爆から今日の基地、パンパン、浮浪者、失業者が続いているのですから、それは必ず見てもらわねばなりません。
 だが、あの宝石のような、心温まる贈りものはないでしょうか。トランクの隅から鳩笛が出て来ました。可愛いい鳩笛です。土の香のある鳩笛です。これは、出発の前日、弘前の女の人がとどけて下さった玩具でした。そうだ、これにしよう、と私は壇上に登りました。わたしは日本語で話しました。五ヵ国語に訳されて同時に放送されていきます。そうして挨拶を終えると鳩笛を取り出しました。みんな何だろうと見ています。鳩笛の首に字が書いてあります。それを朗読いたしました。
 『平和のために倒れたリツ子と共に、世界婦人大会にこの鳩笛を贈ります。郷土の鳩笛よ、リツ子の魂こめて、平和平和と鳴け、世界の果てまで。息子の嫁、リツ子の母、山本梅子』
と書いてありました。そうしてわたしは鳩笛を吹いたのです。
 『ホーホー』
 二声です。
 会場は拍手、立ち上って。泣いている人もありました。会長マダム・コットンさんのところへ鳩笛と原爆の資料を持って行きました。
 『宝石はなかった。立派な品物はないのです。でも、日本の女性の気持をおくみとり下さい。日本の女は、嫁も姑も、もう争うことをやめ、心を合せて平和のために働きはじめました』と、まごころ込めて渡しました。
 マダム・コットンは、鳩笛といっしょにわたしを抱いて下さいました。泣けて泣けて仕方がありません。今抱かれているのは、わたし一人ではないのです。日本のすべての女性なのです。ぼう然としているわたしの頬へチュッ、チュッと、右と左へ接吻をして下さいました。わたしはのぼせてしまって、拍手してくれていることも忘れてしまっていました。こんどはデンマークの代表のルースハーマンさんです。ルースハーマンさんも鳩笛といっしょに抱いてキッスをして下さいました。こんな、接吻などというものは生れてはじめてです。おかえしの感謝接吻をしなければならないのに、わたしはつっ立っているばかりです。こんどは中国代表の李徳全さんです。李徳全さんも鳩笛とわたしをいっしょに抱いて下さいました。東洋人だから抱くだけだろうと思っていたら、チュッ、チュッとキッスです。わたしはびっくりしてしまいました。


(『ちび筆』pp.242-245)

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こうした関係があったために、翌年に李徳全が来日した際には、俊も再会し、自作の油彩画を贈るという運びになったのでしょう。

この随筆には、俊が鳩笛と出会った経緯についても記されています。
それによれば、俊が世界婦人大会に旅立つ直前に、山本梅子と名乗る中年の女性が訪ねて来て、ヨーロッパの土産にと鳩笛を託したのだそうです。
梅子は、「原爆の図展」が弘前で開催(1951年6月16日から18日まで、弘前市かくはデパート5階)されたときに、俊が慰労会で出会った若い夫婦の母親だといい、嫁のリツ子が、その後、貧しさのなかで病気で亡くなってしまったと知らせてくれたのです。

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 『覚えています、覚えています。真赤な頬、リンゴの頬の津軽美人だった……』
 『平和活動というのはなまやさしいことではなかった。貧しさと闘いながら、彼女は病を得て死んだ……。せめて、息子の嫁のためにと、鳩笛に姑の願いをこめて、コペンハーゲンへ持っていって頂いたのです』
 日本のあちこち、世界婦人大会の模様を話して歩きました。世界の女性は手を握り合いました。平和のためにつながりました。日本女性の願いも同じ、この鳩笛を吹きました、と。
 鳩笛を吹きながら、弘前へ行きました。弘前の人人がびっくりしました。
 『わたしたちの郷里にそんなものがありましたか』
 『全く良い声の鳩笛です。そんな立派な郷土芸術があったのか』
と、放送局がホーホーと鳩笛を吹いて放送してくれました。
 それから、東京に帰った或日、山本さんが訪ねてくれました。
 『弘前のリツちゃんのほんとうのお母さんが、泣いてあやまりに来ました。わたしが悪うございました。あなたがそんなにわたしの娘のことを思っていてくれたことは知りませんでした。こんど、はじめてわかりました、と』
 『わたしはこれで満足です。嬉しうございます。――リツちゃんは他へ嫁にいくことになっていたのです。リツちゃんの家は金持ですから、リツちゃんは美人でしたので、やっぱり弘前でも指折りの家へ決めたのです。その結婚式の前の日にリツちゃんはわたしの家へ逃げて来たのです。山本の息子が誘惑したと、怒り続けていました。そうしてリツちゃんが死んだので、それ山本の赤がわたしの娘をとうとう殺してしまったと言っていました。鏡もない二人。わたしは鏡台とたらいを買って送ってやりました。二人はその鏡台もたらいも使わずに、結婚の用意をする人に売ったというのです。売った金がまた手に入らない。きっとその人も金に困った人だったのでしょう。また、あなたはおなかがすいている。顔にかいてある、といってリツちゃんは、平和活動家の若い人たちに自分たちは食べずに食べさしていました。ほんとうにやさしい娘でした、嫁でした。生活に疲れ活動に疲れて死んだのです。
 せめてリツちゃんのお墓に地蔵さんでも建ててやりたい、と思っていたのです。貯金が六千円貯まりました。でも地蔵さんより鳩笛にしました。それだけみんな鳩笛を買いました。その鳩笛を、一軒一軒売って歩いています。平和の願いをこめて、民族のほこりをこめて』
 津軽弁のたどたどしい言葉です。わたしは鳩笛を吹いている山本さんの肖像を描くことにしました。日本の鳩笛、郷土の鳩笛を吹く日本の婦人を。


(『ちび筆』pp.248-250)

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おそらく、この山本梅子の肖像が、李徳全来日の際に俊が彼女に贈った油彩画だったのではないでしょうか。
俊はこの頃、他にも若い娘や外国の婦人をモデルにした《鳩笛》の作品を残しています。

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鳩笛(1956年、原爆の図丸木美術館蔵)

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鳩笛(1960年第13回日本アンデパンダン展出品、個人蔵)

この2点は今回の「生誕100年 丸木俊展」にも出品しているのですが、最初に描かれた《鳩笛》は、李徳全の手に渡って、中国へと運ばれていったことと思われます。
現在は所在がわかりません。

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李徳全(1896-1972)は、牧師の娘に生まれ、抗日戦争中から女性解放と託児所事業に従事し、女性の地位向上に尽力した方です。1949年4月には中華全国民主婦女連合会副主席となり、建国後は国務院衛生部長(衛生相)、中国紅十字会々長、中国人民救済総会副主任などを歴任しています。

また、フェリス女学院大学S教授のご教示によれば、位里と同じ田中頼璋門下で日本画を学び、俊と同じ女子美術学校を卒業している中国の女性画家・革命運動家の何香凝も、李徳全とはさまざまな因縁があり、ともに革命と内戦のただ中を生きながら、新中国建設に深く関わったということです。

幻灯に記録された一枚の油彩画から、激動の20世紀の歴史の一断面を見ることができました。
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2012/4/14

埼玉県立近代美術館「草間彌生展」  他館企画など

この日は午後から、元M美術館のM学芸員と待ち合わせて埼玉県立近代美術館に行き、初日を迎えた「草間彌生 永遠の永遠の永遠」展(5月20日まで、会期中無休)を観てきました。

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大阪の国立国際美術館では22万人という現代美術作家としては記録的な動員をした話題の展覧会の巡回です。あいにくの雨模様でしたが、館内には私も埼玉近美では今まで見たことがないくらい大勢の人が訪れていました。

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これまでにも、東京国立近代美術館や森美術館で行われた大規模な個展は観ているのですが、実際に草間彌生さんご本人の姿を拝見したことは一度もありませんでした。
そこで、特別記者会見も覗かせて頂いたのですが、建畠館長(写真左)や上田知事(写真右)とともに出席した草間さんは、83歳とは思えないほどエネルギーあふれる様子で挨拶をし、自作の詩も2編朗読されました。

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会見の終わった後は展覧会場へ。絵画作品は撮影禁止なのですが、立体作品は撮影可だというので、窓際に置かれていた草間さんのトレードマーク《大いなる巨大な南瓜》を撮影。

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記者会見で草間さんが「ぜひ観て欲しい作品は?」と問われて、「チューリップの部屋」と答えた《チューリップに愛をこめて、永遠に祈る》と題されたインスタレーション作品も撮影可能でした。

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LEDの灯を鏡や水面で増幅させた《魂の灯》なども見応えがあり、とてもエンターテインメント性の高い展覧会だと思います。

しかし、もっとも心を惹かれたのは、やはり細かいパターンが繰り返し丹念に描かれた絵画作品でした。じっと観ていると、草間さんが筆を動かすことに没頭している様子が絵の中から伝わってくるようで、表現者としての強靭さ、そして描くという行為に対する根源的な普遍性に、本当に胸が熱くなりました。

さすがは美術界のスーパースター。草間さんが姿を現すたびに、記者会見場でも展覧会場でもたちまち撮影大会がはじまってしまうのですが、ご本人が穏やかな顔で快く撮影に応じていらっしゃったのが、印象的でした。
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2012/4/13

『西日本新聞』“「原爆文学」以後 研究会次への議論”掲載  掲載雑誌・新聞

2012年4月12日、13日の『西日本新聞』に、“「原爆文学」以後 研究会 次への議論”と題する大矢和世記者の記事が2日間にわたって掲載されました。

昨年末に設立10年を記念して福岡で開催された原爆文学研究会のワークショップに参加したことは、丸木美術館学芸員日誌にも記しました。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1785.html

また、2012年3月発行の「原爆文学研究会会報」にも、ほとんど似たような内容ですが、報告記事を書かせて頂いています。

http://www.genbunken.net/kaihou/37.pdf

このときのワークショップには大矢記者も参加され、その様子を4月12日の「上」編で次のように詳しく報告しています。(以下、記事からの一部抜粋)

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■既存の構図

 被爆国の住人だからこそ、放射能について正確な知識があり冷静な判断ができるのか。原発事故が突き付けたのは「そうとは限らない」という現実だった。むしろ放射能にまつわる根拠のないうわさは、原爆による“見えない恐怖”の記憶が増幅させたようにも映る。ワークショップで、長野秀樹・長崎純心大教授は「白血病や被爆2世…原爆文学は『被ばく』への差別やステレオタイプ化に大きく貢献してきた」と“功罪”を指摘した。定型的な構図を覆す作品もあるが「量としては(ステレオタイプの方が)圧倒的」とする。
 原子力平和利用の名の下、1950年代から原発の建設推進が加速する一方、長く原爆文学=反核という文脈があったこともワークショップで話題に上った。文芸評論家黒子一夫さんは著書『原爆文学論』で〈どうしたら《反核》を意識の深層に植え付けることができるのか。(略)すぐれた《原爆文学》に接することは、その最も良い方法の一つである〉と記している。
 川口隆行・広島大准教授は、原爆文学=反核の図式に「直接的で違和感がある」としつつ、「(原子力の平和利用とされた)原発を、原爆と結び付けて考えようとした。反核としての文学が切り開いたものもあったのでは」と一定の評価をする。一方、中野和典・福岡大講師は、原文研が英米文学や映画、漫画なども対象にしてきたことを踏まえ「新しい表現を論じるのだから、論じる側もプロレタリア文学研究での視点のような“紋切り型”を抜け出さないといけない」と訴えた。原爆がステレオタイプ化し、イデオロギーと結び付きやすい題材であるだけに、既存の構図を揺さぶる視点を置き続ける原文研の立ち位置を強調した。

■海外の視点

 原文研の取り組みで近年顕著なのは、広島と長崎の原爆だけではない「被ばく」についての考察だ。ワークショップでは米国の先住民が多く住む地域のウラン鉱と、台湾の原子力関連の問題が報告された。このうち台湾について李文茹・淡江大助理教授(台湾)は、昨年「台湾被爆者の会」が結成されたばかりの台湾人被爆者の問題、日本企業が技術提供した原発、そして先住民族の島に建てられた放射性廃棄物貯蔵場に言及した。「台湾にとって原爆は、植民地支配からの解放を意味してきた。しかし被ばく者への想像力が足りなかったのでは」と李助理教授が話すと、東大大学院の中尾麻伊香さん(科学史)は「韓国でも原爆によって解放されたという視点があったと思う」。海外でも、日本の“平和利用”に通じるいびつさがうかがえた。


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時間の経過とともに、被爆者以外の人びとにとって記号化されていった「原爆」への認識が3.11以後ぐらついている、と指摘する大矢記者は、「原発や放射性廃棄物が中央ではなく、地方や先住民の居住地などへ追いやられるさま」、「「原子力の平和利用だ」と原発計画を進める意志に、どこか戦争被害や被支配を見返そうとする意趣返しが潜んでいるさま」が国境を越えて奇妙に符合しているとし、当事者と第三者との境界は無きに等しく、「誰もが“当事者”としての自覚が求められていると実感する。」と記しました。

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そんな状況の中で、「核」を身近に迫るものとして扱った作品も現れはじめています。
それらの表現に言及しているのが、4月13日の「下」編の記事。丸木美術館のChim↑Pom展についても、取材を受けました。

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■震災後の表現

 若手美術家集団「チン↑ポム」が昨年末、埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」で作品展を開いた。彼らはこれまで原爆をテーマにした作品を発表してきたが、手法で物議を醸すことも多い。同美術館の岡村幸宣学芸員は「もともと追体験や痛みに寄り添うこととは違う、リアリティーのなさから出発している表現」と説明する。
 だが今回の作品展は、メンバーが福島第1原発の作業員として働いたり、被災者と共に映像作品を作ったりしたことで「彼らの表現が大きく変わり、リアリティーが生まれた」とし、「依然、マスメディアでは『彼らを積極的には評価できない』という空気が占める中、多くの若者が作品展に訪れた。これは何なのかと、突きつけられている」と直面した問いを示した。
 震災後に出てきた表現については、対照的な意見があった。起きた事象から間を置かずに出たものが必ずしも優れているとは言えず「見るべきものはもっと遅れて出てくる」という声。一方、自らも低線量での被ばく者になっているかもしれないという自覚から「何か、伝わってくるものがある」とする擁護の声。双方にうなずける部分はある。ただ、身構えるにしても受け止めるにしても、同時代の「リアリティー」が発生していることは確かだ。作り手側にしてみても、今日に「核」を扱うということはリアリティーに端を発する着想の部分もあるだろう。このときに、留意すべき視点は何か。
 文芸評論家の陣野俊史さんは近著『世界史の中のフクシマ』でアナロジー(類推)の質に注意する必要がある〉と指摘する。〈大震災に遭遇し、今の状況を説明する参照枠が欲しくなったとき、人は必ず過去を振り返る〉と続けている。現に震災後「日本は戦後の廃墟から立ち上がった。震災でも被災地を必ず復興させる」といった、戦後と震災を重ねる風潮が表れた。
 この風潮に関連し、深津謙一郎・共立女子大准教授は、終戦から戦後復興期にかけて復興の“物語”が原爆の暴力性から目をそらし、復興にまい進するための「共感の共同体」として働いたことに着目する。震災でもまた、美談やスローガン的な言葉が飛び交ったことを「(放射能という)可視化できない不安を物語化することでやわらげ、揺らいだアイデンティティーを確認するための物語が取り巻いている」ととらえる。
 深津洵教授は、そうした風潮と一線を画す重要性を語り、「『絆』と盛んに言われているが、むしろ差異が強烈に表れている現状がある。(絆に)誰が入って誰が入っていないのか、差異に注目することが、(双方の)共存の可能性を探る足がかりになる」。「絆」という言葉だけが震災復興の「共感の共同体」になる危うさを指摘する。


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その後、大矢記者は、再び原爆文学の問題に戻り、当時の文学がなぜ「原爆」のステレオタイプ化の助長にも寄与してしまったかを考えます。
原爆症の兆候におびえる、あるいは無念のうちに生涯を終える被爆者像が普遍化していく過程で、マスメディアや多くの受け手が、半ばステレオタイプ的に“あるべき被爆者像”を描いてしまったのではないか。それでは被爆者たちの「差異」をなきものにし、一人一人の内面に渦巻いているあらゆる感情や困難を覆い隠してしまう。

このあたりは、3.11後の現在における、すべての表現を考える際に、非常に重要な問題だと思います。
Chim↑Pomの表現に多くの人びとが反応したのも、彼らが(表現形式の倫理的な問題はともあれ)既存の「ステレオタイプ」の表現から逸脱し、自分たちなりのリアリティを模索しようとしている姿勢が、心に響いたのかも知れません。

記事の最後は、次のように結ばれています。

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 日本で、今リアリティーを帯び始めた「核」を考える時、ステレオタイプの原爆文学ではなく、原文研が活動を通し、地域や国境、表現手法…絶えず揺さぶってきた広い意味での「原爆文学」の方に、重点を置く必要があるのではないか。
 これから生まれる震災後の表現もまた、とことん「差異に注目」して、作品として示すことも、ひとつの在り方なのかもしれない。無責任な言い方をしてしまえば“つくられるべき”作品などなく、どんな作品でも生まれていいと言える。まさに今も、さまざまな実作者が模索しているし、これからも格闘を続けるだろう。そしていずれ、「原爆文学」以後の作品が、原文研の研究対象に挙がる日も来るのだと思う。
 (大矢和世)


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