2012/2/29

テレビ埼玉“NEWS930”特集「丸木俊展」  TV・ラジオ放送

午後9時30分からのテレビ埼玉のニュース番組“NEWS930”の特集で、「生誕100年丸木俊展」が取り上げられました。
5分間ほどの番組の内容を、以下に書き出してみます。

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小室早弥香アナウンサー(スタジオから)
特集です。今年は《原爆の図》をはじめ、多くの作品を残した画家・丸木俊の生誕100年を迎えます。87年の生涯を振り返る企画展を紹介します。

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  【映像】《アウシュビッツの図》

丸木俊さんは、夫の位里さんとともに20世紀の人間が犯した過ちを、大胆な構図と筆づかいや細密な描写で表現してきました。

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  【映像】《よこたわる母子像(原爆の図)》

東松山市の丸木美術館では、今、俊さんの生誕100年を記念する企画展が開かれています。

  【映像】展覧会場風景、《水俣・原発・三里塚》、丸木俊の写真など

俊さんは、87年の生涯で、《原爆の図》をはじめ、アウシュビッツや水俣、沖縄戦など、歴史や社会問題をテーマに取り組んできました。
しかし、その人柄は、意外にも気さくだったといいます。

丸木ひさ子さん(流々庵の前で)
お客さん来てもね、いらっしゃいという感じで、ここでよく絵を描いていたんですけど、そんなに気難しいという感じではなくて、話しながらもね、絵を描いてましたし、一杯飲んでいけみたいな感じで、ご飯食べたりね。

  【映像】丸木俊の写真など

岡村(企画展示室にて)
俊さんの場合は、何と言っても、人間を描く画家だったということが言えると思うんですね。
人間の暮らしが好きで、人間がずっと語り継いできた物語が好きだった、というのが絵を見ているとすごく良く伝わってくるんですね。

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  【映像】《裸婦(解放されゆく人間性)》

小室アナウンサー(ナレーション)
《裸婦(解放されゆく人間性)》は、大地にしっかりと足をつけた、たくましい女性の姿を表現した代表作です。

岡村(作品の前にて)
この作品は戦後すぐに描かれた、原爆の図より前に描かれている戦後の記念碑的な作品だと思います。
俊さんは女性の社会的な解放運動のなかでも先頭に立って活躍してきた方なので、その当時の新しい時代を自分たちで作っていくぞ、という気持ちが絵の中にあらわれているんじゃないか。
俊さんの精神の自画像なんじゃないかと思います。

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  【映像】《ヤップ島》

小室アナウンサー(ナレーション)
《ヤップ島》は、ミクロネシア旅行中に出会った現地の人びとを描いた一枚です。
一見、俊さんの作風に合わないと思われるこの絵に、丸木俊のルーツが感じとれると岡村さんは語ります。

岡村(作品の前にて)
それぞれの土地で、地面に根ざしてしっかりと生きている人たちに対する優しい眼差しが俊さんにはあった。その大切な人間の暮らしが、たった一発の爆弾で破壊されてしまったということに対する怒りが、《原爆の図》を描かせている。
という意味では、俊さんの原点、人間に対する鋭い観察力とか深い愛情の眼差しが、こういう南洋の絵のなかにあらわれてきている。

  【映像】丸木俊のVTRなど

小室アナウンサー(ナレーション)
震災と原発事故。その翌年に迎えた生誕100年という節目。俊さんは今の時代に何を思うのでしょうか。

岡村(企画展会場にて)
こういう時期に俊さんの生誕100年を迎えて、再び注目を集めるというのは、何か大きな巡り合わせなんじゃないかという気もするんですね。

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  【映像】《炎の母子像》

俊さんの場合、本当に生きること、描くこと、社会を見ることというのが、つながっていたと思うんですね。それを残された作品のなかから、感じとってもらえたらという気がします。

丸木ひさ子さん(流々庵の前にて)
ずっとチェルノブイリの事故があって、もちろん原爆もあって、本当に放射能の恐ろしさをずっと言い続けてたのね。

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  【映像】《水俣・原発・三里塚》
  テロップ「《水俣・原発・三里塚》(1981)では放射能被害の脅威が描かれている」

今、子どもたちのこととかすごい心配しただろうと思います。人のいのち、ですかね。
やっぱり、丸木位里も俊もただひたすらそれを思ってそれを描いたという一生と思うので、やっぱり、人のいのちを大事にするということを強く感じてもらえたらと思います。

  【映像】丸木位里・丸木俊のVTR、写真など

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限られた放送時間のなかで、とても心に残る番組を制作して下さったS記者はじめスタッフの皆さまに、心から御礼申し上げます。
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2012/2/29

銀世界と雪だるま親子  自然・生きものたち

今日は朝から丸木美術館のまわりは雪。
見渡す限り銀世界です。

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こんなに雪が降るのは久しぶり。
先日、庭先を駆け抜けて行ったタヌキも、今日はどこかで寒さをしのいでいるでしょうか。

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お客さんも来ないので、雪だるまで美術館をちょっとだけ賑わせてみました。
親子の雪だるまが美術館の入口を見上げています。

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2012/2/28

『埼玉新聞』“東松山・青鳥小「放課後子ども教室」”掲載  掲載雑誌・新聞

2012年2月28日付『埼玉新聞』に、“自然の素材で壁掛け作り 東松山・青鳥小「放課後子ども教室」 丸木美術館スタッフと児童交流”との見出しで、丸木美術館の出張ワークショップの記事が掲載されました。
青鳥(おおどり)小学校は、30年前の開校時に丸木夫妻が大きな青い鳥の絵を校舎の壁画に描いたという縁があります。

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2月16日と17日に行われたワークショップには、本当は私も参加する予定だったのですが、インフルエンザで残念ながら参加できませんでした。しかし、理事の万年山さんや事務局長の中野さんが参加して、とても楽しい工作教室になったようです。
以下は、記事からの抜粋。取材をして下さったのは、自身も青鳥小の一期生だったという埼玉新聞のS記者です。

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 東松山市の放課後子ども教室は、市教委が本年度から青鳥小と新宿小で試験的に実施。児童が地域社会の中で育つ環境づくりを目指し、学校の余裕教室を活用して地域住民の指導のもと放課後、勉強やスポーツを楽しむ。1〜3年生20人が昨年9月から週2回取り組んできた。トランプや折り紙のほか、ドッジボールなどの外遊びもする。元教諭や民生委員などが児童を見守っている。
 丸木美術館から中野京子事務局長ら4人が来校。青鳥小の校舎には「原爆の図」で知られる画家故丸木位里、俊さん夫妻が手がけた青い鳥の大壁画が描かれ、学校のシンボルとなっている。この日は児童19人が参加し、地域の大人たちと一緒に松ぼっくりやクリなど自然の中で見つけられる素材を使って壁掛けをつくった。
 児童たちはボードの上に木の実などをはり付け、思い思いにデザインを表現した。1年生の小久保樹君は「目はコーヒー豆、口は松ぼっくりで犬の顔にしたい」と一生懸命に手を動かした。川越市にアトリエを構える美術家万年山えつ子さん(67)は「丸木さん夫妻の青い鳥がいる学校に初めて来ることができて感激。今後も青鳥小の子と交流する機会があればうれしい」と話していた。


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2012/2/28

田中三蔵さんの訃報  掲載雑誌・新聞

元朝日新聞編集委員で、長年美術担当をされていた田中三蔵記者が2月27日に亡くなられたそうです。享年63歳でした。
丸木美術館にもたびたび取材のために足を運んで下さり、個人的にもたいへんお世話になったのですが、とりわけ深く印象に残っているのは、2004年8月9日『朝日新聞』夕刊文化欄の記事“「戦争画」見直す2展 横山大観と丸木位里・俊”です。
当時、東京藝術大学大学美術館で開催中だった「横山大観『海山十題』展」と、丸木美術館の「《原爆の図》をめぐる絵画表現」展(2004年5月18日-9月3日)を取り上げ、同時代の好対照の動きとして比較した内容です。

1940年、日本画界で統率者的存在だった横山大観(1868-1958)は、「紀元二千六百年」を祝自らの画業50年を記念して「海に因む十題」と「山に因む十題」を制作し、展覧会の売上金50万円を陸海軍に寄贈、軍用機4機が作られました。
その頃、後に《原爆の図》を描くことになる丸木夫妻は、どのような動きをしていたのか。
以下は、田中さんの文章からの抜粋です。

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 日本画家の位里(1901-95)と洋画家の俊(1912-2000)は、戦後の共同制作「原爆の図」の15連作で知られる。同館常設展示室にあるこの一群の作品は、「共闘制作」という評者もいるほど、異質な個性を持った2人の激しい格闘と、様々な取材、支援者の声や要望の蓄積から生まれたが、本企画展は、2人が結婚する前史から比較してみられる。
 興味深いのは、大観の「海山十題」発表のころの位里はシュールレアリスムなどをくぐった「前衛的画家」で「雲」(39年)など、今ではむしろ戦後の抽象表現主義絵画かと見えるような実験的・先駆的な試行をしていた。また俊は、当時の女性としては珍しい行動家で、日本の統治下にあった西太平洋のミクロネシアへ旅をし、「ヤップ島」(40年)などゴーギャンの影響が強い画風だった。
 こうした幅広い資質を持っていた作家たちが、戦争体験を経てどう変わったのか、変わっていかざるを得なかったのか。美術家の「戦争協力」に対する戦後のいくつかの論議は、あいまいさを残したまま霧消していった。が、「戦争画」という作品をめぐっては、今後も戦前・戦後を含む長い視程で慎重に見直しを続けたいものだ。
 位里は77年になって「『原爆の図』を描いたことがよかったか悪かったか、ちっとばかり気がかりだ。恥を末代まで残したかもしれない」と書いた。自分の、他者の、代表作までも疑う。そのくらいの大きいスケールの自省、反省が必要とされるだろう。


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この企画展は、自分にとっても、学芸員として丸木夫妻の表現とは何であったかを具体的に検証する初めての試みであったので、田中さんが紙面に取り上げて下さったことは、本当に大きな励みになりました。

心からご冥福をお祈りいたします。
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2012/2/23

テレビ埼玉「丸木俊展」撮影  来客・取材

午後からテレビ埼玉のS記者ら3名が来館。
「生誕100年 丸木俊展」の取材撮影を行いました。

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私はチラシの表紙にも使っている《裸婦(解放されゆく人間性)》や《ヤップ島》、《ロシア人形》、《横たわる母子像(原爆の図)》などの油彩画の代表作の前で、それぞれの作品を解説。
流々庵では、俊の姪の丸木ひさ子さんのインタビューも撮影されました。
放送は2月29日(水)の夜9時半からの「NEWS930」で、特集として5分ほど紹介して下さる予定とのことです。
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2012/2/21

インフルエンザから復帰/新井卓さん来館  来客・取材

先週はインフルエンザに感染してずっと自宅で寝込んでいました。
おかげで、予定していた健康診断や総務委員会、練馬区立美術館で開幕した「中村正義展」のレセプションなどは全部キャンセルとなってしまいました。
その他の仕事もすべて大幅に予定が狂ってしまい、関係の皆さまには本当にご迷惑をおかけいたしました。
ようやく本日から体調が戻り、職場に復帰しています。

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午後からは、写真家の新井卓さんが来館し、今年夏に丸木美術館で予定している写真展の打ち合わせを行いました。
新井さんは1978年川崎生まれ。写真黎明期の技法・ダゲレオタイプ(銀板写真)を独自に習得し、作品を制作。昨年3月11日の地震発生時には偶然、第五福竜丸展示館から借りていたビキニの死の灰を撮影中だったそうです。その後、福島県の飯館村や南相馬などを訪れながら、原発事故後の風景や人びとの姿を銀板に記録し続けています。昨年、川崎市民ミュージアムで開催した個展「夜々の鏡 Mirrors in Our Nights」も素晴らしい内容でした。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1725.html

今年は3月14日から20日まで銀座ニコンサロンで写真展Here and There −明日の島を開催するほか、6月から7月にかけては、東京国立近代美術館での個展も決まっているという現在注目の若手写真家です。

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「われわれが福島を見つめるのではなく、福島からわれわれを見つめ返すような展覧会を作りたい……」と語る新井さんが、どのような作品を丸木美術館で見せてくれるのか、大いに期待したいと思います。

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現在開催中の「生誕100年 丸木俊展」も少しずつ反響が出てきています。
埼玉県内向けのNHK-FMラジオ放送「日刊!さいたま〜ず」への番組出演が3月21日(水)に決まりました。
また、テレビ埼玉からも取材の依頼が。こちらは2月29日(水)夜のニュース番組のなかで特集が組まれることになりそうです。
詳細は追ってお知らせいたします。
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2012/2/16

『朝日新聞』埼玉版“「原爆の図」に人間愛 丸木俊生誕100年展”  掲載雑誌・新聞

2012年2月16日付『朝日新聞』朝刊埼玉版に、“「原爆の図」に人間愛 丸木俊 生誕100年展、100点並ぶ”との見出しで、現在、丸木美術館で開催中の「生誕100年 丸木俊展」が紹介されました。
http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000001202160001

取材して下さった西埼玉支局長のMさんは、会期前の事前取材に加えて、初日の対談イベントにも来場して下さいました。心より御礼を申し上げます。
以下、記事から一部を抜粋します。

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(前略)
 俊は、女子美術専門学校(現・女子美術大学)を卒業後、外交官の子の家庭教師としてモスクワに住み、ロシアの家庭や少年少女、劇場での芝居、風景画などを描いた。タヒチの人々を描いたゴーギャンにひかれ、1940年にパラオやヤップ島を訪れ、生き生きと暮らす島民を描いた。

 帰国後、水墨画家の丸木位里(1901〜95)と結婚。45年の原爆投下直後、位里の実家があった広島に2人で入った。
 「原爆の図」は、肌が焼けただれた母子が朱色の火から逃げ惑う様子や、水を求めた人々の裸体が川辺に折り重なる様子などを描いた。苦痛を訴える人々を主に俊が描き、位里は墨を流して全体の情景を構成。50年に第1部「幽霊」を発表し、82年までに全15部を完成させた。

 丸木夫妻とともに展覧会を開いていた画家の平松利昭さん(65)は「俊さんは全身全霊で感じ、自分の中にたまった叫びを、自由自在な筆づかいで描いた」と評する。
 同美術館の岡村幸宣学芸員は、島民らを描いた作品について「大地に根をおろして生きる無名の人たちへの愛情の視線が見える」と話す。その上で、「長い年月をかけて育んできた暮らしを破壊し、人々の命を奪った戦争への怒りが、『原爆の図』を描かせた」と読み解く。
 東京電力福島第一原発事故から、来月で1年。生前の俊について、めいにあたる絵本作家の丸木ひさ子さん(55)は、「『原発は、ゆっくり燃える原爆だ』と言っていた。人が幸福になるために、自然を汚してはいけないという思いが強かった」と証言する。

(後略)

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2012/2/12

銀座シネパトスにて今井正監督映画『原爆の図』『純愛物語』特別上映  館外展・関連企画

銀座シネパトスで、1月23日から「生誕百年 今井正監督特集」が行われています。
『また逢う日まで』や『青い山脈』、『山びこ学校』、『ひめゆりの塔』など数々の名作で知られる今井正監督の生誕100年を記念し、全監督作品48本の中から選りすぐりの名作を第1部(1/23-3/2)、第2部(3/31-5/3)に分けて上映する企画です。

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この日は、『米』や『純愛物語』など今井正作品で共演したことがきっかけで結婚された江原真二郎さんと中原ひとみさんをゲストに迎えたトークショーや、映画『原爆の図』(1953年、丸木美術館提供)と『純愛物語』(1957年、東映)の特別上映が開催されました。

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ロビーの壁には映画『原爆の図』と『純愛物語』の詳しい資料も展示され、「生誕100年丸木俊展」のチラシも置いて下さっています。

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トークショーでは、日本映画全盛期を知る江原さん、中原さんが、デビューのきっかけ(江原さんは京都の撮影所の大部屋出身、中原さんは東映ニューフェースの1期生と対照的なデビューだったそうです)や、当時の映画界の様子、今井正監督との思い出などを語って下さいました。

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トークの後は、映画『原爆の図』と『純愛物語』の16mmフィルム上映。
映画『原爆の図』は、これまでに何度も見ている作品ですが、映画館の大きなスクリーンで観るのは初めてです。
今井正・青山通春監督となっていますが、青山監督の回想によれば、実際には青山監督が撮影されたとのこと。

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(前略)長年助監督の仕事をしていた私は、プロデューサーの岩崎昶さんから今井さんと一緒に「原爆の図」の記録映画を撮ってみないかと言われた。
 一緒にと言っても当時今井さんは東映で「ひめゆりの塔」の撮影に入る所だったので、結局今井さんの監修というか指導で私が撮る事だったのである。
 私にとって生れて始めて撮る映画がこんな光栄のある立派な仕事だとあって、私は大喜びでやらせて頂くことを承諾した。

(中略)
 撮影は藤沢の丸木さんのアトリエから始まった。
 監督というものは何時もカメラの後にデンと構えて、撮影全体の流れを見ていなければならないのだが、駆出しの私は持前の長い助監督生活の習性が身にしみついていて、絶えずカメラ前のゴミを掃除したり小道具の位置を直したりして落着かなかった。見兼ねた今井さんはこっそり私を呼んで、「青ちゃん、出来るだけ腰をかけて居なさいよ、疲れますからね」と注意された。
 今井さんにはその後も何度もラッシュ・プリント(調子を見るために撮影したフィルムをすぐ現像し、何の手も加えないでそのままプリントしたフィルム)等も見て貰ったが、何時もニコニコしながら「良いじゃないですか、まあ思った通りやりなさい」と言われるだけで、私に注意された事は後にも先にもたったそれ一度だけであった。
 さて、いよいよ完成試写の日初号プリントを見終った今井さんは開口一番「これなら僕の名前なんか要らないんじゃないの」と言われた。
 私は内心「やっぱり…」と思った。自分の作品をこの上なく大切にする今井さんは僕が作った物等に自分の名を出すのは嫌なのに違いない。
 しかし、やがてそれは私のヒガミで、本当は不出来な場合、一切の責任を自分が取る心算だったとわかり、私は慙愧に耐えなかったが、それ以来私は今井さんを私の先生と公言して憚らなくなった。二流三流の監督と違って決して取巻きや派閥を作らない今井さんは、私が先生呼ばわりする事を迷惑だったり苦々しく思われるに違いないのだが、私はそれ以来今井さんを映画の先生だけでなく人生の師として仰ぐようになり今に到っている。

 (「映画原爆の図」との再会/青山通春/『丸木美術館ニュース』第17号/1985年7月発行)

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こうした事情のため、映画『原爆の図』が今井監督の生誕百年企画の上映にふさわしいかどうか、個人的には少々悩むところもあったのですが、銀座シネパトスのS支配人がぜひ、とおっしゃって下さったので、フィルムをお貸ししていたのです。

ところが『原爆の図』が終わり、『純愛物語』の上映がはじまってすぐに、とても驚いたことがありました。
冒頭のクレジットの背景に、原爆の図のデッサンと思われる被爆者の群像の絵画が使われていたのです。そして「監督 今井正」という文字の背景に映ったのは、原爆の図第5部《少年少女》を象徴する裸の姉妹のデッサンでした。
映画『原爆の図』が撮影されたのは1952年夏のこと。『純愛物語』は1957年の公開ですから、今井監督は原爆の放射能被害が物語に重要な意味を持つ『純愛物語』の制作に際して、ぜひ丸木夫妻の《原爆の図》を取り入れたいと思って下さったのかも知れません。
この発見については映画を観たあとでS支配人にも少しお話をしたのですが、映画『原爆の図』から『純愛物語』へと続く流れは、《原爆の図》の引用のつながりを示す意味でも、とても良かったのではないかと思いました。

1957年といえば、亀井文夫監督の映画『世界は恐怖する 死の灰の正体』が公開されたのも同じ年です。
劇映画と記録映画という違いはありますが、どちらの作品も原爆/核兵器の放射能被害に注目しているという点は共通しています。1954年3月に起きた第五福竜丸の被ばく事件の影響も大きいのでしょう。
そして、両方の作品に丸木夫妻の作品が引用されていることは、当時の社会における《原爆の図》の受容の一端が示されているようにも思われます。

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『純愛物語』は、ときに犯罪に手を染めながらも戦後社会を必死に生き抜こうとする孤児の少年少女のひたむきな姿を優しい視線で描いた感動作品。
心を入れ替えて真面目に生きようと誓いながら、“原爆病”で命を奪われていく中原さん演じる少女の運命に心を動かされる、原爆映画の名作です。
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2012/2/11

生誕100年丸木俊展記念対談  イベント

1912年2月11日、つまり100年前のこの日、赤松俊子、のちの丸木俊は北海道雨竜郡秩父別村(現・秩父別町)の善性寺に生まれました。
一年でもっとも雪の多い、極寒の日だったそうです。

今日から「生誕100年 丸木俊展」が開幕しました。
今朝の『埼玉新聞』には、“生誕100年 丸木俊を回顧 きょうから企画展100点超の作品展示”という見出しで、展覧会を紹介する記事が掲載されました。

冷え込みの厳しい丸木美術館ではありますが、展覧会開催記念イベントのために、30人を超える方がわざわざ足を運んで下さいました。
本当に嬉しいことです。

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午後1時からは、高瀬伸也さんの演奏+青柳秀侑さんと松川充さんの朗読が行われました。
演目は以下の通りです。

ねずみがくれたふくべっこ』 文=松谷みよ子/絵=丸木俊/童心社/1980年
みなまた海のこえ』 文=石牟礼道子/絵=丸木俊・位里/小峰書店/1982年
天人のはごろも』 脚本=堀尾青史/画=丸木俊/童心社/1961年
どんぶらこっこすっこっこ』 文=村上ひさ子/絵=丸木俊/福音館書店/1999年
都幾川」(『女絵かきの誕生』より) 著=丸木俊/日本図書センター/1997年

高瀬さんたちの朗読は、いつもは実験的な試みが多いのですが、今回は正攻法の企画。
丸木俊の絵に囲まれた空間で、朗読による作品世界を体験するという、とても濃密な時間を過ごすことができました。

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午後2時からは、丸木俊の姪で絵本作家の丸木ひさ子さんと、丸木夫妻と親交の厚かった画家の平松利昭さんの対談が行われました。
会場には、丸木夫妻をブルガリアに紹介した美術評論家の落合ゾーヤさんや、丸木美術館開館当時から美術館を手伝い、絵を学んでいた草薙静子さんも参加し、それぞれ思い出に残る丸木俊を語って下さいました。

人間としての懐が深く、どんな人とも対等に接し、自然とともに生きる暮らしを大切にして、一本の線に責任を持って絵を描く……そんな丸木俊の等身大の姿が浮かび上がってくる対談だったように思います。

今年は生誕100年ということもあって、沖縄の佐喜眞美術館や山口県の下関市立美術館、愛知県の一宮市立三岸節子記念美術館などで丸木俊展が相次いで開催される予定です。
イベントの最後には、わざわざ来場して下さった三岸節子記念美術館の杉山学芸員が挨拶をして下さいましたが、丸木俊の画業を再発見・再評価する一年になりそうです。
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2012/2/10

生誕100年丸木俊展会場風景  企画展

いよいよ「生誕100年 丸木俊展」の展示がすべて完了しました。
あとは展覧会初日を待つばかりです。

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今展では、2階の小展示室に「俊とちひろ」という章を設けて、丸木夫妻のもとでデッサンなどの勉強を重ねた絵本画家いわさきちひろとの交流に焦点を当てた展示をしています。
ちひろ美術館のご協力によって、ちひろのデッサンや絵本原画など10点のピエゾグラフ(複製画)を展示させて頂いています。

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1階の最初の展示室では、「俊と位里」と題して、俊が初めて位里の個展を訪れた際に出品されていた作品《雲》(1939年第1回丸木位里・船田玉樹個展出品作、上写真左端)や、俊が描いた位里の肖像画、俊の影響を受けて位里が描いた戦後の油彩画の自画像や人物デッサンなどを紹介しています。

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次に続くのは、「俊とスマ」の部屋。お互いを描いた肖像画や、二人で連れ立ってスケッチに出かけたという三滝寺の二重の塔を描いたスマの絵などを展示しています。
俊は結婚後も「赤松」姓を名乗っていましたが、1956年のスマの死をきっかけに“女絵かき”の後を継ぐという決意を込めて「丸木」姓に変えたほど、スマのことを尊敬していたのです。

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さらに続く部屋は、俊が若い頃に訪れたロシアや南洋群島の絵を集めた「異国を描く」の章。
北国と南洋という対照的な作品ですが、異国情緒あふれる油彩画がならびます。
俊はこれらの作品によって、画家としての第一歩を踏み出していったのです。

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そして、今回の展覧会のチラシの表紙に掲載した油彩画の大作《裸婦(解放されゆく人間性)》が正面の壁にひときわ存在感を放つ「社会を描く」の章に続きます。
この部屋には、俊の個人制作の油彩画《原爆の図》や、60年安保の樺美智子さんを題材にした作品などがならびます。

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最後の大きな展示室は、「人間を描く」、「絵本を描く」というふたつの章で、俊の画業の集大成に迫ります。《原爆の図デッサン》20点や数々の絵本原画から、俊の人間に対するたしかな眼差しが浮かび上がってくるのではないかと思います。

館内はたいへん寒いですが、本当に見応えのある展示になっています。
多くの方のご来館を心よりお待ちしています。
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2012/2/9

Ring-Bong 第2回公演「名も知らぬ遠き島より」  他館企画など

連日、「生誕100年丸木俊展」の準備を進めています。
ようやく作品の展示がほぼ終わり、後は11日の初日に向けて、最終的な仕上げをするばかりになりました。
この日は、朝日新聞と埼玉新聞の記者が来館して、企画展の取材をして下さいました。

   *   *   *

夕方からは、小竹向原のサイスタジオコモネで行われたRing-Bong第2回公演「名も知らぬ遠き島より」を観に行きました。

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昨年、共通の知人を通じてお会いした文学座の山谷典子さんがみずから脚本を手がけ、出演されている作品です。
舞台は敗戦直後、1946年の中国・牡丹江にある旧日本軍病院と、現代の東京の病室。
登場人物は、ソ連軍の満州侵攻によって関東軍に置き去りにされた負傷兵と看護婦たち。
そのうちの一人、病院付きの衛生兵・近藤義春の最期を看取る義理の娘・千恵と孫の恵による会話と、若き日の近藤たちの満州での体験が交錯しながら物語は進んでいきます。

敗戦後の中国の兵站病院という設定に、私はまず丸木位里の友人の画家・靉光を思い浮かべました。靉光は1946年3月に上海の病院で戦病死しています。
病室で隣になった兵士と飯盒を交換し、帰国した隣人が飯盒を遺族のもとに届けたために、現在も靉光―本名・石村日郎―の飯盒は存在し、2007年に東京国立近代美術館で開催された「生誕100年靉光展」にも展示されていました。
今回の舞台でも、病死した兵士の飯盒を遺族に届けるか否かというやり取りが登場します。

また、「広島」という台詞が一度だけ登場したのも印象的でした。
衛生兵の一人が、従軍看護婦に、日本に残してきた妻と2人の娘の思い出を語りながら、「妻の実家が広島で、東京より食べ物があるだろうから、広島に行っているんだ……」というのです。
ただそれだけの言葉で、この衛生兵は生きて日本に帰っても家族は原爆で全滅しているのではないか、と想像させられ胸が痛みます。

「(放射能のことは)心配し過ぎよ。だって国が大丈夫だって言ってるのよ」という現代での会話に、国に見捨てられた満州の人びとの姿が重なったり、「慰安婦」をめぐる日本軍と朝鮮人女性、ロシア軍と日本人女性の状況が描きこまれていたり、厳しく重い主題がそこかしこに散りばめられていましたが、しかし、後味が決して悪くなかったのは、困難な時代のなかで、それでも可能性があるかぎり生きて、命をつないでいこうという登場人物の姿勢が、時代を超えてつながって見えてきたからなのでしょう。

山谷さんは、私とほぼ同世代。
自身の戦争体験はもちろん、おそらくは両親も戦争の記憶がない世代だと思います。
そうした世代が、体験者の話を聞きながら、60年以上前の戦争と現代をつなげて自分なりの想像力を広げ、リアリティを見出していく。
たとえば、こうの史代の『夕凪の街、桜の国』や、Chim↑Pomの広島を主題にした作品もそのひとつなのかも知れませんが、体験者の持つ“リアル”を受けとめるだけではなく、次の世代としての読みとり方を考えるような、そんな作品がこれからの時代に必要とされ、人びとの心に響いていくのだろうな……と感じながら、興味深く鑑賞させて頂きました。

「名も知らぬ遠き島より」は、2月14日まで上演されています。
ご予約・お問い合わせは以下の通り。
[mail]ringbong2011@gmail.com
[tel]03-5375-1118
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2012/2/5

「生誕100年丸木俊展」展示替え  企画展

このところ続いていた寒さが少し和らいだこの日、大勢のボランティアが参加して下さって、企画展の展示替え作業を行いました。

「丸木スマ展」から「生誕100年 丸木俊展」へ。
館内のほとんどの部屋を総入れ替えする大規模な展示替えでしたが、Y口さん、Y浅さん、M木さん、T瀬さん、G藤さんの男性陣、S崎さん、A森さん、N村さん、K藤さんに加え、初参加のS根さんという総勢10人が熱心に手伝って下さったおかげで、予想以上に作業が進んでいます。

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「生誕100年 丸木俊展」(2月11日−5月19日)は、夫の丸木位里との共同制作《原爆の図》の作者であり、戦後の女流画家の草分け的な存在でもあり、数多くの民話や伝説、創作絵本などの挿絵を手がけるなど多様な活動を行った丸木俊の画業を振り返り、総作品点数100点以上を紹介する展覧会です。
また、俊に大きな影響を与えた夫の丸木位里、義理の母の丸木スマ、そして師弟であったいわさきちひろの作品をそれぞれ10点ほど展示し、その影響関係も紹介します。

2月11日(土/祝)は、俊の100年目の誕生日。
午後1時からは、丸木俊の絵本や随筆を題材にした高瀬伸也さん、青柳秀侑さん、松川充さんによる朗読+即興演奏が行われ、午後2時からは俊の姪で絵本作家の丸木ひさ子さん、画家の平松利昭さんによる対談も行われます。
ぜひ、多くの方においでいただきたいと思います。
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2012/2/3

60年安保を描いた俊の油彩画《犠牲者》  作品・資料

昨日は2012年度に行う企画展の準備のために都内各所で関係者と打ち合わせを行い、夜から池袋で丸木美術館の企画委員会に参加。

そして今日は、2月11日からはじまる「生誕100年 丸木俊展」出品作品の借用のために、朝から椎名町の「アトリエ村の小さな画廊 ギャラリーいがらし」や練馬区の「ちひろ美術館・東京」などを美術品運搬トラックといっしょにまわってきました。

今回出品される俊さんの油彩画のひとつに、《犠牲者》と題された作品があります。

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1960年の安保闘争における機動隊とデモ隊の衝突によって亡くなった樺美智子さん(当時東大生)を主題にした作品で、1961年6月1日から13日まで東京都美術館で開催された第15回女流画家協会展に《六月十五日》の題で初めて出品されました。
当時の作品絵葉書も現存しています。

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この油彩画は、1962年5月の全ソ美術画家同盟の招請による「ソ連邦における日本現代美術展」に《犠牲者(安保斗争)》の題で展示され、その後、樺さんのご実家に贈られたようです。
今回の展覧会開催にあたって、樺家のご家族からは快く展示のご許可をいただき、作品をお借りしてくることができました。
樺家では、ずっと家の一室に油彩画を大切に展示し続けて下さっていたようです。

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女流画家協会展に展示された際、樺さんのお母さんと俊さんが二人で作品をご覧になっている貴重な写真も拝見させていただきました。

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展示風景の写真を見ると、作品名は《1960年の夏》となっていて、同じ主題の作品が2点展示されていたようです。
2月11日からはじまる企画展では、こうした写真資料なども紹介しながら、俊さんが見つめた“社会”というテーマで、ひとつの部屋を特集したいと思っています。
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2012/2/1

東松山CATVの番組制作  来客・取材

このところ、2月11日からはじまる「生誕100年 丸木俊展」の準備(俊作品100点に加え、位里、スマの作品、いわさきちひろのピエゾグラフをそれぞれ10点ほど展示予定)が慌ただしく、少し体調不良気味だったこともあって、久しぶりの日誌の更新です。

非常に冷え込みの厳しい館内ですが、丸木美術館紹介番組(15分番組×6本)を制作中の東松山CATVのIさんは頻繁に美術館を訪れて、撮影を進めてくれています。

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この日は朝一番に河原に降りていき、都幾川の風景を撮影。
美術館紹介の導入部分で、広島の太田川に似ていることから丸木夫妻がこの地に美術館を建てた、という紹介とともに川の流れが映し出されることになります。

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その後は、一日がかりで館内に展示されている《原爆の図》を撮影。
午後からは、東松山CATVのベテランスタッフNさんも手伝いに駆けつけて下さいました。
私も絵の前で、作品解説や米軍占領下の巡回展の意味についてたっぷり話をしました。

   *   *   *

番組制作にあたって昨年から何度もIさんと打ち合わせを重ねてきましたが、そのなかで、ただ順番に絵の紹介をするだけではなく、少し変化をつけるために「○○を探ろう!」というショートコーナーを設けようという提案がありました。

通常の作品紹介の視点とは角度を変えて、絵の世界を深めていこうというコーナーです。
たとえば丸木スマの回では、《柿もぎ》を題材にしながら、人より柿の実が大きかったり、背景の色を色とりどりに塗り分けたり、本物の葉に絵具を塗って押し当てるなど自由奔放なスマの絵の魅力を具体的に紹介してみました。

この日は《原爆の図》(前編・後編)の撮影だったので、前編では芸術と記録のあいだで揺れ動く丸木夫妻の姿勢を、後編では《原爆の図》とともに制作された絵本『ピカドン』を紹介しました。

あとはIさんの編集作業によって、《原爆の図》の作品世界をさまざまな角度から深めてくれる、見どころたっぷりの番組ができあがってくることと思います。
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