2012/1/7

美術館ニュース発送/東松山CATV撮影・打ち合わせ  ボランティア

今年最初のボランティアは、美術館ニュースの発送作業。
初参加の方2人を含め、10人ほどの方々がボランティアに参加して下さって、無事に発送作業を終えました。
お昼には、川越のM年山さんたちが美味しいご飯を準備して来て下さいました。
いつも本当にありがとうございます。

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午後からは、東松山CATVスタッフのNさんとIさんが来館。
現在展示中の丸木スマ作品を撮影し、その後、来年度に向けて東松山CATVの協力によって制作される予定の丸木美術館紹介映像について打ち合わせを行いました。

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この映像は、東松山CATVでも放映して下さる予定ですが、その他に、学校団体の事前学習などの目的のために丸木美術館から貸し出すことも計画しています。
丸木美術館全体を紹介するダイジェストや、《原爆の図》の詳しい説明、丸木スマ、そして丸木夫妻の紹介など、各テーマごとに1本15分程度の映像番組を6本制作する予定です。
6本全部をご覧頂くもよし、用途や鑑賞時間に合わせてそのうちの数本をピックアップしてご覧頂くこともできるのではないかと思います。
今後の進行状況は、随時こちらの日誌で紹介していきます。
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2012/1/6

『原爆文学研究』第10号  書籍

年末年始の休みは、先日刊行された原爆文学研究会の機関誌『原爆文学研究』第10号を読んで過ごしました。

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研究会発足10周年ということで、過去最多の238ページという盛りだくさんの内容です。
私も〈占領下の「原爆の図展」―室蘭と美唄の記憶〉と題する文章を寄せています。
目次は以下のWEBサイトで見ることができます。
http://www.genbunken.net/kenkyu/kenkyu.htm#dai10gou

岡村を除くと、高野吾朗さんの〈試論:小説・戯曲・映画・絵画における被爆者の“性的”描写について〉、楠田剛士さんの〈サークル誌の表紙から視る「原爆」―四国五郎、池野清、池野巖―〉、内田友子さんの〈「それだけ?」のあと〉が《原爆の図》の話題をとりあげて下さっています。
こうして専門領域を超えて《原爆の図》が多くの方に論じられるのは、とても嬉しいです。

   *   *   *

高野さんは、井伏鱒二の『黒い雨』や田中小実昌の『浪曲師朝日丸の話』、谷崎潤一郎の『残虐記』、福永武彦の『死の島』などの文学作品とともに、《原爆の図》の「エロチシズム」について論じ、次のような興味深い指摘をしています。

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(略)……そこには“被爆者のありのままを描くことで、ヒロシマの現実を広く世に伝えたい”という記録主義的リアリズムの声と、“被爆者をあえてエロチックに描くことで、ヒロシマの現実をも越えるような普遍の美を産み出してみたい”という芸術至上主義的モダニズムの声の二つが、キャンバス上で微妙に交錯している様子が窺えるのである。この交錯ぶりが発表当初、とりわけ被爆体験を持つ鑑賞者に対して大きなとまどいを与えたことは、容易に想像できる。……(略)……被爆者とエロスの組み合わせを、“原爆の被害を伝えるという目的にそぐわない行為”と否定的に見るか、はたまた“美しい”と積極的に見るかで、この作品群の評価は今も見るものの心をどこかひるませるのである。

 そしていま、わたしはこの“交錯”にこそ、『原爆の図』が“連作化”していかざるをえなかった動機のようなものを強く感じるのである。
……(略)……

 いま思うと、この『原爆の図』の場合も、前述の『死の島』のごとき興味深い“メタ性”がはるかに内在化できたはずである。その絶好の契機となりえたはずの場、それは、夫妻が各図に毎回付随させた、あのキャプションのごとき文章の中にこそあったのではなかろうか。これらキャプションにおいて、“なぜ被爆者の裸体を、かくもエロチックに描かざるをえなかったのか”という画家自身の問いそのものがもっとしっかり前景化されていたならば、その問いかけ自体が各図をさらに謎めいたものにし、鑑賞するわれわれ自身の原爆観をさらなる深みへと誘う結果にさえなっていたように思うのである。……(略)……

 この文章 [岡村註:第1部《幽霊》の説明文] が強く感じさせるのは、絵そのものを“未完の謎”へと開いていこうとする意思ではなく、むしろ一つの定まった“リアル”へと“固定”させていこうとする意図の方である。発表時から五十年以上の時を経たいま、こうしたキャプションをいっそ全く知らずに鑑賞した方が、いっそうどっぷりとこちらの心身を『原爆の図』それ自体の“交錯”ぶりに浸すことができるのではなかろうか――……(略)

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《原爆の図》に付属する説明文が絵に対する視線を“固定”させてしまっている、という高野さんの指摘は、《原爆の図》が描かれた時代のなかで丸木夫妻がみずから背負った、あるいは背負わざるを得なかった重い“使命”についても考えさせられますが、作品が根底の部分で抱えている大きな問題に鋭く触れているように思います。
また、60年前の絵と文章の関係をそのままのかたちで展示し続けている丸木美術館への問題提起のようにも感じます。
いずれにしても、じっくりと考えていきたい重要な問題です。

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楠田剛士さんは、広島の『われらの詩』と長崎の『芽だち』という、ともに敗戦後に結成されたサークル誌の表紙を手がけた画家たちを取り上げ、四国五郎の絵に見られる《原爆の図》の影響について言及しています。

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 「反戦詩歌集」第二集と同時に発行されたのが、「われらの詩」八号の「平和特集号」である。「われらの詩」の通巻七号目になるが、八月六日の発行月に合わせて七号ではなく八号として刊行された。表紙と裏表紙は一枚の絵になっており、被爆直後の人と街を描いている。八号を編集した且原純夫は「あとがき」で、表紙は丸木位里、赤松俊子の「原爆図」を使用することになっていたが間に合わなかったと説明している。四国による八号の表紙絵は、そのような事情もあってか「原爆の図」に似た雰囲気があるのだが、いくつか注目したい点がある。

 まず「原爆の図」から摂取された点についてである。「原爆の図」は、はじめ第一部「幽霊」が一九五〇年二月の第三回アンデパンダン展に「八月六日」という題名で発表された。同年、第二部「火」、第三部「水」が完成すると三部作完成記念展が開催され、さらに全国巡回展が行われた。われらの詩の会も広島での展示に協力し、一〇月に坪
[原文ママ] 井繁治、丸木位里、赤松俊子を囲む座談会や、朗読会を開いている。四国は広島で開催されるより以前に「原爆の図」を視ていたと考えられる。「幽霊」の中程で、座って右手で頬杖をついている人物が、八号の表紙の下で描かれている人物のモデルに当たるだろう。うつむき方、鼻の形がほぼ一致するからだ。表紙中央の女性は、「水」において子供を抱える母親の姿に似ている、 [原文ママ] 同時期の「反戦詩歌集」第一集のカットでも同じような人物像が描かれているので断定はできない。

 また、「原爆の図」で描かれていないものがここで描かれていることも気になる。「原爆の図」にはほとんど具体的な背景がないが、八号では被爆した街が描かれている。そのなかで大きく描かれるのは、屈折した足と荷車の車輪である。また、水筒か何かで水を飲む人物も「原爆の図」には見られない。被爆直後の様子を直接見ていない四国が、「原爆の図」にも描かれていない原爆被害を描くとき、このような風景や人物は自然に想像されるものであろうか。参照されたイメージがあるとすれば、それは被爆写真の風景や人物ではないだろうか。山端庸介による長崎の被爆写真のうち、鳥居を撮影したものには、水筒の水を飲む少女の姿が写っている。屈折した足は、広島・長崎それぞれにおいて救護所で横たわる人びとの写真で見られるものである。被爆写真は一九五二年まで広く公開されていなかったが、それ以前にも目にすることができ、丸木夫妻が「原爆の図」制作の際に参照したという指摘があるように、四国もまた五〇年当時、被爆写真を視た可能性は十分にある。このように考えると、八号の表紙は同時代の絵画と写真の受容の一例として興味深いものとなる。


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四国が被爆者の群像を描く際に《原爆の図》を参考にしたという指摘は、逆に言えば丸木夫妻が描くまでそうした表現がほとんどあらわれてこなかったということで、上記の文章でも紹介されている壺井繁治と丸木夫妻の座談会の次のような俊の発言にも呼応しています。

原爆といえば雲がむくむくでているとか、焼跡だとか、「長崎の鐘」でもお祈りするだけだ。それより人が死んだということがつらいし、癪にさわるという氣持ちもあつて、どうしても人間のみを描きたいとおもつた。

《原爆の図》が山端庸介らの写真をもとにして描かれていることは、すでに小沢節子さんの先行研究などによって指摘されていますが、もちろん写真をもとにして原爆の絵を描いたのは丸木夫妻だけではなかったわけですし、丸木夫妻の作品もまた他の画家たちの参考になっていたのだという大きな影響関係のつながりが、楠田さんの論考から読みとれます。

   *   *   *

内田さんは、10年前に柳川市教育委員会などが全国から募集した「白秋祭献詩」で文部科学大臣奨励賞に選ばれた、原中貴士くん(当時小学校2年)の詩「原ばくの図」をとりあげています。

原中貴士「原ばくの図」

丸木位里・俊のかいた
原ばくの図を見た

おとなもこどもも
犬もねこもうまも
くるしそうだった
みんなはだかだった
やけていた

千ばづるをつくるコーナーがあった
おかあさんがみんなでおろうかといった
ぼくはみどりのつるをおった

かえりにかんそうをきかれた
こわかったといった
おかあさんが
「それだけ?」
といった
おとうさんが
それでいいよといって
ぼくのあたまを
ポンポンとたたいた


「懐かしい!」と思ったのは、10年前、私が丸木美術館で働きはじめた頃、この詩を紹介した『朝日新聞』(2001年10月14日付)の記事が、美術館の廊下の壁に掲示されていたためです。
内田さんがこの詩に注目されたのも、原爆文学研究会がはじまったのがちょうど10年前だったことが理由のひとつなのでしょう。
エッセイの最後を、内田さんは次のように結んでいます。

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 十年前におかあさんから「それだけ?」と聞かれて困った男子が、今も続きのことばを考えているかどうか、わかりません。たぶんもう考えていないでしょう。ほかに考えなければならないことが、いまの時代を生きていればきっといっぱいあるでしょうから。
 十年という時間をかけ、多くの人によって作られたこの研究会も今後いつまで、どのようなかたちで続くのかあるいは続かないのか、これもわかりません。ただ、ある日ふと考えたり話したり聴いたりしたくなった十八歳がふらりと顔を出すことのできる「場所」は、いつまでもあってほしいと思います。


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「ある日ふと考えたり話したり聴いたりしたくなった十八歳がふらりと顔を出すことのできる」という“場所”――原爆文学研究会はもちろん、丸木美術館も、そのような“場所”として「いつまでもあってほしい」と思いながら、このエッセイを読み終えました。

   *   *   *

『原爆文学研究』第10号(花書院、2011年12月25日発行、定価1,200円=税込)は、丸木美術館入口ロビーでもお取り扱いしています。さまざまな視点から原爆表現が語られる充実した機関誌ですので、興味のある方はぜひ、ご覧ください。
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2012/1/5

『北海道新聞』“異聞風聞”/『あいだ』188号“編集雑記”  掲載雑誌・新聞

明けましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

新年最初の学芸員日誌は、年末に掲載された関連記事の紹介です。

   *   *   *

まずは2011年12月25日付『北海道新聞』の“異聞風聞”。
編集委員のOさんが、“忘却の「ビキニ」、又七の怒り”と題するコラムを書いて下さいました。
Oさんは、以前にも“女ゴーギャンの遺言”という俊さんの原発反対運動についての文章を書いて下さっています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1735.html

今回は、第五福竜丸の乗組員として米国の水爆実験で被ばくした大石又七さんの言葉を紹介する内容です。コラムの核心は、次の発言に集約されているように思います。

「放射能、内部被ばく、核と原発の怖さ―。ビキニ事件は、全ての原点だった。なのに日本政府は国民に知らせず、今も知らせようとしていない」

大石さんの怒りの原点について記されたコラムの最後の部分を抜粋いたします。

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 14歳で海に出た少年は、過酷な体験を経て、「核」と「原子力」を自らの言葉で告発する。
 この秋刊行した4冊目の著作「矛盾」(武蔵野書房)は、人類の起源を説き起こし、核兵器と原発の廃絶にまで及ぶ。
 大石さんを知る人は言う。
 「第五福竜丸から『3.11』後へ」(岩波ブックレット)を著した早大非常勤講師、小沢節子さん(55)は「福島での放射能汚染、事実の隠蔽。ビキニを追求し続けた彼の声を今こそ多くの人に聞いてほしい」。
 第五福竜丸展示館学芸員で札幌出身の市田真理さん(44)。
 「『これまで俺が命懸けで警告してきたのに』という憤り、怒り。それが、もっと知ってほしいという力になっている」
 なぜ語り続けるのか。その問いに、大石さんは答えた。
 「みなさんは(放射能の)本当の怖さを知らない。当事者がそれを伝えなければ死ねないからね」―。「死の灰」を浴びた男の、変わらぬ信念である。


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   *   *   *

もうひとつは、月刊『あいだ』(『あいだ』の会発行)188号。
川崎市岡本太郎美術館「池田龍雄」展の際に行われた池田龍雄さん(美術家)と鳥羽耕史さん(戦後文化運動研究者)の対談「まず「現場」があった ―― ルポルタージュの時代」の採録や、飯野正仁さんの連載「戦時下日本の美術家たち (47) 美術文化協会(3)1942〜45年 前衛芸術の命運」という内容も非常に興味深いのですが、ここでは編集雑記に記された「Chim↑Pom展」についての編集者Fさんの文章を紹介いたします。

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 「丸木美術館でChim↑Pom展」
 ▲そう聞いて、これまた「妙な気分」になりました。「はまり過ぎ」とも「挑戦的」とも、どちらともいえそうな企画。
 ▲ともかく見ないことには、と会期最終日の10月
[岡村註:12月の誤植]18日、比企丘陵の川沿いの雑木林にちょっと遠出してきました。
 ▲いや、まあ、驚いたことには、小ぶりな建物は若者たちであふれるばかり。おそらく、同館はじまって以来、最高の入りだったのではないでしょうか。
 ▲例の、岡本太郎の壁画「明日の神話」のツケタシ部分の原画も、しっかり展示されていました。渋谷署から返されたばかりだとか。
 ▲2部に分かれたトークもさながらテレビ・ショーのノリ(たぶん、辛気くさい芸術論が出なかったがゆえに!)。
 郊外もいいもんだ
 さて、私的な余談。早めに館を後にし、夕闇深まる砂利道を歩いていきますと、とつぜん犬に吠えたてられ、民家の庭に迷いこんだと知りました。何ごとかと出てきたその家のおかみさんに、言い訳がてら駅までの道を教わりました。
 で、車道に達し、10分ほど行ったころだったか、脇に車がとまり、「乗んなさい」の声。見ると、先ほどのおかみさんではありませんか。「夕飯食べてたんだけど、『おとうさん、ちょっと行ってみるわ』といって追っかけてきたんよ」。ありがたく、助手席の人となりました。


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Chim↑Pom展は、いまだに反響が大きく、来館されなかった方からも「行きたかった」という声が続々と届いています。
おそらくこれからも、展覧会のレビューが出てくると思いますので、こちらの日誌で紹介していきたいと思います。
『あいだ』のFさんはじめ、遠路おいでくださった皆さまには心から御礼申し上げます。
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