2011/11/30

Chim↑Pom作品制作立ち会い  特別企画

夜、12月10日から特別展示を行う若手芸術家集団Chim↑Pomの作品制作に立ち会いました。
場所は、丸木美術館近くの河川敷某所。
これまでさまざまな騒動を経験した彼らですが、今回は広島原爆の残り火「平和の火」を使うこともあって、消防署、警察、市役所などへの正規の手続きを行っての実行です。
念のために私も地元の区長さんに挨拶の電話を入れ、制作には消防署員が6人ほど立ち会うという“厳戒態勢”。
この季節にしては気温も下がらず、心配された天候も撮影中は雨が降らず、予想外に火が燃え広がることもなく、無事に制作が終了したので、まずはひと安心です。

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“お騒がせ集団”というイメージの強いChim↑Pomですが、制作現場に立ち会っていると、一所懸命良い作品を作りたいという彼らなりの真摯な情熱が伝わってきます。
ひとりひとりの役割分担や、“チーム”としてのあり方なども、なかなか興味深いです。

撮影の開始時間が大幅に遅れたため、私は自宅最寄り駅行きの最終電車に間に合わず、結局、家にたどりついたのは真夜中過ぎでしたが……まあ、それも良し。
そんな体験も含めて、いいもの見せてもらったな、と思いました。
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2011/11/29

「Chim↑Pom LEVEL 7 feat.広島!!!!」開催のお知らせ  特別企画

2008年10月に広島の原爆ドーム上空に飛行機雲で「ピカッ」と書いたことで社会的騒動を巻き起こし、今年5月にも渋谷駅に設置されている岡本太郎の壁画《明日の神話》に福島原発事故の絵を付け足して物議を醸した若手芸術家集団Chim↑Pomの特別展示を、丸木美術館で開催することになりました。

きっかけは、「ピカッ」騒動で発表の場を失った彼らに対し、当時の針生一郎館長が発した「丸木美術館でやってもいいよ」という言葉でした。約束通り、針生館長は理事会で「Chim↑Pom展」の開催を提案。残念ながら館長本人は2010年5月に亡くなりましたが、その言葉はChim↑Pomにとって励みとなり、展覧会の実現に向けて大きな力となったのです。
今回の展覧会は、Chim↑Pomがヒロシマからフクシマ、核や放射能と日本の関係をテーマに制作してきた活動をすべて見せる初の機会であり、彼らの活動の集大成となります。

初日の12月10日にはオープニングイベントとして、Mr.Childrenのプロデュースなどで知られる音楽プロデューサーの小林武史とChim↑Pomによる初のコラボレーション、即興パフォーマンスを行います。
会期最終日の12月18日には二部構成でのトークショーを予定しています。出演者はいずれもヒロシマ、フクシマに対してアクションを起こしている方々で、悲劇的な放射能事故が起きた一年を振り返り、未来への礎にするイベントになりそうです。

   *   *   *

2011年12月10日(土)〜12月18日(日)
特別企画:Chim↑Pom展「LEVEL 7 feat. 広島!!!!」
http://www.mujin-to.com/hiroshima/
※12月12日(月)休館、寒いので暖かい服装でご来館ください。

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Chim↑Pom / 広島の空をピカッとさせる

オープニングイベント
小林武史×Chim↑Pom「LoVe 7」
日時:12月10日(土)午後5時開場、午後9時閉館
料金:1,000円(展覧会入場料込)

最終日トークショー
日時:12月18日(日)
第一部:午後1時〜午後2時30分
第二部:午後3時〜午後4時30分
料金:900円(展覧会入場料でご覧いただけます)

【第一部】
出演:山下陽光(素人の乱)、Chim↑Pom、ほか、スペシャルゲスト予定
3.11以降の原発問題に対して、象徴的なアクションを起こした当事者たちによる座談会。あれから何が変わり、これからどうなるのか? 今年を振り返りながら未来を語り合います。

【第二部】
出演:東琢磨(ライター、音楽・文化批評/ヒロシマ平和映画祭実行委員会事務局長)、山下裕二(美術史家、美術評論家、明治学院大学教授)
司会:阿部謙一(「なぜヒロシマの空をピカッとさせてはいけないのか」編集者)
聞き手:Chim↑Pom
広島出身の文化系評論家2人による対談。広島の感情、これまでと今後、広島における文化の話などを通じ、今後の日本の被爆問題への展望を考えます。
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2011/11/28

川越スカラ座『未来を生きる君たちへ』  川越スカラ座

休館日。川越スカラ座で上映中の『未来を生きる君たちへ』(In a Better World、2010年、スサンネ・ビア監督、デンマーク・スウェーデン合作)を観ました。

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デンマーク郊外の学校で執拗なイジメに遭っていた少年エリアスの父親のアントンは、医師としてアフリカの難民キャンプに赴任していました。
ある日、エリアスのクラスに転校生のクリスチャンがやって来ます。クリスチャンの“復讐”によってイジメから救われたエリアスは、急速に彼との友情を深めていきます。
一方、アフリカの紛争地帯では、アントンが自身の離婚問題や毎日のように搬送される瀕死の重傷患者に苦悩していました。そんなとき、“ビッグマン”と呼ばれる虐殺者が大けがを追ってキャンプにあらわれます。彼は子どもや妊婦を容赦なく切り裂くモンスターでした。アントンは、彼を治療すべきか否かという難しい決断を迫られます。
そしてエリアスとクリスチャンも、ある無謀な復讐を計画するのですが……



デンマークとアフリカというまったく異なる二つの世界に共通する“暴力”という問題、そして“赦し”と“復讐”という対極の解決策をめぐって物語は進行します。
同じ子を持つ親として、そして“平和のための博物館”に関わる者として、子どもに徹底した「非暴力」を唱えるアントンの姿には強く共感しました。
しかし、映画には“赦し”だけでは通用しない厳しい現実も描き出されます。
アントンもまた、難民たちの“ビッグマン”へのリンチに間接的に加担してしまうのです。

“復讐”の連鎖を断ち切るには、誰かが“赦し”の姿勢を示さなければならないでしょう。
しかし悲しいことに、“赦し”だけでは止められない暴力もあるのです。
決して簡単には答えが出ないこの世界を、私たちはどのように生きていくべきなのか。
映画は答えを導き出すわけではありませんが、深く考えさせられる興味深い作品でした。
川越スカラ座での上映は12月9日まで(火曜定休)。

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ちなみに川越スカラ座で先週まで上映されていた、精神障碍者の協同組合の自立を描いた映画『人生、ここにあり!』(SI PUO FARE、2008年、ジュリオ・マンフレドニア監督、イタリア)も、とても良い作品でした。

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2011/11/27

平和のための博物館・市民ネットワーク第11回全国交流会 in 丸木美術館  講演・発表

11月26日、27日の2日間にわたって、「平和のための博物館・市民ネットワーク第11回全国交流会」が丸木美術館で開催されました。
日頃、平和のための博物館に関わり尽力されている方々が全国から集まって意見交換を行う、年に一度の貴重な交流会です。
2日間にわたる交流会のスケジュールは以下の通り。

【1日目】
13:30〜18:00 丸木美術館隣の野木庵において特別報告・応募者による報告
 特別報告1=小寺隆幸(原爆の図丸木美術館理事長)
 特別報告2=安田和也(第五福竜丸平和協会事務局長)
 報告=池田恵理子(女たちの戦争と平和資料館)、山根和代(立命館大学)、高橋武智(わだつみのこえ記念館)、南守夫(愛知教育大学)
18:30〜20:30 紫雲閣において懇親会
【2日目】
09:00〜11:00 丸木美術館特別見学
 岡村幸宣学芸員による作品解説、自由鑑賞
11:00〜14:00 丸木美術館隣の野木庵において交流会
 昼食=丸木美術館友の会によるカレー
 応募者による報告、ネットワークの会計・事業報告
 報告=普天間朝佳(ひめゆり平和資料館)、山辺昌彦(東京大空襲戦災資料センター)、浅川保(山梨平和ミュージアム)、石橋星志(明治大学大学院・戦争遺跡ガイド)、藤田秀雄(第五福竜丸平和協会)、宮原大輔(ピースあいち)など


第五福竜丸展示館や丸木美術館の関係者のほか、ピースあいち、ひめゆり平和資料館、女たちの戦争と平和資料館、山梨平和ミュージアム、東京大空襲戦災資料センター、わだつみのこえ記念館、中国帰還者連絡会、立命館大学、明治大学、実践女子大学、早稲田大学など全国から36名が集まりました。

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例年は会議施設での開催が多いので、野木庵(江戸時代の農家を移築した建物)という和風空間での交流会は多くの方には新鮮だったようですが、丸木美術館にとってはいつもの理事会のような雰囲気で、なんだかとても不思議な気がしました。

こうした会議を丸木美術館で開催するのは初めてのこと。
予想外の事態が次々と発生したこともあって、個人的にはあまり落ちついて交流会や懇親会に参加することはできませんでしたが、充実した内容になっていたように思います。

私が担当した丸木美術館特別見学は、米軍占領下の時代にどのように《原爆の図》が受容されたのかというテーマをいつもより詳しく解説しながら、約1時間ほどかけて、ひとつひとつの作品を観てまわりました。
解説後には多くの方に声をかけて頂き、好評だったので安心しました。

友の会ボランティアによる昼食のカレーもたいへん好評でした。
準備をして下さったM年山さん夫妻やI塚さん、K野さんに感謝です。

今年は5月にも「原爆文学研究会」がツアーを組んで丸木美術館を訪れていますが、こうした研究会やネットワークが丸木美術館を利用して下さることは、参加者による情報発信の波及効果が期待できるので、非常に大きな意味があります。
今回の交流会の開催に尽力して下さった「平和のための博物館・市民ネットワーク」運営委員の皆さまには、心から御礼を申し上げます。

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 「平和のための博物館・市民ネットワーク」は、1998年11月に第3回世界平和博物館会議に参加した日本の平和博物館関係者により、結成されました。「平和のための博物館・市民ネットワーク」は平和博物館や平和博物館関連団体の連絡組織ではなく、平和博物館の運営、平和博物館に関心を持っている方を会員とする個人加盟の組織です。
 活動としては、年に2回、日本語のニュースを発行し、会員に配布し、日本や海外にある各平和博物館や平和博物館関連団体の取り組みなどを紹介しています。これとは別に、日本の各平和博物館や平和博物館関連団体の活動を海外に紹介する英語版のニュースも年2回発行しています。このように国内外に発信するとともに、かわりに平和博物館をめぐる情報を収集し、ニュースの形で会員や平和博物館などにお知らせしています。また会員の交流会も開催して、平和博物館の運営、平和博物館を支え、発展させる運動、平和博物館をつくる運動についての情報交換をしています。
 年会費は2000円です。
 事務局は2011年より、戦争と平和の資料館ピースあいち気付となっています。

連絡先:
「平和のための博物館・市民ネットワーク」事務局
〒465-0091 名古屋市名東区よもぎ台2-820 戦争と平和の資料館ピースあいち
TEL・FAX 052-602-4222
郵便振替 加入者名 平和のための博物館 市民ネットワーク
口座番号 01630-1-41202
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2011/11/24

東京学芸大学にて再び講義  講演・発表

午後2時半から東京・小金井市の東京学芸大学の人文社会科学系法学政治学分野S先生の基礎ゼミの授業で3.11以後を視野に入れた《原爆の図》を中心とする内容の講義を行いました。
S先生には今年の前期授業でもお招きいただき、6月27日に一度講義を行っています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1646.html

そのときは大教室でプロジェクタを使用しながらの講義だったのですが、今回は少人数ということもあって、PCのモニタで映像を観て頂きながら、内容的には密度の濃い話になりました。
法学を専攻する学生のゼミなので、占領下の《原爆の図》と政令325号(占領目的阻害行為処罰令)の問題についても触れたのですが、もちろん、私自身は法学の専門家ではないので、法学的立場からの解説はS先生にお任せです。
午後6時からは同じくS先生の担当する大学院生の授業でも講義を行いました。

丸木美術館でふだん館内説明を行うときには、大人数を相手に20分程度の解説が多く、今回のように少人数に1時間半にわたって講義を行うというのは、少々勝手が違います。語り手として新鮮な体験ができるので、貴重な機会を与えてくれるS先生には本当に感謝です。

S先生は平和学や人権教育にも関心が高く、また、そうしたテーマと芸術表現をつなげる問題にも興味を持っているので、これからもさまざまなかたちで連携を深めていければと思っています。
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2011/11/23

【名古屋の旅】三岸節子美術館/名古屋市美術館「中村正義展」  調査・旅行・出張

祝日でしたが丸木美術館の休みをもらって、愛知県へ一日旅行に行ってきました。

午前中は、一宮市立三岸節子記念美術館へ。
これまで、日本近現代の「女流画家」を継続的に企画展に取り上げているこの美術館では、来年10月から11月にかけて「丸木俊展」の開催を予定しています。
担当学芸員のSさんが一宮駅まで車で迎えに来て下さり、ところどころ織物工場が見える街のなかを通って、やはり織物工場だったという三岸節子の生家跡に13年前に建てられた美術館に到着しました。

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建物は、織物工場の特徴である三角形の鋸屋根をモチーフにしています。
入口には、三岸節子のブロンズ像も立っています。

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三岸節子は1905年1月生まれ。女子美術学校(現在の女子美術大学)を首席で卒業した後、19歳で画家の三岸好太郎と結婚。好太郎は10年ほどで死去しますが、その後も彼女は子育てをしながら精力的に油彩画の発表を続け、色彩鮮やかな力強い作風で「女流画家」の代表的存在として20世紀を駆け抜けました。
美術館開館の半年後、1999年4月に神奈川県の大磯で亡くなっています。

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美術館の別棟は、現存する土蔵を生かし、アトリエを復元した小展示室になっています。
節子が生まれた吉田家はかなり富裕な家だったようですが、彼女が15歳のとき、第1次世界大戦後の不況の影響で破産してしまったそうです。
現在の土地は、市が買い戻して美術館にしたとのこと。

館内は1階が三岸節子の油彩画を並べた常設展示室。2階が企画展用の展示室という具合に分かれています。
常設展示室では、現在、「三岸節子 風景画家として―滞欧期―」と題し、25点の油彩画を展示中(1月22日まで)。80歳を過ぎた晩年の作品も多かったのですが、さすがに見応えがあり、あらためて画家としての力量の確かさを感じました。

2階の企画展示では、「佐分眞展 ―洋画界を疾走した伝説の画家―」を開催中。この日が最終日ということもあって、多くの来場者の姿がありました。

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6代目一宮町長の息子として名古屋に生まれた油彩画家、佐分眞(さぶり・まこと 1898-1936)の画業を紹介する展覧会です。
佐分は東京美術学校(現・東京藝術大学)で藤島武二に師事し、パリにも留学、帝展で3度特選に選ばれるなど画壇のエリートコースを歩んだものの、1935年の帝展改組の処遇に失望し、38歳でみずから命を絶ってしまったそうです。
油彩画49点、水彩・素描画29点の作品からは、彼がヨーロッパで多くの画家の作風を熱心に研究し、確かな技術で制作に生かしていたことが伝わってきます。

来年の今頃には丸木俊の作品がこの展示室に紹介されるということで、とても楽しみです。
丸木俊にとっては、公立美術館で開催される初めての単独回顧展となります。

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午後からは、名古屋市白川公園内の名古屋市立美術館へ行きました。

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現在開催中の企画展は「日本画壇の風雲児 中村正義 新たなる全貌」展(12月25日まで)。
愛知県豊橋市出身で、36歳で日展審査員に選ばれながら翌年日展から脱退し、日本画の革新運動に身を投じた中村正義(1924-1977)の画業を、230点を超える作品数で回顧するという非常に充実した展覧会でした。

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実は丸木美術館でも2009年の秋に「中村正義展」を開催しています。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2009/2009masayoshi.htm
そのときも見応えのある内容になり、また、川崎市の「中村正義の美術館」の企画展にもたびたび訪れて作品の迫力に心を打たれていたのですが、今回の企画は重要な作品をすべて網羅した圧倒的迫力の“決定版”ともいうべき展覧会。
2012年2月19日から4月1日まで練馬区美術館にも巡回する予定なのですが、名古屋でしか展示されない作品もあり、「中村正義の美術館」館長の中村倫子さんから「ぜひ名古屋の展覧会を観て欲しい」とのお誘いを頂いていたのです。

この日は午後2時から、倫子さんと映画監督の武重邦夫さんの記念対談「父をめぐる旅―異才の日本画家・中村正義の生涯」が行われました。司会は企画担当の山田諭学芸員です。

武重監督は、現在、中村正義の娘である倫子さんが、父を知る人や作品をたどる旅をする過程を取り上げたドキュメンタリ映画『父をめぐる旅』を撮影中なのです(2012年春公開予定)。



記念対談では、正義と親交のあった今村昌平監督のもとで助監督をしていた武重さんの正義との出会いや思い出、そして今回の映画撮影におけるエピソード、あまり聞く機会のない倫子さんと父・正義との関係など、貴重なお話をたくさん伺うことができました。

司会の山田学芸員のお話でとても心に残ったのは、芸術家にしては珍しく商才にも長けていた(実家がこんにゃく問屋だった影響なのか)正義が、不動産や作品売買で作った資金を、若手作家の育成や展覧会の開催などに惜しげもなく注いでいたという話でした。
作家を育て、美術館を育て、画廊を育て、観客を育てる。
日展脱退後の正義は、上(権力者)からの視点ではなく、下(市民)からの視点で「日本の文化をどう作っていくか」という課題に一貫して取り組んでいた、というのです。
だからこそ江戸の町人文化としての浮世絵に関心を抱き、とりわけ、大胆な表現が異端視されたという写楽に自身を重ねて作品研究に没頭していったのでしょう。

対談の後には、倫子さん、武重監督、山田学芸員や映画撮影スタッフの皆さんといっしょにお茶を飲みながら雑談。皆さんの正義に対する熱意に圧倒されながら、楽しい時間を過ごしました。

展覧会も映画も非常に見応えがあるので、ぜひ多くの方にご覧いただき、中村正義の作品が放つ凄みを感じていただきたいと思います。
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2011/11/18

板橋区立美術館「池袋モンパルナス展」  館外展・関連企画

午後3時から板橋区立美術館の企画展「池袋モンパルナス展」(11月19日〜1月9日)の内覧会・レセプションに行ってきました。

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池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が街にでてくる
彼女のために、
神経をつかへ
あまり太くもなく、細くもない
在り合せの神経を――


(小熊秀雄「池袋風景」より)

1930年代、現在の池袋を中心とする一帯に、アトリエ付き住宅群が建設され、画家や評論家、詩人、演劇関係者らが次第に集まり、暮らすようになりました。
詩人の小熊秀雄は、この集落を芸術の都パリのモンパルナスに重ね合わせ、「池袋モンパルナス」と呼びました。
「池袋モンパルナス」に暮らした画家のなかには、靉光や松本竣介、寺田政明、麻生三郎、古沢岩美、井上長三郎、吉井忠、そして若かりし日の赤松俊子(丸木俊)と丸木位里もいました。
戦争に向かって国全体が突き進む暗い時代のなかで、自由を求める若き芸術家たちにとって、「池袋モンパルナス」は束の間の解放区のような空間だったのです。

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これまで、たびたび企画されてきた「池袋モンパルナス」の展覧会。
今回の大きな特徴は、後の時代からの“回想”ではなく“同時代”の視点を重視しながら検証しているところです。

図録に収められた「吉井忠の日記」(1936-1945)は、その意味で今回の企画の核をなす貴重な資料だと言えるでしょう。
1936年2月26日、いわゆる「2.26事件」の日からはじまり、1945年5月2日に故郷の福島へ疎開をするまで続けられたこの日記は、一人の画家が「池袋モンパルナス」という空間で、激動の時代と向き合いながら何を考え、どのように日々を過ごしていたかが生々しく伝わってきます。

たとえば1941年4月6日の日記。
この日の早朝、吉井は“放浪の画家”長谷川利行の死を知り、夕方には福沢一郎と滝口修造がシュルレアリスムを危険思想と警戒する特高に検挙されたことを知ります。
時代の渦の中で翻弄される芸術家たちの姿を象徴するような一日です。

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6日/ Dimanche細雨/朝 寺田を訪ねる。長谷川利行、板橋養育院で昨秋発狂。今春早く死んだこと聞く。秋頃遺作展やるさうだ。彼も天才だった。一寸感慨に打たれる。二人で井上氏を訪ね絵を見る。青い絵が美しい。(…)夕方、例会に行かうとした所へ佐田君来る「福沢さん持って行かれた」と云ふ。いささか驚く。「直ぐ研究所に行って集る人に坊ちゃん病気今晩例会中止といふてくれ」と云ふ。すぐ出かける、はりがみする。/浅利、丸木(註:丸木位里)、ヒゲ(註:古沢岩美)、麻生氏等と会ふ。瀧口アヤ子さんも来る「昨日の朝、瀧口さん、杉並署に持って行かれたので原稿止める」と云ふ。それで大体今度の事のリンカク解った。皆に事情を云はずcaféのみ別れる。瀧口さんと銀座のヂヤーマンベーカリーに(9時)行く。薮内、ハリガミを見て何かを察して来る。(何か会の改組の話位に思ったらしい)話をすると流石に愕然として、井上、佐田、土井氏等と集まり、前後策について話す。二人とも昨日朝、自宅からていねいにつれて行かれたと云ふ。前後の話を総合して判断すると、当局がシュールレアリズムの性格の研究をしたいのらしい。美術文化展はこのまま期日に開きたいと皆で云ふ。展覧会を見れば当局の人々も我々の仕事を理解するだらうし又我々がどんなに我国美術文化の建設に骨を折っているかも解ってくれるだらうからと云ふことになる。/井上氏等、明日内閣情報局長の桑原氏に会っていろいろ話をして来ると云ふ。明夕6時に東京パンに集まることになって別れる。雪がチラチラする。(…)帰宅してオレも誤解を受けそうな本を処分する。当局にも我々の真意が解ったら何事もなく了解がつくだらうと云ふ。全くの誤解なのだから。

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この他にも、2.26事件や日米開戦時の社会の興奮状況、シンガポール陥落や1945年3月の東京大空襲の生々しい描写など興味深い記録は多々あり、もちろん、「池袋モンパルナス」の画家たちがどのように交友していたのかという日常の様子にも心が惹かれます。

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今回、丸木位里の出品作は《花王》(1943年、原爆の図丸木美術館蔵)と《ラクダ》(1938年、広島県立美術館蔵)の2点。
丸木俊の出品作は油彩画の《自画像(飢え)》(1944年、個人蔵)、《位里の像 2》(1945年、個人蔵)、《デッサン会》(池袋モンパルナス時代、個人蔵)の3点と、デッサンの《仕事する峯さん》(1945年1月、個人蔵)です。

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俊が隣に住んでいた彫刻家の峯孝を描いたデッサンは、2007年に丸木美術館で開催した「丸木俊の絵画」展で初めて紹介したので、ご覧になったことがない方も多いでしょうが、企画の狙いである“同時代”の空気を伝える作品のひとつであると思います。
会場では、デッサンの前に峯孝の《寺田政明像》(年代不明、板橋区立美術館蔵)が展示され、彫刻作品の向こうに“仕事する”作者の姿を見ることができるという構成になっていました。
よく見ると、デッサンに描かれた制作中の彫刻は《寺田政明像》に似ていて、同一作品の可能性もあるのではないかと思います。

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会期中には講演・朗読・コンサートなど多彩なイベントも開催予定。
12月10日(土)には、《原爆の図》研究などで知られる近現代史研究者の小沢節子さんが「巴里と帝都のあいだで―再考〈池袋モンパルナス〉の画家」と題する講演会を行います。
時間は午後2時から3時半まで(聴講無料、先着100名、事前予約不要)。
小沢さんは瀧口修造や松本竣介についての著作もあり、興味深い講演会になることでしょう。
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2011/11/17

Chim↑Pom展打ち合わせ  特別企画

今年の5月、渋谷駅に設置されている岡本太郎の壁画《明日の神話》に福島原発事故の絵を付け足したことで知られる若手芸術家集団Chim↑Pomが、12月11日(日)から18日(日)まで丸木美術館で個展を開催します。

2008年10月に広島の原爆ドームの上空に飛行機雲で「ピカッ」という文字を描いた《広島の空をピカッとさせる》からはじまる、これまで発表してきた原爆・原発に関した作品と新作を一堂に集めた“集大成”というべき展覧会になりそうです。

この日は、夕方からChim↑Pomのメンバーたちが来館し、実際に美術館の展示室をまわりながら、展示やイベントの打ち合わせを行いました。
さすがに、たびたび物議を醸す問題作を発表してきた彼ららしく、次々と提案してくるアイディアは丸木美術館にとって斬新なものばかり。

もちろん、美術館としては現実的に可能なところで折り合いをつけなければならないのですが、それが彼らの“良さ”を消してしまうことにならないよう、学芸員としては頭を悩ませています。
近いうちに最終的な全体像が見えてくると思うので、またあらためてご紹介いたします。
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2011/11/16

プロジェクトのはじまり……  館外展・関連企画

午後から、元テレビ局プロデューサーのHさん、米国の軍縮教育専門家のSさんたち一行が来館されました。
Hさんは、オルセー美術館の作品展や、戦争・貧困・災害などの時代を生きる子どもたちの写真展を手がけている経験豊富なプロデューサー。
Sさんは国連軍縮局のコンサルタントを務め、被爆体験を伝える平和ワークショップを日米各地で続けている軍縮教育の専門家です。また、杉並区被爆者団体の方や、通訳としてピースボートのスタッフの方たちも同行して下さいました。

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今回、一行が丸木美術館を訪れたのは、《原爆の図》に関する、あるプロジェクトを立ち上げようという相談のためです。
丸木美術館からは事務局のNさんと岡村が参加し、非常に有意義な話し合いになりました。

プロジェクトがどのようなものなのかは、今後、詳細が固まり次第、報告できると思います。
ゼロからのスタートなので、今はまだ夢のようなプロジェクトなのですが、きっとこの“チーム”なら、どんな困難も乗り越えていけるのではないか……と大いに勇気をもらいました。
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2011/11/15

位里水墨作品の寄贈報告  作品・資料

このところ、丸木位里作品の寄贈が続いているので報告いたします。

まずは11月10日に埼玉県寄居町のSさんからご寄贈いただいた水墨画《ぼたん》。
位里さんの82歳のときの作品で、立派に軸装されています。
Sさんの亡き御夫君が購入されたそうで、墨のにじみを生かしたぼたんの奥深い“色彩”は、位里さんの力量がとてもよく発揮されているものです。

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11月13日には、東京都板橋区のTさんから淡い黄色で着彩された水墨画(題名未詳ですが、山を描いた作品)をご寄贈いただきました。
Tさんによれば、この作品は元埼玉銀行頭取の千田儀一郎氏より譲り受けたものだそうです。

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こちらも、位里さんらしい自由奔放な墨の表現が魅力的です。
未額装の作品ですので、いずれ額装して展示紹介していきたいと思います。

貴重な作品をご寄贈くださったお二方に、心から御礼を申し上げます。
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2011/11/13

『世界は恐怖する 死の灰の正体』上映会/『朝日新聞』連載「観測中止令」  イベント

昨日は午後2時から、都立第五福竜丸展示館の協力によって、亀井文夫監督のドキュメンタリ映画『世界は恐怖する 死の灰の正体』(1957年、79分)の上映会を行いました。
午前中に事務局のNさんと準備した新聞紙製の「暗幕」で窓をふさいだ上映会場には50人以上の参加者が集まり、大盛況となりました。

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制作されてから半世紀が経過しても、なお衝撃を失わない渾身の作品。
当時の科学者がこれほどの研究を進めていながら、どうして放射能の恐怖が広く認識されなかったのかと、残念でなりません。
ほぼ同じ時期に米国の主導で日本各地で開催された「原子力平和利用大博覧会」には200万人の来場者が訪れたそうですが……。

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上映後、第五福竜丸展示館の安田和也主任学芸員が解説をして下さいました。
第五福竜丸の事件を『読売新聞』がスクープしたのは決して偶然ではないこと、『読売新聞』では当時すでに「原子力の平和利用」に向けて専門の調査チームを設けており、放射能被ばくの重大性を理解する知識を持っていたことなど、刺激的な内容でしたが、とりわけ印象に残ったのは、安田さんの古くからの友人である気象庁気象研究所の青山道夫さんについての話でした。

気象庁では1950年代にビキニ環礁で行われた米国の水爆実験をきっかけに、大気と海洋の環境放射能の観測を続けており、青山さんも放射能による環境影響の研究で国際的に知られているそうです。
ところが今年3月31日に、突然「観測中止令」、つまり放射能観測予算の凍結の通達があったというのです。もちろん放射能は福島原発事故後の影響により、観測史上最高の値を示していたのですが、それにも関わらず、半世紀以上も続けられてきた観測を中止するという判断が下されたわけです。

ちょうど11月7日から『朝日新聞』朝刊の「プロメテウスの罠」というコラムで、青山さんを取り上げた「観測中止令」の連載がはじまっていたので、安田さんの話は、とても機を得たものとして心に響きました。

連載7回目を迎えた今朝11月13日付『朝日新聞』のコラムには、青山さんが「福島原発から出た放射性物質の海洋環境への影響」という論文を4月に英誌『ネイチャー』に掲載することが決まっていながら、気象研究所の所長に呼ばれ、内容の削除を求められたことが紹介されています。

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…… 「チェルノブイリ事故のデータは、川で運ばれた何百キロも先の海の話だ。福島沖の海と比べるのは、科学的におかしいと思う」と加納が切り出した。
 青山は「チェルノブイリ原発事故では放射性物質が川を通って海に出たわけです。離れていても川ではそれほど薄まりません」と説明した。
 福島の場合、原発の排水口付近の放射能は、チェルノブイリ事故による黒海の汚染の1万倍ほどにもなってしまう。だが、30キロ沖に離れると薄まり、同じレベルに下がっている値も示していた。
 2人が説明した、当時のやりとりを再現する。
 加納「専門家は判断できるかもしれない。しかしマスコミは、『福島の海はチェルノブイリ事故の1万倍の汚染』と書きかねないですよ」
 青山「東京電力や文部科学省が公表したデータをもとにしているので、数値に間違いはありません。海の汚染がひどいのは事実です。だいいち『1万倍』という具体的な数字はテキストに書いてません」
 加納「しかしグラフを見れば、そう読める」
 青山「それについては正しく理解してもらえるよう、報道用に日本語の解説もつくって配ります」
 加納「チェルノブイリ事故との比較を削れないものか」
 青山「削れば、残るのは核実験の影響による太平洋の汚染との比較です。『100万倍ひどい』なんて書かれることになりますよ」
 しかし加納は譲らない。
 「書き直さないなら、『気象庁気象研究所・青山道夫』の名前でこの論文を出すのは許可できない」
 削除を求められた部分は、論文の共同筆者であるケン・ベッセラーの担当した所だ。青山には削ることなどできなかった。


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今朝の記事はここで終わっています。
明日からどのように話が展開されて行くのか、非常に興味深いところです。
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2011/11/11

栗田明子さん『海の向こうに本を届ける』  書籍

今年の8月6日に丸木美術館ひろしま忌で講演をして下さった栗田明子さんの著作『海の向こうに本を届ける 著作権輸出への道』が、晶文社から刊行されました。

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栗田さんは、1970年代から日本の出版物を海外に紹介し続けてきた著作権輸出エージェントのパイオニア。交渉国は40か国、海外翻訳出版の累計契約数は13,000作品にものぼるそうです。
北杜夫、有吉佐和子、小川洋子、星新一、よしもとばなな、吉村昭、柳美里、司馬遼太郎、島田雅彦、塩野七生……といった錚々たる顔ぶれの小説家の作品や、安野光雅、五味太郎、馬場のぼるの絵本など、その輸出の歩みは、まさに“もうひとつの日本文学史・出版史”。
よしもとばなな『キッチン』イタリア語版出版の項で、個人的に敬愛している須賀敦子さんの名前が出てくるのも嬉しいです。

丸木夫妻の絵本『ひろしまのピカ』の翻訳出版についても、詳しく記述されています。
以下は、『ひろしまのピカ』アメリカ版出版の箇所の抜粋です。

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 しばらくして、パンセオン出版社のエンゲルハート氏から、同社の児童書部門のパトリシア・ロス編集長があなたに会いたがっている、と連絡をしてきました。『ひろしまのピカ』(1975年*、小峰書店刊)を英訳とともに送っておいたので、そのことではないかと期待を持ってロスさんを訪問しました。
 ボローニャの図書館で、アメリカの何名かの編集長に見せていましたが、「加害者としては、これを出すのは難しいわ」というのがほとんどの反応でした。ロスさんは、「これほど酷いことを、こんなに美しく芸術的な作品に昇華した作家の手腕はすばらしいわ。これを読んだ日は、悪夢で眠れなかったのよ」とご自身の感動を伝えてくださったのですが、結論は否定的でした。
 「自分の手でぜひ出したいのだけれども、出版社の規模が大きすぎるので、このような本を出すときには営業部がきっと反対すると思う。もう少し規模の小さい出版社の編集長を紹介するので、見せてごらんなさい」と紹介されたのは、ウィリアム・モロー(William Morrow and Company)傘下のロスロップ・リー・アンド・シェパード(Lothlop, Lee & Shephard Books)の当時の編集長、ドロシー・ブライリーさん(故人)でした。ボローニャ国際児童図書展では時々会っていたショートヘアのきりっとした印象の方です。
 ブライリーさんは、日を置かず、出版の決断をしてくださいました。やはり、営業部の反対はあったものの、ブライリーさんの熱心な説得に応じたとのことでした。結果、三つの大きな賞を与えられました。翻訳された本で過去一年間に出版されたなかでベストの本に与えられるミルドレッド・L・バチェルダー賞(Mildred L.batchelder Award)、続いて、ジェーン・アダムズ平和賞(Jane Addams Peace Award/1930年にノーベル平和賞の受賞者にちなんだ賞)、ボストン・グローブ−ホーン・ブック賞(Boston Globe - Horn Book Award)という高い水準の児童書に与えられる賞です。そしてアメリカ図書館協会推薦図書になりました。


*引用者註:『ひろしまのピカ』の発行は、正確には1980年)

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また、英国版は5年生から9年生向きを読者対象にして、死者数や爆弾の威力など数字を使用し客観的な描写を挿入していることや、英国版では原作に忠実に「日本で強制的に働かされていた朝鮮人もたくさん死にました」、「爆弾を落とした国であるアメリカ人も死にました」と表現されているのに対し、米国版では「朝鮮、ロシア、中国、インドネシア、アメリカ人も含まれていた」と並列に表記されていることなど、それぞれの国の立場や事情によって翻訳の内容も微妙に違っているという興味深い指摘もされています。

たんなる体験記にとどまらず、日本の書籍がどのように海外で読まれてきたかという“文化史”を知る上でも、非常に興味深い一冊です。
ぜひ、多くの方にお読み頂きたいと思います。
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2011/11/10

松戸市立博物館「松戸の美術100年史」  館外展・関連企画

午後から、現在、松戸市立博物館で開催中の企画展「松戸の美術100年史」(11月27日まで)に行ってきました。

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この展覧会は、1911年に千葉県庁舎とその周辺で開催された「千葉県共進会」に千葉県立園芸専門学校(松戸市、現千葉大園芸学部)から出品した室内花壇を、油彩画家の堀江正章が描いてからちょうど100年という年を記念して、松戸にゆかりのある28人の作家の作品を紹介し、松戸の美術史を回顧する内容です。

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徳川昭武(15代将軍慶喜の弟)の写真や田中寅三、板倉鼎、和田早苗といった草創期の油彩画家たちの絵画からはじまり、千崎千恵夫、保科豊巳、間島秀徳、小滝雅道ら現在活躍中の現代美術家まで、多彩な顔ぶれの出品者とともに、1960年代なかばにごく短期間ながら松戸に居を構えた丸木夫妻も出品しています。

戦中・戦後期を過ごした「池袋モンパルナス」や《原爆の図》を描きはじめた藤沢市片瀬のアトリエに比べ、丸木夫妻の松戸時代については、これまでほとんど調査されていませんでした。
そのため、今回、担当学芸員のTさんが掘り起こして下さったさまざまな内容は、今後重要な意味を持つことになるでしょう。

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二人が松戸市八ヶ崎で暮らしたのは、1964年頃から1966年末にかけて(丸木位里画文集『流々遍歴』には、「松戸の八ヶ崎に移ったのは、一九六四年だった」との記述があるものの、戸籍上の記録は1965年3月30日から1966年12月23日)のことです。
それまで住んでいた練馬区谷原の土地を売却して欲しいとの話が持ち上がり、友人の松戸市在住の画家・岩崎巴人に誘われたことから、松戸へ移ったようです。

この頃、八ヶ崎では、日本住宅公団の小金原団地造成計画が決定され、丸木夫妻の家の近くの貝の花貝塚(縄文中〜晩期)の遺跡発掘調査が行われていました。
丸木夫妻の松戸時代において、もっとも重要な出来事が、この貝の花貝塚の遺跡保存運動に関わったことでしょう。
今回、T学芸員が、数人の関係者から聞き取り調査をして下さいましたので、企画展図録から、いくつかの証言を抜粋します。

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 貝の花の現場は、けやき通りの大通りのところだった。発掘が続いているので何度か現場を見に行っていた。岩崎巴人と丸木さんと、発掘した後どうするんだろうか、ほうっておくとどうなるのかという話で、社会教育課に聞くと、調査の後は、公団の団地造成計画の中に入ってしまう、別にどうもしないという回答だった。
 私たちはまだ若かったから、そんな話があるか、何らかの形で保存しなくてはいけないと。掘るだけ掘って、取るもの取って、宅地造成をするのはおかしいと。こうなったら早く保存運動をしようということになり、巴人が会長になって保存会を作った。私が事務局長になった。それから遺跡の意義を学習しなければと、いろいろ勉強会をやった。専門家から、「発掘してデータをとったあとの遺跡は学問的には全然価値はない」と言われた。私はその時ちょっと怒った。ここの住民、子どもたちにとって、地元に遺跡があるということは、地元の子どもたちの教育上たいへんに意味のあることではないか。県内に加曾利貝塚があっても、八ヶ崎は八ヶ崎、貝の花は貝の花だと。学問的価値がなくても教育的価値はあると、納得はしなかった。
 公団に行って総裁にも会った。丸木さんは有名だったから向こうもびっくりしていた。しかし会っても計画通りやるしかないと、僕らの意向を汲み取らない。小金原団地の造成はすでに計画段階ではなく着工していたため、予定変更には至らなかった。
……

 (松戸で丸木夫妻と親交のあったF氏)

   *   *   *

 当時、丸木さんのお宅は芸術家村みたいだった。芸術家が集まって、月1回歓談をしていた。貝の花遺跡は丸木さんのお宅の近くだった。よく調査を見に来られた。特に人骨に興味を持たれた。
 貝の花遺跡のところで、発掘調査の後、縄文祭りをやった。いいですか、というので、終わったからいいですよと。昭和40年か、41年の春に調査が完了してからだったか。その後、公団との交渉で貝の花公園を作ってもらった。
 発掘調査は芸術家にとっては鮮烈で、これは保存しなければと思われたのだろう。岩崎巴人さんや丸木さん、市会議員の恩田威明さんらは、遺跡保存の要望書を県から参議院文教委員会まで持っていったが、貝の花遺跡はどうしても保存できなかった。
……

 (松戸市立博物館館長S氏)

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結果的には保存運動が実らなかった貝の花貝塚ですが、『松戸市文化財調査報告 第4集 貝の花貝塚』(松戸市教育委員会、1973年)の第1章「序説」には、次のような(T学芸員いわく、保存運動に同情的な)記述が見られます。

……このような処女状態を保った貝塚は、今では東京湾周縁はおろか全国的にみても稀有である。これを一気に失うことは文化財保護の立場からも、学術研究の立場からも全く忍びないものがあった。……

丸木夫妻は、こうした調査保存運動のなかで入手した土器の破片を大切に保存し、1967年に埼玉県東松山市に移り住んで建設した丸木美術館でも展示していました。

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この土器の破片も、今回の企画展では展示紹介しています。

また、F氏の証言のなかには、美術館建設計画をめぐる興味深い話も含まれていました。

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 丸木夫妻が松戸に来た訳は、原爆の図の美術館を、初めは住いのすぐ裏につくるつもりだった。周りは松林でいいところだった。東松山にも自分の土地を持っていたが、あそこは遠いので、松戸で初めは作りたかった。しかし地主にどうしても土地を譲ってもらえず、初めは夫妻だけで考えていた構想が実現しなくなった。ここではもう駄目だとわかり、松戸の家を早く売るため、処分を急いだ。

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松戸の美術館計画というのは初めて聞く話でしたが、当時は広島や東松山を含めて、あちこちの候補地で美術館を建てられないかと検討していたのでしょう。

   *   *   *

展覧会を観た後で、2階の博物館の常設展示もひととおり観てまわりました。
「狩りと採集のムラ」という縄文時代の展示コーナーでは、貝の花貝塚の復元模型も展示されていました。

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丸木夫妻は、後に丸木美術館の裏手に竪穴住居を建てたり、野焼きをして土器を焼きあげたりという活動もしているのですが、そうした縄文の人々への共感を育んだのは、松戸時代に触れた貝の花貝塚の遺跡だったのかも知れません。
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2011/11/9

『世界は恐怖する 死の灰の正体』上映会のお知らせ  イベント

11月12日(土)午後2時より、丸木美術館にて『世界は恐怖する―死の灰の正体』(1957年、亀井文夫監督)の映画上映会を行います。
上映は都立第五福竜丸展示館。上映後には同館の安田和也主任学芸員が現在の視点から映画の補足解説を行って下さいます。
参加は自由、当日の入館券が必要です。

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『世界は恐怖する―死の灰の正体』は、第五福竜丸事件で知られるビキニ環礁の水爆実験など、米ソ核開発競争が激化する1950年代に、いち早く放射能の生物への影響を記録し、空気中や雨水に含まれる放射能の分析や、遺伝的な影響、広島長崎の被爆者の取材、未来の放射能汚染の予測など科学的視点をふんだんに盛り込んだ画期的な作品です。

解説は徳川夢声、制作には勅使河原宏も参加し、地球化学者の三宅泰雄、物理学者の武谷三男など当時を代表する数多くの科学者が協力。そして、動物への放射能実験の様子や顕微鏡で撮影した細胞の突然変異などの画面に、しばしば印象的にモンタージュされるのは丸木夫妻の《原爆の図》です。

朝、元気にラジオ体操をする子どもたちの深呼吸に、そしてチリや雨水にまじって田、畑の土に、稲に、野菜に、牛乳に、しのび込む目に見えない“死の灰”の恐怖。
“死の灰”を実験的に体内に注ぎ込まれたネズミやウサギは、骨ガンや白血病をひき起こします。死んだ人の骨を焼いてみると成人より幼児に多いという調査結果や、放射線が遺伝子を傷つけ、障碍を持って生まれてくる新生児の姿は、映画を観る者に衝撃を与え、とりわけ福島第一原発事故後の現在では、“これから起こりうる過去”として私たちにのしかかってきます。

皮肉にも、福島県相馬郡原ノ町、つまり現在の南相馬市に生まれた亀井監督は、映画の最後に次のようなメッセージを残しています。

死の灰の恐怖は、人間が作りだしたものであって、地震や台風のような天災とは根本的にちがいます。だから人間がその気にさえなれば、必ず解消できるはずの問題であることを、ここに付記します。

放射能のもたらす恐怖に警鐘を鳴らし、核廃絶を願った亀井監督。
半世紀以上の歳月を経てもまったく古びていない内容の名作ドキュメンタリ映画を、いま、私たちはどのように観るべきなのか。
深く考えさせられる内容の映画ですので、ぜひ多くの方にご覧頂きたいと思います。
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2011/11/6

荒川少年少女合唱隊コンサート  イベント

あいにく小雨の降りしきる日曜日となりましたが、荒川少年少女合唱隊が来館。館内を見学した後、新館ホールでミニコンサートを行いました。

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「こころで歌い上げる合唱」をテーマに掲げている荒川少年少女合唱隊は、今年で4年連続の来館となります。2010年には5月5日の開館記念日に参加し、コンサートを行って下さいました。
今年の夏にはウィーンに遠征し、4回にわたるコンサートも開催したそうです。

今回のミニコンサートは、「ドレミの歌」や「エーデルワイス」などミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の曲が中心でした。
夏のウィーン遠征からのつながりを重視した選曲だったのでしょうか。
会場には、丸木夫妻の共同制作《アウシュビッツの図》も展示されており、子どもたちの素晴らしい歌声と響き合いながら、戦争と歌、というテーマについて考えさせられました。

コンサートを聴いていた某“若手芸術家集団”も子どもたちの表現力にはすっかり心を動かされていた様子。もちろん、事務局のNさんも涙を流して聴いていました。

毎年、丸木美術館を訪れるたびに“歌の力”を感じさせてくれる合唱隊の皆さんに、心から拍手を送りたいと思います。
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