2011/10/30

小沢節子さん『第五福竜丸から「3.11」後へ』  書籍

10月26日に岩波ブックレット『第五福竜丸から「3.11」後へ 被爆者 大石又七の旅路』が刊行されました。著者は、『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』などの著作で知られる近現代史研究者の小沢(こざわ)節子さんです。

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ビキニ水爆実験で被爆した後、長い沈黙を経て証言者となった元第五福竜丸乗組員・大石又七さんの人生を、3.11後の視点で探っていく一冊です。
大石さんは4冊の著作を出されているものの、この本は第三者による初の評伝となります。

小沢さんの鋭い問題設定と深く鮮やかな考察の仕事は、これまで幾度となく目の当たりにしていますが、今回の一冊も“評伝”のもたらす意味というものを考えさせられる興味深い内容でした。

とりわけ、大石さんがドキュメンタリ番組「廃船」を手がけたNHKの工藤俊樹ディレクターと出会い、“「書くこと」によって自らの過去をとりもどし、「書き言葉」という自由を手に入れ、被爆体験に深く向き合うようになった”最初の著作『死の灰を背負って』(1991年、新潮社)を執筆するまでの過程を描いたくだりには、本当に心を打たれました。

福島第一原発事故以後、日常生活のなかで“被ばく”の問題と向き合わなければならなくなった私たちにとって、葛藤を繰り返しながらも、みずからの体験と「怒り」を原点に、粘り強く世界の状況を学びとり、発言を続ける大石さんの姿勢は、学ぶべきところが多いように思います。

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実はこの本は、今年の3月5日に丸木美術館で行われた大石さんと詩人のアーサー・ビナードさんの講演会の紹介からはじまっています。
冒頭の部分を少し抜粋します。

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 二〇一一年三月五日、私は詩人のアーサー・ビナードさん、第五福竜丸の大石又七さんとともに、埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」で講演会に参加した。美術館では、日米両国の芸術家の視点から五七年前の事件をとらえかえす企画展「第五福竜丸事件 ベン・シャーンと丸木夫妻」が開催されていた。
 一九五四年三月一日、静岡県焼津のマグロ漁船第五福竜丸は、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験に遭遇した。二三人の乗組員全員が被爆、半年後には無線長の久保山愛吉さんが死亡し、放射能の被害は広範囲に及んだ。この出来事がビキニ事件あるいは第五福竜丸事件と呼ばれている(以下、ビキニ事件と表記)。講演会での私の役割は、聞き手として、大石さんから事件当時の状況とその後の人生などについてうかがうことだった。会の最後には、「誰もが被ばく者になる世界を生きているということを、もっと感じてもらいたい」と大石さんが語り、ビナードさんが「私たちは皆、第五福竜丸に乗っているのだ」と応えた。それらの言葉が一週間後に現実のものになるとは、思いもよらぬことだった。

 講演の後、フロアから二つの質問があった。「大石さんは被爆者〔健康〕手帳をもっていないんですか。広島・長崎の被爆者のような医療費の補助はないんですか」という質問に、大石さんは「私は被爆者ですが、国家からは被爆者として認定されていない。だから被爆者手帳はもっていないし、何の補償も受けていないのです」と答えた。「どうして、大石さんだけが語りつづけることができたのでしょう」という私への質問も出され、私は「私もずっとそのことを考えているのですが……」と口ごもった。
 この二つの問いは、実は、本書のテーマともかかわっている。
……

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3月11日の大震災・原発事故の際、丸木美術館では第五福竜丸をテーマにした企画展を開催していました。あまりにもタイムリーな内容であったため、丸木美術館としてはかなり力を入れた展覧会でありながら、メディアにはほとんど紹介されず(講演会の様子はNHKさいたま局が念入りに取材されていましたが、結局放送できませんでした)、震災後の交通網の混乱もあって、残念ながら多くの方に観て頂くことはできませんでした。

それでも、長い視点で見たときに、小沢さんや大石さんにとって意味のある新しい仕事のきっかけに丸木美術館が少しでも関わることができたことは、企画者として嬉しく思います。
大石さんの講演を企画した際、「聞き手がいた方が良い講演会になるよ」とアドヴァイスを下さったのは、第五福竜丸展示館のY学芸員でした。そのとき、聞き手をお願いするなら小沢さんしかいない、と閃いたことも思い出します。

いまなぜビキニ事件を振り返るのか、大石又七さんの人生の意味を考えるべきなのかを、深く、わかりやすく提示してくれる一冊。
ぜひ、多くの方にお読み頂きたいと思います。
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2011/10/29

美術館クラブ「おいしそうなルームアクセサリー」  ワークショップ

毎月恒例の丸木美術館クラブ工作教室。
今月は、「おいしそうなルームアクセサリーを作ろう」という内容で、案内人は画家の谷口幹郎さんでした。

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果物やケーキなどの柄の布を思い思いに切り抜いて……

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それを古いレコードに貼り付けていくのです。

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できあがりはこちら。
細かい柄をたくさんちりばめた作品や、大きな柄を木に見立てた作品、中にはロボットふうの作品まで……

工作の後は、H川さんのギター演奏による手遊び歌コンサート。
そして、妻T差し入れのアップルケーキとM年山さんのコーヒーでひと休み。
いつも通り、おしゃべりを楽しみながらの和やかな会となりました。
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2011/10/28

【北海道出張第3日】室蘭市民美術館「再現原爆の図展」  調査・旅行・出張

午前10時から、室蘭市民美術館で「再現 原爆の図展」のオープニングが開かれました。

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60年前に開催されたときとまったく同じ10月28日から30日という日程で企画された展覧会。
美術館をささえる会事務局長のSさんがみずから作って下さったという看板も立派です。

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会場には、《原爆の図》第1部〜第3部の原寸大複製と第4部〜第5部の1/2縮小パネルのほか、長万部平和祈念館から借用した《原爆の図 母子像》(1983年)が並び、60年前の展覧会を偲ぶ資料も展示されました。

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展示ケースの上段にあるのは、60年前に展覧会開催に向けて奔走した地元の文学サークルの人たちがガリ版刷りで発行していた文芸誌。
『壁』、『北方文学』、『ひろば』、『北峡文学』などのタイトルが見えます。
こうした数多くのサークルの人たちが協働しながら、展覧会の準備にあたっていたのです。

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私は9時過ぎに展覧会場に入ったのですが、オープニングの10時が近づくと、市民の皆さんが次々に美術館に集まってきて下さいました。前日に『北海道新聞』、当日に『室蘭新報』などで紹介記事が出たのも大きかったようです。

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写真は、まだオープニング前の会場の光景。
なかなか盛況ですが、まだ展覧会ははじまっていません。
室蘭の方々の関心の高さが伺えます。

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午前10時から正式に展覧会が開幕。まずは小原館長のご挨拶です。
小原館長はとても温厚な方ですが、2000年に「室蘭に美術館をつくる市民の会」を立ち上げ、2008年の市民美術館開館にこぎつける原動力となったという情熱をお持ちなのです。
その後も市民に開かれた美術館という目標を掲げ、行政主導や委託管理ではない室蘭独自の“行政パートナー”という協定を結んで、地域の人びととともに身の丈に合った地道な活動をしているとのことで、個人的に非常に感銘を受けました。

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館長のご挨拶の後は、市民の方々や市役所職員の皆さんの前で、《原爆の図》を中心に展示解説を行いました。
写真を撮って下さったのは、今回の展覧会でお世話になった画家の北浦晃さんです。

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ご覧のように、初日の会場は大盛況でした。
展覧会を広めて下さった関係者の皆さんの努力のおかげです。
なかには「60年前の展覧会を観ました」という方もいらっしゃいました。
来年1月に室蘭と同様に再現展を行う美唄市の教育委員会の方も会場を訪れて下さいました。

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小学校の子どもたちも、先生に引率されて元気に展覧会を観に来てくれました。
子どもたちが絵を観てくれるのは本当に嬉しいです。

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実は、今回の展覧会がはじまるわずか1週間前に、室蘭在住の画家、佐久間恭子さんがお亡くなりになりました。
私は1度お電話でお話ししたことがあったのですが、佐久間さんも60年前の「原爆の図展」をご覧になった方のひとりでした。
当時20歳だった佐久間さんは、《原爆の図》の迫力に打たれ、2時間も絵の前に立ち尽くし、とうとう会場にいた丸木俊さんに声をかけることができなかったそうです。そして翌年に室蘭美術協会の会員となり、画家として今日まで室蘭の文化を支えてづけてきたということです。
佐久間さんと親しかった北浦さんは、「ここが本物の画家としてのスタートだったのではないのでしょうか。絵が人々に訴える力というものを、若い金丸恭子は「原爆の図」から学んだのではないのですか? あとたった一週間だったのですから、車椅子でもいいから会場に来られて、もう一度熱く語ってほしかった…」と弔辞を読まれたそうです。

また、北浦さんも美唄の出身で、白戸さんと別の中学校で引率されて60年前の「原爆の図展」をご覧になったとのこと。その後、ともに進学した高校で北浦さんは美術部、白戸さんは文芸部として育んだ友情が、半世紀以上を経て「原爆の図展」再現につながっていった、というわけです。

当時の「原爆の図展」を支え、あるいは絵に触れたことで、さまざまなかたちで影響を受けた人たちの物語に、近ごろは強く惹かれます。

あたたかく迎えて下さった小原館長、北浦さんご一家をはじめ、展覧会の開催に尽力して下さった多くの方々に感謝しながら、午後2時過ぎに室蘭を離れました。
皆さま本当にありがとうございました。
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2011/10/27

【北海道出張2日目】60年ぶりの室蘭原爆展準備  調査・旅行・出張

午前中のうちに、特急列車に乗って室蘭へ移動しました。
明日から3日間の日程で、60年ぶりに室蘭で「原爆の図展」が再現されるのです。

室蘭という地名は、「ゆるやかな坂を下る道」という意味を表すアイヌ語の「モ・ルエラン」に由来しているそうです。
駅には室蘭市民美術館のO館長が迎えに来て下さって、さっそく、室蘭市街を一望できる測量山に案内して下さいました。

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測量山は標高199.6m。室蘭市街でもっとも高い山頂にはテレビ塔が林立しています。
この山は、アイヌ語では「ホシケサンベ」。最初に見えてくる山という意味で、昔、アイヌの漁師がこの山を目印としていたそうです。

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なぜ測量山という名前で呼ばれているのかというと、1872年に「札幌本道」(現国道36号)を作るとき、陸地測量道路建築長の米国人ワーフィールドが、この山に登り道路計画などの見当をつけたことから「見当山」と呼ばれ、後に「測量山」と改めたのだそうです。
山頂には1900年に陸軍地測量部によって設置された一等三角点補点が残されています。
室蘭においては、何かというと基点や目印になる山のようです。

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山頂からは海も見渡せます。内浦湾の向こうには、函館の山影も見えます。
強い風が、潮の匂いを運んでくれます。

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かつての繁栄を象徴する室蘭港も一望できます。
写真左側に見える赤くて高い煙突の周辺が新日本製鉄室蘭製鉄所。
写真右の風力発電の先に白っぽい屋根が並んでいるのは日本製鋼所室蘭製作所。
美唄が炭鉱の町なら、室蘭は鉄鋼業の町。ともに日本の近代化を支えた産業の町なのです。

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測量山を車で降りて、次に案内されたのは、室蘭港近くの入江運動公園でした。
この公園には、1982年に開港110年・市政施行60年を記念して道内の彫刻家14人の作品が設置されています。

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旭川出身でアイヌの血をひく彫刻家・砂澤ビッキの作品もありました。

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昼食の後は、展示作業のため室蘭市民美術館へ。
明日からはじまる「原爆の図展」の看板がすでに準備されています。

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60年前の1951年10月28日から30日まで、室蘭駅前の室蘭市立労働会館にて、北海道で最初の「原爆の図展」が開催されました。

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写真は室蘭市立労働会館。今は存在しませんが、当時は新築間もない建物だったはずです。
俊の回想によれば、室蘭での展覧会は準備不足のため俊みずからがポスターを描くなど大騒ぎとなったものの、口コミで日に日に来場者が増え、3日間で6,000人を数えたといいます。

当時、日本製鋼文学サークルの会員で「原爆の図展」に関わったHさんと、同じく「原爆の図展」に協力した室蘭地協書記長の妹で、展覧会も見ていたというFさんが美術館を訪れ、60年前の記憶を語って下さいました。

そのお話によれば、室蘭での「原爆の図展」は、日本製鋼文学サークルや新日本文学室蘭支部など市内の文学サークルの仲間たちや、室蘭地協、室蘭工大の自治会、そして当時組合活動をしていてレッドパージを受けた人びとが集まって準備をしたとのこと。
実行委員長は室蘭市立図書館長が依頼されて務めたそうです。
おそらくは、その後札幌で「綜合原爆展」を開催する北大の自治会から道学連のつながりで室蘭工大に話が来たのではないかと思います。

Hさんは、「原爆の図展」を見た3人の感想が掲載された日本製鋼文学サークルの機関誌『ひろば』第3号(1951年11月30日発行)を所蔵されていました。

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ガリ版刷りの印刷で、紙もボロボロですが、よくぞ残っていたと胸が熱くなります。
米軍占領下の時代に「原爆の図展」を見た人の声を知ることができる資料は非常に少ないので、本当に貴重な資料です。

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Hさんは、当時、新制高校を卒業したばかりで、日本製鋼の旋盤工として働きながら、何とか会社を辞めて東京に行きたいと考えていたのですが、「原爆の図展」などの活動を通して地域の人びとに出会い、こういうことも大切なんだな、と考えるようになったそうです。Hさんにとってはまさしく「人生の転換期」であり、その後、1953年夏に同じ労働会館で“朝鮮戦争休戦を願う夕べ”が開催されたときには、みずから準備のために奔走したといいます。

お二人が口をそろえて強調されていたのは、大企業の城下町だった室蘭で「原爆の図展」が開催できたのは、受け入れた人たちの確かな人間同士のつながりがあったからだ、ということでした。
「あの人が生きていれば、もっといろいろなことがわかったのに、1年前に死んでしまった」
「この人が生きていれば、60年前の再現展に大よろこびしていたはずだったのに」
関係者の多くが亡くなってしまったことを残念がるお二人でしたが、その様子を見ているだけで、室蘭という町で育まれた人びとの強い絆が感じられるような気がしました。

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実は今回の展覧会には、丸木美術館から貸し出した《原爆の図》5部作の複製画のほかに、長万部町の平和祈念館が所蔵する《原爆の図 母子像》が出品されています。
1983年に丸木夫妻が依頼を受けて描いたという共同制作で、これまで長万部町から貸し出された記録はなく、世間的にはほとんど知られていない作品です。

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縦90cm、横185cmほどの大きさの画面に、晩年の俊さんならではの、しなやかにデフォルメされた線で母子像が描かれており、かなり見応えがありました。
これからも滅多に長万部から離れることはないでしょうから、実見できたのは幸運でした。

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展示作業が終わった後は、今回の展覧会の実現に尽力された画家の北浦晃さん(写真右)や室蘭市民美術館の館長さん、学芸員さんはじめ、美術館をささえる会の方々とともに、近くのやきとり屋で乾杯しました。
丸木美術館のある東松山市は豚のカシラ肉に辛口の味噌だれをつける「やきとり」で有名ですが、室蘭の「やきとり」も豚肉と玉ねぎを使います。お互い「やきとりの町」として交流もあるようです(他に、愛媛県の今治も豚肉の「やきとり」を食べるそうで、日本国内で3ヵ所だけだとか)。

室蘭「市立」美術館でなく、室蘭「市民」美術館と名付けたのは、市民たちが手づくりで支える美術館にする、という意味があるそうです。
公立だから市が管理する、という一方的な関係ではなく、「市民」の皆さんがボランティアで楽しそうに関わりながら、少しずつ美術館の活動を積み上げて行く様子を見ていると、本当に心が温かくなります。
もちろん、さまざまな課題はあるのでしょうが、限られた予算や環境のなかで、身の丈にあった美術館活動をとにかく続けて行こう、という姿勢には、大いに共感しました。
ちなみに今回の展示作業も、ボランティアによる手づくりです。
室蘭市民美術館をささえる会のHPでは、早くもその様子が写真で紹介されています。
http://muroranm.exblog.jp/
ちょっと丸木美術館の雰囲気にも似ていて、親近感を覚えます。
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2011/10/26

【北海道出張第1日】美唄炭鉱施設巡り/白戸仁康氏講演会  調査・旅行・出張

早朝の飛行機で羽田から新千歳空港へ飛び、札幌を経由して美唄に向かいました。
一昨年暮れに1枚の写真をきっかけに発掘された「美唄原爆展」や、その後の全道を巡る巡回展の調査でたいへんお世話になった前美唄市教育委員長で郷土史研究家の白戸仁康さんが、夕方から美唄市民カレッジで「米軍占領下の「原爆の図」美唄展 ―子どもたちの1枚の集合写真から―」と題する講演会を行うというので、ぜひお聞きしたいと思って駆けつけたのです。

美唄の地名は、アイヌ語のピパ・オ・イ(沼貝の・たくさん・いるところ)に由来します。かつてはその意味を地名に用いて「沼貝村」と称していましたが、1925年には、美唄炭田の名が全国に知られていることや国鉄駅名が美唄だったことを理由に「美唄町」と改称したそうです。

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美唄駅に着くと、白戸さんが車で迎えに来て下さっていて、さっそく美唄市郷土史料館に案内して下さいました。

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郷土史料館の入口ホールには、日本一大きいという泥炭柱が展示されています。
美唄は、鉄道を挟んで東は炭鉱のあった丘陵地帯、西が泥炭湿地を開墾した農業地帯と大きく分けられます。その泥炭の層を、2000年以上にもさかのぼって見ることができるのです。
白戸さんの解説で興味深かったのは、泥炭に別の場所から土を運び込んで土壌を改良する際、通常は家畜や人力で運ぶことが多いのですが、美唄の場合は滑車を使って山から土を“空輸”したという話でした。「これはまさに炭鉱の発想」と白戸さん。開墾にも炭鉱で培ったノウハウが生かされているというわけです。

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館内の展示は、美唄の自然や生きものたち、松浦武四郎らの地勢調査や開拓の歴史、炭鉱の移り変わり、生活文化の歩み、といった具合に分けられています。
そのひとつひとつを白戸さんは丁寧に解説し、前副市長のBさんも同行していっしょに案内して下さいました(写真は左からBさん、白戸さんと、剥製の馬と農民の人形展示)。

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私は美唄を訪れるのは初めてなので、たいへん勉強になったのですが、なかでも圧倒されたのは、やはり炭鉱に関する展示でした。

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美唄の基幹産業であった炭鉱は、三菱や三井といった財閥系企業が進出し、1951年には市内の炭鉱の出炭量が200万トンにも達する活況となりました。当時は美唄市の人口9万2,000人(現在は約2万5,000人)のうち炭鉱地区の人口は約6万人を占めていたそうです。
時代とともに採炭の現場は坑を支える木柱が鉄柱に代わり、「タヌキ掘り」と呼ばれた手掘りからドリルやコールカッターが導入されるなど機械化生産に転換していくのですが、展示ではそうした採掘技術の変遷を実際に使われた道具や等身大の人形模型で再現し、「友子制度」と呼ばれる互助組織や、戦時中の中国人や朝鮮人の強制労働者、英国人の俘虜の実態、事故による被害の内訳などを、とても丁寧に紹介していました。
こうした展示内容にも白戸さんは深く関わっているようで、普通なら企業が絶対に公開しないであろう悲惨な事故の被害状況などもきちんと展示されていることが、非常に印象に残りました。

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郷土史料館を出た後は、来年1月21日から27日まで開催予定の60年前の原爆の図美唄展の再現展示の打ち合わせを兼ねて市役所へ移動。市役所の屋上から美唄の町を展望し、白戸さんに三井炭鉱と三菱炭鉱の位置関係やその違いについて教えて頂きました。

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東部丘陵地帯の山裾に今でも見える住宅街(写真下部)は、三井美唄炭鉱の住宅跡です。
かつては夜も明々と灯りがともる近代的な街並みで「満艦飾」や「不夜城」とも呼ばれていたそうですが、石炭から石油へのエネルギーの政策転換により、1963年7月に国内大手炭鉱としては初めて閉鎖。しかし、三井は自社で土地を所有していたために、その後も住宅街は残り続けて現在に至っているそうです。

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それに対し、美唄川に沿って谷あいに細長く伸びて行った三菱美唄炭鉱の住宅跡(写真中央、丘と丘の間)は、今はまったく建物が残っていません。もともと国有地を三菱が借りて炭鉱を拓いていたために、1972年4月に三菱美唄炭鉱が閉山すると、もとの林に戻すために、すべての住宅長屋や炭鉱施設などを「ところ払い方式」で撤去したのだそうです。
そのため、60年前に原爆の図展の会場となった三菱美唄炭鉱労働組合本部も、国内初の炭鉱生産管理闘争による「人民裁判事件」の舞台になった宮ノ下会館も、今は跡かたもなくなってしまっているわけです。

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しかし、三菱美唄炭鉱は建坑巻揚櫓などいくつかの象徴的な建物が保存されているというので、午後は白戸さんにお願いして、美唄川に沿って炭鉱の跡地を案内して頂くことになりました。

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市街を離れてはじめに見えてきたのは、廃線となった美唄鉄道の旧東明駅。
美唄鉄道は美唄駅から東明−盤の沢−我路−美唄炭山−常盤台(10.56km)と山あいをぬって走り、主に三菱美唄炭鉱から採掘された石炭の輸送を行っていたそうです。

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駅には「2号機関車」と呼ばれる4110形式十輪へい結過熱機関車が静態保存されていました。
ドイツから輸入した4100形をモデルに、急勾配や曲線に強く、雪にも滑らないように設計されています。美唄鉄道が三菱造船神戸造船所に発注し、1919年11月に完成。1972年5月まで運行されていたとのことです。

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さらに進んでいくと、紅葉がきれいな山のなかに、通洞坑坑口が見えてきました。
竪坑巻揚櫓の残る炭鉱メモリアル森林公園まではまだかなり距離があるのですが、白戸さんのお話では、このあたりの山のなかはずっと坑道でつながっているそうです。

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そのまま川沿いに上って行くと、我路(がろ)地区に入ります。
美唄鉄道の我路駅周辺は、鉄道が開通した途端に炭鉱を当て込んで商店や住宅が激増したという繁華街だったそうです。

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この建物は、映画『小さな町の小さな映画館』(森田惠子監督、2011年)でも紹介されていた我路映劇。フィルムが火事になりやすいので、映写室だけ頑丈にコンクリートで作っていたのでしょう。今は客席は跡かたもなく、映写室の部分だけが廃墟となって残っていました。

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かつての繁華街も、今はほとんど建物さえ残っていません。
専門店で賑わったという当時の様子を想像することは難しい状況です。
我路は国有地ではないので、三菱美唄炭鉱が閉山しても住宅を撤去したわけではないのですが、やはり炭鉱が亡くなると、土地に残って暮らす人の数は激減するというわけです。

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川の方の道(一条と呼ぶそうです)を下りていくと、衆議院副議長を努めた社会党議員の故・岡田春夫の生家の一部が現存していました。
モダンな作りの赤い屋根が紅葉によく似合う立派な建物でした。

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三菱美唄炭鉱の様子を「うなぎの寝床のよう」と白戸さんは形容していましたが、たしかに、谷あいの川に沿って炭鉱は細長く奥へと進んでいきます。
続いては、1973年に廃校になった沼東(しょうとう)中学校のグラウンド跡に作られた我路ファミリー公園に到着しました。沼東中学校は白戸さんの母校とのことです。

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美唄出身の彫刻家・安田侃の彫刻「炭山之碑」が見えますが、熊が出るため公園内は数日前に立入禁止になったというので、あまり奥までは行けません。

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三菱美唄炭鉱の歴史を伝える三菱美唄記念館という小さな施設もあります。
このあたりには、美唄鉄道の美唄炭山駅があったそうです。
いよいよ炭鉱跡地に近付いてきたと実感します。

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三菱美唄記念館の中には、当時の炭鉱の情景を空撮した写真も展示されていました。
すっかり自然に帰った今の地形と当時の写真を見比べても、なかなか想像できません。
たとえば、航空写真の左下に見える大きな建物は三菱美唄病院だったそうなのですが……

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こちらが現在の地形。この朽ちかけた橋の向こうに病院があったそうなのです。
今ではすっかり雑木林になっていて、病院を建てるほど広い敷地があったとは思えません。

先ほどの航空写真では、病院のやや右上、美唄川を挟んだ対岸をよく見ると、小さな2階建の白い三角屋根の建物があります。

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この建物が三菱美唄炭鉱労働組合本部。
1951年秋に新築され、1952年1月に原爆の図展を開催した会場です。

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白戸さんに跡地を教えてもらったのですが、残念ながらどう見ても今はただの雑木林。

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60年前に、雪の中を子どもたちが建物に入りきれないほど集まってきたという形跡は、まったく感じることができませんでした。
ちなみに白戸さんも当時、中学生として原爆の図を見ていたひとりなのです。
この周辺の山の中腹には、「鴻の台」「桂台」「旭台」「桜ヶ丘」「常盤台」「楓ヶ丘」といった炭鉱住宅街が形成されていたそうですが、白戸さんのお話によれば、「丘」とつく地名は三菱の社員の住宅街、「台」とつく地名は鉱員住宅とはっきり分かれており、住所を聞くだけで身分がわかってしまうという“差別”も存在していたそうです。

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さらに上へ上へと進んでいくと、ついに巨大な竪坑巻揚櫓が二つ見えてきました。
炭鉱メモリアル森林公園です。
竪坑巻揚櫓は、深さ約170mの竪坑内の換気や人と石炭の搬出入に使われていたそうです。
残念ながらこの公園も熊が出るため立入禁止となってしまい、遠くから建物を見ることしかできませんでした。

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公園内には、採掘した石炭を貯蔵する原炭ポケットも残されています。
鉄筋コンクリートの柱と梁による格子状の構造に特徴がある建築物で、岸壁崩落防止のために残されたそうです。

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公園の奥には、通洞坑の入口も残っていました。
通洞坑は入口から石炭層に沿って蜂の巣状に広がっていたそうです。
1941年3月18日には三菱美唄炭鉱史上最大のガス爆発事故が起き、当時入坑していた370人のうち、193人が猛火の中に取り残されたとのこと。救出と遺体の搬出は困難を極め、消火のためにコンクリートによる密閉作業や注水作業が行われ、1ヵ月後には死者124人、行方不明者53人の合同葬儀が行われました。事故現場は完全に水没し、行方不明者53人の遺体(そのうち朝鮮人労働者14人)は現在も坑内に残されたままだということです。

   *   *   *

公園の周囲の道路をぐるりと走った後は、通ってきた道を一気に下って、廃校になった旧栄小学校を活用したアルテピアッツァ美唄に行きました。

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美唄出身の彫刻家・安田侃の彫刻作品が、緑豊かな空間のなかに配置されていました。

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木造校舎も残り、ギャラリーや幼稚園として活用されています。

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使いこまれた木の味わいが素晴しい空間でした。
炭鉱の閉山によって子どもが減り、残された施設を芸術によって再生させたひとつの例と言えるのでしょう。現在はNPOが管理をしながら、コンサートやワークショップなどさまざまな活動を広げているそうです。

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その後は白戸さんのお宅にお伺いして、しばし休憩。
北海道の捕虜収容所 もう一つの戦争責任』(道新選書、2008年)などの著作で知られる白戸さんの書斎の膨大な資料の山を拝見しながら、丹念な調査の方法論などをお聞きする貴重な時間となりました。

夕方7時からは、美唄市民カレッジで白戸さんの講演「米軍占領下の「原爆の図」美唄展 ―子どもたちの1枚の集合写真から―」を聴きました。
会場は満席で、室蘭展でお世話になる画家の北浦晃さんもご家族で来場されていました。

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白戸さんの調査については以前にもたびたび学芸員日誌に紹介しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1281.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1404.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1450.html

美唄を含めた原爆の図展の調査を白戸さんと協働しながら進めてきた私は、もちろん、講演の内容の多くはすでに知っていることだったのですが、時にユーモアを織り交ぜながらの話しぶりや、何より、地域の人びとに根差した眼差しからの丁寧な発表の様子に、とても心を打たれました。

ちょうどタイミングよく10月17日付『北海道新聞』のコラム「異聞風聞」で、O編集委員が“女ゴーギャンの遺言”という文章を書いて下さっていたので、白戸さんはその記事を紹介しながら、まとめとして、今なぜ60年前の原爆展に注目するのか、という思いを語って下さいました。

60年前の米軍占領下の時代、反米運動として弾圧を受ける可能性のあった原爆展を命がけの思いでつなげてきた人たちが、北海道をはじめ全国各地にいたわけです。その一方で、新聞などのメディアはタブーであった原爆展の動向を報じることはほとんどありませんでした。
当時の状況と、国を挙げて原子力発電の危険を隠して推進してきた現在の状況とは、いったい何が変わっているのか。私たちは、同じ道を繰り返してきただけではないのか。
白戸さんの発表を聞きながら、そんなことを考えました。

非常に充実した美唄での一日。
付ききりで市内各所を案内して下さった白戸さんはじめ、あたたかく迎えて下さった美唄市の皆さんに、心から感謝いたします。
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2011/10/25

大道あや作品返却/北海道出張へ  館外展・関連企画

今日は事務局のM子さんと小山市立博物館へ大道あや作品《蛇祭り》を返却に行きました。
これで「追悼 大道あや展」の返却作業はすべて無事に終了です。

   *   *   *

明日からは、2泊3日で北海道へ行ってきます。
10月28日(金)から30日(日)まで、室蘭市民美術館で60年前の「原爆の図巡回展」の再現展があるのです。

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60年前の1951年10月28日から3日間、室蘭で北海道初の原爆の図展が開催されました。
そして翌年5月にかけて、全道35ヵ所を巡る大巡回展へと続いていったのです。
今回の展覧会は、原爆の図の原寸大複製画を使って、60年前の記念碑的な展覧会を再現(曜日もまったく同じ!とのこと)する試みです。
当時の展覧会開催に関わったHさんの貴重な証言もお聞きできる予定になっており、私もとても楽しみにしていたのですが、直前になって、もうひとりの証言者Sさんがお亡くなりになってしまったという悲しい知らせを受けました。
60年という歳月の重みをかみしめながら、北の大地へ向かいます。
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2011/10/23

今日の反核反戦展2011オープニング  イベント

午後2時から「今日の反核反戦展2011」のオープニングが行われました。
毎年恒例の企画展ですが、今年は3.11の大震災・原発事故後ということもあって、例年以上に緊張感のある展覧会になりました。

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はじめに、呼びかけ人でもある画家の池田龍雄さんがご挨拶。
画家が反核反戦展を表現することの意味について、みずからの実践をもとにした貴重なお話をして下さいました。
その後は、皆で乾杯。美術館友の会の方々が用意して下さった心尽くしの料理を味わいながら、しばし歓談です。

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午後3時からは、出品作家のパフォーマンスがはじまりました。
最初は奈良幸琥さん。被災地に向けて祈りの舞いをおさめます。

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続いては、書家の佐藤誠抱さんや女優の谷英美さんたちのグループが朗読発表。
佐藤さんはユーモラスな秋田弁で憲法第9条を朗読しました。

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小林芳雄さんのパフォーマンスは、顔にペイントを施して、声をはりあげての朗読、そして河童の面を被っての舞踏という強烈なものでした。

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ここ数年続けて参加して下さっているフォークグループあじさいは、野木庵に場所を移してのコンサート。しみじみと心に沁みる歌声を聴かせて下さいました。

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最後のふた組は美術館1階奥の新館ホールでのパフォーマンス。
山田裕子さんのグループは、全身のストレッチ体操で観客の身体と心をほぐします。

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常連参加の南阿豆さんは、今年も「丸木夫妻の絵から出てきたような」(参加者の感想)鬼気迫る凄まじい気迫の舞踏を見せて下さいました。

丸木夫妻の遺志を受け継ぎ、芸術を通して戦争や被曝の問題に果敢に向き合う芸術家たちの多様な表現がならぶ展覧会。12月3日(土)まで開催しています。
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2011/10/22

肥田舜太郎さん講演会  イベント

午後1時半より、94歳の“被爆医師”肥田舜太郎さんをお迎えして、講演会「原爆から原発まで 内部被ばくの怖さ」を開催しました。

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会場には200人を超える大勢の人が訪れ、たいへんな熱気に包まれました。
幼いお子さんを連れたお母さんたちの姿も目立ち、被曝への不安が広がっている社会の現状を色濃く反映している講演会となりました。

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肥田舜太郎さんは1917年広島県生まれ。
1944年に陸軍軍医学校を卒業し、軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。
原爆投下直後から戸坂村(現在の広島市東区)で被爆者治療にあたったものの、やがて、原爆を直接受けていない人びとが、口や鼻、目から出血し、髪が抜け、紫斑が出て死んでいく姿を目の当たりにし、深刻な疑問を抱くようになります。
なぜ、ピカ(閃光)にもドン(爆風)にも遭っていない人たちが死んでいくのか。
しかし、「広島・長崎の原爆被害はアメリカ軍の機密であり、見たこと、聞いたこと、知ったことを、話したり、書いたり、絵にしたり、写真に撮ったりしてはならない」という厚生大臣の通達があり、カルテに書くことさえできなかったそうです。
その後、東京に出た肥田さんは、半世紀以上にわたって内部被ばくによる後遺症に苦しむ人びとの治療にあたりながら、被ばく者に対する社会の差別に向き合い、放射能の人体への影響を隠蔽し続けてきたアメリカの実態を追及してきたのです。

今回の講演会の様子は、Ustreamによってネット中継されました。
その一部を動画で見ることができます。



日本政府は、広島と長崎の原爆でどれほどの人が死んだのかという資料さえまとめていない。
だから原発事故が起きても、具体的な指示を出すことができない。
専門家と称する人がテレビに出ては「心配ない」と言うが、とんでもない。
内部被ばくによる被害が明らかになってくるのは、これからだ。――
長い歳月をかけて実際に内部被ばくに苦しむ人びとに向き合ってきた肥田さんの言葉は、とても重く響きました。

長時間におよぶ低線量の内部被ばくが、一時的な強い被ばくよりも多くの細胞膜を破壊するという研究結果もあるそうです。
放射線の害には、こうすればいいという治療法はなく、個人の持っている免疫力を高める生活を続けて病気の発病を防ぐことが大切、というのが肥田さんの説く対処法でした。
早寝早起きを心がける。時間をかけてしっかり食事をとる。
誰でもできることを積み重ねていく重要さを説く肥田さん自身が、94歳とは思えない若々しさと明るさを発している事実が、何より会場に集まった人びとの心を勇気づけていたような気がします。
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2011/10/21

文学座附属演劇研究所「蝶のやうな私の郷愁」  他館企画など

広島から戻り、22日からはじまる企画展「今日の反核反戦展2011」の展示の最終調整やアートスペースの展示替え作業などを行いました。

夕方には、東松山市の教育長や図書館、文化財関係者の方々が来館。
かつて江戸時代には本陣もつとめたという市内の旧家・小高家から移築された丸木夫妻の元アトリエ兼書斎「小高文庫」に伝わる『新編武蔵国風土記』50巻など明治期に刊行された和綴じ本数百冊の調査を行いました。
この貴重な資料をどのように活用していくかはまだ方向性が決まっていませんが、地域の重要な財産として、今後、市と連携しながら考えていくことになりそうです。

   *   *   *

午後7時半からは、東京・信濃町の文学座附属演劇研究所研修科演出部自主勉強会「蝶のやうな私の郷愁」(作・松田正隆)を鑑賞しました。
学生時代に丸木美術館で学芸員実習を行い、いまも「ボランティア新聞」の編集などを担ってくれている文学座研修生のKさんが初めて演出を手がけるという舞台です。

台風が近づくアパートの一室で徐々に掘り下げられていく若い夫婦の心の奥底。
照明や音響の微細な表現が揺れ動く夫婦の心情にゆるやかにつながっていくような、興味深く瑞々しい内容でした。
Kさんは、いずれ丸木俊の舞台を作りたいという大きな目標を抱いています。
その“はじめの一歩”に立ち会うことができて、とても嬉しく思いました。
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2011/10/20

【広島出張第2日】広島県立美術館/世界平和記念聖堂/平安堂梅坪  調査・旅行・出張

今日は午前中に広島県立美術館を訪ねて、N学芸員とF学芸員にお会いしました。
N学芸員は昨年から今年にかけて京都・東京・広島を巡回して好評だった「『日本画』の前衛」展を担当するなど広島の「日本画家」を専門に研究されており、F学芸員は2007年に「生誕100年 靉光展」を担当した広島の「洋画家」の専門家。お二人に、丸木位里と交友のあった広島の画家や支援者について、いろいろお聞きしたいとお願いしていたのです。

はじめに収蔵庫で、戦前の広島市内中心部の細工町にあった黒川医院の芳名帳を見せて頂きました。
黒川院長の黒川節司は熱心な美術品の収集家で、藤田嗣治や近藤浩一路ら東京の画家とも親しく交流し、絵画作品が数多く展示された病院は広島の芸術家たちの集まるサロンのような役割を果たしていたようです。

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もっとも、1945年8月6日の原爆投下によって、爆心地の島病院から5軒隣という至近距離にあった黒川医院は一瞬にして壊滅。黒川院長も爆死し、もちろん絵画作品もすべて焼失しています。

現存する芳名帳は、1931年から1933年にかけての2冊のみ。そのなかに、当時30歳だった位里の書き込みがあるのです。
「三滝ノ秋」と記された水墨による三滝寺の紅葉の風景画は、前後の頁に記された日付から、1931年10月28日から11月5日のあいだに描かれたと推測されます。
1931年といえば、あやの回想によると、丸木家が“やすやす”を行い、飯室村から広島市内に出てきた年です。
位里はこの年1月にマルクス主義芸術研究者の中川秋一らと共に劇団「広島プロレタリア劇場」を創設するなど、プロレタリア演劇の活動に没頭していました。
10月28日には、広島市内小網町の寿座で、ロシア革命を記念する「無産者の夕べ」が開催され、位里も参加したと回想しています。黒川医院の芳名帳に位里が三滝の絵を描き残したのは、ちょうどこの「無産者の夕べ」の直後のことだったわけです。

この頃の位里の絵画作品はまったく残っておらず、県美展に本格的に作品を発表するようになるのは、翌1932年3月5日に広島県内の共産党関係者が一斉検挙されるという事件が起きた後のことです。
芳名帳に残された「三滝ノ秋」は、位里が画家活動を中断した時期に描かれた貴重な資料と言えるでしょう。

芳名帳には、1933年3月15日に靉光が記した「上海へ渡るゆきたくはないが行かねばならん。何だかちつとも。」という言葉も残されていました。
この年の3月から5月にかけて、靉光は上海を旅行し、現地で個展も開催しています。
今回の調査では、靉光と位里が1943年8月20日から22日まで開催した広島の世良画廊での二人展について、何か少しでもわかることがあれば、と思っていたのですが、F学芸員によればまったく手がかりはないとのこと。
そもそも1943年という戦局の厳しい時期に本当に画廊があったのか、個人宅や店を「画廊」と称していた可能性もあり、日付と会場名以外のことは何もわからないのだそうです。
1945年8月6日の原爆は、靉光をはじめ数多くの絵画作品を焼失させ、そればかりでなく広島の芸術に関わる資料も焼き尽くしているので、今後新たな資料が発掘される可能性は非常に低いようです。

   *   *   *

午後はN学芸員に案内されて、広島で位里や靉光たち若手芸術家を支援していた佐伯便利社社長・雑誌『実現』発行人の佐伯卓造のお孫さん兄弟にお会いしました。
佐伯便利社とは、広告代理店から出版業などを幅広く行っていた会社で、雑誌『実現』にはたびたび位里も寄稿しています。
1936年には、佐伯卓造の世話によって東京で活動していた広島出身の芸術家、丸木位里、靉光、中川為延、野村守夫、船田玉樹の5人が「藝州美術協会」を立ち上げ、11月22日から26日まで広島県産業奨励館(後の原爆ドーム)で展覧会を開催しています。

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写真は「藝州美術展」の集合写真。
左から靉光、中川為延、野村守夫、佐伯卓造、丸木位里、船田玉樹。

しかし、この佐伯便利社もまた、黒川医院と同じく爆心地の至近距離(猿楽町)にあったため、原爆により一瞬にして壊滅。おそらく、靉光や丸木位里の大作も所蔵していたと思われるのですが、どの作品が焼失したかさえも現在ではわからないということです。
広島という街の、原爆による断層の深さをあらためて痛感させられます。

もっとも、佐伯便利社は海軍関係の印刷物を扱っていたため、軍に命じられて牛田町に疎開を進めていたので、佐伯家は原爆の被害を免れ、いくつかの作品資料も現存するということです。

   *   *   *

広島県立美術館では、現在、企画展として「ウクライナの至宝 スキタイ黄金美術の煌き」を開催中(11月13日まで)。
紀元前8世紀に遊牧騎馬戦士として歴史の表舞台で活躍したスキタイ人の謎に包まれた文化を、古墳から出土された豪華な黄金製品を中心に紹介する興味深い展覧会でした。

また、所蔵作品展では、小特集として「孤高の日本画家 船田玉樹」を開催していました(11月6日まで)。
船田玉樹の代表作である《花の夕》や《すすきの原の秋》、《秋意》などの見応えのある作品のほか、彼と親しく交友していた丸木位里の《雨乞》、《不動》、《竹林》の3点も紹介。
また、丸木スマの掛軸《動物》、《蝶》、《きのこ》も展示されていました。
ほかにも「ナチスに「退廃」の烙印をおされた美術家たち」など、この美術館の所蔵作品展は見応えがある小企画が多いので、いつも楽しみです。

   *   *   *

広島県立美術館を出た後は、以前から気になっていたカトリック幟町教会 世界平和記念聖堂(広島市中区上幟町)を訪れました。

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原爆によって当時の幟町天主教会が焼失すると、ドイツ人主任司祭フーゴー・ラッサール神父は、犠牲者の追憶と慰霊、そして全世界の友情と平和を祈念するため新たな聖堂の建設を発案。これに応えてカトリック信者を始め、世界各地の恒久平和を願う人々の発願と多大な寄付により、1950年8月6日に着工され、5年の歳月を重ねて1954年8月6日に完成、献堂され「世界平和記念聖堂」と命名されました。
建築設計にあたっては大規模なコンペが行われたものの、1等は該当者なし(2等には丹下健三ら2名が選出)とされ、審査員の村野藤吾が自ら設計することになって、物議をかもしたそうです。

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この聖堂は村野藤吾の代表作のひとつと評され、2006年には丹下健三設計の広島平和記念資料館(1955年、広島市中区中島町)とともに、戦後の建築としては初めて国指定重要文化財(建造物)に指定されています。

   *   *   *

最後に八丁堀の福屋百貨店へ行き、老舗の和菓子屋「平安堂梅坪」で家族用と美術館用にお土産を購入。
広島県立美術館のN学芸員に、位里の友人の画家・浜崎左髪子(さはつし)が「平安堂梅坪」の包装紙のデザインしたというお話を伺っていたので、参考にいくつか包装紙を頂いてきました。

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浜崎左髪子は、1949年の戦後第1回広島県美展の審査員をつとめており、スマの作品を展覧会に出品した最初の人だといわれています。
そんなわけで、これから広島のお土産は「平安堂梅坪」で買おうかな……と思っています。

   *   *   *

ただひとつ、残念だったのは福屋八丁堀本店8階の映画館「八丁座」で上映中だった「ひろしま―1945年8月6日、原子雲の下の真実―」(1953年、関川秀雄監督)が、立見もできないほどの超満員で観られなかったことでした。
爆心地にもっとも近い映画館で原爆の映画を観るという貴重な機会を失うのは、本当に残念でしたが……。

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写真は現在の八丁堀界隈(中区鉄砲町10番、中央奥に見えるのが福屋八丁堀本店)と、「原爆被災掲示板」です。

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八丁堀一帯(爆心地から約800メートル)
1944(昭和19)年11月以降、空襲による火災の拡大を防ぐ目的から、政府の指示により防火帯消防道路、防空小空地をつくることになり、広島市内では133カ所(約27,000u)の建物疎開を実施した。
被爆当日、この地区でも建物疎開作業が行われており、県内及び市内各地から動員された義勇隊員や動員学徒の大多数が爆死した。
地区内の家屋は一瞬のうちに倒壊し、各所からあがった火の手のため、付近一帯すべて火の海となり焼失した。
(八丁堀一帯の惨状 松重美人氏撮影)
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2011/10/19

【広島出張第1日】大道あや作品返却/浄国寺屏風絵/天廣札夫さん  調査・旅行・出張

10月15日に終了した「追悼 大道あや展」の作品返却のため、広島に出張しました。

午前10時には市の中心部に近い大道家にお伺いして、作品36点を無事に返却。
そのまま運送会社のトラックに同乗して、太田川上流に向かって30分ほど走り、広島市安佐北区の広島市立飯室小学校に到着。お借りしていた《かぐら》を返却しました。

   *   *   *

午後からは、飯室小学校の教頭先生と事務職のNさんとともに、丸木家の菩提寺であった浄国寺へ。前回8月25日に訪れたときには、浄国寺に現存する位里筆の欄間の飛天や、龍虎の襖絵などを拝見しました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1700.html

今回は、事前に連絡をして、「大正十五年初春」の署名のある《松》と《梅》の屏風絵を見せて頂くことになっていたのです。
若き日の位里が手がけた、非常に見応えのある四曲一双の屏風絵(もとは襖絵)です。

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実はこの屏風絵、1992年に広島市現代美術館で開催された「丸木位里展」に出品されていて、美術批評家のヨシダ・ヨシエが、円山応挙の作品を連想させる、と評しています。
たしかに、応挙の筆による三井記念美術館蔵の国宝《雪松図屏風》と比べると、雄松と雌松の対比の構図をそのまま松と梅に置き換えている点や、松と雪の写実的な表現などの共通点が見られます。
当時位里は「文人趣味と円山派の写実性の融合を目ざした」と評された画家・田中頼璋に師事していましたから、間接的に応挙の影響を受けていたと言えるのでしょう。
もっとも、応挙が白地の部分を塗り残して雪を表現しているのに対し、位里は胡粉を塗って雪の鮮やかな白色を出しています。長い歳月を経て、現在は胡粉の周囲の和紙の地色がうっすらと白く変色していますが、それも雪がふんわりと浮き上がる効果に生かされているように見えるのが面白いところでした。

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よく見ると、署名の下にある「落款」も実は手書きです。
この屏風絵は、おそらく現存する位里作品のなかでもっとも初期のものと思われます。
後年、水墨を用いて前衛的な絵画表現を確立する位里ですが、20代なかばのこの頃には師の古典的な教えを真剣に学んでいたことがうかがえる、本当に貴重な資料でした。
こうした興味深い作品が大切に残されているのは、郷里ならではのことでしょう。

   *   *   *

その後は、飯室村の油木という集落で丸木家のとなりに住んでいた天廣(てんひろ)札夫さんを訪ね、丸木家が船宿を営んでいた太田川のほとりで貴重なお話を伺いました。

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天廣さんは、丸木家の上の隣で米屋を営む家の長男に生まれました。
幼い頃はスマさんに抱っこされたり、川舟から落ちて溺れそうになったときに丸木家の末弟の廣雄さんに助けられたりという思い出もあるそうです。
丸木家が没落し、“やすやす”と呼ばれる家財の売り払いを行って市内の三滝町に転居してからも、盆節句の交流は続き、戦後にはスマさんに“恋愛結婚”の相談をしたこともあるとか。
「それで、スマさんはなんて答えたんですか?」と興味津津の私とNさんに、天廣さんは「あの当時ですから、恋愛結婚なんて……と思う方も多かったですが、スマさんはさすがですね。非常に民主的なお答えでしたよ」と涼しい顔で答えて下さいました。

丸木家の様子については、天廣さんは細部にわたって非常に詳しく記憶されています。
その説明によれば、太田川に沿って広島と島根を結ぶ加計街道(現在の国道191号線)を長沢大橋北詰から上流に200mほど進み、現在数件の民家がならんでいる間の畑のあたりに丸木家の母屋が建っていたそうです。

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地番で言えば、広島市安佐北区安佐町大字飯室5827番地付近。
大道あや聞き書き一代記『へくそ花も花盛り』(福音館書店、1985年)のなかに、次のような記述があります。

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 毎日毎朝、川から水を汲みあげるのは、そりゃあ難儀な(つらい)仕事じゃったろう思いますよ。なにしろうちは家族ばかりじゃあないんじゃから。母屋の西のあたりの裏山の裾に横穴を掘って水を探したのも、水汲みの難儀なのに往生したあげくのことじゃったんでしょう。横穴を五、六間掘ったら、水が、しかもええ水が出てきたんです。おじいさんのよろこびようは大変なもんでした。近所の人にとっても大事件じゃったようで、今でもそのときのことをおぼえとる人がおってですよ。
 水は、穴の入口に大きな桶をすえて貯め、そこから竹の樋で母屋のうしろにこしらえた大きな池に流れこむようにしたんです。この池には鯉をたくさん飼いました。
 水が出るようになってからは、川の水を汲む必要ものうなりました。もちろん水はうちばかりじゃのうてご近所にも分けてあげました。上隣りのお米屋さんはこの水をとても重宝がって、うちとの敷地境に近い米倉の脇に風呂場を作って、風呂をたてとりました。


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この回想に登場する横穴も、現存していました。

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石垣の下に、草に隠れていますが黒い穴のようなものが見えます。これが横穴です。
そして、文章の中に出てくる“上隣りのお米屋さん”とは天廣さんのお宅のことです。
当時の街道の道幅は現在の半分ほどで、丸木家のすぐ向かいには川へ降りて行く細い道があり、道の下に丸木家の所有する川舟がつながれていたとのこと。

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川の水も今よりずっと多く(上流にダムができてから水量は激減したようです)、川向こうに三角形のとがった岩が見えたのですが、かつてはその岩のまんなかくらいまで常時水量があり、雨が降って岩の頭が隠れるほど増水すると、大水に備えて警戒したそうです。

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まだ鉄道も自動車もなかった時代。川は木材などの物流や交通の重要な手段でした。
上流から木材を伐り出し、広島市内に運ぶまでは川の流れに任せて行けばいいのですが、たいへんなのは帰り道です。
流れの激しい「瀬」では、陸にあがって舟を曳いて上っていかなければなりません。飯室のあたりは太田川では珍しく長い「瀞」(水が深くて流れの緩やかなところ)になっていて、船頭たちもひと息つける場所でした。そして、広島市街を出発して一日じゅう舟を曳いていくと、ちょうど夕方に飯室に到着するという立地でもあったそうなのです。
そのため、旅人相手の舟宿や米屋が繁盛し、村はとてもにぎわっていたということです。

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郷土史研究家でもある天廣さんのお話でとても興味深かったのは、丸木家の先祖についての推測でした。
このあたりには「丸木」という姓は他になく、前述の『へくそ花も花盛り』にも、「丸木のほうは、何代か前まで同じ飯室村の布(ぬの)の山ん中に住んどって、おじいさんの親の代になって下油木におりてきたんじゃいうことです」と回想されています。
天廣さんによれば、飯室周辺は古くからタタラ(製鉄)の盛んな土地で、中国山地に数あるタタラ場のなかでも南限に位置するそうです。布には室町末期に佐々木姓を名乗る一族が入ってタタラを開き、大きく栄えたといいます。ちなみに、位里とも親しく交流し、川端龍子の青龍社で活躍した同世代の飯室出身の画家・佐々木邦彦は、この佐々木一族の末裔とのこと。

そして丸木家は、佐々木一族のもとでムラゲ(村下)と呼ばれる総指揮官の役割を果たしていたのではないか、というのが天廣さんの推測なのです。
そうでなければ、布の山の中から川すじに出てきて宿屋を開くほどの財力が持てるはずがない、一般の人ではなかったはずだ、というのです。
『へくそ花も花盛り』でも、「(家には刀や種子島の鉄砲などがたくさんあり)どうして、あんな物騒なもんがたくさんあったのか分からんですが、ずっと昔丸木は侍だったんじゃないでしょうか」、「丸木いうのはどんな家柄なんじゃろかね。いざ結婚じゃ縁組じゃいうと、たいそうええところから嫁が来るんじゃよね」と書かれていますが、中国山地における製鉄ネットワークで大きな役割を果たした一族であれば、納得できるような気もします。
そういえば、位里の師匠である田中頼璋も、製鉄の本場である出雲(島根県)で生まれ、若い頃には飯室のある芸北(広島県北部)を中心にまわる旅絵師として生計を立てていたのでした。
このあたり、製鉄ネットワークと芸術文化の関わりをもう少し詳しく調べてみると面白いかも知れません。

ともあれ、時代の変化とともに没落した丸木家は、ついに(あやの回想によれば、1931年)“やすやす”によって先祖代々の家財道具を売り払い、土地は太田川上流の「久地」という集落の魚屋さんが買われたそうです。
その後はしばらく荒地になっていたようですが、やがて戦後になって天廣さんのお姉さんが土地を買い、住居を建てられたとのこと。その家の裏手を案内して頂くと、大きな岩の上に石地蔵が祀られていました。

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『へくそ花も花盛り』には、次のような文章が出てきます。

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 家の裏には、母屋のすぐきわまで山が迫っておって、家の裏手から上にのぼる急な石の段々が切ってありました。あがると、こまい丘ほどの大きな大きな岩があって、岩のめぐりは大人にも抱えられんほどの杉の木にかこまれとりました。そこには家の下のほうからもあがれるように、石を砕いて道がついとりました。岩の上は平たくなっておって、ほとりには苔むした五輪石がならび、まんなかに畳半畳ほどの観音堂がありました。この観音堂は私がまだこまかったころに、枌葺きから瓦葺きに建てかえられたのを覚えています。

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そして、この岩の上に祀られていた石地蔵が、現在、丸木美術館の原爆観音堂に移されているというわけです。丸木家の地蔵堂は、やはり回想記の通り“家の裏手”にあったのです。

前回8月に飯室を訪れたときには、廃線となったJR可部線の安芸飯室駅の裏手にある地蔵堂へ案内され、そこで位里の寄贈した「交通安全」地蔵を見たために、丸木美術館の地蔵がもともと祀られていたのは、その地蔵堂だったのだろうと思っていたのですが……

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天廣さんのお話では、丸木家の裏の大岩の上にあった地蔵は、丸木家が土地を離れた後も、村人の婚礼などの祝いごとのたびに「腰をすえる」という意味であちこちに担ぎ出されて“出張”していたそうです。
「だから埼玉にある地蔵も、本当にここで祀られていたものかどうかはわからんが……」と笑う天廣さん。
しかし、あるとき村の消防団員が自動車事故で亡くなったことを機に、安芸飯室駅に交通安全祈願の地蔵堂を建立することになり、丸木家の地蔵は一度そこに移されたそうです。しかし、もともと地蔵の権利は丸木家にある(丸木家より前には油木には人が住んでいなかったのですから)わけで、やがて代わりの「交通安全」地蔵を村に寄進して、本来の丸木家の地蔵を埼玉に持ち帰った、というのが真相のようです。

現在、岩の上に祀られている地蔵は、その後に祀られた“二代目”というわけです。
岩の上に地蔵のある光景は、丸木家がこの場所で確かに暮らしていたことを示す、数少ない貴重な“証”だと言えるでしょう。

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天廣さんによれば、石垣の上に生えている柿の木も、樹齢100年を超え、つまり、丸木家がこの場所に暮らしていた時代からあったものだそうです。そんな説明を聞きながら、青空に枝を伸ばし、よく熟れた実をつけている柿の木を、感慨深く見あげました。
もしかすると、この柿の木は、スマさんの絵《柿もぎ》に登場する木だったのかも知れませんね。
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2011/10/18

林京子さん『被爆を生きて』  書籍

昨日は本来なら休館日でしたが、新潟からの修学旅行の中学校団体などが来館したため開館し、「大道あや展」の作品の搬出作業や「今日の反核反戦展」の展示作業も行いました。
結局、普段どおりの一日勤務。今夜から広島に出張し、大道あや作品の返却をしてきます。

   *   *   *

先日、岩波書店編集部のYさんから、林京子さんの『被爆を生きて 作品と生涯を語る』(聞き手=島村輝、岩波ブックレット、525円)をお送り頂きました。
林さんには、2009年7月18日にNHKアーカイブスで開催された「被爆体験を語り継ぐ」講演会でお会いしたことがあります。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1212.html

そのときに林さんは、アメリカで「これから世界はどうなると思うか」と学生から質問を受けたときに、「これから世界がどうなるかはわかりませんが、私は人間を信じます。いまここにいるあなたたちを信じます」と答えたというお話をされて、私はとても感動しながら聞いていたのですが、今回のブックレットにもそのアメリカでの体験が収録されていました。

林さんの思いを今読むにあたって、やはりもっとも興味深かったのは、福島原発事故を受けての発言でした(収録は2011年4月18日)。
少々長くなりますが、その一部を抜粋します。

長い歳月の間、広島や長崎の“被爆者”の方々がどれほど苦しんできたのか。
そして、3.11以後の社会をどのように見つめているのか。
わかっていたような気になっていたけれども、本当は何もわかっていなかったのだということを、あらためて突きつけられたような思いがして、非常に心に残る内容でした。

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 いまの人たちは、核を燃料棒としてしかとらえていませんね。日本にはまだ、八月六日、九日の被爆者がたくさん生きています。形は違いますが、核が人類にどんな影響を及ぼしたか、学習してきたはずなんですよね。少なくとも為政者たち、専門家たちは知っているはずですよね。これだけ学習しない国って、あるのかな、と素朴にあきれています。
 核というものは、いかなる場合にも絶対に利益にはつながらないということを、頭の冴えた人たちがなぜ分らないのか。原子力発電は、放射性物質や原子の処理、安全装置が完全に出来るようになって初めて可能なことだと思うのです。
 原発を作る時に、それらの最悪の場合を想定していなかったのか。唖然としています。本当にあざ笑われているような感じです。
 原発事故が起きて二日目ぐらいでしたか、さまざまな報道に納得が出来なかったので、肥田舜太郎先生に電話をしたんです。肥田先生はご自身も広島で被爆しながら、ずっと被爆者たちの治療を続けてこられたお医者さんです。いろいろなことをお尋ねしたのですが、最後にもっとも気になっていることを聞きました。
 日本政府の指示は、原発の二〇キロ圏内に居住する人たちへの強制退去、三〇キロ圏内の居住者には退去勧告ですね。それに対してアメリカは八〇キロ以内に住んでいるアメリカ人全員に退去を勧告しました。私は先生に、この三〇キロと八〇キロの違いについて聞いたのです。
 すると先生は、人の命、人権に対する認識の度合いの違いです、と即答なさいました。私は深く納得しました。
 この間、福島の原発事故が命にかかわる問題だとテレビではっきりおっしゃったのは、松本市長の菅谷(すげのや)昭さんだけです。菅谷さんはお医者さんとしてチェルノブイリに行かれて甲状腺ガンの子供たちの治療に当たられた方です。その方が、これは人の命の問題です、三〇キロまでは強制的に避難させるべきです、とおっしゃった。私が命という言葉を聞いたのはこの先生お一人です。この国では、弱者は見捨てられていくのだ、と思いました。
 そして、今回、「内部被曝」ということが初めて使われましたね。私はこの言葉を聞いた瞬間、涙がワーッとあふれ出ました。知っていたんですね彼らは。「内部被曝」の問題を。それを今度の原発事故で初めて口にした。
 被爆者たちは、破れた肉体をつくろいながら今日まで生きてきました。同じ被爆者である私の友人たちの中には、入退院を繰り返している人もいます。でも、原爆症の認定を受けるために書類を提出しても、原爆との因果関係は認められない。あるいは不明といわれて、却下の連続です。認められないまま死んでいった友だちがたくさんいます。
 長崎の友だちの訃報を一番多く耳にしたのは、三〇から四〇代の子育ての最中でした。上海の友だちはそんなに若い年で亡くなった人はいません。長崎の友だちはあの人も、この人も、と死んでいる。それも脳腫瘍や肝臓、膵臓のガンなどで亡くなっている。それらのほとんどが原爆症の認定は却下でした。内部被曝は認められてこなかったんです。闇から闇へ葬られていった友人たち。可哀想でならなかった。

 私が、なぜ原爆症の認可が必要と思っているかというと、数字に残してほしいからなのです。
 もちろん認定されると―月一〇万ぐらいですか―、手当が出ますから、経済的に助かる人もたくさんいると思います。だけど私がこだわっているのはお金だけの問題ではないんですね。数字に残されて初めて、原爆と人間とのかかわりが明らかになる―そう思っているからなのです。
 しかし、いつも言われるのは、統計的に見て被爆者のガン死亡率と被爆していない人のガン死亡率はそれほど変わらないということです。


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とても考えさせられるところの多い一冊なので、ぜひご一読をお勧めいたします。
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2011/10/17

『北海道新聞』「異聞風聞」に“女ゴーギャンの遺言”掲載  掲載雑誌・新聞

2011年10月16日付『北海道新聞』朝刊の「異聞風聞」欄に、大西隆雄編集委員が“女ゴーギャンの遺言”という文章を執筆して下さいました。

 全国各地で続く脱原発デモの隊列に、北海道が生んだ反戦画家、丸木俊(2000年、87歳で没)の幻影を見た。

という書き出しではじまる文章は、先月、丸木美術館に直接足を運んで取材して下さった内容が、次のように記されています。

 夫妻が生前、絵筆をとった旗が残されている。
 位里は長さ3メートルの布地に「原発やめよ 命が大事」と大きく墨で書いた。俊はその下に子どもやお年寄り、猫や魚、花々を生き生きと描いた。色あせてはいるが、大胆な構図と朱や青の彩りは「女ゴーギャン」の異名を取る俊にふさわしい。
     ◆   ◆
 「夫妻は原発を命の問題ととらえていました。『命が大事』の言葉は二人の芸術の出発点そのものです」。丸木美術館の岡村幸宣学芸員(37)は言う。
 6万人が集まった東京・明治公園の9・19「脱原発」集会では美術館スタッフらがデモの横断幕として掲げた。画家から命を吹き込まれた旗印は健在だ。


(中略)

 福島第1原発の大事故で自宅を追われ、福島県三春町から埼玉県に避難した女性が、美術館の感想ノートに寄せた一文。
 「『原爆の図』をしっかりと見ました。絵の中の人たち、さぞかし生きたかったことでしょうね。福島原発の恐ろしい現状に震え、怒っています。胸が締め付けられるように痛い!」
 夫妻は晩年、事故を予見したように「原発止めないと原発に殺される」と言った。いま絵の中のヒロシマと、現実のフクシマは確かにつながっている。


そして、故郷の北海道のために泊原発への反対を当時の横路知事に訴えた俊の1987年の手紙を抜粋し、今月28日から30日まで室蘭で行われる「原爆の図」の展覧会(来年1月に美唄、2月に深川で順次開催)についても紹介して下さっています。

 今から60年前の1951年、同じ日取りで室蘭から始まり、翌年にかけて道内30ヵ所余りを巡回した「原爆の図」展を一部再現しようと、前美唄市教育委員長の白戸仁康さん(75)らが仲間と語らってのことだ。
 当時は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で原爆展にはさまざまな圧力があった。それをはねのけたのは原爆の絵を見てほしいという夫妻の情熱と、平和を求める道民の心だった。


大西編集委員が文章の締めくくりに記された言葉、

 どんな想像力をもってこの絵を見るか。

というメッセージに大いに共感しながら、清々しい気持ちで読み終えました。
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2011/10/16

企画展展示替え  ボランティア

昨日「追悼 大道あや展」が終了し、今日は大道あや作品の撤去作業と次回企画展「今日の反核反戦展2011」の展示作業を行いました。
ボランティアに参加して下さったのは、M岡くん、Y口さん、Y浅さん、S崎さん、A木さんと、今年の夏に実習をしたY田さん、来年実習を行うKK山さん。
それほど人数は多くなかったのですが、夏に逆戻りしたような暑さのなか、皆さん熱心に作業をして下さったおかげで、かなり展示が進みました。
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2011/10/15

プーク人形劇「あやとじろきちおおかみ」  他館企画など

「追悼 大道あや展」最終日でしたが、美術館の休みを頂いて、妻や子どもたちといっしょに新宿のプーク人形劇場へ行きました。
池袋にあるブックギャラリーポポタムのO林さんから招待券を頂いたのです。

プーク人形劇場へ行くのは今回が2回目。その他に、川越市民会館と紀伊国屋ホールでも観ているので、子どもたちと人形劇団プークの公演自体を観るのは4回目になります。
今年はプーク人形劇場誕生40周年の記念の年で、現在上演中の演目は「あやとじろきちおおかみ」、「ひとまねあひる」の2本立て。

プーク人形劇場を初めて訪れた妻は「劇場を持っている人形劇団」に心を打たれた様子。
父とともに家族最多の4回目の観劇となる息子Rは、すっかり慣れた素振りで落ち着いて席に着き、3歳の娘Mはようやく話の内容がわかるようになったと見えて、最初から最後まで食い入るように舞台を見つめていました。
インターネット時代の21世紀に生まれた子どもたちにとっては、人形劇のようなアナログ表現がかえって新鮮に映るのかもしれません。

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プークの名は、エスペラント語の「LA PUPA KLUBO」(英訳=THE PUPPET CLUB)から、人形を意味するPUPAのPUと、クラブを意味するKLUBOのKをとってPUKとしたそうです。
1920年代のヨーロッパに起こった新しい芸術運動の流れを受け、現代的視点から実験的な人形劇を創造しようという理念によって1929年に創立された劇団です。

戦時中には治安維持法による劇団の強制解散・活動停止処分を受け、戦後のGHQ占領下では内容が占領政策批判だとにらまれて経営危機におちいるなど幾多の窮状を乗り越えて、1971年に日本で初めての現代人形劇専門の興行場として完成したのが「プーク人形劇場」。
この劇場を拠点に、新しい人形劇表現の追及のために実験を重ね、国際的な交流なども行いながら、現在まで活動を続けているというわけです。

決して大きくて派手な劇場ではないけれども、手づくりの温かみを感じる雰囲気が、どこか丸木美術館にも似ているような気がして、わが家はじわじわとファンになっています。
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