2011/9/13

「原爆の圖世界行脚後援芳名帳」も発見  1950年代原爆の図展調査

「原爆堂設立の趣意書」と同時に小高文庫で見つけた資料をもうひとつ紹介いたします。
原爆の圖世界行脚後援芳名帳」と記された約1,000枚の資料です。

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芳名帳の表面には、原爆の図世界行脚後援会からの「おねがい」文が記され、裏面には後援者10団体と222人の名前が並んでいます。
そして、御芳志・御芳名・御住所の欄があり、1枚につき17人の名前が記入できるようになっています。約1,000枚の芳名帳が現存するということは、(原稿用紙などを芳名帳代わりにして名前を連ねている場合もあるので)およそ1万5,000人から2万人ほどの人が、1956年からはじまった原爆の図世界行脚に賛同し、資金の援助をしていたことを示しています。

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以下に、表紙の「おねがい」を全文紹介いたします。

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原爆の圖世界行脚後援芳名帳

おねがい

 丸木位里、赤松俊子夫妻が「原爆の図」を描きはじめてから八年、皆様方の御援助の下にこのほど十部作を完成いたしました。雨の日も風の日も日本国内行脚を助けて下さった方々、夫妻をはげまし図の完成のため蔭に陽にお力添え下さった方々に心から感謝を捧げます。
 原爆の図は一九五二年度国内では日本平和文化賞を、国際的には世界平和文化賞を受賞いたし、国内で六百数十回の展覧会、見て下さった方々は一千万人をこえております。この間皆様と共に語り共に泣いて原水爆禁止を誓いあった夫妻は、この年月の想いを胸に来る四月第四部から第十部までを携えて中国へ渡ることになりました。
 図の第三部まではさきに海外に渡り、すでにデンマークをふりだしにチェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、中国、イギリス、オランダを経て、今はイタリーで展覧会が催されています。数百回の展覧に何といっても表装がいたんでまいりましたので、東洋画の発祥地である中国に改装をお願いいたしましたところ、中国平和委員会でこころよくお引受け下さいました。これは日中文化交流の上からもまことに意義深いことと存じます。
 なお中国で全十部の統一した表装が完成した暁には、すでに展覧を申し込まれている西独、オーストリア、カナダ等の国々、さらに全世界の国々でみていただくため、夫妻は図とともに行脚をつづける決意でおります。
 今回の出発をまえに夫妻を励まし、この壮挙を援助するため、皆様の物心両面の御支援をいただくことを心からお願い申し上げます。

一九五六年三月

                         原爆の図世界行脚後援会
                         事務局責任者 福島要一・壬生照順


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後援に名を連ねた10団体は以下の通り。

原水爆禁止日本協議会/原水爆禁止広島協議会/原水爆禁止長崎協議会/原水爆禁止東京協議会/国民文化会議/日本文化人会議/日本美術会/女流画家協会/平和美術展

222人の個人後援者の顔ぶれもなかなか興味深いので、主な関係者を中心に紹介いたします。

青木春雄/青山通春/青柳潔/赤松淳/秋田雨雀/朝倉摂/朝倉文夫/石垣綾子/井上長三郎/井上頼豊/今井正/岩崎昶/岩崎ちひろ/岩間秋江/岩間正男/内山完造/植村鷹千代/江崎誠致/大木正夫/岡倉古志郎/小笠原貞子/小沢路子/小山田二郎/片山哲/神近市子/河北倫明/川田泰代/岸清次/貴司山治/吉川清/木下順二/草野信男/櫛田ふき/国分一太郎/小松原翠/佐竹新市/佐藤忠良/佐伯卓造/佐伯米子/四宮潤一/島あふひ/清水幾太郎/白井晟一/新海覚雄/末川博/杉浦茂/関鑑子/高津正道/滝沢修/滝口修造/武井武雄/淡徳三郎/壇一雄/壺井栄/鶴田吾郎/寺坂正三/峠和子/徳大寺公英/名井万亀/仲田好江/中谷泰/中谷みゆき/野々下徹/畑敏雄/八田元夫/初山滋/浜崎左髪子/林文雄/針生一郎/土方久功/火野葦平/平野義太郎/広田重道/藤川栄子/細川嘉六/本郷新/真壁仁/正木ひろし/まつやまふみお/松本善明/水沢澄夫/港野喜代子/村雲大撲子/森滝市郎/森田元子/安泰/安井郁/山下菊二/山本安英/湯川秀樹/吉井忠/吉川英治/吉崎二郎/ヨシダヨシエ/井槌義明

芸術・文学界の著名人や、平和運動関係者の名前が並ぶなかに、1950年代の全国巡回展を担った人たち―原爆の図を背負って全国を旅したことで知られるヨシダ・ヨシエや野々下徹をはじめ、1950年10月の福岡展の責任者・寺坂正三、1951年11月の札幌展の会場責任者・青柳潔、1952年1月からの北海道巡回展の責任者・吉崎二郎、同年8月の立川展の責任者・岸清次など―の名前も散見されます。
原爆の図世界巡回展が、このようなかたちで草の根的な支援を得て行われていたということを、あらためて芳名帳の量から実感することができました。
先日の「原爆堂設立の趣意書」と合わせて考えると、丸木夫妻にとって1950年代なかばは、原爆堂設立と原爆の図世界巡回展のふたつの大きなプロジェクトが同時に進行するたいへんな時期であったということに気づかされます。
世界巡回展の支援を全国的に呼びかけている時期に、原爆堂設立まで手が回らなかったというのも、頷けるような気がします。
原爆堂の計画は、広島市などの公的な援助の可能性が失われた時点で、実現の道のりもほぼ断たれていたのではないでしょうか。
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