2011/9/29

「原発やめよ」の旗/山本寛斎さん「天灯」  作品・資料

3月11日の福島第一原発事故以後、都内の反原発デモなどでたびたび丸木美術館の旗が掲げられています。

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この写真は、9月19日に明治公園で開催された「さようなら原発5万人集会」の様子(写真提供:小寺理事長)。
長年使いこまれた旗なので、色合いもかなり古びているのですが、それがかえってよく目立つ(?)と評判のようです。
実はこの旗、1989年頃に位里さんが字、俊さんが絵を描いた直筆の“作品”なのです。

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「原発やめよ 命が大事」
赤ん坊からお年寄りまで、さまざまな年齢層の人びとを中心に、鳥、魚、猫などの生きものたち、そして星と太陽が力強い筆で描かれています。

原爆の惨状を描き、生涯かけて反戦平和の姿勢を貫いたことで知られる丸木夫妻ですが、1980年代はじめ頃から、いち早く原発の危険性を訴え、反対運動にも積極的に参加していました。
旗とともに原発に反対する丸木夫妻の思いも美術館に関わる人びとに受け継がれ、今も重要な機会には直筆の“作品”が登場する、というわけです。

現在、丸木美術館の新館ロビーでは、その「原発やめよ」の旗を中心に、1980年代の『丸木美術館ニュース』に掲載された俊さんの文章や、当時北海道知事だった横路孝弘さんとの往復書簡、そして3月11日以後、丸木夫妻の思いにあらためて注目した新聞記事などを展示した小特集コーナーを設けています。

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原爆の放射能と原発の放射能は同じものなのであります。チェルノブイリ、スリーマイル島の事故のひどさについては、伝えられておりますようによくわかっております通りでございます。この次の事故は日本であると語られております。三十三基のうちどれかであるということになります。チェルノブイリクラスの事故の時は日本列島、太平洋の島島、隣接する国々へと放射能はひろがって行きます。
 (1987年10月1日『丸木美術館ニュース』第25号、横路知事への書簡)

止まれ、止まれ、原発止まれ。止まれと叫んでも止まらない。追跡しても止まらない。
「必ず大事故が起きるよ。その時に止まるよ」
位里は平気でそんな事を言う。事故が起きたら大変なのよ。といいながら、心細くなってくる。
日本列島三十八基の原発。いつ事故が起きても不思議はない状態だと言う。
止められなかったとしても、「止めよ」といって行動を起こさねばならない。放射能に包まれて死ぬかもしれないから、行動を起こしても起こさなくても死ぬのなら、結構でございます、と肯定した姿では死ねないのです。

 (1989年6月20日『丸木美術館ニュース』特別号)

原発を建てるものたちは強大な権力と金にもの言わせているに違いない。
反対するものは、生活に追われながらの闘いであるに違いないのです。
どこか遠くに住んでる者が投資して、それが利益を手にするのでしょう。原発で働く労働者や近くに住んでいる人たちの災害は目に見えているのです。

 (1989年7月28日『丸木美術館ニュース』第33号)

当時の俊さんの言葉を読み返すと、今回の福島の原発事故をまるで予見していたかのような表現が何度も目にとまります。
展示を見て驚いた方が、たびたび「コピーを下さい!」と声をかけて下さいます。
資料のコピーは、希望者の方に美術館受付で頒布しています。

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2011年9月24日付『東京新聞』に、ファッションデザイナーの山本寛斎さんが震災の犠牲者を追悼する紙風船の灯ろうを夜空に飛ばす「天灯」のイベントを福島県相馬市で行ったという記事が掲載されていました。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2011092402000066.html

以下は、記事からの一部抜粋。

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「千個の灯籠が浮かび上がった天灯終了後、遺族や被災者の方々が次々に私に駆け寄り『寛斎さん、よくやってくれた』と握手を求めてきた」と山本さん。「これまでの『私の世界をお見せする』というイベントとは違う、初の鎮魂イベントだったが、私も感情が高ぶって涙がポロポロこぼれた。やってよかった」
 震災当日、山本さんは都内の事務所にいた。「被災地の映像にぼうぜん自失。数日後、弟で俳優の伊勢谷友介がおにぎりを持って東北に行ったと聞き、『私には何ができるか。私にしかできないことは何か』と考えた」
 地震と津波は想像できるが、放射能の被害はどんなものか分からない。「それなら、過去の事故現場を見てみよう」と、チェルノブイリ原発に向かった。
 「周辺住民には甲状腺がんの手術跡なのか、首に傷痕がある人が多かった。旧ソ連時代だったので、軽装備で事故対応して犠牲となった多くの人たちのことも知った。福島の人たちがどうなるのか、心配になった」
 四月には被災地の相馬市へ。山本さんは同市と縁が深い。一九九三年にモスクワの「赤の広場」で行われた山本さん企画の文化交流イベント「ハロー! ロシア」に、同市の神事「相馬野馬追い」の騎馬武者が参加。観衆十二万人の大成功を収めた。それ以来の交流が続いている。
 「横転した車がそのまま残り、がれきだらけの海岸を歩いた。避難所も十カ所ほど回ったが、会えた友人はたった二人。行方が分からず、会えない友人ばかりだった」
 同市の死者数は四百五十人以上。原発事故の余波もあって、復興もままならない。そんな現実に、山本さんは「せめてもの鎮魂に灯籠流しをやろう。でも、川ではなく、夜空に灯籠を飛ばそう。被災者が上を向いて、前に進めるように」と心に誓った。


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このイベントは、スマトラ沖地震津波の被害を受けたインドネシアと、チェルノブイリ原発事故のあったウクライナでも開催され、「痛みを共有できる」3つの国の人びとがつながり、新たな交流も生まれているそうです。

山本寛斎さんは、震災直後の3月20日に丸木美術館においで下さっています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1574.html
そのときに、「これから何ができるか、自分のできることを考えていきたい」とおっしゃっていましたが、そのひとつがこのようなかたちで実現したのかと、嬉しい思いをかみしめました。

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今回発行する『丸木美術館ニュース』第107号には、武蔵野美術大学の石黒敦彦さんが「3.11以降のアートとアトム」シンポジウム報告記事のなかで、「原子力を基幹とする文明は、そのエネルギーの性質から、中央集権、巨大科学による管理、秘密軍事体制、言論操作など、民主主義とは相対する世界を招来する」と印象的なことを書かれていました。
丸木夫妻や山本寛斎さんの活動を思いながら、「原子力を基幹とする文明は、芸術文化とも、人間が人間らしく生きることのできる世界とも相対する」と感じるこの頃です。
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2011/9/27

美術館ニュース107号入稿  美術館ニュース

夏から続いていた企画展やニュース編集作業など諸々の仕事が一段落したせいか、週末から体調を崩し、美術館を休んでしまいましたが、自宅から何とかインターネットで『丸木美術館ニュース』第107号の入稿を終えました。
発送作業は10月1日(土)となります。ボランティア募集中です。

ニュースの表紙は、先日丸木美術館に寄贈された大道あやさんの絵画《解放》。
ニワトリが一斉に庭に解き放たれる様子を描いた、あやさんらしい作品です。
現在開催中の「追悼 大道あや展」で10月15日まで展示しています。

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丸木美術館ニュース第107号(発行部数3,000部)

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〈主な記事〉
丸木美術館ひろしま忌 「フクシマ」の年のひろしま忌に思う(板垣 里子) …… p.2
丸木位里・丸木俊 絵本原画展 丸木俊先生の絵がもたらす一筋の光―ゆるぎない強さ(室田 朱実) …… p.3
苦海……生者が死を視るとき(高橋 卓志) …… p.4
サッカーの街の福島支援プロジェクト(藤川 泰志) …… p.5
「3.11以後のアートとアトム」シンポジウム報告 重なり合う「生と死の絵画」(石黒 敦彦) …… p.6
今、沖縄はこの国のあり方を問いかけている(小寺 隆幸) …… p.7
連載 丸木位里・丸木俊の時代〈第8回〉右総代、赤松俊子/善性寺火災と母の死(岡村 幸宣) …… p.8,9
美術館の日常から(中野 京子) …… p.10
丸木美術館情報ページ……p.11
リレー・エッセイ 第39回(橋本 拓大) …… p.12
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2011/9/23

「大道あや展」アーサー・ビナードさん&小沢節子さん講演  イベント

追悼 大道あや展」の関連企画として、詩人のアーサー・ビナードさんと、近現代史研究者の小沢節子さんをお迎えして、講演会を開催しました。大道あやの大きな絵がずらりと並んだ会場には約100人の方が集まり、とても内容の深い講演会になりました。

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ビナードさんは、日本語を学びはじめた頃から大道あやの絵本のファンだったそうです。
「スマの娘や位里の妹という見方では、あやさんの本質は語れないから、本当は比べたくない」と前置きしつつ、「驚くべき才能を開花させた世界でもまれな芸術一家の一員である以上、比較は避けられない運命」として、「束ねないで、違いをあぶり出すことで意味のある明確な対比ができる」と、スマの絵や《原爆の図》と比較しながら話して下さいました。

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「ぼくにとっては世界一の画家。モネと比べたらモネがかわいそう」とスマを評価するビナードさんは、「スマさんは、描く対象とのあいだに距離がなく、同じ生きもの同士として描いている」のに対し、「あやさんは同じ動植物を描いているけど、仲間としていっしょになるわけではない。すさまじい集中力と観察力で科学的な分析をしている“プロ”の意識を持った画家」と違いを語ります。

また、原爆の実体験を持ち、「あれは絵だから」と《原爆の図》に対して批判的だったあやを、「《原爆の図》はたんなる実体験を伝えるために描いた絵じゃない。もっと広い時空をとらえて、見る者を見返し、包み込み、見る者を変えていく“装置”として描かれている。あやさんの言葉は当たっているところもあるが、違う次元で論じていて、ズレているところもある」と鋭く指摘し、あやが90歳を過ぎて描いた絵本『ヒロシマに原爆が落とされたとき』(2002年、ポプラ社)については、「《原爆の図》とは見る者の巻き込み方が違う、一般市民の原爆の絵に入る作品。あやさん自身、《軍鶏》のような美術家として描いた絵とは違い、体験者として表現する義務を帯びて描いている」と話していました。

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また、ここ数年、大道あやの作品世界を深く掘り下げ、興味深い論考の発表を続けている小沢節子さんは、あやの波乱万丈の生涯を丹念に振り返りながら、作品世界とのつながりを解きほぐしていきました。

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「描くのがつろうてつろうてしょうがない」としばしば語っていたあやの苦しみについて、小沢さんは「スマ、位里、俊の三人を追いかけて画家を目ざした人生の道すじと深く関わっている」と考えます。
「スマさんの死後、いち早くスマさんを継ぐ者として“丸木”姓を名乗る意思表明をした俊さんに対し、あやさんには娘の自分こそが母の後を継ぐという意識があったのかも知れない。その証拠に、あやさんは母の出品した展覧会(院展、女流美術展)を追いかけて出品している。美術という制度のなかで、母や兄嫁のように展覧会に入選して社会的評価を得たいという極めて近代的な自意識を最初から抱えていた彼女は、比較される運命に一番苦しんでいたのではないか」という分析は非常に鋭いものでした。

また、あやが55年ぶりに原爆と向き合った絵本『ヒロシマに原爆が落とされたとき』については、ビナードさんと同じく「絵本作家ではなく、一人の被爆者として描いた」としながらも、「描いた9枚の絵のほとんどが位里さん、俊さん、スマさんの表現に重なる。あやさんは自分は本当の原爆を見たという自負から《原爆の図》を批判し、真実の記憶を描くつもりで絵本に取り組んだはずだが、それは現在の時点からの上書きされた記憶であり、家族の記憶が混然一体となっていたのではないか。過去の歴史は複数の記憶の相互作用から生まれてくるもの」と興味深い指摘をしていました。

「原爆であれ、今回の震災津波であれ、体験の中心にいるのは死者・犠牲者であり、あやさんの言葉でいえば『生きたまま死んでいった』人の体験は誰も語ることができない、というのが、爆心地の絵を途中で塗り潰したあやさんの思いではなかったか。本当の体験を語ることのできない苦しみは、表現の苦しみそのものを知っていたあやさんには、人一倍感じられたのだろう。原爆を描く作品は、そもそも完成しないものかも知れない」
《原爆の図》や被爆市民の絵画を長年研究してきた小沢さんの分析は、たんにあや作品の世界にとどまらず、“原爆の記憶を表現すること”そのものの奥に深く踏み込んでいき、本当に考えさせられるものでした。

「あやさんにとっても、描くことが苦しいだけではなかったはず。自由や解放感、救いなどの思いも、絵から感じ取れるのでないか」という言葉に、現在のこの時代に大道あやの絵を見つめ直すことの意味を、あらためて噛みしめました。

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講演のあとには、会場からの質問を交えながら、お二人の対談が行われました。
広島から駆け付けてくださった、お孫さんの大道眞由美さんも挨拶をして下さいました。

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背後にある《軍鶏》の絵について、「あやさんは美容師としての眼で、一番いい髪型ならぬ“羽型”で軍鶏を描いている。この絵は自画像? いや、あやさんの理想の男性のタイプを描いていたのかも知れない!」と声をあげるビナードさん。
「スマとの比較さんだけではなく、あやさんと俊さんの絵本の対比もしてみたい」という小沢さんの提案に、ビナードさんが「俊―紫式部、あや―清少納言」という珍説を思いつくなど、会場から笑いの絶えない楽しい対談になりました。

「なんでこれだけ凄い作品が残っているのに“大道あや美術館”がないんだろう? おかしいよ。まだ40年くらい早いのかな。今、“大道あや美術館”はないのに……日本に原発は57基ある。でも、40年したら、変わっているかもしれない」というのはビナードさんの言葉。

実は半年前、原発事故の直前に丸木美術館で開催した「第五福竜丸事件」展の講演会の際にも、お二人は会場に来て下さっているのです。
そのときには、元第五福竜丸乗組員の大石又七さんも講演に来て下さって、小沢さんは大石さんの聴き手役として参加されました。
http://fine.ap.teacup.com/applet/maruki-g/20110305/archive

10月26日には、小沢さんが岩波ブックレット『第五福竜丸から「3・11」後へ 被爆者 大石又七の旅路』を刊行されます。
冒頭では、丸木美術館で開催された大石さんとビナードさんの対談が紹介され、そこから“旅路”の物語がはじまるそうです。
こちらも、ぜひ多くの方にお読み頂きたいと思います。
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2011/9/21

台風のなかNHK-FMラジオ出演  TV・ラジオ放送

夕方、台風15号が首都圏を直撃していたまさにその時間帯、NHKのFMラジオ放送にスタジオ出演するため、浦和に向かいながら悪戦苦闘をしていました。
しかし、大荒れの天候のなか、JRは川越線・武蔵野線が不通となり、残るは池袋経由の京浜東北線のみ。それもいつ不通になるか……という状況で、JR川越線から東武東上線にバスで振替輸送されながら、途中まで移動して身動きがとれなくなるより、スタジオ行きをあきらめて電話出演に切り替えた方がリスクが少ないと判断。NHKさいたま局の石垣さんに電話して、川越市内の自宅に引き返すことにしました。
結果的にはギリギリの決断で、もう少し遅ければ京浜東北線も東武東上線も止まって立ち往生という最悪の事態に巻き込まれることになったのですが、辛うじて出演時間の30分前には自宅でスタンバイすることができました。

   *   *   *

そんなわけで午後6時からの埼玉県内向けのNHK-FMラジオ「日刊!さいたま〜ず」には、何事もなかったように電話出演。
キャスターの石垣さんには、はじめに川越市内の台風の状況を尋ねられ、「家がかなり揺れています!」とか、「風が強くて、道を歩いていると、すぐに傘が壊れてしまいます!」という具合にリポート。なにしろ直前まで台風のまっただ中を歩いていたので、報告にも熱が入りました。

その後、現在開催中の企画展「追悼 大道あや展」を約30分間にわたって紹介。
前半では、大道あやさんの波乱万丈の生涯についてお話しして、画家としての活動期間のほとんどを埼玉で暮らしていたこと、生きものたちへの鋭い観察眼や、秩父や川越などの祭りの絵を数多く描いていたことにも触れました。

リクエストしていたナターシャ・グジーさんの「いつも何度でも」はスタジオにCDを持ち込む予定だったので放送できずに残念でしたが、石垣さんが代わりに木村弓さんが歌う英語版の曲を用意して下さいました。

後半は、あやさんの明るい絵が、花火事故で家族を失ったり、原爆を体験したりという深い悲しみから生まれてきたことについて話をしました。
特に原爆については、あやさんが90歳のときに原爆体験を語り継ぐ絵本に挑戦しながら、結局、「わしはありのままを見とるから、描けん」と怒りを露わにして絵を鉛筆で塗り潰してしまったことを紹介し、常設で展示している丸木夫妻の《原爆の図》連作や、あやさんの母親であるスマさんの原爆の絵と比べて見ると興味深い、と詳しく解説しました。

最後に23日に行われるアーサー・ビナードさんと小沢節子さんの講演会の情報をお伝えし、おおたか静流さんの「Amazing Grace」が流れて番組は終了。
台風で慌ただしかったせいか、いつものようにゆっくり落ち着いて話すというより、ちょっと気持ちが急いていたような気がしたのですが、石垣さんが上手にフォローして下さったように思います。

番組の最後に、「次回こそ、ぜひスタジオで」とおっしゃって下さった石垣さん。
どういうわけか、なかなかスタジオ共演の機会に恵まれないのですが、本当に次回こそ、ぜひ。楽しみにしています。
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2011/9/19

松戸市立博物館「松戸の美術100年史」のお知らせ  館外展・関連企画

2011年10月8日(土)から11月27日(日)まで、松戸市立博物館にて企画展「松戸の美術100年史」が開催されます。

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1911年に、千葉県庁舎とその周辺で開催された千葉県共進会に、松戸の千葉県立園芸専門学校(現千葉大学園芸学部)から室内花壇が出品され、その花を洋画家の堀江正章が描いてからちょうど100年。28人の作家の作品展示により、この1世紀の松戸の美術史を回顧展望する展覧会です。

T明治末〜昭和戦前期の作家
U戦後の作家
V現代の作家

3章からなる展示のうち、「U戦後の作家」のなかで丸木夫妻が紹介されます。
というのも、丸木夫妻は、1964年から65年頃に、それまで10年以上暮らしていた東京都練馬区から松戸市八ヶ崎に移り住んでいるのです。
戸籍では、1965年3月30日から1966年12月23日まで松戸に在住していたことになっています。
そしてその後、美術館建設のために埼玉県東松山市に転居して来たのですが、担当のT学芸員の調査では、松戸での美術館建設も考えていたという関係者の証言もあるようです。

今回の展示では位里の《松韻》(1965年)、俊の《炎の母子像》(1954年)、《鳩笛》(1956年)の絵画3点に加え、夫妻が松戸時代に縄文遺跡の保存運動に関わった貝ノ花貝塚から出土した土器片(丸木美術館蔵)を展示する予定です。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1617.html

「原爆の図世界巡回展」などの重要な仕事に数多く関わった練馬時代から、東松山の美術館建設までの間のわずかな期間で、これまであまり知られていなかった丸木夫妻の松戸時代に焦点を当てた興味深い企画となるでしょう。
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2011/9/17

NHK FMラジオ「日刊!さいたま〜ず」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

9月21日(水)午後6時から、NHKさいたま放送局FMラジオ(さいたま85.1MHz、秩父83.5MHz)の番組「日刊!さいたま〜ず」にスタジオ生放送で出演させて頂きます。
現在開催中の企画展「追悼 大道あや展」の紹介です。
担当して下さるのは石垣真帆キャスター。小学校時代のスイミングスクールの同期生だった石垣さんと、初めてのスタジオ共演が実現!ということで、二人でよろこんでいます。

http://www.nhk.or.jp/saitama/program/nikkan/index.html

番組では、大道あやさんの生い立ちから、埼玉との深いかかわり、そして原爆に対する丸木夫妻、スマさん、あやさんのそれぞれの視点や描き方の違いについて、時間の許す限りお話したいと思っています。
リクエスト曲は、ナターシャ・グジーさんによる『いつも何度でも』と、おおたか静流さんによる『Amazing Grace』をお願いしてみました。
幼い頃チェルノブイリで被曝したナターシャさんが歌う「繰り返すあやまちの そのたび ひとは ただ青い空の 青さを知る」という詞、そしておおたか静流さんが圧倒的な歌唱力によるアカペラで歌う「わたしは迷い子 ただ長い道を 歩きつづけ求めつづけ ここまで来た」という詞に、いまの私たちの生きる世界や、あやさんの生きた深い人生の歴史が、重なり合うのではないかと思っています。

埼玉県内のみという限定の放送ですが、電波の届く環境にいらっしゃる方は、どうぞNHK-FMラジオをお聴きください!
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2011/9/15

『アート・検閲、そして天皇』  書籍

社会評論社から8月に刊行された『アート・検閲、そして天皇 ―「アトミックサンシャイン」 in 沖縄展が隠蔽したもの』(沖縄県立美術館検閲抗議の会・編、2,800円+税)を読んでいます。

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2009年4月、沖縄県立美術館・博物館で開催された「アトミックサンシャインの中へ in OKINAWA」展において、当初展示を予定されていた大浦信行さんによる昭和天皇の図像をコラージュした版画連作《遠近を抱えて》が、展示を拒否されるという事件がありました。
この書籍は、展示拒否に対する抗議運動の記録として出版されたものです。

当事者の大浦さんをはじめ、昨年亡くなった針生一郎元館長、比嘉豊光、徐京植、白川昌生、鵜飼哲、石川文洋、古川美佳、桂川寛など幅広い分野の方々がそれぞれの視点から検閲問題について考察しているので、たいへん読み応えがあります。

同年夏に約2週間にわたって、ほぼ連日、東京のギャラリーマキで行われた緊急ギャラリートークの内容もすべて収録されています。
近現代史研究者の小沢節子さんが「丸木夫妻の『原爆』と『沖縄』」について語った回には、私も参加していました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1217.html

トークを読み返すと、あらためて小沢さんが的確に丸木夫妻の《原爆の図》や《沖縄戦の図》の意味を解きほぐしていることに感心するのですが、最後に[追記]として、2010年4月17日から7月10日まで丸木美術館で開催された「OKINAWA ―つなぎとめる記憶のために―」展について好意的な展評を記して下さっていたので、とても嬉しく思いました。
その[追記]のなかから、重要な部分を抜粋して紹介いたします。

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 今回の「OKINAWA」展では、丸木夫妻の表現と向き合い、響き合うかのように、沖縄の作家たちの力強くもあり、内省的でもある個性あふれる表現が並んだ。会場には、夫妻の作品だけでも、沖縄の作家の作品だけでも、どちらか一方だけの展示からは生まれない緊張感が漂っていたように思われる。ギャラリートークに先立つシンポジウムでは、アトミックサンシャインとは、アメリカの核によって守られてきた日本の「核の日だまり」と読み替えられないか、であれば、日本国憲法(九条)の外部に置かれつづけてきた沖縄はアトミックシャドウの中にあった/ある、という指摘もくり返されていた。私は「アトミックサンシャイン」展は未見だが、そもそも「日本の」現代美術と沖縄の作家の表現を一つの空間に並べることの意味が、そこではどのように問われていたのだろう。丸木夫妻と沖縄の作家たちの表現の差異を差異として提示しつつ、しかし両者がお互いを照らし合うことによってその差異の意味を考えさせる「OKINAWA」展には、この問いを本土の人間が考えていくための糸口が示されていたと思う。

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「OKINAWA ―つなぎとめる記憶のために―」
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2010/2010okinawa.html
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2011/9/13

「原爆の圖世界行脚後援芳名帳」も発見  1950年代原爆の図展調査

「原爆堂設立の趣意書」と同時に小高文庫で見つけた資料をもうひとつ紹介いたします。
原爆の圖世界行脚後援芳名帳」と記された約1,000枚の資料です。

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芳名帳の表面には、原爆の図世界行脚後援会からの「おねがい」文が記され、裏面には後援者10団体と222人の名前が並んでいます。
そして、御芳志・御芳名・御住所の欄があり、1枚につき17人の名前が記入できるようになっています。約1,000枚の芳名帳が現存するということは、(原稿用紙などを芳名帳代わりにして名前を連ねている場合もあるので)およそ1万5,000人から2万人ほどの人が、1956年からはじまった原爆の図世界行脚に賛同し、資金の援助をしていたことを示しています。

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以下に、表紙の「おねがい」を全文紹介いたします。

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原爆の圖世界行脚後援芳名帳

おねがい

 丸木位里、赤松俊子夫妻が「原爆の図」を描きはじめてから八年、皆様方の御援助の下にこのほど十部作を完成いたしました。雨の日も風の日も日本国内行脚を助けて下さった方々、夫妻をはげまし図の完成のため蔭に陽にお力添え下さった方々に心から感謝を捧げます。
 原爆の図は一九五二年度国内では日本平和文化賞を、国際的には世界平和文化賞を受賞いたし、国内で六百数十回の展覧会、見て下さった方々は一千万人をこえております。この間皆様と共に語り共に泣いて原水爆禁止を誓いあった夫妻は、この年月の想いを胸に来る四月第四部から第十部までを携えて中国へ渡ることになりました。
 図の第三部まではさきに海外に渡り、すでにデンマークをふりだしにチェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、中国、イギリス、オランダを経て、今はイタリーで展覧会が催されています。数百回の展覧に何といっても表装がいたんでまいりましたので、東洋画の発祥地である中国に改装をお願いいたしましたところ、中国平和委員会でこころよくお引受け下さいました。これは日中文化交流の上からもまことに意義深いことと存じます。
 なお中国で全十部の統一した表装が完成した暁には、すでに展覧を申し込まれている西独、オーストリア、カナダ等の国々、さらに全世界の国々でみていただくため、夫妻は図とともに行脚をつづける決意でおります。
 今回の出発をまえに夫妻を励まし、この壮挙を援助するため、皆様の物心両面の御支援をいただくことを心からお願い申し上げます。

一九五六年三月

                         原爆の図世界行脚後援会
                         事務局責任者 福島要一・壬生照順


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後援に名を連ねた10団体は以下の通り。

原水爆禁止日本協議会/原水爆禁止広島協議会/原水爆禁止長崎協議会/原水爆禁止東京協議会/国民文化会議/日本文化人会議/日本美術会/女流画家協会/平和美術展

222人の個人後援者の顔ぶれもなかなか興味深いので、主な関係者を中心に紹介いたします。

青木春雄/青山通春/青柳潔/赤松淳/秋田雨雀/朝倉摂/朝倉文夫/石垣綾子/井上長三郎/井上頼豊/今井正/岩崎昶/岩崎ちひろ/岩間秋江/岩間正男/内山完造/植村鷹千代/江崎誠致/大木正夫/岡倉古志郎/小笠原貞子/小沢路子/小山田二郎/片山哲/神近市子/河北倫明/川田泰代/岸清次/貴司山治/吉川清/木下順二/草野信男/櫛田ふき/国分一太郎/小松原翠/佐竹新市/佐藤忠良/佐伯卓造/佐伯米子/四宮潤一/島あふひ/清水幾太郎/白井晟一/新海覚雄/末川博/杉浦茂/関鑑子/高津正道/滝沢修/滝口修造/武井武雄/淡徳三郎/壇一雄/壺井栄/鶴田吾郎/寺坂正三/峠和子/徳大寺公英/名井万亀/仲田好江/中谷泰/中谷みゆき/野々下徹/畑敏雄/八田元夫/初山滋/浜崎左髪子/林文雄/針生一郎/土方久功/火野葦平/平野義太郎/広田重道/藤川栄子/細川嘉六/本郷新/真壁仁/正木ひろし/まつやまふみお/松本善明/水沢澄夫/港野喜代子/村雲大撲子/森滝市郎/森田元子/安泰/安井郁/山下菊二/山本安英/湯川秀樹/吉井忠/吉川英治/吉崎二郎/ヨシダヨシエ/井槌義明

芸術・文学界の著名人や、平和運動関係者の名前が並ぶなかに、1950年代の全国巡回展を担った人たち―原爆の図を背負って全国を旅したことで知られるヨシダ・ヨシエや野々下徹をはじめ、1950年10月の福岡展の責任者・寺坂正三、1951年11月の札幌展の会場責任者・青柳潔、1952年1月からの北海道巡回展の責任者・吉崎二郎、同年8月の立川展の責任者・岸清次など―の名前も散見されます。
原爆の図世界巡回展が、このようなかたちで草の根的な支援を得て行われていたということを、あらためて芳名帳の量から実感することができました。
先日の「原爆堂設立の趣意書」と合わせて考えると、丸木夫妻にとって1950年代なかばは、原爆堂設立と原爆の図世界巡回展のふたつの大きなプロジェクトが同時に進行するたいへんな時期であったということに気づかされます。
世界巡回展の支援を全国的に呼びかけている時期に、原爆堂設立まで手が回らなかったというのも、頷けるような気がします。
原爆堂の計画は、広島市などの公的な援助の可能性が失われた時点で、実現の道のりもほぼ断たれていたのではないでしょうか。
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2011/9/11

「原爆堂設立の趣意書」草稿発見  原爆堂計画

朝、小高文庫の丸木夫妻関係の資料を少し整理していたところ、「原爆堂設立の趣意書」と記された封筒に入った、俊の字による原稿用紙5枚の草稿を発見しました。

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「原爆堂」とは、建築家の白井晟一が丸木夫妻の《原爆の図》に触発されて独自に設計した施設で、結局は実現せずに終わった計画なのですが、白井晟一の代表作とも言われるほど高い評価を受けています。

現在、目黒区美術館のI学芸員が「原爆堂計画」をめぐる白井晟一と丸木夫妻の当時の関わりを丹念に調査されています。

今回発見された草稿は、どのような目的で作られたのかがはっきりわかるわけではありませんが、文面から、おそらく広島市に向けて原爆堂建設を呼びかけるために記されたものと推測されます。
興味深い内容が含まれている文章なので、以下に全文を(原文のままに)紹介いたします。

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 一九四五年八月六日、續いて九日、原子爆弾が投ぜられました。
 人間の歴史初まって以来の最大の悲慘事がひき起されました。
 親は子を失い、子は親を失い、友人、知人、兄弟を失い。手をなくした者、足のない人、ケロイド。そして放射能の恐怖は、遺傳の恐れにまで発展して參りました。
 この恐ろしい人類殺戮の武器を轉じて人類繁榮のために利用することが出来ることを私共は知って居ります。
 人工衛星の打ち上げによって、人類は宇宙時代に入り、人類の将来に明るい繁榮のきざしを告げてくれたのです。
 それなのにまだ一方で原水爆の実験は續けられて居るのでございます。
 “このようなことを止めて下さい”
 と、人人は願い、語り合って參りました。芸術の分野では、絵画に映画に演劇に、その作品を通じて訴え續けて參りました。
 この人類の願望であります原水爆禁止の運動に、大きなこうけんをした原爆之図を私共は忘れることが出来ません。
 原爆之図は、丸木位里・丸木俊子、夫妻共同の作品でございます。
 伯父を失い、姪を失い、父を失い、多くの友人を失った夫妻はめいふくを祈るつもりで描き初めたのでございますが、一九五〇年一度発表するや、人人の心をゆさぶり、醒まし、その展覧会は日本全国を行脚し、困難であった原水爆禁止運動の道を切りひらいて行ったのであります。
 行脚と共に図は三部から、五部、七部と描き續けられ、一九五六年、第十部が完成されたのでございます。
 原爆之図は海外に渡り、今世界に廣島の、日本人の願いを訴え續けて居ります。
 一九五三年に幽霊、火、水、の三部がデンマークに渡り、ハンガリ、ルーマニア、イギリス、イタリアで展覧され、一九五六年に殘る七部と合流し、中国、朝鮮、蒙古、ソヴエット、オランダ、西独、ベルギギー、スイス、セイロン、南アフリカと世界行脚を續けて居ります。
 “原爆之図は、ミケランジェロやジェリコーのみが力強く描きうる広島の悲劇を余すところなくとらえている”
 と、芸術的にも高く評價されつゝ、原水爆禁止の活動を續けて居ります。
 カナダ、オーストラリア、スエーデン、ノールウェー等からの招請に答え。全世界の平和を願う人人の手にささえられてくまなく行脚を續けることゝ存じます。
 廣島が生んだこの悲劇の作品を、この廣島の地に迎え、この地に永久展覧の場を作りたいものと存じます。
 この願いは地元広島市民の心からの賛成と協力をいたゞき、復興途上の広島市を一望に眺められる三滝山の景勝の地に設置する運びとなりました。
 設計は斯界の権威・白井晟一氏の心血を注いだ製作でございます。
 私共、特に広島市民は、憎しみ、悲しみを越え、思想を越え、宗教を越え、人権を超越し、人類最大の不幸を轉じ、全人類の繁栄と幸福の一基点となすべき、この計畫が、皆様のお力添えによって一日も早く完成いたしますことを心からお願い申しあげます。


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この草稿が作られた時期は明記されていませんが、世界巡回展の動向報告が南アフリカで終わっていること(『美術運動』第55号によれば、南アフリカ展は1957年9月に開催されている)人工衛星の打ち上げに言及していること(世界初の人工衛星は旧ソ連によって1957年10月4日に打ち上げられた)などから、1957年末から1958年頃であると推測されます。

1956年3月5日付『朝日新聞』には、原爆堂計画が思うように進まず、敷地も決まらず、白井晟一と丸木夫妻の間に溝ができつつあると報道されていたのですが、草稿には「広島市を一望に眺められる三滝山の景勝の地に設置する運び」と具体的に敷地が記されているのも興味深いところです。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1653.html

1958年11月1日刊行の俊の自伝『生々流転』にも、「広島の三滝の山の上、広島市が一目に見える高台に建てては如何か、と、三滝寺のお坊さんや皆さんが今、考えていて下さいます」というくだりが出てきます。
しかし、『生々流転』をベースにしつつ1977年8月20日に刊行された自伝『女絵かきの誕生』には、「ひろしまの三滝の山の上、広島市がひと目に見える高台に建ててはどうかと、三滝寺のお坊さんやみなさんが考えてくださいました」と過去形で記され、次のような顛末が付記されています。

 広島市へ寄付すべきではなかろうかとも思い、相談に行きました。それはよかろう、ということで、市役所の方と、あちこち土地をさがしに歩きました。いよいよ建設、となると、だれがどこからおカネを持ってくるか、ということになり、広島市議会にはかってくださったのです。ところが、一票の差で否決されたのです。土地は提供いたしますが、建物はあなた方でお建てください、というようなことになりました。

本当に広島市議会で1票差で否決されたかどうかは、まだ記録の裏付けがとれていないのですが、いずれにしても、この1957年から58年にかけての時期に、原爆堂建設が実現するかどうかの大きな分岐点を迎えていたのではないかと思われます。
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2011/9/10

美術館クラブ「楽しい木の人形をつくるよ」  ワークショップ

毎月1回開催している丸木美術館クラブ工作教室。
今月は、木工作家の遠山昭雄さんの案内で「楽しい木の人形をつくるよ」というテーマ。

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遠山さんや、工作教室主宰のM年山さんが集めてきたり加工したりして準備した木片を使って、参加者が思い思いの木の人形を作る、という内容でした。
見本には本物の「こけし」も並んでいましたが、さて、できあがりはというと……

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こんな感じです。
かわいいこけし人形に混じって、猫やバス、そしてムンクの叫びなどもありました。

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工作のあとには、遠山さんによる紙芝居の上演が行われ、妻T差し入れのロールケーキとM年山さんのホットコーヒーで楽しい時間を過ごしました。
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2011/9/8

「さようなら原発」講演会  他館企画など

午後6時半から日本青年館大ホールで行われた「さようなら原発」の講演会に、事務局のNさん、ボランティアのM園さん、M山くんといっしょに参加しました。
会場には約1,300人が参加。客席で何人もの顔見知りの方にお会いしました。

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講演会では、「さようなら原発」一千万人署名の呼びかけ人であるルポライターの鎌田慧さん、作家の大江健三郎さん、落合恵子さん、経済評論家の内橋克人さんのお話のほか、落合さんによる詩の朗読、崔善愛さんのピアノ演奏が行われ、賛同人の山田洋次さんも駆けつけてお話をして下さいました。

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心に残ったのは、大江健三郎さんの言葉でした。
大江さんは、広島と長崎の原爆投下を経て戦争が終わった後、民主主義と不戦の誓いが盛り込まれた新しい憲法が制定されてからずっと守ってきたと思っていたものが、福島の原発事故によって「終わってしまった」と感じたそうです。

「今回の原発事故で、子どもたちは放射性物質を体内に取り入れてしまったために、将来苦しむことになるだろう、と専門家は言っています。さらに、爆発を起こした原子炉やこれまでの発電を通じて作り出された大量の放射性廃棄物の後始末は私たちの生きているうちにできるものではない。私たちは次の世代に、ただ苦しいだけの、危険なだけの重荷を背負わせることになるわけです。こういうことをわれわれがやってしまったということは、あの大きい被害体験、または加害体験に根ざして、新しい国、新しい国民としての自分たちの生き方を決めた、その決意をすっかり無駄にしたということではないだろうか、と私は思うのです」
淡々と語る大江さんの言葉は、しかし、深い説得力を持って会場に響きました。

そして、最後に、大江さんが深く感銘を受けた言葉として、『世界』9月号に掲載された肥田舜太郎さんのインタビュー「放射能との共存時代を前向きに生きる」を紹介されました。

以下は、その『世界』のインタビュー記事から、一部を抜粋します。

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 一つは放射線の出る元を絶ってしまうことです。これが肝心です。
 それからお母さん方が集まる場で必ず出てくる質問は、もう放射能が入ってしまったようで、症状と思われるものがあるがどうしたらいいかということですが、世界中のどんな偉い先生でもこうしなさいとは言えません。治すためにどうすればいいかは分からないのです。でも私にはアメリカで教わったスターングラス博士が、自分が被曝したと思われる犠牲者にこう伝えなさいと教えてくれたことがあります。どういうことかというと、そういう被害をもう受けてしまったのなら、腹を決めなさいということなのです。開き直る。下手をすると恐ろしい結果が何十年かして出るかもしれない、それを自分に言い聞かせて覚悟するということです。
 その上で、個人の持っている免疫力を高め、放射線の害に立ち向かうのです。免疫力を傷つけたり衰えさせたりする間違った生活は決してしない。多少でも免疫力を上げることに効果があることは、自分に合うことを選んで一生続ける。あれこれつつくのは愚の骨頂。一つでもいい。決めたものを全力で行う。要するに放射線被曝後の病気の発病を防ぐのです。


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広島で被爆し、長年にわたって被爆者治療に従事した肥田さんの言葉は、豊富な経験と知識に基づいたもので、たいへんわかりやすく、リアリティがあります。
丸木美術館でも10月22日(土)に肥田さんの講演会を行いますので、ぜひ多くの方にお聴き頂きたいと思います。

9月19日(月/祝)には、東京・明治公園で「さようなら原発 5万人集会」も行われます。
http://sayonara-nukes.org/2011/09/110919_s-2/
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2011/9/8

『東京新聞』の嬉しい投書  掲載雑誌・新聞

7日は「丸木位里・丸木俊 絵本原画展」で借用した絵本原画19点を國學院栃木学園に返却。
「追悼 大道あや展」の展示作業や「絵本原画展」の後片付けなど、ここ数日慌ただしい日々を送っています。
21日午後6時からはNHKさいたま局で埼玉県内向けFMラジオ放送「日刊!さいたま〜ず」に出演して「大道あや展」のご紹介をさせて頂くことになりました。
見応えのある大作がそろった展覧会なので、ぜひ多くの方にご来館頂きたいと思っています。

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2011年9月8日付『東京新聞』朝刊「ミラー」欄に、“丸木夫妻に心動かされ”という見出しで、嬉しい投書が掲載されました。
東京都千代田区の翻訳業Dさん(74歳)の投書です。
以下に、一部を抜粋してご紹介いたします。

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 戦後六十六年間に、原発に異議を唱えた者はいなかったのか。八月三日の貴紙夕刊に掲載された記事、丸木美術館学芸員の岡村幸宣氏による「余白にこもる思い『原爆の図』」で、画家の丸木位里・俊夫妻も異議を唱えた数少ない人物であることを浮かび上がらせてくれた。
 記事に促されて八月末日に同美術館を訪ねた。原爆投下数日後にヒロシマに入り、目にした惨状を描いた丸木夫妻の連作は、声無き阿鼻叫喚の図であり、目をそらしたくなる。
 同美術館のミニガイドブックの年譜によれば、一九八九年に電気料金の原発分24%を不払いしたため、美術館は送電を停止されたとある。科学者でもなく、政治家でもなく、実業家でもない市井の画家夫婦が起こした行動は、私の心を強く揺さぶっている。


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8月3日付『東京新聞』夕刊の記事については、以下の日誌で紹介しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1677.html

こうしたかたちで、新たなきっかけから丸木夫妻の仕事に「心を強く揺さぶ」られる方が増えることは、本当に嬉しく思います。
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2011/9/6

「追悼 大道あや展」はじまる  企画展

いよいよ今日から、企画展「追悼 大道あや展」がはじまりました。
昨年9月に101歳で亡くなったあやさんの、没後最初の追悼展です。

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開館早々から熱心なファンの方が丸木美術館を訪れ、あやさんの絵の前でじっと作品を鑑賞して下さっています。

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日曜日の展示替えには、12名のボランティア(うち新人3名)と実習生のM口くんが集まって下さって、予想以上に展示作業がはかどりました。
あやさんの作品は100号程度の大作が多いので、大勢の方が展示を手伝って下さるのは、本当にありがたいのです。

今回、一番大きな企画展示室には、代表作の《しかけ花火》や《ちちぶの夜祭》など、院展や女流画家協会展などに出品したタブローを中心にならべました。

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ちょっと絵を詰め過ぎかな……展示室をひとつ増やそうかな、とかなり悩んだのですが、他の展示の事情もあり、結局、来館者の方にできるだけ多くの絵を観て頂くことにしました。その分、ともかく見応えのある展示になっています。

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また、小さな展示室には、あやさんの絵本原画を展示。
『ヒロシマに原爆がおとされたとき』の原画全9点に加え、代表作の『けとばし山のいばりんぼ』と『ねこのごんごん』、そして現在、福音館書店から復刊中の『こえどまつり』の原画の一部を紹介しています。

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もうひとつの展示室では、あやさんの母親である丸木スマの絵を特集しています。

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晩年の集大成《簪(かんざし)》をはじめ、瀬戸内海の魚を画面いっぱいに描いた《内海の魚》、そして《村の夕暮れ》や《母猫》といった代表作、原爆体験を描いた《ピカのとき》などを展示して、母娘の絵を比較できるようにしてみました。
ぜひこちらも、お楽しみいただきたいと思います。
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2011/9/2

「被爆医師」肥田舜太郎さん講演会/『世界は恐怖する』上映会のお知らせ  イベント

台風の影響で昨日、今朝と大雨に見舞われ、丸木美術館のとなりを流れる都幾川は増水中。
川幅いっぱいに濁流が広がり、大河のようになっています。

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昨日は、絵本原画をお借りしている國學院大学栃木学園のS先生が企画展を観に来館して下さいました。
「丸木位里・丸木俊 絵本原画展」もいよいよ明日、9月3日(土)までで終了です。

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先日、学芸員日誌ブログでご紹介した、福住廉さんの「チェルノブイリから見えるもの」展の記事が、共同通信社の配信によって、各地の新聞で掲載されているようです。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1694.html

8月2日付『新潟日報』、8月5日付『東奥日報』、8月10日付『千葉日報』、8月19日付『日本海新聞』、そして日付は不明ですが『徳島新聞』など……
すでに会期が終了してしまっているのが残念ですが、丸木美術館の企画展の取り組みが全国の方々に伝わっているのは嬉しいことです。

福住さんが「現代アートは同時代の社会状況や私たちの暮らしに対応した美術表現である。現在もっとも注目すべきテーマは放射能の脅威。私たちの生命や社会の根幹に関わるだけに、あらゆる人びとが放射能汚染について考えをめぐらしている」と書かれているように、丸木美術館としては今後も「放射能の脅威」を考えていくことができるような企画を考えていきたいと思っています。

ただ、企画展のスケジュールは基本的に前年から決まっていて、すでに準備を進めているものもあり、なかなかすぐに対応できない仕組みになっています。
また、不可視の放射能をどのように美術表現として取り上げていくかという問題も、今ただちに、というより、ある程度腰を据えて考えていかなければならない部分があります。

「チェルノブイリ展」終了後、事務局長のNさんと、今後どのように企画に取り組んでいけばいいのか、たびたび議論を交わしてきました。
そして、展示に関しては長期的な視点で練り上げていく一方、講演会や映画の上映会などを企画することで迅速に「放射能の脅威」に向き合っていこうという方向で意見がまとまってきました。

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10月22日(土)午後1時半からは、広島での被爆体験を原点に、被爆者治療と核廃絶運動に関わり続けてきた94歳の「被爆医師」肥田舜太郎さんの講演会を行う予定です。

そして11月12日(土)には、第五福竜丸展示館の協力により、1957年公開の亀井文夫監督の映画『世界は恐怖する―死の灰の正体―』の上映会を開催することが、あらたに決まりました。
上映の際には、第五福竜丸展示館事務局長の安田和也さんが詳しい解説をして下さることになっています。

どちらも、今このときだからこそ、聴いて・観て・知って・考えていただきたい内容です。
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