2011/8/31

大道あや作品《解放》寄贈の報告/《蛇祭り》集荷  企画展

今日は一日がかりで、ボランティアのM岡くんに手伝ってもらいながら、関東近県の大道あや作品の集荷作業を行いました。

午前中は毛呂山町にお住まいのHさん宅から、1980年に描かれた《解放》を搬出。

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花の咲き誇る庭に一斉に解き放たれたニワトリたちの様子が、細部まで丹念な筆致で描かれた40号ほどの大きさの絵画です。
この作品は、Hさんの御厚意で丸木美術館に寄贈して下さることになりました。
これまで丸木美術館は大道あや作品を1点も所蔵していなかったので、本当に嬉しいです。
今回の企画展での展示はもちろん、その後も所蔵品展示室で折に触れて紹介していきたいと思います。

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午後は栃木県の小山市立博物館から、1978年制作の《蛇祭り》を搬出しました。

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こちらは、小山市内の間々田八幡宮で行われる珍しい祭りの様子が描かれています。
蛇祭りは、釈迦が誕生したとき、八大竜王が天から竜水を降らしたという仏教説話から起こったそうです。画面にも「八大龍王」の大きな幟が見えます。子どもたちはこの幟を先頭にして蛇体をかつぎ、町内をねり歩くそうです。

かつて蛇祭りは、田植え前のに雨乞い、五穀豊穣、疫病退散を願うということで旧暦の4月8日に行われていたようですが、今は5月5日の子供の日に行われ、県の無形民族文化財にも指定されています。
あやさんは一時期小山市のとなりの野木町で暮らしていたことがあるので、きっと間々田の蛇祭りも、その頃に見ていたのでしょう。

お祭り好きのあやさんらしいとても賑やかな楽しい作品です。
今回の「大道あや展」は、広島や埼玉、栃木の祭りを描いた絵がたくさん展示されます。
追悼展ではありますが、きっと明るい笑顔の連鎖するような、心あたたまる展示空間になるのではないかと思っています。
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2011/8/30

第5回アジア編集者会議「カタストロフィーとアート」のお知らせ  他館企画など

午後、読売新聞の菅原教夫編集委員が来館され、《原爆の図》をご覧になりました。
菅原さんは、10月8日(土)に横浜のBankART Miniで開催される第5回アジア編集者会議「カタストロフィ―とアート」にて、日本のパネリストとして発言されるとのこと。
《原爆の図》についても言及して下さる予定です。
会議の司会を務められるのは、先月の銀座のシンポジウム「3.11以降のアートとアトム」でもお世話になったギャラリーQの上田さん。
日中韓、それぞれの国の報告者が、“破滅”と“芸術”について語り合う興味深い会議です。

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第5回アジア編集者会議 – 横浜 (Yokohama Triennale2011)
「カタストロフィーとアート」
日程:2011年10月8日(土)
時間:14:00-17:00
会場:BankART Mini 横浜 231-0002横浜市中区海岸通り3-9

パネリスト:韓国=金福基(Art in Asia 編集長)、中国=朱其(美術評論家)、日本=菅原教夫(ジャーナリスト/読売新聞社編集委員)・岩渕貞哉(美術手帖 編集長)
司会:上田雄三(多摩美術大学芸術学科 非常勤講師)
主催:アジアン・ギャラリー・ミーティング展実行委員会、Art in Asia、ギャラリーQ
後援:横浜トリエンナーレ組織委員会
協賛:資生堂

http://www.galleryq.info/news/news_asianeditor2011_jp.html

東日本大震災は、これに続く福島原発事故とともに、日本人に大きな被災と衝撃をもたらした。大災害とアートとはどう関係するのか。中国では3年前、四川大地震があり、多くの死者、被災者を出した。韓国では昨秋の延坪(ヨンビョン)島砲撃事件に至る南北分断の緊張関係が続いている。生命を脅かすこうした東アジアの環境はアートの内面的地平に大きな影を投げかけているはずだ。もちろんヨーゼフ・ボイスが言ったように「アウシュヴィッツの出来事は描けない」のであり、アートにできるのは恐怖や悲惨さに対しての反イメージを提示することだけかもしれない。しかし、それでもアートにはカタストロフィを体験することによって見えてくる世界があるのではないか。シンポジウムでは日中韓のパネリストたちが、緊急の問題を議論する。
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2011/8/29

『月刊 絵手紙』に大道あや展紹介  掲載雑誌・新聞

午前中に、広島から大道あや作品37点が到着。無事に館内への搬入を済ませました。
31日には毛呂山町と栃木県小山市をまわって、大道あやの作品を集荷します。
9月6日からはじまる「追悼 大道あや展」の準備は着々と進んでいます。

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2011年9月1日発行の『月刊 絵手紙』9月号には、「追悼 大道あや展」が大きく取り上げられています。

紹介されている作品は、絵本『こえどまつり』(1976年、福音館書店刊)や『ヒロシマに原爆がおとされたとき』(2002年、ポプラ社刊)、そして代表作の絵画《けとばし山》(1982年)、《軍鶏》(1980年)など。

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(写真は『こえどまつり』の原画。ねこのごんごん、犬のちのび、からすのあーよが川越の祭りに出かけていく愉快な物語です)

アーサー・ビナードさんの連載「Message from Arthur」でも、“大道あやは大道あやである。”との題で、「だれの娘でだれの妹であるかは、大道あやの絵の本質とズレている感じがして、そういったつながりを抜きに」絵を見ることが必要だという興味深いエッセイがつづられています。
以下は、一部の抜粋。

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 二〇〇三年だったか、ある雑誌が絵本の大特集を組もうとして、ぼくも原稿を頼まれ、編集者と打ち合わせしていた。その編集者は大道あやも担当していて、ちょうど前日に「けとばし山」まで出かけて、会ってきたという話をしてくれた。そして「お母さんの丸木スマさんの絵も飾ってあったよ」といわれたとき、こっちは「えっ! お母さん?」とびっくりした。
 そのあと、否応なしにずっと「スマ・あや」比較をすることになった。が、いっしょに束ねてはいけないと思っている。「あや・位里」比較も、「あや・俊」比較についても、同じ思いだ。なぜなら、ひっくるめて、ごっちゃにしてしまうと、それぞれの本質が見えなくなるから。でも逆にいえば、相違点にちゃんと注目して比べると、大事なところが鮮やかに浮かび上がる。丸木スマと大道あやを、親子としてではなく、対峙する二人の芸術家として考えることには、意味があるのだ。
 どんな比較を経ても、大道あやは、大道あやである。


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ビナードさんは、9月23日(金/祝)に丸木美術館で「大道あやは、大道あやである。」という題目で講演をして下さいます。
その日は、『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(2002年、岩波書店刊)の著作で知られ、近年では丸木スマ・大道あや研究を深められている近現代史研修者の小沢節子さんの講演「描くことの苦しみと喜びのはざまで―大道あやの表現」も予定しています。

お二人とも、とてもわかりやすく優しい語り口で、それぞれの視点から大道あやの世界を解きほぐして下さることでしょう。
ぜひ、多くの方にお聞き頂きたいと思っています。
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2011/8/28

鈴木美恵子さんギャラリートーク  イベント

午後2時から、企画展「丸木位里・丸木俊 絵本原画展」の関連企画として、元フレーベル館編集者で丸木俊の絵本を担当していた鈴木美恵子さんをお招きして、ギャラリートークを行いました。

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鈴木さんが担当されたのは1970年に発行された『ぶらんこのり』。
童話作家・詩人の佐藤義美が1948年に発表した童話をもとに、丸木俊が想像力を広げて描いた絵本です。

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サーカスのぶらんこのりが、ぶらんこからぶらんこへと飛び移る一瞬。
緊張して見守る観客たちの前から、ぶらんこのりの姿が見えなくなります。
ぶらんこのりは野原を越え、ひばりとともに雲を抜けて、雲のテーブルでパンを食べます。
そして地球を見下ろして、もうひとつのぶらんこを見つけます。
無事にぶらんこへ飛び移ると、観客たちは拍手喝采。

こうした内容の絵本を、まず岡村が皆の前で読み上げた後、この絵本がどのようにしてできていったのか、鈴木さんが興味深い体験談を聞かせて下さいました。

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絵本の仕事を依頼することになったのは、ロシア滞在の経験を持つ俊に外国のサーカスの情景を描いてもらいたいという思いがあったからだそうです。
絵の内容は全面的に俊に任せていたのですが、鈴木さんは何度か足を運ぶうちに、文章では男言葉を話すぶらんこのりを、俊が若い女性に描いていることに気がつきました。
しかし、絵の完成度の高さを見て、鈴木さんは編集部には内緒で女性のまま進めてもらうことを決断したのです。
ところが、絵の完成後、編集会議で別の問題が浮上しました。
上層部から、ぶらんこのりが全裸の女性である点が問題視されたのです。
仕方なく俊に相談すると、快く裸体の上に白い絵具を加え、水着姿に描き変えてくれたそうです。
そのおかげで、絵本は無事に出版されたというわけです。

また、鈴木さんは、「絵本が世相を反映している」として、ぶらんこのりが青い地球を見下ろしている場面について「ガガーリンの世界初の宇宙飛行成功」から、そしてぶらんこのりが野原の上を飛ぶ場面に描かれた高速道路について「関越自動車道の建設」からイメージを得ているという指摘をされました。
意外な発想の源泉に、俊の好奇心とユーモア感覚を再発見した思いがしました。

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最後に鈴木さんが話した「編集者には自分がやりたいことを会社の金でやるという思いがある。会社として採算がとれるか、とれなくても作るか、という討議はもちろんあって、社によって方針も違うけれども、編集者は“こういうことを子どもに伝えたい”という思いがはじめの一歩になる」という言葉は、心に残りました。
編集者の強い思いと、画家の豊かな表現力がひとつになったとき、良質な絵本が生まれてくるのだということを、あらためて実感した貴重なトークでした。

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鈴木さんは、現在、川越市役所前で「手打ちそば 百丈」を営まれています。
元釣具屋だったという建物は、木造3階建、銅板ぶきの「看板建築」で、国の登録有形文化財に指定されています。
ご主人のこだわりの手打ち蕎麦もたいへん美味しく、お勧めのお店です。
いろいろとご縁があって、わが家も家族ぐるみで大変お世話になっています。
川越においでの際は、ぜひ「百丈」にお立ち寄りください。
http://www.100-jo.jp/
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2011/8/27

KENにて映画『世界は恐怖する』上映  他館企画など

夕方、三軒茶屋のKENで開催された、映画『世界は恐怖する―死の灰の正体』(亀井文夫監督、1957年)上映と第五福竜丸展示館・安田和也さんのトークの会に参加しました。

『世界は恐怖する―死の灰の正体』は、第五福竜丸事件で知られるビキニ環礁の水爆実験など、米ソ核開発競争が激化する1950年代に、いち早く放射能の生物への影響を記録し、空気中や雨水に含まれる放射能の分析や、遺伝的な影響、広島長崎の被爆者の取材、未来の放射能汚染の予測など科学的視点をふんだんに盛り込んだ画期的な作品です。
解説は徳川夢声、制作には勅使河原宏も参加し、地球化学者の三宅泰雄、気象研究所の猿橋勝子、物理学者の武谷三男など当時を代表する数多くの科学者も登場。
そして、動物への放射能実験の様子や顕微鏡で撮影した細胞の突然変異などの画面に、しばしば印象的にモンタージュされるのは丸木夫妻の《原爆の図》。「放射能被害を描いていない」との批判を受けることもある《原爆の図》ですが、亀井監督の大胆なモンタージュによって、「見えないものを可視化する」ために、強烈な効果をあげていたように思います。

今回、初めて知ったのですが、亀井文夫監督は1908年に福島県相馬郡原ノ町に生まれています。つまり、現在の南相馬市というわけです。本当に皮肉な巡り合わせです。
映画の最後に、亀井監督は次のようなメッセージを残しています。

死の灰の恐怖は、人間が作りだしたものであって、地震や台風のような天災とは根本的にちがいます。だから人間がその気にさえなれば、必ず解消できるはずの問題であることを、ここに付記します。

放射能のもたらす恐怖に警鐘を鳴らし、核廃絶を願った亀井監督。
半世紀以上の歳月を越えて伝わるメッセージが少しも古びていないことを、私たちはどのように捉えるべきなのか。とても複雑な思いにさせられました。
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2011/8/26

『毎日新聞』夕刊“キャンパる”に丸木美術館紹介  掲載雑誌・新聞

2011年8月26日付『毎日新聞』夕刊の学生記者による企画記事“キャンパる”に、丸木美術館が紹介されました。

http://mainichi.jp/life/edu/campal/news/20110826dde012070076000c.html

以下は記事の一部抜粋。上記サイトでは全文が読めます。

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 原爆投下数日後に、東京から広島を訪れ、惨状を目の当たりにした丸木夫妻。広島は位里さんの故郷であり、親族も犠牲になった。終戦後東京に戻り、復興に向けて「平和」を描こうと試みたが、どうしても前向きな明るさを描くことができなかった。3年後、「原爆の図」の制作を決意。当時、キノコ雲を描く画家はいたが、丸木夫妻が描きたかったのは、亡くなった人々の「肉体の痛み」だった。俊さんが人物をデッサンし、位里さんが水墨を流す。お互いの能力を必要とした夫妻にとって、絵はわが子のような存在だった。

 1950年に第1部「幽霊」を発表。広島では遺体をデッサンできる心境ではなかったため、自身や身近な人たちの体をモデルに、熱線で焼けただれた人々の形相を描いた。原爆を知らない人からは「本当にこんな恐ろしいことがあったのか」と疑念があがる一方、被爆者からは「この絵はきれい過ぎる。実際はもっと悲惨だ」という批判も出た。丸木美術館学芸員を10年以上務めている岡村幸宣さん(37)は「真実を伝えたい気持ちと、美しく描きたい思いが葛藤していた」と夫妻の心境をおもんぱかる。


(中略)

 67年、巡回を終えた「原爆の図」のために丸木美術館が開館。長崎原爆資料館に展示されている第15部「長崎」(82年)以外の14作が常設展示されている。また、隣の展示室には位里さんの母・丸木スマさんが描いた色鮮やかな動植物の絵も。「平和な風景は原爆の図とは対照的だが、根底は一緒。光と闇の両面からいのちを考える場所であってほしい」と岡村さん。

 ◇  ◇

 「新しい視点で価値を再発見することで、世代を超えて絵を伝えるのが学芸員の仕事」との思いから、岡村さんは、高校・大学生への講演を精力的にこなす。「丸木夫妻は被爆者と原爆を知らない人をつなげる立場にいた。『原爆の図』は大勢の願いを受けとめる器」。その使命は今も変わっていない。展示室の外には多くの来館者が書いたメッセージが飾られ、美術館に平和への祈りがあふれている。

 学芸員実習を受けていた東京都内の大学生3人。「初めて『原爆の図』を見たのは小学校の時。怖くて忘れられなかった。成長して再び見た時、私たちに続く問題だと意識した」。中央大学の篠天子さん(文学部人文社会学科東洋史学専攻4年)は、丸木美術館は何度訪れても学べると話す。

 自身も絵を描く武蔵野美術大学の安田愛さん(造形学部油絵学科4年)は「第3部『水』に見られる表現の技法には感動した」と、絵の芸術的価値にも注目する。同学科4年の中村友美さんは「絵を描くと自分が変わる。『原爆の図』で夫妻の中で『戦争』が明確になったのでは」と推測する。

 「入り口に原発反対の古いステッカーが張ってあった。私たちは福島第1原発の事故があってから関心を持ったけれど、ここの人々はずっと訴えてきた」。安田さんが気がついたように、丸木夫妻の信念を受け継いだ丸木美術館は、非核・反原発運動を続けている。

 悲劇を芸術によって世界と共有し、後世に残した丸木夫妻。その生き方は今を生きる私たちにも道を示してくれる。平和への強い思いを持ち続けるために、人々の苦しみを分かち合う努力をしなくてはならない。


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学生記者の熱心な取材の様子は、7月29日の学芸員日誌でも紹介しています。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1671.html

若者たちの真摯な思いが伝わってくるような、素晴しい記事になりました。
企画して下さった立教大学のHさんをはじめ、記者の皆さんに心から御礼を申し上げます。
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2011/8/26

東松山市子ども河童会議  イベント

東松山市の呼びかけによる毎年恒例の「子ども河童会議」。
今年は雨が多く、都幾川の増水で直前まで開催が危ぶまれたものの、予定通り無事に行われました。

丸木美術館に集合した市内の20人の子どもたちは、午前中に上流にある鞍掛橋まで歩いて移動。魚をつかまえたり、川について学んだりした後、カヌーに乗って川を下ってきます。
そして、カヌーの上陸ポイントが丸木美術館というわけです。
例年だと、丸木美術館の下には流れの早い瀬があって、そこで必ず“沈”するカヌーが出るのですが、今年は川の水が多いため、流れもそれほど激しくはない様子。それでもスリル満点の川下りに、子どもたちの大きな歓声が風に乗って聞こえてきました。

昼食のあとは、丸木美術館の見学です。
午前中に広島出張から戻った岡村が、《原爆の図》の前で子どもたちに説明を行います。
(写真提供:東松山市環境保全課)

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今日、みんなが楽しく遊んだ川は、いのちのもとだということ。
広島で原爆に傷ついた人たちは、水を求めて川に向かっていったこと。
たくさんの人が、川のなかで折り重なるように死んでいったこと。
丸木夫妻は、都幾川の風景が広島の太田川に似ていると気に入って、美術館を建てたこと。
毎年8月6日には、川にとうろうを流して、原爆で死んだ人たちに祈りを捧げること。

いつもの説明とは少し違って、今日は川というテーマに沿って話をしました。
そして最後に、絵本原画展にちなんだクイズをひとつ。
「美術館で展示している絵本原画のなかに、東松山を舞台にした物語がひとつだけあります。さて、どこにあるでしょう?」
子どもたちは一所懸命に館内をまわって、地元にまつわる物語を探し歩いていました。
正解は……下のページに探しに行ってみてください。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1649.html

館内見学の後は野木庵に移動して、地元で古くから丸木美術館に関わっているS木(F)さんが、子どもたちの前で『ひろしまのピカ』の紙芝居を演じて下さいました。

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川でたっぷり遊び、川を通じて平和やいのちについて考えた一日。
子どもたちが帰る頃、空には急に黒雲が広がって雨が降りはじめました。
間一髪、無事に開催できて本当によかったです。
来年もまた、子どもたちの元気な姿を見ることを楽しみにしています。
お世話になった環境保全課の方々、河童会議ボランティアの皆さま、本当にありがとうございました。
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2011/8/25

【広島出張3日目】大道あや作品集荷/飯室地区周辺調査  調査・旅行・出張

午前10時頃より、広島市内の大道家から大道あや作品36点を搬出。
そのまま運送会社のトラックに同乗して、丸木位里や大道あやの母校の広島市立飯室小学校に向かいました。

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飯室小学校は広島市安佐北区にあり、学校創立100周年の際に位里の筆による「誠心」の石碑が建てられています。

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学校の廊下には、位里の「誠心」の書が展示され、そのほかにも、「飯室三羽烏」と呼ばれたという丸木位里、佐々木邦彦(位里の友人で川端龍子の青龍社などで活躍)、中谷ミユキ(女流画家協会などで活躍、後に丸木家の親戚となる)の絵が飾られていました。

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60歳を過ぎて画家となった大道あやも含めて、山あいの小さな学校から、ほぼ同時期に注目すべき画家が4人も誕生していることはとても興味深いところです。

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今回は、飯室小学校の所蔵作品より、大道あやの絵画《かぐら》をお借りします。
広島県北独特の伝統芸能として知られる神楽。秋の収穫を終え、豊かな実りを授けてくれた神々と先祖の魂を迎えて奉納する農耕儀礼で、島根県石見地方から約150年前に伝わったそうです。その特徴は、単なる儀式舞ではなく、神話や歴史上の人物を神楽化して娯楽性の高い内容に仕上げている点。あやの描いている演目は「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」で、夜通し行われる神楽に大人も子どもも夢中になっている様子が、とてもユーモラスに表現されています。

《かぐら》は、2008年から全国巡回した「生誕100年 大道あや展」にも展示されず、大道あや聞き書き一代記『へくそ花も花盛り』(福音館書店、1985年)にも画像が収録されていない作品。
おそらく学校の外に出たことはないだろうと言われているので、今回の展示はとても貴重な機会となるでしょう。

   *   *   *

その後は、飯室小学校のNさんにご案内いただき、位里の襖絵がある「飯室三ヵ寺」のひとつ、養専寺を訪問しました。

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本堂の襖絵に描かれたのは、位里の筆による《松竹梅》(1975年初秋)。

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M住職のお話では、向かって左側の松竹が、竹林に潜む虎をあらわし、右側の梅は龍をあらわしているとのこと。
松竹梅にして龍虎という二つの主題が表現された襖絵なのです。

また、応接間の襖には雄大な北アルプスが水墨で表現されていました。

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M住職のお話で興味深かったのは、1970年代中頃に、丸木夫妻が飯室に丸木美術館の分館建設を依頼していたという回想でした。
M住職が檀家に諮ったところ、「ぜひ協力したい」という話で一度はまとまり、丸木夫妻も「原爆の図を3〜4点は預けたい」と強い思い入れを見せていたとのこと。しかし、建設には3億円が必要という資金の問題、建設後の維持管理の不安などで結局実現には至らなかったそうです。
それでも、「故郷に原爆の図の美術館を」という位里さんの気持ちは、住職にとって忘れ難い記憶になっているようでした。

   *   *   *

M住職の紹介で次に訪れたのは、丸木家の菩提寺でもあった浄国寺。

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浄国寺の本堂には、位里の筆による勇壮な《龍虎》(1971年春)の襖絵がありました。

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そして、本堂正面の欄間には、位里が20歳くらいの頃に手がけたと伝えられている8枚の「飛天」の絵がきれいな状態で残されていました(写真は、そのうちの4枚)。

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まだ画家として独り立ちする前の時代のものですが、後の位里の絵に見られる水墨の味わいとはまた違った丁寧さを感じる仕事ぶりに、とても興味を惹かれました。
こういう作品が残っているのは、さすがに故郷の菩提寺です。

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また、俊が描いたさまざまな色彩の「飛天」の優美な姿も印象に残りました。

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続いて浄国寺の方に案内して頂き、2003年12月に廃線となったJR可部線の旧安芸飯室駅へ。

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廃線のわびしさに胸を揺さぶられつつ、われわれの目的は駅の線路向こうの地蔵堂。

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丸木家が飯室に住んでいた頃、この地蔵堂に安置されていた石地蔵は、後に丸木美術館に移され、前庭の「原爆観音堂」に納められたと言われています。
今の石地蔵は、二代目?というわけです。浄国寺さんによれば、地元では「丸木位里が自分で彫ったものらしい」と伝わっているようですが、祠を覗いてみると、どうもそうではなさそう……。

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堂内には「地蔵 昭和三十五年吉日 丸木氏 総領」と記されており、それが誤解のもとになったのかも知れません。
よく見ると石地蔵の奥には、手びねりの観音像と羅漢像が安置されていました。

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聖母マリアのようにも見える観音像の裏をみると、「俊」の銘が。羅漢像には銘がありませんが、五百羅漢の好きなあやの作であることは間違いないでしょう。
石地蔵を丸木美術館に移した丸木家の人々が、故郷に申し訳ない気持ちになって皆で奉納したのかも知れません。

『へくそ花も花盛り』のあやの証言によれば、丸木美術館に移された“観音さま”(地蔵か観音かどっちなのでしょう?)は、「お顔は、昔のあのやさしい顔とは似ても似つかんものになっとります。実は、首がもがれてしもうて、あとからつけられたもんなんです」とのこと。

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ちなみに、この写真が現在の丸木美術館「原爆観音堂」の“観音さま”です。
よく見ると、首のすげ替えられた痕がわかります。

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また、「原爆観音堂」には、あやの制作した羅漢像も数多く安置されています。
飯室の地蔵堂の羅漢像を比べてみると、あやの手によるものだということがわかります。

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最後に、Nさんのご案内で浄国寺近くの安佐公民館も訪れ、壁に展示されていたスマの《野の花》と位里の《瀧》も拝見させて頂きました。

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スマの絵は小学館から刊行された画集『花と人と生きものたち』に収録されている作品。

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位里の《瀧》はおそらく1940年頃の実験的な水墨作品のひとつと思われ、点描と呼ぶにはやや大ぶりな筆を重ねて、滝の様子を写実的にとらえています。

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とても充実した飯室地区の調査を終え、帰りは6年生を担当されているというN先生に車で広島駅まで送って頂きました。
途中、戦国時代の毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊の話になり、恵瓊が住持していた不動院(当時は安国寺)まで案内して頂きました。

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入母屋造り、柿葺き屋根の金堂は、恵瓊が山口から移築してきたもので、ちょうど山の影になって原爆による大きな被害も受けず(そのため、被爆直後には、不動院は被爆者の救護所になっていたそうです)、広島市内に現存する唯一の国宝とのこと。
N先生は、この金堂の木材がどの地方から運び出されてきたかを詳しく調査されているそうで、広島と山口、四国の山の特徴など、興味深い解説を聞かせて下さいました。

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重要文化財に指定されている美しい鐘楼の内部には、豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際に恵瓊が朝鮮から持ち帰ったという梵鐘が納められています。
建立は1433年と不動院の建物で最も古く、Nさんの解説によれば、当初は金堂ではなく鐘楼が国宝に指定されながら、戦時中に指定を外され、代わりに金堂が国宝になったとのことです。
朝鮮産の梵鐘のせいなのかどうか、その理由は定かではないそうですが。

思わぬところで広島の歴史の勉強をして、今回の出張はこれで終了。
お世話になった飯室小学校のY校長、Nさんはじめ、あたたかく迎えて下さった皆さまに、心から御礼を申し上げます。
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2011/8/24

【広島出張2日目】大道あや作品集荷準備/中国新聞D記者  調査・旅行・出張

朝から広島市内の大道あやさんのご遺族のお宅にお伺いして、「追悼 大道あや展」に向けての作品調査を行いました。
集荷作業は明日ですが、今日は作品の状態をチェックシートに記入する作業。
すでに箱に入って保管されている作品をひとつひとつ開け、チェックが終わるとまた梱包しなおさなくてはならないので、原爆文学研究会でお世話になっている広島大学のKさんが急きょサポートに駆けつけて下さいました。
今回、大道家からお借りする作品は絵本原画も含めて全部で36点。
慣れない仕事を一日がかりで手伝って下さったKさんには本当に感謝です。
おかげさまで、予定通りに明日集荷することができそうです。

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夕方には、旧知の中国新聞社D記者と待ち合わせ、D記者のお連れ合いやKさんとともに、天満町でちょうど開催されていた天神祭を見て歩くことになりました。

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天満町や隣の福島町は太鼓や朝鮮文化の伝わる地域で、祭りもなかなか勇壮です。

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ひととおり祭りを観た後は、D記者のご案内で、丸木夫妻とも関わりのある有機食堂「海農食酒 のら屋」に行きました。
「のら屋」では新鮮で美味しい野菜や魚料理を味わい、その後は広島駅東側の愛友市場(戦後の闇市から発展した雑然とした商店街)のお好み焼屋「りゅう」に移動。
「りゅう」はD記者とKさんお二人にとって縁の深いお店で、午後11時半頃までお好み焼きを食べながら、さまざまな話題で話がはずみました。
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2011/8/23

【広島出張初日】広島市現代美術館/旧日本銀行・袋町小学校など  調査・旅行・出張

9月6日からはじまる「追悼 大道あや展」の作品集荷のため、今日から広島出張。
あいにくの小雨模様でしたが、午前中は広島市現代美術館に向かいました。

広島市現代美術館では、企画展「第8回ヒロシマ賞受賞記念 オノ・ヨーコ展」を開催中。
半世紀以上にわたって前衛芸術家として創作活動を続け、亡き夫のジョン・レノンとともに平和運動や反戦キャンペーンにも取り組んできたオノ・ヨーコ。
今回の展示は原爆や東日本大震災をテーマにした新作インスタレーションが中心で、とても見応えがありました。

展覧会はクリエイティブ・コモンズ・ライセンスが適用され、一定のルールを守れば作品の写真撮影を行いウェブ等で公開することができるというので、印象に残った作品を紹介します。


《再建 ― また建てればいいんだ、いいんだ》
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作家:オノ・ヨーコ
CC: BY- NC- ND 2.1 日本

ガラスの向こうに、3.11の東日本大震災で崩壊した家の部材や家具が配置されている作品。
周囲を囲んでいるのは白い折鶴です。
写真ではわかりにくいですが、ガラスの両端には、家の持ち主が描いた3.11以前の家の見取り図と、3.11後の崩壊した家の写真が対比されています。


《見えない人たち》
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作家:オノ・ヨーコ
CC: BY- NC- ND 2.1 日本

暗闇の部屋に入ると、部屋じゅうに透明な人型のオブジェ「見えない人たち」が佇んでいます。原爆の閃光によって一瞬で消えてしまった人たちを暗示しているかのようです。
壁面には、被爆直後の広島の焼け跡風景がぼんやりと映し出されています。
そして、次第に暗闇に目が慣れてきたと思った頃に……

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作家:オノ・ヨーコ
CC: BY- NC- ND 2.1 日本

突然の強い閃光が部屋を包みます。
透明な人型オブジェや観客たちの「影」が、瞬間的に壁に焼きつけられます。
そしてまた、もとの暗闇に戻っていくのです。
これはあまりに強烈な作品で、しばらく呆然としてしまいました。


《カバー》
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作家:オノ・ヨーコ
CC: BY- NC- ND 2.1 日本

《見えない人たち》の部屋から、次の部屋に移動すると、遺体を思わせる毛布で「カバー」されたものが床に整然と並べられています。
観客は、その間の通路を通り抜けていくのです。
原爆で亡くなった人びと、そして震災で亡くなった人びと、家族を探して遺体安置所を歩くような気持ちにさせられます。
この展示室にも、床のあちこちに白い折鶴が配置されていました。


生と死の際の世界を身体的な感覚で追体験することで、66年前のヒロシマと現在をつなげるこれらの作品に、あらためてインスタレーションという表現の意味と可能性を考えさせられました。
等身大、パノラマ状の絵画で被爆者の肉体が描かれ、各地の会場に“仮設展示”された「原爆の図」も、60数年前にはインスタレーションのような効果があったのでしょう。

「オノ・ヨーコ展」の後は、コレクション展の「つくる、ゆく、ヒロシマに想う」を鑑賞。

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最初の展示室には、丸木夫妻が広島市の依頼で1973年に共同制作で描いた《原爆―ひろしまの図》が展示されていました。高さ4m、幅8mという大作です。
以下は、企画されたM学芸員による「つくる、ゆく、ヒロシマに想う」解説文からの抜粋。

丸木位里・俊夫妻は被爆直後の広島に入り、そこで目の当たりにした惨状をもとに30年以上もの歳月をかけて15部からなる連作「原爆の図」を描いている。それらは単純な記録ではなく、また反戦・反核のメッセージのみに回収されることもない、芸術的探求の先駆的な例といえる。

《原爆―ひろしまの図》は図録で観るばかりで、作品そのものを観たのは今回が初めてでしたが、思っていた以上に細部まで丁寧に描きこまれていて、心を打たれました。
丸木夫妻は1970年代から、それまでの「原爆の図」よりはるかに大きな“壁画”と呼ぶべき大作を手がけるようになりました。
最初の作品は1972年の《南京大虐殺の図》ですが、その翌年に描かれた《原爆―ひろしまの図》は、大胆に墨や朱を流しこんでいる点が《南京大虐殺の図》とは異なり、後に《水俣の図》や《沖縄戦の図》などに続く表現の先駆けという印象を受けました。
この作品については、近いうちに文献資料なども整理して、まとめてみたいと思います。

コレクション展は、《原爆―ひろしまの図》以外にも、荒木経惟、池田満寿夫、入野忠芳、大岩オスカール、岡本太郎、工藤哲巳、斎藤義重、蔡國強、イサム・ノグチ、キース・ヘリング、ヘンリー・ムーア、横尾忠則らの作品が並び、「ヒロシマ」のイメージの多様さが心に残りました。

また、特別展示では、岡本太郎の《明日の神話》の1号原画なども展示されていました。

   *   *   *

午後は、被爆写真や説明が表示されている「原爆被災説明版」を探して市内を歩きました。

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まずは、御幸橋(中区千田町3丁目地先)。
ここには、松重美人が撮影した有名な被爆直後の写真が展示されています。
(以下、写真の後の太字は原爆被災説明版に記された説明文)

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御幸橋(爆心地から約2,300メートル)
1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分、広島市の中心部上空約580メートルでさく裂した原子爆弾がもたらした巨大な被害によって、広島市の大半は瞬時に壊滅し、多くの被爆者が救護を求めて南へ、北へと逃れていきました。
この写真は、被爆後3時間を過ぎたこの地点を撮影したものです。
爆心地から南南東約2,300メートル離れていた、ここ御幸橋西詰めの警察官派出所前には、建物疎開作業中に被爆した中学生をはじめ、多くの被爆者が群がり、わずかばかりの応急処置を受けていました。
(松重美人氏 撮影)


続いては、広島電鉄本社前(中区東千田町2丁目9番29号)の説明版。

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広島電鉄株式会社(爆心地から約1.9キロメートル)
1945(昭和20)年8月6日、人類史上最初の原爆投下により、一瞬にして木造の本社屋は半壊し、修理工場や車庫では多くの職員が倒壊した建物の下敷きになって押しつぶされました。ラッシュアワーで混雑する乗客を乗せて走っていた電車やバスの中でも、多数の犠牲者が出ました。交通機関も壊滅的な状態でしたが、関係者の懸命な努力により、その3日後には早くも西天満町〜己斐間の電車の運行が再開されました。動き始めた電車の姿は、うちひしがれた市民の気持ちを大いに力づけました。
(半壊状態の広島電鉄本社 1945(昭和20)年 川本俊雄氏撮影)


その後は、袋町周辺の被爆建物を中心に見てまわりました。
まずは、被爆建物として有名な、旧日本銀行広島支店(中区袋町5番21号)。

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この建物は銀行時代の内装を生かしたまま、展示施設として使われています。
壁にガラスの破片が刺さった傷跡の残る部屋もあります。
3階には、各地から広島に送られてきた大量の折鶴も保存展示されています。

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日本銀行広島支店(爆心地から約380メートル)
1945年(昭和20)8月6日午前8時15分 原爆の強烈な爆風により 外形は残ったものの内部は破壊され 42人の犠牲者が出た
市内の金融機関は ほとんど壊滅したため 日銀の内部を仕切り 各銀行が窓口を設け 8月8日から業務を開始した
(南西方向から望む日銀広島支店 1945年11月 川本俊雄氏撮影)


次に訪れたのは、袋町小学校(中区袋町6番36号)です。

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この建物は、袋町小学校平和資料館となっています。
救護所として使用されたこの建物の壁には、被爆者の消息などを知らせる伝言が数多く記され、現在も一部が保存されています。

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袋町国民学校(爆心地から約500メートル)
鉄筋コンクリート3階建の校舎は 原子爆弾により外形だけを残して焼失した 学童疎開をしないで残っていた児童が朝礼直後に被爆した
この学校の犠牲者は およそ300人にのぼった
(窓にむしろをさげて救護所に使われている校舎 1945年10月8日 菊池俊吉氏撮影)


最後に、アーケードで建物の全体像は見えませんが、旧帝国銀行広島支店(現在は広島アンデルセン、中区本通7-1)を訪れました。

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この建物では、数年前に、近現代史研究者のKさんと、中国新聞のK記者とごいっしょにお茶を飲んだことを覚えています。

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帝国銀行広島支店(爆心地から約360メートル)
この建物は,1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。原爆が投下されたときは,合併により,帝国銀行となっていましたが,猛烈な爆風のため,屋根は抜け落ち,爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。戦後修復され,現在はベーカリーとして利用されています。
(爆心地に面した部分が大きく崩れた帝国銀行広島支店 1945年(昭和20年)8月末 井上直通氏撮影)


このところ広島を訪れた際に、「原爆被災説明版」を見つけるたびに撮影しています。
爆心地(島外科)や広島駅、広島赤十字病院、広島県産業奨励館(原爆ドーム)など。
そのうちに、学芸員日誌でも整理して紹介していきたいと思います。
説明版は全部で45か所あるそうなので、いつか全部を撮影したいと目標にしています。
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2011/8/21

KENにてトーク「ヒロシマからフクシマへ」  講演・発表

午後6時から、三軒茶屋のスペースKENにて、「ヒロシマからフクシマへ 丸木夫妻の仕事を見つめなおす」と題するトークを行いました。
このトークは、KENを主宰する粟津ケンさんの連続企画「being exposed……」の一環です。

表現のジャンルやコミュニティの枠を超えた「出会いの場」でありたいというケンさんの思いの通り、この日のお客さんはとても多彩な顔ぶれで、トークをする私の方が皆さんのお話をゆっくりお聞きしたいと思うほどでした。
目黒区美術館のM学芸員、第五福竜丸展示館のY理事、詩人のHさんにKさん、映像作家のTさん、写真家のAさん、などなど……

KENは映像設備がそろっているので、トークの前には1953年公開の記録映画『原爆の図』(今井正・青山通春監督、モノクロ17分)を上映。
M学芸員いわく「丸木美術館にしか現存していない」という貴重な記録映像です。

その後は、会場の皆さんからも発言していただきながら、丸木美術館や《原爆の図》について、スライドを見ながら約2時間お話をしました。
この夏は対談やシンポジウムの仕事が多く、毎回新鮮なお話をするというのは難しかったのですが、ケンさんがなぜ私が丸木美術館で働くようになったか、ということに興味を持って下さったため、KENではいつもと少し違う内容になったのではないかと思います。
また、会場の皆さんからの発言や、トーク終了後の雑談にもさまざまな示唆を受け、個人的にはとても刺激的な時間を過ごすことができました。

ともあれ、今年の夏のトークの仕事はこれで終了。
週明けからは広島に出張して、大道あや展の作品の集荷がはじまります。
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2011/8/20

朗読と即興演奏「『終戦』から5日たって」  イベント

午後2時より、青柳秀侑さん・辻愛美さんの朗読、高瀬伸也さんのピアノ即興演奏による「『終戦』から5日たって:1945/8/20」という企画が、丸木美術館新館ホールで行われました。

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1945年8月15日は、昭和天皇による「大東亜戦争終結ノ詔書」のラジオ放送があった日、いわゆる「終戦の日」として一般に記憶されていますが、もちろん、この日を境に日本のすべてが変わったわけではありません。
今回の朗読企画は、「終戦」から5日後の1945年8月20日の新聞記事や文学者等の日記から、その変化もしくは連続がどのように意識されていたか、あるいはされていなかったかを探る、という興味深い試みでした。

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朗読されたテキストは、『朝日新聞』東京本社版から、「燈管を直ちに中止」、「全焼跡耕地化」、「神風譜」、市川房江の筆による「自主的な行動を」、「米海軍、戦後も保持」、「『大御心のまゝ』に」などの記事、同大阪本社版から、「公告(大阪海軍施設部)」、「全満州は平穏」、「原子爆弾内容」などの記事、『讀賣報知』から吉川英治の連載小説「太閤記」。
そして、永井荷風、高見順、中野重治、渡辺一夫、森正蔵、古川ロッパ、大佛次郎、山田風太郎、徳川夢声らによる1945年8月20日の日記など。

「終戦」から5日後という視点は新鮮で、戦争が終了したとはいえ、精神的にはいまだ戦時の体制を引きずっているなかに、ところどころ解放感・虚脱感がにじみ出るという複雑な時代の空気を感じました。
また、朗読者の背後に丸木夫妻の共同制作《南京大虐殺の図》があるということも、深い意味をもたらしていたように思います。

このところ、実験的な朗読企画を続けている高瀬さん、青柳さんたちの試み。
毎回、丸木美術館の内包する可能性を鋭く突くような内容で、とても刺激を受けています。
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2011/8/18

和泉舞独舞「原爆の図 第4部 虹」  館外展・関連企画

午後6時30分から、町田市の勝楽寺にて、和泉舞独舞「原爆の図シリーズ 第4部 虹」の公演が行われました。

和泉さんは「原爆の図シリーズ」をライフワークにされている舞踏家です。
今回は、2005年8月6日の丸木美術館での公演「第3部 水」以来、6年ぶりの新作発表です。

第1幕 黒い雨
第2幕 日本兵と米兵捕虜
第3幕 虹

舞台は3部構成。それぞれの幕ごとに、場所を移動し、衣装を替え、照明や音響にも工夫を凝らしています。そして何より、困難な主題に向き合い、深い思索と準備を重ねてきた和泉さんの研ぎ澄まされた身体表現に、心を打たれる2時間半でした。

   *   *   *

公演を迎えるにあたって、和泉さんは丸木美術館に何度も足を運び、《虹》の絵に向き合い、丸木夫妻の資料も読み込んで来られました。それだけでなく、放射能を含んだ黒い雨や被爆した米兵捕虜に関する専門的な資料も収集し、構想を広げていったそうです。

その調査の過程で、和泉さんから提示されたひとつの疑問。
「黒い雨のあとで空に虹がかかったという具体的な証言は残っているのか」
丸木夫妻は、虹の絵の説明を次のように記しています。

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全裸のからだに軍靴と剣だけをつけた兵隊。手を折り、足をつぶした若い兵隊。病兵は、破れた皮膚に毛布をかぶって逃げまどいました。
音ひとつない、シーンと水を打ったような瞬間……
気の狂った兵隊が天をさして、「飛行機だ、B29だ」と叫びつづける。どこにも飛行機の影はないのです。
傷ついた馬が、狂った馬たちがあばれまわるのでした。
日本を爆撃にきたアメリカの兵士が捕虜になって広島の兵舎に入れられていました。原爆は敵も味方もなく殺してしまいます。
二人の兵士は手錠をはめられたまま、ドームわきの路上に倒れておりました。
上空高くまで吹きあげられた煙とほこりが、
雲を呼び、やがて大粒の雨となって、晴天のまっただなかに降りそそいだのでありました。
そして暗黒の空に虹が出ました。
七彩の虹がさんさんとかがやいたのでありました。


おそらく丸木夫妻は、黒い雨の降った後に、空にきれいな虹がかかったという証言を聞いて、その話をもとに絵の構想を練ったに違いありません。
しかし、現在数多く残されている被爆者の証言や絵のなかには、虹について触れている資料がなかなか見つからないのです。

和泉さんからは、その後の調査によって、語り部として「黒い雨の後に虹がでたのです」と語っていた方がいるようだ、との報告を受けました。その虹を見た場所が位里の実家のある三滝というので、丸木夫妻の絵も、三滝で聞いた話がもとになったのではないか、という結論になりました。
あるいは、丸木夫妻が死者たちに向けた慰めの思いが、虹の表現に込められていたのかもしれません。

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第3幕で和泉さんが身にまとった色鮮やかな衣装は、薄暗闇の屋外空間にぽっかりと浮かび上がり、ヒロシマの空にたしかに現れたであろう虹を連想させました。
そして、原爆による犠牲者への思いだけではなく、6年ぶりの公演に向けて「叱咤される気分だった」と和泉さん自身が振り返る3月11日の東日本大震災の犠牲者への追悼の思いも同時に感じられ、強く心を打たれました。
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2011/8/18

『京都新聞』に「チェルノブイリ展」記事掲載  掲載雑誌・新聞

2011年8月12日付『京都新聞』の「見聞録」欄に、“故郷で生きる覚悟、生命力”との見出しで、美術評論家の福住廉さんが、丸木美術館の「チェルノブイリから見えるもの」展(6月25日に終了)を紹介して下さいました。
以下は、冒頭部分の抜粋です。

 現代アートは同時代の社会状況や私たちの暮らしに対応した美術表現である。現在もっとも注目すべきテーマは放射能の脅威。私たちの生命や社会の根幹に関わるだけに、あらゆる人びとが放射能汚染について考えをめぐらしている。
 埼玉県の「原爆の図丸木美術館」で催された「チェルノブイリから見えるもの」展は、まさしく時宜を得た好企画。25年前のチェルノブイリ原発事故で被害を受けた村の様子を、貝原浩のスケッチ画や本橋成一と広河隆一の写真によって振り返り、あらためて放射能について考えさせるものだ。丸木位里・俊夫妻による「原爆の図」を常設展示する、この美術館ならではの企画展である。……


記事はその後、貝原さんの絵巻「風しもの村」について詳しく触れていきます。
あらためてネットで検索してみると、すでに「artscape」のレヴュー欄に、福住さんがレポートを書いて下さっていました。
こちらのレポートも、『京都新聞』の記事の内容と重なる、たいへん興味深い文章です。
http://artscape.jp/report/review/10007030_1735.html

福住さんが貝原さんの絵巻から読みとっていたのは、「住むことはおろか、生命の希望を託す文化までも根こそぎ奪う放射能汚染の現実」であり、村人の「たとえ放射能に汚染されたとしても、自分の人生を自分の故郷で生きようとする悲しい覚悟」でした。

記事の結びは、次のような鋭い言葉によって、企画の意図をまとめて下さっています。

 チェルノブイリから見えるもの。それは大きな危機に直面したからこそ、その生き方を根本から問い直している、私たち自身の姿なのだ。
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2011/8/17

NHKラジオ深夜便「丸木俊」再放送のお知らせ  TV・ラジオ放送

2011年8月18日(木)深夜(日付け変わって19日午前1時頃)にNHKラジオ第1放送のラジオ深夜便にて、今年1月21日に放送された「わが心の人 丸木俊」(ゲストは画家の平松利昭さん)がアンコール放送されます。

丸木夫妻と親交の深かった平松さんの貴重な回想です。
1月に聴きそびれてしまったという方、あるいは、とても良かったのでもう一度お聴きしたいという方も、ぜひラジオ深夜便をお聴きください。
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