2011/6/27
東京学芸大学にて講義 講演・発表
美術館は休館日でしたが、午前10時半から東京・小金井市の東京学芸大学で「『原爆の図』と人権・平和への視座」と題する講義を行いました。
授業に呼んで下さったのは、法学を担当されているS先生。
S先生とは、昨年、日本平和学会で発表をした際に初めてお会いしました。
以来、学芸大学で講義を……と誘われていたのですが、ようやく実現することになったのです。
先週の木曜日に講義を行った町田市民大学のお誘いを受けたのも、実は日本平和学会での発表がきっかけ。
どちらも誘って下さったのは私と同世代の30代くらいの方だったのですが、戦争や平和の問題を身近にとらえる上の世代から意識の希薄な下の世代に語り継いでいく複雑な立場として、丸木美術館の事例が興味深く受けとめられたのかも知れません。
200人の大教室での講義は、法学という(あまりなじみのない)授業で絵画の話をするというやりにくさはあったものの、講義のあとに個人的に質問に来てくれる熱心な学生がいたり、外部から被爆体験の継承に関心を持つフリージャーナリストの方が聴きに来て下さったりということもあって、なかなか楽しく過ごすことができました。

写真は、国分寺駅から学芸大学へ向かう途中の道に咲いていた紫陽花。
埼玉西部の里山とは似ているようでやはり雰囲気が違う、多摩地区の自然の多い住宅街を歩いていると、なじみ深い故郷に戻ってきたようで心がなごみます。
先週から慌ただしい日々を送ってきましたが、この日の講義が終わったことで、ようやく少しペースダウンできそうです。
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授業に呼んで下さったのは、法学を担当されているS先生。
S先生とは、昨年、日本平和学会で発表をした際に初めてお会いしました。
以来、学芸大学で講義を……と誘われていたのですが、ようやく実現することになったのです。
先週の木曜日に講義を行った町田市民大学のお誘いを受けたのも、実は日本平和学会での発表がきっかけ。
どちらも誘って下さったのは私と同世代の30代くらいの方だったのですが、戦争や平和の問題を身近にとらえる上の世代から意識の希薄な下の世代に語り継いでいく複雑な立場として、丸木美術館の事例が興味深く受けとめられたのかも知れません。
200人の大教室での講義は、法学という(あまりなじみのない)授業で絵画の話をするというやりにくさはあったものの、講義のあとに個人的に質問に来てくれる熱心な学生がいたり、外部から被爆体験の継承に関心を持つフリージャーナリストの方が聴きに来て下さったりということもあって、なかなか楽しく過ごすことができました。

写真は、国分寺駅から学芸大学へ向かう途中の道に咲いていた紫陽花。
埼玉西部の里山とは似ているようでやはり雰囲気が違う、多摩地区の自然の多い住宅街を歩いていると、なじみ深い故郷に戻ってきたようで心がなごみます。
先週から慌ただしい日々を送ってきましたが、この日の講義が終わったことで、ようやく少しペースダウンできそうです。

2011/6/26
企画展展示替え ボランティア
会期を2週間延長した「チェルノブイリから見えるもの」展と「針生一郎展」も昨日ついに終了。
2ヶ月で約4,000人という、とても多くの方が足を運んで下さいました。
7月2日からは「丸木位里・丸木俊絵本原画展」と「ハロー!ディア・エネミー80作品展」がはじまります。
絵本原画展では、昨年丸木美術館が購入した丸木夫妻の絵本原画13作品のほか、國學院大學栃木学園が所蔵する『日本の伝説』(1971年ブラチスラヴァ絵本原画展ゴールデンアップル賞受賞作)や『グリム童話』などもお借りして紹介いたします。
火曜日に栃木から作品を運んできて、今日はいよいよ展示替えの作業を行いました。
ボランティアで展示替えに参加して下さったのは、地元のDさんとJさん、そして志木市のM園さん、練馬のT瀬さん、さいたま市のS崎さん、元実習生のT中(S)さん、そして今夏に実習を行う予定の武蔵野美大のN村さんとY田さん。
そして、貝原浩さんのチェルノブイリ・スケッチを梱包するために、貝原さんのお連れ合いのSさんと、貝原さんの妹さんも来館して下さいました。
スタッフの少ない美術館にとって、大勢で作業に取り組むことができるのは本当に助かります。
暑くもなく(晴れの日は館内はとても暑い)、収蔵庫から美術館に運ぶときは小雨も降らず(途中、屋外を通るので雨は困る)、絶好のコンディション。
皆さんががんばって下さったおかげで、夕方までに展示はほとんど終了。
あとは細かい仕上げと資料作りをすませて、7月2日の初日を迎えます。
絵本原画は、ふだんの展示と比べると作品が小さいので、広い展示室ではちょっと迫力が出ないかな……と思いながらも、二段掛けを多くするなど工夫をしてみました。

《原爆の図》とはまた違った、丸木夫妻の豊かな想像力の広がりを、ぜひ多くの方に楽しんで頂ければと思います。
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2ヶ月で約4,000人という、とても多くの方が足を運んで下さいました。
7月2日からは「丸木位里・丸木俊絵本原画展」と「ハロー!ディア・エネミー80作品展」がはじまります。
絵本原画展では、昨年丸木美術館が購入した丸木夫妻の絵本原画13作品のほか、國學院大學栃木学園が所蔵する『日本の伝説』(1971年ブラチスラヴァ絵本原画展ゴールデンアップル賞受賞作)や『グリム童話』などもお借りして紹介いたします。
火曜日に栃木から作品を運んできて、今日はいよいよ展示替えの作業を行いました。
ボランティアで展示替えに参加して下さったのは、地元のDさんとJさん、そして志木市のM園さん、練馬のT瀬さん、さいたま市のS崎さん、元実習生のT中(S)さん、そして今夏に実習を行う予定の武蔵野美大のN村さんとY田さん。
そして、貝原浩さんのチェルノブイリ・スケッチを梱包するために、貝原さんのお連れ合いのSさんと、貝原さんの妹さんも来館して下さいました。
スタッフの少ない美術館にとって、大勢で作業に取り組むことができるのは本当に助かります。
暑くもなく(晴れの日は館内はとても暑い)、収蔵庫から美術館に運ぶときは小雨も降らず(途中、屋外を通るので雨は困る)、絶好のコンディション。
皆さんががんばって下さったおかげで、夕方までに展示はほとんど終了。
あとは細かい仕上げと資料作りをすませて、7月2日の初日を迎えます。
絵本原画は、ふだんの展示と比べると作品が小さいので、広い展示室ではちょっと迫力が出ないかな……と思いながらも、二段掛けを多くするなど工夫をしてみました。

《原爆の図》とはまた違った、丸木夫妻の豊かな想像力の広がりを、ぜひ多くの方に楽しんで頂ければと思います。

2011/6/24
美術館ニュース106号入稿 美術館ニュース
今日は午前中に『丸木美術館ニュース』第106号を入稿しました。
発送作業は7月2日(土)となります。ボランティア募集中です。
ニュースの表紙は、先日丸木美術館に寄贈されたばかりの俊さんの油彩画《母と子》です。
本当は、ニュース掲載とともに作品を展示したいところですが、かなり傷んでいるので現在修復作業の準備中。来年2月に開催する「生誕100年丸木俊展」で紹介したいと思っています。
また、表紙で紹介した俊さんの文章は、油彩画の所蔵者であった中野達彦さんの眞善美社から出版された『絵ハ誰デモ描ケル』から抜粋したものです。
俊さんらしい、とてもやさしい文章です。
かくかくでなければならぬというものさしを作つていると、それにはづれたらすぐ捨てねばなりません。そのものさしでははかれない、すばらしいものを捨てるかもしれません。
わたしたちのものさしは、伸縮自在、長さも巾も、高さも廣さも、深さも量も、色も飾りも雰囲気も、悲しみも、うれいもよろこびも、ありとあらゆるものを量り得るものさしでなければなりません。
生れ出た自分の生命を、その生命を大切にせずに何を大切にするのでしよう。自分の特長を、持ち味を大切にのばさないで何をのばすのでしよう。自分というものを大切に。
(赤松俊子『絵ハ誰デモ描ケル』より、眞善美社、1949年)
===
丸木美術館ニュース第106号(発行部数3,000部)

〈主な記事〉
8月6日ひろしま忌のご案内 …… p.2
ひろしま忌出演者紹介 栗田明子さん、山本さとしさん …… p.3
5月5日丸木美術館開館記念日報告 「命をつなぐ言葉」 (大木 晴子) …… p.4
〈再録〉原発を止めないと原発に殺される (丸木 俊) …… p.5
『風しもの村』からつないでいくもの (世良田 律子) …… p.6
過酷な今を生きる・・・福島のこどもたち(吉野 裕之) …… p.7
連載 丸木位里・丸木俊の時代〈第7回〉 「丸木月吼」奔る/徴兵検査/田中頼璋の画塾 (岡村 幸宣) …… p.8,9
美術館の日常から (中野 京子) …… p.10
丸木美術館情報ページ……p.11
リレー・エッセイ 第38回 (仲内 節子) …… p.12
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発送作業は7月2日(土)となります。ボランティア募集中です。
ニュースの表紙は、先日丸木美術館に寄贈されたばかりの俊さんの油彩画《母と子》です。
本当は、ニュース掲載とともに作品を展示したいところですが、かなり傷んでいるので現在修復作業の準備中。来年2月に開催する「生誕100年丸木俊展」で紹介したいと思っています。
また、表紙で紹介した俊さんの文章は、油彩画の所蔵者であった中野達彦さんの眞善美社から出版された『絵ハ誰デモ描ケル』から抜粋したものです。
俊さんらしい、とてもやさしい文章です。
かくかくでなければならぬというものさしを作つていると、それにはづれたらすぐ捨てねばなりません。そのものさしでははかれない、すばらしいものを捨てるかもしれません。
わたしたちのものさしは、伸縮自在、長さも巾も、高さも廣さも、深さも量も、色も飾りも雰囲気も、悲しみも、うれいもよろこびも、ありとあらゆるものを量り得るものさしでなければなりません。
生れ出た自分の生命を、その生命を大切にせずに何を大切にするのでしよう。自分の特長を、持ち味を大切にのばさないで何をのばすのでしよう。自分というものを大切に。
(赤松俊子『絵ハ誰デモ描ケル』より、眞善美社、1949年)
===
丸木美術館ニュース第106号(発行部数3,000部)

〈主な記事〉
8月6日ひろしま忌のご案内 …… p.2
ひろしま忌出演者紹介 栗田明子さん、山本さとしさん …… p.3
5月5日丸木美術館開館記念日報告 「命をつなぐ言葉」 (大木 晴子) …… p.4
〈再録〉原発を止めないと原発に殺される (丸木 俊) …… p.5
『風しもの村』からつないでいくもの (世良田 律子) …… p.6
過酷な今を生きる・・・福島のこどもたち(吉野 裕之) …… p.7
連載 丸木位里・丸木俊の時代〈第7回〉 「丸木月吼」奔る/徴兵検査/田中頼璋の画塾 (岡村 幸宣) …… p.8,9
美術館の日常から (中野 京子) …… p.10
丸木美術館情報ページ……p.11
リレー・エッセイ 第38回 (仲内 節子) …… p.12

2011/6/23
まちだ市民大学「世界の中の日本の役割」講演 講演・発表
午後6時半より、町田市の市民大学「今、改めて核を学ぶ」の第9回講座として「世界の中の日本の役割〜丸木美術館の活動を通して〜」というテーマで講演を行いました。

講座の受講生は、主にシニア世代の方々約60人。
今までの講座ではどうしても福島が話題の中心となり、広島の原爆についての話がなかったというので、前半では丸木夫妻がなぜ《原爆の図》を描いたのか、そして近年調査に取り組んでいる占領下の巡回展について話をしました。
2時間という長めの講座だったため、途中20分ほど、1953年に公開された記録映画『原爆の図』(今井正・青山通春監督)も上映しました。
講座のテーマは「世界の中の日本の役割」という、私にとっては荷が重いと思われる設定でしたが、事前にスタッフの方が、丸木美術館の日常の活動を出発点とすることで、たんなる講義ではなく、市民の方たちが核問題を自分たちの生活に着地させることができるのではないかという狙いを説明して下さったので、少し気が楽になりました。
そうしたこともあって、後半部分では、「記憶の集積を伝える」「現代社会とのつながり」というふたつの視点から、美術館活動を軸にした話をしました。
「記憶の集積を伝える」では、犠牲を明らかにするためには正確に整理された「記録」も必要だけれども、その「記録」だけではこぼれ落ちてしまうような、ひとりひとりの人間の「記憶」を語り伝え、つなぎとめていくことが重要ではないか、という考えを話しました。
過去を思い出す行為は、死んでいった人たちの“生”に再び命を吹き込むことになるということ。
核兵器が戦争を抑止するのでなく、悲しみの「記憶」こそが私たちの未来を変え、戦争を抑止しているのではないかということ。
そうした「記憶」の物語が、新たな別の悲しみに直面してしまった人たちの心の支えになっていくであろうということ。
また、時代を越えて語り継ぐためには、常に“新たな視点”から問題を再発見していく姿勢が重要ではないかという話もしました。
人に大切なことを伝えるためには、「こうすれば伝わる」という成功体験を持つことも必要ですが、「これでいい」と経験によりかかってしまうと、たちまち「伝える力」は新鮮味を失ってしまいます。
新しい世代に伝えていくためには、彼らとともに新鮮な気持ちから出発して、いっしょに考えていくという姿勢を忘れてはいけない。これは、ふだん丸木美術館で学生たちに話をすることが多い自分に対しての自戒を込めて、話しておくことにしました。
最後に、そうしたことを考え続けながら、丸木美術館はどんな活動をしているのかを具体的に紹介するため、「現代社会とのつながり」という視点で話をしました。
「OKINAWA展」、「第五福竜丸展」、「チェルノブイリ展」など近年の企画展を簡単に紹介。
作品に触れることによって心が動き、世界が今までと違って見えるような――過去と現在をつなげながら想像力を広げていく芸術表現を大切にしていきたいという内容です。
もちろん、それは文学でも、音楽でも、詩でも、写真でも、映画でも、漫画でも何でも良いと思うのですが、世界(今の世界だけではなく、これから先の未来の世界も含めて)に対する私たちの役割があるとすれば、こうした「記憶」を伝える表現を大切に育み、伝え残していくことではないか、と話して、全体のまとめとしました。
* * *
一日の疲れが出る時間帯、しかも2時間におよぶ長丁場にもかかわらず、しっかり最後まで聞いて下さった受講生の皆さんに感謝です。
そして、講座に招いて下さった市民大学スタッフの皆さま、本当にありがとうございました。
講座のお誘いがあったのは福島原発事故以前でしたが、こうした厳しい社会状況のなかでお話をする機会を頂き、また、別の専門家の方の講座にも参加する機会があったことは、私にとっても非常に勉強になりました。
「丸木夫妻の仕事の本当の価値が、今になってようやくわかってきた」という受講者のひとりの感想が忘れられません。
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講座の受講生は、主にシニア世代の方々約60人。
今までの講座ではどうしても福島が話題の中心となり、広島の原爆についての話がなかったというので、前半では丸木夫妻がなぜ《原爆の図》を描いたのか、そして近年調査に取り組んでいる占領下の巡回展について話をしました。
2時間という長めの講座だったため、途中20分ほど、1953年に公開された記録映画『原爆の図』(今井正・青山通春監督)も上映しました。
講座のテーマは「世界の中の日本の役割」という、私にとっては荷が重いと思われる設定でしたが、事前にスタッフの方が、丸木美術館の日常の活動を出発点とすることで、たんなる講義ではなく、市民の方たちが核問題を自分たちの生活に着地させることができるのではないかという狙いを説明して下さったので、少し気が楽になりました。
そうしたこともあって、後半部分では、「記憶の集積を伝える」「現代社会とのつながり」というふたつの視点から、美術館活動を軸にした話をしました。
「記憶の集積を伝える」では、犠牲を明らかにするためには正確に整理された「記録」も必要だけれども、その「記録」だけではこぼれ落ちてしまうような、ひとりひとりの人間の「記憶」を語り伝え、つなぎとめていくことが重要ではないか、という考えを話しました。
過去を思い出す行為は、死んでいった人たちの“生”に再び命を吹き込むことになるということ。
核兵器が戦争を抑止するのでなく、悲しみの「記憶」こそが私たちの未来を変え、戦争を抑止しているのではないかということ。
そうした「記憶」の物語が、新たな別の悲しみに直面してしまった人たちの心の支えになっていくであろうということ。
また、時代を越えて語り継ぐためには、常に“新たな視点”から問題を再発見していく姿勢が重要ではないかという話もしました。
人に大切なことを伝えるためには、「こうすれば伝わる」という成功体験を持つことも必要ですが、「これでいい」と経験によりかかってしまうと、たちまち「伝える力」は新鮮味を失ってしまいます。
新しい世代に伝えていくためには、彼らとともに新鮮な気持ちから出発して、いっしょに考えていくという姿勢を忘れてはいけない。これは、ふだん丸木美術館で学生たちに話をすることが多い自分に対しての自戒を込めて、話しておくことにしました。
最後に、そうしたことを考え続けながら、丸木美術館はどんな活動をしているのかを具体的に紹介するため、「現代社会とのつながり」という視点で話をしました。
「OKINAWA展」、「第五福竜丸展」、「チェルノブイリ展」など近年の企画展を簡単に紹介。
作品に触れることによって心が動き、世界が今までと違って見えるような――過去と現在をつなげながら想像力を広げていく芸術表現を大切にしていきたいという内容です。
もちろん、それは文学でも、音楽でも、詩でも、写真でも、映画でも、漫画でも何でも良いと思うのですが、世界(今の世界だけではなく、これから先の未来の世界も含めて)に対する私たちの役割があるとすれば、こうした「記憶」を伝える表現を大切に育み、伝え残していくことではないか、と話して、全体のまとめとしました。
* * *
一日の疲れが出る時間帯、しかも2時間におよぶ長丁場にもかかわらず、しっかり最後まで聞いて下さった受講生の皆さんに感謝です。
そして、講座に招いて下さった市民大学スタッフの皆さま、本当にありがとうございました。
講座のお誘いがあったのは福島原発事故以前でしたが、こうした厳しい社会状況のなかでお話をする機会を頂き、また、別の専門家の方の講座にも参加する機会があったことは、私にとっても非常に勉強になりました。
「丸木夫妻の仕事の本当の価値が、今になってようやくわかってきた」という受講者のひとりの感想が忘れられません。

2011/6/22
平凡社コロナ・ブックス『作家の猫2』 執筆原稿
6月25日刊行予定の平凡社コロナ・ブックス『作家の猫2』(価格1,680円)に、丸木スマが取り上げられます。

猫好きの作家と作家に愛された猫の物語・第2弾として企画されたこの本には、赤塚不二夫、立松和平、池部良、田中小実昌、萩原葉子、城夏子、宮迫千鶴、武満徹、久世光彦、川本恵子、鴨居羊子、加藤楸邨、中村汀女、佐野洋子なども紹介されています。
丸木スマの紹介部分は文章を岡村が担当し、代表作である《母猫》のほか、北九州市の火野葦平資料館に所蔵されている黒猫の絵《クーちゃん》も掲載しています。
丸木スマと火野葦平については、昨年福岡へ出張した際に調査しているので、そのときの日誌をご覧ください。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1445.html
また、スマさんが日本酒を飲むかたわらに歩み寄り、缶詰をのぞきこむクーちゃんの姿をとらえた“秘蔵”写真も公開!

スマさん好き、猫好きの方にはお勧めの一冊です。
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猫好きの作家と作家に愛された猫の物語・第2弾として企画されたこの本には、赤塚不二夫、立松和平、池部良、田中小実昌、萩原葉子、城夏子、宮迫千鶴、武満徹、久世光彦、川本恵子、鴨居羊子、加藤楸邨、中村汀女、佐野洋子なども紹介されています。
丸木スマの紹介部分は文章を岡村が担当し、代表作である《母猫》のほか、北九州市の火野葦平資料館に所蔵されている黒猫の絵《クーちゃん》も掲載しています。
丸木スマと火野葦平については、昨年福岡へ出張した際に調査しているので、そのときの日誌をご覧ください。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1445.html
また、スマさんが日本酒を飲むかたわらに歩み寄り、缶詰をのぞきこむクーちゃんの姿をとらえた“秘蔵”写真も公開!

スマさん好き、猫好きの方にはお勧めの一冊です。

2011/6/19
川越スカラ座『100,000年後の安全』上映&トークショーのお知らせ 川越スカラ座
7月2日(土)から7月15日(土)まで川越スカラ座(毎週火曜日定休)で、フィンランドの原発問題を取り上げたドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』を上映します。
==========

フィンランドのオルキルオトに世界で初めて建設されることになった、高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場にカメラを向けたドキュメンタリー。ミカエル・マドセン監督自らすでにプロジェクトが動き出したオルキルオトに赴き、関係者たちの取材を敢行。本作は10万年間保持される予定の、地下要塞のような施設のあり方を静かに問い掛ける。実際この壮大な計画に着手することを決めた専門家たちが語る、未来へのメッセージにいろいろと考えさせられる。(79分・予告なし)
〈上映時間〉
(1)10:30〜11:49
(2)12:30〜13:49
(3)14:30〜15:49
(4)16:30〜17:49
==========
個人的に数年前から川越スカラ座のボランティアを続けていたこともあって、今回の上映も広報やトークショー開催のお手伝いをさせて頂きました。
トークショーは7月10日(日)に、哲学者・立教大学大学院教授の内山節さんをお迎えして開催します。
『100,000年後の安全』上映記念イベント 内山節氏トークショー
日時:7/10(日)14:30の回終了後、16:00〜(1時間前後の予定)
ゲスト:内山節氏(哲学者・立教大学大学院教授)
参加対象:7/2から当日14:30の回までに当館で本作をご覧のお客様
※受付でお渡しする映画の半券を、当日スタッフにご提示ください。
料金(映画鑑賞料金込み):一般1,500円/シニア・学生1,000円/各種割引あり
※ポイントカード、無料招待券使用OK、当日券のみ
※イベントは予告なく変更する場合がございます。ご了承ください。
※ご予約は受け付けておりません。
※イベント当日の16:00の回は休映いたします。
内山節さんは、大学などの高等教育機関を経ることなく、群馬県の里山と東京の往復生活を続けながら思想を深め、大学院教授として哲学を教えるユニークな学者として知られています。
私が内山さんのことを知ったのは、東松山市でともにホタルの里づくりに関わった環境課(当時)のKさんに著書『「里」という思想』(新潮社、2005年)を勧められたことがきっかけでした。
その後、今年の2月に九段会館で行われた映画『祝の島』上映会の対談イベントで内山さんのお話を聴き、その内容が非常に深く興味深いものだったので、機会があればあらためてじっくりと聴いてみたいと思っていたのです。
今回、スカラ座スタッフのIさんにトークショーの相談を受けたとき、『100,000年後の安全』という映画の内容に、内山さんの語る持続可能な社会を目指す哲学がつながっていくのではないかと思い、迷わず推薦しました。
トークショーが実現したのは、内山さんとスカラ座の橋渡しをして下さったKさんのおかげです。
当日は、私も司会としてトークショーに参加する予定になっています。
映画もトークショーも、たいへん興味深く、これからの社会を考えていくためにとても重要な意味を持つ内容です。
ぜひ、多くの方にご来場いただきたいと思っています。
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フィンランドのオルキルオトに世界で初めて建設されることになった、高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場にカメラを向けたドキュメンタリー。ミカエル・マドセン監督自らすでにプロジェクトが動き出したオルキルオトに赴き、関係者たちの取材を敢行。本作は10万年間保持される予定の、地下要塞のような施設のあり方を静かに問い掛ける。実際この壮大な計画に着手することを決めた専門家たちが語る、未来へのメッセージにいろいろと考えさせられる。(79分・予告なし)
〈上映時間〉
(1)10:30〜11:49
(2)12:30〜13:49
(3)14:30〜15:49
(4)16:30〜17:49
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個人的に数年前から川越スカラ座のボランティアを続けていたこともあって、今回の上映も広報やトークショー開催のお手伝いをさせて頂きました。
トークショーは7月10日(日)に、哲学者・立教大学大学院教授の内山節さんをお迎えして開催します。
『100,000年後の安全』上映記念イベント 内山節氏トークショー
日時:7/10(日)14:30の回終了後、16:00〜(1時間前後の予定)
ゲスト:内山節氏(哲学者・立教大学大学院教授)
参加対象:7/2から当日14:30の回までに当館で本作をご覧のお客様
※受付でお渡しする映画の半券を、当日スタッフにご提示ください。
料金(映画鑑賞料金込み):一般1,500円/シニア・学生1,000円/各種割引あり
※ポイントカード、無料招待券使用OK、当日券のみ
※イベントは予告なく変更する場合がございます。ご了承ください。
※ご予約は受け付けておりません。
※イベント当日の16:00の回は休映いたします。
内山節さんは、大学などの高等教育機関を経ることなく、群馬県の里山と東京の往復生活を続けながら思想を深め、大学院教授として哲学を教えるユニークな学者として知られています。
私が内山さんのことを知ったのは、東松山市でともにホタルの里づくりに関わった環境課(当時)のKさんに著書『「里」という思想』(新潮社、2005年)を勧められたことがきっかけでした。
その後、今年の2月に九段会館で行われた映画『祝の島』上映会の対談イベントで内山さんのお話を聴き、その内容が非常に深く興味深いものだったので、機会があればあらためてじっくりと聴いてみたいと思っていたのです。
今回、スカラ座スタッフのIさんにトークショーの相談を受けたとき、『100,000年後の安全』という映画の内容に、内山さんの語る持続可能な社会を目指す哲学がつながっていくのではないかと思い、迷わず推薦しました。
トークショーが実現したのは、内山さんとスカラ座の橋渡しをして下さったKさんのおかげです。
当日は、私も司会としてトークショーに参加する予定になっています。
映画もトークショーも、たいへん興味深く、これからの社会を考えていくためにとても重要な意味を持つ内容です。
ぜひ、多くの方にご来場いただきたいと思っています。

2011/6/18
丸木位里・丸木俊絵本原画展(予告) 企画展
7月2日(土)から9月3日(土)まで、企画展「丸木位里・丸木俊 絵本原画展」を開催します。

《原爆の図》などの共同制作で知られる丸木位里・丸木俊夫妻は、絵本の分野でも数多くのすぐれた作品を残し、高い評価を受けています。
とりわけ、俊は色鮮やかで繊細な表現によって、童話や民話、創作絵本、歴史絵本など幅広い分野で200作品以上の絵本や挿絵の仕事を残し、20世紀の日本を代表する絵本画家として知られています。
位里は手がけた絵本の数は少ないものの、水墨の流動性を生かした斬新で力強い作品を残しました。
今回の企画展では、昨年、新たに原爆の図丸木美術館の収蔵品として加わった《赤神と黒神》、《12のつきのおくりもの》、《おしらさま》など13作品をはじめ、44作品156点(会期中展示替えあり)を紹介いたします。
生涯をかけて戦争や公害などの社会的主題と向き合い続けた丸木夫妻は、何よりも、地に足をつけてたくましく生きる人びとの暮らしに共感し、そこから湧き出る深い喜びや悲しみの込められた物語を愛していました。二人が描き出した豊穣な世界を、今こそ多くの方に“再発見”して頂きたいと思っています。
関連企画として、8月6日のひろしま忌に、日本著作権輸出センター相談役の栗田明子さんによる講演「『ひろしまのピカ』の翻訳出版に携わって」(午後3時半より)を開催します。
7月24日(土)午後1時半からは絵本づくりワークショップ「○△□で描くワタシの絵本」(5歳以上、参加費200円、定員20名程度、講師:奈良幸琥さん)を開催。
8月13日(土)と28日(日)には、いずれも午後2時よりギャラリー・トークを行います(参加自由、当日の入館券が必要です)。13日のゲストは野坂悦子さん(元日本国際児童図書評議会理事)と松井エイコさん(壁画家・紙芝居作家)、28日のゲストは鈴木美恵子さん(元フレーベル館編集者・丸木俊担当)です。
* * *
また、同時開催として、平和と寛容の国際絵本展「ハロー・ディア・エネミー!80作品展」もご覧頂きます。
平和や自由、寛容といった反戦のテーマとつながる絵本を世界の国々から選んだ絵本展で、1998年にインドのニューデリーで開催されたIBBY(国際児童図書評議会)世界大会の際に、ミュンヘン国際青少年図書館によって企画されました。
その後、世界各国を巡回し、1999年から2002年には日本国内80カ所で展示されました。2009年4月からは、新たに28作品をコレクションに加えて80冊の絵本を選定し、巡回展を行っています。日本を代表する作品として、丸木俊の『ひろしまのピカ』もコレクションに選ばれています。「丸木位里・丸木俊 絵本原画展」とともに、絵本がもたらす大切なメッセージを多くの人に受けとめて頂きたいと願っています。
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《原爆の図》などの共同制作で知られる丸木位里・丸木俊夫妻は、絵本の分野でも数多くのすぐれた作品を残し、高い評価を受けています。
とりわけ、俊は色鮮やかで繊細な表現によって、童話や民話、創作絵本、歴史絵本など幅広い分野で200作品以上の絵本や挿絵の仕事を残し、20世紀の日本を代表する絵本画家として知られています。
位里は手がけた絵本の数は少ないものの、水墨の流動性を生かした斬新で力強い作品を残しました。
今回の企画展では、昨年、新たに原爆の図丸木美術館の収蔵品として加わった《赤神と黒神》、《12のつきのおくりもの》、《おしらさま》など13作品をはじめ、44作品156点(会期中展示替えあり)を紹介いたします。
生涯をかけて戦争や公害などの社会的主題と向き合い続けた丸木夫妻は、何よりも、地に足をつけてたくましく生きる人びとの暮らしに共感し、そこから湧き出る深い喜びや悲しみの込められた物語を愛していました。二人が描き出した豊穣な世界を、今こそ多くの方に“再発見”して頂きたいと思っています。
関連企画として、8月6日のひろしま忌に、日本著作権輸出センター相談役の栗田明子さんによる講演「『ひろしまのピカ』の翻訳出版に携わって」(午後3時半より)を開催します。
7月24日(土)午後1時半からは絵本づくりワークショップ「○△□で描くワタシの絵本」(5歳以上、参加費200円、定員20名程度、講師:奈良幸琥さん)を開催。
8月13日(土)と28日(日)には、いずれも午後2時よりギャラリー・トークを行います(参加自由、当日の入館券が必要です)。13日のゲストは野坂悦子さん(元日本国際児童図書評議会理事)と松井エイコさん(壁画家・紙芝居作家)、28日のゲストは鈴木美恵子さん(元フレーベル館編集者・丸木俊担当)です。
* * *
また、同時開催として、平和と寛容の国際絵本展「ハロー・ディア・エネミー!80作品展」もご覧頂きます。
平和や自由、寛容といった反戦のテーマとつながる絵本を世界の国々から選んだ絵本展で、1998年にインドのニューデリーで開催されたIBBY(国際児童図書評議会)世界大会の際に、ミュンヘン国際青少年図書館によって企画されました。
その後、世界各国を巡回し、1999年から2002年には日本国内80カ所で展示されました。2009年4月からは、新たに28作品をコレクションに加えて80冊の絵本を選定し、巡回展を行っています。日本を代表する作品として、丸木俊の『ひろしまのピカ』もコレクションに選ばれています。「丸木位里・丸木俊 絵本原画展」とともに、絵本がもたらす大切なメッセージを多くの人に受けとめて頂きたいと願っています。

2011/6/17
来客の多い日々 来客・取材
昨日は午後から東松山CATVのスタッフと打ち合わせ。
その後、理事のMさんや歌人のK山さん、市役所のK島さん、「サダコ」虹基金のYさんと来客が相次ぎました。
そして今日は午前中に神宮寺の高橋卓志さんが連絡なしの「サプライズ」来館!
毎年夏に企画して下さっている《原爆の図》展示の打ち合わせでした。
今年は松本市で国際軍縮会議が開催されるということで、例年よりも力の入った展示を考えていらっしゃるようです。
さらに昼前にはNHKさいたま局のIキャスター、午後からは目黒区美術館のT館長が来館して下さり、事務局は連日賑やかな雰囲気になりました。
一方、会期を延長している「チェルノブイリから見えるもの」展と「追悼 針生一郎」展は、天候のせいもあってか、やや来館者が減少傾向にあります。
展示が終わってしまったと思われている方、まだ続いていますので、ご覧になるチャンスです!
* * *
来週は、7月からはじまる「丸木位里・丸木俊絵本原画展」のために栃木へ作品集荷に行き、町田市の市民講座で講義を行い、『丸木美術館ニュース』の原稿や次々回企画「追悼 大道あや展」のチラシ原稿を入稿するなど、慌ただしい日々が続きます。
26日の日曜日には展示替え作業。翌27日は東京学芸大学で授業を行い、「チェルノブイリ展」と「針生一郎展」の作品返却もはじまり……という具合。
疲れを持ち越さないように、気をつけていきたいものです。
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その後、理事のMさんや歌人のK山さん、市役所のK島さん、「サダコ」虹基金のYさんと来客が相次ぎました。
そして今日は午前中に神宮寺の高橋卓志さんが連絡なしの「サプライズ」来館!
毎年夏に企画して下さっている《原爆の図》展示の打ち合わせでした。
今年は松本市で国際軍縮会議が開催されるということで、例年よりも力の入った展示を考えていらっしゃるようです。
さらに昼前にはNHKさいたま局のIキャスター、午後からは目黒区美術館のT館長が来館して下さり、事務局は連日賑やかな雰囲気になりました。
一方、会期を延長している「チェルノブイリから見えるもの」展と「追悼 針生一郎」展は、天候のせいもあってか、やや来館者が減少傾向にあります。
展示が終わってしまったと思われている方、まだ続いていますので、ご覧になるチャンスです!
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来週は、7月からはじまる「丸木位里・丸木俊絵本原画展」のために栃木へ作品集荷に行き、町田市の市民講座で講義を行い、『丸木美術館ニュース』の原稿や次々回企画「追悼 大道あや展」のチラシ原稿を入稿するなど、慌ただしい日々が続きます。
26日の日曜日には展示替え作業。翌27日は東京学芸大学で授業を行い、「チェルノブイリ展」と「針生一郎展」の作品返却もはじまり……という具合。
疲れを持ち越さないように、気をつけていきたいものです。

2011/6/14
俊作品の修復調査と“謎の戦争画” 作品・資料
午後、いつも絵画の修復をお願いしている株式会社ディヴォートのOさんが来館。
今年度予算で承認された丸木俊作品の修復に向けて、作品の状態調査を行って下さいました。
もともと、今年は俊の油彩画3点修復という枠で予算を取っていたのですが、このところ俊の作品の寄贈が相次ぎ、そのなかには早めの処置が必要とされる状態のものもあったので、Oさんに相談した結果、寄贈作品から2点、従来の所蔵作品のうち絵具の損傷がひどい油彩画1点を修復することに決めました。
来年は丸木俊生誕100年を迎えるので、2月11日より丸木美術館で開催する記念展では、新たに修復された作品をご紹介したいと思っています。
* * *
作品調査のあと、Oさんと雑談をしているなかで、作者不詳の油彩画《弾痕光華門外》についての興味深い話をお聞きしました。

この油彩画は住友資料館の収蔵品で、1937年12月に日本軍が南京に攻め込んだ際、激戦の舞台になった光華門の陥落直後の風景を描いたものと思われます。
画面には、門内の隧道を馬を連れて歩く人影(Oさんの話では中国人)や、日の丸の旗なども見られます。城壁の生々しい弾痕や、門の上の謎の木札?(Oさんの話では日本人が建てた供養塔)なども印象に残ります。
Oさんによると、画面右下には「国四郎」と署名があるのですが、その隣には他の作者名を塗りつぶしたような痕跡が見られるそうです。
「国四郎」とは満谷国四郎を意味すると思われますが、満谷は1936年、南京攻略の前年に亡くなっているため、南京陥落後の絵を描くはずはありません。Oさんの言葉を借りれば、「後年の不届きと言っていい署名の書き直し」と思われます。
南京大虐殺が国際的な問題となったり、戦後に戦争記録画の責任が問われたりしたために、あるいは南京を描いた事実を隠すため署名を書き変えた、ということもあったのかも知れません。
南京光華門を描いた油彩画は、ほかに猪熊弦一郎や佐藤敬らが手がけているそうですが、いったい誰がこの《弾痕光華門外》を描いたのか、かならずしも戦意高揚の絵とは言えないもの悲しい雰囲気を感じることもあって、なかなか興味深いところです。
この作品については、「戦時下に描かれた絵画(2)―「弾痕光華門外」―」という研究発表がPDF版で公開されています。
Oさんの調査研究は、「戦時下に描かれた絵画(I)−女流画家・長谷川春子「少婦國を防ぐ」調査と周辺」も興味深い内容ですので、ぜひご覧下さい。
ちなみに、ディボートさんのHPのトップで紹介されている修復作業中の作品は、丸木スマの《ひまわり》です。
http://www.tokyoconservation.com/research.html
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今年度予算で承認された丸木俊作品の修復に向けて、作品の状態調査を行って下さいました。
もともと、今年は俊の油彩画3点修復という枠で予算を取っていたのですが、このところ俊の作品の寄贈が相次ぎ、そのなかには早めの処置が必要とされる状態のものもあったので、Oさんに相談した結果、寄贈作品から2点、従来の所蔵作品のうち絵具の損傷がひどい油彩画1点を修復することに決めました。
来年は丸木俊生誕100年を迎えるので、2月11日より丸木美術館で開催する記念展では、新たに修復された作品をご紹介したいと思っています。
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作品調査のあと、Oさんと雑談をしているなかで、作者不詳の油彩画《弾痕光華門外》についての興味深い話をお聞きしました。

この油彩画は住友資料館の収蔵品で、1937年12月に日本軍が南京に攻め込んだ際、激戦の舞台になった光華門の陥落直後の風景を描いたものと思われます。
画面には、門内の隧道を馬を連れて歩く人影(Oさんの話では中国人)や、日の丸の旗なども見られます。城壁の生々しい弾痕や、門の上の謎の木札?(Oさんの話では日本人が建てた供養塔)なども印象に残ります。
Oさんによると、画面右下には「国四郎」と署名があるのですが、その隣には他の作者名を塗りつぶしたような痕跡が見られるそうです。
「国四郎」とは満谷国四郎を意味すると思われますが、満谷は1936年、南京攻略の前年に亡くなっているため、南京陥落後の絵を描くはずはありません。Oさんの言葉を借りれば、「後年の不届きと言っていい署名の書き直し」と思われます。
南京大虐殺が国際的な問題となったり、戦後に戦争記録画の責任が問われたりしたために、あるいは南京を描いた事実を隠すため署名を書き変えた、ということもあったのかも知れません。
南京光華門を描いた油彩画は、ほかに猪熊弦一郎や佐藤敬らが手がけているそうですが、いったい誰がこの《弾痕光華門外》を描いたのか、かならずしも戦意高揚の絵とは言えないもの悲しい雰囲気を感じることもあって、なかなか興味深いところです。
この作品については、「戦時下に描かれた絵画(2)―「弾痕光華門外」―」という研究発表がPDF版で公開されています。
Oさんの調査研究は、「戦時下に描かれた絵画(I)−女流画家・長谷川春子「少婦國を防ぐ」調査と周辺」も興味深い内容ですので、ぜひご覧下さい。
ちなみに、ディボートさんのHPのトップで紹介されている修復作業中の作品は、丸木スマの《ひまわり》です。
http://www.tokyoconservation.com/research.html

2011/6/12
震災復興祈念コンサート/栃木県立美術館「関谷富貴展」 他館企画など
午後2時から、栃木県教育会館大ホールにて宇都宮中央女子高校合唱部・吹奏楽部合同演奏会〜祈りの虹〜震災復興祈念コンサートが開催されました。

宇都宮女子高校とのご縁は、昨年の夏からはじまりました。
8月6日のひろしま忌に出演された栗友会合唱団の一員に、同校合唱部・吹奏楽部顧問のY先生がいらっしゃったのです。
その後、Y先生は、合唱部の生徒たちを宇都宮からわざわざ連れて、《原爆の図》を観に丸木美術館に足を運んでくださいました。
というのも、彼女たちは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を題材にして、信長貴富氏に作曲を委嘱し、合唱に取り組んでいる最中だったのです。
その後、Y先生からは、合唱のCDと、生徒たちの感想文がまとめて送られてきました。
生徒のひとりの感想文の一部を抜粋して紹介します。
合宿の中で「丸木美術館」を訪れ、戦争についても学びました。
私は絵の光景が実際に起きたこととは、今でも信じられません。
被災の直後の白黒と赤の炎で描かれた数枚の絵は、ほとんど見ることさえできませんでした。
しかし絵のすべてが現実であるし、私たちが受け入れ、後生に伝えていかなければならないのも現実です。
「君死に」と戦争の時代は違いますが、それに携わった兵士や彼らの家族の苦しく辛い思いは同じだと思います。
「君死に」を歌うとき、特に家族の思いが表れているところはよく思い出して、感情を込めたいと思います。
コンクールでは、最初から最後まで意味を噛み締めながら歌いたいです。
歌に向き合うためにまず戦争を学び、その時代を生きた人びとの思いを真剣に考えるという、Y先生と合唱部の生徒たちの取り組みには本当に心を打たれました。
同時に、日頃からそれほど深く歌と戦争の問題に取り組んでいた方たちだからこそ、昨年のひろしま忌のようなコンサートが成立していたのだと、あらためて考えさせられました。
今回、Y先生から震災復興祈念コンサートのご招待を頂き、「君死にたまふことなかれ」を歌った生徒たちが、どのように震災からの再生の祈りを合唱の力で表現しようとしているのか、実際に聴いてみたいと思って宇都宮を訪れました。
「道化師のソネット」、「花」、「赤とんぼ」、「ペチカ」、「アンパンマンのマーチ」(寺島陸也編曲委嘱初演)、「上を向いて歩こう」、「生きる」と続く合唱部のステージ、そして嵐やピンクレディのメドレーによる吹奏楽部の楽しい演奏、最後に合唱部・吹奏楽部合同のステージによる「We are the world」、「Over the Rainbow」(寺島陸也編曲委嘱初演)、「ふるさと」の演奏……。
音と音をあわせることが、どれほど人を勇気づけるのかを感じさせる、本当に素晴らしいステージでした。
ご招待下さったY先生、そして宇都宮中央女子高校の合唱部、吹奏楽部の皆さん、どうもありがとうございました。
* * *
帰りに栃木県立美術館で開催中の企画展「妻の遺した秘密の絵 関谷富貴の世界」(6/19まで)を観ました。
これまで、まったく存在さえ知られていなかった女性画家・関谷富貴(1903-1969)を取り上げた非常に興味深い展覧会でした。
なぜ知られていなかったのかというと、彼女は、二科展の画家・関谷陽の妻として、生涯夫の仕事を支え、自らが作品を発表することは一度もなかったからです。
しかし、200点近く残されている作品は、クレーやデュビュッフェを想起させる驚くほど魅力的な抽象画で、はじめの数点を見ただけでぐいぐい引き込まれていきました。
どのように絵を学んだのか、どんな芸術観を持っていたのか、彼女の残した記録はまったくないそうですが、おそらく絵画教室を開いていた夫の教えや画集などを見ながら、独自の世界を切り拓いていったものと思われます。
教室に通っていた生徒の証言では、教室には富貴の作品も数点飾られていたそうですが、陽も富貴もその作品について話をすることは一度もなく、生徒のあいだでは、絵画の技法上の知識はともかく、新しい表現を生み出す才能は富貴の方が上なのではという噂もひそかにされていたようです。
陽もそのことを自覚していたのか、ふだんは温厚な性格だったものの、富貴が絵の批判を少しでもすると、キャンバスを切り裂いたり、物を投げたりすることもあったといいます。
芸術については互いに深く踏み込まず(踏み込めず)、しかし、それでも最後まで寄り添って静かに生きた夫婦の関係について、考えずにはいられない展覧会でした。
あるいは、夫婦とも亡くなった後に、妻の絵の方が注目されて、こうした展覧会が開かれることを、二人はどこかで覚悟していたのではないかと想像したりもしました。
ともあれ、忘れがたい印象の残る展覧会でした。
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宇都宮女子高校とのご縁は、昨年の夏からはじまりました。
8月6日のひろしま忌に出演された栗友会合唱団の一員に、同校合唱部・吹奏楽部顧問のY先生がいらっしゃったのです。
その後、Y先生は、合唱部の生徒たちを宇都宮からわざわざ連れて、《原爆の図》を観に丸木美術館に足を運んでくださいました。
というのも、彼女たちは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を題材にして、信長貴富氏に作曲を委嘱し、合唱に取り組んでいる最中だったのです。
その後、Y先生からは、合唱のCDと、生徒たちの感想文がまとめて送られてきました。
生徒のひとりの感想文の一部を抜粋して紹介します。
合宿の中で「丸木美術館」を訪れ、戦争についても学びました。
私は絵の光景が実際に起きたこととは、今でも信じられません。
被災の直後の白黒と赤の炎で描かれた数枚の絵は、ほとんど見ることさえできませんでした。
しかし絵のすべてが現実であるし、私たちが受け入れ、後生に伝えていかなければならないのも現実です。
「君死に」と戦争の時代は違いますが、それに携わった兵士や彼らの家族の苦しく辛い思いは同じだと思います。
「君死に」を歌うとき、特に家族の思いが表れているところはよく思い出して、感情を込めたいと思います。
コンクールでは、最初から最後まで意味を噛み締めながら歌いたいです。
歌に向き合うためにまず戦争を学び、その時代を生きた人びとの思いを真剣に考えるという、Y先生と合唱部の生徒たちの取り組みには本当に心を打たれました。
同時に、日頃からそれほど深く歌と戦争の問題に取り組んでいた方たちだからこそ、昨年のひろしま忌のようなコンサートが成立していたのだと、あらためて考えさせられました。
今回、Y先生から震災復興祈念コンサートのご招待を頂き、「君死にたまふことなかれ」を歌った生徒たちが、どのように震災からの再生の祈りを合唱の力で表現しようとしているのか、実際に聴いてみたいと思って宇都宮を訪れました。
「道化師のソネット」、「花」、「赤とんぼ」、「ペチカ」、「アンパンマンのマーチ」(寺島陸也編曲委嘱初演)、「上を向いて歩こう」、「生きる」と続く合唱部のステージ、そして嵐やピンクレディのメドレーによる吹奏楽部の楽しい演奏、最後に合唱部・吹奏楽部合同のステージによる「We are the world」、「Over the Rainbow」(寺島陸也編曲委嘱初演)、「ふるさと」の演奏……。
音と音をあわせることが、どれほど人を勇気づけるのかを感じさせる、本当に素晴らしいステージでした。
ご招待下さったY先生、そして宇都宮中央女子高校の合唱部、吹奏楽部の皆さん、どうもありがとうございました。
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帰りに栃木県立美術館で開催中の企画展「妻の遺した秘密の絵 関谷富貴の世界」(6/19まで)を観ました。
これまで、まったく存在さえ知られていなかった女性画家・関谷富貴(1903-1969)を取り上げた非常に興味深い展覧会でした。
なぜ知られていなかったのかというと、彼女は、二科展の画家・関谷陽の妻として、生涯夫の仕事を支え、自らが作品を発表することは一度もなかったからです。
しかし、200点近く残されている作品は、クレーやデュビュッフェを想起させる驚くほど魅力的な抽象画で、はじめの数点を見ただけでぐいぐい引き込まれていきました。
どのように絵を学んだのか、どんな芸術観を持っていたのか、彼女の残した記録はまったくないそうですが、おそらく絵画教室を開いていた夫の教えや画集などを見ながら、独自の世界を切り拓いていったものと思われます。
教室に通っていた生徒の証言では、教室には富貴の作品も数点飾られていたそうですが、陽も富貴もその作品について話をすることは一度もなく、生徒のあいだでは、絵画の技法上の知識はともかく、新しい表現を生み出す才能は富貴の方が上なのではという噂もひそかにされていたようです。
陽もそのことを自覚していたのか、ふだんは温厚な性格だったものの、富貴が絵の批判を少しでもすると、キャンバスを切り裂いたり、物を投げたりすることもあったといいます。
芸術については互いに深く踏み込まず(踏み込めず)、しかし、それでも最後まで寄り添って静かに生きた夫婦の関係について、考えずにはいられない展覧会でした。
あるいは、夫婦とも亡くなった後に、妻の絵の方が注目されて、こうした展覧会が開かれることを、二人はどこかで覚悟していたのではないかと想像したりもしました。
ともあれ、忘れがたい印象の残る展覧会でした。

2011/6/12
1955年秩父原爆の図展調査 1950年代原爆の図展調査
午前中、埼玉県立浦和図書館に資料調査へ。
以前に地域資料室に調査を依頼していた1950年代の埼玉県内の原爆の図展について、新しい資料が出てきたのです。
1955年8月26日から29日まで秩父市産業館ホールで開催された「原爆の図展」です。
同年8月27日付『埼玉新聞』の記事を紹介します。
==========

異常な感激と戦りつ
秩父 話題の原爆図展開かる
○…丸木位里、赤松俊子両画伯の原爆図展は二十六日から四日間毎日午前九時から午後八時まで秩父市産業館ホールで開かれている。一部作だけでも縦六尺、横二十四尺の幽霊の図をはじめ死〔原文ママ、「火」の誤り〕、水、虹、少年少女の五部作の原画全部が掲げられ、二十年八月六日午前八時十五分一瞬にして大広島全市を灰塵に帰した姿が題名の角度から画かれ、雨中詰めかけた市民も異常な感激と戦慄をおぼえ、戦争は二度と繰返すまいという感情に支配された。
○…図展開会にあたり主催者の秩父地区原爆の図運営委員長大野孟子女史始め後援の婦人会、地区労協のほか丸木、赤松両画伯も前夜から来秩、徹夜で会場を準備した。この計画は七月はじめ話が持ち上り市公民館、教育委員会、一部婦人会が主催を引受けたが、中途で背後に思想的な動きがあるというデマのためにためらい、このため会場に予定した産業館ホールすら貸す貸さぬでもめ開会期も変更に変更を重ね、一時は計画もご破算という苦境に追い込まれたが、関係者の涙ぐましい努力が結実、漸く開会の運びとなった。
○…大野会長は開場にあたり「関係者の異常なお骨折でやっと開くことが出来こんな嬉しいことはありません。この図展が市民の関心を集め、戦争の恐ろしさを繰返すまいと誓うのに少しでもお役に立ったと信じています」と語った。
==========
「中途で背後に思想的な動きがあるというデマのためにためらい」という部分に、原爆の図展開催の苦労が感じられます。
1955年といえば、すでに原爆の図三部作(《幽霊》、《火》、《水》)はヨーロッパを巡回中の頃。
秩父展には、もうひと組再制作された三部作(現在は広島市現代美術館蔵)と、日本に残っていた第4部《虹》、第5部《少年少女》を組み合わせて展示していたのでしょう。
新聞に掲載された会場写真に写っているのは第3部《水》ですが、母子像の背後の被爆者の行列の特徴が、明らかに〈再制作版〉と判別できます。
〈オリジナル〉の三部作が海外に渡った1953年夏以後も、丸木夫妻の手もとに残る〈再制作版〉三部作や第4部以後の作品によって原爆の図展は継続されていたのですが、社会の注目度は次第に薄くなり、新聞などに取り上げられる機会も減っていたので、この秩父展は〈再制作版〉の展示状況を知ることができる貴重な資料です。
* * *
午後は、宇都宮中央女子高校合唱部・吹奏楽部の震災復興祈念コンサートに招待されていたため、宇都宮へ移動。
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以前に地域資料室に調査を依頼していた1950年代の埼玉県内の原爆の図展について、新しい資料が出てきたのです。
1955年8月26日から29日まで秩父市産業館ホールで開催された「原爆の図展」です。
同年8月27日付『埼玉新聞』の記事を紹介します。
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異常な感激と戦りつ
秩父 話題の原爆図展開かる
○…丸木位里、赤松俊子両画伯の原爆図展は二十六日から四日間毎日午前九時から午後八時まで秩父市産業館ホールで開かれている。一部作だけでも縦六尺、横二十四尺の幽霊の図をはじめ死〔原文ママ、「火」の誤り〕、水、虹、少年少女の五部作の原画全部が掲げられ、二十年八月六日午前八時十五分一瞬にして大広島全市を灰塵に帰した姿が題名の角度から画かれ、雨中詰めかけた市民も異常な感激と戦慄をおぼえ、戦争は二度と繰返すまいという感情に支配された。
○…図展開会にあたり主催者の秩父地区原爆の図運営委員長大野孟子女史始め後援の婦人会、地区労協のほか丸木、赤松両画伯も前夜から来秩、徹夜で会場を準備した。この計画は七月はじめ話が持ち上り市公民館、教育委員会、一部婦人会が主催を引受けたが、中途で背後に思想的な動きがあるというデマのためにためらい、このため会場に予定した産業館ホールすら貸す貸さぬでもめ開会期も変更に変更を重ね、一時は計画もご破算という苦境に追い込まれたが、関係者の涙ぐましい努力が結実、漸く開会の運びとなった。
○…大野会長は開場にあたり「関係者の異常なお骨折でやっと開くことが出来こんな嬉しいことはありません。この図展が市民の関心を集め、戦争の恐ろしさを繰返すまいと誓うのに少しでもお役に立ったと信じています」と語った。
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「中途で背後に思想的な動きがあるというデマのためにためらい」という部分に、原爆の図展開催の苦労が感じられます。
1955年といえば、すでに原爆の図三部作(《幽霊》、《火》、《水》)はヨーロッパを巡回中の頃。
秩父展には、もうひと組再制作された三部作(現在は広島市現代美術館蔵)と、日本に残っていた第4部《虹》、第5部《少年少女》を組み合わせて展示していたのでしょう。
新聞に掲載された会場写真に写っているのは第3部《水》ですが、母子像の背後の被爆者の行列の特徴が、明らかに〈再制作版〉と判別できます。
〈オリジナル〉の三部作が海外に渡った1953年夏以後も、丸木夫妻の手もとに残る〈再制作版〉三部作や第4部以後の作品によって原爆の図展は継続されていたのですが、社会の注目度は次第に薄くなり、新聞などに取り上げられる機会も減っていたので、この秩父展は〈再制作版〉の展示状況を知ることができる貴重な資料です。
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午後は、宇都宮中央女子高校合唱部・吹奏楽部の震災復興祈念コンサートに招待されていたため、宇都宮へ移動。

2011/6/11
東日本大震災チャリティコンサート 分類なし
午後2時から、丸木美術館1階新館ホールにて、PHILIA PROJECT主催による東日本大震災チャリティプロジェクト「with You」が行われました。
午前中は小雨模様の不安定な天候でしたが、参加者はおよそ100人の盛況となりました。
出演された方々は以下の通りでした。

中国出身の歌手・古筝奏者の謝雪梅さん。

ファゴット奏者の津田雄三さん。

ウクライナで生まれ、チェルノブイリ原発事故の被曝体験を持つ歌手・バントゥーラ奏者のナターシャ・グジーさん。実は、ナターシャさんは2000年5月5日の丸木俊さんを偲ぶ会でも出演して下さっているので、丸木美術館での公演は11年ぶり2回目となります。

そして、音楽とは異なるジャンルの表現者3人によって結成されたというジプシー音楽ふうのゲルブ・アル・リシャット・アンサンブル。
* * *
このコンサートの様子は、NHKさいたま放送局と東松山CATVが取材して下さいました。
NHK首都圏ニュースの放送の様子は、以下のHPで数日間ご覧頂くことができます。
http://www.nhk.or.jp/saitama-news/20110613115750_04.html
東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所の事故の被災者を支援しようと、旧ソビエトのチェルノブイリ原発事故で被災した経験を持つ音楽家などによる支援コンサートが東松山市で開かれました。
ウクライナ出身の音楽家、ナターシャ・グジーさん(31歳)は、6歳の時、自宅からわずか3.5キロの場所で起きたチェルノブイリ原発事故で避難生活を余儀なくされた経験を持ち、現在は日本を拠点に震災や原発事故の被災者のために各地で支援コンサートを開いています。「バンドゥーラ」という民俗楽器を手に舞台に立ったグジーさんは、「同じ過ちを繰り返さないよう祈りながら歌っています」と語りかけながらウクライナの民謡などを披露しました。当時のグジーさんの自宅は放射性物質に汚染されたために取り壊されて埋められたということで、訪れた人たちは重いメッセージを受け止めるように目を閉じて演奏に聞き入っていました。コンサートには中国出身の音楽家なども参加して演奏や詩の朗読を披露し、収益金の一部は被災地に送られることになっています。コンサートを主催した団体の二瓶龍彦さんは、「自分たちに出来る方法で長期にわたる支援を続けたい」と話していました。
(NHKさいたま放送局HPより)
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午前中は小雨模様の不安定な天候でしたが、参加者はおよそ100人の盛況となりました。
出演された方々は以下の通りでした。

中国出身の歌手・古筝奏者の謝雪梅さん。

ファゴット奏者の津田雄三さん。

ウクライナで生まれ、チェルノブイリ原発事故の被曝体験を持つ歌手・バントゥーラ奏者のナターシャ・グジーさん。実は、ナターシャさんは2000年5月5日の丸木俊さんを偲ぶ会でも出演して下さっているので、丸木美術館での公演は11年ぶり2回目となります。

そして、音楽とは異なるジャンルの表現者3人によって結成されたというジプシー音楽ふうのゲルブ・アル・リシャット・アンサンブル。
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このコンサートの様子は、NHKさいたま放送局と東松山CATVが取材して下さいました。
NHK首都圏ニュースの放送の様子は、以下のHPで数日間ご覧頂くことができます。
http://www.nhk.or.jp/saitama-news/20110613115750_04.html
東日本大震災や東京電力福島第一原子力発電所の事故の被災者を支援しようと、旧ソビエトのチェルノブイリ原発事故で被災した経験を持つ音楽家などによる支援コンサートが東松山市で開かれました。
ウクライナ出身の音楽家、ナターシャ・グジーさん(31歳)は、6歳の時、自宅からわずか3.5キロの場所で起きたチェルノブイリ原発事故で避難生活を余儀なくされた経験を持ち、現在は日本を拠点に震災や原発事故の被災者のために各地で支援コンサートを開いています。「バンドゥーラ」という民俗楽器を手に舞台に立ったグジーさんは、「同じ過ちを繰り返さないよう祈りながら歌っています」と語りかけながらウクライナの民謡などを披露しました。当時のグジーさんの自宅は放射性物質に汚染されたために取り壊されて埋められたということで、訪れた人たちは重いメッセージを受け止めるように目を閉じて演奏に聞き入っていました。コンサートには中国出身の音楽家なども参加して演奏や詩の朗読を披露し、収益金の一部は被災地に送られることになっています。コンサートを主催した団体の二瓶龍彦さんは、「自分たちに出来る方法で長期にわたる支援を続けたい」と話していました。
(NHKさいたま放送局HPより)

2011/6/10
『毎日新聞』に“貝原浩作品”記事掲載 掲載雑誌・新聞
2011年6月10日付『毎日新聞』埼玉版に、“死の灰に汚された人々の悲哀”との見出しで、丸木美術館で開催中の企画展「チェルノブイリから見えるもの」で展示している故貝原浩さんの絵画作品が紹介されました。
記事には、貝原さんがチェルノブイリ事故発生から6年後の1992年に日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)のメンバーや写真家の本橋成一さんらと、放射能汚染の広がるベラルーシのチェチェルスクなどを訪れたことや、99年まで計7回現地を訪れ、「画家として何ができるか」と苦悩を抱えながらも大地に根ざして生きる農民の日常を描いたことが紹介されています。
また、貝原さんとともにベラルーシを訪れたことのある歌手の小室等さんの「人々の営みと豊かな自然が『死の灰』によって汚染される。その悲哀がにじみ出ている」という談話も紹介されています。
大きな反響を呼んでいる企画展「チェルノブイリから見えるもの」。
本来は明日6月11日(土)までの予定でしたが、急きょ2週間会期を延長して6月25日(土)までとなりました。そのなかでも、やはり貝原浩さんの絵がもっとも注目を集めているようで、画集『風しもの村 チェルノブイリ・スケッチ』は何度も追加注文をしなければならないほど売れています。
あらためて、貝原さんの絵の持つ力の強さを感じています。
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記事には、貝原さんがチェルノブイリ事故発生から6年後の1992年に日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)のメンバーや写真家の本橋成一さんらと、放射能汚染の広がるベラルーシのチェチェルスクなどを訪れたことや、99年まで計7回現地を訪れ、「画家として何ができるか」と苦悩を抱えながらも大地に根ざして生きる農民の日常を描いたことが紹介されています。
また、貝原さんとともにベラルーシを訪れたことのある歌手の小室等さんの「人々の営みと豊かな自然が『死の灰』によって汚染される。その悲哀がにじみ出ている」という談話も紹介されています。
大きな反響を呼んでいる企画展「チェルノブイリから見えるもの」。
本来は明日6月11日(土)までの予定でしたが、急きょ2週間会期を延長して6月25日(土)までとなりました。そのなかでも、やはり貝原浩さんの絵がもっとも注目を集めているようで、画集『風しもの村 チェルノブイリ・スケッチ』は何度も追加注文をしなければならないほど売れています。
あらためて、貝原さんの絵の持つ力の強さを感じています。

2011/6/9
『西日本新聞』“50年代GHQ統制下 巡回展164回敢行”記事掲載 掲載雑誌・新聞
2011年6月4日付『西日本新聞』の長崎県版“LOVE&PEACE 平和を ナガサキ”欄に、“50年代GHQ統制下 巡回展164回敢行”との見出しで、《原爆の図》の初期巡回展に関する特集記事が掲載されました。
以下は、記事からの一部抜粋です。
初期3部作の全国巡回展があったのは、連合国側が原爆関連の報道や言論統制をした「プレスコード」が敷かれた時期。メディアによる報道は少なく、主催者側も資料を残していない。夫妻の手を離れて開かれた展覧会も多かった。
2008年1月、丸木美術館の岡村幸宣学芸員(36)が、夫妻のアトリエから俊さんのメモが添えられたガリ版刷りの展覧会記録を発見し、調査に着手。当時の地方紙を調べ、展覧会にかかわった人から証言を得た。判明したのは50年から53年まで、北海道から九州で少なくとも164回もの展覧会があったことだ。岡村さんは「市民が原爆被害の実態を知ることができない時代に、多くのことを伝えた」と評価する。
長崎県版の記事なので、1952年11月に佐世保市公会堂、53年1月に長崎市労働会館で展覧会が開かれ、島原市や崎戸町(現西海市)での開催記録が残ることも紹介され、84年8月に2回目の「原爆の図・長崎展」が開催された際に関わった活水女子大の服部康喜教授の「80年代以降の巡回展は加害の視点が加わったのが大きな違い」という指摘も掲載されています。
実際、第14部《からす》を使った2回目の長崎展のパンフレットには、「被爆の体験を単に被害者的立場のみにとどめることなく、加害者として受け止め」という言葉が記されています。
記事は、最後に次のような文章でまとめられています。
時代を越え原爆の図は生き続けている。その理由を岡村学芸員はこう説明する。
「夫妻は直接原爆を体験していないから、たくさんの人の思いや悲しみを受けとめ『記憶の器』になった。だから見る人の心に訴える強さが作品に生まれた。原爆の図を見ることは、戦争を考える大きな入り口になるんです」
* * *
また、同じ紙面には“「反原発」も貫く 遺志継ぎ緊急企画展”との見出しで、原発分の電気料金の支払いを拒否した丸木夫妻の思いや、開催中の企画展「チェルノブイリから見えるもの」も紹介されています。
記事は、常設展示室に展示されている《水俣・原発・三里塚》の説明文に「平和になった時、原子爆弾は原子力発電所に化けて出ました」と記されていることや、館内は電気をできるだけ使わないように自然光や風をふんだんに取り入れていること、原発分の電気料金の支払いを拒否した際に俊さんが「原発を止めないと原発に殺される」と美術館ニュースに書いていたことなどをとりあげています。
また、「チェルノブイリ展」についても貝原さんの絵の展示の様子がカラー写真入りで紹介され、「芸術は論ではなく情に訴える。チェルノブイリから何を学び、学んでこなかったか考えるきっかけにしてほしい」という岡村の談話が掲載されています。
* * *
そして、“私にできること”というコラムには、“大事な美術館手伝う”との見出しで、ボランティアの両岡健太くん(29)の談話も紹介されていました。
2004年夏に学芸員の資格取得のため実習に訪れて以来、ボランティアとして美術館を支えている両岡くん。取材して下さったS記者が来館された日も、両岡くんが駅までS記者を車で送ってくれて、その際に取材を受けたそうです。
談話の後半部分を抜粋して紹介します。
たくさんの人がいれば、意見が違って当然。互いにきちんと向き合って話し合えば、争いは避けられ、平和につながるのではないでしょうか。この美術館は、たくさんの人たちが集まって自由に意見を交わせるのが魅力。大事な場所が存在し続けられるよう、今後も支援を続けたいです。
大きな特集記事を組んで下さった西日本新聞社のS記者には、心から御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
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以下は、記事からの一部抜粋です。
初期3部作の全国巡回展があったのは、連合国側が原爆関連の報道や言論統制をした「プレスコード」が敷かれた時期。メディアによる報道は少なく、主催者側も資料を残していない。夫妻の手を離れて開かれた展覧会も多かった。
2008年1月、丸木美術館の岡村幸宣学芸員(36)が、夫妻のアトリエから俊さんのメモが添えられたガリ版刷りの展覧会記録を発見し、調査に着手。当時の地方紙を調べ、展覧会にかかわった人から証言を得た。判明したのは50年から53年まで、北海道から九州で少なくとも164回もの展覧会があったことだ。岡村さんは「市民が原爆被害の実態を知ることができない時代に、多くのことを伝えた」と評価する。
長崎県版の記事なので、1952年11月に佐世保市公会堂、53年1月に長崎市労働会館で展覧会が開かれ、島原市や崎戸町(現西海市)での開催記録が残ることも紹介され、84年8月に2回目の「原爆の図・長崎展」が開催された際に関わった活水女子大の服部康喜教授の「80年代以降の巡回展は加害の視点が加わったのが大きな違い」という指摘も掲載されています。
実際、第14部《からす》を使った2回目の長崎展のパンフレットには、「被爆の体験を単に被害者的立場のみにとどめることなく、加害者として受け止め」という言葉が記されています。
記事は、最後に次のような文章でまとめられています。
時代を越え原爆の図は生き続けている。その理由を岡村学芸員はこう説明する。
「夫妻は直接原爆を体験していないから、たくさんの人の思いや悲しみを受けとめ『記憶の器』になった。だから見る人の心に訴える強さが作品に生まれた。原爆の図を見ることは、戦争を考える大きな入り口になるんです」
* * *
また、同じ紙面には“「反原発」も貫く 遺志継ぎ緊急企画展”との見出しで、原発分の電気料金の支払いを拒否した丸木夫妻の思いや、開催中の企画展「チェルノブイリから見えるもの」も紹介されています。
記事は、常設展示室に展示されている《水俣・原発・三里塚》の説明文に「平和になった時、原子爆弾は原子力発電所に化けて出ました」と記されていることや、館内は電気をできるだけ使わないように自然光や風をふんだんに取り入れていること、原発分の電気料金の支払いを拒否した際に俊さんが「原発を止めないと原発に殺される」と美術館ニュースに書いていたことなどをとりあげています。
また、「チェルノブイリ展」についても貝原さんの絵の展示の様子がカラー写真入りで紹介され、「芸術は論ではなく情に訴える。チェルノブイリから何を学び、学んでこなかったか考えるきっかけにしてほしい」という岡村の談話が掲載されています。
* * *
そして、“私にできること”というコラムには、“大事な美術館手伝う”との見出しで、ボランティアの両岡健太くん(29)の談話も紹介されていました。
2004年夏に学芸員の資格取得のため実習に訪れて以来、ボランティアとして美術館を支えている両岡くん。取材して下さったS記者が来館された日も、両岡くんが駅までS記者を車で送ってくれて、その際に取材を受けたそうです。
談話の後半部分を抜粋して紹介します。
たくさんの人がいれば、意見が違って当然。互いにきちんと向き合って話し合えば、争いは避けられ、平和につながるのではないでしょうか。この美術館は、たくさんの人たちが集まって自由に意見を交わせるのが魅力。大事な場所が存在し続けられるよう、今後も支援を続けたいです。
大きな特集記事を組んで下さった西日本新聞社のS記者には、心から御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。

2011/6/6
『埼玉新聞』に震災チャリティコンサート紹介/さきたま抄 掲載雑誌・新聞
2011年6月6日付『埼玉新聞』に“演奏で非核訴え 東松山・丸木美術館 11日、震災チャリティー”との見出しで、11日午後2時から開催される東日本大震災チャリティーコンサート「with You」が紹介されました。
このコンサートについては、以前にも学芸員日誌でご紹介しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1623.html
記事には「核の現実を伝える原点として同館が公演会場になった」と記され、「ナターシャさんはチェルノブイリ原発の爆心地から3.5キロ先で被ばくしており、00年から日本での本格的な音楽活動を始めた。ほかにもファゴット奏者の津田雄三さん、歌手で古筝奏者の謝雪梅さんなどが出演する」と紹介されています。
まだ席の方は空きがあるようですので、参加希望の方は丸木美術館にお問い合わせ下さい。
前売り2500円、当日は2800円となります。
* * *
また、2011年5月29日付『埼玉新聞』1面「さきたま抄」欄に、原発に反対していた丸木俊のことが紹介されています。
以下は、前半部分の抜粋です。
「便利さばかりを求めた。生活スタイルを変えないといけない」。洋画家丸木俊(1912〜2000年)は生前、反原発の立場から、電気に頼り過ぎる生活に苦言を呈していたという▼反原発の原点は反原爆。広島県飯室村(現在の広島市)出身で夫の日本画家丸木位里(1901〜95年)と共作した「原爆の図」に、核廃絶の強い願いが込められている▼位里と俊は67年に丸木美術館(東松山市下唐子)を開設、「原爆の図」連作を展示した。夫妻は美術館の近くを流れる都幾川で魚を捕り、畑で野菜を育てるなど自然とともに生活。なるべく電気を使わないように、美術館にはエアコンも設置しなかった
コラムはこの後、俊が自動販売機設置にも反対していたことを紹介し、1都3県の知事が行政指導による営業時間規制を自販機にも適用できるよう法令改正を国に求めたことや、自販機業界が既に取り組んでいた冷却停止などの節電対策をさらに進めることを取り上げています。
そして、コラムは次の文章で締めくくられています。
俊は自販機について「人と人が向かい合って買えばいい」と話したという。人間が好きだった俊らしい言葉。自戒を込めて、今までの生活を変えてみたい。
なかなか、読後感の爽やかなコラムでした。
埼玉新聞、この頃、とても良い記事を載せて下さっているような気がします。
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このコンサートについては、以前にも学芸員日誌でご紹介しています。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1623.html
記事には「核の現実を伝える原点として同館が公演会場になった」と記され、「ナターシャさんはチェルノブイリ原発の爆心地から3.5キロ先で被ばくしており、00年から日本での本格的な音楽活動を始めた。ほかにもファゴット奏者の津田雄三さん、歌手で古筝奏者の謝雪梅さんなどが出演する」と紹介されています。
まだ席の方は空きがあるようですので、参加希望の方は丸木美術館にお問い合わせ下さい。
前売り2500円、当日は2800円となります。
* * *
また、2011年5月29日付『埼玉新聞』1面「さきたま抄」欄に、原発に反対していた丸木俊のことが紹介されています。
以下は、前半部分の抜粋です。
「便利さばかりを求めた。生活スタイルを変えないといけない」。洋画家丸木俊(1912〜2000年)は生前、反原発の立場から、電気に頼り過ぎる生活に苦言を呈していたという▼反原発の原点は反原爆。広島県飯室村(現在の広島市)出身で夫の日本画家丸木位里(1901〜95年)と共作した「原爆の図」に、核廃絶の強い願いが込められている▼位里と俊は67年に丸木美術館(東松山市下唐子)を開設、「原爆の図」連作を展示した。夫妻は美術館の近くを流れる都幾川で魚を捕り、畑で野菜を育てるなど自然とともに生活。なるべく電気を使わないように、美術館にはエアコンも設置しなかった
コラムはこの後、俊が自動販売機設置にも反対していたことを紹介し、1都3県の知事が行政指導による営業時間規制を自販機にも適用できるよう法令改正を国に求めたことや、自販機業界が既に取り組んでいた冷却停止などの節電対策をさらに進めることを取り上げています。
そして、コラムは次の文章で締めくくられています。
俊は自販機について「人と人が向かい合って買えばいい」と話したという。人間が好きだった俊らしい言葉。自戒を込めて、今までの生活を変えてみたい。
なかなか、読後感の爽やかなコラムでした。
埼玉新聞、この頃、とても良い記事を載せて下さっているような気がします。
