2011/2/27

川越スカラ座『ハーブ&ドロシー』トークショー  川越スカラ座

川越スカラ座で好評上映中の映画『ハーブ&ドロシー』(3/4まで)。
その関連企画として、午後4時40分から約1時間のトークショーを行いました。
おかげさまで、とても多くの方にご来場頂きました。
どうもありがとうございました。

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『ハーブ&ドロシー』は、ニューヨークの小さなアパートに住みながら、30年以上にわたって約4,000点の現代アート作品を集め続けたヴォーゲル夫妻の軌跡を追ったドキュメンタリ映画。
トークショーでは、現代アートの流れについての概説をしたあと、『ハーブ&ドロシー』の魅力を3つのポイントから解説しました。
@理論や他者の評価ではなく“見る”ことを大切にする。
A芸術家との人間的なつながりを大切にする。
B日常の生活とアートが連続している。


また、「買う」「売る」「つくる」というテーマで具体的な例をあげて日常とアートのつながりについての話をしました。
「つくる」では、昨年亡くなった大道あやの作品を重点的に紹介。
広島で生まれ、広島で亡くなった大道あやですが、1970年頃から2000年頃まで30年ほど埼玉の東松山や越生で暮らしていました。《小江戸祭り》や《五百羅漢》など川越を主題にした絵画をはじめ、《秩父の夜祭り》や《越生の獅子舞》など埼玉ゆかりの作品を数多く残しているのです。

トークショーの最後には、まとめに代えて、瀧口修造が1962年に母校の富山高校で行った講演「美というもの」の一部分を読み上げることにしました。
『ハーブ&ドロシー』という映画の本質が、「自分の心を触れたものを大切にする」という瀧口修造の言葉に凝縮されていると思えたからです。

私が皆さんに申し上げたいことは、「美というもの」という、一見おおげさなように思えますけれども、人生の間に、ほんの小さなことでもいい、何か自分の心に触れたこと。何も美術館に行って名作に接することだけではないのです。何か自分の気持ちに触れたこと、小石ひとつでもいい、草花ひとつでもいいのです。何かしら自分の気持ちに触れたもの、それが一番大事なことだと思います。それからすべてが始まる。
(「瀧口修造の光跡T『美というもの』」カタログより、企画・構成 土渕信彦、2009年森岡書店)

映画館でのトークショーということもあり、ふだん美術に関心のないお客さんでも興味を持って下さるように心がけて話してみたのですが、トーク終了後に多くの方に声をかけていただいて、とても嬉しく思いました。

当日司会をしてくださった若いスタッフのEさんが、イベントレポートを書いて下さっています。
http://event.k-scalaza.com/?eid=1264268

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お世話になった川越スカラ座のスタッフ、ボランティアの皆さま、どうもありがとうございました。
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2011/2/23

『中国新聞』に“大道あやさんをしのぶ”掲載  執筆原稿

2011年2月23日『中国新聞』朝刊文化欄に、“大道あやさんをしのぶ 明るい絵 根底に被爆体験”との見出しで、岡村の記した1200字ほどの追悼文が掲載されました。

先日の大道あやさん死去のニュース騒動の際にD記者より依頼され、その日のうちに書きあげた文章です。
いち早くあやさんの死を伝えた『朝日新聞』の記事のなかで、「肉親のあやさんが、『原爆の図』に最も本質的な批判をしている点が興味深い。ある意味、『原爆の図』が神聖化されることからも救った」という自分のコメントが紹介されていたことがちょっと気になっていたので、追悼記事ではそのあたりのところを、もう少し丁寧に書くことにしました。
以下は、追悼文からの一部抜粋です。

 兄夫妻の《原爆の図》に、一貫して批判の目を向けていたことも知られている。彼女自身、爆心地から2.5キロの地点で被爆し、「私はありのままを見とる」ため、《原爆の図》は「ちいとちがう、あれは絵じゃからね」と語った。一方、被爆市民の描いた絵には「ああ、このとおりじゃ」と共感を寄せた。1950年秋、完成した《原爆の図》三部作を広島で公開した兄に対しては、「原爆の図は広島へは持って来てくれるな」と厳しい言葉をかけたという。
もちろん、8月6日に広島にいた人のみが“被爆者”ではなく(丸木夫妻は数日後に駆けつけた“入市被爆者”である)、体験者の描く絵のみを“真実”ととらえることも問題はあるだろう。しかし、米軍占領下の時代にいち早く原爆の被害の実態を伝えたことで、ともすれば伝説化されがちな《原爆の図》に、身近な立場から厳しい批判を与えたことは、丸木夫妻の深く複雑な自省の意識を生んだという意味で、重大な影響を与えていたのではないか。あや自身も、90歳を過ぎてからテレビ局の企画で原爆の絵に取り組んだが、結果的に絵は破綻し、「描けない」ことで被爆体験の重みを伝えることになった。


母親であるスマの絵とともに、明るく生きるよろこびにあふれていると指摘されるあやさんの画風ですが、その根底には原爆の惨禍に直面した経験が深くひそんで糧になっていることを忘れてはいけないと思います。
このことは、小沢節子さんが原爆文学研究会や栃木県立美術館などの発表の際にも指摘されていますし、以前、NHK日曜美術館の収録でアーサー・ビナードさんと語り合ったときにも話題になったことでした。
深い悲しみから出発しているからこそ、明るい絵がより明るく輝いて見える。
そんなことを思いながら書かせていただいた追悼文です。
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2011/2/23

「第五福竜丸事件」展展示  企画展

日曜日には、ボランティアのM年山さん夫妻、Y浅さん、Y口さん、M園さん、M木さん、K藤さん、M口さん、M山くん、そして初参加の大学生T口さんとたくさんの方々が参加して下さって、スタッフとともに「冬のみんなのアート祭り」、「大逆事件特別展示」の撤去作業と、26日からはじまる「第五福竜丸事件 ベン・シャーンと丸木夫妻」展の展示作業を行いました。

次回企画展の見どころは、第五福竜丸事件を題材にした丸木夫妻の原爆の図 第9部《焼津》、第10部《署名》と、ベン・シャーンの「ラッキードランゴン・シリーズ」の対比。
ところが、広い企画展示室に両者の作品を並べると、サイズの大きさがあまりに違うので、どうしてもベン・シャーンの作品が目立たなくなってしますのです。

N事務局長から「展示の場所を変えることができないのか」との意見があり、「う〜ん、しかし、同じ空間で比較することが今回の企画の趣旨なので……」と3日間悩み続けたのですが、やはり作品の見やすさを優先した方がいいと、思い切って、本日、スタッフだけで大幅な展示替えを断行しました。

企画展示室には丸木夫妻の《焼津》と《署名》、そして第五福竜丸の復元模型や大漁旗(複製)、解説パネルなどを展示。

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珍しい展示品としては、俊が手がけた原水爆禁止世界大会の第1回大会(1955年)と第4回大会のポスター(現物資料)も紹介しています。

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そして、手前の2つの小さな部屋には、ベン・シャーンの「ラッキードラゴン・シリーズ」と水爆実験反対のリトグラフポスターを並べました。
「こっちの方がずっと見やすい。すごく良くなった!」とN事務局長も絶賛です。

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また、2階のアートスペースには、特別展示として大川美術館のご協力でお借りしてきたベン・シャーンの作品19点を展示。これが非常に見応えがあるのです。
特に、1968年にライナー・M・リルケ『マルテの手記』の挿画として制作されたリトグラフの連作が素晴らしく、心を動かされました。今回は、24点のうち7点を選んでお借りしてきたのですが、ぜひご注目頂きたいシリーズです。

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午前中にはNHKさいたま局のH記者が「第五福竜丸展」取材の打ち合わせのために来館されました。
午後には『埼玉新聞』のA記者が大道あや逝去に関する取材で来館。
ばたばたと慌ただしい日々が続いています。
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2011/2/21

『朝日新聞』に“大道あや訃報”掲載  掲載雑誌・新聞

2011年2月21日付『朝日新聞』夕刊に、“101歳被爆画家 大道あやさん死去”との見出しで、昨年9月14日に逝去した画家の大道あやさんの訃報が掲載されました。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0221/TKY201102210183.html

「原爆の図」に対し、爆心地から2.5キロで被爆したあやさんは「原爆はあんなもんじゃない」と嫌悪感を隠さなかった。兄夫妻が広島に入ったのは原爆投下数日後。「兄さんたちは見てないから描けるんだ」とも漏らしていた。
 だが00年、91歳のあやさんは最初で最後の原爆の絵に挑んだ。遺体の山、黒い雨……。描かれた9枚はそれまでと全く違う荒々しい筆致だった。白骨だらけだった市中の光景を描いた後は、鉛筆で線を描き殴った絵もある。
 原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)の岡村幸宣(ゆきのり)学芸員(36)は「肉親のあやさんが、『原爆の図』に最も本質的な批判をしている点が興味深い。ある意味、『原爆の図』が神聖化されることからも救った」と話す。同館は9月、あやさんと位里、俊、スマの作品を一堂に集めた回顧展を予定する。

〈以上、記事より一部抜粋〉

ご本人の希望により、あやさんの死は四十九日まで親族にも伏せられていました。
そのため、今年1月10日発行の『丸木美術館ニュース』の追悼記事が“第一報”というかたちになったようです。
訃報記事を記した朝日新聞のK記者は『丸木美術館ニュース』であやさんの死を知り、先日、たまたま広島に出張した際に、取材の依頼があったのです。

『朝日新聞』の訃報記事を受けて、今日は休館日にも関わらず、いくつかの新聞社から問い合わせがありました。
先ほど、そのうちの一社から依頼された追悼文を急いで仕上げてお送りしたところです。

NHKや『中国新聞』、『毎日新聞』、『中日新聞』なども次々とネット上で速報を流しています。
http://www.nhk.or.jp/news/html/20110222/t10014203471000.html
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201102210167.html
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110222k0000m060038000c.html
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011022101000631.html
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2011/2/19

川越スカラ座『ハーブ&ドロシー』トークショー予告  川越スカラ座

2011年2月27日(日)、川越スカラ座にて、映画『ハーブ&ドロシー』午後3時の回上映後の午後4時40分よりトークショーを行います。

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場所は川越スカラ座(埼玉県川越市元町1-1-1、電話049−223-0733)。
当日までに川越スカラ座で『ハーブ&ドロシー』(2月19日より上映)をご鑑賞になったお客様には、チケットご購入時にイベント参加券をお渡しします。
映画鑑賞料金は一般1,500円、シニア・学生1,000円。
もちろん、当日午後3時に映画をご鑑賞になった方も引き続きトークにご参加いただけます。

   *   *   *

『ハーブ&ドロシー』(佐々木芽生監督、2008年)は、ニューヨークに住むごく普通の老夫婦・元郵便局員のハーブとその妻で元図書館司書のドロシーが、慎ましい生活のなかで4,000点以上の現代アート作品をコレクションした足跡をたどりながら、彼らとアーティストたちとの心温まる交流を描いた見応えのあるドキュメンタリー作品です。



会場となる川越スカラ座は、川越の中心“時の鐘”近くの路地裏の住宅街のならびにひっそりと建つ、昔ながらの懐かしい佇まいの映画館です。
現在は、地元出身の若い世代がNPOとして運営し、私もボランティアの一員として活動のお手伝いをさせて頂いています。
寄席として営業を開始したのは、なんと1905年。現存する埼玉県最古の映画館だそうです。
シネコン全盛の時代に、こんな時間が止まったような映画館があるのか!と感動すること請け合いですので、ぜひ皆さまこの機会に訪れてみて下さい。
http://www.cinema-st.com/classic/c022.html
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2011/2/18

文学座公演「美しきものの伝説」  他館企画など

午前中は、昨年5月に亡くなられた針生一郎館長のお宅にお伺いして、第2回目の資料調査。
今回は、針生さんの長女のCさん、孫娘のKさんのほか、宮城県美術館のM学芸員、和光大学のM教授もごいっしょでした。
調査を重ねるたびに、あらためて針生さんの積み重ねてきたものの重みを実感します。
M教授の「こうした調査は、短期間に済ませるのでなく、長期的視点で継続していくことが大切」という言葉が身にしみます。
もちろん、本格的な調査は大学や公立美術館にお任せするのが一番なので、丸木美術館ではできる範囲のことをやっていくしかないのですが……。

   *   *   *

午後7時からは新宿南口の紀伊国屋サザンシアターへ行き、文学座公演『美しきものの伝説』(作=宮本研、演出=西川信廣)を鑑賞しました。

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1910年の大逆事件から1923年の関東大震災までの13年間を舞台に、大杉栄、堺利彦、荒畑寒村、辻潤、平塚らいてう、伊藤野枝、神近市子らの社会運動家や、島村抱月、中山晋平、沢田正二郎、小山内薫、久保栄ら新劇運動の担い手が次々と登場し、激しい生を交錯させる、非常に見応えのある舞台です。

時代や“民衆”と向き合いながら、社会の変革そして演劇/芸術の革新を真剣に目ざした若者たちの姿は、おそらくは公演に取り組む役者やスタッフのひとりひとりに共通する普遍的な問題であるだろうし、観客席でそれを見届ける私たちにも通じるものだと思えます。
とりわけ、芸術と社会が鋭く交錯する一瞬の接点を模索するという点では、丸木美術館の現場に関わるひとりとして様々なことを考えさせられました。

紀伊国屋サザンシアターは大入りで、熱気にあふれていました。
ロビーには、同時期に開催中の丸木美術館の「大逆事件100年特別展示」のチラシも置かせて頂いています。
今回の丸木美術館の「特別展示」は、幸徳秋水らの命日に合わせて開催したこともあるのですが、非常に大きな反響を呼んでいます。
「丸木夫妻が《大逆事件》という作品を残していることを知らなかった」
「どうしても《大逆事件》の絵を見ておきたくて足を運んだ」
という声も来館者から聞こえてきます。

特別展示とはいうものの、作品は1点のみ。
関連作品として「足尾鉱毒の図」を2点展示してはいるものの、わざわざ来館して下さった方々は満足して下さるのだろうか、という不安も少しあったのですが、やはり、丸木夫妻の持つ絵の力が大きいのでしょう。
「見て良かった」と感想を伝えて下さる方が多くいらっしゃいました。

常設の「原爆の図」と《大逆事件》を続けて観ることで、そこから何があらわになってくるのか。
展示をご覧になった方々には、十分に伝わったのではないでしょうか。
実作品を展示し、現代の社会の動きや歴史の文脈に位置付けていくことで、作品が新鮮な視点で受け止められていく。
それこそが美術館の役割なのだろうと思いを巡らせながら、劇場を後に家へ帰りました。
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2011/2/17

「第五福竜丸事件」展作品集荷  企画展

2月26日からはじまる「第五福竜丸事件 ベン・シャーンと丸木夫妻」展のため、今週は集荷に駆け回っています。
火曜日は江東区の第五福竜丸展示館から、永田町の丸の内ギャラリー、目黒区美術館、朝霞市の丸沼芸術の森をまわりました。
今日は群馬県桐生市にある大川美術館から作品をお借りしてきました。

今回展示するのは、丸木美術館が所蔵している原爆の図第9部《焼津》、第10部《署名》に加えて、ベン・シャーンの「ラッキー・ドラゴン」シリーズ20点と、第五福竜丸展示館が所蔵する丸木俊による「原水爆禁止世界大会」の第1回と第4回のポスター、そして、個人蔵のベン・シャーンの水爆実験反対ポスター。
それに、第五福竜丸事件の解説パネルや現物資料や模型なども展示して、多角的な視点から事件を振り返ります。

大川美術館の御厚意により、同時開催として「大川美術館所蔵によるベン・シャーン展」も行うことになりました。
搬出の際に作品チェックを行いながら、なかなか見応えのある企画になりそうだな……と胸が弾んでいます。
ベン・シャーンは、リトアニア出身で移民としてアメリカに渡り、数々の社会的なテーマの作品を手がけて高い評価を受けた20世紀を代表する画家です。
丸木美術館で彼の作品が展示されるのは、おそらく初めて。
《原爆の図》と同じ空間を共有することで、日米を代表する“社会派”の画家たちの仕事がどのように響き合うのかという点も、楽しみです。

まだ展覧会初日まで1週間以上あるのですが、マスメディアの方々の反応も良好です。
ぜひ、多くの方にご覧頂きたい展覧会です。
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2011/2/16

『毎日新聞』に「大逆事件展」記事掲載  掲載雑誌・新聞

2010年2月16日付『毎日新聞』の「埼玉まちかど」欄に、“大逆事件100年特別展示”という見出しで、現在開催中(2月19日まで)の特別展示の概要が紹介されました。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110216ddm014040214000c.html

[以下、記事の一部抜粋]
 大逆事件では、1910(明治43)年、明治天皇の暗殺を計画・関与したとして多数の社会主義者などが逮捕され、翌11年1月に幸徳ら12人が処刑された。社会主義弾圧が目的だったとされる。
 「原爆の図」で知られる丸木夫妻は80年代後半、連作「足尾鉱毒の図」の一環として「大逆事件」を制作した。岡村幸宣学芸員は「丸木夫妻にとって、昭和期の戦争に至る過程に、足尾鉱毒事件や大逆事件があった」と指摘する。
 作品「大逆事件」は幸徳らの表情に、処刑の状況などをコラージュした水墨画。群像を描くことの多い丸木夫妻が一人一人の肖像を描くのは珍しいという。


新聞の記事には、共同制作《大逆事件》の右半双の写真も掲載されています。
取材をして下さったO記者は、「冬のみんなのアート祭り」に続いて、会期中に2度も記事を載せて下さいました。
どうもありがとうございます。
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2011/2/13

イメージ&ジェンダー研究会/『祝の島』上映会  他館企画など

午後は武蔵大学で開催された研究会「戦時下日本の女性の美術」に参加。
北原恵さんの「戦時下の長谷川春子―〈Harouko HANOI,1939〉の絵を中心に」、吉良智子さんの「戦争美術展における「銃後」の図像」、小勝禮子さんの「戦時下の日本の女性画家は何を描いたか―長谷川春子、赤松俊子(丸木俊)を中心として」という3つの発表を聴きました。

吉良さんによる女流美術家奉公隊の共同制作《大東亜戦皇国婦女皆働之図》(1944年陸軍美術展出品作)の分析については、以前から一度聴いてみたいと思っていたのですが、今回、はじめてその発表を聴くことができて、とても刺激を受けました。
とりわけ、男性の代替労働者としての女性を主題とするこの共同制作が、「祈る女性像」や「母子像」などを描かず、むしろ女性が協働し自立する男性不在の世界観を描くことで、画家たち自身の意識を超えて従来の“銃後”のイメージを逸脱し、近代国家の意図するジェンダー秩序に揺らぎを与えているという指摘は、非常に興味深く感じられました。
この作品が収められている靖国神社の遊就館には、まだ一度も行ったことがないのですが、いずれ機会を見て作品を実見したいと思います。

   *   *   *

夕方からは市役所のKさんと待ち合わせて、九段会館で行われた映画『祝の島』(纐纈あや監督、2010年)上映会に参加。
山口県の上関原発計画に30年近く前から反対を続けている祝島の人びとの様子を生き生きと記録したドキュメンタリ作品です。



上映の後、纐纈監督と哲学者の内山節さんの対談が行われたのですが、内山さんの発する言葉のひとつひとつが非常に面白く、心に沁みました。

心に残ったのは、原発問題について、「どちらが正しいかを争ってはいけない」という内山さんの言葉でした。
何が正しいのかは物事を見る角度によって変わります。
エネルギー問題を解決すべきという原発推進派の意見もひとつの回答と言えるかもしれません。
しかし、それぞれ別の角度から「どちらが正しいか」を争うのではなく、「何が大事か」、つまり、原発の建設と島の人びとの暮らしのどちらが大事か、という視点で考えることが必要なのではないか、という内山さんの意見には、目から鱗が落ちるような思いがしました。

実は内山さんはKさんの恩師であり、つまり、丸木美術館も深く関わっている地元の「ホタルの里」計画には、間接的に内山さんの思想が大きく影響しているのです。
この日の対談でも、内山さんは「コミュニティとは横につながる人びとの関係を指すけれども、日本の村落に古くからある共同体は縦軸が重要視されていた。今生きている人だけでなく、地域を作ってきた“祖先”やこれから生れてくる“子孫”、それだけでなく“自然”とも今の自分たちはつながっているんだという考えをもとにして、物事の判断をすることが大切だ」という趣旨の発言をされていました。
自省を込めて、深く考えさせられる言葉でした。
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2011/2/13

原爆小文庫と立川展感想文集  1950年代原爆の図展調査

午前中、東京・西東京市のひばりが丘図書館を訪れました。
以前から訪れたいと思っていたのは、ここに旧保谷市在住だった故・長岡弘芳氏が収集した原爆関連資料をもとにした「原爆小文庫」が保存されているためです。

現在、4月からはじまる目黒区美術館「原爆を視る1945-1970」展の図録用の論考を書くため、全国の図書館などに調査依頼して1950年代はじめの「原爆の図展」資料を収集しています。
当時の「原爆の図展」は、日本全国を巡ったことが伝説的に知られているものの、いつどこで誰が開催したのか、という具体的な検証が行われたことはありませんでした。
もちろん、記録に残らない展覧会も数多くあるだろうと思われ、60年の歳月が流れた今となってはすべてを掘り起こすことは難しいのですが、今回の目黒展を機に、できる限りの調査をしておきたいと思っているのです。

その一環として、先日、立川市中央図書館に「原爆の図展」の調査協力を依頼しました。
すると、調査担当の方がたいへん親身になって協力して下さり、開催日時や主催団体などの情報を教示してくれた上に、ひばりが丘図書館に立川展の感想文集が所蔵されているということも突き止めて下さったのです。

長岡弘芳氏は、丸木美術館とも深いかかわりのある原爆文学研究者。
こうしたかたちで原爆小文庫とつながった以上、やはり直接ひばりが丘図書館に足を運んで、実際に原爆小文庫と感想文集を確かめてみたいと思いました。

原爆小文庫は、開架書棚のひとつのコーナーになっていましたが、感想文集のような古い資料は閉架書庫に保存されているので、係の方にお願いして閲覧させて頂きました。

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(写真が感想文集、編集後記によればカットは「丸木、赤松両先生」、おそらく俊の筆)

1952年8月15日-17日 立川南口公民館
立川平和懇談会主催「原爆美術展」
原爆の図5部作と東京都立大学学生有志の集めた写真資料を展示


当時の立川には米軍基地があり、朝鮮戦争の緊張状態がいまだ続く時代。
朝鮮半島に向かう飛行機が続々と立川基地から飛び立っていたときに行われた「原爆の図展」ということで、主催者側の苦労も並大抵でなかったことでしょう。
しかし、その分反響も大きく、成功した展覧会であったと思われます。
感想文集『平和のために』(1952年9月9日、立川平和懇談会発行)の序文には、岸清次氏による次のような文が記されていました。

この三日間、政治、宗教、或は物の見方は異つても戦争より平和を!二度と廣島の悲劇を繰り返すな!と集つた延一八七名の、それこそ何の報はれることをも求めない涙ぐましい程の青年達の献身的な奉仕と協力に依つて開かれたものであつて、然も立川市長初め隣接十一町村長と立川地区労協傘下の各労組並に各文化団体宗教家等の賛同の下に、特に十七日は赤松俊子画伯の来場講演を得て盛大に行はれ、三日間に九、九〇七名の入場者(子供を加えると一万二千以上)と平和に関係ある各種署名四千七百八十九票、並に多くのカンパと感想文も百六十余通に達し大成功の中に終つたものであつて、一部は映画に迄収められている。

感想文集には、子どもたちや母、若者、勤労青年などの項目にわかれて、たくさんの感想文が記録されています。
なかには、以下の2つの感想(ともに一部抜粋)のように自身の住む町と原爆を結びつけて考えるような内容も見られました。

原爆展を見
毎日、毎日、身近に鈍い飛行機の音をきく
今この会場で汗を忘れ息をたかならせて絵に見入るとき
この今も不気味な爆音は、私たちの人間の命をふるわせて頭上をとぶ

立川に原爆展開かる。私達の忘れられぬ八月十五日、終戦記念日、此の植民地化されつゝある国際都市立川に於て、あの惨酷な地獄図を見て、誰もが云う「あゝ戦争はいやだ」展覧会を見て出てくる人々の顔に暗いかげがさしている。


後に美術批評家となるヨシダ・ヨシエ氏の詩も、文集に収められていました。
そこにもやはり、基地の街という立川の特殊性がうたわれています。

こころゆくばかり哭きました
はげしい怒りにふるえました
そうして

今あらあらしい感情のゆらぎの底に
固い誓いを切ないくらいおもいながら
家路に向うのです

今日の涙を覚えていよう
このいきどおりを忘れまい
頭上には不吉な尾を引いて
今日も爆音がひゞきます
一機 二機 三機 五機
そうしてそれが
明日は世界をおおう
不気味な黒雲になりはしないか
ひそかにわたしはおそれます

(以下略)

こうした感想文集は、当時の巡回展の状況を知るうえで、たいへん貴重な資料となるのです。
立川市中央図書館をはじめ、たくさんの資料をご教示下さっている全国各地の図書館の調査担当の皆さまには、本当に心から感謝いたします。
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2011/2/11

朗読+即興演奏『幻の声 NHK広島8月6日』  イベント

朝から雪の降る寒い一日。
世間的には“建国記念の日”として知られる日ですが、丸木俊の誕生日でもあります。

このところ3年続けてこの日に朗読+即興演奏を行っている青柳秀侑さんと高瀬伸也さんが、今年も丸木美術館で「2・11に読む 〜『幻の声 NHK広島8月6日』の朗読+即興演奏」と題する自主イベントを開催して下さいました。

ただでさえ暖房がない美術館。
しかも外は雪ということで、炬燵のある小高文庫で開催しては…?という職員の声もあったのですが、「絵の前の緊張した空気のなかでやりたい」というお二人の希望で、新館ホールで行うことになりました。

それでも、予想以上に参加者が集まり、非常に興味深いイベントになりました。

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“建国記念の日”は、『日本書紀』が伝える神武天皇即位の日に由来するようですが、戦前・戦時期には“紀元節”として祝われ、1948年に廃止された歴史があります。
高瀬さんによれば、「そうした背景を持つ日に、あえて原爆を題材にした文章を朗読することで、そこから何が感じられるかを受け止めてもらいたい」という試みです。
この日は、白井久夫著『幻の声 NHK広島8月6日』(岩波新書、1992年刊)から抜粋された文章のほかに、100年前の日韓併合条約の条文なども朗読され、背景に存在する丸木夫妻の《南京大虐殺の図》と共鳴して、ひとつの歴史の文脈があらわになったような思いがしました。

ちなみに『幻の声 NHK広島8月6日』は、「原爆が投下されたすぐあと、広島のラジオから美しい悲しい女の声が呼びかけやがて途切れた。その人はどうしたのか」という一通の手紙がNHKに届いたことから、17年のあいだその“幻の声”を追って取材を続けたというディレクターによる、非常に興味深い著書です。
朗読とフルートやシタールの即興演奏の素晴らしい構成もあって、参加者は惹きこまれるように聴いていました。
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2011/2/10

【広島出張2日目】 平和記念資料館など訪問/新聞取材  調査・旅行・出張

朝9時から丸木美術館のO関評議員とともに広島平和記念資料館にて広島市職員の方々と会議を行いました。意外なようでもありますが、広島市の職員と顔を合わせて話をするのは、この10年間で初めての体験でした。言うまでもなく、丸木夫妻そして《原爆の図》にとって、広島との関係は決して切り離せない重要なものです。
今後もぜひ継続して、連携を深めていきたいと思いました。

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会議の後は、平和記念資料館のS副館長にご案内頂いて館内を見学。
個人的には10年ぶりの見学で、この機会にいくつか質問をさせて頂きましたが、S副館長、O氏らが丁寧に答えて下さいました。
以下、自身の備忘録も兼ねて、質問の内容を記しておきます。

@戦後の数年間、原爆ドームの南側に存在し、最初の原爆の図展の会場にもなった謎の建築物「五流荘」とはどのような建物だったのか?

五流荘は1947年頃、茶華道の発展を意図した建築主・梶尾健一によって建てられました。
当初は茶室や住まいが建てられましたが、やがて大きな集会場や客間が増築されました。
本来はそれらの集合が五流荘なのですが、一般には棟高5.5m、広さ40坪の三角屋根の大きな集会場を五流荘と読んでいたとのこと。
のちに小島辰一が居住し「広島爆心地文化研究所」と名付けて、平和運動などに極めて開放的に使われたようです。
ちなみに原爆の図展は1950年10月に峠三吉らの詩人集団「われらの詩」の協力によって開催されました。

A松重美人が撮影した1945年8月6日当日の御幸橋での有名な写真は、最初期のヴァージョンには左端に横たわる遺体がはっきり写っているのに、その後の写真では遺体が消えてしまうのはなぜか?

これについては『広島平和記念資料館調査研究会研究報告』第4号(2008年3月)に中国新聞編集委員の西本雅実氏が記していました。
最初期の観光記念写真や1946年7月6日付『夕刊ひろしま』に掲載されたヴァージョンには、全身に大火傷を負った男性と思われる遺体が横たわっているのですが、松重氏が「あまりにむごくて……」と自ら撮影したフィルムにあえて傷をつけて、遺体を識別できなくしたのだとのこと。
8月6日に松重氏が撮影した写真はわずかに5カット。非常に貴重な写真なので、傷がないヴァージョンを使用するべきだとの声もあるそうですが、平和記念資料館の方針としては、著作者の意向を尊重して傷ついて見にくいヴァージョンを館内に掲示しているそうです。

B毎年8月6日に行われている記念式典は、いつからどのような形ではじまったのか?

これは、館内の年表をたどることで様子がわかりました。
原爆投下翌年の1946年8月には、早くも5日に広島市平和復興市民大会が開催されています(これが後の平和記念式典につながるわけです)。また、6日には戦災死没者1周年追悼法会も開催されています。
1947年8月6日には平和祭を開催。浜井市長が平和宣言を発表します。
翌1948年8月6日にも平和祭を開催。浜井市長の平和宣言と永久平和を訴えるメッセージを世界160都市に送付したそうです。
ところが、その平和祭が中止になった年があります。朝鮮戦争のはじまった1950年、占領軍の指令ですべての集会が禁止されたのです。
丸木夫妻が原爆の図を持って巡回展をはじめた年が、いかに厳しい弾圧のあった時期だったかがわかります。そのとき丸木夫妻は、GHQ本部の目と鼻の先にある有楽町の交通会館で「原爆の図三部作完成記念会」を盛大に開催しているのだから、凄いですね。
1951年からは慰霊式と平和記念式が開催され、とうろう流しが実施されるようになったのです。

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林重男氏のパノラマ写真と焼け跡を鳥瞰する模型展示の前では、解説ボランティアのKさんが「この写真が撮影される前に台風があり、それまで路上に放置されていた重傷者や死体が海に流された。その頃から、街の腐臭が消えた」と体験談を語って下さいました。
話を聞いているうちに、Kさんが被爆体験者ではなく、集団疎開によって広島を離れているうちに原爆で家族を失った“原爆孤児”であることがわかってきました。

Kさんの話では、似島の収容施設に入ることができたのはごく一部で、大多数の孤児は頼る人もなく、その年のうちにほとんどが餓死か凍死で亡くなっていったとのこと。
そのとき孤児たちの面倒を見たのが土地抗争のために広島に集まってきた“ヤクザ者”で、孤児たちは彼らの手先となって、せっかく救われた命を抗争のなかで失っていった―それも“ヤクザ者”の死として扱われていったというのです。
こうした話は漫画『はだしのゲン』にも登場していたような気がします。
「禎子と千羽鶴の話は誰でも知っている。でも、“原爆孤児”の話も多くの人に知ってもらいたい」というKさんの言葉には、強い説得力がありました。

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平和記念資料館では、丸木夫妻がどのように紹介されているかに注目して見学しました。
もっとも目についたのは、「占領軍とプレスコード」という項目に、丸木夫妻の手がけた絵本『ピカドン』の表紙画像と中の2カットが紹介されていることです。
ただし、キャプションには「原爆の惨状を伝える画文集『ピカドン』」とあるだけで、作者が丸木夫妻であることは記されていません。

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他には、マザー・テレサの写真の下に記された「平和の芸術作品」という項目に、「平和のための絵画・彫刻は数多く制作され、広島市にも国の内外から作品が寄せられています。比治山の広島市現代美術館は、美の創造をとおして平和を語りかける作品を多く収蔵しています。国内では「原爆の図丸木美術館」(埼玉県東松山市)が有名です」という記述がありました。

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また、本館に向かう廊下には、平和記念資料館を訪れた著名人として、丸木夫妻の写真が紹介されていました(右下)。
以前に平和記念資料館に常設展示されていた《ひろしまの図》を広げている場面でしょうか。

全館を見学させて頂いて、あらためて、平和記念資料館が、時系列の流れに沿って多角的に原爆についての充実した展示を行っていることがわかりました。
ただ、丸木美術館の学芸員としては、芸術という枠を超えて原爆の惨状を世界に伝える上で重要な役割を果たした《原爆の図》に関する紹介がまったくないという点が、少々残念でした。
20世紀を代表する優れた芸術作品であり、とりわけ、占領下の厳しい報道規制に多くの新聞が報道を控えていた時期に、いち早く全国を巡回して核廃絶の動きに大きな影響を与えた《原爆の図》の魅力と重要性を、広島を訪れた方々にどうすれば知ってもらえるのか、という課題をつきつけられた思いがしました。

   *   *   *

平和記念資料館を見学した後は、広島市職員の方々に案内されて広島市現代美術館へ。
館内の様子を少し見学し、学芸員の方と話をした後、O関評議員や市職員の皆さんとはお別れして、市内中心部にあるA新聞社広島総局を訪れました。

昨年9月に亡くなられた画家の大道あやさんに関する取材の依頼があったのです。
以前からあやさんに関心を寄せていたという記者の方は、非常に丁寧に取材をして下さり、今年9月から10月にかけて丸木美術館で開催予定の「追悼 大道あや展」についても紹介して下さるというので、とても嬉しく思いました。

この取材を終えて、2日間の慌ただしい広島出張のスケジュールは終了。
午後8時広島駅発の夜行バスで東京に戻りました。
牡蠣の美味しい季節なのに、結局、広島風お好み焼き(平和記念資料館のS副館長が美味しい店を案内して下さいました)しか広島らしい料理を食べられなかったのは残念でした。
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2011/2/9

【広島出張初日】広島県立美術館/広島拘置所/広島県立図書館  調査・旅行・出張

急に広島へ出張することになり、夜行バスに乗って午前9時過ぎに広島駅へ到着。
午前中は広島県立美術館へ行き、所蔵作品展を観てきました。

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22日から巡回してくる「『日本画』の前衛1938-1949」を観ることができないのは残念でしたが、この企画展に合わせて紹介された第1室「マックス・エルンスト《博物誌》」、第2室「広島画壇の先鋭・山路商とその時代」、第3室「日本画革新の系譜」、第4室「陶芸の前衛 走泥社」などの展示は見応えがありました。

マックス・エルンスト(1891-1976)は、シュルレアリスムを代表する芸術家として、丸木位里や歴程美術協会の仲間たちに多大な影響を与えました。
今回の展示の中心は、木目や貝殻、木の葉などの上に紙をおいて鉛筆や木炭で表面の凹凸をこすり取る“フロッタージュ”と呼ばれる技法を駆使して制作された《博物誌》。
「海と雨」ではじまり、「イヴ、我らに残された唯一の女」で終わる34点の連作は、1926年に画廊主ジャンヌ・ビュシェによって版画集として刊行された、エルンストの代表作のひとつです。
“フロッタ―ジュ”によって写しとられた自然物の模様を巧みに構成し、筆を加えて幻想的なイメージの世界が存分に表現されています。
同じ第1室には、イサム・ノグチのブロンズ彫刻《追想》(1944年)やサルバドール・ダリの《ヴィーナスの夢》(1939年)、ルネ・マグリットの《人間嫌いたち》(1942年)、ベン・シャーンの《強制収容所》(1944年)などの作品も展示され、興味深く観ることができました。

第2室で特集されている山路商(1903-1944)については、『丸木美術館ニュース』第104号でも紹介させて頂きましたが、1920年代から広島で前衛美術運動の中心として活躍し、若き日の丸木位里にも大きな影響を与えた油彩画家です。
以前から興味を抱いていましたが、実際に14点もの作品を観るのは初めて。
《男(眠れる)》(1931年頃)や《T型定規のある静物》(1932年)、《犬とかたつむり》(1940年)、《自画像》(1942年)などの作品はとても印象に残りました。
同じ部屋では、靉光の《帽子をかむる自画像》(1943年)や、当時広島の画家たちの集いの場だった黒川医院の芳名帳に描きこまれた丸木位里の三瀧寺の絵なども観ることができました。

第3室「日本画革新の系譜」では、丸木位里の《竹林》(1964年)、船田玉樹の《春の鐘》(1950年)などとともに、橋本雅邦や横山大観、速水御舟、甲斐庄楠音、平山郁夫らの作品が紹介されていましたが、児玉希望という画家の《新水墨画十二題》(1959年)という連作に心を惹かれました。水墨のにじみを生かして描かれた実験的な抽象絵画。それぞれのタイトルも「梵唄」、「滴律」、「海禾」、「雲似」と哲学的で、宇宙の根源のような不思議な作品に、もう少しまとめて観てみたい、という気持ちにさせられました。3月1日からは位里の友人である浜崎左髪子の絵画が特集され、6点ほど展示されるそうなので、こちらもちょっと観てみたかったです。

   *   *   *

その後は、県立美術館の近くにある広島拘置所へ。
以前、目黒区美術館のM学芸員にご教示頂いたのですが、この拘置所の外壁には、広島の画家・入野忠芳氏が制作した長さ190mの壁画があるのです。

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1989年に広島城築城400年を記念して広島市が企画し、入野氏に依頼したもので、1808年に本川沿いの繁栄が描かれた「江山一覧図」をもとにしながら、広島の城下町の風景、巨大な鯉や龍などの迫力のある姿が描かれています。

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太田川舟運の図もあり、丸木位里の故郷を思い出させるような描写に見入っていると、牛が描かれているのを発見。牛は位里の大好きな題材です。

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たしか、位里の実家でも牛を飼っていたはず。
太田川と牛は切り離せない関係にあるのかと、壁画を見ながら気づかされました。
制作から20年が経過しているため、さすがに色彩などの劣化はまぬがれないのですが、2009年から5年計画で修復中とのことで、部分的には鮮やかな色彩が再生されていました。

   *   *   *

午後からは広島県立図書館に移動して1950年代はじめの『中国新聞』を調査。
原爆の図巡回展について新しい情報を得られたら……と期待していたのですが、1950年9月26日に加計町で開かれた「原爆の図三部作表装完成展」の展示会場(常禅寺)が判明した程度で、あまり多くの収穫はありませんでした。1953年6月に原爆の図三部作がヨーロッパへと旅立ってからは、(その後も日本に残された作品で全国巡回は継続されたのですが)新聞が記事として取り上げる機会は少なくなってしまったのかも知れません。
その一方、1953年8月7日から6日間、東京日本橋の白木屋で中国新聞社主催、広島県・広島市後援による「ノー・モア・ヒロシマズ広島原爆展」が主催され、福井芳郎による「原爆記念画」7点が展示されたという『中国新聞』の記事を見つけました。
丸木夫妻だけではなく、さまざまな芸術家たちの表現が原爆のイメージを伝え、大きな反響を得ていたことを、あらためて考えさせられます。
おそらく今年4月から目黒区美術館で開催される「原爆を視る1945-1970」展は、そうした問題を見つめなおす貴重な機会となるのでしょう。
そのなかで、丸木夫妻の《原爆の図》が果たした役割がどのようなものであったということも、浮かび上がってくるのだろうと思います。

夕方にはホテルの喫茶店にて、位里の妹で昨年9月に101歳で亡くなった画家の大道あやのご遺族の方と待ち合わせ。
今年9月から10月にかけて丸木美術館で予定している企画展「追悼・大道あや展」のための打ち合わせを行いました。
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2011/2/5

記録映画上映会『阿波根昌鴻 伊江島の戦い』  イベント

午後2時より、丸木美術館に隣接する野木庵で記録映画『教えられなかった戦争・沖縄編 阿波根昌鴻 伊江島の戦い』上映会が行われました。

予定では美術館内の丸木夫妻の元アトリエ小高文庫で上映会を行う予定だったのですが、事前の反響が大きかったために、前日になって会場を野木庵に変更。
30人を超える参加者があり、大盛況となりました。

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『教えられなかった戦争・沖縄編 阿波根昌鴻 伊江島の戦い』は、1998年度キネマ旬報ベストテン文化映画第1位に選ばれた作品。
沖縄県の伊江島で長年土地闘争の先頭に立ち続けた反戦地主・阿波根昌鴻さんを軸にしながら、近現代の沖縄の複雑な歴史を掘り下げていくという見応えのある記録映画です。

今回の企画者である事務局のN野さんが残念ながら急きょ参加できなくなってしまったのですが、ボランティアのM山くんが司会の大役を務めてくれて、上映会は無事に終了。

その後、上映に尽力して下さったN内さんや、参加者のひとりで旧知のM山さんと雑談をしたのですが、やはり映画のなかでもっとも強烈に印象に残ったのは、“反戦”の思想がそのまま血肉化されたような阿波根さんの存在感でした。
基地をめぐって対立する米軍に向かっても、徹底して穏やかな対話を貫く姿勢。
大地から思想を汲み取るようにして、“愚直”とも思えるほど、わかりやすい言葉を選ぶ語り口。
あまりにゆっくりしたテンポでお話をされるので、はじめは少々驚いたのですが、次第にそのリズムに惹きこまれ、言葉の重みが心に沁み込んでくることに気づくのでした。

丸木美術館では、入口ロビーにて阿波根さんの著書『命こそ宝―沖縄反戦の心』(岩波新書、1992年)を取り扱っています。この機会にぜひお求めください。
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2011/2/3

佐喜眞館長が琉球新報活動賞受賞!  その他

沖縄県宜野湾市の米軍普天間基地から返還させた土地に、丸木夫妻の描いた《沖縄戦の図》を常設展示する佐喜眞美術館を開館し、長年にわたり美術館活動を続けてこられた佐喜眞道夫館長が、このたび、第33回琉球新報活動賞(社会活動部門)を受賞されました。

http://sakima.sakura.ne.jp/sblo_files/sakima/image/20110128_ryukyushinpo_katudousyou1024.jpg

2月4日には、琉球新報ホールにて贈呈式・祝賀会が開催されるとのことです。
丸木美術館にとっても、非常に嬉しいニュースです。本当におめでとうございます。
昨年は、普天間基地の移設問題が非常に大きくクローズアップされた年でもありました。
なぜ沖縄に米軍基地があるのか。その根本的な問題をもっともよく見わたせる、そして想像力を喚起させる場所が、この佐喜眞美術館であると思います。
これからも佐喜眞館長のご活躍、そして佐喜眞美術館の発展を、心よりお祈り申し上げます。
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