2011/1/29

「『日本画』の前衛 1938-1949」講演会  館外展・関連企画

午後2時から東京国立近代美術館で行われた「『日本画』の前衛 1938-1949」展の講演会に参加しました。
この展覧会の企画者である京都国立近代美術館学芸課長・山野英嗣さんの「日本画の前衛―『歴程美術協会』を中心に」と題する講演です。

山野さんには、この企画の準備段階で初めてお会いして、たいへんお世話になったのですが(今展に際し、丸木美術館の所蔵する丸木位里の《馬》=1939年第2回歴程美術展出品作=を京都国立近代美術館さんに修復して頂きました)、「日本画」や「前衛」の概念を丁寧に見直そうとされる真摯な姿勢には非常に感銘を受けました。

この講演でも、温和な語り口でわかりやすく展覧会の企画意図や個々の作品について刺激に満ちた解説をして下さり、あっという間に1時間半が過ぎて行きました。
山野さんのお話を伺いながらあらためて感じたのは、画家は作品が残っていてこそはじめて評価がなされる、ということ。とりわけ、戦前・戦中期の画家は、戦争という大きな障害があるため、失われた作品が多く、評価が難しいのです。
今展で、近代「日本画」史上、最初の前衛運動であると位置づけられている歴程美術協会の出品作も、山野さんや広島県立美術館の永井さんがたいへんな努力をされて、集められる限りの作品を展示されているのですが、存在を確認できなかった作品が多数あります。全貌を知る、ということは今日では極めて困難と言わざるをえません。

山野さんが映像で紹介された作品40点のうち、17点はそうした“失われた作品”でした。
村山東呉という画家など、作品が現存していれば日本のシュルレアリスムを代表する画家のひとりとして評価されたに違いないと思えるほど、興味深い作品の写真絵葉書が残されているのですが、残念なことに、今展では1点も作品を見ることができません。

それでは、せめて残された写真をパネルにして会場に展示すればいいのではないかとも思ったのですが、「それではだめなんですね」と山野さんは講演の最後におっしゃっていました。
展覧会は実作品を前にして、一人の人間と作品が対話することに意味がある。展覧会を開くことで作品は生まれ変わり、あらたな美術史が作られる
この言葉は、とても深く心に響きました。

今回の展覧会を、山野さんは「“日本画”や“前衛”という概念について、そして日本の近現代美術史について考えるひとつのはじまりにすぎない」と位置づけられていました。
しかし、そうした「はじまり」を指し示すことこそ、本来、展覧会の重要な役割ではなかったか。
集客などの問題も、もちろん無視してはならないと思うけれども、展覧会の持つ本質を決して見失ってはいけないと、自戒を込めてあらためて深く考えさせられました。

   *   *   *

講演のあと、とても嬉しい出会いがありました。
以前から電話では何度もお話をしていたものの(丸木美術館に来館して下さったときは、私がたまたま不在だったこともあり)一度もお会いしたことがなかった某新聞の文化部の記者さんに、初めてお会いすることができたのです。

年齢が近いということもあってか、たちまち意気投合。
ご一緒に「『日本画』の前衛」展を閉館時間ぎりぎりまで見た後、喫茶店で1950年代の原爆の図巡回展の調査や“再制作版”のことなど、時間を忘れて話し込んでしまいました。
記者さんにお話をすることで、あらためて自分のなかで整理できたことも多く、たいへん貴重な時間になりました。
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2011/1/28

『埼玉新聞』に「アート祭り展」紹介  掲載雑誌・新聞

2011年1月28日付『埼玉新聞』県北版に“絵画、工作、立体で表現 障害者、健常者の作品展”との見出しで企画展「冬のみんなのアート祭り」が写真入りで掲載されました。
以下は記事の一部抜粋。

東松山市下唐子の原爆の図丸木美術館で、障害者や健常者、芸術家、初めて絵を描いた人などが集まって盛り上げている展覧会「冬のみんなのアート祭り」が2月19日まで開かれている。
(中略)
げたの裏や木の皮、丸太を輪切りにしたものに色を付けた置き物、使用済みの切手をあしらった飾り物などが並べられている。どの作品もユニークで、来館者の笑いを誘っている。
岡村幸宣学芸員は「丸木夫妻は絵は誰にでも描けるという考え方を持っていた。美術館は特別な存在と思われがちだが、この展覧会を見ることで自分たちとのつながりを感じてもらいたい」と話している。


さっそく、記事をご覧になった方も来館して下さっています。
いつもわざわざ足を運んで取材をして下さるA記者に感謝です。
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2011/1/26

栃木県立美術館「ズィビレ・ベルゲマン展」  他館企画など

埼玉県立浦和図書館での調査を終えた後、午後からは栃木県立美術館で開催中の「ズィビレ・ベルゲマン展」(1.22-3.21)へ。

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旧東ドイツで活躍した女性写真家のズィビレ・ベルゲマン(1941-)の写真125点を紹介する企画展です。
ゲルハルト・リヒターやA.R.ペンクなど、東ドイツから西ドイツへ活動の拠点を移して国際舞台で活躍した芸術家は多くいますが、彼女はやがて消滅する国家と運命をともにするかのように、最後まで故郷のベルリンに残り続けました。
そのため、統一後はしばらく忘れられかけていましたが、近年、東ドイツの文化状況を見なおす作業が進められるとともに、ようやく再評価がなされるようになったそうです。

西側の華やかな消費文化とは一線を画し、簡素ながら先鋭的な衣装を身にまとう女性の知的な内面そのものを写し取る独自のファッション写真には、“異なる価値観”を硬質な美に高めたことへの静かな感動を覚えます。

私を魅了するのは世界の中心ではなく世界の周縁です。私は取り替えることのできないものに心惹かれるのです。いわく言い難いものが表情や風景の中に時折あらわれてくるのです…

という彼女の言葉は、あるいは“消滅国家”、つまり世界の主流から離れた“周縁”の最たるところで表現を深めたからこそ発せられる言葉かも知れません。

丸木美術館という、“周縁”の美術館に身を置く人間のひとりとして、何とも言えず心を動かされる思いがしました。
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2011/1/26

1952年9月「原爆の図埼玉大学展」  1950年代原爆の図展調査

午前中は埼玉県立浦和図書館で1952年夏の『埼玉新聞』を調査。
昨年10月、1952年から翌年にかけて「原爆展」の巡回展に関わったという元都立大生のお話の聞きとりを行った際、「たしか埼玉県にも巡回した……」という証言があったので、その裏付けとなる新聞記事を探しに行ったのです。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1494.html

1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効後は「原爆展」も新聞報道されることが多くなっていたので、地元紙には記事が出ているのではないか。そして、学生主導の展覧会であるならば、開催時期は夏休みかその前後の可能性が高いのではないか……と推測して、1952年夏の『埼玉新聞』を読みこんでいったのですが、7月、8月と記事はなく、あきらめかけたとき、ようやく!
1952年9月20日の紙面の片すみに、“せい惨、目をおゝう きのう浦和で「原爆展」開く”という記事を発見しました。

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「ノーモア・ヒロシマ」総合原爆展は埼大学生自治会、同教職員組合、アジア太平洋地域平和会議推進埼玉平和会議共催、本社後援のもとに昨十九日より浦和市小松原学園講堂に写真グラフ、デッサンなど多数出品開催された。午後三時までの入場者は約三千名、ニューヨーク美術団体よりの招きで画いた丸木位里、赤松俊子共同制作の原爆の図は畳六枚、幽霊、火、水の三部より成る大作で原爆展の圧巻、見学者はそのむごたらしさに目をおゝいながらも原爆の怖しさをまざまざとみせられノーモアヒロシマの印象を強くした。
 なおこの原爆展はきょう廿日も同小松原学園で、廿一日から廿三日の三日間は埼大講堂で開催される。


以前にお電話で連絡を頂いた別の方の証言にも「埼玉大学で《原爆の図》を観た」という話があったので、その証言とも符合します。
主催には埼大学生自治会が名を連ねていますが、占領下における京都大学、北海道大学の展覧会からはじまり、1952年4月の主権回復後に東京教育大学、都立大学、愛知大学など学生たちによって大きく広がっていった流れのひとつに「埼玉大学展」も位置づけられるのでしょう。

問題は、このとき展示された「幽霊、火、水の三部」が“オリジナル”だったのか、“模写”だったのか、という点です。
“オリジナル”の巡回展を記録したと思われる野々下徹氏のメモにはこの「埼玉大学展」が含まれていないこと、先の元都立大生の回想でも「埼玉では模写を展示した」と語られていたこと、この時期にはすでに第6部《原子野》まで完成していたにもかかわらず、3部作しか展示されなかったことから、“模写”の可能性は高いと思われます。
しかし、その野々下メモでは、1952年9月に開催されたのは「増上寺 5日間」「青山学院 4日間」のみとなっており、“オリジナル”は比較的日程に余裕があるようにも思われます。
(もっとも、野々下メモでは1952年8月とされていた板橋の展覧会が実際は9月開催だったことが先日の調査でわかったので、そのまま鵜呑みにはできませんが)

埼玉大学で行われた「原爆展」が、他の埼玉県内の都市にも巡回していたのか(元都立大生の証言では川越などでも開催されたとのこと)。
増上寺や青山学院で行われたという展覧会の日程が埼玉大学展と重複していないか。
これから調査すべきことの方向性も徐々に見えてきたような気がします。
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2011/1/24

“教育紙芝居”の調査  調査・旅行・出張

この日は美術館の休館日でしたが、息子の通う幼稚園が所蔵している紙芝居を一日がかりで調査させて頂きました。

以前、“教育紙芝居”の草分けとして知られる高橋五山のご遺族の方が紙芝居の調査に丸木美術館に来館して下さったことがありました。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1517.html

そのとき、「古い紙芝居を調査するなら、図書館よりも、歴史のある幼稚園などを調査した方が良い」というお話をお聞きしました。
息子の通う幼稚園は創立100年を超えるという、古い歴史をもつ幼稚園。
調査をさせて頂いたところ、実に200点以上の紙芝居が所蔵されていました。

もっとも古い紙芝居は、1933年の発行。
同年に創設された“紙芝居刊行会”が発行したキリスト教普及を目的とする「福音紙芝居」シリーズでした。

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写真は『獅子穴のダニエル』(編集=今井よね、紙芝居刊行会、1933年10月20日発行)。
紙芝居刊行会の設立者・今井よねは、アメリカでキリスト教を学び、帰国後に自宅で伝道をはじめましたが、当時は『黄金バット』などの“街頭紙芝居”が大人気。拍子木の音がすると子どもたちが外へ出てしまうので、紙芝居を伝道に利用することを思いついたそうです。
当時の街頭紙芝居は手書きが主流でしたが、今井よねは大きさを街頭紙芝居の2倍にして、彩色し印刷出版しました。
これが現在も教育現場で活用されている、いわゆる“教育紙芝居”のはじまりで、B4版というこのときの紙芝居の定型は、現在も受け継がれています。

その後、紙芝居にも戦争が大きく影響し、いわゆる“国策紙芝居”が全盛となる時代が来るのですが、調査した幼稚園には戦争に関連する作品はありませんでした。
一方で、高橋五山の立ち上げた全甲社などが刊行する良心的な“文芸紙芝居”も、戦時中に刊行されていたようです。

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泣いた赤鬼』(原作=濱田廣介、脚本=松葉八十子、絵画=西原比呂志、製作=日本教育紙芝居協会、1943年11月10日発行)はそうした作品のひとつと言えるのでしょう。

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花咲爺』(撰=相馬泰三、画=澤令花、発行所=東亜国策画劇株式会社、1944年7月15日発行)は、内容は一般的な昔話ですが、発行所が“東亜国策画劇株式会社”となっているところに時代を感じます。

敗戦後は、一転して平和や民主主義を普及する内容の紙芝居が増えます。
1950年に高橋五山が設立した“教育紙芝居研究会”から刊行された紙芝居も、いくつか見つけることができました。

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おさるのふえ』(作=川崎大治、画=松山文雄、発行所=教育紙芝居研究会、1950年2月20日発行)の表紙絵には、“民主紙芝居人集団刊行”という文字も読めます。

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よわむしちゃんこう』(作=高橋五山、画=小谷野半二、編集=教育紙芝居研究会、発行=日本紙芝居幻灯株式会社、1952年9月1日発行)は、高橋五山がみずから文章を手がけた作品。

興味深いところでは、敗戦直後という時代を反映して、ジープに乗ったアメリカ兵が子どもにチョコレートをくれる場面が描かれた紙芝居もありました。

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これは『ボクちゃんと卵』(作=サトウハチロー、画=山川惣治、発行所=大日本画劇株式会社、1946年11月5日発行)の一場面です。

今回の調査では、もしかしたら丸木夫妻の手がけた未発見の紙芝居が見つかるのではないかと期待していたのですが、残念ながら見つけることはできませんでした。
そのかわりに、丸木夫妻と師弟関係にあった岩崎ちひろ(いわさきちひろ)の手がけた紙芝居は、2点ありました。

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ひとつは、『のみのかわでつくった王さまのながぐつ』(作=高橋五山、画=岩崎ちひろ、編集=教育紙芝居研究会、発行所=日本紙芝居幻灯株式会社、1956年9月1日発行)。

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もうひとつは、アンデルセン童話をもとにした『おかあさんのはなし』(脚本=稲庭桂子、画=岩崎ちひろ、発行所=童心社、1965年3月5日発行)。

このうち、『おかあさんのはなし』は、もともと1949年に教育紙芝居研究会から刊行され、昭和25年度文部大臣賞を受賞した作品の復刻版です。
この作品をきっかけに、岩崎ちひろが絵本作家への道を踏み出したことで知られています。
丸木俊の童画の影響を色濃く受けている、との評価もあります。

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ラストシーンでは、死神から子どもを取り戻す慈愛に満ちた母親の姿が描写されています。
先日、ちひろ美術館・東京で行った講座でも少し触れましたが、“母と子の愛情”は、俊とちひろの共通のテーマです。

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今回は、思いもかけず、日本の教育紙芝居の歴史をたどるような興味深い調査となりました。
これからリストを整理して、さらに調査の成果を深めていければと思っています。
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2011/1/23

丸木位里と水木しげる  調査・旅行・出張

先日、大原社会問題研究所へ資料調査に行った帰りに、八王子市夢美術館で開催中の「〜水木しげるの世界〜ゲゲゲの展覧会」を見てきました。

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妖怪漫画『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる水木しげるですが、南方戦線に出征して左腕を失っており、実体験をもとにした戦争漫画も多数手がけています。
今回の展覧会でも、『総員玉砕せよ!』の原画が展示されていました。

実は、丸木位里と水木しげるは同じ学校の門をくぐった“同窓生”のようなのです。

『丸木美術館ニュース』第104号でも紹介していますが、位里は広島・飯室村の小学校を卒業後、しばらく各地を放浪するような生活をしており、1919年頃に大阪の知人宅に居候して天王寺の上本町にあった「精華美術学院」という美術学校に通っています。

位里の画文集『流々遍歴』(岩波書店、1988年刊)によれば、「普通の家よりは大きい程度」の私立学校で、校長の松村景春は「当校は入学試験もなければ規則もない、勉強したい者は毎日来て勉強すればよい」という方針だったそうです。
位里は美術の学校に入ったことが嬉しくて、早速学帽に「美」という徽章をつけ、スケッチブックを持って天王寺界隈を得意になって歩き回ったとのこと。
もっとも、この学校は主に図案を教えていたので、画家志望だった位里とは方向性が異なっていたのですが、位里はこれも何かの役に立つだろうと思いながら、毎日通ってデッサンの勉強をしていたようです。

とはいえ、いつまでも知人宅に居候をしているわけにもいかず、アルバイトを見つけて間借りをはじめたのですが、貧乏暮らしのためすぐに栄養不良で脚気になって広島の実家に帰ってしまったというので、それほど長いあいだ通学していたわけではなさそうです。

そして、位里が通ってから20年ほど後の1938年に精華美術学院の門をくぐったのが、鳥取県出身の武良茂という青年。のちの漫画家“水木しげる”です。
彼の回想によれば、無試験の学校を血眼で探し回ってようやく見つけたこの学校は、「立派なのは名前と校門に掲げた看板だけ。建物は掘っ立て小屋のような貧弱さ」で、たった1人のひげを蓄えた小柄な初老の男が「校長兼教師兼事務係」。授業内容も「デッサンとは名ばかりの実践的な図案講習会のようなもの」で、「江戸時代の寺小屋のような感じ」。しかも「エライ画家になるんだと思い詰めて、一心不乱に独習を重ねてきた私の方が、もったいぶって教える先生より腕が上だった」ために、失望して程なく学校には行かなくなったというのです。(『水木サンの幸福論 妖怪漫画家の回想』日本経済新聞社、2004年刊)

なにしろ入学試験がない代わりに、卒業しても大学受験資格も得られないという学校。
松村景春という校長先生にも、どことなく頼りなくて怪しげな印象を受けますが、少なくとも1919年から1939年頃までの20年間は学校が運営されていた(しかも、位里と水木しげるの回想が類似していることから、同じような経営方針で)ということにまず驚きを感じます。

位里にしろ、水木しげるにしろ、残念ながら、この学校で学んだことが後の表現に重要な影響を与えているとは思えません。
しかし、勉強が不得意で中学進学を断念した2人の青年が、そして、絵を描く以外の仕事はどれも長続きしなかったという大らかな性質まで似ている“天性の画家”たちが、ともに「無試験で絵を学べる」という経営方針に引き寄せられるように、おそらくは「自分でも受け入れてもらえる」という希望を抱いて、同じ学校にたどりついたということには、決して偶然では片付けられない、どこかユーモラスな感動を覚えます。

そして、彼らが後に、地を這うような視点から、戦争という“不条理”を見事に描き出し、他に類を見ない作品に昇華させたということにも。

果たして松村校長は、自分の学校から、芸大からは絶対に輩出されないであろう特異な表現者を2人も生み出していた(勝手に育ったのかも知れませんが)という事実を知っていたのかどうか。

精華美術学院については、今のところ、ほとんど資料が見つからないのですが、今後、機会を見て調べていきたいと思っています。
ちなみに、『完全版水木しげる伝(上)戦前編』(講談社漫画文庫、2004年)には、ひとコマだけ、精華美術学院の髭の校長先生が登場しています。
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2011/1/22

「冬のみんなのアート祭り」オープニング  イベント

いよいよ今日から企画展「冬のみんなのアート祭り」がはじまりました。

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素晴しい天気に恵まれて、たくさんの人が丸木美術館を訪れて下さいました。
展覧会の中心になって活躍して下さっている川越のM年山さんと仲間たちも午前中から美術館に集まって、展示作業やパーティ用の料理の準備に大忙し。

オープニングの参加者は、美味しいカレーやおやき、ヌガーなどの料理を楽しんでいました。

午後1時からは「どんどこ太鼓」の皆さんが観音堂の前で元気のよい和太鼓演奏を披露。
伸びやかな太鼓の音に大きな拍手が沸き起こりました。

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続いて、金子みずすの一人芝居をライフワークにしている女優・谷英美さんの朗読グループが、金子みすずの詩を朗読。

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最後にピエロが登場して、楽しい手品やバルーンアートで会場の皆さんを楽しませてくれました。
子どもたちも、かわいい鳥やハート、刀のかたちの風船をもらって大よろこび。

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午後2時からは毎月恒例の美術館クラブ工作教室。
案内人は画家の石塚悦子さんで、素敵な木の壁かけがたくさんできあがりました。

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みんなのあふれるパワーでできあがった楽しい企画展。
2月19日まで丸木美術館で開催しています。
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2011/1/22

『毎日新聞』と『東京新聞』に「冬のみんなのアート祭り」紹介!  掲載雑誌・新聞

1月22日付『毎日新聞』埼玉版に、“原爆の図丸木美術館で「みんなのアート祭り」”という見出しと写真入りで、この日からはじまる企画展「冬のみんなのアート祭り」が紹介されました。

http://mainichi.jp/area/saitama/news/20110122ddlk11040217000c.html

記事には、「家具の廃材や着物の端切れ、木の実など身近にある素材を使い、東松山市周辺の養護施設の入所者や特別支援学級の生徒らが制作した作品を集めた。美術団体の会員による油彩なども紹介する」と記され、「アートを気軽に楽しみ、多くの人がつながっていることを感じてほしい」という万年山理事のコメントや、「丸木夫妻は、絵は誰でも描ける、という考え方の持ち主だった。美術館は特別な存在ではなく、同じ位置にいて開かれていると感じてもらうよい機会」という岡村のコメントも紹介されています。

   *   *   *

また、同じ1月22日付『東京新聞』にも、“アート祭りで心豊かに”という見出しで、「冬のみんなのアート祭り」と「大逆事件100年特別展示」の紹介記事が掲載されました。
こちらもそれぞれ、「ワークショップではこちらが予想もしなかった面白い作品ができあがる。展覧会も楽しい作品ばかりで心が豊かになります」「社会主義運動弾圧を目的とし、幸徳秋水らが処刑された大逆事件から百年という節目にあたる。権力と人権の問題を見つめ直してもらえば」というコメントが紹介されています。
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2011/1/21

大原社会問題研究所にて資料調査  1950年代原爆の図展調査

朝一番に東京・町田市の法政大学大原社会問題研究所へ行き、一日じゅう資料調査。
1950年代の新聞をひたすら読み込む作業です。
NHKラジオ深夜便を聴いた翌日だったので、睡魔との戦い……それでも、いくつかの重要な収穫がありました。

   *   *   *

ひとつは、1952年に板橋区で開催された原爆展の日程と会場が判明したこと。
これは従来、ヨシダ・ヨシエ氏とともに原爆の図全国巡回を担った野々下徹氏のメモでは「1952年8月に4日間」と記されていましたが、1952年10月6日付『アカハタ』に掲載された小学5年生の女の子の「原爆展」感想文によれば、正確には「9月3日から4日まで」、場所は「板橋議事堂」で開催されたようです。
以下は、その女の子の感想文です。

 九月四日、板橋議事堂に原爆展を見にいった。議事堂ではお兄さんみたいな人が説明してくれた。廣島と長崎では四十万人の人たちが皮がはがれ、やけどをして死んだそうです。
 かいだんを上つてゆくうちに、たたみ八畳に書いたすごく大きな絵があつたが、それを見てもうぞうツとしました。手がとれていたり、火でかこまれてまつ黒こげになつて苦しんで、お母さんが赤ちやんを泣きながらだつこして立ちおくれて行くのや、死骸のおく場所がないので山につみかさねておいたのやら、それはひどかつた。それを見て感じた人に書いてもらおうとして机に紙がのつかつていた。どこかのおじさんは、すみでふでをまつすぐ立てて長く書いていました。
 この議事堂は三日から七日までだつたが、区長さんが三日から四日までと急にいつたので、まだ見ない人がたくさんいるから、日にちを作つて見せればよいなあ――と思つた。
 私の感じたこと。戦争をぜつたいにやらないで、平和にして行きたい。戦争をやらない國にしたい。原子爆弾をよいことにつかつてほしいと感じました。


この“板橋議事堂”というのが気になったのですが、どうやら当時板橋区にあったエスビー食品のカレー工場(現在は板橋スパイスセンター)の入口正面に、1947〜48年頃に国会議事堂を模した工場が建てられ、“板橋の国会議事堂”と呼ばれて親しまれていたそうなのです。
※S&Bエスビー食品株式会社HPを参照。
http://www.sbfoods.co.jp/sbsoken/tanbo/tenjikan/1floor.html

展覧会の主催者は不明ですが、エスビー食品の関係者が関わっていたのか、あるいは、女の子の感想には区長が介入して日程を縮めたと思われる箇所があるため、板橋区が“板橋議事堂”を借りて展覧会を開催したのかも知れません。

   *   *   *

また、原爆の図10部作が完成し、“世界行脚”に出発することになった1956年のはじめに、平塚と横須賀でも展覧会が開催されていたことがわかりました。

1956年5月1日付『アカハタ』の記事「“原爆の図”展の成果 =神奈川平塚地区委員会の総括=」によれば、1956年2月11日から3日間、会場は平塚市体育館で、平塚市原水爆禁止実行委員会と平塚市の主催、地区労、教育委員会をはじめ市内各種青年婦人団体、文化連盟、医師会、社会福祉協議会、仏教会、キリスト教協議会などの後援で開催されたそうです。
展示されたのは「八部の絵と、惨状をつたえる瓦や竹」、「三日間に延一万四千五百名(生徒七千七百余、一般六千七百余)の人びとが参観し、経費をひいて約十七万円の益金をあげ、会場での原水爆禁止署名三千七百五十票、カンパ千二百二十一円、感想文二百八十一通がよせられた。このほかに、一日夜体育館でおこなわれた原水爆禁止講演会に約千名の人びとが集まった」とのこと。

記事の中で俊は、この平塚展の運営について、次のように語っています。
全国で図展をひらいてきましたが、どこでやった時よりもすばらしい。市が後援になって開いたということはありますが、婦人団体が中心になると労組とうまくゆかないとか、労組がやれば婦人、青年団体はいっしょにやらない、というようなこともあり、みんなでというところはなかなかないのですが、ここでは市主催で、労組も婦人の方もいっしょ、共産党まで公然とお手伝いをしているなんて、こうして平和を守るためにやられているのをみるとほんとうにうれしい」。

1956年5月8日付『アカハタ』の記事「“聞けば聞くほど恐ろしい”横須賀で原爆展、被爆者座談会」では、横須賀市で1956年4月21日から3日間、横須賀・三浦原水爆禁止懇談会主催、横須賀市議会、神奈川新聞をはじめ市内の教育・青婦人・医師・漁業・商工関係の団体、地区労、官公労など50の団体後援で原爆展が開催されたと報じられています。
展示内容は、原爆の図10部作を中心に原爆関係写真もあわせて展示されたとのこと。
入場者数は1万人に近く、「会場での寄付一万二千円余、これとは別に横須賀市議会議長や市の主だった各種団体、個人から二万五千円の寄付があり、会場での感想文は五百通も集った」ようです。
「同懇談会では、この原爆展とあわせて広島から村上操さん(原水爆禁止広島協議会理事)他三名の被爆者を招き、四月二十日から三日間、横須賀、三浦両市あわせ十カ所で“被爆者を囲む座談会”を催した。座談会は地域の民生委、PTA、社共、青年団、婦人会、地元の有力者の協力をうけ、四十、五十人と集り、ペルリ上陸で有名な久里浜では七十人も集った」とも記されています。

同じ紙面の「『原爆の図』世界行脚へ 12日夜出発の丸木・赤松夫妻」も注目すべき記事でした。
「これまで『原爆の図』の一部から三部までの展覧会がオランダ、デンマーク、イギリス、イタリアの各都市でひらかれてきたが、それらの図とこんど夫妻がもっていく四部から十部までの図と合わせて、北京で表装しなおされ、それから一年以上の予定でアジアとヨーロッパの各地を廻る予定である」と“世界行脚”の行程が紹介されるとともに、「その間、日本では一部から三部までの別図と“夜”と題する図と、四部から十部までの大写真とで『原爆の図』展をひきつづきひらいていく」と、留守中の日本国内での巡回展の内容についても触れています。

1956年以後の「原爆の図 世界行脚」の間も日本国内で「原爆の図」巡回が続いていたことは、多くの方々の証言からわかっていたのですが、具体的にどの作品が巡回していたのかをはっきり記しているこの記事は、非常に興味深いです。
やはり“模写/再制作版”の原爆の図3部作は、従来考えられていた以上に重要な役割を担っていたのだと、あらためて感じています。
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2011/1/20

企画展「冬のみんなのアート祭り」  企画展

企画展「冬のみんなのアート祭り 〜障がいのある人も ない人もいっしょに祭りをあつくしよう」の開幕を土曜日に控えて、今日は画家のM年山さんが来館して展示作業を行いました。

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丸木俊さんは、とてもおおらかで優しく、そして強い人でした。
特に障がいのある人たちに対しては心広く、『作品を良くみせようとせず、自然な自分が出ている』といつも楽しく観ては、 『誰でも芸術家なんじゃ』が俊さんの、くちぐせでした。

丸木美術館では、学校や施設や病院に、ワークショップの出前をしています。その折に度々、驚かされることがあります。
それは、こちらが予想もしていない面白い作品のできばえなのです。作者本人も思いもかけず、びーっくりで大喜びとなります。 私達もその度に感動させられるのでした。
みんなの作品を味わおうではありませんか。とーっても楽しい作品ばかりなのです。心が豊かになることうけ合いです。


この文章を書いたM年山さんは、毎月1回丸木美術館で工作教室を行い、そのほかにも学校や福祉施設などでたびたび出張ワークショップを行っています。
今回の展示は、そのM年山さんを中心に、冬の寒い丸木美術館を皆のパワーで盛り上げよう!という趣旨で企画されました。

当初は、「障がい者アート展」という仮称でしたが、企画内容を話し合っているうちに、障がいのある人もない人も区別なく、芸術家であっても、絵を描いたことがない人でも、皆で出品して楽しめる企画になった方がいいのではないか、という方向で盛り上がっていき、それにつれて出品者もどんどん増えていき、一説には300人?とか。
集団制作もあるので、出品作品数はそこまで多くありませんが、オープニングに向けてまだまだ増えていく気配があるので、正直なところ、学芸員も正確に把握していません。

とにかく廃品を利用した摩訶不思議な作品が次々と展示室に並び、見ているうちに楽しい気分になることは請け合いです。

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今日は新聞社の取材もあったのですが、取材に来た記者さんがM年山さんに誘われて作品を制作するという思わぬ展開に。
ともかく、何が起こるか分からない、びっくり箱のような展覧会です。

初日の22日(土)には、午後1時からオープニング・パーティも行われます。
カレーライスやお焼きなど、身も心も温かくなる食べものも出る予定です。
どうぞ皆さま、ご来館下さい!!
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2011/1/19

特集展示「大逆事件」  企画展

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ちょうど100年前の昨日、1911年1月18日は、明治天皇暗殺謀議があったという理由で、幸徳秋水ら24名に死刑判決が下された日です。
いわゆる「大逆事件」あるいは「幸徳事件」と呼ばれるこの事件は、1週間後の1月24日に幸徳秋水、大石誠之助、内山愚童ら11名、翌25日に管野スガが処刑されるという当時としても異例の早さで強引に幕が下ろされました。
わずか数名による謀議を意図的に拡大し、社会主義・無政府主義運動家への弾圧を行った明治時代最大の国家権力によるフレーム・アップ(でっちあげ)事件。
丸木位里・丸木俊夫妻は、1980年代後半に取り組んでいた《足尾鉱毒の図》連作の一環として、水墨による屏風画の大作に描いています。

「大逆事件」で処刑された幸徳秋水は名文家として知られ、足尾鉱毒問題を田中正造が明治天皇に直訴した際には、その直訴状を起草しています。
《大逆事件》の作品が《足尾鉱毒の図》に関連して描かれたことには、こうした連想もあったことでしょう。
しかし、それ以上に丸木夫妻は、日本の急速な近代化にともなう産業革命によって社会の不平等や不合理が拡大したこと、そして、その問題点に気づいて声をあげた人びとを権力者たちが強引に抹殺したことのつながりに、後の昭和期における戦争の悲劇の前触れを感じたのではないでしょうか。

今回、丸木美術館では、「大逆事件」による処刑から100年という節目の年を迎えるにあたり、現代にも重なるような社会と人間/権力と人権の問題を見つめなおすため、“特別展示”として、丸木夫妻の共同制作《大逆事件》とともに、太田市が所蔵する《足尾鉱毒の図》のうち第1部《足尾銅山》、第2部《押し出し》をお借りして展示紹介いたします。

展示期間は1月22日(土)から2月19日(土)まで。
暖房のない館内は深々と冷えていますが、その張りつめた冷たい空気のなかで、100年前の時代を象徴する事件を再考するのも、また意味があるのではないかと思います。
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2011/1/18

NHKラジオ深夜便「わが心の人・丸木俊」  TV・ラジオ放送

1月20日(木)のNHKラジオ第1放送「ラジオ深夜便」の「わが心の人」のコーナーに丸木俊が取り上げられます。

ゲスト出演されるのは、丸木夫妻と親交の深かった画家の平松利昭さんです。
アンカー役は迎康子アナウンサー。
「わが心の人」は、日付が変わって21日(金)午前1時台の放送となります。

深夜の放送ながら、リスナーから絶大な支持を得ている番組ですので、多くの方がお聴き下さるのではないでしょうか。
平松さんの貴重なお話も楽しみです。
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2011/1/16

企画展展示替「特集展示 大逆事件」  ボランティア

企画展展示替え作業でボランティアのM山くん、M岡くん、S木(M子)さん、A森さん、そして初参加のK藤さんがお手伝いにきて下さいました。
「没後15年 丸木位里展」の作品を片付け、丸木スマ作品を展示し、《原爆の図》の一部展示替えを行い……そして、次回企画のひとつ「大逆事件100年特別展示」のため、丸木夫妻の共同制作《大逆事件》と、群馬県の太田市からお借りしてきた「足尾鉱毒の図」第1部《足尾銅山》、第2部《押し出し》を展示しました。

非常に寒い一日でしたが、黙々と展示を手伝って下さった皆さん、そして美味しい昼食を用意して下さったM年山さんご夫婦、どうもありがとうございました。
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2011/1/15

ちひろ美術館・東京「丸木位里、俊とちひろ」講演  講演・発表

東京都現代美術館を出た後は、東京・練馬区の「ちひろ美術館・東京」へ移動しました。

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企画展「ちひろとちひろが愛した画家たち」を鑑賞し、午後5時15分からは連続講座の第3回目として、「丸木位里、俊とちひろ」と題する講演を行いました。

近年、富山水墨美術館や、安曇野ちひろ美術館、ちひろ美術館・東京と、いわさきちひろの絵画を分析的に研究し、影響を受けた画家たちの作品と比較する、という展覧会が続いていました。
その過程で、ちひろと丸木夫妻の関係が、あらためて注目されているように感じます。

今回の講演では、ちひろと丸木夫妻の出会いから、師弟として交流し、親戚同然の関係を経て「政治的意見の相違」から別れにいたるまでの流れを追いつつ、(水墨の技法における位里とちひろの共通点の指摘だけでなく)俊とちひろの本質的な部分での深いつながりをあらためて考えなおすことにしました。

アットホームな雰囲気の図書室には、定員の30名を超えるほど、たくさんの参加者が集まって下さいました。
講演後に頂いたアンケートのコピーを見ると、ちひろ美術館便りやチラシをご覧になった方のほかに、この学芸員日誌ブログを見て来場して下さった方もいらっしゃったようです。
どうもありがとうございます。
それだけ、ちひろと丸木夫妻についての関心が高まっている、ということなのだと思います。

講演では、原爆の図第6部《原子野》に描かれた一人の子どもに着目して話をしました。

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1952年という早い時期に制作された作品なのですが、まるで、この部分だけちひろが描いたかのように、後年のちひろの絵に良く似ているのです。
壮絶な地獄絵図と思われがちな《原爆の図》ですが、よく見ると子どもたち、あるいは母子の姿がとても印象に残ります。

ちひろも数は少ないですが、1960年代から70年代にかけて、ベトナム戦争や原爆を題材にした絵本や挿絵を手がけています。その際、「丸木さんのようには描けない」と言っていたそうですが、しかし、母や子の視点に立って戦争を描く、という点において、二人の絵はよく似ているようにも思えます。
戦争でもっとも傷つけられる者は誰なのか。
誰の視点に立って戦争を見つめていかなければならないのか。
二人はその根源的なところで、とても大切なものを共有していたのではないでしょうか。

考えてみれば、広く一般の人びとに、「平和」という難しいテーマを、視覚的なイメージとしてこれほど深く印象づけた表現者は、彼らの他にありません。
そのことの意味は、これからの時代に今まで以上に評価されていくのではないかと思います。

講演の最後にもお話したことですが、ちひろ美術館と丸木美術館が展覧会を通して交流し、今日の講演会にも多くの方が集まって下さったことを、誰よりも喜んでいるのは、ちひろと丸木夫妻なのではないかと思います。
別の道を歩まなければならなかったとはいえ、ちひろは最後まで俊との別れを悲しみ、俊は生涯ちひろを一番の弟子だと思い続けていたと聞いています。

ちひろ美術館も、丸木美術館も、画家の暮らしの息吹が訪れた人びとに感じられる、小さいけれども、その場所にあることに深い意味を持つ美術館です。
人と人とのつながりや小さな善意の積み重ねで、ようやく成り立つような美術館かも知れませんが、小さな美術館でなければできないこと、見えないことはたくさんあります。
ちひろも丸木夫妻も、そういうことをとても大切にしていた画家だったと思うのです。
これからも、二つの美術館が互いに連携し、助け合いながら、それぞれ大切なことを発信し続けていけたら素晴らしいと、あらためて感じています。

今回の講演のために尽力して下さったY学芸員はじめ、ちひろ美術館のスタッフの皆さま、今年一番の冷え込みにもかかわらずご来場下さった多くの皆さま、そして拙い講演にもかかわらず穏やかな笑顔で最後までお聞き下さったちひろさんの御夫君・松本善明氏に、心から御礼を申し上げます。
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2011/1/15

東京都現代美術館「アンデパンダンの時代」  館外展・関連企画

午前中は東京都現代美術館のコレクション展「クロニクル 1947-1963 アンデパンダンの時代」(前期展示は1月30日まで、後期展示は2月26日から5月8日まで、一部展示替えあり)を観に行きました。

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「クロニクル」とは、戦後日本美術を見直すことを目的としたテーマ展示。今回は、日本美術会と読売新聞社がそれぞれ主催していた「アンデパンダン展」(無審査・自由出品による展覧会)を取り上げています。
ほぼ同時期に、どちらも東京都美術館を会場として、「日本アンデパンダン展」と同じ名前で開催されていたので、混同されやすいのですが、日本美術会の方は民主主義を標榜し、ややイデオロギー的なスローガンに沿ったかたちでの自由出品。それに対し、読売新聞社の方は出品料さえ払えば誰でも参加できるというより自由度の高い展覧会でした。

この二つの「アンデパンダン展」は、新しい芸術家に門戸を開放し、創造と発表を促す場として、非常に大きな役割を果たします。
とはいえ、これまでの美術史では「読売アンデパンダン展」の果たした役割に関心が寄せられることが多かったのですが、今回の企画の特徴は日本美術会主催の「アンデパンダン展」の役割についても光を当てていることです。

以下は、「アンデパンダンという場―日本美術会」の解説文より抜粋

1947年の第1回展では、会員および会員の推薦という出品資格が設けられていましたが、1948年の第2回展以降は、展覧会の趣旨に賛成するものは誰でもが出品できるようになります。その趣旨を表すのが、スローガンでした。「ファシズム反対頽廃文化反対、美術の自由の擁護、民主民族美術の建設」(第2回展)、「大衆の中へ美術を! 美術家の生活を守れ! 美術家は統一して闘おう」(第3回展)。ここには、当時の社会情勢に対する共産党的イデオロギーの反映を認めることができるでしょう。その根底には、敗戦後の現実のなかで美術家が直面している問題を作品にして伝えることが社会変革に繋がっていくという意識があったといえます。それゆえにアンデパンダンは、作家のみならず職場美術サークルをはじめとする勤労者や学生といった広範な出品者や鑑賞者を呼び込んでいきました。個々人の得た実感をどのように作品に表現するか、作品としてのリアリティをいかに追求し、伝えるかという模索と探究の場としての役割をこの展覧会は果たしていたと考えます。

展示されていた作品は、井上長三郎《東京裁判》、大塚睦《ハンスト》、鶴岡政男《重い手》、山下菊二《オト・オテム》、浜田知明《初年兵哀歌》、高山良策《矛盾の楯》、上野誠《広島の人(ケロイドの脚)》、中村宏《平和期》、小山田二郎《鳥女》、新海覚雄《真の独立を闘いとろう》など。

この日本美術会主催の「アンデパンダン展」ですが、1950年に開催された第3回展には、丸木夫妻が《八月六日》と題する共同制作を発表しています。
原爆の図第1部《幽霊》の最初の発表です。
つまり、丸木夫妻にとっても非常に重要な展覧会だったわけです。
今回の展示解説には、特に原爆の図については触れられていませんが、日本美術会の機関誌『美術運動』の「原爆の図特集号」は資料として展示されていました。
ポスターや目録など、これまであまり目にすることがなかった資料の展示も充実しています。

近ごろ、さまざまなところで目にする1950年代―「記録の時代」の再評価の潮流をあらためて考えさせられる非常に興味深い企画です。
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