2010/11/25

世田谷美術館/針生邸調査/永井画廊  調査・旅行・出張

午前中、世田谷美術館の企画「橋本平八と北園克衛展」に足を運びました。
独自の精神世界を感じさせる木彫作品を残した橋本平八(1897-1935)と、前衛的な詩や視覚デザインで知られる北園克衛(1902-1978)の異色の兄弟を取り上げた展覧会で、たいへん興味深いものでした。

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北園克衛は、大正から昭和のはじめの新興芸術運動に参加し、シュルレアリスムの影響を強く受けた詩人です。丸木位里が参加した第一回歴程美術協会展の展評も手がけています。
そのためかどうか、彼ら兄弟の作品と現在丸木美術館で開催中の「没後15年丸木位里展―戦前の活動を中心に―」にならぶ作品は、どこか共通する空気感を持っているように思えました。

展覧会を観た後、企画担当のN学芸員にご挨拶して、しばし雑談。
N学芸員によれば、「モダニズム」と「和の伝統」は対照的なように思えるけれども、実は橋本平八・北園克衛兄弟のように、一見相反する両者に深い関心を示す芸術家は案外多い、とのこと。
西洋的なモダニズムの精神を自分たちの中に取り込み、乗り越えていくためには、和の美意識とモダニズムとの共通点を見出すことが、この時代の必然であったのかも知れません。
丸木位里もまた、1941年6月に「墨・紙・画面・印象」と題する、西洋の前衛理念をいかに東洋絵画にひきつけて理解するかを論じた興味深い文章を雑誌『美之國』に発表しています。
生涯を通じてあまり理念的な文章を残さなかった位里が、珍しく絵画論を正面から論じている貴重な文章です。
シュルレアリスムの絵画技法を水墨画で実践しようと試みていた当時の位里の絵画などを思い出しながら、興味深くN学芸員の話を聞きました。

   *   *   *

午後からは、今年5月に亡くなられた針生一郎元館長の長女のNさんとともに川崎市の針生邸を訪れ、自宅に残されたさまざまな作品資料の調査を行いました。
先日、アートスペースで個展を開催した平川恒太くんもアシスタントで参加してくれました。
平川くんのブログには、早速、個展の回想と針生邸調査の様子が記されています。
http://hirakawakenkyujyo.blog104.fc2.com/blog-entry-217.html

多摩丘陵の坂の上に建つ針生邸は、建築家の原広司の設計。
しかも玄関の三和土は画家の利根山光人作。「TONE」とサインの入った三和土に靴を脱ぐのがもったいないような気もします。
下の外観写真は昨年12月に針生邸を訪れた際に撮影したものです。

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書斎でお話をしたときの針生さんの写真もあげておきます。

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主を失った書斎は心なしか寂しげで、しかし、あまり感傷にひたる時間もなく、仏壇にお線香をさしあげた後、本の山の向こうから次々と現れる作品資料の写真撮影をしていきました。

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針生さんが背負って来られた戦後の美術史がそのまま伝わってくるような、非常に興味深く、そして勉強になる作業でした。
崩れそうな本棚の上に飾られている作品や、額に埃がたまっている作品も多く、平川くんが手伝ってくれてとても助かりました。
それでも、時間がなくて撮影しきれなかった作品もまだまだありました。
今後もじっくり調査をしていく必要がありそうです。

   *   *   *

夕方には銀座の永井画廊を訪れ、「永井三喜男へのオマージュ展」を見てきました。
現在、テレビ東京の人気番組「開運!なんでも鑑定団」に出演中の永井画廊社長・永井龍之介さん。そのお父君で永井画廊の創設者・永井三喜男さんは、丸木夫妻とともに水墨画を描き、酒を酌み交わすたいへん親しい間柄でした。丸木美術館の評議員としても長年美術館の運営を支えて下さっていました。
今回の企画は、昨年10月28日に84歳で亡くなられた永井三喜男さんの没後1年を機に、関係の深い画家たちの作品を紹介するという趣旨の展覧会です。
丸木美術館関係者としては、丸木夫妻のほか、俊の姪のひさ子さんや、評議員の平松利昭さんも出品されています(26日まで)。

ちょうど1階に永井龍之介さんがいらっしゃったのでご挨拶。
会場にはひさ子さんも来られていました。
密度の濃い一日の最後に観た展覧会。丸木位里の水墨画は、黒々と塗られた墨に白く浮き上がるひとすじの滝を描いた《九龍の瀧》が展示されていました。
その作品の深みと独自の精神性に、あらためて橋本平八の彫刻などを思い返しながら、家路につきました。
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2010/11/23

平川恒太展「The Neverending Story」  特別企画

アートスペースでの平川恒太展「The Neverending Story」の最終日。
この日は平川くんとともに、会場の記録写真を撮影しました。

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細部までこだわって展示を行う平川くん。
「この角度から撮影すると全部の作品が写る」というポイントから、まずは全体写真を撮影。

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手前に見えるのは作品番号37「The Neverending War」。
王将の駒が存在せず、どちらかの駒をすべて奪うまで勝負が続く「永久戦争」の将棋盤です。

そして上空に吊られているのは作品番号38「実体なき旗」。
ホログラムシートに油性ペンで描かれた旗で、ハロゲン光に照らされて時に虹色に輝きます。

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壁面に展示されているのは作品番号39「war dialogue」。
毎日の戦争のニュースを新聞やインターネットで検索し、収集していくという作業の蓄積で、今年一年は続けようと思っているとのこと。

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そして奥の壁面に展示されているのは作品番号40「The Neverending Story」。
直径180cmのパネルに自らの尾を咬む蛇ウロボロスの図像が描かれています。

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一見、油絵かアクリル絵具の筆あとが残る作品のように思えるのですが、近づいてみると、この作品、すべて紐を重ねていくことで描かれているのです。
平川くんによるとラテンアメリカの先住民族のシャーマンが行う紐絵の技法を用いているそうです。これはたいへんな労作。

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そして、展示室中央でひときわ存在感を見せているのが噴水。
原爆のキノコ雲のイメージも取り入れた中央の岩柱から、赤い血の色をした水が音を立てて沁み出してきます。
この作品も循環装置が用いられていて、「終わらない戦争」を意味しています。

展覧会チラシの平川くんの言葉を借りれば、世界では今も戦争や紛争、テロなどが起こっていて、私たちはいまだに「平和を知らない子供達」であるということを、あらためて考えさせられる展示です。

本当に平和な世界を創造する力は、芸術の想像力とぼくは、似ていると思うのです」という平川くんの言葉には、本当に共感します。
丸木美術館にとって、平川くんの個展が新鮮な刺激になったように、平川くん自身にとっても、丸木美術館での個展が今後の作家活動に大きな影響を与えることができたらと願っています。

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写真は個展会場での平川くん。
2011年1月発行の『丸木美術館ニュース』では、リレー・エッセイで今回の個展について執筆してもらう予定です。
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2010/11/21

平川恒太展トークショー2日目  特別企画

連日トークショーで盛り上がるアートスペースの平川恒太展「Neverending Story」。
2日目のこの日は、アートコメンテーターの花房太一くんと若手芸術家集団Chim↑Pomのリーダー卯城竜太くんをゲストにお迎えして、平川くん、岡村の4人でトークショーを行いました。

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はじめに卯城くんがChim↑Pomの活動をスライドトークで紹介。
ご存知の方も多いと思いますが、彼らは2008年に広島の原爆ドームの上空に、飛行機雲で「ピカッ」の白い文字を描き、大きな問題を巻き起こしました。

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詳細はこちら→http://www.webdice.jp/dice/detail/1020/

その後、河出書房新社より『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』という単行本も発行されました。

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この本には、丸木夫妻の原爆の図 第2部《火》も参考図版として掲載され、針生一郎元館長の原稿や卯城くんたちとの対談も収録されています。
卯城くんは、針生元館長が亡くなられた際にも雑誌『美術手帖』に追悼文を書き、そのなかで、広島の「ピカッ」事件後に作品発表ができなくなってしまったChim↑Pomに対し、針生元館長が「丸木美術館で個展をやってもいいよ」と励ましてくれたことが紹介されています。
そうした経緯もあって、卯城くんと会うのはこの日が初めてでしたが、どういう話をしてくれるのか、とても興味深く思っていました。

   *   *   *

トークはまず、丸木美術館を訪れた印象から。
卯城くんは、「《原爆の図》は世界遺産になってもいいと思う」と発言。
原爆を芸術におとしこむのか、メッセージとして伝えようとしているのか、絵から丸木夫妻の葛藤を感じるが、最終的に芸術におとしこんだところに共感できる、という趣旨の話をしていました。
また、没後15年丸木位里展については、「自分が丸木位里という作家を知らなかったことに気づいた。1940年代の絵がとても好き。やりたいことを好きなようにやっていて、案外ユーモアのある作家だと思った」と嬉しい感想を聞かせてくれました。

一方、花房くんの方も、《原爆の図》について「もっとおどろおどろしいと思っていたが、実際に観ると肉体美の印象が強い」との感想。
花房くんは、「芸術家の節操」と題して、戦時中に描かれた“戦争画”と呼ばれる作品群と、敗戦後に起こった「戦争責任論」についてレポートしてくれました。

その後はもっぱらChim↑Pomの「ピカッ」事件とその後の経緯を軸に話が進み、もう少し平川くんの個展についても踏み込んだ対話があってよかったかなと思いましたが、20代の若者たちが戦争や原爆をいかに自分たちの問題としてとりこんでいくべきか否かについて熱心に討論する様子は、やはり貴重なものだと感じました。
もちろんそう簡単に結論を出せるような話題ではないので、私もあまり発言せず若者たちの考えを興味深く聞かせてもらいましたが、平川くんに促されて発言した位里の妹の大道あやの《原爆の図》に対する厳しい評価と、あや自身が90歳になって「原爆の絵」に挑み結果的に破綻した(破綻することで彼女自身の原爆体験の重みが“表現”された)という話は思いのほか参加者の興味を惹いたようで、美術館受付で販売していた大道あやの絵本『ヒロシマに原爆がおとされたとき』(ポプラ社)は完売となりました(近日再入荷予定)。

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トークショーを通じて、Chim↑Pomの活動、とりわけ「ピカッ」作品が若い芸術関係者の間に大きな影響を与えているのだと気づかされました。
また、卯城くんが、「ピカッ」について「“アート業界”から賞賛の声があがるたびに、逆に業界の狭さを感じる。広島の被爆者の方々の感情とあまりに乖離していて、複雑な心境になる」と発言していたことも印象に残りました。
「ピカッ」についてはさまざまな意見があり、また、Chim↑Pomの活動についても、毒のある過激な作品が多いので賛否が分かれるとは思いますが、少なくとも他者の心情を傷つけることへの想像力を持ち、痛みを抱えながら活動をしている作家たちなのだということが感じられて、あらためて今後も注目していきたいと思いました。

そして、針生館長が遺言のように残した企画の話も、記憶に留めておきたいと思います。
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2010/11/20

平川恒太展トークショー1日目  特別企画

丸木美術館2階アートスペースで平川恒太個展「The Neverending Story」が開幕しました。

初日のこの日は、午後1時から楠見清さん、木村覚さんをゲストにお迎えして、トークショーが行われました。

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トークショーのはじめに平川くんは、「《原爆の図》は小さい頃に観ていたが、うろ覚えで、今回あらためて観て、表現者として“負けた”とショックを受けた。絵のとなりに花が捧げられていて、“絵画を超えた存在”だと感じた。羨ましいというか、脅威という感情を覚えた」と語っていました。
彼は現在、東京のギャラリーと契約し、アーティストとして第一線で活躍しているのですが、一方で、絵画がモノとして扱われ、テーマや内容への議論が深まっていかないアート・マーケットへの不満があり、アートは“自己表現”という言葉に甘えて消費・生産するだけなのか……と無力感を抱いていたとのこと。そんなときに沖縄を旅行し、ひめゆり平和記念資料館を訪れたことで、戦争や平和をテーマにした作品に取り組みたいと考えるようになったそうです。
この彼の強い思いと行動力が、今回の丸木美術館アートスペースでの個展やトークショーにつながったわけです。
もちろん丸木美術館にとっても、こうした若い世代からの刺激はありがたいものでした。

トークショーでは、木村さんが「広島―美術 美術が広島に向き合う仕方と広島が美術を求める仕方」、楠見さんが「いのちときもちをかたちにする 戦争と平和のために芸術ができること」と題してそれぞれの視点から語り、その後、短い時間でしたがクロストークが行われました。もう少し時間が長くて、会場の参加者からの声なども交えて深めることができれば、とも思いましたが、2人の話はとても興味深く感じられました。

とりわけ、2人とも、1974年にNHK広島放送局が呼びかけて寄せられた「市民が描いた原爆の絵」について触れていたことが印象的でした。
この市民の絵の多くは広島市の平和データベースでご覧になることができます。
http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDB060index.jsp

木村さんは「被災者の絵画は、他の広島を扱った高名な作家たちの作品より素晴しいと感じた」と語り、楠見さんはその発言を受けて、「美術史を背負った絵画Paintingと、人類の表現形態Pictureの可能性の違いではないか」と指摘しました。

以下は、トークの際に配布された木村さんの資料からの引用です。

 この絵画は、自ずとイデオロギーから自由でいようとしている。当時なにが起きていたのかという事実を伝えるために、その事実にだけ向き合っているのが見る者に伝わる。その事実だけに向き合うというのは、まず、被災者=当事者の特権的な行為である。とはいえ、単に他の人には立つことが出来ないその立場に彼らは安住してはいない。彼らの目的がはっきりしていることは重要だろう。悲惨さのイメージを伝えることも、自分の苦しい思いを理解して欲しいと思うこととも、明らかに異なる「あのときなにが起こっていたのか」を伝えようとする意志は、自ずと、見る者の心を揺さぶろうとか、記憶(というよりもイメージとしての「広島の記憶」)を反省させようとかいった目的から、描くものを自由にさせるのだろう。

《原爆の図》と「市民が描いた原爆の絵」は、8月6日を直接体験していない芸術家の描いた芸術作品の代表例と、直接体験した一般市民の描いた素朴な絵画群として、近年しばしば比較されています。トークを聞きながら、「市民が描いた原爆の絵」の受容のされ方の問題点について、小沢節子氏が次のように論じていたことを思い出しました。

 第一に、これらの絵「だけ」が「本当の」原爆体験の表象だという規範が知らず知らずのうちに形成され、他の表現を排除しかねないことへの危惧。第二に、またそれ故に、「本当の体験だけが与え得る感動」が最初から想定されてしまうことへの懸念。第三に、印刷物やパソコン画面を通して「画像」へのアクセスが容易になりイメージが拡散する一方で、三千点を越す個別の表現が絵画として論じられないことへの疑問。いずれも「原爆の絵」という一般的な呼称のもとで、これらの絵画が(誤解を招きかねない表現ではあるが)「特権化」され、画一化、均質化されて受け止められかねないことへの不安である。もちろん、「受容のされ方」と断ったように、問題の所在は、「本当の体験」を容易に入手して心を動かされたいという受け手の側にこそあるといえよう。
(花書院『原爆文学研究8』 p.179)

時間的にも空間的にも遠く隔てられた地点から「戦争」への想像力を広げる表現の可能性を探る平川くんの展覧会に、こうした体験/非体験と表現をめぐる問題は非常に重要な意味を持つようにも思います。
ともあれ、もう少し深めて考えていきたい問題です。

   *   *   *

午後3時からはオープニングレセプション。
平川くんのお母さんがバーベキューなどの料理を用意してくれて、参加者皆さんで和やかに食事をしながら懇談しました。

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この日の様子は、トークショーのゲストの木村覚さんや現代美術家の彦坂尚嘉さんがブログで報告して下さっています。
木村さんのブログ→http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/e/dcda9dc97552b612254a863f4e682a4b
彦坂さんのブログ→http://hikosaka3.blog.so-net.ne.jp/2010-11-21-1
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2010/11/19

平川恒太展展示作業  特別企画

明日から丸木美術館アートスペースで開催される「平川恒太展」の展示作業のため、平川くんと昨年丸木美術館で学芸員実習を行ったYさんが来館しました。

今回の個展のタイトルは「The Neverending Story」。
ミヒャエル・エンデの小説の題名を引用しながら、現在の終わることのない戦争をどのように考えていくか、というテーマの展覧会です。

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写真は展示作業中の風景。どのように仕上がっていくのか、楽しみですね。

すでに日誌でも紹介していますが、会期中には次のイベントも予定されています。
●11月20日午後1時 トークショー1(ゲスト:楠見清、木村覚)/午後3時 オープニングレセプション
●11月21日午後2時 トークショー2(ゲスト:花房太一、chim↑pom(卯城竜太)、丸木美術館学芸員、他)


若い現役美大生の意欲的な企画です。
ぜひ多くの方にご覧頂きたいと思います。
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2010/11/18

貝原浩画文集『風しもの村』  来客・取材

朝一番の列車に乗って富山から埼玉へとんぼ返り。
途中で上越新幹線が車両故障の影響で50分ほど停車するというアクシデントもありましたが、午後2時過ぎには丸木美術館に到着しました。

この日は、H評議員が、画家の故・貝原浩さんのお連れ合いSさんを連れて来館される予定だったのです。
2005年に享年57歳で惜しまれつつ亡くなられた貝原さん。
今年7月にはチェルノブイリのスケッチをまとめた画文集『風しもの村』(パロル舎)が発行されました。

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チェルノブイリ原発事故によって汚染され、立ち入り禁止に指定された村で暮らす「サマショーロ」(わがままな人)と呼ばれる人たちの暮らしぶりを丹念に写し取ったスケッチ集。頁をめくるたびに懐かしいような、心があたたかくなるような気持ちにさせられる魅力的な一冊です。

来年はチェルノブイリ原発事故から25年という節目の年。
貝原さんのチェルノブイリ・スケッチ絵巻を中心に、絵画や写真でチェルノブイリを見つめる企画をあたためているところです。
H評議員にSさんを紹介され、いっしょに展示室をまわりながら、企画展の構想をあれこれと話しあいました。
「チェルノブイリの展覧会ということで、もちろん原発の危険という基本的なところは大事にする必要があるけれども、声高にメッセージを発するのではなく、その土地で今も暮らす人びとの生活につながる視線から、考えを広げ深めていくような企画にして欲しい」とSさん。
貝原さんのスケッチは、まさにそのような視線から生まれてきた“豊かな”作品なのだと、あらためて考えさせられました。
思いのほか作品のサイズが大きく、絵巻だけで企画展示室がいっぱいになるほどのヴォリュームになりそうです。
来年度の企画展のスケジュールはまだ流動的なのですが、おそらくは秋から冬にかけての企画展になると思います。
全面的にご協力下さるというSさんの御厚意に感謝です。

   *   *   *

午後3時半頃には、運送業者のT社さんが富山の西田美術館から丸木スマ作品21点を運んで来て下さいました。
作品を収蔵庫に収めて、これで無事に西田美術館の企画展も終了です。
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2010/11/17

再び富山出張/西田美術館搬出  館外展・関連企画

西田美術館で開催されていた「丸木スマとアール・ブリュット」展が11月14日に無事終了。
作品撤去と返却立ち会いのために、朝一番の新幹線で再び富山県へ向かいました。

「丸木スマとアール・ブリュット展」は、以前にも日誌で紹介しましたが、70歳を過ぎてから絵を描きはじめた丸木スマの絵画と、富山県内で活動する障がい者アーティストグループ「ワークショップKAI=KAI」の作品をあわせて紹介するという企画です。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1487.html

県内の注目度も高く、共催の北日本新聞社のほか、『読売新聞』や地元の『富山新聞』などでも報道されたようです。

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Y館長のお話では「共催新聞社以外の新聞が取り上げてくれるのは異例」とのこと。
それだけ魅力を感じる企画をS学芸員が立ち上げて下さったのだと思います。
会期中の来場者数も約1,800人と盛況。感想ノートを見ても、スマさんの絵が多くの人の心に響いていたことが伝わってきました。

この日は、丸木美術館から貸出していた21点の作品を確認した後、西田美術館のスタッフに手伝って頂きながら丁寧に梱包し、運送業者の搬出作業に立ち会い。
その後、上市町の温泉宿でゆっくり疲れを癒しました。

お世話になったY館長、S学芸員はじめ、西田美術館の皆さま、本当にありがとうございました。
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2010/11/15

キューバ国家評議会友好勲章授与式  館外展・関連企画

美術館は休館の月曜日でしたが、午後から東京メトロ赤羽橋駅近くのキューバ共和国大使館へ行き、キューバ国家評議会友好勲章授与式に参列しました。

このたび勲章を受章されたのは、目黒区美術館のM学芸員です。
M学芸員は、1992年末、当時目黒区にあったキューバ大使館が主催する美術展を手伝い、1996年には3か月ほどキューバに滞在して美術調査に取り組むなど、これまで深くキューバの美術や文化に関わってこられたそうです。
年賀状をいただいた際、ご自宅をCasa de Cuba(キューバの家)と記されていたことには気づいていたのですが、キューバから来日した文化関係者のホームステイ、また、個展やアート・プロジェクト、ワークショップなどへのキューバ美術家の紹介、招聘受け入れの支援を行っていたという話は、今日初めて知りました。

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大使館2階の会場には、フィデル・カストロとチェ・ゲバラの肖像写真が並び、M学芸員とキューバの活動を支援されてきた資生堂の方々や、M学芸員が敬愛されているという美術家の池田龍雄さん、中村宏さん、石内都さん、堀浩哉さんや報道関係者らが参列されていました。

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挨拶のあと、特命全権大使ホセ・フェルナンデス・デ・コシーオ氏から、M学芸員に「キューバ国家評議会友好勲章」が授与され、大きな拍手が沸き起こりました。

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授与式のあと、表参道にあるラテンアメリカアートロビー「プロモ・アルテギャラリー」へ移動。
ここでは、M学芸員の受賞に合わせて、東京藝術大学先端芸術表現科におけるM学芸員主宰の自主ゼミ「取手イメージテーク」の作家たちによる「キューバへ 50cm四方から」展が開催されています。

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出品作家は次の通り。
有坂亜由夢/金川晋吾/潘逸舟/石塚つばさ/野口蓉子/佐々木友輔+田中文久/下西進/田中一平/山田繭/平野正樹/佐藤時啓/辻耕

このなかで、下西進さんの映像作品のひとつが、“ヒロシマ”を取り上げたものだったので、ご紹介します。
下西さんは、ヘリウム風船や特殊な長い一脚スタンドを用いて、自身と関わりのある都市を上空から鳥瞰的に撮影するという作品を制作している若いアーティストです。
広島市出身とのことで、故郷の撮影も試みているわけですが、興味深いのは撮影場所。
原爆ドームの前でヘリウム風船を飛ばし、上空から映像を撮影しているのです。
原爆ドームの上空から見る“ヒロシマ”……下西さんのお話によれば、作品はあくまで「自己の存在を見つめるもの」とのことですが、その場所を選ぶということで、作品を観る人は必然的に歴史の傷跡―65年前の原爆投下―を想起することになります。そして、この鳥瞰の映像が、原子爆弾を落とした飛行機の視点と重なることにも気づくでしょう。
展覧会は11月23日まで開催されています。

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またこの日は、まったく予期していなかったのですが、会場で大川美術館のO学芸員と佐喜眞美術館のUさんにお会いしました。
お2人とも、それぞれお仕事に関わる用事で東京に来られていて、石内都さんが授与式に参列することから偶然会場を訪れたのです。
なにしろ小規模予算で少人数という同じ悩みを抱える美術館同士、相手の館を訪れて2人が顔を合わせることはあるけれど、東京で3人以上が落ち合うという状況はめったにありません。
いろいろ話をしているうちに、互いに結束して新しい企画を立ち上げよう!という話が盛り上がってきました。たしかに、大川美術館、佐喜眞美術館、丸木美術館が結束すれば、大きな美術館とは異なる視点からの魅力的な企画が実現しそうです。
“小さい美術館連合”結成。そして「今日を、その“協同企画”のはじまりの日に!」と約束して、お別れしました。おかげで、とても勇気をもらった一日になりました。
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2010/11/14

1952年原爆の図銚子展の証言  1950年代原爆の図展調査

午前中、かつて千葉県銚子市で原爆の図展を企画したというKさんが来館されました。
Kさんは早稲田大学在学時の1952年に、同じ銚子市から早稲田大学に進学したYさんとともに、市の公民館を借りて原爆の図の展覧会を行ったという体験をお持ちの方で、当時の証言をして下さいました。

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展覧会開催当時(1952年7月12日)の会場写真です。
最前列左から、Kさん、濱田善秀、赤松俊子(丸木俊)、Yさん。
濱田善秀とは当時丸木夫妻のアトリエに出入りしていた画家で、《原爆の図》の模写/再制作版を手伝った方です。
Kさんは市長にお願いして消防署の広報車を借り、市内から周辺市町までくまなく宣伝をしてまわったことや、俊といっしょに会場へ向かう途中、女学生と話しているような若く明るい話しぶりに胸が高鳴ったことなど、さまざまな思い出を話して下さいました。

また、利根川畔のアグリ船(イワシ漁船)を描いた俊のスケッチのコピーも見せてくださいました。

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Kさんによれば、展覧会そのものは友人のYさんが企画されたとのことで、詳しい状況はYさんに聞いて欲しいとのことでしたが、実はそのYさんからも以前にお手紙を頂いていました。

Yさんの手紙には、1952年5月に教育大学在学中の友人により大学際に招かれ、《原爆の図》の展示を見たことから、「この事実を銚子の市民に報らせなければと一途に思い立ち、その場で担当者に申入れ」たと記されていました。会期は1952年7月11日から3日間。4,000人を超える入場者となり、同じ年の冬に開催された大山郁夫講演会の影響も重なって、1953年には「銚子平和を守る会が超党派で結成され、原水爆禁止市民大会が開催されるなど、以後、銚子の平和と民主主義擁護運動の原動力となった」とのことです。

1952年7月といえば、先日証言をお聞きしたばかりの都立大学生による原爆の図巡回展と同じ時期です。
その前の6月には、愛知大学の学生主催による「原爆の図展」が岡崎でも行われています。
作曲家の林光さんが、東京藝術大学の藝術祭で展示された《原爆の図》の前で「原爆カンタータ」を作曲・演奏したと証言しているのも、この年の秋のことです(東京藝術大学に問い合わせたところ、展示されたという確かな記録はないが、藝術祭の日程は11月21日から23日とのこと)。

サンフランシスコ講話条約発効(1952年4月)後のこの時期、各地で大学生主導による「原爆の図展」が盛んに行われていたことを、あらためて考えさせられます。

   *   *   *

午後には、《原爆の図》研究で知られる近現代史研究者のKさんが、早稲田大学の学生数名を連れて来館して下さいました。

美術館の館内は、少しずつ冷え込む時期になっています。
これから冬にかけてご来館されるかたは、くれぐれも温かい服装でおいでください。
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2010/11/13

ヨシダ・ヨシエ講演「丸木位里の芸術・靉光との交流」  イベント

午後2時より、企画展「没後15年 丸木位里展」の関連企画として、美術批評家ヨシダ・ヨシエさんによる「丸木位里の芸術・靉光との交流」と題する講演が行われました。

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前日に自転車で転んで足を捻挫してしまったというヨシダさん。
車椅子に乗っての講演となりましたが、たっぷり1時間半以上、多岐にわたるお話をして下さいました。

ヨシダさんは1929年生まれ。
1950年代初頭に、当時神奈川県藤沢市にあった丸木夫妻のアトリエに出入りし、《原爆の図》の制作の過程を間近で見届けた方です。その後《原爆の図》を背負って全国各地を巡回展示したことでも知られています。
また、日本のシュルレアリスムを代表する画家・靉光の研究者としても知られ、とりわけ、上海で戦病死した靉光の最期の状況を知るために丹念な調査を行い、ついに隣の病床で靉光の死を見届けた人物をつきとめたことは、洲之内徹の『気まぐれ美術館』(新潮社刊)の「靉光の死を見届けた人」に詳しく記されています。

会場には、つい先日『気まぐれ美術館』を読み、ヨシダさんが靉光の調査をされたことを知った、という方も来られて、熱心に講演を聞いて下さいました。

やや肌寒い中での講演となりましたが、何より、ヨシダさんが二人の画家の思い出を熱心に語られる元気なお姿を見られたことが、一番の収穫だったように思います。
ご来場くださいました皆さま、どうもありがとうございました。
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2010/11/10

ちひろ美術館・東京「ちひろとちひろが愛した画家たち」展  館外展・関連企画

午後から、ちひろ美術館・東京の担当学芸員が来館され、11月17日(水)から2011年1月30日(日)まで行われる企画展「ちひろとちひろが愛した画家たち」のために丸木位里・丸木俊の作品搬出作業を行いました。

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「ちひろとちひろが愛した画家たち」展は、絵本画家のいわさきちひろの作品に加えて、生前ちひろが敬愛していた画家や師事していた画家9人の作品を展示し、ちひろ創作の原点に迫るという企画です。
出品作家は岡本帰一、武井武雄、初山滋、マリー・ローランサン、岡田三郎助、中谷泰、丸木位里、丸木俊、ケーテ・コルヴィッツ。
丸木夫妻の作品は、絵本『ひろしまのピカ』原画のほか、位里の水墨画や俊の人物デッサンなどが展示されます。

会期中には、連続講座として以下の3回の講座が開かれます。

11月27日(土)「ちひろとちひろが愛した画家たち」講師:山田実穂(展示担当学芸員)
12月11日(土)「絵雑誌『コドモノクニ』の画家たちとちひろ」講師:竹迫祐子(安曇野ちひろ美術館副館長)
1月15日(土)「丸木位里、俊とちひろ」講師:岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)

参加費:各回500円(入館料別)
定員:各回30名(要申し込み)
時間:17時15分〜18時15分


いわさきちひろは敗戦直後に松本から上京し、当時池袋のアトリエ村に暮らしていた丸木夫妻のもとを訪れ、その後もデッサン会に参加するなどとても親しく交流しました。今回の展覧会では、丸木夫妻から受けた絵画上の影響なども詳しく紹介されることでしょう。
ぜひ多くの方にご覧いただきたい展覧会です。
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2010/11/7

川崎市岡本太郎美術館「池田龍雄展」  他館企画など

美術館の休みをもらって、午後から川崎市岡本太郎美術館で開催中の「池田龍雄 アヴァンギャルドの軌跡」展(2011年1月11日まで)に行ってきました。

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1928年生まれの池田さんは、現在82歳。
15歳で海軍航空隊に入隊し、特攻隊員として出撃直前に敗戦を迎えました。
やがて画家を志し、岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加。
絵画におけるルポルタージュの可能性を探りながら、内灘闘争を主題にした《網元》をはじめ、炭鉱や基地、第五福竜丸事件などの社会問題を鋭い諷刺を込めて描き続けました。
その後もさまざまな芸術運動に関わりながら、今日にいたるまで精力的に制作を続けています。
丸木美術館で2005年にはじまった「今日の反戦展」(2007年から「今日の反核反戦展」)にも毎回出品して下さり、今年は急逝した針生館長に代わって呼びかけ文を記して下さいました。

今回の展覧会では、section i「池田龍雄の仕事」で、初期作品から現在取り組んでいる「場の位相」シリーズにいたるまでの多岐にわたる芸術作品を展示し、section ii「交流と越境」で、「戦後アヴァンギャルド」を中心に交流のあった芸術家の作品や周辺資料を紹介しています。
非常に見応えのある展覧会です。

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この日は午後2時から、「戦後アヴァンギャルド芸術とその時代」と題し、池田龍雄さんと鳥羽耕史さん(徳島大学准教授)の対談が行われました。

鳥羽さんは、安部公房を中心に敗戦後の文化運動や社会運動について丹念な調査を積み重ねている注目の若手研究者。以前から研究会などでたびたびお会いしています。
会場には、丸木美術館でも企画展でお世話になっている東京藝術大学のS教授や、世田谷美術館のN学芸員、東京都現代美術館のF学芸員、山梨県立美術館のO学芸員などの芸術関係者が数多く来られて、関心の高さがうかがえました。

池田さんは、その多彩な交友関係と驚くほど精確な記憶力で“戦後美術の生き字引”と紹介されることが多いのですが、今回の対談も、池田さんの画家としての歩みを振り返りつつ、1950年代を中心とする芸術と政治の「アヴァンギャルド」について掘り下げていく、という内容になりました。
当日配布された資料から、池田さんの「戦後十年 芸術のアヴァンギャルド」と題する文章の一部を抜粋します。

 およそ芸術と政治との関係は甚だ難しく厄介である。政治は芸術を抱き込み利用しようとするが、自由な表現を旨とする芸術は、硬い政治の力学とは容易に相容れない。故に、芸術のアヴァンギャルドと政治のアヴァンギャルドの一致というような命題の実現は極めて困難だ。20世紀における最初の社会主義革命=ロシア革命の際に一応それは成立したかに見えたが、戦後の日本で同様なことを望むべくもなかった。
 それでもその時期、共産党に入っていた野間宏、安部公房は、その中でも〈主流派〉に所属し、党のいわゆる「人民大衆」の方に目を向けていた。「血のメーデー」事件の起きた52年8月刊の雑誌『理論』に、安部は「新しいリアリズムのために」と題してルポルタージュの重要性を説いているが、わたしもこの論理に動かされて〈文学におけるルポルタージュの方法を絵画に適用できないものか〉ということを考え始めた。53年春に結成された「青年美術家連合〈青美連〉」(これは朝鮮戦争による危機に対応して立ち上げられた美術家の全国組織である)の機関誌2号にその問題を提起し、そして、各地で激しく起こっていた基地反対闘争の中でその実践を試みたのである。まずは雑誌「人民文学」の仕事として立川に行き、夏には米軍に浜を奪われた石川県の内灘に行った。その後は、石炭の正体を見定めようと、はるばる長崎県の炭鉱に行って切羽の先までもぐったり、その石炭を大量に消費する八幡製鉄を訪ねたり、川崎の火力発電所を案内してもらったりしたのである。それらの努力は要するに、絵画に於いても新しいリアリズム、即ち戦前にあった自然主義リアリズムでもシュルレアリスムでも、はたまたソ連で生まれた社会主義リアリズムでもない、日本の現在・現実に即したリアリズムは如何なるものであるか、という、その探究心に発していたと言えるだろう。だが、その探究は甚だ困難だった。果して成果は上がったのかどうか、いま振り返ってみても何とも言えない。


やがてヨーロッパから「アンフォルメル(不定形の意、抽象表現主義の一傾向)」という新風が訪れると、池田さんは「わが国の現実に根ざした必然性に基づくものではなく、外国から吹き付けた風に煽られての、いわばファッションの流行に近い変化だから、その現象をわたしは内心〈アンフォルモドキ〉と名付けて冷やかに眺めていた」にもかかわらず、その後の日本美術の動向を左右するほどの大きな影響を与えることになりました。
50年代、芸術(美術)のアヴァンギャルドは―その一部分が―政治のアヴァンギャルドに一時急接近したものの、遂に交わることなく、ひたすら芸術の自律、芸術プロパーの新しさを求めて目まぐるしく変わっていったのである。」(太字はいずれも前掲文より抜粋)と、池田さんは当時の動向を評しています。

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>芸術のアヴァンギャルドと政治のアヴァンギャルドの一致というような命題の実現は極めて困難だ
という一文は、実体験に基づく池田さんならではの重みのある言葉で、《原爆の図》という主題性の強い作品に取り組み続けた丸木夫妻にとっても、おそらくは非常に重要な問題であったことでしょう。個人的にはたいへん興味深く、共感を持って聞きました。

歴史の主流から取り残され、長らく忘却されつつあった50年代の活動ですが、しかし、現在、この「記録」という言葉が独特の熱を帯びて多彩な展開を見せていた時代の動向を、再評価し、読み解いていこうという動きも見えはじめています。

池田さんと対談を行った鳥羽さんも、今年12月中旬に河出書房新社より『1950年代 「記録」の時代』を刊行される予定とのこと。
丸木夫妻の活動とも密接な関わりを持つこの時代のルポルタージュ絵画やサークル運動、記録映画などのエネルギッシュな動向にあらためて注目し、これらの活動がどのような意味を持っていたのか、考え続けていきたいと思っています。
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2010/11/5

第33回日本スリーデーマーチ  イベント

昨年とはうってかわって、好天に恵まれた第33回日本スリーデーマーチ。
地元の東松山市が開催する、日本を代表するウォーキングイベントです。

丸木美術館の前をたくさんの参加者が通過するので、今日は朝から大勢のボランティアが手伝いに来てくれて、リンゴジュースやサンドウィッチを販売しました。

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ほかにも、インドネシア雑貨を販売するぶんぶん堂さんが出店。

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チャンドラ・バザールさんの黒糖チャイのお店も人気でした。

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例年に比べると、売り上げや入館者数は少なかったようです。
平日というのも影響しているのかも知れません。スリーデーマーチは明後日まで続きますが、丸木美術館がコースに入っているのは初日だけなのでちょっと残念。

ボランティアに来て下さったM山くん、K峰さん、S木(N子)さん、S木(E子)さん、A森さん、T野さん、Nさん、どうもありがとうございました。

M山くんのお母さんが準備して下さった卵サンド、とても美味しかったです。
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2010/11/2

『埼玉新聞』「丸木位里展」掲載  掲載雑誌・新聞

2010年11月2日付の『埼玉新聞』に、「戦前戦中の50作品 没後15年丸木位里の回顧展」との見出しで、現在開催中の企画展の記事が掲載されました。

記事には、《原爆の図》に取りかかる前の1930年代から45年ごろまでの戦前、戦中に描いた作品50点を展示していることが紹介され、以下の文章が記されています。

 このころの位里さんは、当時のヨーロッパの超現実主義と抽象表現に影響を受け、日本画にも新しい表現を取り入れようとしていた。墨のにじみを使った作品は当時の美術雑誌にも取り上げられ、注目を集めた。この技法は原爆の図にも使われている。

また、11月13日午後2時から行われる美術批評家ヨシダ・ヨシエさんの講演「丸木位里の芸術・靉光との交流」も紹介されています。

いつも熱心に取材に訪れて下さるA記者に感謝です。
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2010/11/2

アートスペースにて「平川恒太展」開催  特別企画

11月20日から23日まで(22日は休館)、丸木美術館2階のアートスペースにて、「平川恒太個展 The Neverending Story」が開催されます。

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平川恒太くんは多摩美術大学の現役学生ですが、すでに多彩な表現活動で高い評価を受けている注目の若手作家です。
先日も、ターナーギャラリーで開催されていた個展「考え・ない」を観に行きましたが、卓越した表現力に加え、社会問題に関心を寄せる彼の骨太の視点を感じさせる興味深い内容でした。

丸木美術館では《原爆の図》と隣り合わせの空間で、どのような展示を見せてくれるのでしょうか、楽しみです。

会期中には以下のイベントも予定されています。
11月20日午後1時 トークショー1(ゲスト:楠見清、木村覚)/午後3時 オープニングレセプション
11月21日午後2時 トークショー2(ゲスト:花房太一、chim↑pom(卯城竜太)、丸木美術館学芸員、他)

以下は、DMに記された平川くんの文章です。
こうした若い芸術家が丸木美術館を発表の場に選んでくれるのは、本当に嬉しいことです。
ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思います。

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戦争を知らない子供達
平和を知らない子供達

世界では今日も戦争や紛争、テロに暴動、争乱などが絶えることがありません。
方や日本では、平和ボケと称されるようにあたかも戦争とは無縁に暮らしています。
TVでもなかなかイラクやパレスティナ、アフガニスタンの事を知る事はできません。報道されたとしてもそれは、一時の話題作りで消えて行きます。
ぼく達の世代をよく大人達はこう呼びます。『戦争を知らない子供達』
ぼく自身、戦争などのテーマの作品を制作していると必ずと言っていいほど言われる言葉です。
ぼく達は、確かに幸いな事に戦場を体験していません。
しかし、本当に『戦争を知らない子供達』なのでしょうか。
現在日本では、戦争はしていません。世界でも有数の安全な国です。
ですが、ちょっと待ってください。世界では今も戦争や紛争、テロなどが起こっていますし、その戦争をしている国が日本にも基地を持っています。。。
誤解を恐れず言うならば、ぼく達は戦争を知っています。(もっと学ぶべきですが)
しかし、戦争の無い平和な世界は未だに知りません。ぼく達は『平和を知らない子供達』なのです。本当に平和な世界を想像する力は、芸術の想像力とぼくは、似ていると思うのです。
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