2010/10/30

美術館クラブ「ゆかいな木にゆかいな色をぬるぞ」  ワークショップ

毎月恒例の丸木美術館クラブ工作教室。
今回は、台風が接近中ということで、雨が降り続けるあいにくの天気となりましたが、木工作家の遠山昭雄さんをゲストにお迎えして、「ゆかいな木にゆかいな色をぬるぞ」というテーマで行いました。参加者は10人ほど。
輪切りにした樹の幹の断面部分にやすりがけをして、マジックで絵を描くという内容でした。

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やすりがけの作業は、なぜか小さな子どもたちが気に入って、丹念に繰り返していました。

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断面がすべすべになったところで、絵を描きます。
家の表札を書いている人もいます。
木のかたちや年輪の模様を生かして、リスの絵を描いている人もいます。
予想外の作品ができるところが、とても面白いですね。

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次回は11月21日午後2時から、画家の谷口幹郎さんによる「切手で楽しいアートをしようよ」という内容で行います。
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2010/10/29

「没後15年 丸木位里展」の発見  作品・資料

京都国立近代美術館で10月17日まで開催されていた「『日本画』の前衛 1938-1948」展が、年明けの1月8日から東京国立近代美術館に巡回するにあたって、東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』585号(2010年12月-1月号)への寄稿を依頼されました。
先日、ようやく3,000字程度の文章を書きあげて提出したところです。

原稿では、「『日本画』の前衛 1938-1948」展に取り上げられていた丸木位里と歴程美術協会の関わりについて触れながら、丸木美術館で開催中の「没後15年 丸木位里展」の紹介もさせて頂きました。
「没後15年 丸木位里展」では、戦前・戦中期の位里作品50点を展示していますが、そのきっかけは「『日本画』の前衛 1938-1948」展を観て感銘を受けたことだったのです。
あらためてこの時期の位里の実験的な作品を見つめなおし、気づいたこともいくつかありました。

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ひとつは、《さぎ(2)》という小品。

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これまで丸木美術館では「丸木位里展」と銘打った企画を何度か行っていますが、この小品を展示したのは初めてだと思います。
一見、古典的技法で鷺を描いた平凡な作品のようですが、注目すべきは背景の緑の画面。
山肌のように見える絵の具の隆起は、シュルレアリスムの技法、デカルコマニーを用いた表現と思われるのです。

デカルコマニーとは、光沢紙のような厚紙に絵具を挟み、圧力を加えることで作者の意識を超えた偶然の形態を得る手法。日本におけるシュルレアリスムの紹介者である瀧口修造が、晩年に数多くの作品を制作しています。
しかし、水墨でデカルコマニーを試みるには、和紙の吸水性が高すぎてうまくいきません。
そのため、位里はもっぱら、墨の特性を生かした滲みや重ね塗り、たらしこみなどの技法で、デカルコマニーに似た流動的な効果をもたらす工夫を重ねていました。
ところが《さぎ(2)》は、絹布と岩絵具を用いることで吸水性の問題を解決しているのです。
位里がデカルコマニーを用いている作品は他に見当たらないため、彼の実験性を示す一例として、たいへん貴重なものだと言えるでしょう。

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もうひとつは、1943年発表と推測される《瀧》という点描の水墨画。

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こちらは、何度も展示をしている作品です。
では何が発見だったかというと、実はこの縦に流れ落ちる滝を描いた作品、発表時は、あえて左に90度回転した横向きの状態で展示されていたのです。
その証拠写真がこちら。位里さんの背後に写っている作品に注目してください。

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現在の《瀧》の画面を見なおしてみると、後年に施されたであろう縦向きの落款と署名のほかに、発表時に押したと思われる横向きの落款もちゃんと残っています。
当時の美術雑誌を読んでいると、《瀧》について書かれた文章ではありませんが、「どうもこれはわざと逆にしてサインを入れたんじやないか、例の彼の手だと感じた」という評論家の記述もあり、位里がこうした実験的な試みを繰り返していたことがわかります。

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「前衛」という“解放区”を謳歌するように、さまざまな芸術の冒険・実験に挑んだ若き日の位里。
その仕事を見つめなおすうちに、こちらの心も踊るように湧き立ってきました。
「位里さんのこの時期の絵の面白さに、はまりこんでいるんですよ」と俊さんの姪・H子さんに話したところ、「当時の位里先生と同じ年頃なんじゃないの」と指摘されました。
言われてみれば……歴程美術協会に参加した位里さんは、今の私とほぼ同年齢。
作品を理解する上で、あるいは、そういうことも大きく関係するのかもしれないと、あらためて考えさせられました。
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2010/10/26

『北日本新聞』「丸木スマとアール・ブリュット展に寄せて」掲載  掲載雑誌・新聞

2010年10月26日付『北日本新聞』に「無垢の糸が紡ぐ世界」との見出しで、現在富山県の西田美術館にて開催中の「丸木スマとアール・ブリュット展」に寄せた芸術評論家の石川翠さんの文章が掲載されました。
『北日本新聞』は富山を代表する日刊新聞で、富山県内では全国紙を抑えて発行部数が一番多いそうです。

以下は石川翠さんの文章より、一部抜粋。

 スマの絵の特徴は、奥行きがないことだ。今展の出品作「花と猫」(1954年)や「めし」(1950年)がその代表だろう。スマは前景のダリヤや猫と同様、背後の空間をまるで、もののように彩色した。前景を強調するためというより、空間もまた、いきものであるかのように。もう一つは「暮れる畑」(1952年)の野菜や果物や鳥のように、描かれたものが、重力をはなれて自由に結合していることだ。またレイシの花と実とつるで埋め尽くされた「せみが鳴く」(1952年)のように、〈地〉の空間を好んでかたちと色で覆った。
 筆に墨、岩絵の具、またクレヨンなどで描かれた、そんなスマの絵は、写実と遠近法に慣れた眼にはどこか幼稚に映るものだ。けれどルネッサンス以前、絵というものは世界中どこでも、ぺったりとしていた。
 たとえば、日本画や水墨画はいまでも、それほど立体感を重んじない。眼に見える世界を客観的に描いたものを〈絵画〉、世界とそれを見ている自分との関係を描いたものを〈絵図〉という。後者は東洋の伝統で、猫にしろ、花にしろ、スマの作品の中には、それを見ている彼女自身がともにいる。


また、展覧会でスマの絵とともに展示されている知的障がい者グループworkshop KAI=KAIについても触れられており、既存の美術教育や文化の外に自ら芽生えた芸術と位置づけられる「アールブリュット」について記された次の箇所がとても印象に残りました。

 一方に、人間の限界に挑むレオナルド・ダ=ヴィンチのような創造があるとき、アール・ブリュットは、制度がとりこぼした人間の可能性、また自然の連鎖の前での人間の慎ましさを掬いとろうとする。芸術が世界と人間の和解のためにあるなら、いま、わたしたちに真に必要なのは、このふたつの〈通い路〉の共鳴にほかならない。

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西田美術館の企画展は11月14日まで。
スマの絵と障がい者アートの共鳴が、とても清々しい気持ちをもたらしてくれる展覧会です。
10月31日午後2時からは、workshop KAI=KAIを支援している画家の米田昌功さんの講演会も予定されています。
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2010/10/26

元都立大生・西岡洋氏聞き取り調査  1950年代原爆の図展調査

かつて都立大学在学時に《原爆の図》の巡回展に関わったという横浜在住の西岡洋氏が来館して当時の証言をして下さいました。

西岡氏が「原爆の図展」に関わったのは、1952年から53年にかけてのことです。
ご本人の話によれば、1952年5月に都立大学で学生たちによる資料パネルで構成された「原爆展」を開催したことがきっかけとなって、東京都平和委員会から「《原爆の図》とともに、原爆展の展示セットを巡回して欲しい」という依頼があったとのこと。
展示の候補としては、北海道大、都立大、京都大の3つの大学が作成した展示セットが挙がっていましたが、内容や輸送への適性などが吟味されて、最終的に選ばれたのが都立大学だったそうです。

西岡氏は原爆展の展示内容を丹念に記録しており、今回、そのノートを見せて下さいました。

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表紙の「原爆展」の文字は、後に野々下徹氏が記したとのことです。

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当時の「原爆展」の資料パネルの内容を知ることのできる、たいへん貴重な資料です。
西岡氏の回想では、都立大学では《原爆の図》は展示されていなかったとのことですが、ノートを見ると、「原子病」の解説部分には、丸木夫妻の絵本『ピカドン』の挿絵の一部が引用されていました(下の頁の2つのイラストは『ピカドン』の挿絵だとわかります)。

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西岡氏ら都立大学の学生たちは、《原爆の図》を巡回していた野々下徹氏や吉田早苗氏(ヨシダ・ヨシエ)とともに東京周辺の会場を訪れ、資料を展示し、観客を呼び込みました。
実は西岡氏は長崎出身で被爆しており、巡回展ではヨシダ氏らの説明の様子を参考にしながら、みずからの体験を語ることもあったそうです。

野々下氏の遺した巡回展メモを見ながら、西岡氏の記憶を掘り起こして、主な巡回先をピックアップしてみました。1953年には山口県にも足をのばしたとのことです。

【1952年7月】
中野区江古田・東京療養所(野々下氏メモによれば5日間)
清瀬市・清瀬療養所(同4日間)
【1952年8月】
渋谷(同5日間、ヨシダ氏の記憶では回教寺院だが、西岡氏は公民館と回想)
立川市・南口公会堂(8月5日〜7日)
武蔵野市・井の頭公園平山博物館(8月6日〜10日)
田無町(同5日間)
板橋区(同4日間)
【1953年7月】
山口市・山口大学教養学部(7月10日〜12日)
厚狭町(同2日間、西岡さんのノートに地名記載)
小郡町(同1日間、同上)
小野田市(同2日間、同上)
下関市(同3日間、同上)
岩国市(同3日間、同上)


西岡氏の記憶では、この他に川越など埼玉県内各地を巡回したこともあるそうですが、野々下氏のメモには含まれていません。
もっとも野々下氏のメモは、もうひとつの《原爆の図》……模写(再制作)版の巡回の足跡はまったく記していないので、埼玉を巡回したのは、あるいは模写(再制作)版なのかも知れません。
西岡氏の記憶では、どこかの会場で模写が展示されることになったものの、オリジナルと比べて質が落ちるために、その是非をめぐって学生たちの間で議論が起きたとのこと。第2部《火》の炎の描写が異なるので、実際にオリジナルと模写をならべて比較したこともあったとか。

また、当時の写真も多数提供して頂きました。

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こちらは東京・井の頭公園の平山博物館で開催された「原爆美術展」の風景です。
平山博物館は昆虫学者の平山修次郎が収集した世界各国の珍しい蝶、昆虫類が展示されていた博物館でした(現存せず)。
京都大学や北海道大学の学生による展覧会は「綜合原爆展」の名称が使われていましたが、この会場では「原爆美術展」との看板が目に止まります。

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右の写真、右端にヨシダ・ヨシエ氏の姿を発見。

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こちらの写真は立川展のための街頭呼び込みの様子。
看板には「原爆美術展」との文字が見えます。
会期は8月5〜7日、会場は立川南口公会堂、主催は東京都平和委員会と読みとれます。
平山博物館の会期は8月6日〜10日と看板に記されているので、会期が2日間重なっているのが気になります。
あるいはどちらかの会場に模写(再制作)版が展示されたのでしょうか。

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《原爆の図》の前で説明をする俊さんの写真もありますが、会場を知る手がかりがありません。
ちなみに写真に写っている第3部《水》はオリジナルです。

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屋外で観客に囲まれている俊さんの写真もあります。平山博物館展の際の写真でしょうか。

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この写真は、以前にも見たことがあるものでした。
「原爆展」の宣伝用自動車も写っていて、とても良い写真なのですが、会場が判明できません。
背後に写っている建物は、平山博物館のようにも見えるのですが、窓枠のかたちなど細部が微妙に異なっているようにも見えます。

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最後は山口展での写真。画面中央のネクタイ姿は野々下氏。
向かって右隣が若き日の西岡氏です。

なお、今回西岡氏から提供いただいた写真は、いずれも撮影者が不明です。
もしご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ丸木美術館までご一報ください。
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2010/10/22

群馬県立近代美術館「白井晟一展」  他館企画など

午後から東松山市職員Kさんといっしょに群馬県立近代美術館の企画展「建築家 白井晟一 精神と空間」展(11月3日まで)へ行ってきました。

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今年7月には、東京造形大学附属マンズー美術館で開催された「白井晟一の造形」展を見てきました(こちらを参照→http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1444.html)が、白井晟一は、幻の代表作「原爆堂計画」で知られる建築家です。

今回の群馬県立近代美術館の企画は、その白井晟一の建築作品に関連する写真やドローイング、模型、書、装丁、エッセイなどを通して、彼の芸術の全貌を紹介するという見応えのある内容。また、現在の作家たちが今日的視点から解釈した白井晟一を主題とする写真、立体、平面などの美術作品も合わせて展示していました。
もちろん、「原爆堂計画」の図面や模型も、独自に一空間を占拠して紹介されていました。

個人的には、図録に付録(?)として設計図が添えられていた「呉羽の舎(柿腸舎)」が気になりました。なにしろ、この建築がある富山県富山市の呉羽は、先日の富山出張で訪れたばかり。存在を知っていれば探してみたのに……とちょっと残念に思いました。
私が実見したことのある白井晟一の建築は、渋谷区にある松濤美術館と静岡市にある石水館くらいですが、図録には詳細な「作品リスト」も収録されていたので、今後は気をつけて探し歩いてみたいと思っています。
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2010/10/21

『朝日新聞(北海道版)』「原爆展もう一つの記憶」掲載  掲載雑誌・新聞

2010年10月21日付の『朝日新聞(北海道版)』に、「原爆展 もう一つの記憶/夫妻の巡回展とは別 1952年開催」という見出しで、1952年1月〜5月に全道30ヵ所以上を巡回した「原爆展」についての記事が掲載されました。
この記事は、2010年2月27日付『北海道新聞』夕刊(こちらを参照→http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1334.html)に掲載された記事のその後の調査結果を追跡した内容になっています。

以下は、今回の『朝日新聞』の記事からの一部抜粋。

 「原爆の図」は50年から32年間、丸木夫妻が共同制作し、第15部まである。道内では51年秋、初期の3部作の巡回展が、室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館で、丸木夫妻によって開催された。
 しかし、この巡回展とは異なる展示の存在がわかったのは昨年末。丸木美術館などが三菱美唄炭鉱で52年に開かれた原爆展の写真を調べたところ、同年1〜5月に道内30ヵ所以上で開催された北大生らによる「綜合原爆展」が浮かび上がった。
 展示作品は、米国で巡回展が企画された際に「控え」として夫婦が制作し、現在は広島市現代美術館に収蔵されているもう1組の「原爆の図」だったという。


当時、北大理学部の学生で綜合原爆展に携わったWさんの「朝鮮戦争が起き、平和への危機感があった」という回想や、綜合原爆展では《原爆の図》とともに、パネルやデッサンで原爆の原理や被害を伝えようと試みたが、原爆被害に関する情報がなく、医療X線のデータや放射線研究者の被曝の事例から被害を推測するしかなかったという証言も紹介されています。

また、北海道巡回展の会場や日時を新聞記事や道立図書館に保管されている資料などで調査した美唄市のSさんの「芸術性だけでなく、原爆の被害を知らせる媒体としての役割も大きかった」という談話や、展覧会の主な開催地が空知をはじめとした産炭地だったのは、炭鉱労働者が大勢住んでいたために動員が見込めたことや、労働組合の文化活動が盛んだったためだろうという推測なども掲載されています。

1952年の「もうひとつの」北海道巡回展と「もうひとつの」《原爆の図》については、『丸木美術館ニュース』第103号でも報告していますが、資料が少ない当時の巡回展の様子を知る上でも、非常に重要な調査となっています。
今回の『朝日新聞』の記事をきっかけにして、さらに新たな証言が寄せられることを期待します。
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2010/10/19

没後15年 丸木位里展  企画展

週末はボランティアの方々がお手伝いに来て下さって、「今日の反核反戦展2010」の撤去・梱包作業と、「没後15年 丸木位里展」の展示作業を行いました。

そして今日からは、いよいよ「没後15年 丸木位里展」がはじまりました。
戦前・戦中期の位里作品50点を展示した、たいへん見応えのある展覧会です。
ちなみに今日10月19日は丸木位里の命日になります。

位里の若い時期の作品がこれだけ並ぶのは、おそらく初めてのこと。
私も、写真では見たことがあるものの、実見するのは初めてという作品もあり、あらためてその素晴らしさに心を打たれました。

1930年代から40年代前半にかけては、位里の生涯を通しても、もっとも実験的な挑戦を試みていた時期です。
水墨のにじみや流動性を生かしてほとんど抽象化された雲の表現や、単色に見えながらもデカルコマニー(紙に絵具を挟み込み、偶然の広がりを生かした技法)によって複雑に作りこまれた画面など、何度見ても見飽きることがありません。

たまたま絵本原画の修復と額装を終えて納品して下さった修復業者D社のOさんも、「これはすごい展覧会ですね」と関心しながら見て下さいました。

地味に思われがちな展覧会ですが、見応え十分、必見です!
以下は会場風景写真。作品の凄みを伝えきれないのが、もどかしいです。

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2010/10/13

ハロー・ディア・エネミー展/杉並区立公民館跡地の碑  調査・旅行・出張

午後から、杉並区立中央図書館の2階会議室で開催中の「ハロー・ディア・エネミー!80作品展 平和と寛容の国際絵本展」(10月15日まで)へ行ってきました。

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反戦のテーマとつながる絵本を世界中から選んだこの絵本展は、ミュンヘン国際青少年図書館によって企画され、1998年にインドのニューデリーで開催されたIBBY(国際児童図書評議会)世界大会で発表されました。その後、JBBY(日本児童図書評議会)の主催によって日本国内での展示がはじまり、現在も各地を巡回しています。
80作品の絵本は、「戦争と破壊の体験」「暴力と起源の広がり」「人種差別や偏見と寛容の精神」「平和と和解」「平和、人権、自由への夢」の5つのテーマに分けられ、日本からは次の7作品が選ばれています。

『わすれないで―第五福竜丸ものがたり』(赤坂三好=文・絵、1989年 金の星社)
『ひろしまのピカ』(丸木俊=絵・文、1980年 小峰書店)
『二度と』(松井エイコ=脚本・絵、2005年 童心社)
『絵で読む広島の原爆』(文=那須正幹、絵=西村繁男、1995年 福音館書店)
『サニーのお願い 地雷ではなく花をください』(絵=葉祥明、文=柳瀬房子、1996年 自由国民社)
『ゆらゆらばしのうえで』(きむらゆういち=文、はたこうしろう=絵、2003年 福音館書店)
『土のふえ』(今西祐行=文、沢田としき=絵、1998年 岩崎書店)

また、広島の原爆を主題にした作品としては、インドで出版された『Sadako of Hiroshima』(絵=アジャンタ・グゥアサクルタ、文=マノラマ・ジャファ、1997年)やオーストラリアで出版された『Sadako(邦題『つる サダコの願い』)』(絵=エド・ヤング、文=エリナー・コア、1995年、日本語版はこだまともこ訳、2005年 日本図書センター)も選ばれています。

そのほかにも、展覧会のタイトルのもととなったドイツの絵本『Guten Tag, lieber Feind!(邦題『ハロー・ディア・エネミー)』(絵=インゲ・シュタイネケ、文=グードルン・パウゼバンク、1986年、日本版は桑田冨三子訳、2001年 くもん出版)のような敵との和解をユーモラスに描いた作品や、スペインの市民戦争が始まった年に反戦のメッセージを込めて出版された『The story of Ferdinand(邦題『はなのすきなうし』)』(絵=ロバート・ローソン、文=マンロー・リーフ、1962年、初版1936年、日本語版は光吉夏弥訳、1954年 岩波書店)、あるいはケストナーの名作『Die Konferenz der Tiere(邦題『動物会議』)』(絵=ヴァルター・トリア―、文=エーリヒ・ケストナー、1998年、初版1949年、日本語版は高橋健二訳1949年、池田香代子訳1999年 ともに岩波書店)などの興味深い世界各地の絵本を手にとって見ることができる貴重な機会です。

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図書館を出ると、向かい側の杉並区立荻窪体育館の敷地内に、ひとつの記念碑が建っていることに気がつきました。

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見ると、台座部分に「オーロラ 杉並区立公民館跡地の碑 平成3年3月 制作者 瀧 徹」と刻まれています。
記念碑の由来についても、詳しく案内板に記されていたので、以下にその文章を紹介します。

昭和28年11月に開設した杉並区立公民館においては、区民の教養向上や文化振興を図るため、各種の教養講座が開かれ、また、社会教育の拠点として、区民の自主的活動が行われてきました。
これらの活動のなかでも、特筆されるものは、昭和29年3月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広範な区民の間で始まった原水爆禁止署名運動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われております。
その公民館も老朽化により平成元年3月末日をもって廃館されましたが、その役割は杉並区立社会教育センター(セシオン杉並)に発展的に継承されております。ここに、公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。
 平成3年3月 東京都杉並区


1954年の第五福竜丸被曝事件をきっかけに、杉並区の公民館から原水爆反対の署名運動がはじまり、世界中に広がったという話は以前から聞いていましたし、その活動の中心的役割を果たした安井郁氏は丸木美術館の初代館長でもあります。丸木夫妻も原爆の図第10部に《署名》という作品を描いているのですが、その公民館の跡地に記念碑が建っていたということは、初めて知りました。
住民たちによって作られた歴史の記憶が、記念碑として大切に残されていることにちょっと感動しました。

さらに図書館のまわりを歩いてみると、隣の「読書の森公園」にはなんとマハトマ・ガンジーの像が!

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2008年に建てられた、日本最初のガンジー像だそうです。
中央図書館を中心にして、さまざまなかたちで平和を考えるエリアになっているのですね。
「ハロー・ディア・エネミー展」を見に来たおかげで、思わぬ発見がありました。
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2010/10/8

インドよりジャティン・ダス氏来館  来客・取材

国際交流基金の招へいによって来日中のジャティン・ダス氏が、案内役のT氏と通訳のS氏ら一行とともに丸木美術館に来館されました。
ダス氏は、50年以上にわたり絵画、壁画、彫刻、インスタレーションなど幅広い創作活動を行っているインドを代表する芸術家です。1975年にはドイツ・カッセルのドクメンタ展、1978年にはヴェネツィア・ビエンナーレにも参加しています。

今回の来日は9月26日から10月10日までの15日間。
前日に東京で講演を終えて、この日はわざわざ丸木美術館に足を運んで下さいました。
御挨拶のあと、少し話をしているうちに、丸木夫妻が1978年にカラ芸術アカデミーに招待された際にお会いしているということがわかりました。

《原爆の図》の展示室に御案内したところ、ダス氏がみるみるうちに絵に惹き込まれていくのがわかりました。
案内役のT氏によると、ダス氏は東京の美術館や博物館をまわってもあまり関心を示さなかったそうですが、《原爆の図》の、とりわけ初期の作品の人物描写を見た途端に、「集中したい」と周囲の会話をさえぎって画面を食い入るように見はじめたのです。

「この画家はバックグラウンドはどういうところにあるのか」
「墨を使っているというが、この絵はむしろ西洋的に見える」
「ミケランジェロにも匹敵する絵画だ」

ときおり、興奮したように鋭い質問や感想を発します。
やがて、「ライトを照らす必要はない。ライトを消して、天井からの自然光だけで見せてくれないか」と提案され、照明を落とした状態で作品鑑賞。

「この方がずっと色が良い。一般の来館者にも聞いてみると良い」
「来館者は靴を脱いで絵を鑑賞すべきだ。理由は2つある。ひとつは作品保護のために埃をたてないということ、もうひとつは、作者と絵に対して敬意を払うためだ」

美術館の将来像についても、次々と斬新な提言をして下さいました。

その後は、丸木夫妻の元アトリエで現在は休憩室兼図書室になっている小高文庫に上がり、机の上に置かれていたスケッチブックに即興で絵を描いて下さいました。

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写真は、制作中のダス氏。《原爆の図》に触発されたような人物像が完成しました。

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ご案内をして下さったT氏、S氏には心から感謝。
ダス氏が非常に感動して絵を観て下さったので、私もとても嬉しかったです。
「こうした優れた芸術作品を、もっと国際的に紹介していくべきだ」というダス氏の言葉を、これからも胸に刻んでいきたいと思います。
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2010/10/6

【富山出張3日目】白川郷/富山県立近代美術館  調査・旅行・出張

朝一番に西田美術館を訪れて、昨日じっくり観る機会のなかった常設展示を見学。
古今東西の幅広い展示のなかで、とりわけ惹きつけられたのは、イコンのコレクションでした。
日本語で「聖像画」とも訳される小さな宗教画。一般家庭で何世代にもわたって大切に飾られ、守られてきた小さな絵画は、無名の作者によって描かれた素朴な表現でありながらも、今の時代にもなお強い輝きを放っているように思われます。
考えてみれば、これらのイコンも現代の美術の枠組みで考えてみれば、「アウトサイダーアート」と言えるのかも知れません。
どうも私は、作家意識の希薄なところから生まれてくる作品に心を惹かれる傾向にあるようです。
もともと中世宗教画に強い関心を寄せるMくんも、とても熱心にイコンを観賞していました。

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写真は西田美術館所蔵のイコンのひとつで、《大天使ミカエルと聖ゲオルギウス》(1800年頃、ロシア)。その他のコレクションも西田美術館のHPからご覧になることができます。
http://www.nishida-museum.com/jousetu/index.html

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お世話になったS学芸員に御礼を言って美術館を出発した後は、Y館長に連れられて、合掌造りで有名な白川郷へ足を延ばしました。
富山から高速道路で約1時間。もともと岐阜の山深い村だった白川郷ですが、世界遺産に登録されて観光客が急増したために、交通網が整備されたようです。

なぜ富山県に来たのに白川郷を案内して下さるのか……と最初は不思議に思ったのですが、実は岐阜県白川村だけではなく、富山県の五箇山地区も含めて合掌作りの集落が世界遺産に登録されていたそうです。
そして、長年富山県の職員として勤められたY館長は、ユネスコ関係者をそれとは知らずに白川郷・五箇山へ案内して、たいへん感激された経験をお持ちとのこと。
当時は世界遺産の認知度も高くはなく、登録のための運動なども一切なかったそうなのですが、あるいはY館長の案内が世界遺産登録へのきっかけのひとつになったのかも知れません。

Y館長によれば、そのユネスコ関係者は「万里の長城にも匹敵する文化遺産」と合掌造りを評したそうですが、ドイツの建築家ブルーノ・タウトもかつて「極めて論理的・合理的構造で、日本では全く例外に属する」と称賛したといいます。

確かに雪に耐えるため約60度に近い急勾配で作られた切妻屋根は、近くで見ると凄い迫力。
しかも釘などはいっさい使わず、ワラナワやマンサクの若木で縛り支えているのだというから、まさに芸術品です。

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天気も良く、別世界のようにのどかな風景のなかをゆっくりと散策。
とても貴重な体験をさせて頂きました。

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写真は囲炉裏端でくつろぐY館長。
ご自身も剱岳の麓の合掌造りの家で生まれ育ったとおっしゃっていて、白川郷を心から愛されている様子でした。

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白川郷をたっぷりと堪能した後は、Y館長に車で富山市内まで送って頂き、富山県立近代美術館を訪れました。

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1981年に開館した富山県立近代美術館は、設立段階で瀧口修造のアドヴァイスも受けたとのことで、シュルレアリスムに関係するコレクションに力を入れているそうです。
現在開催中の企画展は、「とやま現代作家シリーズ メッセージ アート新世代から」。

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「とやま現代作家シリーズ」は、1997年より開催している地元作家を紹介する企画展。今回は、絵画・版画・立体造形・映像など幅広いジャンルの若手から中堅の作家24組による約60点を展示しています。
前日に西田美術館でお会いした米田昌功さんも選ばれていて、立山の山岳信仰を連想させるスケールの大きな作品を出品されていました。

富山の現代のアートシーンに触れた後は、常設展示室へ。
常設展示の一室では、瀧口修造と読売アンデパンダン展の作家たちと題する小特集展示をしていました。

瀧口修造ではじまり、瀧口修造で締めくくった今回の富山出張。
帰りの列車では富山名物の駅弁「ますのすし」を頂きながら、無事に埼玉県に帰着しました。
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2010/10/5

【富山出張2日目】西田美術館展示作業  調査・旅行・出張

温泉旅館で目覚めて窓の外を見ると、山の向こうから朝日が昇っていました。
田園の広がる平野と雄大な北アルプスの山並み。富山県の景色の素晴らしさに朝から心を打たれます。

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朝食の後、西田美術館のY館長が車で迎えに来て下さり、美術館へと向かいました。

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西田美術館は、富士化学工業の創設者、西田安正氏が収集したコレクションを中心に1993年に開館した私立美術館。
古代オリエントや中国の陶磁器・彫刻作品、イコンから現代美術までの絵画作品と、多彩かつ膨大なコレクションが特徴です。
美術館からは北アルプスが一望でき、地域のシンボルである剱岳や立山もよく見えました。

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美術館に着くと、さっそくスマ作品を開梱。続いて展示や照明の調整など、一日じゅう作業を行いました。

今回の展覧会「この素晴らしき世界 丸木スマとアール・ブリュット」(2010年10月8日-11月14日)は、西田美術館のS学芸員が企画されたもので、丸木スマの絵画21点と合わせて、富山県内にあるNPO法人障がい者アート支援工房ココペリのサポートにより活動を行っている知的障がい者アーティストグループworkshop KAI=KAIの作品を紹介するという内容です。

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実はココペリの中心メンバー、画家の米田昌功さんは、かつて丸木夫妻も出品していた人人展の会員。
展示作業の合間に、丸木夫妻の展覧会を訪れたときのエピソードや、中村正義や大島哲似など人人展創設会員の方々の絵画について楽しく(米田さんの言葉を借りれば、“コア”な)話をすることができました。
米田さんが関心を寄せている立山の山岳信仰と曼荼羅の世界観についても詳しく教えて頂き、とても勉強になりました。

今回の展示では、S学芸員の構想によって、スマさんの作品と障がい者アーティストの作品を分けることなく、混在させて見せていくという方法をとっています。
ありそうで、今まで案外なかった素敵なアイディア。
絵画手法の常識にとらわれない伸びやかなスマの絵画と、力強く独創的なworkshop KAI=KAIの皆さんの作品が、見事に豊かな世界観を提示しています。

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富山県内で丸木スマの絵が紹介されるのは、おそらく初めてのこと。
そして、Y館長によれば、「アールブリュット」や「アウトサイダーアート」と呼ばれる“既存の文化や美術教育に影響されない”芸術の本格的な企画展も、富山県内の美術館では初めてだろう、ということです。
地道な活動を続けてこられたココペリとworkshop KAI=KAIの皆さん、そして新鮮で意義深い企画を立ち上げて下さったS学芸員に、心から敬意を表したいと思います。
今後も応援していきたい“小さな美術館”を、またひとつ知ることができました。

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展示作業は夕方には無事に終了し、最後に会場で記念写真を撮りました。
前列左からS学芸員、ココペリのMさん、後列左からY館長、岡村、ボランティアのMくん、画家の米田さんです。
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2010/10/4

【富山出張初日】瀧口修造の墓  調査・旅行・出張

10月8日から富山県中新川郡上市町の西田美術館で開催される企画展「この素晴らしき世界 丸木スマとアール・ブリュット」の準備のために、2泊3日で富山へ出張することになりました。
展示作業を行うため、いつもボランティアで展示を手伝ってくれる画家のMくんと二人旅です。

大宮駅から上越新幹線に乗って、越後湯沢駅から北越急行の特急「はくたか」に乗り換え。約3時間で富山駅に到着しました。富山県を訪れるのは実は初めて。
前日の朝から丸木美術館でスマ作品21点の梱包搬出作業を行い、この日は西田美術館に作品が到着するのですが、開梱までは行わないというので、まずは富山駅から普通列車に乗り換えてひと駅目、呉羽という小さな駅で降りて、瀧口修造の墓へお参りに行くことにしました。

   *   *   *

瀧口修造(1903-1979)は、日本を代表する詩人、美術評論家として知られ、シュルレアリスムなどの前衛芸術運動を推進して多くの芸術家に影響を与えました。
戦前には丸木位里も参加していた美術文化協会の理論的支柱として活動しており、位里も水墨の抽象表現を確立する上で少なからぬ影響を受けたと思われます。

瀧口修造の墓は呉羽駅から徒歩20分ほどの大塚という集落(彼の生地)の龍江寺にあります。
富山に向かう途中ずっと降り続いていた雨は、呉羽駅に降りた頃にはすっかり止み、空には瀧口修造の手がけたデカルコマニーの連作を思わせるような雲が広がりました。
この光景には、雲好きの画家Mくんも「北陸の雲は違いますね」と思わず茫然。

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国道を渡り、地図を見ながら集落のなかの小道を歩いていくと、想像していたよりずっと小さなお寺の門がありました。

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瀧口家の菩提寺だったそうで、門をくぐるとすぐに瀧口家代々の墓と書かれた墓碑がいくつか見えます。
その中を抜けた左奥に、ひっそりと「瀧口修造」と記された小さな墓碑がありました。

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黒御影石の墓の正面には自筆の「瀧口修造」、裏面にはダダイズムの巨匠マルセル・デュシャンの筆による「Rrose Sélavy」、横に小さく夫人の「瀧口綾子」の名が刻まれています。

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「Rrose Sélavy」とは、デュシャンが使っていた偽名であり、瀧口修造が晩年に想像した架空のオブジェの店の名前でもあります。

 奇妙な話だが、いつの頃からか、私に「オブジェの店」を出すという観念が醗酵し、それがばかにならない固執であることに気づきはじめた。いうまでもなく私は企業家や商人とはまったく異なったシステムで、それを考えていたのだ。

 私はまずその店名と、その看板の文字を、既知のマルセル・デュシャンに依頼すると、かれは快よく応じてくれた。こうして、その店の名は“Rrose Sélavy”(ローズ・セラヴィ)ということになった。これはデュシャンが1920年頃から使いはじめた有名な偽名で、あのレディ・メードのオブジェに署名するためだったらしいが、またかれがしばしばこころみる言葉の洒落にもこの署名を使っている。

 「セラヴィはフランス語のC'est la vie(これが人生だ)をもじったもので、ローズは1920年、彼女が生まれたときには女のもっとも俗な名前でした。私はそれにRを二つ重ねてもっと俗にしたのです……」とデュシャンはその名の由来を私への手紙に書いている。

 こうして、いまは架空だが、「ローズ・セラヴィ」という店の名が、デュシャン自身の命名によって誕生し、いま私は看板を試作中であり、おそらく近日中には少なくとも看板だけは私の書斎に掲げられるだろう。それがまたひとつの物であり、この看板はいったい何を私に照らしだしてくれることだろう。


  (瀧口修造「物々控」―『美術手帖』第251号、1965年4月増刊号より)

   *   *   *

瀧口修造の墓に花を手向け、Mくんとともに静かに合掌。
しかし、あんまりゆっくり時間を過ごしたので帰りの列車に乗り遅れ、1本後の列車で富山に戻ることになりました。
そのため富山地方鉄道の時間があわず、歩いて15分ほどの距離にある富山城址公園を散策。

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富山城は、1543年頃に越中の守護代・神保長職が家臣の水越勝重に命じて築城したとされ、後に織田信長の重臣・佐々成政の居城となり、江戸時代には越中前田家の居城となりました。本丸御殿は明治期に焼失し、現在の鉄筋コンクリート構造の天守閣は1954年に建てられたもの。

公園内には、富山藩2代藩主・前田正甫の銅像もありました。
実は有名な「富山の薬売り」の元祖はこの前田正甫なのだそうです。
元禄期に江戸城内で岩城三春藩主・秋田河内守が急な腹痛で苦しむのを見た正甫が、常備していた薬「反魂丹」を飲ませたところ、たちまち痛みが収まったため、諸国の大名から薬の販売依頼が殺到。そこで領地から出て全国で商売ができる「他領商売勝手」を発布し、「富山の薬売り」が生まれたとのこと。富山駅前には薬売りの銅像もありました。

夕闇が迫るなか、富山地方鉄道に乗って上市駅で下車。
この日の宿は上市町のつるぎ温泉。海鮮鍋や白海老釜飯など、山海の幸をふんだんに取り入れた夕食と露天岩風呂で長距離移動の疲れを癒しました。
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2010/10/3

中国古楽器チャリティコンサート  イベント

穏やかな秋晴れに恵まれて、丸木美術館隣の野木庵で「丸木位里没後15周年記念 かぎりない平和を願って・チャリティコンサート」と題する中国古楽器コンサートが行われました。主催は日本フルス普及会埼玉県支部です。
出演して下さったのは、フルス・バウー奏者の王珊さんと高龍さん、そして二胡奏者の馬高彦さんでした。

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瓢箪を使ったユニークな楽器・フルスを演奏する王珊さんが着ているのは、中国雲南省少数民族イ族の代表的衣裳だそうです。

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二胡奏者の馬高彦さんの高度な技術と表現力は聴衆を圧倒するほど素晴らしいものでした。

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当初はチケットが売れるかどうか心配もされていましたが、コンサートが近づくと次第に問い合わせが増え、結局は野木庵に入りきれないほどの超満員となりました。
その人数は、なんと170名以上!
叙情性あふれる中国や日本の曲に、会場を埋め尽くした方々は静かに聴き入っていました。

チケット売上代金の一部は丸木美術館のほか、日本雲南聯誼協会へ寄付されるとのこと。
雲南省25の少数民族各地域に50の小学校を建設するための支援基金に活用されるそうです。
会場設営やチケット販売などの準備に奔走して下さった日本フルス普及会埼玉支部の皆さまには、心からお礼申し上げます。
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2010/10/2

美術館ニュース発送作業  ボランティア

丸木美術館ニュース第103号の発送作業日。
午前中からボランティアの方々が流々庵に集まって、手際良く封入を進めて下さいました。
私は午前中に大学生・一般など3件の団体の館内説明。午後にはニュースの執筆者に御礼状を書き、掲載誌をお送りする準備を進めました。
昼食は、恒例の川越のMさん御家族が用意して下さいました。
すっかり作業に慣れたボランティアの方々のおかげで、作業は午後2時頃には終了。
友の会会員の皆さまのお手元には近いうちに届くことと思います。

今回、特別会員の皆さまには、プレゼントとして新商品の2011年版丸木美術館カレンダーが同封されています。

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丸木位里、俊、スマの描いた季節感あふれる絵画が掲載されています。
丸木美術館入口ロビーでも取り扱っていますので、ぜひお求めください。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/shop.htm#calendar
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