2010/8/29

毛呂山町原爆絵画展にて講演  講演・発表

午後から、毛呂山町東公民館で開催されている「ヒロシマ市民の描いた原爆絵画展」(主催:もろびと平和サークル・原爆絵画展毛呂山実行委員会)へ行き、「原爆の図をもう一度見つめ直す」と題する講演会を行いました。

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会場には、1970年代にNHK広島放送局の呼びかけによって集められた“市民が描いた原爆の絵”の複製が多数展示され、また、現代の子どもたちによる「平和な未来の毛呂山」の絵も展示されていました。

午後2時からは特別企画として、俳優座の高山真樹さんによる平和への朗読が行われました。
高山さんは毛呂山在住の女優さんで、毎年「原爆絵画展」で朗読をされているとのこと。
今年は長州新聞社編「沖縄戦の真実」を力強く、深みのある美しい声で読んで下さいました。

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   *   *   *

その後の岡村の講演は、なぜ丸木美術館が東松山市にあるのかという説明からはじまり、丸木夫妻が広島でどのような体験をしたのか、戦時中と戦後の「戦争画」を比較するとどのように見えるのか、丸木夫妻以外の原爆の絵はどのようなものがあったのか、発表当時の《原爆の図》はどう受容されていったのか、これからの時代にどのように意味づけられていくのかという内容で、1時間15分ほど話をさせて頂きました。

講演後に声をかけて下さった方々の反応は、「やはり説明があると《原爆の図》がよくわかる」「戦時中の絵は子どもの頃に見た記憶があるので、絵や音楽で戦意を高められていたとあらためて考えさせられた」「なぜ東松山に美術館があるのかを初めて知った。太田川の写真を見られてよかった」というものでした。

帰りには地元で採れたという立派なゴーヤなどをお土産に頂き、とても心温まる思いがしました。
お声掛けくださったAさんはじめ、お世話になった実行委員の方々に心から御礼申し上げます。
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2010/8/27

東松山市河童会議  イベント

今年も、東松山市の呼びかけにより“子ども河童会議”が行われました。
丸木美術館に集合した約20人の市内の子どもたちが、上流の鞍掛橋まで歩いて移動し、魚とりや川遊びを楽しみ、カヌーで川を下って丸木美術館下で上陸。お弁当を食べたあとに丸木美術館の館内を見学するというスケジュールです。
丸木美術館を利用して下さるのは、昨年に続いて2回目となります。

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現代の子どもたちにとって、川遊びはふだんなかなか体験することのできない貴重な機会。
ボランティアのS木(F)さんがまとめて下さった子どもたちの感想の一部を御紹介します。
・投網をやってみたけれど、むずかしかった。
・川にみんなが飛びこんでいて、みんなカッパになっていた。
・川には魚がたくさんいました。深いところで泳いでたのしかったので、いいたいけんになりました。
・川がつるんとすべっておもしろかったです。
・大きすぎるウシガエルのおたまじゃくしをみてびっくりした。


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川遊びのメインはカヌー体験。
美術館で待っていると、上流から子どもたちの歓声が聞こえてきて、4艘のカヌーが茂みの向こうから颯爽と姿をあらわします。
スピードに乗って瀬を一気に下るカヌーや、途中で横向きになって止まってしまうカヌーなど、さまざまなチームがありましたが、みんなとても楽しそうでした。
同じく子どもたちの感想を紹介します。
・カヌーをがんばってこいだら、思ったより早くすすめました。一とう賞になってよかったです。2つ以上ぬかしました。
・カヌーが初めてだったので、すごくたのしかったです。
・カヌーできょうそうして、回転したのがおもしろかった。
・カヌーがのりあげたら、みんながすぐにおりて押していた。運動会みたいですごかった。
・カヌーがたのしかった。じぶんがえんじんのようにしているようでおもしろかった。


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丸木美術館を見学した後は野木庵に集まって、S木(F)さんが紙芝居『おきなわ島のこえ』を読んで下さいました。
同じくボランティアのCさんも、「みんなが今日、川遊びを楽しめたのは平和だからということを忘れないで。戦争になったら好きな遊びもできなくなります。大人たちは戦争が起こらないようにがんばるから、みんなは一所懸命遊びをがんばってください」と挨拶をして下さいました。
最後に子どもたちの感想です。
・まるきさんたちが、すごくりっぱに思った。
・もう一生どこの国でも戦争はおきてほしくないと思った。
・絵が血まみれの人がいて、ざんこくだった。
・原爆の図がすごかったです。
・平和があたり前だと思ったけど、同じぐらいのこがあんなにざんこくなものを見て死んだのがかわいそう。
・せんそうのことはテレビで見たり、本でよんだりしたことがあるけど、今日はじめて知ったことがたくさんありました。


来年もまた、子どもたちの元気な歓声を聞きたいですね。
世話役として一日じゅう働いた市役所の方々、ボランティアの皆さん、本当にお疲れさまでした。
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2010/8/26

劇団昴『イノセント・ピープル』  他館企画など

池袋・シアターグリーンで公演中の劇団昴ザ・サード・ステージ 第29回公演『イノセント・ピープル』を鑑賞してきました。

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舞台は米国ニューメキシコ州ロスアラモス。
原子爆弾の開発に関わった若い科学者たちの視点から、原爆投下とその後の人生を描いた非常に興味深い作品です。

1963年、終戦から18年が経過し、ロスアラモス研究所の20周年を機に、かつて原爆開発に関わった5人の若者たちが再開する場面から物語ははじまります。
主人公の科学者家族を軸にしながら、舞台は1945年7月のトリニティでの最初の原爆実験の日から、原爆投下、ベトナム戦争やイラク戦争の時代を経て、最後は2010年8月に科学者が広島を訪れて被爆者たちと対面する日を迎えるまで、いくつもの時間を行きつ戻りつしながら展開されます。

公演の後のポスト・ショー・トークでは、作家の畑澤聖悟氏が「2005年のTBSの特別番組『ヒロシマ』を観た際、原爆開発に関わった科学者が被爆者と対面し、謝罪しないと言い切ったこと、“リメンバー・パールハーバー”という言葉を残したことが衝撃で、米国側の視点から原爆を描くことで日米の溝が見えるのではないかと思った」と語っていました。
日本人が西洋人を演じることの不自然さを逆手に取った“翻訳劇のパロディ”という要素もある今回の舞台は、ともすれば原爆被害者としての意識が先行しがちな日本の側の私たちにとって、複雑な思いを抱かざるをえない台詞も随所に発せられます。
しかし、畑澤氏の「理解はできなくとも、知ることはできるのではないか」という言葉からは、自分と逆の立場の人が何を考えているのかを知る、ということの重要性も、あらためて考えさせられました。

クライマックスでは、広島を訪れた老科学者が、被爆者たちに「私は生き残った者として、亡くなられた方にその後の世界を報告する義務があります。あなたが謝らなかったということは、到底報告できません……謝る気持ちはありませんか?」と言われ、沈黙する場面が登場します。
この被爆者側の台詞は、TBSの特別番組のなかの言葉を引用したものでしょう。
ただし、老科学者は現実のように“リメンバー・パールハーバー”とは答えず(この台詞は別の場面で別の登場人物が叫ぶのですが)、うつむいて沈黙を続けるのです。
代わりに、ベトナム戦争に従軍して半身不随になった彼の息子が、自分も戦争で人を殺したことを悔いている、傷ついていない人間はどこにもいないと語り、「父を許してやってくれませんか」と逆に被爆者たちに問いかけます。

戦勝国といえども、ずっと「イノセント(無垢)」のままでいられるほど現代の社会は単純ではない、と同時に、原爆について単なる“被害者”という立場であり続けようとすることも、あるいは「イノセント」なのかも知れないと思わせる余韻を残して、舞台は幕を閉じます。

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さまざまな問題提起をはらんだ意欲作。
主人公の科学者役の遠藤純一さんをはじめ、役者の皆さんの熱演も印象的でした。
舞台は8月29日(日)までとなっています。
http://www.theatercompany-subaru.com/3rd.html
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2010/8/26

『埼玉新聞』「武田美通展」紹介  掲載雑誌・新聞

2010年8月26日付『埼玉新聞』社会面に、「戦死者の声 鉄で代弁」との見出しで、現在企画展開催中の武田美通さんの紹介記事が掲載されました。

 被爆で焼けただれた親子、空腹のあまり靴を食べる兵士―。作品には戦火で死んだ人たちの無念さや、やり切れない思いと怒りが込められている。
 「あの日から65年。雨ざらしだった白骨のわが身に、敢(あえ)て当時の兵装をまとい、長い歳月をかけて故国に帰ってまいりました」
 「あの戦争は何だったのか。しっかりと検証されたのでしょうか。私たちの死はムダではなかったのでしょうか」
 作品「帰還兵」には、一枚の召集令状で戦地へ駆り出され、飢えと病の果てに死んでいった兵士の最期の思いが込められている。

……(以下略)……

記事には、作品《帰還兵》とならぶ武田さんの写真も紹介されています。
紙面に大きく取り上げられたこともあって、さっそく問い合わせや来館者の方も増えています。
今年は夏休みの終わりが近づいても、コンスタントに来館者が続いており、本当にありがたい限りです。
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2010/8/25

「「日本画」の前衛 1938-1949」展のお知らせ  館外展・関連企画

2010年9月3日より10月17日まで、京都国立近代美術館にて「「日本画」の前衛 1938-1949」展が開催されます。

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本日、そのチラシとポスターが丸木美術館に届きました。
まず目にとまったのが、チラシに記された刺激的な文章です。

 日本の風土に根ざし、季節感も豊かに穏やかな花鳥や山水が描かれた「日本画」の表現世界。その伝統的美意識の描写に飽きたらず、まったく新たな「日本画」の想像を目指そうとしたある集団が現れました。それが1938(昭和13)年4月に結成された「歴程美術協会」です。
 しかも時代は太平洋戦争開戦前夜。国家総動員法が公布され、灯火管制規制や大本営本部といった文字もおどるまさに非常時。この時代に果敢にも「日本画」開拓に挑む姿も驚きですが、自由美術協会や美術文化など当時の洋画家たちとも交流し、抽象やシュルレアリスムはいうまでもなく、バウハウスの造形や工芸までも取り込んだその創造活動こそ、わが国ではじめて具体化した「前衛」美術運動といって過言ではありません。


なんだか勇ましくて、胸躍るような展覧会……
そして、その“わが国ではじめて具体化した「前衛」美術運動”と位置づけられた「歴程美術協会」の会員の一人が、丸木位里だったのです。
1938年11月、神田東京堂ギャラリーで開かれた第1回歴程美術協会展(11/17-21)の直前に会員に推挙された位里は、秋の青龍展に落選した大作《けだもの》と、前年に死去した細川崇圓を悼んで制作した《崇圓の像》、そして《故郷》の3点を出品しました。
翌1939年3月の第1回歴程美術協会試作展(3/24-26)には《鷺》《亜細亜号》《夜鷹》《牛》の4点を出品。
そして同年7月の第2回歴程美術協会展(7/8-14)には、《馬》と《鳥》の2点が出品されました。大胆な垂れ流しの技法で描かれた《馬》は、原爆の図丸木美術館に部分のみ現存していて、今回の展覧会ではきれいに修復されて出品されます。
その後、位里は内紛のために脱退することになりますが、短期間ながら歴程の実験精神に触れた体験は、位里の画業において非常に大きな転換点になったようです。

これまで、ほとんど焦点が当てられることのなかった「歴程美術協会」の活動を、約80点の作品と未公開資料で位置づけるという興味深い展覧会。
9月2日には開会式・特別観覧も行われ、私も京都まで足を運ぶ予定です。
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2010/8/22

栃木県立美術館「イノセンス」展講演会  館外展・関連企画

栃木県立美術館で開催中の「イノセンス―いのちに向き合うアート」展(9月20日まで)に行ってきました。

「正規の美術教育を受けたわけでもないのに、ただ自分の内なる衝動に従って、まったく独創的な造形芸術を生み出す人たち」(障がいのある方や、独学の画家たち)の独特の魅力ある作品とともに、障がいを抱える人のアートに興味を持って関わりを続ける芸術家や、いのちに向き合う表現を志向する芸術家の作品を区別することなく展示し、芸術の本質や役割を問い直すという刺激的な内容の展覧会です。

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会場の一角には、丸木スマ、大道あやの作品コーナーも設置されています。
スマの代表作《簪(かんざし)》(1955年)とあやの代表作《しかけ花火》(1970年)が、そろって展示された様子は圧巻のひとこと。
また、今回は、ともに広島で原爆を体験した二人の〈原爆絵画〉が紹介されたことも大きな特徴としてあげられます。
スマは彩色作品の《ピカのとき》と三滝橋周辺の様子を描いたと思われるデッサン2点、あやは2000年にNHKの企画で原爆体験を描いた『ヒロシマに原爆がおとされたとき』の原画9点が出品されています。

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午後1時半からは、「命の花咲く地獄―丸木スマと大道あやの絵画世界」と題して、近現代史研究者の小沢節子さんが講演を行いました。
その内容は、「画家として原爆の絵を描くことから出発したスマ」と「原爆の記憶を抑圧し、最後に描こうとしたあや」の歩みを対比しながら、近年、生命のよろこびを描いた“素人画家”として再評価されつつある二人の画家の、一見無垢に見える絵画の底流に、原爆という“地獄”を目の当たりにした体験が存在しているのではないかという視点を深めていくものでした。
とりわけ、家の没落、原爆体験、殺害と傍目からは苦難の連続とも思える人生を送ったスマが、苦難を糧にしてそれをくつがえすような自然と人間が調和して生きる世界を描き出したという指摘には、「豊かな表現とは何か」という根源的な問題をあらためて考えさせられました。

小沢さんの後には、出品作家の一人で、阪神大震災をきっかけに人間の精神的な傷を主題に社会性の強い作品制作に取り組んできたという井上廣子さんの講演も行われました。
阪神大震災後の仮設住宅での孤独死、精神病院の窓の内・外側、ドイツの強制収容所、世界各地で出会った高校生の目を閉じた半身像……まさに「いのちと向き合う」制作活動を続けてきた井上さんの言葉には、表現そのものはまったく異なるにもかかわらず、どこか丸木夫妻やスマ・あやの世界観に通じていくような印象を受けました。
今後も継続して注目していきたい作家さんの一人です。

講演会の後は、担当学芸員のKさんをはじめ、小沢さんや井上さん、イメージ&ジェンダー研究会の方々といっしょに美術館近くのイタリアン・レストランで夕食を取り、楽しく刺激的な対話の時間を過ごしました。
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2010/8/20

武田美通展盛況!  TV・ラジオ放送

新聞・テレビで次々に取り上げられて、「武田美通展」が盛況です。
今日も蕨市のグループがバスをチャーターして来館され、武田さんを囲んで昼食をとり、《原爆の図》や企画展を熱心に鑑賞されていきました。

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NHKさいたま局のHP「埼玉の番組を見る・聴く」番組リストでは、現在、8月2日に放送された「首都圏ネットワーク すてき!ひと探訪」の武田美通さんの紹介番組「兵士たちの無念の思いを伝えたい」(6分17秒)をご覧になることができます。

http://www.nhk.or.jp/saitama/wagamachi/index.html

同じ番組リストで見ることができる、8月11日放送の「シリーズ戦跡は語る『軍需工場と庶民の味』」(6分15秒)も、吉見百穴の地下軍需工場を作った朝鮮人労働者と東松山のやきとんの歴史をたどる興味深い番組です。

どちらも最近丸木美術館を精力的に紹介して下さっているNHKさいたま局のH記者が取材された番組です。
たぶん週明けぐらいまではHP上でご覧になれると思いますので、ぜひこの機会にご覧下さい。
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2010/8/17

『朝日新聞』武田美通展紹介  掲載雑誌・新聞

2010年8月17日付『朝日新聞』埼玉版に、「死者の叫び 鉄で表現」との見出しで現在開催中の武田美通さんの展覧会が取り上げられました。

 鉄の骸骨が、右腕を正面に突き出して叫ぶ。左の腕と脚はすでにない。焼け焦げたゴーグルだけが、男が特攻隊員だったことを示す――。2004年に作った「特攻兵士の問いかけ」はそんな作品だ。
 鉄板を高温で熱して棒状にした骨の一本一本を、バーナーで溶接。表面をさらに焼いて黒光りさせ、墜落で焼け焦げたさまを表現した。構想を含め、完成まで半年ほどかけた。
 三八式歩兵銃をつきつける陸軍兵士。飢えのあまり靴を食べようとする南方戦線の兵士、被爆し黒い雨を浴びる母と子……。どの作品も鉄を使うのは「魂の叫びを表現するには、一番いい素材」と考えるからだ。

 (一部抜粋)

記事には、武田さんが憲法9条の“改正”議論が熱を帯びる時代のなかで、子どものときに「あこがれの的だった」という兵隊の姿を思い出し、「私たちは、あの戦争から何も学んでいないのか」と自問しながら鉄の造形作品と向き合いはじめた様子が紹介されています。
日本政府や歴史の研究者たちだけでなく、私たち一人ひとりは、あの戦争ときちんと向き合ってきたのか。問いかけながら作り続けたい」という武田さんの言葉が心に響きます。

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写真は「武田美通展」の会場風景。
照明が効果的に使われ、幻想的な雰囲気を作り出しています。

今日は『朝日新聞』をご覧になった方からの問い合わせが多く、武田さんの作品展を目当てに美術館に来られる方も目立ちました。
8月15日に来館者が200人を超えたのをピークに、少しずつ落ち着きを取り戻しつつある丸木美術館ですが、まだまだ暑い、そして“熱い”夏は続いています。
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2010/8/16

『長野日報』「「原爆の図」を読む 第7部竹やぶ」掲載  掲載雑誌・新聞

今年も8月1日から8日まで、長野県の神宮寺にて恒例の《原爆の図》展示が行われました。
今年展示されたのは、原爆の図第7部《竹やぶ》。

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それに合わせて、2010年8月16日付の『長野日報』に、石川翠さんによる「「原爆の図」を読む 第7部竹やぶ」と題する興味深い投稿記事が掲載されました。

以下はその文章の一部抜粋です。

 この絵は原爆禍に背を向けて竹の構成美に逃げた、いわば失敗作とされ、これまで専門家から芳しい評価を受けてこなかったが、わたしは二つの点から「竹やぶ」の意義をみとめたいと思っている。
 その一つは、自然と人間の被爆という主題だ。第8部「救出」と第15部「長崎」にはうなだれた向日葵が、また第10部「署名」には紅白の梅が登場する。前者を死者への献花、後者を希望のシンボルととらえるとき、「竹やぶ」が描くのは被爆後、藁をもすがる思いで竹林に逃げ場を求めた弱者たち、おそらく数日のうちに冥府に旅立つ半死半生の原爆難民の姿だろう。本州一体に広く分布する竹は、雨後の筍のたとえもあるように旺盛な生命力の象徴である半面、一斉に枯死するなど生と死の明暗を暗示する存在でもある。逃げ惑う人々とともに滅んでゆく竹林を描いた「竹やぶ」は、人間と自然を核の被害者として同格に扱っている点、注目される。
 もう一つは第6部「原子野」(52年)との関係だ。「原子野」は心身虚脱して被爆地をさまよう群像に、核時代という幽冥境を生きるわたしたちの姿を重ね合わせた「図」中の白眉といえる。だが、その高度な象徴性は逆に「図」を被爆者からも観客からも遠ざけてしまうところがある。この突出を現実へと撫で下ろすアダプタ。それが「竹やぶ」の役割だったのではあるまいか。


文章は、最後に、長野県下諏訪町生まれの現代美術家・松澤宥と《原爆の図》との関連について触れて、結ばれています。

《原爆の図》については、ともすればその全体的な存在意義を中心に語られがちで、個々の作品をとらえた評論というのは、これまでそれほど多くありません。
そのなかで、この石川さんの指摘は非常に興味深いものと思われます。

とりわけ、第7部《竹やぶ》を第6部《原子野》との連続性でとらえる視点は、その前の第5部《少年少女》も含めて、「象徴性」と「現実」とのあいだで揺れ動く《原爆の図》の本質を鋭く浮かび上がらせているように思います。
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2010/8/15

「国民歌」を唱和した時代  その他

8月6日の「ひろしま忌」で合唱の企画を行った近現代音楽研究者の戸ノ下達也さんの新著『「国民歌」を唱和した時代 昭和の大衆歌謡』(吉川弘文館、2010年8月刊、1785円)の書評が、本日8月15日付の『東京新聞』と『読売新聞』に掲載されました。

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以下は、それぞれの記事からの抜粋です。

 日本が戦争への道を突き進んでいたころ、戦意高揚などを目的とした数多くの歌が生まれた。「海ゆかば」「父よあなたは強かった」「太平洋行進曲」「国民進軍歌」…。これら歌曲の一つ一つを時系列のなかに置き、内容を分析、再構成して歴史的な視点からとらえた好著である。
「こうした曲は、出来上がった背景がそれぞれ違う。この時期に制作されたから軍歌でしょと十把ひとからげにできないのではないか、というのが執筆の出発点です」
 軍歌に代わる視点として提示したのが、国民歌という考え方だ。本書では《国家目的に即応し国民教化動員や国策宣伝のために制定された国もしくは国に準じた機関による『上から』の公的流行歌》と書く。本来の目的とは別のところで音楽が利用されていくなか、山田耕筰をはじめとする作曲家たちの動向なども絡めながら、流行の実態を、冷静かつ簡潔な筆致で追っていく。

…(中略)…
 「元ドイツ大統領のワイツゼッカー氏が演説の中で述べた〈過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる〉のフレーズを、あらためてかみしめています。歴史をひもといて整理し、次の世代に残す。それを意識して、これからも音楽と向き合っていきたいと思っています」
 (2010年8月15日『東京新聞』11面、久間木聡・文)

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 「海ゆかば」は軍歌か。いや、日本放送協会の作った、昭和12年の国民精神総動員運動用の宣伝歌だ。
…(中略)…
 軍歌とは狭義では軍の作る軍のための歌。
 では何と呼ぶべきか。著者は国民歌という。国民の一体感や運命共同体的悲壮感を高めるために、放送局や新聞社やレコード会社が歌を量産する。政府や軍に特に指導されずとも自主的に作り、老若男女に唱和させようとする。
 そういう時代を、あたかも軍部が主導したかのような軍歌の時代と呼んでは歴史を見誤る。国民歌の時代として、一見軍事色の薄い歌までを、国民の気持ちを揃えるための歌と一括する。それでこそ本当の歴史が見えてくる。

 (2010年8月15日『読売新聞』23面、片山杜秀・評)

戦争と音楽の関わりを新鮮な切り口で分析する戸ノ下さんの著作からは、私も多くの示唆を受けました。
人びとの感情に訴える文化の力が戦時期にどう利用されたのかという問題は、音楽に限らず、絵画・彫刻や映画などさまざまな分野にも通じます。
ふたたび同じ過ちを繰り返さないためにも、過去に目を向け、問題を整理して伝えていくことの大切さをあらためて考えさせられます。

ぜひ多くの方にお読み頂きたいお勧めの好著です。
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2010/8/11

埼玉新聞「原爆の図と私」連載  掲載雑誌・新聞

被爆65年目の8月6日から11日まで、『埼玉新聞』で「原爆の図と私」と題する特集記事が連載されました。
原爆の図の周辺で活動する人々の姿を紹介するという企画です。

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8月6日の第1回は美術評論家のヨシダ・ヨシエさん。
1面カラーと社会面をまたいで掲載された記事では、丸木夫妻と《原爆の図》に運命的に出会い、制作の様子を間近で見たというヨシダさんの回想や、《原爆の図》を背負って全国各地を巡回した展覧会の体験が紹介されています。
原爆は放射能をまき散らすだけ。このままだと地球は滅びる。声が続く限り、息が続く限り、原爆の図を通して、核廃絶を訴えていく。生きている間は戦争を止める側に立ちたい」というヨシダさんの力強い言葉が印象に残ります。

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8月7日の第2回は“「60年前」と未来つなぐ”という見出しで、巡回展の軌跡をたどる岡村の仕事が取り上げられました。
1950年2月以降、全国各地で巡回展が行われながら、占領軍の情報統制などの理由により、ほとんど記録に残らなかった「原爆の図展」を掘り起こし、その意味を再考しようという仕事です。
原爆の図は戦争の悲惨さを伝えるだけではなく、人間の生命の価値とは何なのかを考える力も持っている。次の世代の人たちに見てもらえる作品にするためにも、調査を継続していきたい」という言葉も紹介されました。

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8月8日の第3回は所沢在住の作家・高橋玄洋さん。
高橋さんは原爆投下直後に海軍兵学校の仲間とともに救援のため広島市に入り、被曝。後に原爆症の症状が出たものの悪化せず、放送作家として井伏鱒二原作の『黒い雨』など原爆をテーマにしたドラマを手がけた方です。
被爆した人からはドラマを見て『実際はこんなものではない』と言われる。絵もドラマも同じだと思うが、原爆を表現すると空間的、時間的制約などを受け、実際の一断面しか表現できない。実相は、私たちの想像をはるかに超えた別の次元に存在している。そこが表現することの難しさ。見たものがすべてではなく、さらに想像力を働かせる。原爆の図はそのことを教えてくれる」という作家ならではの言葉に深く考えさせられました。

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8月10日の第4回は画家の増山麗奈さん。
反戦アート集団「桃色ゲリラ」を主宰し、今年5月のNPT(核拡散防止条約)再検討会議が開かれた際にはニューヨークで《原爆の図》の複製を掲げるパフォーマンスを行いました。
国連本部前の路上や、自由の女神像の前、グラウンド・ゼロ、移動中の地下鉄の中でも、多くの人が集まり、絵を見てくれたそうです。
記事では、帰国後に丸木夫妻の伝えたかったことを次世代につなげたいという思いから生まれた反核反戦ネットワーク「WAPA」結成についても紹介されています。

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8月11日の第5回は絵本作家の丸木ひさ子さん。
北海道秩父別町の善性寺に俊の姪として生まれ、20歳のころ俊に誘われて東松山市に出てきて丸木夫妻の手伝いをすることになったというひさ子さん。
もっとも近くで夫妻を見続けた立場として、「普段の俊先生は優しいが、社会の理不尽なことに関しては、とことん闘っていた。位里先生は、すべてを見透かしているようで、目の輝きが怖かった。本質を見抜く鋭さがあった」と印象を振り返ります。
5回に及ぶ連載は、「『二度とこんなことが起きてはいけない』と2人が絵に込めた思いを広めたい。一人一人が美術館や絵を大切にしたいと思う気持ちで、丸木美術館を守ってほしい」というひさ子さんの言葉で見事に締めくくられました。
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2010/8/10

学芸員実習最終日  学芸員実習

8月1日から実習を行っていた東京国際大学のTくん、跡見女子大学のKさん、Sさんが最終日を迎えました。
今年の実習期間は、館内整備や展示作業、草刈り、作品梱包など仕事が多く、暑い日の続くなか3人ともよくがんばってくれました。

以下は実習ノートから一部抜粋です。

学芸員という仕事について、学校で勉強している際は面白いと感じることばかりだったが、実際に横について学ぶと、その苦労も見え、思っている以上に大変だと思ったし、それ以上に面白いと思った。丸木では、学芸員という枠を超えて様々な仕事をなさっているので、他館とは違った大変さがあると思う。しかし、社会的存在として丸木美術館は「本当のコミュニティ」としての役割も担っているからこそ、丸木でしか感じることのできないやり甲斐があるのだろうと思う。

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丸木美術館で実習を受けて他ではできない様々な体験ができたと思います。ボランティアの方々や元実習生の先輩方にもここでしかないものがあると言われて、毎日、人の言葉を耳にして全部ではありませんが理解できたような気がします。ここでは学校の授業で受けたような内容のこととは違ったことばかりで、働いている人数も少ないし、設備も万全とは言いにくいなかで、自分たちの形がしっかりと土台としてできあがっている素晴しさがありました。

仕事のあとは、高坂駅近くの居酒屋Dさんで打ち上げ。
実習生とスタッフのほか、元実習生ボランティアのMくんや、企画展作家の武田美通さんも参加して、楽しくお酒を飲みました。
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2010/8/6

丸木美術館「ひろしま忌」  イベント

今年も8月6日の「ひろしま忌」が巡ってきました。
連日猛暑が続くなか、それでも今年は300人近い参加者が丸木美術館に訪れて下さいました。
心配された夕立もなく、曇りがちで爽やかな川風の吹き続ける一日。
無事にとうろう流しも行えたことに、何よりの安堵を覚えています。
イベントの準備から片付けまでお手伝い下さいましたボランティアの皆さま、そして参加者の皆さまに心から御礼を申し上げます。

   *   *   *

例年通り、午前中からとうろう作りをする親子連れの姿が目立ちました。

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正午からは八怪堂で丸木美術館クラブ・工作教室がはじまり、鈴木好子さんの案内でコラージュ工作を行いました。
ビニールプールに水をはったり、川へ降りて遊んだり、元気な子どもたちの歓声が聞こえるなか、友の会直営店の好評のカレーを木陰で食べる人たちや、市内の珈琲店が出店したかき氷屋に列を作る人などの姿も見られました。

午後2時からは、今年5月のNPT再検討会議の際にニューヨークへ行き、路上で原爆の図レプリカを展示してピースアクションを行ったという画家の増山麗奈さんの報告が行われました。

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午後3時からは、江戸川区の被爆者団体・親江会の西本宗一さんが「広島原爆体験・丸木美術館での出会い」と題して、貴重な体験談を語って下さいました。
穏やかな語り口の西本さんからは、被爆体験の痛みと重み、人に伝えることの苦しみなどが感じられ、会場の人びとは静かに、そして真剣に耳を傾けていました。

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午後4時半からは栗友会合唱団コンサート。都幾川の流れを背景に、近現代音楽史研究者の戸ノ下達也さんの企画により、「ヒロシマから平和を祈る」と題して10曲の合唱曲が歌われました。

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戸ノ下さんはこれまで、2004年に「いのち うたう へいわ ねがう トウキョウカンタート」、2009年に「咲いた、咲いた、合唱の花花 トウキョウ・カンタート2009」などの合唱企画に関わり、「うた」を通して戦争の時代の社会と音楽を見つめなおすという試みで高く評価されている研究者です。

今回のプログラムも、「死んだ男の残したものは」(詞=谷川俊太郎、曲=武満徹、編曲=寺嶋陸也)、「水ヲ下サイ(原爆小景より)」(詩=原民喜、曲=林光)などの戦後の平和を希求する歌から、「暁に祈る」(詞=野村俊夫、曲=古関裕而)、「海ゆかば」(言立=大伴家持、曲=信時潔)など戦時期に愛唱されたという“国民歌”まで、幅広い内容のものでした。

戸ノ下さんの著書『「国民歌」を唱和した時代』(2010年、吉川弘文館)のいうところの「「国民歌」は、戦時期だけ存在した特殊な音楽ではなく、敗戦を境に断絶した側面と、戦後に脈々と継続していく側面の両面をはらんでいたのであるが、なぜ両面をはらんでいたのか、何が断絶し何が継続していたのか、主観や思い込みではなく、客観的かつ科学的な検証を真摯に行っていかなければならない」という問題は、絵画における“戦争記録画”にもそのまま重なるものがあります。
指揮者の栗山文昭さんを中心とする栗友会合唱団の力量もあるのだと思いますが、今まできちんと聴いたことのなかった「海ゆかば」の旋律の思わぬ“美しさ”には少々驚かされました。
同時に、国家などの力によって上から作られる芸術の“美しさ”は背後にある事実を隠蔽する、という現実を冷たい刃物のように突きつけられた気がして、忘れてはならない戦争と芸術の歴史を、あらためて考えさせられました。
戦争の時代の「国民歌」は、封印されタブー視されたとはいえ、歴史の断面を打ち出す鏡として、通奏低音のように静かに現代の我々に語りかけているように思えてならない。これらの楽曲を、我々は歴史の教訓とし、二度とあのような戦争を起こしてはならない。平和の尊さと重さを改めて考えてみる必要があるのではなかろうか」(前掲書)という戸ノ下さんや栗友会合唱団の方々の真摯な思いは、合唱のフィナーレを飾る「大地讃頌(土の歌 より)」(詞=大木惇夫、曲=佐藤眞)の重厚なハーモニーと溶け合いながら、聴き手の皆さんの心に届いたのではないかと思います。

午後6時からの「ひろしま忌の集い」は、5月に亡くなられた針生館長の追悼の会となりました。

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丸木美術館新館ロビーに特設された舞台を前に、集まった方々は小さな千羽鶴を両手にすくい取り、静かなピアノの生演奏が流れるなか、次々と針生館長の遺影の前に献じていました。

そして、「ひろしま忌」のメインのとうろう流し。
実はここ数年、川の流れが大きく変化し、下流までとうろうを流すのが難しくなっているのです。
今年も、川岸で浮かべたとうろうの多くはそのまま動かず、ボランティアや実習生の皆さんが一所懸命に下流へ誘導してくれたおかげで、なんとか格好がつきました。
とうろう流しは、時間と距離を越えて65年前の広島へと思いをつなげる重要な意味を持つ行事。
川の中まで入って、すっかりびしょぬれになっている子どもたちの笑い声を聞きながら、この穏やかで大切な時間がこれからも毎年続くようにと、願わずにはいられませんでした。
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2010/8/5

東松山むさしRCにて「平和と芸術」講演  講演・発表

夕方から東松山市内のホテル紫雲閣にて、東松山むさしロータリークラブの例会に参加。
「平和と芸術」と題して《原爆の図》や丸木美術館についてのお話をさせて頂きました。
この企画は、地元の高校時代に美術部で丸木美術館開館の日に立ち会ったというU会長が、「ぜひ8月6日の紹介とあわせて話をして欲しい」と来館されて実現したものです。

U会長は、「《原爆の図》は“負の記憶”の世界遺産にふさわしく、芸術的にも優れた作品。ぜひ地元でも理解を深め、世界遺産に向けての運動を広めていきたい」と力強い言葉で応援して下さいました。

   *   *   *

今年は地元での講演の機会が続き、8月29日(日)には毛呂山町東公民館で行われる「原爆絵画展」でも講演を行います。

【ヒロシマ市民の描いた原爆絵画展】
第11回・2010年8月28日(土)10:30から29日(日)16:00まで
毛呂山町東公民館(武州長瀬駅下車徒歩15分) 入場無料

特別企画29日(日)14:00〜16:00
「原爆の図をもう一度見つめ直す」(丸木美術館学芸員・岡村幸宣)
平和への朗読(高山真樹さん)
子どもの描く「平和な未来の毛呂山」
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2010/8/5

北海道展とふたつの《原爆の図》  1950年代原爆の図展調査

今年は《原爆の図》が誕生してから60年目の節目の年。
その8月6日「ひろしま忌」を前にして、少々長くなりますが、最近の調査で明らかになった“もうひとつの北海道巡回展”そして“もうひとつの原爆の図”について記したいと思います。
7月31日に九州大学西新プラザで行われた「第31回原爆文学研究会」の発表内容のダイジェスト版となります。

   *   *   *

昨年暮れ、目黒区美術館「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」を企画されたM学芸員に、1枚の写真の存在を教えて頂きました。

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雪の積もる建物の玄関先で、2人の青年に引率されて並ぶ33人の子どもたち。
入口の扉の看板は「綜合原……」と読めます。
この写真は、北海道の三菱美唄炭鉱で1952年1月に行われた「綜合原爆展」の貴重な記録だということがわかりました。
写真の2人の青年は、三菱美唄炭鉱美術サークルの平山康勝氏と鷲見哲彦氏。
絵画教室の子どもたちを連れて、《原爆の図》の展示を観に来ていたのです。

その後、美唄市教育委員長で郷土史家のS氏の精力的な調査によって、この展覧会が新築されたばかりの三菱美唄炭鉱労働組合本部2階で開催されたこと、主催は三菱美唄炭鉱労働組合文化部で、地域の全小中学生が参観したのをはじめ、2日間(1月27日、28日)で約1万人もの来場者があったことなどが次々と明らかになりました。
「綜合原爆展」という名称は、1951年7月に京都大学の学生らによって医学・物理・化学・政治・経済などの多角的な視点から模型やパネルで原爆を解説するという画期的な展覧会で使われていました。
この形式はその後各地に大きな影響を与え、同年11月に札幌で行われた展覧会も、北海道大学の学生が京都展に倣うかたちで解説資料を展示したので、三菱美唄の展覧会も、その流れとして開催されたものと推測されます。

ところが不思議なことに、丸木俊の自伝に詳しく記されている北海道の原爆展は、1951年秋に室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館の5会場を巡回したという回想のみで、翌年はじめに開かれた美唄展についてはまったく触れていません。
丸木夫妻から《原爆の図》を託されて全国を巡回したというヨシダ・ヨシエ、野々下徹の巡回展の記録も1952年3月からはじまっているので、美唄展とは時期が一致しません。

約1万人も動員したという大規模な展覧会の記録が、なぜ残っていないのか。
美唄の他にも、北海道には忘れられた展覧会があるのではないか。

そうした疑問から、1950年はじめの原爆展に関する証言を全道的に呼びかける記事を、今年の2月に『北海道新聞』に掲載して頂きました。
約60年前の展覧会であるにもかかわらず、記事をご覧になった方々からは予想以上に多くの反響が寄せられました。
そして、北海道立図書館に所蔵されている元北大理学部教授の「松井愈(まさる)氏資料」のなかに、当時の原爆展に関する詳しい記述が存在することがわかったのです。
松井愈氏は、当時、理学部地質鉱物学科の若手研究者で、民主主義科学者協会(民科)の一員として原爆展開催に熱心に取り組んでいたようです。
とりわけ重要だったのは、1965年北海道大学理学部発行の『底流』第7号に掲載された「朝鮮戦争下の科学運動 ―民科札幌支部自然科学諸部会の活動を中心に―」という文章でした。そこには、1952年に、北大の学生を中心にして、北海道全域を巡る想像以上に大規模な巡回展が行われていたことが記されていたのです。

「全道くまなく原爆展をやろう、われわれの力でこれを実現させよう!!」各地の民主団体に呼びかけ、依頼がだされた。さらに多くの学生・若手研究者が、時間をさき合ってスケジュールを組み、一地域ごとに数名の組織解説グループがつくられた。原爆の図とパネルを各地の会場にリレーしてゆくためにも多くの工夫が必要だった。このようにして、1月10日〜17日の夕張市を皮切りに、岩見沢、美唄、美流渡、砂川、上砂川、赤平、茂尻、幌内、赤間、豊里、帯広、根室、釧路、網走、北見、名寄、稚内、留萌、雨龍、小樽、余市、大和田、苫小牧、浦河、静内、深川、富良野、幕別という順に1ヵ所ずつ数日の日程がとぎれることなく1月から4月までつづけられた。民科札幌支部に報告のあっただけでも原爆展にあつまった人数は15万人を越した。

また、他の証言から、この巡回展には、丸木夫妻側の関係者として画家の濱田善秀氏、北海道の受け入れ側として元国鉄職員の吉崎二郎氏が帯同していたこともわかりました。
濱田氏は、当時、藤沢市片瀬目白山の丸木夫妻のアトリエに居住していた画家志望の青年たちのなかの一人でした。
吉崎氏は俊の故郷・秩父別の隣の深川町出身で、レッドパージにより職を追われ、平和委員会に所属していました。兄君が丸木夫妻と同じ日本美術会の画家・與志崎朗(よしざき・ろう)氏だったこともあり、夫妻の信を得て巡回展の責任者となったようです。

   *   *   *

丸木夫妻自身の巡回展と、ヨシダ・野々下両氏の巡回展のあいだに、まったく別の人たちの手による巡回展が行われていたことは、新しい発見でした。
しかし、その一方で、新たな疑問も浮上してきました。

濱田・吉崎両氏の全道を巡る巡回展(丸木夫妻の“第1期”北海道巡回展と区別するため、“第2期”北海道巡回展と呼ぶことにします)は、1952年5月5日付『北海道大学新聞』の記事により1952年5月1日の幕別展で終了したことが判明しましたが、ヨシダ・野々下両氏の巡回展は、1952年3月に新潟方面ではじまっているのです。
つまり、1952年3月から4月にかけては、同時に二つの場所で原爆の図の巡回展が行われていたことになります。

その疑問は、当時三菱美唄炭鉱労組の文化部長を務めていた故本間務氏のお宅を訪問した際にアルバムから発見した1枚の写真によって解明されました。

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原爆展の会場で署名をする女性たち。
その背後に写りこんでいるのは、原爆の図第3部《水》です。
しかしよく見ると、この作品は、現在、原爆の図丸木美術館に所蔵されている《水》とは、少し違っているのです。

美唄展の写真に写っている《水》の中央部分を拡大してみます。

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参考に、丸木美術館蔵の《水》の中央部分の拡大図版も紹介します。

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母子像の背後に描かれた小さな被爆者の群像の列のかたちが、明らかに丸木美術館蔵の《水》とは異なっています。
また、背景には薄墨が流されていますが、丸木美術館蔵の《水》は余白のままです。

それでは、美唄に展示された原爆の図は何なのでしょうか。
実は、丸木夫妻が制作した原爆の図は、初期3部作に限って2組あるのです。
現在、広島市現代美術館の収蔵庫にあるもう1組の原爆の図第3部《水》の拡大図版を見てみましょう。

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実はこの《水》は後年に加筆されているのですが、被爆者の行列のかたちや薄墨の流れ具合が、美唄に展示された作品と見事に重なります。美唄をはじめ、“第2期”北海道巡回展に展示された作品は、“もう1組”の原爆の図だったのです。

“もう1組”の原爆の図について、俊は、1950年頃、ある米国人が原爆の図のアメリカ巡回展を持ちかけてきた際に制作したと回想しています。

 さあて、原爆の図がアメリカに渡る、何が待ちうけているだろう。もしもの時のために三部作のひかえを取っておかねばなりますまい、急げ急げ、というので、片瀬の山小屋の住人に手伝ってもらうことにしたのです。奥の三畳の住人、もう一人の住人とそれにわたしと夫の位里を加えて四人の画家は、「幽霊」「火」「水」の模写をはじめました。
 うすい紙に形をたどるもの、それをもとにして線を描くもの、線は、なるべく作者が描くように、と描きあげました。

  (丸木俊『幽霊 原爆の図世界巡礼』pp.18-19 朝日新聞社、1972年)

“奥の三畳の住人”というのは、濱田氏のことでしょう。
“もう一人の画家”が誰だったかは特定できませんが、丸木夫妻だけでなく、少なくとも濱田氏は制作にかかわりながら、俊の言葉を借りれば〈模写〉が描かれたことは確かなようです。

1952年5月5日付『北海道大学新聞』には「赤松丸木両氏との共同製作者浜田氏」という記述があるので、主催者側もオリジナル作品でないことは承知していたのでしょう。

結局、米国巡回展は丸木夫妻が最終的に依頼を断り、《原爆の図》が海を渡ることはありませんでした。
1950年8月に刊行した絵本『ピカドン』が、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)発売禁止・原画没収処分を受けたことも、夫妻を警戒させたのかも知れません。
おそらく、北海道から“第2期”巡回展の申し出が来た際も、2人は《原爆の図》が自らの手を離れて巡回することを不安に思い、3部作の〈模写〉に濱田氏を帯同させて、北海道に向かわせたのでしょう。

全道で15万人もの参観者を集めるという大成功を収めた“第2期”巡回展が、丸木夫妻の記録に残らず忘れ去られたようになってしまったのは、このような理由があったものと思われます。

しかし、この〈模写〉による実験的な巡回展がこれほどの成功を収めていなければ、あるいはヨシダ・野々下両氏によるオリジナル5部作の巡回展も実現していなかったかも知れません。
原爆の図が全国各地へ巡回し、多くの人の記憶に残ることもなかったかも知れません。
その意味では〈模写〉が果たした歴史的役割は、決して小さくないと言えるのではないでしょうか。

   *   *   *

北海道を巡回した原爆の図の〈模写〉は、その後どのような経緯をたどったのでしょうか。
最近寄せられた証言によると、1952年5月に都立大学で開催された「原爆展」を機に、夏休み期間に学生たちによって田無や立川、清瀬の療養所などで巡回展示された原爆の図は〈模写〉であったとのことです。
当時巡回展にかかわったという方は、「原爆の図が〈模写〉であったことは、学生たちの間で問題になった。原爆の惨状を伝えるためには本物も模写もないという肯定派、同時に各地で展覧会をするためには仕方ないという中立派、例えばゲルニカが傑作だからといってもう一点制作するのは芸術家の姿勢としてどうなのかという否定派に分かれて議論になった。その根底には、〈模写〉が明らかにオリジナルに比べて質が落ちるという問題があった」と語っています。
実は、俊も〈模写〉について、次のような文章を残しています。

 作者も描いたのですから、これもオリジナルと同じだと、いくら言いはっても、どうしてもはじめの絵のような迫力がないのです。はじめの絵も、傑作とは言いがたいし、いろいろ不備もあるのです。けれども、やっぱりはじめの方がいいのです。
 二枚同じものはできない、ということをつくずくと思い知らされました。

……(中略)……
 そのころから日本国内展がはげしくなり、あとから描いた原爆の図も並べたりしました。そんな会場へ行って、説明をしなければならない時のつらいこと、あとから描いた絵の前で冷汗を流しながら、言葉だけはだんだんはげしくなっていくのです。絵で感じられない感動を言葉で伝えようとするのでしょうか。われながら恥ずかしくなって、疲れ果てて帰路につくのでした。
 それからは、ずうっと、この一組は門外不出として、しまいこんであるのです。
 
 (丸木俊『幽霊 原爆の図世界巡礼』pp.19-21 朝日新聞社、1972年)

「門外不出」となった〈模写〉3部作ですが、1974年に栃木県岩船町に丸木美術館栃木館が開館すると、丸木夫妻によって加筆された後、栃木館で一般公開されました。
その後、1996年には栃木館の閉館にともない、広島市現代美術館に寄贈され、現在は収蔵庫に収められています。

複雑な経緯もあって、これまでほとんどかえりみられることのなかった“もうひとつの”原爆の図。
そもそも俊の言う〈模写〉との呼称が適切かどうか、正確には〈再制作・加筆版〉と呼ぶべきかも知れませんが、この作品とオリジナルの原爆の図を比較し、受容の歴史をもう一度たどりなおすことによって、原爆の図の歴史的な意義や、たびたび議論される“芸術性”と“記録性”の問題なども、新たな読み取り方が見えてくるように思えます。
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