2010/7/31

【福岡出張2日目】古賀春江展/原爆文学研究会  調査・旅行・出張

午前中は久留米市へ移動して、石橋美術館の「古賀春江の全貌」展を鑑賞。

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地元久留米市出身で、日本のシュルレアリスム絵画を牽引した古賀春江(1895−1933)。
チラシにも使われている《窓外の化粧》(1930年、神奈川県立美術館蔵)や《海》(1929年、東京国立近代美術館蔵)などの鮮烈なイメージは、当時まったく新しい絵画表現として人びとに衝撃を与えたといいます。

今回の展覧会は、竹久夢二やセザンヌに関心を示した初期の水彩から、キュビズム、クレー風の絵画など欧州の流行を積極的に取り入れ、「カメレオンの変貌」と称されるほど次々と表現を変化させていった古賀春江の生涯の画業を回顧する内容。彼が絵とともに熱心に制作したという詩も数多く紹介されていました。

近年研究が進んでいる古賀春江のシュルレアリスム絵画の分析については、速水豊著『シュルレアリスム絵画と日本』(2009年、NHKブックス)に詳しいですが、今展でも、引用されたイメージのもとの資料などを展示しながら、創作の秘密に迫っています。

展覧会はこの後、神奈川県立近代美術館葉山へも巡回する予定ですが、古賀春江の故郷である久留米でじっくり観られたことは良かったです。
別館では、関東大震災のために福岡にも巡回した1923年の二科展をテーマにした特別展示も行われていました。この展覧会の運営を任され、会場の確保などに奔走したのも古賀春江だったそうです。

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石橋美術館の庭園の奥には、やはり久留米出身の画家・坂本繁二郎(1882-1969)の旧アトリエも保存されていました。

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坂本繁二郎は1931年にこのアトリエを建てて、久留米から当時の八女郡福島町(現八女市)に移り住んだのですが、1969年に87歳で逝去。アトリエは1980年3月にこの地に移築復元されたとのことです。

俗世とは無縁の穏やかな絵画の印象が強い坂本繁二郎ですが、1950年10月28日から30日まで久留米市金文堂で行われた「原爆の図展」の際には、丸木夫妻が「坂本繁次郎」氏を訪問し、原爆使用禁止署名の賛同を得て家族一同から署名をもらったという記録が残っています。
そのとき丸木夫妻が訪れたのはこのアトリエだったのではないかと思います。

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午後からは、九州大学西新プラザで第31回原爆文学研究会に参加。
「発掘された記憶―1952年《原爆の図》北海道巡回展」と題する発表を行いました。
昨年暮れに目黒区美術館で“発見”された1枚の写真から、大規模な北海道巡回展の存在が確認されるまでの一連の経緯と、北海道展の持つ意味、そしてなぜこの巡回展が丸木夫妻の回想や人びとの記憶から失われていったのかについて、1時間ほどの報告をさせていただきました(詳報は後日させて頂きます)。

もうひとつ発表は活水大学・服部康喜氏の「長崎の〈原爆の図〉展―1980年代の反核・平和運動とキリスト教会―」。
実際に巡回展にかかわった立場から1984年の「原爆の図展」について、戦後のキリスト教会の動きをふまえて報告する内容でした。
長崎の原爆の図展は、1953年と1984年の二度にわたって開催されています。
発表後の質疑応答では、その開催時期について、「1953年は朝鮮戦争、1984年は東西冷戦という国際的な核の危機と結びついている」という鋭い指摘も会場から挙げられていました。
討議のなかでは「芸術性」と「記録性」という、《原爆の図》にとっては永遠のテーマとも思える重要な問題について意見が交わされ、今後に向けてつながるような興味深い研究会となりました。

その後、参加者の皆さんは交流会に向かいましたが、私は翌日に丸木美術館の館内外整備で出勤しなければならないため、そのまま帰りの飛行機へ直行。
午前1時頃に帰宅するというややハードな出張でした。
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2010/7/30

【福岡出張1日目】福岡アジア美術館/火野葦平資料館/長谷川潾二郎展  調査・旅行・出張

原爆文学研究会で発表を行うため、飛行機に乗って福岡へ。
午前中、まずは中洲川端駅近くにある福岡アジア美術館を訪れました。
アジアの近現代美術を系統的に収集・展示する世界で唯一の美術館として知られる、福岡の地にふさわしい美術館です。

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アジア各地の雑貨なども扱った魅力的なミュージアムショップのほか、アジアカフェ、彫刻ラウンジ、キッズコーナー、情報コーナーなど設備も充実。アジア各国の芸術家を日本に呼んで制作などを行うレジデンス活動にも力を入れているようです。
現在開催中の企画展は「おいでよ!絵本ミュージアム2010」という子どもを対象にした展覧会。
所蔵品展示のアジアギャラリーでは、「あじびのりもの大図鑑」と「わっしょい!〜アジアの祭りめぐり」という2つの特集企画が行われていました。
「あびじのりもの大図鑑」では、アジア各地の乗り物が描かれた絵画とともに、バングラデシュの《リキシャ》(絵=サイード・アハメッド、車体製作=アリ・メカール)が会場中央に展示されていました。実際に車に乗って写真撮影もできるのですが、美術館はふつうは撮影禁止なので、カメラをロッカーに入れてしまったのは残念でした。
「アジアの祭りめぐり」に展示された雑多でパワフルな作品群も面白く、ラオス初のアニメーション作品というカンハ・シクナウォンの《カンパとピーノイ(小さな精霊)》の素朴な物語も楽しめました。

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その後、北九州市へ移動して、若松市民会館内にある火野葦平資料館へ。

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実は5月に神戸で行われた「われらの詩」研究会の際に、参加者のS氏から火野葦平資料館に丸木スマの猫の絵が所蔵されているという情報を教えて頂いていたのです。
資料館は、ボランティアによって維持管理されている小さな展示施設。復元された書斎のほか、原稿、書簡、日記、従軍手帳など遺品が数多く展示されています。
火野葦平は1938年に『糞尿譚』で芥川賞を受賞、『花と龍』などの代表作で知られる小説家。ペシャワール会の中村哲医師の叔父にあたるそうです。

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復元された書斎の展示のなかに、「書斎にかけられていた愛蔵の絵」というキャプションでスマの絵がありました。

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1954年に大塔書店から刊行された『丸木スマ画集』には《クーちゃん》の題で収録されている作品で、今まで所在が不明だったのです。
資料館の方々の協力を得て絵を撮影した後、近くにある火野葦平の旧居・河伯洞を訪問。

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葦平の三男の玉井史太郎さんに案内されてお話を伺いました。
史太郎さんによれば、スマ画集刊行時に葦平が推薦文を寄せたという回想が残されているとのこと。
1957年に刊行された『河童曼荼羅』(四季社)にある以下の文章がそれです。

この本のために、私は諸先輩に奇妙奇天烈なお願ひをした。四十三篇をそれぞれ異つた人たちのカツパ・カツトで飾りたかつたからである。これまで一度もカツパをかいたことのない人たちが多かつたにちがひないし、多分、私の依頼は突飛で變てこな無理難題であつたであらう。それにもかかはらず、承諾して下さつた方々が次々にカツパのカツトを寄せられ、私を狂喜させた。特に、つけ加へておきたいのは、お婆さん畫家丸木スマさんのカツパが入つたことである。八十数歳で繪をかきはじめた丸木さんは私をおどろかせたが、畫集が出版されるとき、私はすすんで推薦文を書いた。すると、よろこんだスマさんが、火野さんはカツパ好きだからといつて、生まれてはじめてといふカツパの繪を彩色入りでかいて下さつた。ところが、そのスマさんは、気の毒なことに、まもなく不慮の死を遂げたので、カツパの繪が形見みたいになつてしまつた。

ちなみに、スマが描いたカッパのカットはこちら。

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葦平が書いたという推薦文を読んでみたいものですが、どのように使われたのかは不明です。
当時の丸木夫妻と葦平とのあいだに交流があったのか(史太郎さんの話では、葦平は丸木夫妻の絵は好きではなかっただろうとのこと)、なぜスマの猫の絵が葦平のもとにわたったのかもわかりません。
それでも、河童の絵を数点残しているスマが、葦平との関わりによって河童に興味を持ったという話にはとても興味を惹かれました。

   *   *   *

その後は下関へ移動し、長府の下関市立美術館へ。
平塚市立美術館で見逃した「長谷川潾二郎展」が巡回中と知り、閉館前に駆けこみました。
故針生館長の最後のTV出演は、NHK日曜美術館の長谷川潾二郎特集だったのです。

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一見素朴な写実表現でありながら、深い精神性を感じさせる幻想的で静謐な絵画。
現代画廊の洲之内徹に見出されるまで生涯のほとんどを無名で過ごしたそうですが、これほどの画家がいるのかと、あらためて心を打たれる思いがしました。
出張のおかげで思いもよらずに貴重な展覧会を見ることができ、心満たされて福岡のホテルに向かいました。
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2010/7/28

「白井晟一の造形」展  原爆堂計画

午前中は地元新聞社の取材を受けて、午後、近現代史研究者のKさんと、東京造形大学附属横山記念マンズー美術館の「SIRAI,いま白井晟一の造形」展(7月30日まで)を観てきました。

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白井晟一の設計した「原爆堂」の配置図や平面図、透視図などに加え、東京造形大学大学院生の制作による石模型や断面模型などが展示されている非常に興味深い展覧会。
断面模型の内部を除くと、なんと展示室の壁面には、1/100サイズの《原爆の図》が1部から4部まで展示されていて、嬉しくなりました。
断面模型なので、「原爆堂」が実現していれば8部作まで展示できる空間ができていたことになります。

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丸木俊さんは、著書のなかで、次のように「原爆堂計画」について記しています。

(友人の斎藤聖香さんが)
「あんたたちの知らん間に、大変な原爆美術館の設計ができているんだよ」
 と言って、白井晟一先生を案内してきました。わたしたちも訪問して仕事場を見せていただきました。白井晟一先生は、長い間、この設計に没頭され、ようやく完成したのだ、と幾枚もの青写真や写真を見せてくださいました。
 円筒をかこんで正方形の画廊がついている、そうして水に浮んでいる。それがそのまま原子雲の姿にも見え、だが、それは、悲劇を転じて幸いとなす、花のように水に映じている、そんな幻想に似た設計です。
「美術館にとどめてはいけない、堂となすべきだ」
 という意見も出ました。
 そうして、湯川秀樹先生、吉川英治先生、木辺宣慈先生、朝倉文夫先生、高津正道先生、滝波善雅先生、河井弥八先生、服部之総先生等が発起人になってくださって、この仕事を、世界行脚とともに進めることになったのです。
 阪本和子さんはたくさんの名簿の整理をしてくださいました。川田泰代さんはお姉さんのように、いろいろ考えてくださいました。井口大助さんは外国の手紙のほんやくを引きうけてくださいました。
 ソ連にも原爆反対のテーマの美しい彫刻がありました。
 メキシコのシケイロスさんはわたしたちに画集をくださり、それを見せながら、
「原爆投下のその十年前に、わたしはすでに原爆の絵を描いていました」
 と言いました。
 東独でも原爆をテーマにした絵を誰かが描いたと聞きました。
 わたしたちのばかりでなく、もうすでに日本にも先輩や友人の作品がたくさんできています。もし、日本に原爆の図の美術館ができたら各国の美術家にお願いして、今までに作られた作品を寄贈していただいたらいかがでしょう。また、ピカソさんやフージロンさんにお願いしたら。もし、これが実現したならば、二〇世紀の芸術家たちが、平和のためにどのようにして、この原爆の破壊と闘ったかという、一大モニュマンができ上がる、庭には木をたくさん植え、彫刻を配置して、美術館には絵を、図書館には長田新先生の原爆の子、大田洋子さんの屍の街、峠三吉さんの原爆詩集、死んだ原民喜さんの詩など、映画や芝居の小講堂もあったり。これは夢でしょうか。そのころ、そんなことを考えていました。

(1972年 朝日新聞社『幽霊 原爆の図世界巡礼』pp.159-160)

池の中央に浮かぶ正方形の建物が原爆の図の展示スペースとなり、手前の池のほとりに張り出す扇形の建物は図書室や講堂、事務室……企画展示などもできるスペースがありそうです。
夢のような「原爆堂計画」ですが、結局は実現せずに終わりました。
今、東松山市にある丸木美術館を、建て直して白井晟一の「原爆堂」に……という構想を、亡き針生一郎館長が会議の席で提唱したこともあります。
もちろん、決して簡単に実現できる構想ではありません。

でも、復元模型とはいえ、幻の「原爆堂」のなかにたしかに《原爆の図》が展示されているのを見たときに、何だかとても幸せな気持ちになりました。
会場となっている横山記念マンズー美術館も、実は白井晟一の設計がもとになっています。
こちらは「マンズー美術館」の外観写真。正方形と円の組み合わせ、窓の狭さなど、やはり「原爆堂」に似ています。

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白井晟一と丸木夫妻の関係については、白井晟一の義兄が位里と親しかった水墨画家の近藤浩一路だったことを知っていたので、そうした人間的なつながりがあったのだろうと思っていたのですが、今回の展覧会の年表を見て、戸坂潤との交流があったり(1926年に京都高等工芸学校講師となった戸坂潤に兄事する、とある)、1932年に1年間モスクワに滞在していたり、思想的にも近いようなつながりがあったのかも知れない、とあらためて感じました。

白井晟一が中公新書のマークのデザインや書籍の装幀を手がけていたことも初めて知ったりして、研究者のKさんも「来てよかった」と言って下さったので、わざわざ八王子まで行って良かったです。
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2010/7/25

ボランティアの日・館外整備  ボランティア

8月6日のひろしま忌に向けて、草刈りやゴミ拾い、道路の枝落としなどの館外整備を行う「ボランティアの日」。
元スタッフのNさん、常連のJさん、M木さん、Y口さん、桐生から参加のM口さんなどが参加して、暑い陽射しのなかスタッフとともに汗を流しました。
こうした地道なボランティアの皆さんの活動によって、丸木美術館は支えられているのです。
本当に感謝です。

とうろう流しに向けての河川の草刈りも順調に進んでいるのですが、心配なのはこの頃よく起こる雷をともなう局地的な集中豪雨です。
当日はもちろん、前日や前々日の豪雨でも河川は一気に増水してかたちを変えるので、今年は無事にとうろう流しができるかどうか、当日まで心配の種は尽きません。


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2010/7/24

1950年代「原爆の図展」の証言から  1950年代原爆の図展調査

先日の『朝日新聞』の記事のおかげで、連日電話やメールで1950年代に全国各地で行われた「原爆の図展」に関する証言が寄せられています。

その多くは、当時身近な場所で《原爆の図》を観た記憶があるという証言が中心で、具体的な日付や会場も曖昧な場合が多いのですが、驚かされるのは、連絡を下さった方々が皆熱のこもった口調で当時の記憶を語られることです。
60年近く前の記憶であるにもかかわらず、目の前に《原爆の図》があるかのように絵の印象を語り、受話器の向こうで涙を流す方もいらっしゃいました。
小学生のときに《原爆の図》を観て、高校の修学旅行で広島を訪れたときに絵を思い出して涙がとまらなかったという方や、満州から引き揚げて来て《原爆の図》を観たときに内地も悲惨な体験をしたのだと衝撃を受けたという方もいらっしゃいました。
《原爆の図》の印象がどれほど大きかったかを、あらためて考えさせられています。

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多くの証言を聞いているうちに、次第に興味深いことがわかってきました。
1951年7月に行われた京都大学同学会主催の「綜合原爆展」が、医学・物理・化学・政治・経済など各学部によって総合的な視点から原爆を研究した画期的な展覧会で、その後の原爆展に大きな影響を与えたことはすでに知られていましたが、各地の大学で行われた展覧会が核となり、展覧会を担った学生が出身地へ戻って再度「原爆展」を企画した形跡が見えてきたのです。

1951年11月に札幌で北海道大学主催の展覧会が開かれた後、翌52年1月から5月まで学生が主体となって北海道全域を巡回したのはその一例と言えるでしょう。
1951年7月の京都展の後の夏休み期間に、京都大学の学生が高槻市や茨木市で展覧会を行ったという証言は、初めて聞くものでした。
1952年5月の都立大学展の後に、学生たちが清瀬の結核療養所や渋谷公会堂、田無、立川などで展覧会を行ったという証言も寄せられました。
都立大学巡回展に関しては、《原爆の図》管理責任者として画家の野々下徹氏が展覧会に帯同し、学生の一人で長崎の被爆体験者が各会場で体験談を語り、時おり吉田早苗(後の美術批評家ヨシダ・ヨシエ)氏が会場に姿を見せて演説を行ったという回想も出てきています。

そうした証言を聞いた後で、野々下徹氏の遺した巡回展メモを見直してみると、愛知大学の学生が行った1952年の豊橋展・名古屋展の後には岡崎や浜松、碧南、磐田、1953年の山口大学の展覧会の後には小郡や下関、岩国、防府など、いずれも大学のある都市の周辺に展覧会が集中していることに気づきます。

昨年8月の原爆文学研究会で、私は、1950年代の巡回展を「丸木夫妻による巡回展」と「吉田・野々下による巡回展」の二つに大別して発表しましたが、実はそれだけでなく、京都大学「綜合原爆展」を受け継いで各地の学生が自発的に企画した展覧会の流れもあり、想像していたよりずっと多様性のある運動だったようです。

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7月31日(土)に行われる原爆文学研究会の発表では、1952年1月から5月に行われた北海道巡回展の報告を中心に、こうした巡回展の多様性についても触れていきたいと思っています。
当時の巡回展で展示されたという、《原爆の図》初期三部作の“セカンドバージョン”というべき広島市現代美術館に所蔵されている作品についても新たな報告材料があるのですが、こちらは原爆文学研究会での発表後に、学芸員日誌に紹介することにします。
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2010/7/20

『朝日新聞』「50年代原爆の図展情報呼びかけ」掲載  掲載雑誌・新聞

2010年7月20日付『朝日新聞』文化欄に、「原爆の図」展覧会「情報を」 50年代に各地を巡回 丸木美術館が調査中 との記事が掲載されました。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201007200086.html

現在調査中の1950年代の原爆の図巡回展(1956年からは原爆の図10部作が世界巡回展に向かうので、記事では1950〜56年までと区切らせて頂きました)についての情報を、全国的に呼びかける内容です。

この学芸員日誌でもたびたびお伝えしてきましたが、1950年代の原爆の図展は、占領軍のプレスコードによって原爆の情報が規制されていた時代に、全国を巡って原爆の記憶を多くの人に伝えた重要な意義を持つ展覧会でした。
しかし、危険をともなう活動であったため、その記録はほとんど残っていません。
情報規制があったために、新聞などでもあまり報じられていません。
そのため、展覧会を実際にご覧になったという方の証言が、情報発掘のための貴重な手がかりになることが多いのです。

すでに朝から電話やメールによる反響が次々と来ています。
1950年頃に札幌市内の小学校の体育館の壁にぐるりとはりめぐらされた《原爆の図》をご覧になったという方や、1950年代はじめに姫路市の労働会館で「まだ死んでないのに積み上げられた被爆者たち」(第3部《水》)や「米兵の捕虜」(第4部《虹》)の絵を観たという方、1952年4月に豊橋市の公会堂1階の薄暗い会場で《原爆の図》を観たという方、同年5月に武生市の小学校で展覧会を観たという方など……
いずれもたいへん貴重な情報です。

《原爆の図》誕生から60年目の節目の夏。
この機会に、埋もれていた展覧会の記録が少しでも掘り起こされることを願っています。
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2010/7/18

第30回江戸川区原爆犠牲者追悼式  館外展・関連企画

昨年11月21日の学芸員日誌でもお伝えした江戸川区滝野公園の原爆犠牲者追悼碑。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1275.html
広島、長崎以外でこれほど立派な慰霊碑があるのは、江戸川区だけだといわれています。

今日はその滝野公園近くにある葛西区民館にて、江戸川被爆者追悼碑の会主催の「第30回江戸川区原爆犠牲者追悼式」が行われました。
梅雨も明けて、あの8月の広島・長崎を思わせるような強い日差しが降り注ぐ日。

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昨年は見ることができなかった噴水が追悼碑の自然石を濡らす様子を見ることができて、強い感慨を覚えました。
写真ではよくわかりませんが、特別なときだけ吊るされるという平和の鐘も、追悼碑の向かって右側に見ることができます。

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追悼式では、長く丸木美術館の理事を務めて下さった銀林美恵子さんが親江会(江戸川原爆被害者の会)会長として、壇上で挨拶をされました。
元気なお姿を拝見し、また深く心のこもった丁寧な挨拶に、こちらも元気を頂く思いがしました。

会場には、原爆被害者の方々や一般の参加者、江戸川区長や議員などさまざまな方が参加されていました。
こうして区民全体に支えられ、一丸となって平和への取り組みを続けているのも、親江会の大きな特徴だそうです。
関係者の方々には、それはそれでご苦労もあることでしょうが、ともあれ、みんなで歩んでいくというのはとても大切なことのように思います。

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《原爆の図》を中心にして、国際的に平和文化交流事業を進めていこうという新団体WAPA(World Anti Nuclear Peace Action)を立ち上げたアーティストの増山麗奈さん一家や村田訓吉さんの姿も見られ、「WAPA通信」第1号も入口で配布されていました。
こうした新しい活動も、私たちが平和な世界の構築に向かう一歩につながっていくことでしょう。

今年の8月6日、丸木美術館の「ひろしま忌」では、その増山麗奈さんのニューヨーク国連本部前でのピースアクションの報告が行われ、親江会の西本宗一さんの被爆体験が語られます(詳報は後日)。
現代につながる原爆体験――私たちがなぜ65年前の悲劇に向き合い続けるのかを考えたとき、今年4月3日の『朝日新聞』の「ひと」欄に取り上げられた原爆児童文学研究者ロベルタ・ティベリさんの笑顔を思い浮かべました。
彼女は「原爆児童文学は困難に直面した子どもたちに生き方を示してくれる」と語っています。
原爆体験をつなぐことは、65年前の悲劇の死者たちの尊厳を守ることであり、かつ、私たちが生きるための希望でもあるのだと、あらためてそんなことを考えながら、追悼式に参加しました。
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2010/7/18

川越スカラ座『クロッシング』  川越スカラ座

7月17日(土)から川越スカラ座で映画『クロッシング』(キム・テギュン監督、2008年韓国)が上映されています。

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2002年に脱北者25人が中国当局の警備をかいくぐり、北京のスペイン大使館に駆け込んだという事件をモチーフにして、極秘裏に4年の歳月をかけて制作された映画とのこと。
昨日は上映初日ということで、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)代表の飯塚繁雄氏がトークイベントを行ったようです。
ちょうど「武田美通展」オープニングと重なっていたので、私はトークイベントは参加しませんでしたが、今日、映画を鑑賞してきました。

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物語は北朝鮮の炭鉱で働く元サッカー選手のヨンス、妻・ヨンハと11歳の一人息子のジュニのつつましく暮らす家族を中心に描かれます。
当初は貧しいながらも幸せに暮らしていた家族でしたが、ヨンハが栄養失調による結核で倒れたことから運命は暗転。ヨンスは薬を手に入れるために中国に渡ることを決意します。
決死の覚悟で国境を越え、身を隠しながら薬を得るために働くヨンス。しかし、薬が手に入らないまま、時間ばかりが過ぎていきます。
やがてヨンスはドイツ大使館に駆け込み亡命に成功。ソウルへ移って北朝鮮の家族を呼び寄せる手配を整えますが、すでに夫の帰りを待ちわびていたヨンハは息を引き取った後でした。
孤児となったジュニは、父との再会を信じ、国境の川を目指しました。しかし、脱北直前に捉えられ、清津の強制収容所に入れられてしまいます。
その後、脱北者を手助けする業者の手によってジュニは救い出され、モンゴル国境で父子は再会の約束をするのですが……

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脱北を主題にした映画ということで、かなり重苦しいという評判を聞いていたものの、丁寧に作られたヒューマンドラマという印象が強く残りました。
多くの人が感情移入しやすい内容で、むしろ、この映画を入口にして、北朝鮮に生きる一般の人びとの現状に対し、ここからどう想像力を広げていくかが問われるのでしょう。
北朝鮮にもまた私たちと変わらぬ人間の物語があるということを感じさせた点では、この映画は成功ではなかったかと思います。

川越スカラ座での上映は7月23日(金)までと短いのが残念ですが、上映劇場もそれほど多くはないようなので、この機会にぜひ川越スカラ座でご覧になってください。

上映時間は10:30、12:45、15:00、17:15の1日4回。
火曜日は定休、最終日23日は17:15の回が休回となりますのでご注意ください。
お問い合わせ先は049-223-0733 川越スカラ座まで。
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2010/7/17

武田美通展オープニング  イベント

いよいよ本日から「武田美通展」が開幕いたしました。
会場には、武田さんの熱い想いが込められた鉄の造形作品が並んでいます。

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会場に入ると、丸木美術館の展示室はこんなに狭かったのかと思わされるほど、圧倒的な存在感に気圧されます。


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午後2時からは、「戦死者の声をどう聞くか」と題して武田さんと杉田明宏先生(大東文化大学・平和学)の対談が行われました。

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敗戦時は10歳だったという武田さん。
当然のように皇国少年として、小樽に駐留する兵隊たちに強い憧憬を抱いていたそうです。
しかし、多大な犠牲を払ってようやく訪れた平和な時代にもかかわらず、自衛隊の海外派兵などの重要な法案が深い議論もなく成立していく社会の状況に危機感を覚え、「敗戦から何も学んでいないことへの怒り」から、かつて憧れた兵士たちは何を思っているのだろうと、夢中で鉄を打ち骸骨となった兵士の姿を造ったと言います。
「すべてを削ぎ取って骸骨にしてしまった兵士の姿の方が、魂の叫びが聞こえてくるような気がしたのです」と武田さん。
もちろん、「戦死者の声をどう聞くか」というのは難しい問題で、死んだ人の声は聞こえないわけですが、しかし、「感じることはできる。感じたことを形にすることはできる」と強い使命感を抱えて制作を続けてきたとのこと。
「兵士の突きつける銃剣は、権力者だけではなく、一般の私たちにも向けられている」という武田さんの言葉は、戦争を知る世代からのメッセージとして、会場を訪れた人たちの心に強く響いたことでしょう。

杉田先生の発言で興味深かったのは、武田さんの造形作品を沖縄の佐喜眞美術館で展示できないかと、佐喜眞館長に持ちかけてみたという話でした。
そのとき、佐喜眞館長は「沖縄にはまだ早過ぎるだろう」と返事をされたとのこと。
その「早過ぎる」という言葉には、どのような意味が含まれているのか。武田さんの作品が東京で観られるときと、沖縄で観られるときには、観る側の反応がどのように変わってくるのか。あるいは中国や韓国などさらに外側の世界と触れ合うときに、作品を通してどのような対話がなされていくのだろうか。
その過程が非常に興味深く、また重要な意味があると思う、という杉田先生の指摘に、会場からも大きな反応がありました。
「ぜひ、さまざまな場所でこの作品を展示して欲しい」という参加者からの後押しに、武田さんも静かな笑顔で応えられていました。

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この対談や展覧会の様子は、NHKさいたま局によって取材されました。
H記者の話では、8月2日午後6時からの首都圏ニュースのなかで放送される予定とのことです。
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2010/7/14

死者たちの群れ  企画展

武田美通展の展示作業に、武田美通さんを「支える会」の皆さんが集結。
等身大の鉄の造形作品を次々と美術館に運び込み、たちまち会場は“死者たちの群れ”でいっぱいになりました。

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写真は、展示途中の武田さんの作品群。
これだけでもかなりの迫力です。

今展では、武田さんの作品を収録した簡易パンフレット(カラーA5版4頁、頒価200円、7月下旬より販売予定)を制作するため、運び込んだ作品は一度組み立てて撮影してから会場に配置されます。
そのため、ある程度時間がかかることを覚悟していたのですが、「支える会」の皆さんと、美術館ボランティアのM山くんの手際の良い作業のおかげで、夕方には無事に展示が終わりました。

7月17日からはじまる武田美通展。
65年の時代を超えて蘇る死者たちのメッセージが、この丸木美術館の空間のなかで、現代を生きる私たちに何を語りかけてくれるのか。
非常に興味深い展覧会になりそうです。
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2010/7/13

照明復旧/嘉手川作品返却  企画展

このところ、不安定な天候が続きます。
先週の夕立と落雷では、丸木美術館2階のアートスペースの照明が被害を受け、1週間ほど展示室の照明が消えたままになっていました。

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そのため、来館者の皆さまにはご迷惑をおかけしていましたが、今朝ようやく復旧しました。
まだ少し天井に焦げ跡が残っていますが……美術館が火事にならなくて本当によかったです。

   *   *   *

今日も一日雨が降ったり止んだり、すっきりしない天候でしたが、元実習生の画家・M岡くんとともに、飯能市吾野の嘉手川繁夫さんのお宅に「OKINAWA展」の出品作を返却に行きました。
いつも囲炉裏端であたたかく迎えて下さる嘉手川さんご夫婦。
この日も畑で採れたジャガイモやゴーヤをお土産に持たせて下さり、本当に感謝です。
展覧会は終わりましたが、嘉手川さんのお宅には、そのうちまた遊びに訪れたいと思いました。

これで「OKINAWA展」の返却はすべて終了。
さすがに肩の荷が下りる思いがしましたが、休む間もなく明日は「武田美通展」の作品搬入。17日(土)はオープニングイベントとして、武田美通さんと杉田明宏先生(大東文化大学・平和学)の対談が行われます。
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2010/7/12

OKINAWA展・栃木展 搬出入  企画展

本来なら休館日の月曜日ですが、出勤。
「OKINAWA展」作品の搬出と、佐喜眞美術館から返却されてくる作品の搬入、そして栃木県立美術館「イノセンス展」へ貸し出す作品の搬出……と搬出入が集中する慌ただしい一日となりました。

丸木美術館の収蔵庫は雨を避けて車に搬入するルートがないので、一番の心配は天気だったのですが、雨足の弱い時間帯にどうにか作品の出し入れをすることができました。とはいえ、湿気が多く、全身汗まみれになりながらの作業。
佐喜眞美術館に送るコンテナの扉に鍵をかける瞬間は、さすがに感慨深いものがありました。

今回の展覧会は、金銭的にも労力的にも、丸木美術館にとって例のない大規模の企画でした。
おかげでたくさんの方が来館して下さり、「丸木美術館はこういう企画をするんだ」とアピールする良い機会になったと思いますが、しかし、少人数の現場の負担を考えると、せいぜい年に1度くらいが限界、とも感じます。
あまり背伸びをせず、できることを地道に丁寧に掘り下げていく。そうしたペースを守りつつ、来館者の想像力を広げるような企画をこれからも続けていけたら……と思っています。
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2010/7/11

OKINAWA展撤去  ボランティア

大きな反響を呼んだ「OKINAWA展」ですが、ついに会期が終了しました。
この日は8人のボランティアが手伝ってくれて、職員とともに一日がかりで佐喜眞美術館に返却する作品を梱包。
今回は大きな絵画や重い彫刻が多く、展示替えには苦労するだろうと覚悟していましたが、ボランティアの皆さんの手伝いのおかげで、無事に夕方には作業が終了しました。

次回企画展は17日から開幕する「武田美通展」。
また、1階のひと部屋を使って、特集展示「丸木美術館カレンダー原画展」を行います。
美術館ニュースでも紹介しましたが、丸木美術館では、2011年版カレンダーを制作することになりました。
そこで、夏のあいだ、カレンダーに掲載する作品をすべてそろえた小企画展を行います。
もちろんその場でカレンダーをお申込み頂くこともできますで、ご来館された方はぜひお楽しみいただき、どうぞカレンダーをお求めください。
カレンダーは定価800円、友の会会員700円(10部以上お求めの方は1部につきさらに100円割引となります)。
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2010/7/10

美術館クラブ「面白キャンドルを創っちゃおう」  ワークショップ

毎月恒例の丸木美術館クラブ工作教室。
今月は、造形作家・大島翠砂さんの案内で「面白キャンドルを創っちゃおう」。

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珍しく、科学実験室のような風景です。
今回は事務局M子さんの娘Kちゃん(1歳3ヵ月)がついに初参加。
肉づきのよいほっぺをふくらませながら、みんなの工作の様子を眺めていました。

できあがりはこちら。

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色鮮やかな素敵なキャンドルができました。

   *   *   *

この日は「OKINAWA展」の最終日。
出品作家のひとり・近田洋一さんのご遺族や友人の映像作家・森口豁さんが来られるなど、来客が多く、非常にあわただしい一日でした。
午後からボランティアのM岡くんが手伝いに来てくれて、2階のアートスペースの展示替えをやってくれました。
アートスペースでは、9月4日まで、新収蔵品「丸木位里・丸木俊 絵本原画展」を開催します。
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2010/7/9

第31回原爆文学研究会のお知らせ  講演・発表

7月31日に行われる第31回原爆文学研究会にて、「発掘された記憶―1952年《原爆の図》北海道巡回展」と題する発表を行います。
昨年暮れの目黒区美術館「文化資源としての炭鉱」展で発見された1952年の三菱美唄原爆展の1枚の写真から、北海道全域にわたって行われた大規模な巡回展の様子が判明するまでの経緯を報告し、今までその巡回展の記憶が埋もれていた謎に迫ります。

今年は《原爆の図》が描かれてから、そして巡回展がはじまってからちょうど60年目の節目の年に当たります。
今回発表する1952年北海道巡回展は、存在がわかった当初は、たんに記録から漏れていた展覧会を掘り起こす、という軽い気持ちでいたのですが、実態を調べていくにつれ、《原爆の図》の意味を根底から考え直すような深い意味を持つ展覧会であることがわかってきました。
その発表を《原爆の図》がいち早く巡回した九州で行えるということにも、感慨を覚えます。

研究会の概要は以下の通りです。

第31回原爆文学研究会
2010年7月31日午後2時より 
九州大学西新プラザ中会議室(福岡県福岡市早良区西新2-16-23)

服部康喜(活水大学)「長崎の〈原爆の図〉展―1980年代の反核・平和運動とキリスト教会―」
岡村幸宣(原爆の図丸木美術館)「発掘された記憶―1952年《原爆の図》北海道巡回展」

参加無料(参加希望者は広島大学・川口隆行研究室まで)
問い合わせ:082-424-7051 E-Mail kawataka@mbg.nifty.com
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