2010/5/30

NHK FMラジオ「日刊!さいたま〜ず」出演のお知らせ  TV・ラジオ放送

NHKさいたま放送局FMラジオ(さいたま85.1MHz、秩父83.5MHz)「日刊!さいたま〜ず」という番組のCultureコーナーにゲスト出演することになりました。
放送は6月2日(水)午後6時から約20分ほど。生放送で現在開催中の企画展「OKINAWA ―つなぎとめる記憶のために―」を紹介いたします。

担当して下さるのは佐々久世リポーター。
北海道勤務時代に丸木俊の親戚の赤松俊理アナウンサーと同期だったという方です。
埼玉県内のみの放送ですが、多くの方に美術館に足を運んで頂くため、展示内容が目に浮かぶようにお話ししたいと思っています。
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2010/5/29

【神戸出張2日目】兵庫県立美術館・「われらの詩」研究会  調査・旅行・出張

昨日の夜に岡山から神戸に移動し、神戸で一泊。
午前中に兵庫県立美術館を訪れました。

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兵庫県立美術館には、かつて広島市現代美術館に勤務し「丸木位里展」を企画されたD学芸員が移られているので、まずはご挨拶。
広島市現代美術館に所蔵されている複製版の《原爆の図》3部作について、非常に有益な情報を教えて頂きました。
D学芸員には、これまで資料の提供などでお世話になっていながら、実際にお会いするのは初めて。急な訪問にもかかわらず、とても丁寧に応対して下さって、本当に嬉しく思いました。

その後、特別展の「写真家 中山岩太『私は美しいものが好きだ。』レトロ・モダン神戸」と常設展を鑑賞しました。

   *   *   *

午後からは三宮のセンタープラザ西館会議室にて、「われらの詩」研究会に参加。
『われらの詩』は、1950年代前半に広島で峠三吉らを中心に活動した詩のサークル誌で、丸木夫妻との関係で言えば、1950年10月5日から9日まで広島爆心地近くの「五流荘」で《原爆の図》3部作の展覧会を開催しています。
今回の研究会では、『われらの詩』第6号から第10号までを通読する予定だったのですが、第6号(1950年6月30日発行)と第8号(通巻7号、1950年8月6日発行)、『反戦詩歌集』第1集(1950年5月1日発行)と第2集(1950年8月1日発行)を読んだところで時間切れとなってしまいました。
丸木夫妻と壺井繁治が《原爆の図》を巡って対談した記事が掲載されているのは、第10号(1950年12月15日発行)なので、そこまで進まなかったのは個人的にはやや残念でしたが、朝鮮戦争当時の世界情勢のなかでの「反戦」や「平和」という言葉の意味や、原爆のヴィジュアル的なイメージの普及の問題(おもに写真について)をめぐる議論などは興味深く聞きました。

その後、神戸の中華街“南京町”で研究会参加者と打ち上げを行い、夜行バスで帰京。
慌ただしいスケジュールでしたが、収穫の多い有意義な出張となりました。
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2010/5/28

【岡山出張1日目】吉崎二郎さん聞き取り調査  1950年代原爆の図展調査

今日は出張で岡山に来ています。
午前中は岡山市立オリエント美術館と岡山県立美術館、竹久夢二郷土美術館を鑑賞。
竹久夢二郷土美術館へ行く途中では、岡山出身の画家・国吉康雄(1889-1953)の生家跡の記念碑を見つけました。

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   *   *   *

午後には岡山駅前で、1951年から52年にかけての原爆の図北海道巡回展を担った吉崎二郎さんと待ち合わせ、当時の聞き取り調査を行いました。

吉崎二郎さんは現在83歳、北海道の深川市出身。兄君は日本美術会や主体美術で活躍した画家の與志崎朗(よしざき・ろう)さんです。そのため、この日誌にも今まで二郎さんのことを「與志崎」二郎さんと紹介していましたが、本名は「吉崎」で、兄君は筆名として「與志崎」を名乗っていたとのこと。以後は「吉崎」二郎さんと記すことにします。

吉崎さんはもともと国鉄職員でしたが、レッドパージにより職を追われ、当時は平和委員会に所属して平和運動に関わっていました。
原爆の図北海道巡回展は、北大文化団体連合会と平和委員会が集まって計画したそうです。北海道から丸木夫妻に「原爆展」開催を申し入れ、その年の夏に開催された京都の「綜合原爆展」を模して、北大の学生が模型や解説パネルを制作。
当初は動員を期待できる大都市のみで開催しようという計画で、〈第一次〉では室蘭、旭川、札幌、函館という街が舞台になりましたが、札幌での開催の後、《原爆の図》以外のパネルを学園祭に展示した際に、「この展示を全道に巡回させよう」と学生たちが盛り上がり、年明けから再び《原爆の図》を借りて学生たちの手によって〈第二次〉がはじまったそうです。
そうした経緯から、吉崎さんは〈第一次〉から丸木夫妻について巡回展に帯同。〈第二次〉では丸木夫妻のもとから派遣された画家の濱田善秀とともに北大の学生を引率し、《原爆の図》を管理する立場になったようです。つまり、〈第1期〉〈第2期〉を通じて、北海道の巡回展すべてに帯同した唯一の人物というわけです。

3時間に及んだ聞き取り調査は非常に興味深いものでしたが、内容が多岐にわたるため、以下に箇条書きで印象に残った箇所を書き出します。

・室蘭では被爆者の女性が絵をじっと見て、「こんなもんではなかったが、現実と同じところもある」と絵の前で皆に話をしてくれた。それから、解説が必要だろうということになったので、“絵解き”は室蘭からはじまったのではないか。賽銭箱を置いて、運営の足しにしたらいいというアイディアもこのときにはじまった。その後の巡回展では、学生が解説を担当した。

・室蘭展の際に、位里が「どうしても登別温泉に行きたいので、展覧会を頼む」と言って1日休んだことがあった。そのとき無事に展覧会を取り仕切ることができたので、丸木夫妻は〈第2期〉巡回を吉崎さんに頼んだのではないか。

・秩父別へ向かう際、深川駅で汽車を待つ間に、吉崎家と関わりの深い医者/画家の鬼川俊蔵の家へ丸木夫妻を案内した。その際、位里が硯を使わず、アルマイトの弁当箱の蓋で墨をするのを見た鬼川氏が驚くと、位里は「硯はどうでも関係ない。大事なのは墨なんだ。アルマイトは持ち運ぶのに軽くて硬いから良いんだ」と言った。《原爆の図》を携帯しやすいように軸装にしたことと合わせて、合理的な考え方の人だと印象に残った。

・札幌展の際に逮捕された関係者は、吉崎さんの知人。彼が逮捕されたため、その後の原爆展は吉崎さんが1人で担当することになった。

・函館の展覧会は冬休み前で時期が良かったため、北大生が多数手伝いに来てくれた。会場の棒二森屋デパートは大盛況となり、後に丸木夫妻のところにデパートから御礼のカズノコとシャケが送られてきたという。

・〈第1期〉のときは濱田善秀は来ていない。〈第2期〉のときに絵を持ってきた。無愛想な人で、位里からは「偏屈で苦労するかもしれないがよろしく頼む」と言われた。

・濱田善秀はその後、北海道で妻をもらい、定住することになった。大月源次らの北海道生活派美術集団にも参加し、北海道と中央の美術会をつなぐ役割を果たした。

・〈第2次〉の最初の会場となった夕張は、一番大きな炭鉱町だった。北大OBも数多く入っており、組合活動も活発で観客の動員も期待できる上、その後の全道の組合への影響も大きいという期待があった。

・炭鉱町は長屋が多く、一ヵ所に大勢の人が住んでいるので宣伝の効率が良かった。組合活動も活発で、「どうしてこんなに集まるのか」というほど来場者があった。開催費用の条件は、1日8000円を主催社が負担するというものだったが、炭鉱の組合は「安いものじゃないか」とすぐに承諾して宿や食事も手配してくれた。そのため、炭鉱町を中心に巡回することになった。

・当時は道内各地で労働会館がブームのように建てられていた。展覧会の会場を無料で借りられるので、労働会館のある街を狙って訪れた。

・赤平、豊里、茂尻など、1つの駅で2、3の組合がある地域もあった。そこで全体で1度に開催するか、別々に開催するかは交渉の際にかけひきが必要だった。1度に開催するより、別々に開催した方が原爆展の収入は大きくなった。美唄も三井と三菱の両方で開催した記憶がある。三菱美唄は美術サークルがしっかりしていて、活動が活発だった。

・留萌はニシン漁の時期を狙って展覧会を行った。ニシン漁には東北からたくさんの出稼ぎ労働者が来るので、その時期にあてれば多くの動員を期待できる。

・根室の展覧会では米軍の補充兵部隊が会場を訪れ、似顔絵を頼まれたので、濱田善秀が描いた。米兵の名は「ジンスケ」という日本人のような不思議な名だった。

・苫小牧では毛ガニを買ってきて食べた。

・当時、十勝の足寄に兵隊帰りの共産党員が新聞を発行していた。吉崎さんはその人に興味があり、足寄で展覧会を企画して訪ねてみた。すると彼が地元の子どもたちの兄貴分として慕われていていたので、新聞が続いている理由が納得できた。そんな個人的興味で展覧会の場所を選ぶこともあった。

・5月1日に巡回展を終えた後、円山に花火を観に行って学生たちと別れた。


吉崎さんは、「原爆展は一種の蜂起/一揆だったと思う。当時は、前進座事件、イールズ事件、白鳥事件と理不尽な事件が相次いでいた。室蘭ではそれほど宣伝しなくても日鋼室蘭の職工が熱心に見て行った。原爆展の後、全道的な平和運動や署名運動が広がっていった。その火つけ役となった原爆展の意義・役割は大きかった」と振り返ります。

当時の活動がどういう背景から生まれ、どのように皆が取り組んできたのか。もう一度考え直し、評価していかなければならない。必ずまた、あのときの活動が評価される時代が来るはず」という吉崎さんの言葉には、強い力が込められていました。

吉崎さんには、三菱美唄の原爆展で撮影された記念写真を見せて頂きました。
前列左から濱田善秀氏、三菱美唄炭鉱労組文化部長・本間務氏、吉崎さんが写っている貴重な写真です。

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また、函館展の際に撮影された記念写真も見せて頂きました。
前列中央には丸木夫妻の姿も見えます。

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巡回展の回想と言っても、なにしろ60年も前の出来事。
吉崎さんの記憶の細かさには、ただただ驚かされます。
それだけ心に残る大きな思い出だったのでしょう。
貴重な証言を聞かせて下さった吉崎さんには、心から御礼を申し上げます。
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2010/5/28

京都新聞「針生一郎さんを悼む」  掲載雑誌・新聞

2010年5月28日付『京都新聞』に「主義主張貫いた硬骨の士」という見出しで、大阪大名誉教授・木村重信氏による針生一郎館長の追悼文が掲載されました。
ちなみにご自宅の書斎でくつろぐ針生館長の写真は丸木美術館の提供です。

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以下、追悼文の一部を抜粋します。

 戦後、現代美術評論の先駆けとして「ご三家」と呼ばれ、作家たちから信頼されたり恐れられたりした批評家がいた。針生一郎、中原佑介、東野芳明の3氏である。針生さんはその代表と見なされたが、それには最年長であることのほかに、その鋭い批評と風貌が大いに関係していた。(中略)
 かれの初期の仕事に「リアリズム芸術の基礎」というルカーチの翻訳書がある。ルカーチはいわゆる「西欧的マルクス主義」の代表であるが、針生さんも新左翼であった。したがってその評論も一貫して反体制的で、ネオ・ダダや読売アンデパンダンその他、前衛美術(家)を支持し、リードした。「前衛の芸術」「文化革命の方へ」「修羅の画家−評伝阿部合成」などの書名だけでも、かれの立場をうかがうことができる。(中略)
 針生さんは「現場」にこだわった。したがってその評論は基本的には作品論、作家論である。だが、その背後には強固な理論的枠組みがある。すなわち、個々のスタイルやイズムの考察に歴史的なパースペクティブが潜み、美学的分析が加えられている。

記事は、針生さんの“主義主張を貫いた硬骨の士”としての仕事のほかに、時間に無頓着で遅刻や遅筆で有名だった“愛すべき”人柄についても触れています。

針生さんの激しい“主張”からは想像できないユーモラスな笑顔は、本当に人の心を和ませる温かさがありました。
その笑顔がもう見られないということが、残念でなりません。
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2010/5/27

美唄市S氏の北海道展調査  1950年代原爆の図展調査

OKINAWA展や5月5日開館記念日などで慌ただしくしているうちに、美唄市のSさんが北海道各地の原爆の図巡回展について、非常に詳しく調査を進めて下さいました。

その調査によって、1951年11月の旭川展の詳細が判明するなど、各地の巡回展の様子が次々と明らかになってきました。Sさんは炭鉱や労働組合の歴史について長年研究を重ねられている方なので、そうした社会背景についても詳しくまとめて下さっています。
以下に、Sさんの調査をもとに原爆の図北海道巡回展の軌跡を簡潔にまとめてみます。

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@1951年10月-12月 第1期原爆の図北海道巡回展
 丸木夫妻が帯同(原爆の図5部作出品)

10月28日-10月30日 室蘭市・室蘭労働会館2階
 新日本文学室蘭支部・日鋼室蘭製作所職員・文芸誌『ひろば』の文学関係者・室蘭地協書記長・北電元職員らによる実行委員主催。責任者:室蘭市立中央図書館長。室蘭工大生・地協書記らも会場設営や運営に参加。入場者数:約5,000人。

11月3日-11月7日 旭川市・丸勝松村百貨店3階
 旭川純生美術会・道アンデパンダン美術会・平和問題懇談会主催。北海日日新聞社後援。大人10円、学生子供5円。『北海日日新聞』1951年11月3日広告掲載。

11月10日-11月12日 空知管内秩父別村・善性寺
 善性寺は赤松俊子の生家。入場者数:約3,000人。最終日に「原爆死者追悼法要」開催。

11月20日-11月21日 札幌市・第1会場=丸井百貨店5階、第2会場=富貴堂2階
11月22日-11月25日 札幌市・北海道大学中央講堂

 北大文化団体連合会主催。道学連・北大全学中央委員会後援。協賛団体は労働組合・婦人団体など30以上。第1会場には《原爆の図》とデッサンを展示、第2会場には民科北大各学部制作の模型やパネル80点を展示。第2会場に掲示した感想文が政令325号違反とされ、責任者の1人を札幌市警が逮捕。『北海道大學新聞』1951年11月20日、同12月5日などに関連記事掲載。入場者数:約2万人。

11月29日-12月2日 函館市・棒二森屋百貨店2階
 北大水産学部・道学芸大函館分校自治会主催。百貨店側がウィンドウ・広告費を提供。学芸大教授や学生、北大水産学部・パネル運搬の北大理学部学生8人らも会場整理や説明を担当。12月1日午後、チェロ奏者井上頼豊が追悼演奏。入場者数:約1万人。

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A1952年1月-5月 第2期原爆の図北海道巡回展
 濱田善秀・吉崎二郎が帯同(原爆の図3部作出品)

1月10日-1月14日 夕張市・夕張市民会館2階集会室
 民科夕張支部主催。地元教員・宗教者・女子高生も協力。民科札幌支部『大会報告要旨』(1952年5月22日)によれば、11日より10日間、民科札幌支部が「高校生のための冬期講座」(物理化学・生物・地学・社会)を開催し、毎回50〜60人が出席。
 ※松井愈『朝鮮戦争下の科学運動』p.10によれば、1月10日-1月17日に夕張市で開催とある。

1月 岩見沢市
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。岩見沢地区労協の主力は国鉄、電産・全電通・北教組。

1月 空知管内栗沢町美流渡地区
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。北炭幌内鉱業所万字炭鉱の一部。労組は美流渡炭鉱労組と職組。

1月 空知管内三笠町幌内地区
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。北炭幌内鉱業所内の主力鉱地区。労組は幌内炭鉱労組と職組。

1月27日-1月28日 美唄市三菱美唄地区・三菱美唄炭鉱労働組合本部2階
 三菱美唄炭鉱労組主催。原爆の図3部作と原爆解説パネルを展示し「綜合原爆展」として開催。山内全小中学生参観。三菱美唄文学会『炭炎』に来場者の感想掲載。

1月-2月? 空知管内砂川町
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。砂川地区労協の主力は、三井東洋高圧労組・全日通・電産。

2月 空知管内上砂川町
 日時会場不明。『北海道新聞』空知地方版等には開催記事なし。三井鉱山道内主力の砂川炭鉱所在地。労組は砂川炭鉱労組。

2月 空知管内赤平町赤間地区・赤間炭鉱労働組合講堂
 民科札幌支部『北海道原爆展ニュース』(1952年2月25日)には会場は「赤間中学」とあるが、赤間中学は存在せず、見学者の証言によれば北炭赤間炭鉱労組事務所講堂の可能性が高い。北炭赤間礦は北炭空知鉱業所管轄の炭鉱で、赤平町の東海豊里・住友(井華)赤平炭鉱に隣接。組合は赤間炭鉱労組と職組。

2月 空知管内赤平町豊里地区
 日時会場不明。豊里労組若手組合員らによる主催か。組合は豊里炭鉱労組と職組。

2月 空知管内赤平町茂尻地区・茂尻中学校集会室
2月 空知管内赤平町井華赤平地区・住友赤平炭鉱労働組合会議室

 日時不明。主催不明。元北大理学部自治会員の証言によれば、入場料は2会場ともに無料。井華赤平地区では住友赤平炭鉱労組主催の可能性がある。会期は茂尻・赤平とも各1日で移動日1日。労働組合が積極的に受け入れた印象はないという。茂尻地区は国鉄茂尻駅に近い雄別炭鉱鉄道茂尻炭鉱所所在地。組合は茂尻炭鉱労組と職組。井華赤平炭鉱は国鉄赤平駅をはさんで展開する住友鉱業系炭鉱。組合は住友赤平炭鉱労働組合と職組。

2月16日-2月19日 帯広市・藤丸百貨店4階
 帯広地区労働組合協議会主催。1952年2月15日『北海道新聞』十勝帯広版などに関連記事掲載。入場者数は1万人を突破。元北大理学部自治会委員の証言によれば、帯広では見学に来た学生のなかに興味を持って次の開催地以降もついて回った者もいた。帯広地区労協の主力は全日通、国鉄、北教組、全電通など。
 
2月21日-2月22日 根室町松ヶ枝町2丁目梅谷会館
 平和擁護委員会根室準備会主催。「綜合原爆展」として《原爆の図》3部作のほか、デッサンや「広島に捧げるの図」及びパネル類展示。入場料大人20円・学生10円・子供4円99銭。入場者数約3,000人。1952年2月19日『根室新聞』夕刊に関連記事掲載。根室地区労は未結成。

2月24日-2月26日 釧路市・釧路市立労働会館
 日本平和推進国民会議釧路地区主催。釧路市・同国支庁・同教育委員会釧路事務局・東北海道新聞社など後援。入場料4円99銭。入場者数2万5,000人。釧路地方労組協議会の主力は太平洋労組・国鉄・北教組など。「綜合原爆展」として《原爆の図》3部作と模型、デッサン、解説スチールを展示。1952年2月20日『北海道新聞』釧路版、同年2月23日『東北海道新聞』に関連記事掲載。

2月28日-3月2日 網走市桂ヶ丘・網走市立網走小学校体育館
 入場者数:約6,000人。見学者の証言によれば、一般参観のほか、小学校も引率で見学し、解説を聞いた。網走市労組協議会の主力は国鉄・北教組・全日通。

3月6日-3月9日 北見市・第1会場=北見商工会議所大会議室、第2会場=ビルディング百貨店3階
 北見新聞社が創刊40周年記念事業として主催。『北見新聞』に詳報。当時高校生で展覧会を観た地方史研究家I氏の調査によれば、美術・文学・演劇など市内文化団体関係者が実行委員会を結成、青年層が実務を担当した。「綜合原爆展」として開催し、《原爆の図》3部作のほか、模型・パネルも展示。帯同した画家・濱田善秀や北大生ら4人が4日に来北し準備や解説にあたった。入場料200円。入場者数:約2万人。北見地区労協の主力は国労、北教組、電産など。

3月 上川管内名寄町
 日時会場不明。国鉄深名線などの鉄道分岐点。入場料3,500人。『名寄新聞』には関連記事なし。名寄地区協の主力は国鉄、電産、全電通など。

3月 稚内市
 日時会場不明。入場者数:約3,000人。『日刊宗谷』には関連記事なし。稚内地区労協の主力は全日通、全電通、全逓など。

3月 留萌市
 日時会場不明。入場者数:約2,900人。『留萌タイムス』には関連記事なし。留萌地方労協の主力は全道庁、大和田炭鉱労組、国鉄。

3月 空知管内沼田町浅野雨龍地区
 日時会場不明。浅野雨龍炭鉱は中小炭鉱。入場者数:約2,500人。労組は浅野雨龍炭鉱労組、職組。

小樽市
 日時会場不明。小樽は後志地方最大の港湾都市。入場者数:約8,000人。『北海タイムス』にも旧『小樽タイムス』にも関連記事なし。小樽地区労協の主力は全電。

後志管内余市町
 日時会場不明。余市町の主産業は漁業と果樹栽培で、住友金属工業余市鉱山もある。入場者数:約2,000人。労組は全日通、北教組、余市鉱業労組、全逓。


4月4日(予定) 留萌市大和田地区
 予定日は1952年4月5日『民科支部ニュース』による。中小炭鉱の寿大和田炭鉱所在地区。労組は大和田炭鉱労組。

4月8日-4月10日 苫小牧市・苫小牧製紙労働会館
 苫小牧地区労働組合協議会主催、苫小牧民報社後援。「赤松俊子・丸木位里両氏共同制作の総合原爆展」として、原爆の図3部作のほか、北大学生制作のパネルも公開。初日に約800人参観。9日午後6時より労働会館で「原爆懇談会」開催。1952年4月10日『苫小牧民報』に記事掲載。苫小牧は苫小牧製紙(旧王子製紙)の企業城下町。苫小牧地区労協の主力は王子製紙労組・国策パルプ・北教組など。

4月10日-4月20日(予定) 日高管内浦河町・日高管内静内町
 予定日は1952年4月5日『民科支部ニュース』による。『北海道新聞』には関連記事なし。浦河は日高支庁所在地で、浦河町労組協議会の主力は全道庁、北教組、全畜産、全電通など官公労。静内の基幹産業は酪農、競走馬生産、漁業、林業などで、静内街労働組合協議会の主力は北教組、国鉄、全畜産など。

4月21日-4月24日(予定) 空知管内深川町・上川管内富良野町
 予定日は1952年4月5日『民科支部ニュース』による。『北海道新聞』には関連記事なし。深川は吉崎二郎の出身地。基幹産業は農業と林業で、深川地区労協の主力は全日通、国鉄、北教組など。富良野町の主産業は農林業と小規模工場。労組は国鉄、全日通、北教組ほか小規模労組が主体。

5月1日 十勝管内中川幕別町・幕別町立町民会館
 道内巡回展の最終開催地。真区別平和の会準備会主催。元新田ベニヤ労組書記長の呼びかけでメーデーの日に町民会館で開催。元新田労組書記長の証言によれば、《原爆の図》のほかパネルも展示し、同行の画家や学生が解説を行った。入場者数は数百人。1952年5月5日『北海道大学新聞』によれば、「一大カンパニア原爆展」は「一日の北見幕別を最後に多大の成果を収めて終了し、赤松丸木両氏との共同製作者浜田氏をはじめ一行元気で帰札」した。 
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2010/5/26

針生一郎館長逝去  その他

丸木美術館の針生一郎館長が、本日午後0時2分、急性心不全で逝去されました。
享年84歳でした。
通夜は5月31日午後6時、葬儀は6月1日午前10時30分から(当初11時との情報が流れましたが、多くの参列者が予想されるため、30分早まりました)川崎市多摩区南生田8-1-1 春秋苑で行われます。喪主は長男の徹さんです。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0526/TKY201005260429.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100526-OYT1T01055.htm
http://mainichi.jp/select/person/news/20100527k0000m040074000c.html
http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010052601001051.html

丸木美術館では2005年より毎年、針生館長企画の「今日の反核反戦展」を開催してきました。
今年ももちろん、針生館長は多くの作家に出品を呼びかけるつもりで、最後まで「原稿を書く」とおっしゃっていましたが、結局、果たされないままになってしまいました。
本当に残念でなりません。

2週間前にご自宅でお会いしたときには、「反戦の展覧会は、特定の主義や思想を持つ団体が占有するようなものではいけない。だからこそ、誰でも参加できる丸木美術館の反戦展は続ける意味がある」と珍しく力をこめて語られていました。
今となっては、その言葉がとても重く響きます。

針生館長の存在の大きさ、そして不在の悲しさは、むしろこれからことあるごとに痛感していくのでしょう。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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2010/5/26

「日本画の前衛」展搬出作業  館外展・関連企画

午後、京都国立近代美術館のY学芸員と美術運送会社の方々が来館され、今年の秋から全国3会場を巡回する「日本画の前衛 1938-1949」展に出品するための丸木位里作品を搬出していきました。

この展覧会は、「日本画」の戦前・戦後の世界にあって、これまでほとんど触れられてこなかった“前衛”活動に焦点をあてた展覧会です。丸木位里も深くかかわり、1938年に結成された歴程美術協会の活動が中心となります。
Y学芸員のお話では、それまでにもたとえば大正期の村山友義のように、西洋の前衛を日本に紹介するような活動はありましたが、旧来の価値意識を打破するという意味での真の“前衛”活動を日本の美術界で行ったのは、歴程美術協会が初めてではないか、とのこと。
その活動を担った重要な画家のひとりに、位里が入っているのです。

今回は、位里の実験的な絵画《馬》(部分)や1枚の紙の表裏に描いた大作《竹》/《高原》、当時ともに活動していた丸木位里・船田玉樹・林茂夫・岩橋永遠の寄書が貸し出されます。

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また、位里と船田玉樹が歴程美術協会脱退後の1939年に銀座紀伊国屋画廊で開催した「第1回丸木位里・船田玉樹個展」の芳名録、位里の友人の画家・靉光の一周忌にあたる1947年1月に集められた「靉光の霊に捧ぐ」と題する芳名録など、貴重な資料も貸し出されます。これらの資料が丸木美術館の外で公開されるのは初めてのことになります。

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展覧会はまだ先なのですが、出品作を輸送の前に修復することになったため、少し早目の集荷となりました。
非常に興味深い展覧会ですので、秋からの巡回展が楽しみです。

「日本画の前衛 1938-1949」展:
京都国立近代美術館 2010年9月3日-10月17日
東京国立近代美術館 2011年1月8日-2月13日
広島県立美術館 2011年2月22日-3月27日
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2010/5/25

栃木から絵本原画搬入  作品・資料

本日、いつもボランティアで丸木美術館の活動を手伝ってくれるM岡くんといっしょに、栃木県岩舟町の元丸木美術館栃木館館長・Yさんのご遺族のお宅を訪れ、丸木夫妻の絵本原画を丸木美術館まで運んできました。

カラスだんなのおよめとり(1963年岩波書店)
星の小ぼとけさま(1964年文研出版)
ぶらんこのり(1970年フレーベル館)
12のつきのおくりもの(1971年福音館書店)
黒ねこ四代・松谷みよ子全集(1971年講談社)
チワンのにしき・太陽のむすめ(1972年学研)
あかざばんばとガラ(1973年太平出版)
ふえをふく岩(1973年ポプラ社)
おおむかしのむら(1973年福音館書店)
つつじのむすめ(1974年あかね書房)
三びきじし(1975年ポプラ社)
きつねのおきてがみ(1977年小峰書店)
赤神と黒神(1969年ポプラ社)

これらの作品は、丸木美術館にて今後の管理を行うことになりました。
いずれ作品の燻蒸・修復作業を経て、一般に公開していきたいと思います。
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2010/5/20

沖縄タイムス「OKINAWA展」展評掲載  掲載雑誌・新聞

2010年5月20日付『沖縄タイムス』に「「内」「外」から照射する力」という見出しで、美術評論家の石川翠さんによる「OKINAWA展」評が掲載されました。

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一昨年に東京国立近代美術館で開催された「沖縄・プリズム」展が「何か重要なものを欠落させているように思えてならなかった」という石川さんは、「そのときの〈忘れ物〉を探す小さな旅として」丸木美術館の「OKINAWA展」を訪ねて下さったとのこと。

会場をまわるうちに、石川さんは展示作品が二つの傾向に分かれることに気がついたそうです。
一つは「有微の歴史と現実を告発する沖縄作家による迫真の〈内的表現〉」。
安谷屋正義の《白い基地》や儀間比呂志の《掠奪の日の記憶》、山城見信の《恍惚と不安の水辺》、近田洋一の《HENOKO 家族の肖像》などの作品が挙げられます。
そして、もう一つの傾向には、丸木夫妻やオサム・ジェームス・中川らの作品が挙げられました。

いわゆる「集団自決」の場・ガマをモチーフにした中川の写真と、丸木夫妻の「沖縄戦の図」とを組み合わせた祭壇画を思わせる展示は、悲劇を強い臨場感とともに〈客観化する〉試みとして秀逸に思えた。眼にした瞬間、目取真俊の小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」(86年)の一節、一歳に満たない息子をガマで死なせた記憶に苦しむ老婆ウタの引き伸ばされた喪失感を、舌の上に感じたほどだった。

石川さんの鋭い論考は、次のようなかたちで締めくくられます。
もう一度会場を見てまわりたくなるような、深い読後感を与えてくれます。

〈外〉から沖縄を客体化する作家たちと、体験を通して〈内〉からその歴史を表現する沖縄の作家たちとの、見ひらかれた二つのまなざしが会場で見事に共鳴し、わたしは非力とされる美術の能力にあらためて眼を見張った。
 日本全体が向き合わなければならない、にもかかわらず忘却しようとするものを照射する本展が、普天間基地の移設問題が耳目を集める今、本州島で開かれた意義にははかりしれないものがある。


展覧会初日と5月5日開館記念日の2度にわたって会場に足を運んで下さった石川さん。
丁寧な取材に心から御礼を申し上げます。
石川さんには、7月上旬発行予定の『丸木美術館ニュース』にも、あらためて「OKINAWA展」評を執筆していただく予定になっています。
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2010/5/15

ホタルの里竹林整備  自然・生きものたち

午前中、唐子地区で取り組んでいるフィールド・ミュージアム「ホタルの里」の竹林整備に、事務局のNさんといっしょに行ってきました。
このところ毎日美術館周辺のタケノコ掘り/竹林整備を行っているので、個人的には目新しい作業ではないのですが……

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やはり大勢の人で整備をしていくと、作業がどんどん進んでいきます。
少しうらやましいです。

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光の差し込む竹林は、ちょっと神秘的な雰囲気。
竹と竹のあいだに広いスペースがあると、とても居心地が良い空間になるのですね。

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作業のあとは、地元の農家の女性たちが用意して下さった、美味しいタケノコご飯を全員で食べました。ぼくはおかわりを勧められ、2杯食べました。
ちなみにこの日のお弁当は、美術館のタケノコを妻が料理してくれたタケノコご飯。
毎日タケノコ尽くしの献立です。
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2010/5/14

「OKINAWA展」一部展示替え  企画展

本日、「OKINAWA展」の一部展示替えを行いました。
ボランティアのM山くんに手伝ってもらい、これまで展示していたオサム・ジェームス・中川さんのBANTAシリーズ(沖縄の崖を撮影した写真作品)10点に代わって、丸木夫妻の共同制作《集団自決》《喜屋武岬》《久米島の虐殺(1)》《久米島の虐殺(2)》をならべました。

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オサム・ジェームス・中川さんのBANTAシリーズは、5月20日から26日まで大阪のニコンサロンで展示されます。

「OKINAWA展」前期の展示は、中川さんが撮影された現在のBANTA(崖)の写真と丸木夫妻の共同制作《沖縄戦―きゃん岬》を同じ壁面にならべて、時間と記憶のつらなりを感じてもらおうという意図でした。
後期は、丸木夫妻の沖縄戦作品がひとつの壁面を占め、近田洋一さんの《HENOKO 家族の肖像》や仲里安広さんの《Key Stone(要石)》に続いていくという構成になっています。
記憶のつらなりという点では、後期展示も深い意味のある空間を作ることができたと思います。
すでに「OKINAWA展」に足を運ばれた方も、ぜひもう一度ご覧になってみてください。
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2010/5/12

沖縄県立博物館・美術館T学芸員来館  来客・取材

朝いちばんに竹林の整備をしていると、草のなかから雉が顔をのぞかせました。
豊かな自然に恵まれた丸木美術館は、いま、一年でいちばん気持ちの良い新緑の季節を迎えています。

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   *   *   *

沖縄から、沖縄県立博物館・美術館のT学芸員がはるばる来館して下さいました。
T学芸員には、2008年の「美術家たちの『南洋群島』」展の際にお世話になっています。
70年ほど前に日本の統治下にあり、太平洋戦争では激戦の舞台となった「南洋群島」。
T学芸員が構成した展示空間が、南洋の先に現在の沖縄の姿を透かし見るという、とても感動的なものだったことを思い出します。

この日、《原爆の図》や「OKINAWA展」をじっくり観て下さったT学芸員。
「丸木美術館は“生のリアリティ”を伝えることのできる、有数の美術館」との嬉しいご感想を頂きました。
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2010/5/11

ベン・シャーンとH館長  調査・旅行・出張

午後から、埼玉県立近代美術館M学芸員と丸沼芸術の森O学芸員といっしょに、川崎市のH館長のお宅を訪れ、1960年のベン・シャーン来日について聞き取り調査を行いました。

丸木美術館では、2011年2月26日から4月16日にかけて、「第五福竜丸事件 ―ベン・シャーンと丸木夫妻―」展を企画します。
その際、丸沼芸術の森からベン・シャーンが第五福竜丸をテーマにして描いた“Lucky Dragon”シリーズをお借りする予定です。また、埼玉県立美術館でも、丸沼コレクションをもとにした「ベン・シャーン展」を計画中とのこと。
今回は、ベン・シャーンでつながった3館の学芸員が、当時、画家の阿部展也とともに京都でベン・シャーンに会ったというH館長の体験をお聞きすることになったのです。

とはいえ、なにしろ半世紀前のできごとなので、大きな収穫といえるほどの新しい話は聞けませんでした。
それでも、祇園で対面した翌日、家族と訪れた龍安寺で偶然ベン・シャーンと再会し、Hさんとベン・シャーンが両手でHさんの長男をブランコのようにぶらさげて歩いたというエピソードなど、微笑ましい話をうかがうことができたのは良かったです。

あらためて、H館長が戦後美術とともに生きてきた貴重な証人なのだと感じたひとときでした。
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2010/5/10

琉球放送「OKINAWA展」紹介  TV・ラジオ放送

2010年5月10日午後6時15分からの琉球放送のニュースで「OKINAWA展」が紹介されました。

放送では、5月5日に講演を行った佐喜眞美術館・佐喜眞道夫館長の「沖縄の状況が非常によく伝わってくる絵が並んでいますから、沖縄の状況と合わせて、沖縄の魂のかたち……沖縄がどういうふうに抵抗しているのかということをしっかりと受けとめて、自分の問題として考えてほしい」というコメントや、岡村の「いま基地問題が大変話題になっていますけれども、中央から沖縄の歴史を受け止めて基地問題を捉えていくことは難しいので、沖縄の人たちの記憶が潜む作品を展示して見て頂くことで、あらためて沖縄の人たちにとって歴史がどういう意味を持っているのか、考え直していこうという意図で企画しました」というコメントが流れました。

また、“基地問題でクローズアップされる沖縄を芸術という側面から理解を深めてもらう試みに、多くの人が足を運んでいる”との紹介とともに多くの来場者が訪れている会場風景の映像が映し出され、来館者の次のような感想も紹介されました。
「当時の人はいなくてその場の写真ですが、かえって凄いリアルでその時とその場につながっていけるような気がする」
「やっぱり戦争を忘れてはならないということを……つくづくこういう美術館を見て言い伝えていかなければいけないと思う」
「基地が生活のなかにあることがどういうものなのか考えさせられた」


新聞やテレビを通して、丸木美術館がこのような試みをしていることを沖縄の多くの方に知ってもらえることは、本当に嬉しいことです。
取材をして下さったH記者、どうもありがとうございました。
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2010/5/9

埼玉新聞「絵筆に込めた基地反対」  掲載雑誌・新聞

2010年5月9日付『埼玉新聞』1面に、「絵筆に込めた基地反対」という見出しで、丸木美術館「OKINAWA展」に展示中の故近田洋一さんの遺作《HENOKO 家族の肖像》が紹介されました。

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沖縄県出身の近田洋一さんは、琉球新報社を経て埼玉新聞編集局次長として活躍。
2005年に妻を亡くし、沖縄本島中部の石川市(現うるま市)に埋葬しました。
その後、2006年になって同北部の名護市辺野古沖に滑走路を造り、普天間基地を移設する計画が浮上。滑走路の延長線上に妻の墓があることから、抗議の想いを込めて《HENOKO 家族の肖像》を制作しました。
画面には妻の肖像や米軍の戦闘ヘリ、基地の鉄条網などを重ね合わせるように描き、子どもの写真や銃の薬莢をコラージュしています。
今回の「OKINAWA展」でも、その作品はひときわ大きな存在感を見せています。
記事には、近田さんの長男で俳優の近田和生さんの「インパクトのある作品として評価されてうれしい。記者が書いた絵ではなく、画家・近田洋一の作品として見ていただければ」というコメントが紹介されています。
取材をして下さった文化部のS記者、どうもありがとうございました。
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