2010/3/25

【水俣遠足2日目】寒川水源/杉本家/市立水俣病資料館など  調査・旅行・出張

2日目の朝。
昨日の雨はようやくあがり、雲が切れてホテルの8階の窓からは桜島が見えるようになりました。

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午前中、K沢さん・Y崎さん御夫妻と東松山市環境保全課のK藤さんとともに、鹿児島中央駅から九州新幹線「つばめ」に乗って新水俣駅へ。
噂にたがわぬスタイリッシュな豪華車両に、鉄道好きの息子Rはよろこび、妻TやK沢さんも車内の写真を撮影するなど盛り上がりました。

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新水俣の駅に着くと、案内人のY本さんが車で迎えに来て下さっていました。
さっそく挨拶をしたのですが、髪の毛も髭もぼさぼさ、無愛想でにこりともしないY本さんに、K藤さんと私はともかく、ほかの初対面の人たちはちょっとびっくりしている様子。娘MもY本さんの迫力に圧されて思わず後ずさり……。

それでも一行は気を取り直し、さっそくY本さんの車に乗って移動を開始します。
実は今回、事前にこちらの旅の目的や行きたい場所をリクエストしようとしたところ、K藤さんが「Y本さんは予定通りに行動する方ではないので、すべてお任せした方が良いと思いますよ。なにしろY本さん直々に案内をして下さるだけでも贅沢なことですからね」と言うので、どこへ連れて行かれるのかは、まったく予測ができません。

   *   *   *

Y本さんは、「まずは、水俣といえば海という先入観を壊してもらおうか」と、水俣川をさかのぼり、山へのぼって行きました。途中、川は二股に分かれ、久木野川を水俣最高峰・標高約900mの大関山に向かって行くと、目の前にあらわれたのは見事な棚田の風景。
水俣は、実はその大部分が豊富な水源に恵まれた山岳地帯で、人びとは谷間に寄り添うように狭い土地を耕して暮らしてきたようです。
やがてたどり着いたのは「寒川水源」。大関山の地下水が湧水となり、一日に3,000トンほどの水が湧き出ているという水源地です。

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息子Rは、湧水をすくって一口飲むなり「ぬるい!」と叫びました。
四季を通じて水温が14℃と一定しているので、夏はひんやり、冬は温かく感じられるそうです。

水俣を支えるの水の恵みを実感したあとは、一気に川を下って市街地を抜け、海に出ました。途中、水俣駅前に広がるチッソ水俣工場(メチル水銀を含んだ排水を海に流し、水俣病の原因となった企業)の前を通り、水俣市の南の外れ、“水俣病多発地域”として知られる茂道地区へ。

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“水俣病多発地域”という言葉からは想像できないほど、静かで穏やかな漁村です。
港を見下ろす高台に車を停めて、Y本さんの御案内で、漁師の杉本雄(たけし)さんのお宅へ伺いました。
杉本さんと妻・栄子さん(2008年2月に逝去)はともに水俣病患者で、語り部として水俣病を語り伝えてこられたことで知られています。
http://www.news.janjan.jp/living/0904/0904200861/1.php

玄関には、1979年11月29日に丸木俊さんが描いた杉本栄子さんの肖像画が飾ってありました。
両手に櫂を抱えて勇壮に踊る姿の絵です。

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杉本さんは、昼食を用意して待っていて下さいました。
炊きたてのご飯にチリメンをたっぷり乗せた上に醤油とお茶をかけ、イリコで出汁をとったそうめんといっしょに食べたその食事の美味しかったこと!

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食事のあとには、ゆっくりと杉本さんのお話を伺いました。
水俣病の発生当時の体験談から、患者家族の差別の苦しみ、そして「自分で作って自分で食べる」生活の大切さ。
水俣病の苦しみに悩まされながら、杉本さん家族は「食べ物でなった病気は、食べ物で治す」と、無農薬の野菜や無添加のイリコを作り、製造販売するようになりました。「食べ物は“命薬”(ぬちぐすり)」と杉本さんは言います。人間は生きるために食べるのであって、人より良いものを食べるとか、良い暮らしをするという欲を出さず、とにかく生きることが大事。けれども、現代の社会はそんな基本的な考えを見失ってしまった結果、むしろ水俣病的状況が広がっているのではないか。静かに笑みをたたえながら語る杉本さんの言葉は、しかし、とても重く響きました。

かつて市の職員として、水俣病によってズタズタに引き裂かれた人びとの絆を取り戻す“もやいなおし”が必要だと考えていたY本さんは、「山ん人と海ん人がつながれば、町はどげんかなる」(Y本さんは水俣市山間部生まれ)と考え、杉本家を訪ねました。
そこで出されたチリメンご飯の味に心を打たれたY本さんは、その後、土地の良いものを見つめ直すことで人がつながる“もやいなおし”の発想にたどり着き、環境から水俣を再生させるという道が見えてきたそうです。
もともと水俣市は、チッソ(1909年日本窒素肥料として設立、1950年に新日本窒素肥料、1965年にチッソと社名変更)の繁栄によって支えられていた企業城下町。ほとんどの住民がチッソの工場関係者であり、水俣病が多発したのはごく一部の貧しい人たちが暮らす漁村地域でした。そのため、複雑な差別意識が生まれ、市も水俣病患者に正面から向き合おうとしなかったようです。そのなかで、患者ともつながりを持ちながら“もやいなおし”を目指したY本さんは異色の存在だったことでしょう。
杉本さんもはじめは「役所の人間が何しにきた」と警戒していたそうですが、Y本さんが「杉本さんとの出会いがなければ、その後の展開もなかった」と言うように、互いの信頼関係が結ばれていったようです。
当時水俣市長となった吉井正澄さん(それまでの水俣病対策について、市長として初めて被害者に公式に謝罪した方)も、Y本さんの理解者として活動を支えていたとのこと。
その後、Y本さんが2年間館長を務めた水俣市立水俣病資料館では、「杉本家の水俣病50年」という企画展も開催されています。

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杉本さんと記念撮影を行い、無添加のイリコやチリメンをお土産に買わせて頂いた後は、水俣市立水俣病資料館を訪れて館内を見学。
資料館のパンフレットには、Y本さんによる次の言葉が記されていました。

人はボールを投げるために 後ろにいったんふりかぶる
人は高く上に飛ぶために 下に一度かがむ

前や上を未来 後ろをや下を過去だとすれば
人は未来のために 過去を振り返る
ここに生きる希望を つくるために

水俣病資料館は おきたことを明らかにしながら
犠牲を無駄にしない 社会づくりに役立て
未来に生きる 希望を作るために あるのです


館内の展示は映像や模型などをまじえて視覚的にわかりやすく工夫されているようです。
そして、水俣市とチッソの関係からはじまる水俣病の歴史をたどりながら、Y本さんの基本方針が貫かれた、つまり、“未来に生きる希望を作るため”の内容になっていることが感じられます。

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最後に訪れたのは水俣市の中心部にある胎児性水俣病患者らの共同作業所「ほっとはうす」。
運営主体の社会福祉法人「さかえの杜」は、杉本栄子さんも理事長を務めていたそうです。
代表の方に御挨拶をした際に頂いた名刺には、きれいな押花がラミネートされていました。後で知ったのですが、この押花つき名刺は、「ほっとはうす」のメンバーの方々が制作されたとのこと。この作業所は「水俣病を宝物として伝えるプログラム」という活動もされているそうですが、市立水俣病資料館にも共通するような、患者とともに手をとりあって“未来に生きる希望を作る”姿勢を感じました。

   *   *   *

この日の宿は、湯の鶴温泉の旅館「あさひ荘」。
山のなかにある温泉地に向かって行く車中、子どもたちはさすがに一日の疲れが出た様子。ふだんは車酔いをしない息子Rも「ちょっと気持ち悪い」とぐったりしていました。そのせいか、車が山道でカーブを切るたびに「おっとっと……」と身体が大きく振り回されます。それを見た娘Mは大笑い。次第に息子Rも面白くなってきて、カーブが来るたびにわざと大きく身体を投げ出すようになり、車内は笑いに包まれました。Y本さんも子どもたちの様子を察して、わざと大きく車を揺らしながら運転します。
一見無愛想なY本さんですが、本当は優しく気を使われる方なのだということが、案内をされている途中で次第にわかってきました。

旅館の方々はとても温かく迎えて下さいました。
新鮮な刺身やウナギ、天麩羅などの豪華な夕食を味わい、満開の桜や棚田を眺めることのできる露天風呂や岩風呂にゆったり浸かって、一日の疲れを癒しました。

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写真は翌朝に撮影した旅館の窓から見える風景と、露天風呂の様子です。
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