2010/3/9

「原爆の図北海道巡回」調査の新展開!  1950年代原爆の図展調査

2月28日に『北海道新聞』に掲載された記事「故丸木夫妻の「原爆の図」 占領下の巡回展どう開催 調査進める美術館」(http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1334.html)をご覧になった札幌市在住のW氏から、先日、北海道立図書館所蔵の「松井愈氏資料」のなかに、当時の原爆展に関する記述が含まれた資料があるとの連絡をいただきました。

さっそく、北海道立図書館に複製申込を行い、本日、以下の資料が到着しました。
『民科ニュース』 号外 原爆展特輯号(民科札幌支部、1951年11月10日)
『北海道原爆展ニュース』(民主主義科学者協会札幌支部、1952年2月25日)
『北大、あのとき・あのころ――』より、「ストックホルム・アピールから原爆展へ 民主主義科学者協会(民科)札幌支部の活動を中心に」(松井愈文、1992年1月)

「民科ニュース」と「北海道原爆展ニュース」は、手書き文字の紙面が時代の熱気を感じさせ、原爆展の様子を同時進行で報じているため、新たにわかることがずいぶんありました。
たとえば、こんな具合です。

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各地におこる平和の歌声 原爆展全道で盛況

 丸木・赤松両画伯の筆になる「原爆の図」が始めて北海道に紹介されたのは昨秋室蘭に於てであって、両画伯や北大宮原教授の説明によって五千人余の人々に多大な感銘を与えたのであった。其後旭川丸勝デパートに於ても平日の五倍の人が集ると云う盛況を示し、更に札幌では、北大文化団体連合会の手になる八十余枚のパネルが加えられ、文字通り綜合原爆展として札幌市の人々の注目を浴びた。
 本年に入って、一月十日夕張を皮切りに空知地方から道東にかけて既に十ヶ所余に於て開かれ、いずれも盛況で、各階層の延四万以上の人々が集っている。
 原爆の偉大な力、これを戦争に使うか、平和のために使うか、原爆の図を見、パネルを見た人々はすべてが政治的反感情を越え、ヒューマニズムの立場から、再び原爆を戦争には使うまい、使わせまいと平和への決意を新たにし、或人は感想文を綴り、或人は平和投票に応ずるのであった。

原爆展日程

 全国的に原爆展は既に六十数ヶ所に於て行われている。
 北海道では昨秋室蘭で行われて以来、旭川、チップベツ、札幌、函館、今年に入って一月十日より殆んど休む間もなく夕張、岩見沢、美唄、美流渡、砂川、上砂川、赤平(茂尻、井華)、幌内、赤平(赤間、豊里、赤間中学)、帯広、根室と道東へ延び、現在釧路市(二十日〜二十六日)に於て開催中である
 今后の予定は
・網走市(28日〜3月2日)
・北見市(3月6日〜9日)
尚名寄、留萌等が計画されて居り、更に四月末〜五月始に札幌で再び開催する計画が立てられている。

                             (『北海道原爆展ニュース』1952年2月25日)

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赤字部分が、今回あらたにわかった情報です。
1951年から52年にかけての北海道巡回展は、予想していたよりはるかに大規模なものだったようです。
また、「北大、あのとき・あのころ――」からの抜粋文は、1992年になって松井愈氏が回想して記した文章ですが、当時の状況を非常に詳細に分析しています。少々長くなりますが、原爆の図展に関連する箇所を以下に抜き出します。

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 民科を中心とする北大の研究者・学生の手によって「原爆展」が全道に展開されたのはこのような時代、背景のもとであった。彼らは、丸木・赤松夫妻の原爆の図五部作を展示してまわっただけではない。全紙大のケント紙八〇枚に色彩も鮮やかに、原爆の原理、その威力、人体に及ぼす影響、平和利用の方向と条件、そして原爆完全禁止の運動の呼びかけなどを、図や絵、写真づきの解説をパネルとして、原爆の図とあわせて、この展示を一そう内容豊かなわかり易いものにした。弾圧は最初からだった。札幌では展示したパネルの中の「市民の声」の一文が、占領政策誹謗(政令三二五号違反)とされて逮捕者を出したが、一九五一年秋の第一期、旭川・室蘭・札幌・函館の四都市で三万五千名の市民を集めた。彼らはこの経験によってパネルを豊富かつさらにわかり易く書き改め、解説者グループを組織し、一九五二年一月から四月まで、夕張市をはじめ一ヵ所数日ずつの原爆展を、岩見沢、美唄、美流渡、砂川、上砂川、赤平、茂尻、幌内、赤間、豊里、帯広、根室、釧路、網走、北見、名寄、稚内、留萌、雨龍、小樽、余市、大和田、苫小牧、浦河、静内、深川、富良野、幕別、の早計三十四の市町村で展開し、参加者は十五万人を越した。どの市町村でも空前の多数の老若男女が原爆展に押しかけ、涙を流し、いきどおりを、平和への決意を感想として書き残した。そしてほとんどの地域で、彼らは、原爆反対はアカだという自治体当局、労働組合幹部の偏見にぶつかった。ある時は私服警官が、炭鉱の労務係が、原爆展を訴え強力と参加を呼びかける彼らのうしろから離れなかった。炭鉱の住宅で、直接労働者や主婦たちに話しかけ、スチール写真や、小パネルを展示し宣伝することさえ、炭鉱当局と労働組合に激しく妨害された。このような状況の中では地域に住む人にとっては、この原爆展、原爆の図を見る、多くの人に見せるということに協力することさえ、勇気のいることであった。キリスト教の牧師さんや、教育団体、一人ひとりの市民や労働者の平和への意志がその障害を乗りこえて、原爆展の大きな世論を生み出していった。
 こうして、北大の若い力は文字どおり原爆展に反対し平和を守ろうという全道の運動の灯に火を点じたのであり、最初のけん引車であった。白鳥事件がおこされ(一九五二・一・二一)そして太田嘉四夫氏の逮捕事件(同年四・七)ひきつづく弾圧が北大の教職員学生に加えられたのはこのようなたたかいのうねりのまさにその頂点をねらった策謀であったことはその後の経緯に照らしても明らかであろう。


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W氏の教示によれば、この文章は1965年の北海道大学理学部総合雑誌『底流』第7号に掲載された松井愈氏の文章「朝鮮戦争下の科学運動」がもとになっているとのことですので、こちらの方も詳しく調べてみなければなりません。

ともあれ、北海道の原爆の図展が、丸木夫妻を中心にして行われた「第1期」(1951年10月の室蘭展から12月の函館展まで)と、民科札幌支部を中心に再組織された「第2期」(1952年1月から4月)に分かれることがはっきりしました。
丸木俊さんの回想に登場するのは「第1期」の展覧会だけなので、夫妻が絵を残して帰京し、地元の組織が絵を受け継いで道内各地の巡回を続けたのだろうという、これまでの推測が裏付けられた結果と言えるでしょう。

また、W氏は自らも巡回展示にかかわったとのことで、「第2期」の《原爆の図》の展示には、丸木夫妻側の関係者として濱田善秀氏が帯同していたという貴重な証言も頂きました。
濱田善秀氏は、美術批評家のヨシダ・ヨシエ氏の証言によれば、《原爆の図》初期三部作の複製画を制作した画家とのこと。ヨシダ氏は、当時丸木夫妻のアトリエに居候をしており、濱田氏も同じように居候していた仲間のひとりだったようです。
《原爆の図》の巡回展といえば、1952年3月からヨシダ氏と野々下徹氏が「丸木夫妻から絵を託されて」新潟を皮切りに全国をまわった巡回展が有名ですが、その直前に濱田氏が北海道を巡回していたという話は初めて知りました。
北海道展は1952年4月まで、ヨシダ・野々下コンビの新潟展は1952年3月から、と開催時期が重複してしまうので、その整合性も今後の課題として浮かび上がってきます。どちらかの展示が複製画だった可能性もあるかもしれません。

ちなみに民主主義科学者協会(民科)とは、民主主義科学の発展をはかることを目的に1946年に創立された自然科学者・社会科学者・人文学者の左派系協会で、《原爆の図》の巡回展が行われた1950年代は協会の活動も最盛期を迎えていました。
ヨシダ氏がはじめて執筆した『原爆の図について』も、1953年3月14日付で民主主義科学者協会鹿児島支部よりガリ版刷りパンフレットで発行されています。

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今週の金曜日には、目黒区美術館のM学芸員とともに美唄で行われた展覧会の資料調査のため、当時の三菱美唄労組文化部長のご遺族のお宅にお伺いする予定です。

今後も新たな調査を行い次第、その結果を報告していきたいと思います。
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